羽田正・編著『《YAMAKAWA SELECTION》イラン史』

手に取った理由は、完全に時事的な関心によるものである。
イランというと去年ショクーフェ・アーザル『スモモの木の啓示』(堤幸・訳) - logical cypher scape2を読んでいた。ただ、これ読んだ時は、ギリまだイスラエルとアメリカによる攻撃の前だったようだ。
本書は、9世紀頃から20世紀までなので、現代に直接つながらない(時事的な関心には沿わない)部分も多いが、『スモモの木の啓示』を読んだ際にも、イランのことってよくわかってないなあと思うところも大きかったので、まず通史的な本から読んでみるか、と。


イスラム王朝とか、高校の時世界史でやったなあと
まあ正直全然覚えてはいないし、そもそも高校時代だって、とにかく名前と順番を覚えただけであって、中身とかちゃんと理解できていなかったわけだが、それはそれとして、やはり10代の頃に覚えておくと、今読んでみても「名前に聞き覚えはあるわ」というのがちょくちょく出てくるのは、有利な点だなとは思う。


この本、古代史は含まれていないので、イスラム化されて以降の話となる(なぜ古代史が入っていないかは序文に説明がある)。
イランの範囲について、やはり詳しくは以下の各章に書かれているが、今のイランよりも広く、ウズベキスタン、アフガニスタン、アゼルバイジャン、イラクあたりまでも含む(おおよそ現在のイランの国境が確定するのは、ガージャール朝の頃(19世紀)となる)。
長く、トルコ系遊牧民族がその軍事力によって支配を確立し、支配地域の統治にあたってはイラン系の人々が官僚組織を担う、という体制が、王朝が変わったとしても、続いていた感じ。
行政を担う言語としてはペルシア語がずっと支配的で、ペルシア語文化が栄える。
イランというとシーア派のイメージがあり、イスラム王朝の歴史というと、シーア派王朝とスンニ派王朝が対立してきたイメージもあるが、実際のところ、宗派の違いというのはそれほど大きな問題ではなかったらしい。
で、サファヴィー朝があって、神秘主義教団から端を発しているというのが面白いが、この王朝ももとはトルコ系遊牧民族+イラン人官僚組織という典型的な形だったが、脱トルコ化していく。
次いでガージャール朝の頃というのが、近代化の時代で、西欧列強にアジア諸国が食い物にされる時期。イランの場合、ロシアとイギリスがぶつかあう場所で(まあアジアはわりどどこもそうか)、両国との間でどうバランスをとっていくかという外交戦略を強いられていく。
で、ナショナリズムの機運が高まってくる。これが西欧民主主義的、古代復興的、共産主義的、イスラム的の4つくらいに分けられている。先の3つのはどこの国にもあるかなあという感じだけど、イスラム・ナショナリズムがあるのがこの地域ならでは、という感じがする。
つまり、イスラム化以前の古代にイラン性を見いだす動き(古代復興)、イスラムにこそイラン性を見いだす動きがある
ところで、この地域って9~10世紀頃にイスラム化している。つまり、イスラム化してもう1000年も経っているのに、1000年以上前にナショナル・アイデンティティを見いだすの? 日本で喩えると平安時代よりも前だぞ?! とは思ったのだが、仏教伝来以前の大和魂みたいなもんか、と考え直すと、十分ありうるか、と思った。日本よりも古代の歴史長いだろうし。
『スモモの木の啓示』読んだときも思ったのだけど、イランはイスラムとペルシア文化の二重の感じになっているぽくて、ここらへんは、パフラヴィー朝が脱イスラム的にイラン・ナショナリズムを構築していたっぽいので、その関係なんだろうけど、中世を通じても、アラブ語ではなくペルシア語をずっと使ってて、というのがあるのだろう。
で、戦後、石油が経済成長をもたらすが、それが社会の中に格差も生じさせることになり、イスラーム革命に至る、と。
我々、イランのイスラーム共和国体制は悪しきものだと考えているし、『スモモの木の啓示』もイスラーム革命批判の書であるのだが、戦後の経済成長によって生じた社会の歪みみたいなもんにどう対処すべきだった(な)のか、みたいな観点で考えると、うーんとなってしまうところもないではない。

『山川セレクション イラン史』への序文  羽田 正 
第1章 イラン世界の変容  清水 宏祐
第2章 トルコ民族の活動とモンゴル支配時代  井谷 鋼造
第3章 ペルシア語文化圏の形成と変容  羽田 正
第4章 近代イランの社会  八尾師 誠
第5章 国民国家への道  八尾師 誠・松永 泰行

『山川セレクション イラン史』への序文  羽田 正

まず、そもそも「イラン」史ってなんだ、という話で、日本史のようには領域が確定しない、と。
国の名前として使われるのは、近代国家になってから。
ただ、今のイランよりもさらに広い範囲で、このあたりの地域を指す言葉ではあったらしい。これは知らなかった。
近代より前だと、ペルシャという名前だよなあと思うけど、これは他称であって、自称ではないらしい。つまり、イランとペルシャというのは、日本とジャパンみたいなものらしい。
イラン語とかイラン文化、みたいな観点から捉えようとするのも、結構範囲が広くなっちゃって、結構難しいらしい。
それからそもそも、この本の成立過程がやや特殊で、
元々2002年に刊行された世界各国史の『西アジア史2(イラン・トルコ)』から、イラン部分だけを再録した上で、第5章については、現代パートを加筆したものらしい。古代史がまるっとなかったり、他にも抜けがあるけど、そういう事情による、と。

第1章 イラン世界の変容  清水 宏祐

イラン最初の独立王朝からセルジューク朝の成立あたりまで

  • ターヒル朝(821~873)

イラン最初の独立王朝とされるが、アッバース朝カリフに貢納を続けていた。また、カリフではなくアミールと名乗っていた。アミールは総督みたいな感じで、ちょっと独立性劣る感じがある。
ただし、後世、ターヒル朝は、統治の理想例と引き合いにだされる
都、ニーシャープール

  • サーマーン朝

トルコ系奴隷を軍事力に用いた

  • サッファール朝(867~)

アイヤールという任侠の徒が活躍。彼らはイスラム以前の信仰に連なり、仁義を重んじた。盗賊とかになることもあれば、町の顔役みたくなることもあったらしい。
サッファール朝はアイヤール出身者による王朝
ターヒル朝からホラーサーンを奪う
サーマーン朝、ガズナ朝、セルジューク朝、イル・ハン国に攻撃されたり服属したりしてきたが、15世紀まで存続

  • ムスリムへの改宗

イランはこの時期にムスリムへの改宗が進み、ターヒル朝時代に50%、サッファール朝時代に80%、ガズナ朝時代に90%となったという(人名をもとに調べた研究があるらしい)
また、シーア派が成立するのもこの時期、内部分裂してさらに色々な派に分裂(ザイド派、十二イマーム派など)
のちに「暗殺教団」となるニザール派も

  • アリー朝(864~928)

ザイド派王朝

  • ブワイフ朝

カスピ海南岸ダイラム地方のダイラム人による王朝
ダイラム人は、アリー朝時代に歩兵として活躍した。
ブワイフ朝の中で、最初はダイラム人とトルコ人を競わせる感じだったらしいが、次第にトルコ人奴隷が軍事力の中心になっていった、と。


トルコ人は、もともとシャーマニズムを信仰しており、スーフィズムによってイスラム改宗がすすんだ、というのも面白い。
(もともとゾロアスター教という体系だった宗教を信仰していたイラン人の改宗と、トルコ人の改宗とでは、様相が違うらしい)


ーガズナ朝(977~1187)
トルコ系奴隷による王朝

  • セルジューク朝(1038~1194)

トゥルクマーンと呼ばれる者たちが活動し、ホラーサーンの諸都市を襲っていた。
セルジューク朝のトゥグリル・ベクは、トゥルクマーンを統制したことで、都市の支持も得た
セルジューク朝という名前は、始祖セルジュークに由来する。その孫がトゥグリル・ベク。セルジューク朝という王朝が始まるのはトゥグリル・ベクから。
公用語がアラビア語からペルシア語へ
王の呼称が、「アミール」から「スルターン」ないし「シャーハーン・シャー」に変わる


宰相ニザーム・アルムルク
二代目アルプ・アルスラーン、三代目マリクシャー両名の養育係であり、宰相
いろいろな貢献があるが、マドラサ(学院)建設が大きい。
マドラサというのは以前からあったが、国立施設として作ったのは初めてで、各地に建設し、イスラムの法学・宗教教育を行われる場所が、モスクからマドラサへと
バグダードのマドラサには、ガザーリーがいた。
ガザーリーは伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2にも登場していた。高名な神学者。晩年は神秘主義に傾倒したらしい。



ところで、ムハンマドという名前の人が多いのは当然として、セルジューク朝には、アルスラーンという名前の人も何人もいて、お、アルスラーン、となった

第2章 トルコ民族の活動とモンゴル支配時代  井谷 鋼造

主にセルジューク朝とイル・ハン国の話


3代スルターン マリクシャー
→セルジューク朝の全盛期
しかし、マリクシャーが亡くなると、早速ごちゃつきはじめる
最終的に、ムハンマド(兄)が西部、サンジャル(弟)が東部を領有することになる
このころ、十字軍遠征が行われている
西アジア側は十字軍がそもそも何のために来たのか分からず、エルサレムを奪われたのちにようやく反撃を始めたものの、セルジューク朝は、内紛していたこともあり、西方には基本的に無関心であった、と。
ムハンマドは、ニザーム・アルムルクを暗殺した暗殺教団ニザール派を弾圧する。
サンジャルは、ゴール朝、サマルカンド、ホラムズシャー、カラハン、ガズナを征服等するなどして軍事的大成功をおさめるのだが、ヒタイ(契丹)に敗れる
で、ヒタイがセルジューク朝を破ったという話が十字軍に伝わり、プレスター・ジョン伝説のもとになったらしい。へえ
サンジャルに跡継ぎはなく、当然内紛が起き、王子の後見人を意味するアタベグという者たちが次々と政権を作っていく
最終的に14代目トグリル2世が、ホラズムシャー朝に敗れて、セルジューク朝は滅びる。

  • ホラズム地方(ホラズム・シャー朝)

この地方の支配は、アフリーグ朝→マームーン朝(イブン・スィーナーを保護)→ガズナ朝→セルジューク朝と移り変わっていった
セルジューク朝でのホラズム総督がホラズム・シャーを名乗り始める。
2代目アトスズ、サンジャルと戦い負ける。
3代目テキシュ、セルジューク朝を滅ぼし、セルジューク朝の後継王朝になる
最終的にモンゴルに滅ぼされるが、この最後が、ジャラルッディーンなんだな(『斜陽の国のルスダン』)

  • イルハン国

モンゴル人の国だけれども、イラン人官僚を登用したという点では、これまでのトルコ系遊牧国家とと同様
南北に強敵を抱えており、東西の国とは友好関係
フレグ→アバカ→テグデル→アルグン→ガザン
テグデルとガサンはイスラムに改宗している。
テグデルの時はテグデルしか改宗しなかったったが、ガサンの時には他のモンゴル軍人も追随し、イルハン国はイスラム国家に
都はアゼルバイジャンのタブリーズ
文化的には、ペルシア語文学として『集史』という歴史書や『シャー・ナーメ』という叙事詩
「イーラーン・ザミーン」といって、イラン概念が明確化してきた時代でもある

第3章 ペルシア語文化圏の形成と変容  羽田 正

この章は、ティムール帝国からサファヴィー朝まで


15~16世紀 ペルシア語文化圏の政治的中心地は、イラン高原ではなく、以下の3つの地域だった。

  • ホラーサーン(イラン東部・アフガニスタン西部、トルクメニスタン南部)
  • マー・ワラー・アンナフル(ウズベキスタン)
  • アゼルバイジャンからアナトリア東部

ホラーサーンとマー・ワラー・アンナフルをあわせるとホラズム
今のイランからすると、東の端と西の端なのだけど、この時代は違う、と
東の方は、アム川という川があったのが重要っぽい
アゼルバイジャンの方は、近代になっても独自の動きしているし、重要な地域っぽい

  • ティムール朝とカラコユンル朝・アクコユンル朝

ティムール朝は、マー・ワラー・アンナフルから興った王朝
一方、アゼルバイジャンから興ったのが、カラコユンル朝(黒羊朝)で、のちにアクコユンル朝(白羊朝)がとってかわる。
ティムールは、アナトリア東部までのイラン全域を支配するわけだけど、それは一代きりの領土で、その後、この地域一帯は、東半分はティムール朝、西半分はカラコユンル朝・アクコユンル朝にわかれる、というわけ


ティムールはモンゴル系遊牧民族だが言語はトルコ化
サマルカンドに都をおき、マドラサをおくなどして文化的に栄えた
また、ペルシア語だけでなく、チャガタイ・トルコ語による文学が生まれてくる


ウズン・ハサン
トルコマンであり、アクコユンル朝の最盛期を作った
現在のトルコ東部、イラク、イラン、アゼルバイジャンのほぼ全域を含む大帝国に
しかし、オスマンア朝のメフメト2世と戦って敗れ、威信が低下した


1507年、ティムール朝は、ウズベク族シャイバーニーに滅ぼされ、
1508年、アクコユンル朝は、サファヴィー朝のイスマーイールに滅ぼされる

  • サファヴィー朝

もとは、アゼルバイジャンの神秘主義教団
「過激なシーア派」により遊牧民をひきつける
(トルコ系がスーフィズムに改宗しやすかったという話と似ている。単純でわかりやすい的なことらしい?)
サファヴィー教団にひきつけられた遊牧民(=キズィルバシュ)が、のちに、サファヴィー朝の軍事力を担うことになる。
アクコユンル朝は、この教団の危険性を感じていて、ウズン・ハサンは、自分の妹をジュマイドと結婚させて融和を図っていた。
が、このジュマイドとウズン・ハサンの妹の孫であるイスマーイールが、サファヴィー朝を樹立し、アクコユンル朝を滅ぼすことになる。
次いで、イスマーイールは、シャイバーニー朝も倒す。対立の原因として宗派の違いがあげられることもあるが、そういうわけではなくて、これまでずっと続いていた東西勢力の対立が背景にある、という。
この頃は、イラン全体としてはまだシーア化もしておらず、むしろシーア派のふるまいが「奇習」として記録されていたりする。イラン高原の人々は1世紀かけて徐々にシーア化していった
その後、イスマーイールは、オスマン朝とも戦う。
これまた、シーア派王朝とスンニ派王朝の戦いとして言われがちだが、宗派対立によるものではないという。
オスマン朝は、イェニチェリ制度にみられるように、軍事力について脱遊牧民をはかっていた。一方、上述の通り、サファヴィー朝は遊牧民と親和的だったので、オスマン朝領内の遊牧民がサファヴィー朝側に移動するなどがあって、それを巡る対立があった、とのこと
1518年、チャルディラーンの戦い
オスマン側が勝利する
イスマーイールはこれまで無敵無敗で、そのことが求心力の源となっていた。
この戦いの敗北で失った領地はわずかに過ぎないが、このイスマーイール神話の崩壊のダメージが大きかったとか。イスマーイール本人のモチベも切れたっぽい
また、この戦いは、世界史的には、遊牧民の時代から銃の時代へというのを象徴しているとか


イスマーイールの子、タフマースブは10歳で即位したので、当初は、キズィルバシュたちが紛争おこしていたが、成長すると安定した治世に
カフカス遠征を何度かしていて、カフカス系奴隷が入ってくる。トルコ系でもイラン系でもない第三勢力が宮廷に入ってくる。キズィルバシュ対策の一つ
都をカズヴィーンに遷都
ホラーサーンとアゼルバイジャンの中間に位置する

  • アッバース1世

タフマースブが亡くなるとまた後継者争いが起きて、その混乱をついて、オスマンにアゼルバイジャンを奪われる
アッバース一世が即位すると、軍制改革に着手
カフカス系の軍隊と、イラン系による銃兵部隊を作り、トルコ系はお払い箱
新編成の軍隊で、シャイバーニー朝からホラーサーンを、オスマン朝からアゼルバイジャンをそれぞれ奪還
イスファハーンに遷都
シーア派研究の中心地
バザールに各地の品物が集まり、人口も増え、17世紀半ばに50万人をこえ、イスタンブール、パリ、ロンドンに並ぶ都会に
アルメニア商人、ヒンドゥー系金融、イギリスやオランダの東インド会社と国際的な都市
芸術面では、特に写本
アッバース1世が亡くなった後は、どんどん混乱、衰退していく……


15世紀には、ホラーサーンとアゼルバイジャンという東西の勢力に分かれていたが
19世紀までに、その境界線は変わる
サファヴィー朝とオスマン朝の国境が、アナトリア東部にひかれる。かつてのアクコユンル朝の一部はオスマン領に
かつては一体的だったホラーサーンとマー・ワラー・アンナフルは、アム川を境に分離して、サファヴィー朝とウズベク諸王朝に分離
また、アフガニスタンにはドゥッラーニー朝が誕生
現在のトルコ、イラン、アフガニスタン、ウズベキスタンが区別されていく。

第4章 近代イランの社会  八尾師 誠

ガージャール朝について
都はテヘランにおかれ、後述するように、列強との条約の中で国境が画定し、ほぼ現在のイランと同じ領域が国土となる。
第1章から第3章は、現在のイランという国よりもさらに広範囲をさす「歴史的イラン世界」の歴史だったのに対して、第4章以降は、現在のイランへとつながっていく歴史となる。


ガージャール朝は専制君主国だったが、支配力はすごく弱くて、地方有力者に頼った統治だった
というのも、常備軍をもたず、官僚組織もほとんど整備されていなかった(王が親政やりたくて、行政府をすごく縮小したらしい)
産業的には手工業が衰退していったが、西欧の需要があった絨毯だけが例外的に栄えた、と。

  • 積極的均衡政策と消極的均衡政策

インド・アフガニスタン方面からイギリスが、北からはロシアが、そしてフランスもやってくるなかで、列強諸国にどう対応するかという外交政策として、2つの方向性があった
積極的均衡政策は、イギリスに利権を与えたら、フランスやロシアにも利権を与えることでバランスをとる、という政策
消極的~は、逆にどの国にも与えないことでバランスをとる
でまあ、お決まりの不平等条約締結が続く。
それから、そうした条約締結の中で、国境が定まっていく
ただ、ほかの中東諸国と異なる点として、ほかの中東諸国は完全に列強諸国の支配地域として引かれた線が国境になったのに対して、イランは、不平等ではあったものの、イランとの条約という形で国境が引かれたこと。
で、不平等条約だけでなく、さまざまな利権が英仏露には供与された。

  • 抵抗運動

そうした中で、少しずつ抵抗運動が始まっていく。
例えば、バーブ教の反乱がある
バーブ教においては、イラン・ザミーンへのこだわり、聖典をペルシア語でかく、イスラム太陰暦ではなくイラン太陽暦を使うといったイラン・ナショナリズムがあらわれている
そして、タバコ・ボイコットというのが大きな運動となる。
これは、先ほどの利権の話で、イギリスのタバコ商社に与えられようとしていたタバコ利権が、あまりにもイギリス有利すぎなもので、ウラマーから浮浪者まであらゆる人々により、全国的にタバコ・ボイコット運動が行われた。
これによりタバコ利権は撤回され、イラン史上はじめて勝利した住民運動
しかし、これにより賠償金が課せられ、経済状況は悪化

  • 立憲革命

その後も闘争が続き、立憲制要求運動が起こり、1906年、立憲制の詔勅、第一議会の選挙・開催に至る
第六代モハンマドアリー・シャーが、反立憲派だったため、立憲派と反立憲派の争いが起きる
この時、立憲派の武装組織がいち早く組織されたのが、アゼルバイジャンのタブリーズ
ヨーロッパとの交易拠点として栄えたことで、ヨーロッパ思想が入ってきていた
立憲派が勝利し、第二議会が召集される。しかし、第二議会の財政改革がロシアとの確執を生み、最終的にロシアの介入によって議会は解散となる。

  • 4つのナショナリズム

記事冒頭に、イラン・ナショナリズムの4つを挙げたが、本文では第4章の章末で解説されている。
(1)西洋流の民主主義と国民主義の確立を目指す立場
立憲主義者たちからモハンマド・モサッデグらのイラン国民戦線へ
(2)古代礼賛ナショナリズム
レザー・シャー体制の支配的イデオロギーに
(3)マルクス主義の影響を受けながらブルジョワ階級よりも植民地主義支配を障害とみなす立場
アゼルバイジャン国民政府のジャアファル・ピーシェヴァリーや草創期イラン共産党
(4)イスラーム的ナショナリズム
先駆者はセイエド・ジャマーロッディーン・アサダーバーディ。のちにイスラーム革命へ

第5章 国民国家への道  八尾師 誠・松永 泰行

第一次大戦以降から現代までについて書かれている
1980年までを八尾師が書いている(これは本書のもとになった『西アジア史2(イラン・トルコ)』だろう)。それ以降から2020年までを松尾が書いている

  • 第一次大戦とその後

中立を宣言するも、デモクラート党は潜在的にはドイツと同盟を結ぼうとしていた
これを懸念するイギリス・ロシアが暗躍し、政権交代も相次ぎ、第一次大戦をつうじて、イラン政府は弱体化
各地で地方蜂起が続出
カスピ海南岸のジャンギャリーの運動
これは色々あった末に、ソヴィエト共和国を樹立するにいたるも瓦解
また、反英運動の激化したアゼルバイジャンでは、タブリーズ政権が作られるが、これも半年で瓦解
政治的な混乱が続く中、再統一を目指す機運があり、イギリスも背後で動きつつ、レザー・ハーンによるクーデターが起きる。
1923年、首相に就任。
もともと、レザー・ハーン自身は共和制を考えていたらしいが、ウラマー層の反発も懸念して、1925年に、レザー・シャー・パフラヴィーとして即位
(共和制も考えていたらしいけど、結局、息子を2代目にしているんだなーとも思う。1920年代に王政打倒したので、なんでまだ王政にしたんだ感)

  • パフラヴィー朝

国軍、官僚組織の強化。戸籍の整備。従来、宗教が独占してきた司法部門も「西洋化」し、地方行政改革も実施。
上述した通り、古代礼賛ナショナリズムが支配的イデオロギーで、「イラン的であること」と「イスラム的であること」を対置
イスラム化以前の遺跡の保護
太陽暦の採用
アラビア語を排除して、ペルシア語の純化を進める。パフラヴィーやシャーもペルシア語の語彙の組み合わせによるものだとか。『シャー・ナーメ』の称揚
そして、諸外国に対して「ペルシア」ではなく「イラン」を使うよう要請、と

  • 第二次大戦とそれ以降

第二次大戦でも中立を宣言するもナチス・ドイツと関係を維持していたらしい
が、当然、イギリスとソ連からの圧力があり、最終的にドイツと日本に宣戦布告している
対ソ支援ルートとして連合国の占領にあい、これがイラン経済に負の影響を与える。
レザー・シャーによる中央集権化は、テヘランを成長させたが、地方を衰退させた
1940年代、アゼルバイジャンやクルド人の中で自治の動きが活発化し、アゼルバイジャン国民政府とコルディスターン共和国が成立するが、1946年にはどちらも瓦解
第二次大戦で石油需要が伸びたが、イギリスが搾取しまくっていたため、モサッデグが石油国有化。結局、国有化自体は失敗するが、石油収入は増える
1960年代「白色革命」→農地改革
1970年代、石油収入により工業化・経済成長が進む

  • イスラーム革命

経済成長は経済格差を広げ、デモやストライキが広がっていく
1979年、シャーが亡命し、ホメイニーが帰国
ホメイニーによる「法学者の統治論」という主張をもとに「イスラーム共和国」樹立
憲法審議が行われるなか、アメリカ大使館人質占拠事件が起きる
イラン・イラク戦争で、イスラーム体制の求心力が増す。革命防衛隊が逆にイラク領に攻め込むまでいくが、イランの軍事的躍進がイランの国際的孤立につながる
1984年には、アメリカの「テロ支援国家」リスト入り
1987年にはアメリカとの交戦も
1988年、イラン・イラク戦争終結
1989年、ホメイニー死去
ハーメネイーが最高指導者に
ラフサンジャーニー大統領は、国際協調路線を進め、ハーメネイーも当初はそれを支えていたが、92年からその姿勢が変化していく
開放路線と保守派の対立が続く。90年代から2000年代前半まで開放路線のハータミー政権、2005年から保守派のアフマディーネジャード政権は核問題で国際的に対立。2013年からのロウハーニー政権で包括的核合意がむすばれたが、トランプが離脱した、と。
2020年現在、イラン人口の7割が40歳未満の革命以後生まれである、と書かれている。

感想

4つのナショナリズムを順に試していったのかなあ、という感じもある(イラン自体は共産化していないが、一部、地方でソヴィエトできてるし)。
19世紀以降の近代化の流れは、わりと普遍性のあるものもあって、わりと理解可能な部分も大きい半面、タバコボイコット運動にもウラマーがかかわっているし、パフラヴィー朝ができるまで、司法は聖職者のものだったわけだし、そして、1970年代にホメイニーが国民からすごく支持されていたり、といったところでの、近現代における聖職者の存在感、というのがいまいち分からない。