西村清和編・監訳『分析美学基本論文集』

内容は大体タイトルの通り、ダントー「アートワールド」、シブリー「美的概念」、ウォルトン「フィクションを怖がる」といった有名論文が収録されている。
ただし、「分析美学って何?」って人は、ロバート・ステッカー『分析美学入門』 - logical cypher scapeを先に読むことをオススメする。
また、同じく分析美学の基本論文としては、松永さんや森さんがnoteで公開しているモリス・ワイツ「美学における理論の役割」、ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」 - logical cypher scapeあわせて読みたい

第1章 「芸術」の定義
 1 アートワールド アーサー・ダントー(西村清和 訳)
 2 芸術とはなにか――制度的分析―― ジョージ・ディッキー(今井 晋 訳)


第2章 美的価値
 3 芸術批評における理由 ポール・ジフ(櫻井一成 訳)
 4 美的概念 フランク・シブリー(吉成 優 訳)
 5 芸術作品の評価と鑑賞 ジョセフ・マゴーリス(橋爪恵子 訳)


第3章 作品の意味と解釈
 6 視覚芸術における再現 モンロー・ビアズリー(相澤照明 訳)
 7 文学における意図と解釈 ジェロルド・レヴィンソン(河合大介 訳)


第4章 フィクションの経験
 8 フィクションを怖がる ケンダル・ウォルトン(森 功次 訳)
 9 不道徳な芸術礼賛 ダニエル・ジェイコブソン(村上 龍 訳)


解説 西村清和

アーサー・ダントー「アートワールド」(西村清和訳)

言わずと知れた超有名論文
分析美学を知らない人でも、ダントーのアートワールドは知っているはず。
ところで、

『分析美学基本論文集』をときどき拾い読みしているのだけど、読めるようになるにつれ、どうしてダントー『アートワールド』を最初に持ってきちゃったんだろうなと思う。聖書を読み始めてみたら家系図がひたすら書いてあって読む気なくした、みたいな状況だと思うのだけど。
https://twitter.com/ffi/status/643830868880982016

というのを見かけて、実際、一通り読んでみて「アートワールド」が一番読みにくい論文だった気はする。
難易度順に並べるのであれば、「アートワールド」は決して一番に置くべきではない。
というわけでこの意見も分かる。
ただ、この論文の知名度だったり扱っているテーマだったりを考えると、1番最初に置くのも妥当だとは思う。


冒頭から、芸術史を科学史になぞらえている
パラダイムシフト」という言葉は出てきてないけど、パラダイムシフトみたいな、理論の変化という観点から芸術史を見ることができるよね、という話
製品としてのブリリオボックスとウォーホルのブリリオボックスは、見分けがつかない(「識別不可能」という用語はこの論文中には出てこないが、教科書的にはそういう言葉で説明される。ラマルク+オルセンのアンソロジーでも、「識別不可能」という言葉で解説してる)。
じゃあ何が、それを芸術とするのか。アートワールドだ。
というところまでは、まあ誰もが知っている話。
非常に俗っぽい解釈(?)だと、アートワールドっていうのは「ギョーカイ」のことで、アートワールドの人たちがアートっていえばアートなんだよというのがあるが、まあそういう話ではないということは読むとすぐ分かる。
さすがに、アートワールド=ギョーカイっていうのは、ダントー解釈としては間違いってのは、ググってもすぐに分かる話ではあるんだけど、じゃあアートワールドって一体何っていうと結構難しい。
理論とか歴史とかの蓄積っていうことになるんだけど、ダントーはそれをなんと「雰囲気」という曖昧な言葉で言ってたりする。
ディッキーは、これを「制度」と解釈したわけだが、ダントーのこの論文を読む限りでは、あまり制度的な話は出てこない。「美術館や目利き」という言葉が1回か2回出てくるくらい。
一方、芸術に相関する述語が増えれば増える程、「アートワールドの個々のメンバーはより複雑になる。」とも書かれており、ここでいうメンバーというのは、アート作品のことを指す。
アートワールドのメンバーっていうと、作家やキュレーターや批評家のことかなと思ってしまうけど、この論文を読む限りでは、作品のことっぽい
アートワールドって、アート業界のことではなく、アート作品の集合みたいな、抽象的な何かのような感じがする。


読んでいて分からなかったところについて(読み終わってから、何となくこういうことかなーというふうには思ってる)
「始原的である」といおう話と、現代アートはIT(模倣理論)じゃなくてRT(実在理論)だという話と、芸術的同定のisの話が、一体どういう関係にあるのかが分かりにくい。
芸術的同定のisとして、最初に挙げられている例が、訳注でも触れられているが、芸術についてというより再現についてのisなのが、ややこしいところ。
「その絵はマリアである。」とか「その人はリア王である。」とかいった芸術同定のisと、「その黒い絵の具は黒い絵の具である。」とかいった芸術同定のisとがあって、前者はIT(模倣理論)によって、後者はRT(実在理論)によって、可能になる、ということと、とりあえず理解した。
こういう「is」を使えるようになるには、理論ひいては歴史的蓄積の「雰囲気」が必要になる(何故なら識別不可能だから)、というのは分かるとして、じゃあそれがどうして「芸術とは何か」に繋がるのか。芸術的同定のisは、個々の作品についての話じゃん。
『分析美学入門』で、ダントーの『ありふれたものの変容』における芸術定義を、ノエル・キャロルによる定式化によって紹介しており、そこでは「主題があること」みたいな条件がある。これが関係しているような気がする。
「その絵はマリアである。」「その黒い絵の具(black paint)は黒い絵の具である」という、芸術的同定のisによって示されるのが、その作品の「主題」ということで、芸術的同定のisができるというのが、芸術の定義の1つになるのかな、と。


始原的であることっていうのは、もとになってるストローソンの議論が結構面白そうだなあと思った。
人間は、思惟と延長の合成物なんじゃなくて、そもそも始原的な概念であり、人間は、物体界と人間界に同時に所属する。
それと同様に、芸術作品は、物体界と芸術界(アートワールド)とに同時に所属する。


後半は、芸術に相関する述語(「〜は再現的である。」「〜は表現主義的である。」)が増えていくことによって、作品もより複雑に、経験はより豊かになっていくという話
「〜は表現主義的である。」っていう述語が芸術に相関する述語として使われていなかった頃は、例えば『モナリザ』は表現主義的であるかどうかという観点から特徴付けられることがなかったけど、ひとたびそういう述語が芸術に相関するようになれば、『モナリザ』についてもそういう特徴付けができるようになる(『モナリザ表現主義的でない。』という否定形であっても)。
芸術作品や理論を新しく作るって言うのは、こういう述語を増やしていくということ。
ところでこれは、M. Weitz「美学における理論の役割」|まつなが|noteとも似てないだろうか。
現代アートが、新規性を追い求めることの理由もおそらくこのあたりにあるだろうし、批評にもこういう役割があるのではないだろうか?
この後半部分については、ダントーの「アートワールド」は後半が面白い - 9bitも参照


ジョージ・ディッキー「芸術とはなにか――制度的分析」(今井晋訳)

ワイツは芸術を定義できないと言ったが、それに対して芸術の定義を試みる。
ところで、ここで言及されているワイツの論文というのが、上述した松永さんが翻訳してnoteで公開している論文なのだが、「「美学における理論の役割」、松永伸司訳、電子出版物、二〇一五年」という表記で参照されていた。URLは入れないんだなー。


本題ではないが、前半で「芸術作品」という語に分類的意味、派生的意味、評価的意味があることを指摘しているのも、そこそこ重要だと思う。


ディッキーによる芸術作品の定義

(1)人工物であり、かつ、
(2)それが持つ諸側面の集合が、ある特定の社会制度(アートワールド)の代表として行動するある種の人ないし人々をして、当の人工物に対して鑑賞のための候補という身分を授与せしめた、そういうものである。

アートワールドの構成員としては、芸術家、プロデューサー、美術館のディレクター、美術館の客、観劇者、批評家、芸術史家などを挙げている。特に中核をなすのが「芸術家」「プレゼンター」「常連客」である。


ポール・ジフ「芸術批評における理由」(櫻井一成訳)

「これはいい/わるい絵だ」に対する理由を述べることは、その絵に対してどういう行為(どういうアスペクト視)をすればいいのか(細部を見るべきなのか、全体をじっくり眺めるべきなのか)を示すことである、というような内容
作品によって、それに対する最適な行為が違う。

作品の評価に直接に関与する事実はいずれも、作品の鑑賞に対しても関与する。しかし、逆は真ではない。

前半は、絵画のよしあしの理由として、その作品の歴史的事実や主題は理由にならないけど、構成は理由になるみたいな話がなされてる

私もあなたも彼も、作品が鑑賞に値すると自分が推定する(考える、信じる等)理由をもつことはできる。しかし、私もあなたも彼も、その作品が鑑賞に値するという理由をもつことはできない。

「作品が鑑賞に値すると私が推定する(考える、信じる等)理由」は「私の側の事情」なので私がもつことができるが、「その作品が鑑賞に値するという理由」は世界の側の事情となるので私がもつことはできない。
「作品がよい」という場合、それは、いつどこで誰にとってということが捨象されている。関心や趣味を共有する共同体が前提されている。


フランク・シブリー「美的概念」(吉成優訳)

美的概念と非美的概念の関係について
美的概念ないし美的用語としては
「統一感のある、バランスのとれた、生気に欠ける、静穏な、陰鬱な、ダイナミックな、繊細な、感動的、陳腐な、鮮明な対比、緊張感を生む」*1などなどがある。
一方、非美的な概念、用語としては
「赤い、騒がしい、四角い、曲がった」とか演奏の速度とか、前景に人が描かれているとか、小説に沢山の登場人物が出て来ているとか、健常な知覚があれば見て取れることである。


美的な概念は、非美的な概念に依存している。
だが、それは条件的に決定されてはいない。
つまり、
美的な概念の理由を突き詰めていくと、非美的な概念に行き当たるが、
一方で、こういう非美的な概念を持っていれば必ずこういう美的な概念があることになる、などという風に決定されているわけではない、ということ。同じ非美的な特徴が、場合によっては、全然違う美的な特徴に結びつけられることもある。


条件的に決定されないという点で、美的概念は他の概念とちょっと違う概念ではあるのだけど、しかし、だからといって特異な概念ではなく、自然な概念である。


批評家がどのように美的概念を示すのかの用例なども並んでいたりする。

ジョセフ・マゴーリス「芸術作品の評価と鑑賞」(橋爪恵子訳)

マゴーリス面白い
価値判断を、裁定と鑑賞的判断に分ける。事実/価値の二分法は誤りだという。
シブリーの「条件的に決定されない」を部分的に否定してる。
「強靭な相対主義」(価値判断(裁決)はある程度相対的であるが、真偽の判断に似ている)


鑑賞的判断というのは、いわば個人の好み
それに対して裁定(評価的判断)というのは、「真偽」の判断に近い。
作品の好き嫌いとよしあしは区別される、という話といえるかもしれない。

確かに他者に対して、その対象を楽しんだり、好きになったりするよう議論によって説得することはできない。しかし評価するということを裁定に到達することとして理解するならば、論理上は、個人的な鑑賞のバイアスとは無関係の基準に照らして判断することである。方法論的には、事実に関する判断と勝ちに関わる判断の間に違いはない。裁定が他の判断と異なるのは、これが用いる述語による。

このあと、裁定に用いられる述語として、「健康であるか病気であるか、有罪であるか無罪であるか、嘘をついているか欺しているか」などが挙げられている。
裁定のモデルというのは、医療や裁判ということになる。そして、美学における裁定も、同様のモデルを適用できるだろうという。
一方、それが慣習や共同体によっているという点では、相対的でもあるということで、これを「強靱な相対主義」と呼ぶ。

モンロー・ビアズリー「視覚芸術における再現」(相澤照明訳)

これは、ビアズリー『美学』という著作の中の一章
この論文が「基本論文集」に採用されていることについて、高田さんが『分析美学基本論文集』の論文セレクトについて - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめで、基本論文集にいれるべき基本論文だろうかということについてコメントしている。
個人的には、このビアズリーの『美学』という本については、西村清和の著作でよく言及されている著作というイメージがあるが、確かに「再現」というテーマについての基本論文という意味では、ウォルハイムの論文を収録してほしかったかもなーと思うところはある*2



とはいえ、この論文はこの論文で面白い
絵画が何かを再現しているとはどういうことかについて、様々な概念(再現、描写、肖像、暗示、抽象、象徴など)を分析しており、こういう整理自体は有用であるように思う。とりわけ、これらの語の使い方はわりと人によってバラバラになりがちなところで、ビアズリーの用語法を採用するかどうかはともかくとして、こうやって分析できるということをおさえておくとおかないとでは違うのではないかと思う。
それから、具体的な作品が多く参照され、図版も多いので、これまでの論文と比べるととても読みやすい。
分量はやや長いが、文章そのものは易しいので、最初の方が難しいなあと感じた人は、この論文から読むと読みやすいかもしれない。


再現を「描写」と「肖像」にわけている。描写は、「ある男性」とか「ある山」いった不定冠詞の対象を、肖像は「ナポレオン」とか「サント・ウィクトワール山」とかいった定冠詞で示されるような対象を再現していること。
再現は、対象や出来事のみに適用され、質には適用されない。「冷たさを再現する」とか「とげとげしさを再現する」とかは言わない。感情の喚起も再現ではない。こういうのを非再現的なデザインと呼ぶ。
非再現的ではあるけれど、類似していて何かに見えるというような場合を「暗示」
また、「写実的」の対義語として「抽象」と「歪曲」をあげる
「抽象的」は程度を示す語であり、例えばリンゴを単純な円で描いたり、色なしで描いたりする場合、リンゴを形(あるいは色)について抽象的に描いているといえる。
一方、「歪曲」は、例えばリンゴをキュウリのような形状で描いたりするような場合をさす。ゴッホの糸杉のようなのも歪曲である。
「ダリの描く時計は写実的か」に対して、「写実的」が「歪曲されていない」ことを意味するなら否だが、「写実的」が「抽象的でない」ことを意味するなら然りである
象徴について
何らかの対象や図形や行為が、何らかの性質・特性(信仰、希望、愛、勇気など)を象徴する。
何かが何かを象徴するには、自然的基盤、慣習的基盤、生活的基盤がある。


後半では、主題とデザインの関係について
主題とデザインは対立するという考えと、主題とデザインは融合するという考えとが紹介されている。


ジェロルド・レヴィンソン「文学における意図と解釈」(河合大介訳)

反意図主義でも現実意図主義でもない「仮想意図主義」を提案する論文
「文系は作者の気持ちでも考えてろ」って言ったり言われたりする人たち必読の論文
そこでいう「作者の気持ち」って一体何よ、という話


文学作品を解釈する上で、反意図主義は、作者の意図は全く関係ないという立場。現実意図主義は、作品の解釈とは作者の意図を解釈することだという立場。
仮想意図主義は、そのどちらでもない立場。

われわれは、意図主義でも反意図主義でもないが、私が仮想意図主義と呼ぶ非意図主義の一形式に辿り着くことになる。反意図主義は、現実の意図が作品の基本的な意味を厳密に決定したり、その基準となったりするのではないとする点で正しいが、意図主義は、第一に、芸術作品のもつ意味というわれわれの観念は本質的に、情報を備えた読者によって妥当な仕方で投影されうるものとしての芸術家の意図を指示するものだとする限りにおいて正しく、また第二に、多くの場合に、芸術的意味と作者が現実にもつ具体的な作意が幸運にも一致するという限りにおいて正しい。

文学作品の意味は、テクストの発話の意味
文や文字の辞書的な意味でもなく、発話者の意味でもなく、その文脈に応じた意味である。
文学作品の解釈が、作者がどういうことを伝えようとしたかということを考えるという点では、現実意図主義的ではあるのだけど、そこでの作者は、現実の作者ではなく読者が文脈にもとづいて考えられる最良の仮説でよい、というのが仮想意図主義
ここでいう文脈というのは、作品のテクストは当然として、作者の伝記的事実やその作品が書かれた歴史的背景なども含まれる。


この論文では、仮想意図主義がどのように文学作品を解釈するかという話題だけでなく、カテゴリーの問題と作品の同一性の問題についても話題にしている。


カテゴリーについて
作者の意図を、さらに範疇的意図と意味論的意図の2つにわける。
既に述べた通り、仮想意図主義は、作者が現実に持つ意図を問わないが、それは意味論的意図においてであって、範疇的意図はそうではない。
範疇的意図は、このテクストは小説であるとか、詩であるとか、そういう意図
範疇的意図は芸術制作の一部である


ケンダル・ウォルトン「フィクションを怖がる」(森功次訳)

この論文は、「チャールズは、恐ろしい緑のスライムが登場するホラー映画を観ている。」から始まるのだが、ここに訳注がついており、「凶暴なスライムが出てくる当時の映画に、深作欣二監督の日米合作映画『ガンマー第三号宇宙大作戦』(一九六八)がある」とあるので、読む前にググってしまってなかなか論文を読み始められなかった。youtubeで予告編が見れる。本編も見れるっぽいがそっちは見てない。ちなみにその訳注によれば、ウォルトンは特定の映画を念頭に置いていたわけではなく、またこの映画のスライムは緑色をしていないとのことである。


ごっこ遊び論と準恐怖の話である。


「準恐怖は、(スライムが接近している)という信念に起因している」とあるが、これは何故なのか、と思ってそこについている注を見ると、それは重要な問題だがここで考える必要はないとか出てくる。
(追記20150930)
→訳者である森さんの『分析美学基本論文集』、ウォルトン「フィクションを怖がる」の解説 - 昆虫亀を見てみたら、その後ウォルトンが付け加えたコメントについての記載があった。

「わたしは、この信念それ単独ではチャールズの準恐怖を引き起こさない、と言うべきであった。質の低いホラー映画を観るとき、ひとは〈自分が虚構上で危険な状況にいる〉ということに気づいているものの、そこでは準恐怖の経験はまったくないだろう。その人は、ただ笑うだけなのだ。」


虚構オペレータは省略されたり、あるいは直説法が用いられたりするが、内包オペレータは省略されないということについて、以前Kendall L. Walton "Mimesis as Make-Believe :On the Foundations of the Representational Arts" - logical cypher scapeを読んだときはいまいちよくわからなかったが、今度は何となくわかった。
ごっこ遊び上で主張している=現実で主張しているふりをしている、ということであり、ごっこ遊びにおいて、「虚構世界ではスライムがこっちに来るぞ」とは言わないだろ、ということらしい。

伝統的には、フィクションに向かう通常の態度、もしくは望ましい態度は、「不信の宙づり」や「距離の縮減」を伴っている、と考えられてきた。わたしが提案してきた理論は、こうした伝統的な考え方の背後に潜んでいる直観をすくおうとするものである。残念ながら、これら「不信の宙づり」や「距離の縮減」といった表現は、適切な表現ではない。
(中略)
われわれが「距離の縮減」を達成するのは、虚構をわれわれのレベルに持ち上げることによってではなく、われわれが虚構のレベルに降りていくことによってである(より正確にいえば、われわれは虚構のレベルにまで自分自身を拡張する。というのも、われわれは実在するということが虚構的になるときでも、われわれは虚構に存在することを止めないからである)。

フィクションや夢やごっこ遊びの価値としての、カタルシスについても、ごっこ遊び理論によって説明できる、とも。
あと、サスペンスの話。オチがわかったあとでも面白いのは、ごっこ遊び上は知らないから、というの前も読んだけど、面白い。


個人的に、あ、そうだったのーと思ったのは、作品世界とごっこ遊び世界の二世界みたいなのと同様に、小説の世界と挿絵入り小説の世界の二世界もあるということが書かれていたこと。

ダニエル・ジェイコブソン「不道徳な芸術礼賛」(村上龍

実はまだ読み終わっていない……。
途中まで読んで飽きてきてしまった……。


道徳的な価値と美的な価値の関係について
一般的には、道徳主義と形式主義がある。
道徳主義にはさらにプラトン的道徳主義とヒューム的道徳主義があるが、ここでは主にヒューム的道徳主義
ヒューム的道徳主義は、道徳的な欠点は美的な欠点にもなるという主張
形式主義は、道徳的なよしあしと美的なよしあしは無関係であるという主張
これに対してジェイコブソンは、道徳的な欠点が美的な価値になることもありうるということを主張しようとする。


例えば、この議論をする際に持ち出される例としてよくあるのが侮辱的なジョー
ヒューム的道徳主義は、侮辱的なジョークを笑うということは、そのジョークが有している価値観を共有していることになると述べる(つまり、そのジョークが共有している価値観(例えば人種差別とか性差別とか)を共有していなければ、そのジョークで笑えない=そのジョークは面白くないということになる)。
一方、ジェイコブソンは、侮辱的なジョークを面白がるのは間違いかもしれないけれど、かといってそのジョークが面白くないということにはならないし、またそのジョークが面白いのはまさにそのジョークの侮辱的な面による、と述べている。



分析美学基本論文集

分析美学基本論文集

*1:本文にはさらに多くの語がリストされているが、引用するに当たって似てるもなのどは省略した

*2:青本に収録されているウォルハイム論文を読もうとして一回挫折した経験があり