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分析美学・アニメ批評・二次元アイドル『フィクションは重なり合う』販売中

フィクション重なり合う 分析美学からアニメ評論へ

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フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

ケン・リュウ『生まれ変わり』

ケン・リュウの第3弾日本オリジナル短編集
第1弾はケン・リュウ『紙の動物園』 - logical cypher scape2
で、これが第3弾ということは、第2弾を自分は読んでない
ケン・リュウについて、これはこっちの勝手な思い込みかもしれないけど、最初の短編集が出た時の紹介のされ方が、あんまりSFSFしてないふうの作家というような雰囲気だった気がするんだけど、実際読んでみると、宇宙、異星人、AI、アップロード知性といったSFど真ん中を扱った作品が多い気がする。
それから、政治的観点、特にこの作品集では南北問題を扱った作品が多いのも特徴的


ビザンチン・エンパシー」は名作。世界で今まさに起きている問題をさらにSF的に(しかし至近未来で実際にありそうな形で)アップデートした作品。VR、暗号通貨、百合SFといったキャッチーな要素もあり。
「ペレの住民」「カルタゴの薔薇」「神々は~」三部作、「ホモ・フローシエンシス」あたり、SFアイデア的に面白かったし好き
「闇に響くこだま」や「隠娘」は、中国を舞台にしたアクションもので、単純に楽しい
絵的にいいのは「揺り籠からの特報:隠遁者──マサチューセッツ海での四十八時間」
「ランニング・シューズ」はなかなか衝撃的な作品
ベタで分かりやすいけど、ショートショートとして面白いのは「悪疫」

生まれ変わり
介護士
ランニング・シューズ
化学調味料ゴーレム
ホモ・フローレシエンシス
訪問者
悪疫
生きている本の起源に関する、短くて不確かだが本当の話
ペレの住民
揺り籠からの特報:隠遁者──マサチューセッツ海での四十八時間
七度の誕生日
数えられるもの
カルタゴの薔薇
神々は鎖に繋がれてはいない
神々は殺されはしない
神々は犬死にはしない
闇に響くこだま
ゴースト・デイズ
隠娘(いんじょう)
ビザンチン・エンパシー

生まれ変わり (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

生まれ変わり (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)


生まれ変わり

地球にやってきたトウニン人は、犯罪をした時、その記憶を消して「生まれ変わ」ることで社会に戻ってくる
人格の中から悪いところを切り出してしまえばよい、という考え方をしていて、人格の同一性の捉え方が地球人類と全く異なる
トウニン人は地球での地球人との共存をはかっているが、ある種の支配でもあって、人類の中にレジスタンス活動をしている者たちもいる
地球人でありながら、トウニン人のパートナーを持つ特別捜査官が、テロ事件の捜査を開始する
実は記憶が消えているが、捜査官自身こそがテロリストで、という話
記憶と自己同一性の関係、支配・被支配、異種間の愛と色々なテーマが重なり合っている作品
なお、トウニン人に対する人称代名詞「かの女」の「か」に半濁点の゜がついている。これは原文で、she/herの代わりにthie/thirというオリジナルの代名詞が使われているため、とのこと

介護士

介護用ロボット、実は自律型じゃなくて遠隔操作型でオペレータがいたっていうネタ自体は他作品でも見たことあるけど、そのオペレータというのが、不法移民だったという話
(ロボットを使えば不法移民を雇う必要がありませんという売り文句で販売されてるんだけど、結局不法移民を搾取してるという話)
これはわりとハッピーエンド

ランニング・シューズ

こちらも南北問題を扱った作品で、かなりブラックというか
靴工場で過酷な労働を強いられている少女が、その靴になってしまうという話
これはそもそも人間が靴になってしまうという時点で、え? となる作品なのだが、ラストも物悲しいというか

化学調味料ゴーレム

星間旅行中の少女に、突然神がささやきかけてくる
曰く、この宇宙船にはネズミが乗っており、このまま目的の星に到着するとその星の環境が危ない。ついては、ゴーレムを作ってこのネズミを駆除せよ、ということを言ってくる。
少女は少女で、それに真剣に取り組みはじめるのだが、もともと、興味のあるものにはどこまでものめり込み、そうでないものにはからきしの彼女は、例えばユダヤ人になることにもこだわりを見せ、神に対して、安息日についての議論をふっかけてしまう
(神がゴーレムを作るためにこうせよ、というと、安息日だからやっちゃいけないのでは、といい、神は、これは例外になるんだ、とか宇宙だからまだ安息日になってないんだ、とか言わなきゃいけなくなる、神なのに!w)
という、ユーモアたっぷりの作品で、最初から最後までほんわかとした気持ちで読める

ホモ・フローレシエンシス

インドネシアで1人現地調査を始めた鳥類学専攻の大学院生は、さっそく現地の密売人にカモられそうになったところを、謎の女性に助けられる。彼女も研究者なのだが、アカポスを得られず、今では現地の密売人と海外からきた研究者の間をとりもつコーディネーター的なことをやっている。
で、2人がその密売人から手に入れた骨の中に、まだ新しいホモ・フローレシエンシスの頭骨が紛れ込んでいた。2人は、調査の末、インドネシアの離れ小島にひっそりと生き残っている「彼ら」を発見してしまう。
「彼ら」について報告をすべきなのか、それともこのまま人類の目から隠し続けておくべきなのか。
むしろ、その選択は「彼ら」自身にゆだねようという終わり方になっている。

訪問者

大量の地球外探査機が地球に訪れる。しかし、それらの目的や正体はいっさい不明のまま、地球人はその存在になれていった。
主人公の恋人は、法学部を卒業した後、法律相談的な業務の中で、難民とは認められない難民の少女と出会う。家族の借金をかたに売春婦にさせられ、カンボジアからいくつかの国を経由しながらアメリカまで売られてきたが、政治的・民族的迫害があるわけではなく、また、自由意志でやっているかのようにさせられている。
一方、主人公は、探査機の正体を探るネット上のコミュニティに属していて、ふと、探査機の正体を巡る謎と、恋人が直面してしまった問題とを、両方を解決できるのではないかという策を思いつく。
誰かに見られていると、悪いことができなくなるのではないか、というような話

悪疫

かつて地球は悪疫に襲われ、一部の富裕層がドームへと逃げ込み生き延びた。ドーム外に残された多くの人は亡くなったが、一部は、悪疫と共存して生きるようになった。皮膚が変質し、見た目もコミュニケーションの取り方も変わってしまった。
ドームの住人で、ドーム外に生きている人たちを助けようとドームの外へやってきた男と、ドーム外のコミュニティで生きる少女の視点が交互に描かれるショートショート
男の方からは、姿も醜く、知能も低下したように見えるのだが、少女視点で見ると、ちゃんと人間的な生活を送っているよね、という話で、「文明人」が「野蛮人」を救おうとする野蛮さ、みたいな話

生きている本の起源に関する、短くて不確かだが本当の話

本の未来史を短くまとめたような作品
本を書くプログラムが開発されて、内容がどんどん変化していくような本になっていったみたいな話

ペレの住民

地球から27.8光年離れた惑星ペレへとやってきた科学者・技術者たちが、あるものを発見する。
太陽系外に生命を発見するという点で、オーソドックスな宇宙SFだが、150人ほどの科学者・技術者が一斉に入植する点や、そのメンバー選出に当たって国際政治的なバランスがとられた点など、ちょっと『レッド・マーズ』シリーズを思わせるようなところがある(短編なので、あんなゴリゴリした感じにならないけど)
27光年離れているので、地球とは完全に一方通行で、到着した人々は(分かってやってきたとはいえ)精神的ショックを受ける。また、地球(アメリカ本国)からは、その時々の政治的状況を反映した指示が来たりする。
惑星ペレは、生命の気配が全くない惑星だったが、結晶が実は生命なのではないかという話になる。
もしかして、結晶が実はコンピュータになっていてっていう話か? と最初思ったのだが、そうではなくて、むしろ、クレイワールド仮説みたいな話だった。結晶が複製子になっているという話。ペレの場合、さらにそれが円形してて、気候にあわせててころころ転がってて、それが淘汰につながっているみたいな話だった。
それを発見した研究者が、政治的ごり押しでメンバー入りさせられていた人で、というふうに繋がる。
(米中対立がどんどん激化している世界っぽい。中国から中華系もメンバーに入れろと言われて、生まれや育ち的には事実上アメリカ人なんだけど、香港に移住した中華系の科学者を入れることで双方妥協した、みたいな話になってる)


揺り籠からの特報:隠遁者──マサチューセッツ海での四十八時間

人類が地球だけでなく周辺の惑星にも生息圏を広げた未来、地球は温暖化により、かなり広範囲が水没してしまっている。若い頃に財を築いたエイサは、隠遁者としてかつてのボストン周辺で暮らしている。
彼女の元を訪れたジャーナリスト(?)が書き手となって、彼女の言葉を紹介していく記事風の作品
温暖化して水没したあとの世界にも美しさがある、みたいなことを、エイサは延々と言ってる。
水没したハーバード大学(観光地化している)が出てくる。珊瑚礁ができてたりする。

七度の誕生日

7歳、49歳、343歳、2401歳、16807歳、117649歳、82万3543歳、はるか遠く未来の8節に分かれている
主人公は、人格のアップロードに成功していて、彼女の世代以降、人類は超長寿化している。
地球温暖化を解決した母、人間の心をアップロードする研究をしたわたし、より多くの生命を救うべく多くの惑星をテラフォーミングした娘、と親子そろって、すごいこと成し遂げてるんだけど。

数えられるもの

高機能自閉症の主人公が数学の無限論と出会う
彼にとって、人間たちの感情的なふるまいは非合理なものであるが、そこになんとか法則性を見いだして生き延びようとしている。しかし、彼の義理の父親は、いつ不機嫌になるか分からず、相性が悪い
人間の行動の合理性(レイショナル)・不合理性(イレイショナル)と、数学における有理数(レイショナル)・無理数(イレイショナル)の話とがなんとなく重ね合わされていく(?)

カルタゴの薔薇

学業優秀で、それでいて生活力がなく旅好きの妹と、頭はよかったものの保守的で、早々に実家の果樹園を継いだ姉
姉の視点で語られる妹の物語
人格のアップロード技術の黎明期を描いたような作品
妹はめちゃくちゃ天才で、AIコンサル会社に入ったあと、人格のアップロード技術を実現するために、自分の脳の破壊的スキャンを実行する
で、失敗してしまったので、姉の方はテクノロジー全般を忌避するようになる。


人格のアップロード、SFあるあるネタだけど、実際に実現するまでには色々と失敗ありそうだよなーと。

神々は鎖に繋がれてはいない

神々は殺されはしない

神々は犬死にはしない

神々三部作
カルタゴの薔薇」と同様、人格のアップロード技術黎明期の話(話自体は「カルタゴの薔薇」の続きものではない)
日本語タイトルは、「ない」ですべて揃えてあるが、英語タイトルを見ると、最後の「犬死にはしない」だけは完了形になっていた。
なお、アポカリプステーマのアンソロジーに3年連続でそれぞれ掲載されていたっぽい
ある日、マディという少女のもとに、ID不明のチャットが入る。絵文字だけを用いたそのチャットは、亡くなった父親としていたのと同じだった。
彼女の父親は、病気で若くして亡くなったのだが、それまで天才的な      として働いていた。会社は、彼の直観をどうにかしてアルゴリズムに取り込みたいと考えており、彼が病気で亡くなる直前、脳の破壊的スキャンを実行した。
当初、人格と関わらないような部分だけを復元したのだが、彼の能力の再現をすすめるうちに、人格に関わる部分も復元してしまう。結果として、コンピュータ上に再現されてしまった彼が、娘の端末にアクセスしてきたのである。しかし、言語中枢の復元はされていなかったので、絵文字でしかコンタクトがとれない。
この父親だけでなく、様々な企業や政府によって密かに、天才とされる人たちのアップロードが進められていた。そうした人たちはみな、意に沿わぬ形でアップロードされてしまっており、中には人類への憎しみを抱いている者もいた。
また、元々天才だったわけだが、ネットワークでつながれたコンピュータの計算能力を手に入れ、アップロードされた人々=ポストヒューマンは、人類社会に大きな影響を与えることのできる能力を手に入れていった。
反人間派の急先鋒であるチャンダは、マディの父親と鋭く対立しながら、人類社会の戦争の芽を着々とまいていった。
「殺されはしない」では、世界中で状況が悪化し、アメリカもインフラを保てなくなり、アポカリプス的状況が訪れる。マディーは父親とともに、どうにかチャンダを食い止める方法を探そうとする。
「犬死にはしない」では、マディーのAIの妹ミストが登場。身体への未練が弱点ともなっていた父親世代と異なり、生まれた時から身体を持たないミストだが、そのことが人間とポストヒューマンの共存への希望となる。

闇に響くこだま

清の上海に訪れた米軍人の主人公は、太平天国の指導者で古武術の達人という“飛翔する蝙蝠”と出会う。盲目の彼は、音によって敵の位置を知る技術を持っていた。
主人公は、この武人の技術に興奮を覚える

ゴースト・デイズ

鋤の形をした古い硬貨が、1905年、1989年、2313年と受け継がれていく様を描く
話としては、まず2313年の地球とは異なる惑星から始まる。そこに植民した地球人は、地球とは異なる環境のその星に適応するため、その惑星の生物をもとに次世代を生み出し、彼らにもう戻ることが叶わない地球の文明・文化を教育する
なので、最初は、宇宙ものかと思うのだが(いや実際宇宙ものではあるのだが)、続いて1989年のアメリカ、1905年の香港と舞台が移り変わっていく。それぞれ、アメリカに不法移民としてやってきた中国人家庭の子、英国統治下の香港で暮らす中国人を主人公としている。
文化の継承についての話

隠娘(いんじょう)

唐末が舞台
『唐宋伝記集』に収録されている唐代の物語を元ネタとした作品らしい
将軍の娘が、謎の尼僧にその才能を見いだされ、暗殺者として育てられることになる。しかし、初めての任務で殺すことになった男について、彼を殺すことでより一層の戦乱が起きてしまうことを知り、師匠を裏切る
この尼僧と主人公、及び主人公の姉弟子たちは、異次元空間を移動することができる能力を有していて、それを用いてバトルする。
「よい狩りを」という台詞だけ出てくる

ビザンチン・エンパシー

寄付金・慈善活動を、世界に数多ある戦地・被災地・貧困等のどこに振り向けるべきか
アメリカ留学経験があり、昼はプログラマー、夜はビットコイン採掘者として生きるジェンウンは、世界中から忘れられている中国・ミャンマー国境地帯の難民を救う術はないかと考え、ブロックチェーンを使った寄付システム、エンパシウムを開発する。
何を必要としているかは、現地の当事者こそが一番わかっているという考え(それは彼女が学生時代に四川地震にボランティアとして行って何も役立てなかった経験からもきている)から、寄付者の寄付金が直接当事者に使われるようなシステムだ
一方、ジェンウンと大学時代の友人であるソフィアは、国務省を経て国境なき難民救済事務所の事務局長となっていた。彼女は、少額の寄付を行う層が、事務所からエンパシウムへと流れていることとその対策について、テクノロジーについて無知な理事たちに説明しなければならなかった。
寄付・慈善事業の決定について、共感を重視するジェンウンと、理性を重視するソフィアという対立がある。

共感を基準にお金をまくだけでは問題は解決できない。場合によっては、事態をより悪くしてしまうかもしれない。戦争の要因、その土地のもつ背景などコンテクストを読み解いた上で、寄付の投下先を決めるべきだ、とソフィアは考えている。結果的に、無視してしまうことになる悲劇があったとしても。
ソフィアは、ジェンウンのエンパシウムをうまく利用して、その決定権を自分たちの手に奪取しようとする。
一方、ジェンウンは、自身がVRコンテンツによって、件の難民へ共感し、この計画を実行したわけだが、その後、世界各地でVRコンテンツを配信することで、世界の共感を集めようとする手法が相次いでいく。VRはただのプロパガンダと化し、世界を席巻していく。注目を集めることになったことで、逆に新たな戦争の火種となってしまうことがあることが示唆されて終わる。
VRブロックチェーンという実在するテクノロジーと、難民問題・慈善活動を巡る共感と理性の問題という、これまた現実にある問題とを結び付けてみせることで、今はまだ来ていない、しかし来るかもしれない近未来の状況を描いてみせる。
未来への警鐘、というSFが持っている役割の1つを、鮮やかに行ってみせている。
一方、物語的には、ジェンウンとソフィアの、志としては似ているが手法が異なっている者のすれ違いを描くものともなっている。この2人をそれぞれ語り手としたパートを最後に交互に挟むことによって、感情の人のように見えるジェンウンが実は理性的な語りで、理性の人のように見えるソフィアが感情的な語りをしているという対比があり、また、お互いに相手に対して抱いているイメージもきれいにすれ違っている。

リアルサイズ古生物図鑑 イベント編



最終日に駆け込みで
アノマロカリスディメトロドン見れてよかった


新宿マルイアネックス1階が会場だったのだが、同じく1階にはゴジラ・ストアやテニプリのショップなどもあり、入った瞬間、「あれ、結構オタクっぽいぞw」と思ったのだがw
しかしまあ、やはり会場が新宿マルイなので、おそらく普段は決して古生物にそれほど興味を持っていないであろう層も覗いていて、なかなかよい感じだったのではないかと思う。




グッズ類が想像以上に豊富で、特にぬいぐるみの多さには驚いた。今回のイベント限定らしいのだが。
ダンクレオステウスのグッズ自体は、フィギュア等を見かけるが、こんな可愛らしいデザインで、しかもぬいぐるみになっているのは初めて見た気がする
古生代の生物、アノマロカリスあたりまでだとこの手のグッズこれまでもあったかな、という気はするのだが、マレッラだのウィワクシアだのオットイアだの、オパビニアなんて2色展開だし、すごくない?!
あと、イクチオステガとアクトンステガもそれぞれぬいぐるみになってた
自分はクリアファイルとか買いました。

津原泰水『11eleven』

11編の短編を収録した作品集
筆者の、1999年から2010年までに発表された短編を集めている。
ちょっとホラーっぽいというか、幽霊や怪奇現象がでてくるわけではないが、ちょっと恐ろしい、ちょっと不気味、ちょっと不思議なところを描いている作品が多いというか。
「五色の舟」も面白いが、やはり「土の枕」かなあ。多分、自分が初めて読んだ津原作品が「土の枕」ですごく面白かったという記憶があるのだけど、改めて読んでも面白かった。
「微笑面・改」「キリノ」「クラーケン」「テルミン嬢」も、それぞれ方向性が違う作品で、それぞれ面白かった。
ちなみに、この本は河出から出ているけれど、各作品の初出掲載誌を見ていると『小説すばる』が多い(短編集の発行元と初出の発行元が違ったりするのはよくあることだが)


下にあらすじを一応まとめていったが、なんともあらすじのまとめにくい話が多く、また、あらすじにしてしまうとなんとも面白さの伝えにくい作品が多いなあという感じで、難しい

五色の舟

戦中、見世物芸人の家族が「くだん」を買いに行く
家族といっても血のつながりはなくて、身体に障害があって一座を組んでいる。
で、実はこの「くだん」が本物で、先に軍が接収しているんだけど、彼らの面倒をみてくれている医者経由で会うことができる。
「くだん」はパラレルワールドから来ていて、敗戦間近の今、軍の上層部は他の世界線へと逃げようとしている。
この作品、舞台が広島の近く

初出:2010年(『NOVA2』)

延長コード

家出先で亡くなってしまった娘について、話を聞くためにその家出先に訪れた父親
過去に一度読んだことあるが、最後の延長コードをひたすらつなげていくシーンの印象が強すぎて、そもそも、娘の父親が云々というところを忘れていた。

初出:2007年(『小説すばる』)

追ってくる少年

かつて住んでいた実家の近くの家の少年に、とつぜん声をかけられて逃げ出してしまったところから始まって、両親と叔母の話などが展開されて、短いながら内容が詰まっている話


初出:2006年(『小説すばる』)

微笑面・改

ある彫刻家が、元妻である絹子の顔が夜空に浮かんで見えるようになる。それが次第に近づいてくる話
学生時代に出会って、自分の芸術のミューズ的存在として絹子と結婚し、渡欧した主人公だったが、作品を作ることができない日々が続き、互いにストレスがたまっていたある日、些細な食い違いがきっかけで彼は絹子の顔にガストーチを向けてしまう。その後、離婚し、会うことはなくなっていた。
空中に見る絹子の顔は、幻のようなものなのだが、次第に近づいてきて、ついに手を伸ばしたら触れるような距離にもなる(他の女性を抱く時に、ちょうど絹子の顔が見える位置にその女性の顔が来るようにする、などということもやっている)。
さらに近づいてきた絹子の顔はついに主人公の顔と接触し、めり込み、激痛をもたらす。
最初は、生霊みたいなもんなのか、という感じなんだけど、触れるってあたりからこれは一体何なんだってなっていて、最終的に主人公に激痛をもたらすものになるというのがなんか面白かった。
現在と過去が交互に語られる構成


初出:書き下ろし(『悪夢が嗤う瞬間』(1997)に収録された「微笑面」をもとに全面書き直した作品)

琥珀みがき

田舎の工場で働いていたノリコが、上司のお使い的な感じで首都へ行くのだが、そのまま首都で暮らすようになる
名前がノリコなので日本人だろうというの分かるのだけど、東京ではなく首都という言葉を使っているところだったり、最初の書き出しの雰囲気に、日本ではないのかな、現代ではないのかなという雰囲気が漂うんだけど、読み進めてみると、まあやっぱり現代の日本が舞台になっているっぽいなとなる。
物語的には、田舎で働いていた女性が都会に憧れて都会で暮らすようになって、くらいの話なんだけど、上記のように、文章に異化効果のようなものがあるのか、という感じがする


初出:2005年

キリノ

語り手の饒舌な語りが延々と連なる作品で、紙面もほとんど改行なく詰まっている。
クラスメイトのキリノという女性がどういう女性なのかを延々と語っている
男の子の、言い訳まじりのちょっと支離滅裂な、しかしなんだか、分かる分かると言いたくなるような語りがなかなか魅力

あとがき見たら、桐野夏生特集に掲載された作品だとあって、そういうことだったの、みたいになったけど


初出:2005年(『小説新潮別冊桐野夏生スペシャル』)

思春期の少女が、友人に誘われてプチ家出する話
家出先が、近くにある邸宅で、家主が死んで無人になっているという噂。行ってみると、友人だけでなく知らない少年が2人いて、数あわせに誘われたのだと気付くが、とりあえずそのまま邸宅に侵入する
で、まあ、実はそこが幽霊屋敷的なところだったっぽいという話で

初出:1999年(『小説non』)

クラーケン

大型犬を飼っている女性の話
クラーケンは、その犬の名前。4代、同じ犬種の犬を飼っており、みなクラーケンという同じ名前をつけている。
犬を飼うきっかけになった、動物保護施設みたいなところの少女との謎の主従関係とか、別居していた夫が戻ってきて云々するところとか、ちょくちょく不気味な話で、そもそも犬の名前がクラーケンってなんだよって話なんだけど


初出:2007年(『小説すばる』)

YYとその身幹(むくろ)

YYという知人の女性の話。YYは既婚者なんだけど、酒飲んだあとにトレイでやったっつう話のあとに、YYが殺されたという話になり、元夫が会いに来てトイレの話聞かれて、その後、その夫が逮捕されたのがニュースになってっていう話
初出:2005年(『ユリイカ』)

テルミン

掲載誌が『SFが読みたい!』だったこともあり、ほぼ唯一SFな作品
互いに決して触らず、立つ位置関係(左右)も必ず決まっていて、鏡ごしに話す夫婦が出てくるんだけど、一体何なのだと読み進めていくと、妻の方が、ある種の脳波が出ている人に近づくと自動的にアリアを歌い始めてしまうという特殊体質の持ち主で、この特殊体質を巡る話になっている


初出:2010年(『SFが読みたい!』

土の枕

戦時中、地主の息子が何を思ったか、小作人のかわりに出兵する。名前や身分などをすべてそっくり入れ替えてしまう。
で、戦後、戻ってくると、小作人の方は、地主に成り代わる気がないことを示すために、他の土地に行って別人として生活しているのだが、地主の親の方は、成り代わられると困るからということで、息子は死んだということにしてしまう。その結果、元の名前・身分に戻ることができなくなって、そのままその小作人として生活していく。
彼もその人生を受け入れて生きていくのだが、死の間際に、自分は実は……と名乗るのだけど、もうそれの証拠になるような記録は何一つ残っていないので、誰にも通じない。
というわけで、これ初めて読んだときから、かなり面白い話だなと思ってて、やはり面白かった。
大森望が年刊SF傑作選に入れていて(日下三蔵・大森望編『超弦領域』 - logical cypher scape2)、それ以外に、戦争文学のアンソロジーみたいのにも収録されたらしい


初出:2008年(『小説すばる』)

倉谷滋『進化する形 進化発生学入門』

あ、これ、サブタイトル「入門」だったんだ。入門ではない、おそらく。
新書とは思えない密度で内容が詰まっている本である。
筆者自らあとがきで倉谷滋『形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ』 - logical cypher scape2の続編だと述べている。
この本では後半において、ボディプラン(動物門)が如何にして進化してきたのか、についての筆者の仮説が展開されている。
決して分かりやすい本ではない。
それはこの本がゲーテから形態学史を紐解く、ともすると衒学的とみられかねないような本だからか、あるいは、まだ仮説段階の考えを検討しながら書かれている本だからか
そういった面によって読みにくくなっている可能性は否定しないが、そもそも、扱おうとしている現象自体がそう簡単に掴ませてくれないようなものだからだろう。
すぱっと分かりやすく示してくれる本ではないが、それは、説明しようとしている現象が、すぱっと分かりやすいものではないのだ。


この本に書かれている内容について、論理をうまく追い切れていない部分もわりとある(内容が専門的だからとかとは別に、結構道に迷う。それは既に述べた通り、説明しようとしている現象自体が難しいせいだろうとは思う)。
また、そもそもこの分野について、全然知識がない(というか上述した筆者の前著くらいでしか知らない)ので、妥当性とかは判断できないけれども、面白いことは面白い本だったのは間違いない。


例えば、三中信宏『分類思考の世界』 - logical cypher scape2キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』 - logical cypher scape2を読むと、生物に対して系統と分類というふたつのアプローチがあって、身も蓋もなくまとめてしまえば、系統は実在しているけれど、分類というのは実在しているわけではなく、人間がそのように認識してしまうだけなのではないかと考えたくなる。
本書は、系統や分類の本ではないし、分類というのが、人間側の認識によるものであること自体もおそらくは認める立場にあるろう。
しかし、じゃあ何で人間はそうやって認識してしまうのか、といえば、それはやはり生物(自然)の側にも原因はあるのである。
生物の発生には、発生拘束というクセがあって、要するに、あんまりに突拍子もない形は生まれないようになっている。
人間は、その「クセ」を認識しているのである。


さて、この本は形態学と進化発生学の本なので、上述の話は、分類の話ではなく、原型論や反復説と絡めて論じられる。
原型論や反復説は誤りである。誤りではあるが、なんでそのような考え方をするようになったのかにはちゃんとした理由がある。
また、原型論や反復説は決して過去のものではなく、現在の進化発生学においても同様の発想が入り込んでくることが指摘されている。
原型論はそもそも進化論以前の考えであり、原型は決して祖先を意味しているわけではないが、いわゆる単純な生物から複雑な生物へと進化していったと考えてしまう時、原型論的なものの考え方は再び顔を出す。


作者は、多様なボディプラン――ここでは動物門とほぼ同義だが――が、単純な形態の祖先から漸進的に進化することによって、生み出されてきたとは考えない。
ここで作者が重視するのは「深層の相同性」である。
「相同性」という概念が、非常にややこしいというか、こんなに複雑なものだとは思わなかった。
「相同」と「相似」自体は、高校の生物でも習う概念であり、わりとみんな知っているような気になる概念なのだが、それがどのように正当化されているのか、というのは案外と難しい。
いちおう、相同というのは進化において祖先が同じ種同士で、位置づけが同じ器官のことであり、相似というのは、機能的には似ているけれど系統的にはつながりのない、他人の空似器官のことである。
ところが、相同という概念自体は、進化論以前の原型論から由来するものでもあって、原型論と進化論があわさって、現代的な相同の概念が生まれてきたのである。
そして、ホメオボックス遺伝子の発見などにより、進化発生学が勃興すると、これが分子レベルで根拠をもっていたことが分かっている。
ところがところが、である。
相同は確かに進化において祖先から受け継がれたものであり、それがある種、原型論的な考え方を生み出した根拠ともなるのだが、細胞レベルで見ていくと、単純に、実は原型論も正しかったという話ではない。形態的相同性と細胞レベルの相同性にズレが生じるという現象が起きているのである。
つまり、同じ細胞型を使っていながら、形態的には全く異なるという生物群があるわけである。
ボディプランの進化の説明は、形態の相同性と「深層の相同性」のズレという現象をうまく説明できるものでなければならないのである。
これに対して、90年前に提唱されたが忘れられていた「アルシャラクシス理論」を、それが説明できるものとして筆者は挙げている。


この世界には、多様なボディプラン=動物門が存在している。
筆者は、こうした多様性が、微小な変化の漸進的な蓄積のみで形成されてきた、というライエル・ダーウィン的な考え方について、不信を抱いている。
既に、ある程度のパーツを揃えた状態で、そのパーツを並べるパターンを組み替えるような変化が起きることで、ボディプランの変化は生じる、と論じている。
また同時にそれは、ヘッケル的な過形成(発生プロセスの末端に新しい形質が付加されていく、という進化プロセス)ではなく、アルシャラクシス(発生の初期過程に変異が生じること)なのだ、としている。
なんとなくだが、過形成と漸進的進化が、ほぼ同義的なものとして扱われていて、過形成を否定することによって同時に漸進的進化も否定しているのかな、と思われる。なお、ここでいう否定というのは、全面的な否定ではなく、あくまでもボディプランの進化に関しては、過形成や漸進的進化ではできない、ということであって、多くの進化が漸進的なものであることは筆者も認めている。だからこれは、普通の進化とは別に大進化みたいなものがあって、それは進化プロセスが異なるのだ、という考えでもある。
ただ、筆者が考えるボディプラン進化においても、変異があって淘汰されていく、というダーウィン的プロセス自体は、もちろん生じる。
変異のランダムさについての違い、というものを示そうとしているのかな、という気がする。
つまり、突然変異によって生じるランダムな変異の中から淘汰が起きるのではなくて、既にある程度モジュール化されたパーツの組み合わせの中から生じる変異なのだ、と
筆者はこれを、量子レベルの偶然ではなく、麻雀レベルの偶然、という比喩で言い表そうとしている。


で、これは、エピジェネティック・ランドスケープで、ボールが転がる地形が変わることであって、単にゲノムの変異というだけでなく、発生に関わる遺伝子のネットワークや細胞の配置など発生システムの変化なのであるともいう。


1980~90年代にかけて、発生学と進化学の総合による、進化発生学という分野が生まれている。
これは、進化の総合説において、進化から切り離されてしまった発生を、進化と総合しようという試みである。
森元良太・田中泉吏『生物学の哲学入門』 - logical cypher scape2でも、発生システム全体の変化が進化であるという、発生システム論の考え方(上述のランドスケープ、カナリゼーションとも関係している)が紹介されており、これが、従来的な総合説における、進化とは遺伝子の頻度の変化であるという考え方と異なるものであると紹介されている。
進化発生学は、従来の総合説を完全に否定するものではないが、概念の変化をもたらすものであるとしている。


それから、本書は、生物史の中における具体的な時代やタイムスケールへの言及は、あまりしていないように思えるが、動物門の話なので、カンブリア大爆発の頃に相当する話題だろう。
で、カンブリア大爆発の進化の話として、宮田隆『分子からみた生物進化』 - logical cypher scape2もちょっと面白いことが書いてある。
形態の多様性が増えた時期と、遺伝子の多様性が増えた時期とがズレているという話で、カンブリア紀には遺伝子の多様性は増えていなくて、それより遡る時代に遺伝子の多様性は生じている。この本は、分子進化学の話で、全然発生の話はしておらず、分子レベルの中立進化と形態レベルの適応進化とをどのように架橋するか、というテーマの本である。
ただ、ここでそれを架橋するキーは、遺伝子の使い回しにあるのではないか、という仮説を述べている。
遺伝子の使い回しは、本書における深層の相同性ともかかわってくる話である。カンブリア紀大爆発に対して、遺伝子の多様性が増えた時期がズレていることというのは、ちょっと関わっているような気がする。
また、遺伝子と形態とを結びつけるのが、発生であるのも間違いない。
進化と発生を切り離してしまうと、遺伝と進化の間がブラックボックスになってしまう、というのは『生物学の哲学入門』で指摘されていた点。
倉谷が、漸進的進化ではボディプランの進化は説明できないという時、「遺伝子が突然変異して新たな形質が生まれました」という説明だと、間にある発生がぶっ飛ばされてしまっていて、説明になってないっていう話なのかもしれない
(ただ、やはり、微小な変化だけではボディプランの多様性は生じないだろう、とも書いているので、ランダムさの程度の違いや、発生プロセスについての説明を欠いているからというだけではなく、やはり漸進性それ自体を否定しているようではある)

第1章 原型論的形態学の限界
第2章 形態学的相同性
第3章 分類体系をなぞる胚
第4章 進化を繰り返す胚
第5章 反復を超えて
第6章 進化するボディプラン:アロモルフォーゼ
終章 試論と展望

進化する形 進化発生学入門 (講談社現代新書)

進化する形 進化発生学入門 (講談社現代新書)

第1章 原型論的形態学の限界

たとえば、なぜ我々の体は大まかに左右相称なのかと問うてみよう。(中略)同様な疑問には、「なぜ陸上脊椎動物には二対の脚しかないのか」「なぜ昆虫の歩脚は六本にきまっているのか」などがある。どれもが動物の形の本質を問うものであって、しかもその理由が明瞭ではない。本書で扱うのは、こういった問題群なのである。
(pp.22-23)

このような問いに対して、分かりやすく答えてくれるような説明はいまだない、と

  • どの動物にも、その分類学的位置を反映するようなある種の型=ボディプランがある
  • 動物の体を作り上げる「部品」は、常に特定の「型」に属している(相同性)

というふたつの法則が指摘される
そして、ボディプランというのが、進化論以前の形態学者の間で論じられていた「原型」という概念と結びついている、と。
また、現代の進化生物学でいう「発生拘束」という概念ともかかわっている。


原型は、ある種の理念であり、想像の産物であり、形態学者がたくさんの生物を観察する中で見いだしてきたパターン
これに対して、祖先というのは、過去に実在した存在
原型論は、進化論に対して直接何か説明を与えるようなものではない
原型=祖先というわけではない。
しかし、生物の発生には「クセ」のようなものがあり、進化を通じて、ある程度発生の在り方は固定されてきた=発生拘束
人間(形態学者)はこの「クセ」を読み取って、「原型」を見いだしたのだろう、と
一方、進化というのは連続的な変化の過程なので、どこかから突然「哺乳類」となるわけではない。
ないのだが、ひとたび哺乳類らしさとなる特徴が生み出されると、これらは容易に変更されなくなる(発生拘束)
進化の果てに生じた安定性からくる共通性、これが原型なのではないか、と
ただ、この共通性というものを洗い出すと、共通祖先の姿になるのではないか、という考え方自体は、現在の進化生物学の中にも残っている、とも。

第2章 形態学的相同性

現代の生物学において、相同は進化の結果によって生じる器官や構造の同一性(極端に言えば、相同性はつねに共有派生形質)
しかし、判断の難しいケースがある
イモムシの疣脚は、広義の付属肢であるが、実は「祖先をもたない」(共通祖先において腹部の付属肢は失われている)
だが、発生学的には、歩脚と疣脚は同じ機構によって生じる
ゲノムの中に温存されていたために、再獲得することができたもので、形態としては進化の過程で一度失われてしまったのだけど、遺伝子レベルでは残されていた。
これは、いわゆる「相同性」ではないが、「深層の相同性」と呼ぶ。


ところで、相同性という概念は、もともとは進化論以前に生まれた概念
ジョフロワやオーウェンによって最初定義された
原型というのは、形態学的相同性の集合ともいえ、原型と相同性は実は表裏一体
また、ジョフロワによる相同性の考え方は、現在の比較形態学者が、何と何か相同か判定するための便利な基準として今でも使われている

第3章 分類体系をなぞる胚

原型論と胚発生
この章では、ヘッケルとともに反復説の唱道者と呼ばれるベーア
胚発生において、初期と後期は形態のヴァリエーションが多く、中期に少なくなるというベーア的理解を砂時計モデルと呼ぶ
咽頭胚期に、脊椎動物のボディプランが完成する
ベーアは、胚発生において現れるボディプランを反映するパターンを主型と呼ぶ。原型が観念であったのに対し、これは具体的なパターンデアrう
そして、この共有された胚形態は、現代の進化発生学においても重要
この時期に、多くの器官原基に「極性」や「位置価」が与えられる
相対的位置関係は、発生学的機構が発動するための「かなめ」
これにより、進化的に保存された特定のパターンができあがり、相同性が判定される基準となる
では、これは担っている遺伝子はあるのか
→ホックス遺伝子群
1994年、ドゥニ・ドゥブール=ホックス遺伝子の発現が最も明瞭となるのが咽頭胚期であること、それがベーアのいう主型と一致することを指摘し、主型を「ファイロタイプ」と呼び直した。
ファイロタイプ=動物門(ファイラム)に共通する型
キュヴィエやベーアの「型」を現代的に言い直すと、「動物門を定義する発生的な型」となる
進化発生学の幕開けとなり、20世紀から21世紀にかけて、原型論的思考がもたらされることになる(ゲーテ的な原型が遺伝子に書き込まれているといったふうに)


なぜファイロタイプのような発生段階があるのか
遺伝子レベルでそのような保守性があるのか
入江直樹による、大規模な解析が行われていたりするが、まだ原因がはっきりわかっているわけではない。

第4章 進化を繰り返す胚

原型的なパターンとは、つまるところ進化の中で特定のタクソンに共有される一過的な発生拘束、あるいはその背景にある安定的な発生機構でしかない。この事実が認識されなかったところに、原型論や構造論の誤謬の発端がある。それは同時に、形態学的考察と進化的事実の混同でもある。p.125

「形態的同一性の概念群」は、単に人間が発明した恣意的な抽象化や形式化などではなく、むしろ遺伝子レベルの「お定まりの発生プログラムの使いまわし」が、人間の形態学的パターン認識の仕方を有限個のレパートリーに分類・形式化させてきたと見たほうがよい。p.128


ベーアの法則:形態学的特徴の出現する序列が、分類体系の階層的系列をなぞること
これが進化と結びつくと、発生は進化を繰り返すというヘッケルの反復説となるが、ベーアは進化を否定するキュビエに心酔しており、そのような考え方をとらなかった
ベーアとヘッケルの考えは、非常によく似ているが、発生過程を分類の階層体系と結びつけるか、進化の系統樹と結びつけるか、という世界観のレベルでは大きく異なっていた
また、両者は、ファイロタイプをどれくらい重要視するか、という点でも異なる
ベーアは、ファイロタイプを最も本質的なものとみなした
ヘッケルにとって、ファイロタイプも発生の段階の一つで、相対的な重要性


「発生負荷」について
脊椎動物の成体にとって「脊索」は不要だが、発生段階では必要。正しい時期、正しい位置に脊索がないといけない。脊索はのちの発生プロセスに「責任を負っている」=発生負荷
発生負荷が、原型的なパターンをもたらす
では、あらゆる器官が発生負荷をもっているのか
しかし、それだと進化は起きない。実際に、進化(変化)が生じているので、変化しやすい部分と変化しにく部分がある(モジュール性
初期胚であればあるほど重要、と考えたくなるが、発生学的にはファイロタイプ段階が重要視される砂時計モデルが現実的

第5章 反復を超えて

進化と発生を重ね合わせる反復説だけでは、説明がつかないことがある
ヘッケルもそれは分かっていて、例えば、時系列が異なってしまう例外事象を「ヘテロクロニー」と呼んだ
また、進化によって新規形質が加わることを「終末付加」とした
発生段階の最後に新しい形質が付け加えられるという考えで、これはまた、上等生物と下等生物の違いという考えとも相性がよい(祖先からの差が多い=発生力がある=上等生物)


筆者は、これまでそれほど重要視されてこなかった、アレクセイ・ゼヴェルツォッフが提唱した「アルシャラクシス」理論を、ボディプラン生成を説明する理論として見いだしていく
アルシャラクシスとは、ゼヴェルツォッフが、新規形質が加わる方法の一つとして考えたもので、発生の初期で、大きな変化が生じることをさす

ゼヴェルツォッフの考えたような系統的認識は、系統特異拘束の起源を、進化的変化の系列として理解する一助ともなる。それは、相同性というものが一つの保守性でしかないことをよく示し、しかもそれが系統分岐とともに多様化することをも説明する。が、(中略)アルシャラクシス理路を認めたうえでボディプランの進化機構を理解しようとすれば、それが複雑な発生ネットワークの組み替えや、その組み替えを可能にするゲノムの変化を通じてでしかあり得ないことも予想される。それは言うまでもなく、極めてむずかしい複雑な現象である。p.177

ゼヴェルツォッフに言わせれば、「局所的な原型もまた進化する」。したがって、複数の異なった原型は、祖先にまで遡ればたしかに共通のパターンに至る。しかし。その変化のパターンが分岐であるがゆえに、分かれてしまった原型同士はすでに重ね合わせることができなくなってしまっている。p.177

つまり、ジョフロワのように、エビをひっくり返せば脊椎動物と同じパターンになるんだ、みたいな話はできなくて、オーウェン的な最大公約数的な原動物みたいなものも作れんよ、と

第6章 進化するボディプラン:アロモルフォーゼ

アロモルフォーゼ=大きな分類群を定義するボディプランそれ自体が変化すること

発生プログラムの何らかの変更によって従来の発生拘束がキャンセルされ、新しいパターンを創成するような不連続なイベントが起こらなければ、真に新しい形質、つまり進化的新規形質は得られない。「アゴ」という共通のパターンを保持したまま、さまざまな摂食機能に適応したさまざまな形のアゴが多様化することと、アゴそのものが獲得されることは、まったく別の進化イベントなのだ。p.189


反ヘッケル的現象として、「椎式の変化」が紹介される
椎式=頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎といったそれぞれのタイプの椎骨がいくつ並んでいるか
「椎骨の形態的相同性の原因は、その原基に発言する遺伝子の相同性に遡る(p.203)」
「何番目の椎骨原基にどのホックス遺伝子が発現するかという、椎式の決定にダイレクトにかかわる発生プロセスは、咽頭胚期ではなくむしろ軸形成期(p.204)」
「遺伝子発現の場所まで考えると、咽頭胚期は必ずしも、期待されるほど系統間で似てはいない(p.205)」

すでに述べたようにホックス・コードをシフトさせようと思ったら、何らかの初期発生過程に働くホックス遺伝制御システムを変更するしかないことになるからだ。これはヘッケルの考えたような終末付加や、後期発生過程の変更では決してできない芸当である。
そしてそれこそが、ゼヴェルツォッフの提唱したアルシャラクシスに他ならない。つまり、椎式というボディプラン要素を変化させようと思ったら、ファイロタイプ期をはるかに遡り、祖先型の初期発生プロセスとパターンを変えてしまうしかないのだ。そして、それ以降の発生過程では、そういった変化はもう起こらず、起こすこともできなくなる。すなわち、ボディプランを変更するチャンスは、発生の初期段階にしかない。(p.207)

終章 試論と展望

ロマン主義的ボディプラン幻想」:ゲーテからオーウェンダーウィンを経てヘッケルへ至る、動物の多様性の深層に原型があり、首尾一貫した相同関係の基盤となっている、という考えで、おそらく、進化発生学の第一期(90年代半ば頃)にもこの幻想が共有されていた


ボディプランのアイデンティティと細胞型のアイデンティティが進化の中で半ば乖離している
古典形態学では、部品が同一ならば(相同関係があるなら)、全体(ボディプラン=原型)も同一であるという考えが堅固にあったが、そうではなく、部品と全体のアイデンティティは乖離している

新しいボディプランを伴った大型の子孫動物を作り出すためには、遺伝子の重複や使い回しを積極的に行い、特定の細胞型を特定の場所に必ず分化させることができるような、新しい発生プログラムの構築に励む必要があったに違いない。(p.237)
(中略)
出来合いの規格品を多用し、かつ、いつでも使える状態にあるゲノムから出発したほうが進化は速く進む。(p.238)

小型のプランクトンが過形成を複数回起こしたのではなく、そのような比較的大型の動物がアルシャラクシスを起こしたのではないか。
(p.238)

実際、左右相称動物の間で、細胞レベルの相同性が発見されている。
(クラゲなどの刺胞動物との相同性も)
細胞型や器官系に相同性が見られ、ツールキット遺伝子群が残っている。体全体のパターンだけが大きな変化を経験し、一方で細胞型のモジュールには保守性が見られる


細胞型と解剖学的パターンの間に乖離が見られる

・相同的な遺伝子が、古典的な意味での非相同的な形質を作り出す
・相同的な形態パターンの下部構造に、非相同的な現象(遺伝子発現、発生機構)が見出される。
・相同的な細胞型が、異なったボディプランの構築に用いられる。
(p.252)


こうした乖離を生じさせる現象の一つが「コ・オプション」
例)甲虫の角、ショウジョウバエの複眼のマスターコントロール遺伝子
原基を作り出す遺伝子セットを、他の場所で発現させると、角や目が生じる
同じ遺伝子セットが、進化の過程の中で何度も使い回されている(深層の相同性)


コ・オプションは、見かけの類似性や深層の相同性しか生み出さないが、アルシャラクシスは、真の相同物(共有派生形質としての相同物)を生み出す
脊椎動物節足動物では、ボディプランが大きく異なり、背と腹の位置関係が逆。ジョフロワは、背腹反転によって、この両者を一致させようとした。
20世紀終盤、脊椎動物節足動物で、背腹決定機構に、同じ遺伝子群が使われていることが判明。ジョフロワの背腹反転的な考え方が、にわかに息を吹き返す。
当初、この背腹反転はコ・オプションだと考えられた。つまり、元々持っていた遺伝子群の二次的な利用。
しかし、そうだとすると、これらの遺伝子群はもともと別の発生に用いられたということになるが、そのような発生現象は見当たらない。

ボディプランの多様化機構を考えるところに来た。最初に私の結論を言っておくと、おそらくいったんできあがった複雑な体制の動物がそのままの形に留まることはなく、アルシャラクシスの過程を経て、別のボディプランを持つ別の動物門を創り出していったというシナリオが、現在、見るいくつかの動物門の多様性を最もよく説明すると思われる。(p.269)

刺胞動物以前の時代では、それぞれの異なったボディプランに共通する規格品としての器官系のようなものは存在せず、その動物にしかないような細胞型が多く存在するように見える。(中略)後生動物の中で「刺胞動物+左右相称動物」に共通する細胞型が極めて多く、そこには相同な規格モジュールが多く存在する一方で、それ以前に分岐した原始的な系統では、そのような規格品が確立しているようには見えないのだ。(p.272)

これにさらに追い打ちをかけたのが、三胚葉の確立
→細胞型など部品の相同性を保持したまま、ボディプランだけが進化することは可能=実際の進化は原型論を受け付けない、よりダイナミックなもの

可能な仮説は、「小型で単純な祖先動物からの過形成に始まる適応放散」ではなく、むしろ、「最初から高度な体制を持った動物において、その初期発生過程が変更されることにより、新しいボディプランがもたらされた」とする非ヘッケル的過程、すなわちアルシャラクシス理論のみが当てはまる。またその副産物として我々は、「ボディプランを共有しない相同性」も認めないわけにはゆかなくなる。(p.276)

ボディプランが「漸進的な変化」とか「微小な変化の積み重ね」として進化してきたのではなく、むしろラディカルなモジュールの繋ぎ替えによって進行してきた可能性を考えていゆく。それは基本的にはパターン上の変化であり、深層における個々のモジュールそれ自体の相同性は、しばしば保存されている。つまり、小さな単位が保存されていても、大局的な解剖学的構築は進化しうるということだ。(p.281)

ここで筆者は、ライエル・ダーウィン的な、わずかな変化でも長時間蓄積すれば大きな変化になるというような説明の仕方への不信感をあらわにしている、
微小な変化の蓄積のみで進化を説明しようとする考え方では、ボディプランの多様性を説明できない。ヘッケル的な過形成のような進化しか認めないのであれば、ボディプランはひとつあれば事足りてしまう(が実際にはそうはなっていない)


ボディプランの進化は、発生パターンの進化である
この進化プロセスについて、発生システム浮動やエピジェネティック・ランドスケープとキャナライズによって説明していく
エピジェネティック・ランドスケープというのは、エディントンが提唱した、発生過程を示した地形図のこと
進化とは、この谷を深堀りして、安定化させていく過程
これには、ゲノムの変異だけでなく、胚の中での細胞の配置などの要因も含むので、「エピジェネティック」・ランドスケープ
1つのゲノムから作りえる表現型については、一定の幅の中で揺らぎや変異がある。これを「応答規準」と呼ぶ

表現型を介して選択が進行するとき、それによって選ばれるのは特定のゲノムであり、同時にそのひとつのゲノムは、ある幅を持った表現型のセット、つまり応答規準と結びついている。したがって、特定の対立遺伝子が生き残るチャンスはひとつの固定した表現型によるのではなく、むしろ表現型の潜在的可能性と、それを選び出すさまざまな環境条件に依存していることになる。(p.307)

一.キャナライズされた安定な発生プロセスであるらこそ、同時にそれはカタストロフィックな変化をも呼び込む可能性を持つ
二.さまざまな要因により発生パターンが大きな擾乱に晒されるが、それによって生じる揺らぎは決してランダムでも均一でもない。むしろ、不均一なシフトに帰結する。そして、
三.偶発的にできた有意義な細胞型や組織の組み合わせが、淘汰の篩にかかり、すみやかに安定していゆく可能性がある。
(p.308)


進化の過程でボディプランが変わる場合
ランドスケープが、相同性を維持するための許容度をこえる擾乱を受ける
ランドスケープを転がるボールの目的地自体が変わる。樹状の発生経路の分岐地点に変化が起きる。
→新しい経路はまだ安定していない。一方で、細胞型や器官を形成する遺伝子モジュール自体はゲノムに存在しているので、半ば自動的に、細胞の分化が起きる
→ボディプランが大きく変更され、器官の配置は祖先とは異なるものになるが、相同の器官が発生する


ボディプランが大きく変動しても、器官などが発生するのは、祖先がもっていたレパートリーを使い回せるから
逆に言えば、ボディプランが変わるときに、部品も含めて一から作り直しになっていたとしたら、「気の遠くなるほどの偶然が必要となり、我々はいまでも形態的多様性の乏しい生物の世界に住んでいたに違いない(p.328)」


カンブリア紀をさかのぼる時代に、多細胞体制となり様々な細胞型があらわれる。この時代の細胞型はカスタム品で、使い回しはなかった
クラゲの祖先が現れた頃、状況が変わり、遺伝子制御ネットワークと細胞型が結びつき、発生プログラムがあらわれ、単純なエピジェネティック・ランドスケープができる
さらに、左右相称動物が生まれ、三胚葉や極性が形成されると、ランドスケープが複雑化し、キャナライズされ、動かしやすい部分と動かしにくい部分が生じていく
動かしやすい部分は、過形成によって適応放散的な進化をするが、それは新しい動物門の創出にはつながらない
ランドスケープの動かしがたい部分は、アルシャラクシスによってのみ変更され、それによって新たな動物門が生まれたが、それでも変わらない部分が様々な細胞型や器官のレパートリーとして残る
上流の遺伝子群は、動物門を越えて大きな負荷を追うようになり「ツールキット遺伝子群」と呼ばれるものとなっていく

追記

1万字ほど書いているが、要約なのでかなり省略してしまっている部分も多い。
この本の論理の追いにくさは、どの議論がどこに効いていて、どこには効いていないのかが、ちょっと把握しにくいからかもしれない。
というか、要約してみて、筋が見えてきた部分と、つながりが分からなくなってしまった部分の両方があって、省略した部分が後者に効いている可能性はあるんだけど、ちょっと今は分からない。


何がわかりにくいのかというと、原型論を批判しつつも、どうして原型論的な考え方が生まれたのかを考えると、それを支えるような事実もある、という点だと思う。
原型論にも、キュビエ的な原型論と、ジョフロワ・オーウェン的な原型論がある。
キュビエは、ボディプランを4つあげてそれ以上は統一できないと考えた。一方、後者はそれらもすべて統一しようとした(ジョフロワの背腹反転、オーウェンの原動物)
本書は、わりと一貫して後者のような型の統一を批判している。しているんだけども、しかし、進化という意味では祖先がいるわけで、原動物を批判しつつ、でも、原動物的なアプローチでの祖先動物の探求を紹介してたりもしている。
深層の相同性とか、細胞型の相同性とかもわかりにくいところ。
ジョフロワやオーウェンが考えたような、形態的な相同性を組み合わせて、すべての動物を統一的に理解できるような原型はない、という点では批判は一貫している。
しかし、遺伝子とか細胞とかのレベルで見ると、動物門の違いを超えて、祖先動物から受け継いでいる相同性はある。
だから、原型はないんだけど、相同性はある、という話になっている。


生物史を見たときに、途中までは、単純なものから複雑なものへ進化しているけど、ある程度以上複雑なものは既にできた複雑なものからしか進化しなくて、複雑なものから複雑なものへの進化において、微小な変化ではなく、一気にガラリと変わるような変化があるみたいな話なのかもしれない。
(クラゲみたいな動物までは、単純なプランクトンみたいな生物から進化しうる。しかし、それ以上複雑な動物は、アルシャラクシスによって進化する)
ただ、タイムスケールがあまりよくわからないし、全然グールドとかには言及しないので、それがいわゆる進化パターンにおける大進化とか断続平衡とか言われるものと対応するような話なのかはよくわからない。というか、その論点とは中立的で、結びつける必然性はないのか。
発生プロセスがガラリと変わるという意味で、微少な変異ではなく大きい変異があるという話で、それと動物門の数の激増が対応しているかどうかはまた別の話だ。
で、微少な変異ではなく、あまりに大きな変異が起こると、普通死ぬでしょって話なんだけど、これに対して、まあ実際ほとんどは死んだのではないかって筆者も述べてるんだけど、それでも現在あるくらいの多様な動物門は事実生じているでしょと。
で、これは、もうある程度個々のパーツ(細胞とか器官とか)は完成した上で、それの配置を組み替えるような変異なので、そこに生き延びる可能性があるし、微少な変異をランダムに繰り返すよりは確率が高くなるだろう(完全ランダムより試行回数は減らせる)という話なのかな。
門が変わるほどの大きな変異なんだけど、発生システム上何らかの拘束は働いているので、あんまり無茶な変異になるわけでもない(天使(腕と翼がある)のような動物は生まれない)から、その点でも分は悪くない賭けだろう、と。

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

公開されるや否や、「俺たちの見たかったゴジラが!」みたいな感想が次々と流れてきた本作品だが、自分も見終わったときにはオタクスマイル全開でしばらくの間ニヤニヤが止まらなかったw
正直、自分は子供の頃に平成ゴジラ(vsシリーズ)を見ていた程度で、昭和もミレニアムも未見だし、全然詳しくないんだけども、それでもやはり興奮しますね、これはw


ちなみに、前作は見てるが、キングコングは見てない。
『ゴジラ』 - logical cypher scape2


ゴジラとムートーがサンフランシスコで激闘してから5年
世間は、対怪獣機関であるモナークへの懐疑を深めていたが、一方で、モナークは世界各地に怪獣が眠っているのを見つけ、監視・隔離・研究を進めていた。
ある日、中国雲南省で眠りについていたモスラの卵がふ化する。そこに環境テロリスト集団が現れ、モナークの研究者であるエマ、エマの娘であるマディソンを誘拐していく。
エマは、音波によって怪獣に呼びかけることのできる装置=オルカの開発に成功していたのだが、オルカを奪ったテロリストたちは、各地の怪獣隔離スポットを襲撃し、怪獣を目覚めさせていく。
モナークの対応は後手に回り、南極で目覚めた怪獣、モンスターゼロ=キングギドラを倒すためには、ゴジラの力が必要なんだーという話になってくる。
最終的には、ゴジラモスラvsキングギドララドンという構図で戦うことになる。


エマとエマの元夫であるマークは、5年前のサンフランシスコで息子を亡くしており、それがきっかけで二人は別れた。オルカは元々はマークの発明。
マークはゴジラを憎みモナークを離れたが、エマはモナークに残り研究を続けた。
で、エマは実は、テロリストに誘拐された被害者じゃなくて、むしろ首謀者。
人類は地球にとって病原菌、怪獣の手によって、地球の秩序を取り戻さなきゃいけない、と考えている
本作に出てくる登場人物の中で、イカれた人物No.1なのは間違いない。
が、正直、本作に出てくる登場人物は、大体みんなイカれてるw


あらすじを説明するのがだんだん面倒になってきたので、あとは、感情にまかせて感想を書いていくことにする


怪獣出てくるの早い!
一番最初に出てくるの、モスラの幼虫だが、とにかく登場が早かった、気がする
幼虫モスラ、だいぶ怖い顔だなー
っていうか、近い近い
モスラのシーンに限らず、怪獣登場シーンほぼすべてに言えるのだけど、モナークの人たちは怪獣との距離感がおかしい
突然、怪獣が登場しちゃって、否応なしに接近してしまう、というのはあるんだけど、怪獣同士の格闘をめちゃくちゃ至近距離から見てる。そんな近くいたら死ぬ、死ぬって思いながら見てた(実際一人死んだ)
いやー、ラドンが出てくる島だと、火山がごーって言った瞬間には住民のみなさんダッシュしてるんだけど、例えば、南極でキングギドラゴジラが戦う時、キングギドラに目の前の氷床をバシンって叩かれてから、ようやく逃げ出したからね、モナークの人たち


タイウィン!
タイウィン・ラニスターじゃないか!
テロリスト集団のボスを演じるのは、ゲーム・オブ・スローンズでタイウィン・ラニスターを演じていたチャールズ・ダンス
見ている最中、そこまで確信なくて「この人、たぶんタイウィンだよな?」くらいの度合いで見てたんだけど、それでもついこの間ゲースロ見ていた身としてはテンション上がるし、タイウィンがテロリストのボスなのよすぎるでしょ


オスプレイから降りてくる芹沢博士(渡辺謙)がかっこよかった


モナークは、アルゴという全翼機を司令船として利用しているのだけど、内部にオスプレイを少なくとも3台は格納でき、空中で発進させることができる代物で、戦闘機と併走できる速度でるわ、南極からカリブ海まで飛行できるわで、ほんと、アルゴすごい
モナーク側の主要登場人物は、大体みんなアルゴに乗って移動する。時々、オスプレイに乗る。


地球空洞説!!
ゴジラがとてつもない速度で移動できるのは、地球内部の空洞を利用しているから!!
モナークの中で一番常識人(皮肉屋ポジション)っぽいムーブしてる人が、いきなり地球空洞説とか繰り出してくるのずるいw


イスラ・なんとか島って言われると、ジュラシック・パークかなって思っちゃう


オキシジェン・デストロイヤー!
この世界では、芹沢博士が作ったわけではなくて、米軍が作った秘密兵器
ゴジラキングギドラをまとめて倒すつもりが、キングギドラには効かず、ゴジラだけ倒しちゃったテヘペロ


っていうか、三枝未希だろ!
モナークの中に、中国系のアイリーン・チェン博士という、神話を研究して怪獣について調べている人が出てくる。
彼女は、実は双子であり、さらに先祖代々双子でもあることが明かされ、「小美人」であることが示されているのだけど、でも三枝未希だと思う
ショートカットなところも似ているし、なんか次第に「歌を歌ってるみたい」とかよくわからんこと言い出すし


モスラのうた!
頭の中で「モスラーヤモスラー」って歌っちゃうw
さすがに歌詞覚えてないけど「カサクヤーン」は覚えてた
ゴジラのテーマも、いわゆる「ゴジラ ゴジラ ゴジラメカゴジラ」って奴だけじゃなくて、平成の「ダーン、ダダダダダーンダーン」って奴も使われていて、テンションあがる


キングギドラの雷全体攻撃!!
怪獣のベストショット、モスラの羽化シーンか、キングギドラの雷全体攻撃シーンか、みたいなところありますね
というか、昔持ってたスーファミゴジラの格ゲーで、キングギドラの超必殺技がこれだった記憶があるんだけど、それ思い出して笑ってしまったw


海中神殿!!
ゴジラの彫像とか並んでるとこ、笑うんですけどw
完全にゴジラ教の宗教施設


モスラの鱗粉でゴジラ復活、あれ平成シリーズにもあったよね?


とにかく、怪獣格闘シーン多くてすごかった
オルカで操ることができる以外は、基本、人間は指くわえて見てるだけで
オルカで簡単に操れすぎでは? とはちょっと思ったけど


あと、マディソンがいいんすよ、マディソンが
彼女は、母親とずっと暮らしていて、母親からの思想的影響は強いものの、とはいえ、母親が常軌を逸しているのにも気づいていて、最終的に、オルカを奪って逃走するんだけど
しかし、やっぱりあの母にしてこの娘あり、みたいなところはあって(怪獣見るとめっちゃ喜ぶし)
最後、キングギドラをボストンのスタジアムに呼び寄せたあと(最終バトルの地にスタジアムが選ばれるのガメラっぽい)、遅れてゴジラが登場したとき、ニヤって笑う。このにんまり笑顔が最高で、また、平成ガメラシリーズのヒロインを彷彿とさせるところでもある。


最後の最後で、キングギドラの首出てきたとき、しぶといなと思ったら、ゴジラが噛みちぎってたのやばかったすね


エンドロールおわったあとのシーン
タイウィン・ラニスターがキングギドラの首を買ってるとこみて、思わずガッツポーズしたw
次回作、メカキングギドラ決定じゃん!!

書き忘れてたこと

般若心経!

『ぼくらの七日間戦争』

2017年11月頃に見た時の感想なのだけど、ブログには書かず、今は亡きGoogle+に書いていてそのままになっていたもの。
この度、アニメ映画版のトレイラーが公開され、話題になっていたので、過去ログからサルベージしてきた。
7dayswar.jp

ぼくらの七日間戦争

ぼくらの七日間戦争


元々、姉が映画・原作ともに好きで、ビデオと小説を持っていたので、自分もそれを見たり読んだりしていた。
どこまで読んだか忘れてしまったけど、高校生編の途中くらいまでは読んでいる気がする。
ところで、宗田理って、90歳を過ぎて今なお新作書いているんですね、すげぇ

20171104

Amazonプライムビデオをうろうろしていたときに『ぼくらの七日間戦争』を見つけてしまい、思わず見てしまった(飛ばし飛ばしでだけど)
1988年の映画だが、姉が好きでビデオを持っていたため、子どもの頃に繰り返し見ていた作品だったので、今見ても結構セリフとか覚えていたw


さて、レビュー欄に「左翼映画」というコメントがあったので、左翼映画かどうかという点から、ちょっと感想を書いてみる(?)
まあ、あながち間違いではないのだけど、必ずしもそうは言えないというか、今見ても、なかなか面白い作品だった。
ぼくらの七日間戦争』というのは、80年代の厳しい管理教育を批判した作品で、中学生が集団で家出して廃工場に立てこもる、という作品である。
何故左翼かというと、原作では、主人公たちの親が全共闘世代で、特に主人公の1人である相原の両親は実際に全共闘に参加していた経歴をもち、相原は自分たちの行動を全共闘的な用語や概念を持ち込んでいるのである。さらに、「俺たちの親って若い頃はかっこよかったんだな」などというようなセリフも確かあって、全共闘を肯定するような感じで描かれている。
すわ、元学生運動世代による自己正当化小説かと思いそうなところだが、作者の宗田理というのは、1928年生まれで、本人自身は全然全共闘世代ではない。というか、主人公達の親どころから下手すると祖父世代にあたるくらいの人だったりする。
ぼくらシリーズ全体を見てみると、この作品は一貫して、大人たちの欺瞞を子どもたちが痛快に暴くということをコンセプトにしていて、何というか、ジャンルとしては義賊ものに近いのではないだろうかという気がする。宗田から見ると、全共闘も、左翼運動というよりはそれに類するものに見えていたのではないか
既存の枠組に対する抵抗、ということ自体を「左翼的」だと見なすなら、左翼的な作品かもしれないし、また、宗田自身の価値観としても、いわゆる「左翼」的な面はあるとは思うのだけど、言う程左翼か、とは思う。


さて、これは前置きで、映画の話に移ると
そもそもこれ、角川映画なのである。
全共闘という言葉はもちろん出てこないし、痛快娯楽作品として作られているのは一目瞭然である。
というか、今の視点から見ると、往時のバラエティーTV番組のノリすら感じるのである。
この映画の見どころは、子どもたちが立てこもる廃工場に、教師や機動隊が乗り込んでくるが、それを子どもたちが仕掛けたトラップによって撃退するシーンである。
工場内にジャングルジムのようなものを設置し、子どもたちはそこをすいすいとくぐり抜け、大人たちはそれに行く手を阻まれる。ロケット花火をびゅんびゅん飛ばして攻撃する。さらには、落とし穴があって落ちると泥水が待っている。
落とし穴が泥水のくだりは、まんまウルトラクイズだし、なんというかこう、90年代バラエティっぽさを感じてしまうトラップなのである。
なんか、いかにも昔のテレビ局が作ってそうだなーなんて感想を持ったのだが、実際は東宝で、テレビ局は全然関わっていなかった。
これ、東宝なのか! という衝撃があったけどw
考えてみれば、これ88年の作品で、多分フジテレビとかが映画作り始めるの90年代以降なんだよな、多分(それに、フジテレビが作ってる映画は、TVドラマの延長であって、バラエティ番組っぽくはないか)。
さらにすごいのは、何故か戦車が出てくるところであるw
これ、作品のWikipediaとか読んでも、何故廃工場の地下に戦車があったのか作中では全く説明されていない、などと書かれており、確かに作品内で戦車が登場する合理的な説明はない。もちろん、原作にも出てこない。まあ、機動隊がやってくる口実にはなるんだけど。
何で戦車が出てくるかというと、どうも『戦国自衛隊』の際に作った戦車らしい。Wikipediaによると、当時、結構色々な角川作品に出てたらしい、この戦車w
「せっかく戦車作ったし、出しましょうよ」「いいねー」みたいなノリを感じるw
映画版『ぼくらの七日間戦争』の面白さは、明らかにこういうところにある。
原作からしてすでに言う程左翼ではないだろうとは思うものの、原作に左翼っぽさを感じてしまうのは無理からぬところである。しかし、映画版は完全にそのあたり換骨奪胎されてしまっているのではないかな、という気がする。


そして、もうひとつ
絶対に触れなければならないポイントがある。
宮沢りえが、超絶かわいい!
この作品が宮沢りえが出ているのは、子ども時代に見ていた時から知っていたけど、今改めて見ると、とかく、宮沢りえのためのアイドル映画だったことがよく分かる。
角川ってやたら薬師丸ひろ子作品作ってるけど、そういう系譜なんだろうね、きっと。知らんけど。
昔のアイドルで今見てもかわいい人ってのは、確かに結構いるものなんだけど、ただ一方で、さすがに現在から見ると昔風になってしまったーって思える人もやっぱりいるもので、そこからいくと、宮沢りえはやばい
2010年代でも全然いけるでしょ、この子、みたいな垢抜け方をしている。
この作品、もう1人のヒロインである純子役の子も、かわいいといえばかわいいんだけど、こっちはさすがに、昔の女の子だなという風になってしまっている(髪型が80年代すぎる。マドンナ的先生役の賀来千香子も同様)。
宮沢りえがこんなに可愛かったとはなー
無論、当時の自分も、宮沢りえがとても人気のある女優であることは認識していたけれど、さすがにまだ小学校の低学年だったから