清塚邦彦『絵画の哲学』

タイトルは「絵画の哲学」だが、いわゆる描写の哲学philosphy of depictionについての入門書である。
ここでいう描写の哲学は、主に英語圏で展開されている動向で、この分野の古典であるグッドマン『芸術の言語』、ウォルハイム『芸術とその対象』の初版がともに1968年であるので、少なくとも1960年代後半頃にはこの分野が始まっていたと言えるが*1、日本への紹介・翻訳は21世紀になるまですすんでいなかった。
しかし、一方で、この10年ほどで一気に翻訳等が進んできた分野でもある。
『分析美学入門』(描写の哲学についての章が1つあり)の翻訳が2013年、
『分析美学基本論文集』(描写の哲学についての論文1本あり)の翻訳が2015年、
グッドマン『芸術の言語』の翻訳が2017年、
ウォルハイム『芸術とその対象』の翻訳が2020年と続き、
そして今年、描写の哲学について日本語で書かれた教科書が登場した、ということになる。
描写の哲学について展望する日本語文献が、これまでなかったわけではない。
例えば、以下のようなものが挙げられる。
描写の哲学ビギナーズガイド - obakeweb
銭清弘「画像がなにかを描くとはどういうことか」
松永伸二「描写の哲学を描写する」(『フィルカルVol.5 No.2』
画像表象のサーベイ論文 (1) - 9bit
描写内容の理論 - 9bit
Abell, Bantinaki編『描写の哲学的視座』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
John Kulvicki『イメージ』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
そして他ならぬ本書の著者である清塚による論文群
清塚 邦彦 (Kunihiko Kiyozuka) - 論文 - researchmap
(これらのうちのいくつかが、本書のもとになっていると思われるが、本書に組み込むにあたり大幅に改稿された旨、あとがきに記されている)
また不肖ながら拙ブログもこうした紹介の末端には位置していたかもしれない。
ネット上でかなり色々と読めるのはありがたい限りではあるが、しかしやはり初学者がこうした記事をばらばらと見て回るのはなかなか大変だろうし、まず教科書的な内容が一冊の本になっているにこしたことはない。
本書では、描写の哲学の基礎である「描写とは何か」をめぐって、類似説、ゴンブリッチ、記号説、知覚説、ごっこ遊び説を紹介・検討している。
今、ゴンブリッチだけで○○説ではなく、単にゴンブリッチと書いたが、本書では「イリュージョン説」という名前が割り当てられている。ここでそう書かなかったのは、ゴンブリッチの議論は、哲学上の特定の立場にたっているというよりは、その後、描写の哲学の中で各論者の立場として立ち上がってくる類似説、知覚説、ごっこ遊び説それぞれの起源とされている論点を含んでいるものだからである。

はしがき
序論 予備的な考察
第一章 絵は似姿であるか――類似説の検討
第二章 イリュージョンの理論――E・H・ゴンブリッチ
第三章 絵画の記号論――N・グッドマン
第四章 絵を見る経験の二重性――R・ウォルハイム
第五章 視覚的なごっこ遊び――K・L・ウォルトン
結語

あとがき
文献
挿図一覧
事項索引
人名索引

序論 予備的な考察

まず、本書が扱う「描写」について、類似の概念等との比較で

  • 1 絵による描写とその多様な形態について

「描写する」は制作行為か記号作用か、「絵」は絵の表面か描写対象か、特定対象の描写か特定種類の対象の描写か、描写/表現/象徴の違い、具象絵画抽象絵画、静止画像と動画像、単数的画像と複数的画像
ここでは、こういった様々な概念の区別があるよね、という話で、本書が「絵画」「描写」という言葉で何をさしているかを示す、というもの。抽象絵画、動画、写真や版画などの複数的画像について触れているけれど、本書ではそれらについては主だっては扱われない。
実はわりとちょくちょくでてくるのが「特定対象の描写か特定種類の対象の描写か」というところで、これは、ビアズリーいうところの「肖像」と「描出」の違いに相当する。
参照:西村清和編・監訳『分析美学基本論文集』 - logical cypher scape2
「特定対象」「特定種類」という言い方はウォルハイムが言っているらしい。
この区別をなんと呼ぶかについて、あんまり定まった用語はなさそうなのだけど、この区別について論じている人は結構いる、という感じがする。本書には出てこないけど、カルヴィッキの「骨だけ内容」とかもこのあたりの話だった気がする。

  • 2 絵による描写の近縁種について

鏡、窓、影などとの比較
こちらはちょっと美術史っぽい話
絵が何に喩えられてきたのか、という話を通じて、これらとの類似点と相違点から絵画の特徴を考える

第一章 絵は似姿であるか――類似説の検討

類似説について、まずビアズリーによる説明を確認した後、プラトン、グッドマン、デカルト、ネアンダーやサートウェルによる批判を見ていく。
そして、現代の類似説として、ピーコック、ホプキンスとハイマン、エイベル、ネアンダーとサートウェルを見ていく。
類似説、というか描写の哲学については、以前ちょっと勉強していたことがあるが、現代の類似説については、理解がおぼつかないところもあって、数年ごしに答え合わせできた感があった。
ネアンダーとサートウェルって誰だ? 聞いたことないな、と思ったのだけど、ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章) - logical cypher scape2でちゃんと紹介されていた。
また、ホプキンスやハイマンの、outline shapeだのocclusion shapeだの全然よく分からないなと思っていたのだが、本書の解説を読んでようやく分かった(当時、高田さんからも教えてもらっていたところだが)。
また、ピーコックについてはS.E.P.「Depiction描写」 - logical cypher scape2とかMulcom Budd “How pictures look” (マルコム・バッド「画像はどのように見えるか」) - logical cypher scape2とかドミニク・ロペス『画像を理解する』 - logical cypher scape2で言及されていた。バッドは、本書では全く言及がないが、ピーコックに近い類似説の立場のようだ。


類似説についての問題として、最終的に一つのパラドックスの形で整理している。
絵そのもの(画布とその上に配置された一群の絵の具)は、描かれた対象とは類似していない
一方、確かに絵において描かれているものは、描かれている対象と類似しているように見える
が、そもそも類似説は、描写とは何かを類似によって説明しようとする説のわけだが、
類似を見て取るとき、すでに描写されていることが前提になっている。
つまり、絵は描かれた対象に類似していない、もしくは、類似しているがそれは描写の結果であって描写とは何かの説明には使えない、のどちらかということになる。


本章では、このジレンマに立ち向かう3つの類似説をあげている
(1)アルベルティ的な絵画韓(ピーコック、ホプキンス、ハイマン)
アルベルティは、絵画というのは、ある固定された視点から対象をみる時につくられる仮想的な錐体「視覚のピラミッド」の裁断面である、と述べた
アルベルティ的な類似説とは、まさにこの視覚のピラミッド上にあらわれる輪郭との類似で説明するもの
ピーコックは、「視野内で占める形」と類似すると考えた
この視野というのが主観的なものであるのに対して、ホプキンスはより客観的な幾何学的概念で規定しようとした。それが、輪郭形体(outline shape)=視覚のピラミッドの外周がなす「立体角」
ホプキンスは、ウォルハイム説に賛同しつつ、「中に見る」は大まかな記述で、それをより実質化したのが「輪郭形体」なのだとしている
ハイマンは、輪郭形体に似た「遮蔽形体」という概念で説明する
この説の問題は、デフォルメされた絵の説明にならないということ。


(2)意図された類似性(エイベル)
グライスの意図の理論を応用
グッドマンによる類似性批判をブロックできる
本書では、意図が介在しない自然的な像の例が説明できないのでは、と指摘している


(3)認知的反応の類似性(ネアンダー、サートウェル)
絵を見た時と、モチーフを見たときとの認知的反応の類似によって説明する
描写の説明に認知的反応を持ち出す点で、のちに見ることになるシアー説とも通じる
ただ、サートウェルはあくまで自説は類似説と位置づけており、認知的反応が類似しているのだから、絵と事物の間に客観的な類似性も存在しているとしている点が、シアーとは異なる

第二章 イリュージョンの理論――E・H・ゴンブリッチ

ゴンブリッチについては、ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")前半(1〜5章) - logical cypher scape2S.E.P.「Depiction描写」 - logical cypher scape2でもその重要度は知っていたのだけど、分厚い本なのでいまだに手を出せていないところで、本書を読んだ目的の1つに、ゴンブリッチについて勉強しようというのがあった。


ゴンブリッチの主著『芸術とイリュージョン』(邦訳タイトルは『芸術と幻影』)での議論が紹介される
ゴンブリッチは序論で、ウサギアヒル図形に見られる反転現象を取り上げ、絵画において、描き出された対象を見る経験と表面を見る経験もやはり交互に交代する経験であると、反転現象と類比させた説明をする。
像を見る経験をゴンブリッチは「イリュージョン」と呼ぶが、これについて誤解されてきたと筆者は述べる。
イリュージョンには、2つの意味がある
「判断の誤り」と「目の欺き」である。
「判断の誤り」は、本当に目の前にそれがあると考えてしまうことである
「目の欺き」は、本当にあるわけではないことは分かっているが、そう見えてしまうこと
ゴンブリッチは後者のことを言っているが、しばし前者のことを言っていると誤解されてきた、と。
ただし、ゴンブリッチは、意識下の認知過程で、実物を見るのと同じような反応が起きていると考えていて、しかしそれは本人には意識できないのでイリュージョンにおける「判断の誤り」と「目の欺き」を分析するのは困難だと捉えていた。
また、アヒルウサギにおける反転を、画像経験一般に類比してしまうのは、強引な推論ではないかという批判もされてきた。
筆者は、類比による推論のみで述べているわけではなく、画像経験における反転現象自体は、穏当な観察ではないか、と擁護している。
また、ウォルハイムによって、反転するわけではなく同時に意識されている、という反論もなされている。
これは、同時に意識するがどういう意味かによる、ということでウォルハイムの章で検討されることになる。


ゴンブリッチは「無垢なる目の神話」批判を行っている
無垢なる目とは、物を見るときの概念的習慣を廃してありのままに見ること、それを写しとることが、絵画の目指すべきところだという考えで、本書では「コピー説」とも称される。
無垢なる目という言い方は、ラスキンに由来。ゴンブリッチはこの考えがバークリらイギリス経験論に由来するとも(また、本書の注釈において、ホワイトヘッドメルロ=ポンティ、マイヤー・シャピロにも同様の考えが見られるとされている)
ラスキンターナーを擁護するためにこの考えを用いたが、ゴンブリッチによると、ロジャー・フライが印象論擁護のために用いているのも同じ考えだと。
とかく広く見られる考えだが、ゴンブリッチはこれを批判する
概念的習慣を排するのは難しい、というのは共有されていて、だからこそ努力が必要だとコピー説は述べるが、ゴンブリッチは、だからこそコピー説は誤りだと論じる。
また、絵を描くとは、写し取るという受動的なプロセスなのではなく、「翻訳」というべき能動的なプロセスだとも論じる。
「世界は絵に似ていないが、絵は世界に似ることができる」
なお、この翻訳という考えは、ヘルムホルツにも見られるらしい
こうした考えをゴンブリッチは「図式と修正」という考えにまとめ、『芸術とイリュージョン』では、豊富な事例でこれが示される。
では、最初の図式はどのようにして与えられるのか
「投影」により「クラスの拡張」がなされることによって。それはつまり「代理物の創造」でもある。
投影はどのようにして起こるのかについて、2つ挙げられている。
遊戯活動と認知的反応である。
遊戯活動における役割・機能がクラスの拡張を引き起こすという議論は「棒馬考」で展開されたが、『芸術とイリュージョン』では鳴りを潜めたという。
その代わりに論じられるようになったのが、認知的反応で、ティンバーゲンがトゲウオの実験で示した解発因(リリーサー)を画像表象の起源と結びつけている。


ゴンブリッチは、徹底的な類似説批判(コピー説批判)を展開した。これが後の描写の哲学に大きな影響を与える。
コピー説批判はグッドマンが継承していくことになる。
一方で、ゴンブリッチは類似説を全否定したわけではなく、認知的反応の類似という形で残しており、これはのちのシアーの議論の先取りである。
また、本書の筆者は、ゴンブリッチが認知的反応だけではなく、社会的文脈に配慮していたことを指摘し、これが「棒馬考」からウォルトンへとつながっていく。

第三章 絵画の記号論――N・グッドマン

グッドマンについては、過去に『芸術の言語』を読書会しながら読んだり、解説記事書いたりしたので、ある程度分かっているつもりで、今回、自分のグッドマン理解について大きく外してはいなかったかなと思った。
その上で、グッドマンに対する批判(デジタルな絵画について)とそれへの応答の部分とか知らなかったのと、グッドマン説って他の説とあまりに隔絶している気がするので、他の説との比較ってあんまり自分の中で整理できていなかったので、そのあたりが勉強になった。
また、細かいところでは、遠近法についての話とかよく分かってなかった部分なので、やはり勉強になった。


グッドマンは、写実性・類似性を習慣の問題だとしている(見慣れたシステムで描写されていると写実的に感じるのだ、と)
本書はそれに対して、言語システムはいくら習慣化しても写実的にならないのはなぜか、また、絵画についても習慣化していても写実的にならないものもある、という点を批判としてあげている。


周延的な指示
John Kulvicki "Modeling the Meanings of Pictures"(2章まで) - logical cypher scape2と関連している話


グッドマンは、描写的なシステムの特徴を稠密性と相対的な充満に見て取る
これに対する批判として
まず、相対的な充満に対するもの
ホプキンスは、充満しているのに絵ではなさそうな事例、シアーは、充満していないのに絵といえそうな事例をあげる
筆者は、ホプキンスの事例は妥当、シアーのは必ずしもそうでもないとした上で、そもそも、相対的な充満は、グッドマン自身、描写の定義とまでは言っていないし、程度を許すものであって、そこへのツッコミは織り込み済みであろう、と。
次に、稠密性への批判
つまり、モザイク画やデジタルな絵はどうなのか、というもの
グッドマンは、こうした批判に対して反論していて、完全な枠というもので答えようとしている(あらゆる絵画を含む枠(フレーム)ということ)。
筆者はむしろ、理解の単位ということに着目すれば、デジタルな絵であっても分節的ではないと論じている。
筆者はこの理解の単位というところから、記号説と知覚説とを結びつけようとしている。
また、稠密性の議論について、筆者はグッドマンがここに恣意性を含意させようとしており、その場合は受け入れがたいが、恣意性の含意がなければ知覚説と記号説を融和させられるのではないかということを論じている。

第四章 絵を見る経験の二重性――R・ウォルハイム

ウォルハイムは、描写の哲学における重要な参照点で、例えば、フィクションの哲学において、ウォルトンのメイクビリーブを支持するかどうかは別としてみんなまずウォルトンを参照するように、描写の哲学ではウォルハイムの「内に見ること」や「二重性」はよく参照されている。
二重性が、描写の重要な特徴であることは多くの人が認めているところである。
ただ、ウォルハイムによる二重性の議論は、ウォルハイム自身によっても次第に修正が加えられていっており、他の論者からも色々と修正案などが出されている。


自分は、ウォルハイムについては、他の論者によるサーベイとかそういうものを通してまず知り、その後、本人の著作であるリチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大・訳) - logical cypher scape2を読んだ。
この本は、芸術作品の存在論が主題で、その中で、描写についても触れられているといった感じで、1980年の第二版で追加された補足論文の中で「内に見ること」や「二重性」が出てくる。
その後、1987年の"Painting as an Art.”でもさらに論じられることになる。


本書では、ウォルハイムがゴンブリッチへの批判によって二重性の議論を行い、その中で、どのように変化していったかが辿られる。
当初、2つの知覚の同時的な意識として論じられていたのが、後に、1つの経験の2つの側面と言い換えられるようになる。


ウォルハイムに対する批判として、ナナイとロペスによるものが取り上げられている。
それぞれ自分も読んだことがあるものだった。
ナナイについては、Bence Nanay『知覚の哲学としての美学 Aesthetics as Philosophy of Perception』3章 - logical cypher scape2ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape2ベンス・ナナイ「トロンプ・ルイユと画像知覚の腹側/背側説明」 - logical cypher scape2
ナナイは、心理学由来の「注意」という概念を用いることで、二重性を「絵の知覚」と「絵の美術的鑑賞」とに分ける。画像表面について知覚されているけれど注意は向けられていないのが前者、注意(分散された注意)が向けられているのが後者となる。
筆者は、ナナイによる提案に対して肯定的
対して、ロペスは、二重性を[強い二重性」と「弱い二重性」に分けることで、ウォルハイムとゴンブリッチの宥和を図る。
ドミニク・ロペス『画像を理解する』 - logical cypher scape2
筆者は、ロペスの議論が、両者に対する誤解に基づいているとして否定的である


さらに、筆者は、一般的には対立していると考えられている知覚説と記号説との融合を図ろうとしている。
つまり、記号説が恣意性を強く主張するのであれば、確かにこの2つの立場は鋭く対立するが、恣意性の主張を取り下げるのであれば、両立するのではないか、と。
そこで参照されるのが、シアーによる議論である。
ウォルハイムが「転移」と呼んでいたものを、シアーは「自然な生成性」と呼ぶ。
シアーは、自然な生成性を認知的能力によって説明する。
シアーはゴンブリッチを強く批判しているが、認知的反応の類似からの説明に、筆者はゴンブリッチと立場が近いことを見てとる
シアーは基本的にグッドマン的な記号システムの考えを継承しているが、そこに、認知能力の議論を取り込んでいる。
ウォルハイムは、意識されている経験を記述すること、経験の現象学を重視しているのに対して、シアーは、経験の意識の面ではなくて、認知的過程の面に関心がある、という違いがある。本書では、これは対立ではなく相補ではないかとしている
シアーについてはフィルカルvol.5 no.2 - logical cypher scape2

第五章 視覚的なごっこ遊び――K・L・ウォルトン

本書は、描写の哲学における現時点での到達点として、ウォルトンごっこ遊び説を捉えているようで、かなり高く評価しているように思える。
自分は『物語の外の虚構へ』のなかで、「ウォルトン説では描写は説明できない」として、ウォルハイムの経験説寄りの立場を取ったので、この章は勉強になるとともに、悩ましいところでもある
なお、本書は、ウォルハイム説を否定しているものではなく、ウォルハイム説を、ゴンブリッチ-シアーの認知説と、ウォルトンごっこ遊び説で補強するというような建付けを目指している。


ウォルトンへの主な批判としては、以下のようなものが考えられる。
絵画の表面Aを見ることを描かれた事物Bを見ることとして想像する際に、AとBの関係が恣意的でないようにしないといけない。『グラン・ジャット島』の絵を見てカバを視覚的に想像するというごっこ遊びもありうるが、それは絵を見る経験とは言いがたい。ウォルトンはそれを非公認のごっこ遊びだとするが、では、公認か非公認かはどうやって分けられるのか。ごっこ遊びではなく、別のものに訴える必要があるのではないか。
これに対して筆者は、ウォルトンが「見ることと想像することの相互浸透」と呼んでいることに着目する。
筆者は、ウォルトンが、認知説を自説の中にすでに取り込んでいるのだ、と解釈している。
むしろ、認知説では描写は十分に捉えきれていないのではないかと切り返す。
つまり、単に認知的反応だけでは、それは目の働きのエラーなのかもしれないという可能性がある。また、描かれた対象を見る際には、何が描かれているのかについて、歴史的文脈や社会的慣習も加味した上で見ているはずである。
認知的反応に加えて、そうした要素を組み込むために、ごっこ遊び説は使える、というわけである。
そのため、認知説とごっこ遊び説は相反するものではなく、互いの補完し合うもの、として本書は論じているのである。


問題となるのは、「見ることと想像することの相互浸透」とは一体何なのか、ということで、この点が分かりにくいことを筆者は認めており、というか、分かりにくいからこそ、ウォルトンは誤解された状態で批判されているのだとして、ここの解説を試みている。
ここが本章の読みどころとなっている。
この論点は、”Mimesis as Make-Believe”(『フィクションとは何か』)ではなく、論文集”Marverous Images”に収録されているいくつかの論文で展開されているらしい。
本書の説明を読むと、「見ることと想像することの相互浸透」においてウォルトンが認知説を取り込んでいるのだ、ということは分からなくもないのだけど、引用された箇所(ウォルトンが書いていること)だけ読むと、正直分からないな、という感じを持つ。
というか、”Marverous Images”を自分は読んでいないのだけど、もし自分がこれらの論文を読んでいたとして、同じように解釈できたか怪しいなと思った。
「見ることと想像することの相互浸透」における論点は4つ
(1)生成原理(規約)は弱い規約であり、絵を見ることで因果的に促される近く的な反応を追認するような規約である(自動的なspontaneous想像)
(2)絵を見ることは「知覚的かつ想像的な単一の経験」。「「想像に彩られ」た知覚」であり、絵を見ることによる想像は、絵の表面の知覚に同伴し、見ている間だけ続く想像
(3)絵を見ることと物を見ることとの間の類似(見間違えやすいパターンの話)。ウォルトンもまた、認知的反応の類似性を論じている。
(4)虚構的な意味での見ることが、それでもなお現実の見ることだという主張

文献

『画像と知覚の哲学』所収の清塚論文は、ホプキンスの分離についてのようなので、これまた気になる。

*1:さらにいえばゴンブリッチ『芸術と幻影』が1960年でこれが描写の哲学に大きな影響を与えているが、ゴンブリッチ自身は哲学者ではないのでここから始まったとは多分いえない