『星、はるか遠く 宇宙探査SF傑作選』(中村融編)

編者が中村融編『宇宙生命SF傑作選 黒い破壊者』 - logical cypher scape2を編んだ際にページ数の関係で見送った「表面張力」を核にする形で組まれたアンソロジー
「故郷への長い道」「タズー惑星の地下鉄」「地獄の口」「異星の十字架」「表面張力」が面白かった。
「異星の十字架」「ジャン・デュプレ」「総花的解決」は、それぞれ植民と宣教、植民地開拓、冷戦下のアメリカの介入的な外交をモチーフにしており、時代を感じさせるところがある。まあそれぞれ面白さはあるところなのだけど、一方、宇宙探査SFというテーマで思ってたものとは違うんだよな感もある。
9作中2作は初訳。

フレッド・セイバーヘーゲン「故郷への長い道」(中村融訳)

初出1961年。初訳
冥王星以遠で採鉱作業をしていた主人公が、細長い構造物を見つける。
宇宙船カタログにも載っておらず、すわ異星人の船かと思われたが、約二千年前の旧帝国で使われていた宇宙船からコンテナが分離したものだと気づく。
何か目ぼしいものがないか調べに行った主人公は、なんとその中で生きている人間たちに出くわす。
「宇宙アンカー」という代物があって、それを使って人力で少しずつ途方もない世代数を重ねて太陽の方へと向かっているという話
世代間宇宙船を外部から見てしまったら、というネタで、(本短編集の)のっけからぞわっとした

マリオン・ジマー・ブラッドリー「風の民」(安野玲訳)

初出1959年。1975年に既訳あり。新訳を収録。
住民のいない惑星に数か月ほど立ち寄った宇宙船。船医が妊娠・出産する。乳幼児はワープには耐えられない。彼女は、父親を明かさぬまま、息子と2人で惑星に残る決断をする。
誰もいないはずの惑星なのに、時々、声が聞こえる。母親はそれを幻覚と切り捨てるが、この惑星で育った息子は、この惑星のどこかに目に見えない住民がいるのだと考えるようになる。
作家自身、ファンタジー要素のある作品を書いてきたそうで、本作もファンタジー的な作品になっている。結末はわりとバッドエンド気味

コリン・キャップ「タズー惑星の地下鉄」(中村融訳)

初出1965年。1976年に既訳。新訳を収録。
ニューウェーブ運動の中、その運動とは反りの合わない、従来型のオーソドックスなSFを集めたアンソロジーシリーズで看板作家だったとのことで、実際、本作もハードSFというかオーソドックスなSFという仕上がり。
《異端技術部隊》シリーズの2作目。なぜ2作目かというと、編者曰く2作目が一番面白いため、とのこと。
異端技術というのは、異星人の技術のことで、それを解明しようとするエンジニアが主人公。軍隊組織の中に属しているが、上層部からは厄介者扱いされている。
で、考古学チームが発掘調査中の惑星タズーに赴いて、その過酷な環境に耐えられる乗り物を開発せよ、という命を受けることになる。
かつては高度な文明を築いたはずなのに、いまや跡形もなく滅び去ってしまったタズー人
その遺構から、地下鉄らしきものを発見するが、その動力がわからない……
タズー人のロスト・テクノロジーを少しずつ推理して解明していく、という話で、主人公は、同じ問題への解決方法は自ずから似てくるはず、分からないものはばらして組み立てるか、実際に動かしてみて理解する、といった基本方針で、どんな異質なテクノロジーにも取り組んでいく。
エンジニアリング系ハードSFって感じで、専門用語だらけで会話が進む
ツッコミ役の部下の軽口も楽しい。

デイヴィッド・I・マッスン「地獄の口」(中村融訳)

初出1966年。初訳
こちらはニューウェーブ運動の拠点となった雑誌からデビューした作家の作品
編者コメントによると、ニューウェーブ運動はセンス・オブ・ワンダー概念に疑問を呈した運動でもあり、本作もそのような作品だという。
ある惑星の高原を探検隊が南下していくところから物語は始まる。
東西はどこまでも同じ景色が続き、南下していくにつれて次第に斜度が傾いていき、ついには崖へとたどり着く。
斥候隊がその崖を降りて行ったところ、一人は痙攣の発作を起こし、隊は引き返そうとするも、一人は正気を失い、さらに崖を降下していって消息を絶った。
ある種のガスによるものだろうとされるが、この仕組みを解明するとかそういうのはない。
その後、この惑星には観光用の拠点なども作られたようだが、崖は人の訪れない地のままとなっている。
この惑星の独特な風景はワンダーなもののような気もするが、人類の侵入も理解も拒む自然がただ超然とある感じで、物語的な起伏はあまりないかもしれない。

マーガレット・セント・クレア「鉄壁の砦」(安野玲訳)

初出1955年。1980年に2種類の既訳あり。新訳を収録。
編者あとがきにもあるが、ディーノ・ブッツァーティ『タタール人の砂漠』(脇功・訳) - logical cypher scape2を想起させる作品。
辺境の砦に着任してきた士官。最初は出世かと思ったがすぐに左遷だったと気付く。司令官をはじめ、どこか全体的に態度の緩んでいる砦。敵の姿も全く見えない。
査察が来るとの話を受けて、司令官からその準備を命じられるが、砦の石垣が崩れた部分についての修復を申し出ると、それはしなくていい、と言われる。
査察当日、査察官すらその部分は見て見ぬ振り。
主人公はたまらず、その石垣を修復させるのだが、後日、そこが見たこともない物質へと置き換わっていた。司令は、それこそが敵からの攻撃だという。
タタール人の砂漠』は、本当にひたすら何もない時期が続くわけだが、こちらは、司令官は実はわざと何もしていなかった、という話になっている。
最後、主人公も置き換わってしまうというオチ。

ハリー・ハリスン「異星の十字架」(浅倉久志訳)

初出1962年。1974年訳出。
ある惑星で、知識欲旺盛な先住民との独占的な商取引を確立しようとしていた商人。
そこに別の宇宙船がやってくる。一体何者かと思っていたら、最悪なことに、やってきたのは宣教師であった。
この惑星の文明レベルは、まだ宇宙旅行ができるまでには遠く及んでいなかったが、それでもそれなりに高度ではあった。それは彼らが高い論理的思考力を持っていたら。一方で、彼らは宗教や神話の類を一切持っていなかった。目に見えない存在を全く信じていなかったし、そういうものへの想像力もなかった。
だから、彼自身も信仰を持たない商人は、宗教についての知識をまだ教えるべきではないと考えていた。
しかし、知識欲に対して貪欲な彼らは、宣教師から熱心に学んでいくことになる。
そして彼らは、宣教師と商人からそれぞれ得られた知識が両立しないことに気づく。両立しない以上、どちらか一方だけが真実のはずである。それを確かめる方法は一つ。神の奇跡が起きればよい。聖書に書かれている神の奇跡とは、イエスの復活である。
というわけで、最後にブラックなオチが待っている。

ゴードン・R・ディクスン「ジャン・デュプレ」(中村融訳)

初出1970年。1977年に既訳あり。新訳を収録。
植民者と先住民の軋轢の話
編者は、最初の邦訳をした岡部宏之の、ディクスンはタカ派のようだが本作はそれに対する疑問のようなものが感じられる旨のコメントを引用し、ここでいうタカ派というのは、西部開拓時代のフロンティア精神の体現、時に右翼的・暴力的に見えることがあるということだろう、と書き加えている。
実際、この作品の植民者は、西部開拓時代のアメリカ人がモデルなのだろうなと感じられる。
主人公は、この惑星を巡回している軍人兼保安官
この惑星の先住民は、若者でいるとある年齢の期間だけジャングルで暮らし、徒党を組みながら互いに相争う。それが成人にいたる儀礼ともみなされている。
先住民と植民者である地球人は基本的に共存関係にあるが、この若者らは地球人であろうと見境ないので、主人公たちがパトロール活動をしている(この惑星の住民は、地球人のような銃を持たない)
タイトルのジャン・デュプレというのは、主人公が出会う7歳の少年
彼は、父親に銃を持たされながら、一方で先住民の言葉にも通じている。
植民者たちが先住民の若者たちに追い込まれる。この少年が次第に防衛の要になっていく。おそらくこの少年の内面ではアイデンティティの揺らぎというか、葛藤がすごくあるはずなのだけれど、それは直接的には描かれない。状況に対して完全に無力な傍観者となった主人公の観点でだけ、戦況が描かれていく。
主人公は何もできずにただ戦況を見守るしかできない、という形で描かれていくのが面白かった。

キース・ローマー「総花的解決」(酒井昭伸訳)

初出1970年。1999年に訳出したものに手を入れた新バージョン。
ドタバタ・ユーモアSF《レティーフ》シリーズの中の一作
これもまた当時のアメリカのメタファーというかパロディというかなんだろうなあ、という感じの作品
訳者曰く「アメリカ宇宙SF版『エロイカより愛を込めて』」とのことで、確かにそれはわかりやすい喩えかもしれない。
ある惑星の領有権を巡って異星人同士での紛争が起きそうだ、となり、地球側は、外交官を送り込むことになる。
その外交官の部下として一緒に行くのがレティーフ、という本シリーズの主人公。上司が無能で、それをレティーフがうまく解決していく、というのが基本的なストーリー
出てくる異星人も、古いSFに出てきそうな、昆虫型のいかにもな異星人だし、この上司も、いかにもコメディに出てくる、夜郎自大だけれどビビリなタイプのキャラクター
SFネタとしては、その惑星は、動物がいないと思われていたけど、実はその惑星をおおう植物が全体で一つの個体でしかも知性を持っていた、と。おしゃべりが大好きなので、惑星に着陸してきた他の知性体を逃がそうとしない。
ティーフはそれを逆手にとって、うまく紛争を解決することに成功する

ジェイムズ・ブリッシュ「表面張力」(中村融訳)

もともと2つに分かれていた中編(それぞれ1942年、1952年)を一つにまとめなおした作品(1957年)。1967年に既訳あり。新訳を収録。
本短編集収録作品の中で一番古い作品かと思うが、読んでみるとなかなかグレッグ・イーガンみを感じさせる作品だった。
プロローグ、第一周期、第二周期の3つのパートに分かれており、元々は、第一周期にあたる部分と、プロローグ+第二周期にあたる部分とで別々に書かれたらしい。
プロローグでは、人類播種船がとある惑星に不時着する。彼らは、この惑星に適応した人類を作りあげる。
で、第一周期と第二周期は、この作られた人間たちが主人公となるわけだが、彼らはなんと水中の微生物として生きている。
ワムシが天敵で、原生生物たちと共存しているのだ。
原生生物たちは言葉を喋ることができるようになっていて、ミニ人間たちと協力関係にある。というか、この世界に「協力」概念をもたらしたのがミニ人間たちで、彼らが原生生物たちと力をあわせてワムシと戦争するのが、第一周期の物語となる。
ちょっと、庄司創のマンガ「パンサラッサ連れ行く」を想起したりもした。こっちは擬人化されていないけど。
でもって、第二周期の方では、ミニ人間たちはこの水中世界の外へと踏み出すことになる。
もともと、播種船の人々が、将来のために彼らに伝えたい情報を彫り込んだ金属板を残していて、ミニ人間たちは、どうもこの世界の外にも世界があるらしいというのは何となく知っている。また、原生生物たちは、人間たちが現れる前のことを覚えていて、人間たちが異質な存在だということに気付いている。
ただ、この金属板を管理して知識を司っているシャーという人物以外は、あまりこのことを気にかけていなかった。
リーダーであるラヴァンも、金属板に書かれていることは伝説か何かであって、そんなことよりももっと実用的な知識が大事だと思っていた。のだが、ある時、空(水面のこと)の向こう側へ突破することに成功する。
彼らは、空の向こうへ行くための船を作り始める。
クロサイズの人間たちが、ミクロサイズで分かる範囲で世界を記述しているあたりが、イーガンの『白熱光』あたりを想起させる。例えば、上述したけれど、彼らは水面を「空」と呼んでいる。また、ミクロサイズなのでこの水面を突破するのがそもそも非常に難しかったりする。播種船によって水中生活者として改造されているので、空気中に出ると呼吸できなくなるし。
そんな中、しかしあの空の向こうに未知の世界があるようだと気付き、そのために船を作って、そして実際に突破に成功するし、最後に、知識こそが力なんだってなるあたりにも、イーガンっぽさを感じる(多かれ少なかれ多くのSFに共通する要素でもあると思うけれど、知的探求に価値を置くところにイーガンみを感じる)