Elisa Caldarola "Pictorial Representation and Abstract Pictures"

分析美学から考える抽象絵画、というような感じの博論
分析美学が抽象絵画をどのように扱っているのか、というのは前から気になっていて、以前Michael Newall ”Abstraction” - logical cypher scape2を読んだ
これは博論で全部読むには長すぎるので、3章だけさらっと読んだ。あと4章のさわり。

Introduction
1 Analytical Theories of Pictorial Representation: A Historical Introduction
2 Resemblance and Pictorial Representation
3 Four Available Accounts of Abstract Pictures: A Critical Examination
4 Abstract Pictures and Pictorial Representation: A Proposal Conclusions

www.academia.edu

Introduction

描写の哲学では、描写とは何かについて色々な説・立場があるけど、筆者は、ハイマンの類似に基づく理論を指示しているっぽい
2章読んでないけど、2章のタイトルに類似とあるので、おそらくそこでハイマンについて説明してるのかな、という感じ
イントロダクションで、描写の哲学は、ロペスの"Understanding Pictures"の影響は大きいよ、と。描写を、芸術としての絵画だけでなく、コミュニケーションの道具としての絵についても広げた。
ただ、抽象絵画は無視されてきたんじゃないか、と。


本論では、画像的表象Pictorial RepresentationをPRと略しているので、ここでもPRとする

3 Four Available Accounts of Abstract Pictures: A Critical Examination

ここで抽象画=non-figurative artのこと
figurative art=描かれているものについてで、その絵が記述される
抽象画=表面のマークや色によって、その絵が記述される
この章では、4つの説明を取り上げる
分析系からウォルハイムとウォルトン、非分析系からグリーンバーグとWiesing
分析系は、抽象絵画について論じている人が少ないから。

1.Richard Wollheim and the emergence/recession criterion
2. Clement Greenberg: abstract pictures and the figure/ground dynamics
3. Kendall Walton: imagination and self-reference in abstract pictures
4. Lambert Wiesing and the epistemological difference of abstract pictures

ウォルハイム

ウォルハイムは、PRを、奥行きdepthの経験があるかどうかで判断する
奥行きの経験というのは、何かが何かの前や後ろにあるように見えること
抽象画にも奥行きの経験があり、だから、抽象画はPRである、と。


具象画と抽象画の違いは、表象か非表象かという違いではない。
奥行きの経験を引き起こすのかどうか、という基準the emergence/recession criterion
抽象画の中には、奥行きの経験を引き起こすものとそうでないものがある。
例えば、ホフマンの「ポンペイ」は奥行きの経験を引き起こすけれど、ニューマンの「英雄にして崇高なる人」は引き起こさない、というように。
ところで、この基準は、ハイマンによって問題があることが指摘されている。
明らかにPRであるのに、この基準を満たさないものがあるから。
例えば、棒人間とか影絵とか。
この基準は、PRであるかどうかの判定には使えない。

グリーンバーグ

グリーンバーグによれば、広い意味でのモダニストの絵というのは、sculptural and illusionisticな効果に専念する絵に対して、表面の平面性を強調する絵全てのこと(ミケランジェロに対するヴェネチア派、フラゴナールに対するダビッド、サロンの画家に対する印象派など)。狭い意味では、20世紀のアヴァンギャルドな絵に見られる傾向


モダニストの絵によって引き起こされるillusionもある
それをグリーンバーグは、strict optical third dimensionと呼ぶ。これは、目を通してのみ入っていける空間で、自分自身が入っていけるように想像できる空間ではない。
これは一体何かということで、筆者は、Gaigerによる解釈と自分の解釈を比較している。
Gaigerによる解釈だと、グリーンバーグとウォルハイムは似ていることになる
図-地figure-ground関係が、絵であることの必要条件で、奥行きの表象と関わるとしているから。
しかし、筆者は、ウォルハイムの二面性と、グリーンバーグの図地関係を区別する
ウォルハイムの二面性は、figureとbackgroundの関係で、ここでいうbackgroundは描かれたシーンの背景
グリーンバーグのfigureは描かれた内容で、groundは絵のマテリアル


で、グリーンバーグがキュビストの絵について言ったことやモンドリアンについて言ったことなどを解釈していく
例えば、キュビストの絵は二次元的であるとか、後期モダニストの絵が奥行きの経験を引き起こすとは考えていないとか

ウォルトン

PRとは何かを、奥行きの経験ではなく、プロップになっているかどうかという点で説明している。
しかし、それは本当にPRの説明になっているのか。ロペスやバッドが、描写の説明になっていないと批判している。
また、ウォルトンは、具象画と抽象画の違いについて、キャンパスの外にあるものについての想像か、作品それ自身の部分についての想像かと区別している。前者は妥当だが、後者は一体何なのか。そして、この説明によってPictorial Representationだということが言えるのか

Wiesing

現象学的伝統からの抽象画論
絵の特徴を、描いている内容の純粋な視覚性とする。主題から、視覚以外の質を取り除いているということ
しかし、抽象画にこのことは当てはまりにくい。抽象画は、視覚的な性質を表象しているわけではないから。むしろ、自身を表象している
では、何故抽象画は絵だと言えるのかというと、絵を可能とするインフラストラクチャーが残っているから
ここでいうインフラは、描写内容を展示し構成すするもの
起源論的な理由で、抽象画は絵だと言える。
抽象画は、描かれたものとしての対象をもたずSinnのみを持つ。よって、寄生的な現象
ポイント
(1)Wiesingは、奥行きの表象をPRにとって必要だとしていない
(2)Wiesingとウォルトンは、抽象画を絵自身についての絵としている

4 Abstract Pictures and Pictorial Representation: A Proposal Conclusions

1. Content, Embodiment, and PR
2. PR: the case for abstract pictures
3. Decoration, painting, and PR
4. A (very limited) vindication of Ernst Gombrich on abstract painting
5. Abstract painting, self-reference, and painterly tradition

第4章はまだ、第1節くらいまでしか読んでいない
抽象画と抽象的なパターンを区別して、前者は何かを表象しているが、後者は何も表象していない、という
抽象画をPRと考える理由として、ダントーの『ありふれたものの変容』を引っ張ってきている
芸術の定義として、content条件とembodiment条件というのが出てくる
抽象画も芸術なので、ダントーの条件が使えるのでは、というふうに話が進んでいくっぽい
抽象画はcontentを持ち、特定の方法でembodyされている、と。