『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
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(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)


(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

公開直後からSNSで絶賛の嵐となり、それを受けて見に行った人もまた絶賛する流れとなっており、そりゃ見に行くしかないなと思って見に行ったら、全く評判に違わずめちゃくちゃ面白かった
自分は『ゲゲゲの鬼太郎』についていうと、子どもの頃にTVアニメ見てたくらいで、水木しげるの原作は未読(いや、1,2年前に1冊だけ読んだかな)。6期も、放映当時に3、4話くらいまでは見てたのだけど、結局そのまま見そびれている感じ。
なので、鬼太郎については、ミリ知らではないものの、通り一遍のことしか知らない程度。だからこそ、本作も当初はわりとスルー気味だった。
なお、本作を見ることを決めた後に、6期についてYoutubeで無料公開されている話があったのでそれだけ見てみたら、水木や目玉になるまえの目玉おやじが登場していて「伏線っっ」となったw
周知の通り、昭和31年を舞台にした、鬼太郎の父親と水木という青年の話なので、鬼太郎そのものについてそれほど知らなくても楽しめるものになっていると思う。
非常に丁寧に作られていることは1回見ただけでも感じられたが、他の人の感想を検索していると「X回目見たら、○○だということに気付いた」みたいな感想も多く見られて、複数回見ることでより楽しめる作品なのは間違いないだろうが、複数回見に行く予定はたてられないので、1回見た範囲での感想を書く。


あらすじ
本作は、まず現代で鬼太郎と猫娘、そして鬼太郎を追うジャーナリストが、とある廃村を訪れるところから始まる。この現代のシーンが最初と最後にあって、枠物語的な構造になっている。
昭和31年、とある村の有力者、龍賀家の当主である時貞が亡くなるところから始まる。
帝国血液銀行に勤める「水木」は、自分の取引先である龍賀製薬の社長、克典が龍賀家の跡目を継ぐと見越して、単身、村へと向かう。
しかし、いざ遺言状が開封されると、当主の座は、克典ではなく、長らく人前に姿を現してこなかった長男の時麿へ継ぐ、という内容であった。
さらに翌日には、その時麿が左目を貫かれて殺されてしまう。
その容疑者として、村長の長田が捕まえてきたのは、白髪で片目を隠した怪しい余所者の男であった。
水木とその男(ゲゲ郎)は、それぞれ、この村に来たのには理由があった。
水木は、戦争中に不死にもなると謳われ、戦後も企業戦士向けに密かに卸されている龍賀製薬の活力剤「M」の正体を探りに、ゲゲ郎は、数年前に行方不明となった妻を探しに来ていたのだった。
東京に連れ出してほしいと水木にすがる、克典の娘である沙代、病弱だが未来に夢を見る少年・時弥、禁忌の島を訪れて廃人となった孝三、まだ子どものねずみ男*1も出てくる。


最後の狂骨が時弥くんだったところで泣いてしまったんだけど、それとともに木澤佐登志『闇の精神史』 - logical cypher scape2を思い出していた。
いや、内容的には全然関係ないのだけれど、『闇の精神史』で「近代の夢をサルベージする」ことの意味が、少なくともあの本を読むだけでは、「文化史・科学史的に面白いねー」以上には分からなくてモヤモヤしていたところがあるんだけど、本作は、全然別の形で「近代の夢をサルベージ」しようとする作品だったな、と。
さて、本作は俗に「因習村もの」というジャンルとして受け取られている。
自分はホラー・ミステリー関係には疎く、横溝正史は原作も映像作品も未履修であるため、「因習村」ジャンル理解自体が不十分*2なのだが、おそらく「因習村」の「因習」というのは基本的に前近代の陰惨な風習のことを指すのだろう。
一方、ゲ謎について自分の感想として「徹頭徹尾、近代の中での話だったな」というのがある。
龍賀家自体は古くから続く家系なのだろうし、描かれる風習の中には、前近代からのもの(例えば近親相姦)があることは窺えるが、しかし、本作がその物語の根幹に置くのは、「M」という薬を巡るあれこれで、これは、時貞が始めたものと考えていいだろう。
龍賀製薬とMの始まりは、日清・日露からであり、そこから第二次大戦にいたるまでの、大日本帝国を裏から支えてきたテクノロジーとして描かれている。
Mのもとになっているのは、確かに幽霊族の血であり、そこは伝奇的・超自然的要素なのだが、それを薬にするためには、人間の血もまた必要で、その血液採取をする場所が「工場」と呼ばれていることからも分かる通り、龍賀家の製薬事業は、近代的なテクノロジーにより成り立っている。
龍賀家の長女たる乙米の言葉と、水木が戦争中に南方で上官から言われた言葉とがともに「大義」という点で重ね合わせられているが、いずれも富国強兵という日本の近代化を支えるイデオロギーであった。そしてこれが、戦後の高度経済成長にも敷衍されている。
「強い国家」とそこから得られる果実を享受することを、ある種の「ユートピア」と見立てることができるだろう。しかし、そのユートピアは著しい犠牲の上に成り立っており、得られた果実も一部の強者が理不尽にも独占する格好になっている。
本作のターゲットであり、水木が打ち倒そうとするものは、前近代の因習ではなく、あくまでもそうした近代化の歪みなのである。
ところで、一方で近代化はただ醜悪なだけではない。
水木とゲゲ郎は、時弥に対して、世界一の電波塔やあらゆる病気が治る医学の発展について語る。こうしたバラ色の未来もまた、近代がもたらすはずだったユートピアには違いない(時弥が「日本が世界一になるなんてすごいや」と素朴に語る時、しかしそれは「強い国家」イデオロギーと一直線につながっている)。
そして、そんなユートピアは訪れなかったことを21世紀に生きる我々は知っている。最後の狂骨であった時弥に対してわびる目玉のおやじもまた、そのことを知っている。
水木は、酒池肉林の夢により誘いをかける時貞の言葉を「つまらないな」と一蹴する。そう、時貞はあまりにも陳腐な悪役である。自らの欲望を求めるだけの小者だ。しかし、彼のテクノロジーが日清・日露における日本の勝利や、戦後の高度経済成長に一役買っていたとするならば、そのことによって豊かになることができた人たちもまたいることになる。時貞は、自らの魂を時弥の身体に乗り移らせて不老不死になろうとする。これまた、非常に典型的な悪役ムーブであり、唾棄するのはたやすい。しかし、あらゆる病気が治るユートピアを夢見ることと、不老不死への夢とのあいだに、どれほどの懸隔があるだろうか。
時弥が夢見るユートピアと、歪みをもたらす「大義」や欲望とは、表裏一体の関係にある。
時貞が絵に描いたような下衆キャラだったから、水木は「つまらないな」と一蹴できたけれど、時弥が夢見るユートピアを示された場合に、あの水木はちゃんと拒めるのだろうか、ということは思った。
本作について、本来の水木イズムとは異なるという指摘もいくつか見かけた。自分は原作未読なので、本来の水木イズムが何なのかはちょっとよく分からないけれど、そのあたりは関係してくるかもしれないな、と少し思う(ユートピア願望自体を捨て去るのがニヒリズムだろう。ゲ謎はしかし必ずしもそういう観点には立たなかったのではないだろうか、と)。
さて、「大義」や欲望に巻き取られることなくユートピアを達成することはできるのだろうか。
むしろ、現実には「大義」や欲望による歪みばかりが大きくなって、肝心のユートピアの達成は程遠くなるばかりだ。
しかし、本作のすごいところは、本作で直接描かれていないところでその方策を示していることだ。我々は、水木が鬼太郎を(おそらく)育てた(のであろう)ことや、その後、鬼太郎と目玉のおやじが人間のために戦い続けてくれたことを知っている。
(というか、鬼太郎が人間を助けてくれるのは水木という青年が助けてくれたから、というのが6期鬼太郎の設定となっているが、「こ、こんなものを背負っていたのか、お前は……!」ってなる)
時弥のことを「忘れない」ことは、おそらく「近代の夢をサルベージする」ことの1つの形なのではないだろうか。
近代の中で近代に抗い続ける物語だったのではないか、と思う。


本作は、鬼太郎作品でありながら、その実、妖怪要素はほとんどなくても成り立つような物語だったのではないか。
(おそらく)「因習村」の因習が前近代のものを指す(のであろう)ことに対して、本作で描かれる業があくまでも近代に属することを指摘した。
前近代的な迷信vs合理的な精神(探偵の推理)というような、今昔の価値観対立の話ではない、ということだ。「因習」と称される時、前近代的なものは迷信であり、打ち払うべきものとなる。
ところで一方、水木しげるに代表される妖怪ものにおける妖怪は、打ち払うべき迷信という扱いではない。むしろ、近代合理主義の中で人々が見失ってしまった「目には見えない大切なもの」とか「自然」とかのメタファーである。
安易にやると「昔はよかった」的なノスタルジーに陥ってしまうことからも分かるように、これはこれで、今昔の価値観対立の図式になっている。
因習ものも妖怪ものも、どちらをよりよいものとして扱うかでは異なるとはいえ、近代と近代それ以前を対比している点では似ている。
自分が子どもだった頃だと、自然環境破壊とかはアニメのテーマとして使われやすくて、妖怪は自然のメタファーとして理解されてきたように思う*3
ただ、本作の場合はどうだったろうか。
確かに、ゲゲ郎を始めとする幽霊族や、彼に協力する妖怪たちは、そうした妖怪イメージと重なるところはある。龍賀による幽霊族狩りは、近代化・工業化による自然や先住民族への搾取として読み取ることは可能ではあるが、しかし、そうしたことを読み取らせようとする意図は希薄だったように感じる。
例えばゲゲ郎の妻は、人間と交わらずに自然の中で生きてそこを無理矢理連れ去られた、というわけではなくて、モダンガールの1人として人間界の中で生活することを選んでいた。
幽霊族全体の描き方は、先住民族的なものを想起させはするのだけど、具体的に描写されるゲゲ郎の夫婦生活の描写からは、《近代=龍賀》が《自然・前近代=妖怪・幽霊族》を踏みにじったというメタファーを読み取るのは難しい。
妖怪もので近代化の歪みを描く場合、少なくとも自分の子ども時代の作品だったら、自然破壊のメタファーとして妖怪を描くのが一般的だったろうなと思うのだが、本作は、そういう方向には行かなかったというのも、一応指摘しておくべきことだと思う。
つまり、「因習」だったり「自然」だったりといった、近代ではないものとの比較を通じて、近代を描いていたわけではなかったという意味で、「徹頭徹尾、近代の中での話だったな」という感想につながる。
そして、最後に救うべきものとして、実際には達成されることのなかった時弥くんの夢を置いた点も、近代の「大義」と欲望の権化である龍賀家を打ち倒すべき敵として描きつつも、かといって脱近代すればok、という話になっていなくて、近代の中で近代に抗う物語だったのではないかな、と思う。


ゴジラ-1.0』(ゴジマイ)との比較
ゴジマイにとって、公開時期がゲ謎と重なってしまったのは不幸だったとしかいいようがないと思う。いやまあ、興行収入に影響を与えないだろうから、ゴジマイ側にとって別にダメージはないんだろうけど。
自分はゴジマイについて、戦後をどう描いているか的な話は気にしなかったというか無視したというか、そういう態度で見ていたし、感想でも極力触れなかったのだが、ゲ謎を見ていると、どうしてもゴジマイと比較せざるをえないシーンとかがいくつかあって、何というか、志の差みたいなものが浮き彫りになってしまったのではないか、と思えてならなかった。
先ほどまで「近代化」とか「近代の歪み」とか、スコープの大きい言葉を使ったが、作中の「水木」の怒りの源泉はあくまでも戦争体験にあって、「大義」とかも太平洋戦争におけるそれではある。ただ、龍賀製薬のMについて、日清・日露から始まって戦後復興期にも使われ続けていることが明言されている以上、本作は、「大義」の問題が、戦中に限定されるものではなくて、日本の近代化全体に通じるものとして想定していたと思う。
そういうところに志の差があるのだけど、まあそれは置いておこう。
決死作戦を命じられたが生きて帰ってきて、戦後の焼け野原と家族が失われていたことに呆然とするという流れが敷島と水木では共通していて、このあたりでゴジマイがどうしても思い浮かんでくる。
その上で、自分の命と引き替えに依り代となる覚悟を決めつつも「未来を見たくなった」ゲゲ郎と「生きて帰ってこいよ」という水木を見ると、ゴジラに特攻作戦をしようとする敷島と緊急脱出装置を説明する橘の描き方の薄さがありありとしてしまって……。
ゴジマイは、バディものではなくてあくまでも敷島個人の内面の物語であるという違いがあり、あまりに敷島個人の内面によりすぎた点を批判する感想も読んだことがあるが、それは好みの問題という点もあるし、敷島が形而上の罪をトラウマとして抱える設定自体は必ずしも悪くなかったとは思う(実際、アメリカではそれが受けているらしいし)。
問題は、それの乗り越え方の契機がどのようにしてだったかということで、個人的には吉岡秀隆演じる「学者」推しだということもあって、「学者」と敷島の関係から作り込んでいってもよかったのではないかと思うのだけど、一方で、確かに橘は重要人物であり、橘が敷島に緊急脱出装置付き震電を与えたっていうのはポイントなんだけど、それにしては結局、橘-敷島の関係の描き方が作り込めてなくない? と思う。つまり、水木とゲゲ郎は互いに少しずつ信頼関係を積み上げていった上で、「生きて帰ってこいよ」「未来を見たくなった」があるけど、敷島と橘の関係については描写の積み上げがなくない? と。そこまでの描写の積み上げという意味では「学者」との間の方が信頼関係があるはずなんだけど、しかし、敷島から学者への矢印がないんだよな。要素の整理が不十分。
それからゴジマイにとって、疑似家族の形成というのは結構重要なモチーフだったと思うのだが、そのあたりの意味づけを描き切れていなかったと思う。対してゲ謎は、疑似家族自体は全くテーマでもモチーフでもないにもかかわらず、水木と鬼太郎の疑似親子関係が後日談として存在しうることを匂わせることで、強烈に意識させることに成功している。
そういえば、「みんなの力を集めて」的なものの使い方も違う。ゴジマイは民間漁船の力でゴジラを引き揚げるという使われ方だけど(そして話全体としてあれは結構チグハグだと思うけど)、ゲ謎のちゃんちゃんこは、水木とゲゲ郎の妻(ひいては鬼太郎)を守るのに使われていて、狂骨との戦いに用いられるわけじゃない、とか。


声優とか
真面目なことを長々と書いたが、見終わった後の最初の感想は「え、石田のポジション、それ?!」だった。
糸目の石田がいることでも話題だったので、登場した瞬間「こいつか!」って笑いそうになってしまったけど、実はラスボスだったということもなく殺されていったので、「石田にしてはあっさり終わったな??」という意味での先の感想になる。
まあ、単に殺されるばっかりではなく、しっかり一矢報いている点で、決してあっさりはしていないんだけど、「石田にしては」みたいなところはある。
沙代さんについて、声優が誰だったか完全に失念してしまっていて、見ている最中ずっと「聞いたことある声なんだけど誰だか思い出せないー」状態で、エンドロールみた瞬間に「種崎敦美!それだ!」感が半端なかった。
なぜだか見ているさいちゅうは「大西沙織じゃないのは分かるんだけど、時々、大西沙織っぽく聞こえる」呪いにかけられていた。
あと、エンドロールでくぎゅの名前出てきて「どこにいたの?!」ってなった。あとで答え合わせしたけど「くぎゅだったのか、全然わからん」というまま


上で石田キャラがあっさり終わったとは言ったが、中盤のアクションシーンは最高だった。
関俊彦vs石田!
石田演じる長田が、ただの村長ではなく、長く幽霊族を借り続けてきた裏鬼道の陰陽師であることが判明し、洋館の屋上でバトルる例のシーン。
屋上というかバルコニーから銃撃ってくる雑魚を、1階の天井から突き破ってゲゲ郎が倒すところが白眉だった。
ゲゲ郎が、フィジカル型のパワーファイターだったのも意外性があり面白かった。
リモコン下駄とちゃんちゃんこは出てくる一方、髪の毛針と妖怪アンテナは出てこないんだけど、そっちは母親譲りということでよいのかな? 鬼太郎は、まだ子どもだからというのもあるかもしれないけれど、膂力で戦うイメージがないし、戦闘方法では母親からの遺伝が強いということになるのだろうか。
というか、鬼太郎に膂力で戦うイメージがないからこそ、見た目は鬼太郎にわりと似ているゲゲ郎が、バルコニーの手すりをめきめきとむしりとってぶん回すシーンが面白いんだろうな。


アクションシーンについては、中盤の関vs石田(言い方)が一番よくできていて、ラストのバトルシーンはアクション面では一段劣るところは確かにある(そういう感想をみかけた)。
「工場」で沙代が「死人」の怨念を集めるところとか、あまりにもアニメ的といえばアニメ的ではある(個人的には、それがよかったとも思うのだけど)。沙代の戦いについていえば、しかし、乙米の目玉抉りとか、水木を首締めとかが見どころとなっていたなあと思う(スプラッタ的な見せ場という意味でもそうだが、ちゃんと意味づけもあるし)。
最後の、時貞戦については、桜のイメージの使い方がうまい。
桜とくればその根元には死体が埋まっているものと決まっているので、その点ではもちろんとして、桜は日本を象徴するような花であり、あるいは「同期の桜」など太平洋戦争とつながるイメージでもある。また、根元に幽霊族が絡め取られているのはいかにも超自然的なイメージにも見えるが、一方で、例えば『マトリックス』の人間発電所的なもの*4も想起させて、幽霊族版の「工場」になっているのだな、ということが理解できる。
時貞のいかにも悪役ムーブとあわせて、絵としての新鮮さはないのだけど、むしろ絵的な「あるある」からちゃんとそのイメージの意味が汲み出せるように作られていたなあと思う。
そういえば、その点でいうと、印象的ではあったけどそのあたりの意味という点ではうまく解釈できていないところに、完全にノックダウンした水木が近景に映っているシーンがある。なんかどことなくエヴァっぽい絵だった(エヴァっぽいとは??)。


あと細かい話
長男・時麿の殺害に続き、次女の丙江、三女の庚子が殺される連続殺人事件なんだけど、丙江さんはちょっとあんまりだな、と
時麿は登場時からインパクトあるキャラだし、庚子は、おどおどしたところから徐々に変遷
していく様が描かれた末の最期だし、ってのに対して、丙江についてはキャラが掘り下げられなかったなーと。沙代の動機も、なんか薄いし。
丙江ってなんというか、捜査攪乱のために殺された人感が……。
何で殺されたのかという動機面でも、どうやって殺したのかというトリック面でも、そういう役割を負わされている感じがある。
ただ、ゲ謎の場合、主人公ズはあくまでもMの秘密&妻が目的で、探偵的役割がないので丙江殺人がなんか浮いたなという気がする。
水木が当初、ゲゲ郎が犯人じゃないことを示す必要があった点でフーダニット要素はあるけど、「話した感じこいつは犯人じゃなさそう」でその点が済まされているし、視聴者視点だと「依り代が~」のくだりがでてきたところで犯人が察せられる演出となっているので、フーダニット的な観点で物語は動かされていない。
ハウダニットについていうと、妖怪出てくる作品だからな、という点でそもそも気にならないし。
作品のフォーマット上の要請という理由だけで殺されてないか、あの人……。


基本的に、世間一般的に、水木とゲゲ郎のバディ関係に注目が集まっていて、実際そういう作品だとは思うけど、個人的に、キャラクターの感情という意味では、長田が気になった。
長田と乙米の関係ももちろんそうだけど、幽霊族へ向ける執念みたいなものも掘り下げたら(オタク的な意味で)面白そうなのではないかなと思った。いやまあ、あのアクションシーン面白かったから、というのが大きいけど。
「徹頭徹尾、近代の話だったなー」とかいう感想書いておいてあれだけど、長田は完全に前近代要素なんだよな。陰陽師だし、幽霊族狩りだってあれは祖先代々の生業でしょう?
逆に、長田と龍賀家は一体いつからの関係なんだろう、というのも気になったりはする。


ゲゲ郎の妻と孝三の話も気になる。これはなんか、制作側は一応、話としては用意してたけど尺の都合で入れられなかった的なところらしいが。
そもそも孝三って、ゲゲ郎の妻と出会う前までは何してた人だったんだろうか。
当主が「時」貞で、長男が「時」麿、また、娘たちは「乙」「丙」「庚」なのに対して、「孝三」という名付けなのも気になる。妾の子とか? 金だけ与えられて画家くずれの生活をしていたとか?
ゲゲ郎の妻が「人間という種族を愛していた」という設定が、妻発見後にもう一度出てこなかったのとかもちょっと気になっている。あの仕打ちは、その愛に対する裏切りでしかないと思うんだけど、そのことも分かった上で捕まったのかどうか、とかが気になる~。


水木とゲゲ郎の関係話について
克典は水木に対して、水木はゲゲ郎に対して「同じ余所者同士、協力しよう」というほぼ同じ言葉をかけているわけだけど、克典から手渡された葉巻に水木は咽せていて、水木から手渡されたタバコにゲゲ郎は咽せない、というところから、水木-克典の協力関係と水木-ゲゲ郎の協力関係の違いが対比されていたんだろうなーと思った。


水木吐くポイント、そこなのかー。


そういえば、制作側のコメントとして、水木が龍賀の一族でないにもかかわらず、禁域に入っても記憶を失うだけですんだ理由は、作画・演出レベルで示している、というのがあるみたいなんだけど、全然分からなかった。
設定上は、水木も妖怪が見える体質だとか、最後はちゃんちゃんこ着てるからとか、あるだろうけど……
そのことと関係しているかどうか分からないんだけど、禁域に入る度に水木が鼻血出しているのが何故なのかが気になった(禁域が人体にもたらすダメージなのはわかるが、何故それを描写するのに鼻血が用いられたのか、ということ)

*1:ねずみ男って成長するの? ということは老化もするの? 人間と妖怪のハーフだけども

*2:せいぜい子どもの頃に見た『金田一少年の事件簿』くらいだ

*3:あるいは平成の怪獣映画もそうだった気がする

*4:マトリックス』に限らずああいうのってあるよね

木澤佐登志『闇の精神史』

「ロシア宇宙主義」「アフロフューチャリズム」「サイバースペース論」という三部構成で、近代や資本主義を脱しようとしたユートピア思想を概観していく。
SFマガジンでの連載をまとめたもの。
木澤佐登志の著作は以前から多少気になってはいたものの、自分の興味関心の中ではそれほど大きくなかったことと、何となく取り扱っている内容のあやしさを警戒して*1手を出していなかった。
今回、宇宙主義が取り上げられているということで、読んでみることにした。
とはいえ、もう少し宇宙主義以外の文脈もある。

読むまでの経緯とか

  • 手に取ったきっかけ

ロシア宇宙主義に以前から興味があったというのは、桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2にも書いたことがあるので、引用しておく。

  • 宇宙主義(コスミズム)への興味

コスミズムって最近時々名前を聞くけど、一体何なんだというのが気になっていた。
もともとは山形浩生のブログがきっかけだったかと思う。
セミョーノヴァ『ロシアの宇宙精神』:変態だー!! 「屍者の帝国」ディープな読者必読! - 山形浩生の「経済のトリセツ」
ロシア未来派とコスミズム - 山形浩生の「経済のトリセツ」
次いで、『ロシア宇宙開発史』をちょっと眺め、美術手帖SFMの木澤連載でも見かけていた。
冨田信之『ロシア宇宙開発史』(一部) - logical cypher scape2
『美術手帖2019年10月号』 - logical cypher scape2
『SFマガジン』2021年6月号 - logical cypher scape2

ただ、これ以外にも補助線があって、帯にある「イーロン・マスクはなぜ火星を目指すのか?」という惹句にも関わる。
まあ、この帯の惹句はあくまでも惹句でしかなくて、目次を見れば分かるとおり、本書に直接的にこれに答える箇所があるわけではないのだが(間接的には、その背景に連なる思想が扱われている)。
最近、イーロン・マスクをはじめとして、シリコンバレーのテック企業経営者などに共通する思想をTESCREALと呼ぶことをテクノ楽観主義者からラッダイトまで – WirelessWire Newsおよび八田真行 イーロン・マスクは一人ではない|科学|中央公論.jpで知った*2
トランスヒューマニズム(Transhumanism)、エクストリピアニズム(Extropianism)、シンギュラリタリアニズム(Singularitarianism)、宇宙主義(Cosmicism)、合理主義(Rationalism)、効果的利他主義(Effective altruism)、長期主義(Longtermism)の頭文字をつないだ造語で、2023年に提唱されたものだという。
カリフォルニアン・イデオロギーのある種の変質、つまり左翼的なカウンターカルチャーから保守反動的・エスタブリッシュメントの支配思想的なものへの変化、とでも言えるだろうか。
本書は、TESCREALについて解説・検討している本ではない(本書の元になった連載が書かれた時期には、まだTESCREALという語自体が生まれていない)。
ただ、何かしらヒントがあるかもしれないと思って手を取った。

  • 扱われる思想との距離の取り方や自分の関心の中での位置づけの問題

話を戻すと、宇宙主義については、山形浩生が面白がっていたので、そういうのがあるのかーと知ったのがきっかけだったが、以前、「ロシア宇宙主義、なんとなく面白そうだなーと思うのだが、どういう距離感でどう面白がればいいのかまだつかみあぐねている」と書いた通り、歴史上のトンデモ思想としてネタ扱いしてていいのか、というところはある(山形はトンデモネタ扱いしているように読める)。そして、単に過去のトンデモ思想ということであれば、別にそんな勉強しようとしなくてもいいよな、とも思う(まあ、ツィオルコフスキーにも影響を与えていたという点で、宇宙開発史ひいては科学史の一環としても興味深いではあるが)。
しかし、こうTESCREALという形にされると、過去の問題ではなく、現代の問題でもあるよな、ということにはなってくる。
とはいえ、このTESCREALにせよ、あるいはここでは扱わないけど新反動主義にせよ、もしくは反出生主義にせよ*3、自分は共感も賛同もしないし、そもそもあまり自分にとって主たる興味分野ではない。
もちろん、思想研究をする人たちがみな、研究対象である思想に賛同しているとは限らなくて、自分とは相反する思想を研究していたり、その主張を肯定も否定もしなくて、何か別の歴史的関心とかから研究していたりすることも多いだろう。
ただまあ、趣味の読書において、共感しない思想についてわざわざ読まなくてもな、という気持ちもある。木澤本に触れてこなかったのも、加速主義とかダーク・ウェブとかあんまり共感・賛同できなさそうな話だし、木澤本のスタンスもいまいちよく分からないからな、というのがあった。
単純に共感・賛同だけの話じゃなくて、自分の興味関心の系列のどこに位置づければいいのだろうか、という収まりどころがよく分からない、というのもある。
自分は読書をすすめるにあたって、まあ単に自分の興味関心にかかわる本をランダムに読んでいっているだけで、別に系統立って勉強をしているわけではないのだけれど、しかしそれでも、何となく自分の中に、こういう系列やああいう系列があるなあというのはあって、それは具体的にはこのブログのカテゴリータグに現れてきている。
そんな中に「思想」というもやもやした系列・カテゴリーがあって、10年以上前にはそれなりに関心を持っていたのだろうが、ある時期からこの系列に対する関心が途絶えていた。
ところが、振り返ってみると去年から今年の頭にかけて、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2とか山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』 - logical cypher scape2とかブルース・ククリック『アメリカ哲学史』(大厩諒・入江哲朗・岩下弘史・岸本智典訳) - logical cypher scape2とか桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2とかを読んでいて、あまり意識していなかったのだが、何となく「思想史」への興味関心系列が自分の中にできはじめているのかもしれない。
実際、自分は別にマルクス主義国家主義もあるいは何らかの宗教にも、特に共感・賛同するものではないが、このあたりの本の、マルクス主義国家主義や宗教思想についての記述はわりと面白く読んでいたのだった。
この本もそういう風に自分の中で位置づけられるのかもと思いつつ、しかし、本当にそこなのかとも思いつつ読んだ。

  • 本書についての大枠での感想

本書『闇の精神史』も結論からいうと面白く読んだ。
特に、目次からあまり内容を推察できなかった第3章が面白くて、上述したカリフォルニアン・イデオロギーがTESCREALに至ったヒントがあるのではないか、という期待に、うまく応えてくれる内容になっていた。この伏線として、スキナーとカジノの話をうまくはめこんだのが、本書のオリジナリティなのではないだろうかと思う。
さて、本書は、上述したように「近代や資本主義を脱しようとしたユートピア思想」をいくつか紹介していくというものである。
で、この「近代への超克」とか「脱資本主義」みたいな考え方自体が、個人的にはあまりピンとこないというか、共感・賛同しないタイプの思想ではある
だからこそ、上記の話とも繋がるのだけど、この「近代の超克」みたいな思想を自分の中でどのあたりに置いておけばいいのか、結局よく分からなかった、というのがある。
ところで、本書の筆者が、本書で取り上げられている思想を素朴に賛同・称揚しているかといえば決してそういうわけではなく、また、トンデモ思想としてネタにしているかといえばそういうわけでもない。
「未来の破片をサルベージする」という言い方をしているが、過去にこういう未来像を持っていた人たちがいた、ということを拾って並べてみるという作業なのである。
その上で、筆者自身は、フーコーの「ユートピア的身体」という考え方を今後の処方箋的なものとして呈示している。
終盤で示される筆者自身のスタンスは、(紹介してきた思想と比べて)ある意味でかなり穏当なポジションでもあって、拒否感や警戒感は覚えないものであった。
とはいえ、そうした筆者自身のスタンスを論じた箇所は、抽象的かつ短いものであって、その内容面においても、それにコミットメントできるのかという点においても、よく分からないな、というのが正直な感想でもある。
そんなわけで、内容として面白かったし、勉強になるところもあったのだが、自分の中での置き所が分からなくてモヤモヤする、というのは結局読み終わった後も続いている。
ところで、話を戻すと本書の第3章では、サイバースペース論やメタバースの隆盛について、心身二元論的な西欧の価値観を前提として、肉体を捨てて純粋な精神へ向かおうとする運動としてとらえて、だから、そこに「身体」をぶつけようというのが筆者の提案なのだけど、現代思想とかAI研究とかで身体性を考えようみたいな議論と、どう接続していくのかは考えどころかもしれない。


本書の構成的な話をすると、「ロシア宇宙主義」「アフロフューチャリズム」「サイバースペース論」という三部構成なのだが、この3つの間のつながりについて、はっきり明示しない書き方をしている。
このため、特にアフロフューチャリズムについては、何故紹介されたのか、という文脈がいまいち判然としなかったというところはある。まあ、話の流れとしては、宇宙の話である第1章からサイバースペースの第3章へ、というつなぎとしての役割は果たしているのだが……。
とはいえ、内容としては面白いことは面白くて、特に第3節のマイルス・デイヴィスボコーダーの話は普通に勉強になりもしたのだが。

まえがき
第1章 ロシア宇宙主義── 居住区(コロニー)としての宇宙
1 新しい人間――アレクサンドル・ボグダーノフ
2 死者の復活──ニコライ・フョードロフ
3 実体化する「精神圏」──現代ロシアにおける展開①
4 新ユーラシア主義──現代ロシアにおける展開②
第2章 アフロフューチャリズム──故郷(ルーツ) としての宇宙
1 止まって、僕を乗せておくれ──サン・ラー
2 未来は黒い──リー・ペリー
3 変性=変声するヒューマニティ──サイボーグ化の夢
第3章 サイバースペース──もうひとつのフロンティア
1 一九八四年──ニューロマンサーマッキントッシュVR
2 幸福な監禁──行動分析学ユートピア
3 人はなぜ炎上するのか──SNS道具主義
4 メタバースは「解放」か?──精神と肉体の二分法
5 身体というアーキテクチャ──私がユートピアであるために
終章 失われた未来を解き放つ

まえがき

未来を人質にとる? イーロン・マスクを駆り立てる「長期主義」という特異な倫理観――木澤佐登志『闇の精神史』まえがき全文公開|Hayakawa Books & Magazines(β)で公開されている。
イーロン・マスクと長期主義の関連について触れられているが、マスクの火星植民もまた「過去の延長としての未来」に過ぎないのではいかと否定的に取り扱っている。

第1章 ロシア宇宙主義── 居住区(コロニー)としての宇宙

1 新しい人間――アレクサンドル・ボグダーノフ

この第1節では、タイトルにある通り、ボグダーノフについて紹介されているが、前半はむしろ、本書全体のコンセプトについての説明にあてられている。
冒頭で、ヴェイパーウェイブやそのサブジャンルであるソビエトウェイブについて触れて、かつてあった未来へのノスタルジーを見ている。
その後、ピーター・ティールのいう「手にしたのはたったの140文字」という言葉を引用している。つまり、かつて宇宙開発など様々な未来のビジョンがあったのに、実際の21世紀が訪れたらtwitterに興じてるばかりだ、という皮肉めいた言葉で、彼は、そうした未来を取り戻すためには、イノベイションを阻害する規制をやめて市場を加速化する必要があると考えており、以前の大統領選挙ではトランプ支持に回った、と。
それに対して、プルシット・ジョブで有名な文化人類学者のデヴィッド・グレーバーの考える処方はその逆で、資本主義の外へ向かう必要があると論じる。
しかし、そんなことは可能なのか。
資本主義のオルタナティブなどないと思わせることを、マーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」と呼んだ。
さらにニック・ランドやカンタン・メイヤスーにも触れながら、本書は未来の破片をサルベージすることを目的としている、という。


で、具体的にまず取り上げられるのが、ボグダーノフということになる。
ボグダーノフは、『赤い星』という火星を舞台にしたユートピア小説を書いているが、これは小説であり、なおかつ、未来予測の書でもあった。
革命後の困窮にあえぐ人たちに対して、ソ連が進む未来を指し示したもの。
ボグダーノフの未来予測は、技術や社会に関することだけでなく、もっと壮大で、個人と集団の対立をこえることが目指される。
「集団的身体」とか「新しい人間」とかで、ニーチェからの影響がある超人思想。
超人へのあこがれは、ボグダーノフに限らず当時のボルシェビキに広く存在したものだという。例えば、建神主義にもみられる、と。
さて、実際に「新しい人間」になるためにどうすればいいか、という実践方法としてボグダーノフが注目していたのが「血液交換」
生命の交換による集団的社会の完成を目指す。筆者は、ここでいう生命の交換というのは遺伝子の融合だろう、みたいな説明をしていたが、血液交換の実験を実践する中、結核マラリア患者の血液を自身に輸血して、ボクダーノフ自身は亡くなっている。
ボグダーノフの思想は、西欧の精神的危機に対する応答だという。近代を超克するためのユートピア思想。先にニーチェからの影響を挙げたように、19世紀末に生じた西欧や近代を批判するような思想から影響を受けていた。例えば、マッハの一元論からの影響など。
ボクダーノフについては桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2にも書いてあった。

2 死者の復活──ニコライ・フョードロフ

第2節ではまず、1857年、サイクロプス号の海底測量の際に発見された「原始生物」のエピソードから始まる。
トマス・ハクスリーはこれをヘッケルにちなんで「バシビウス・ヘッケリ」と命名する。ヘッケルは、無機物と生物のミッシングリンクとしてのモネラという原始生物を想定しており、ハクスリーはこれこそそのモネラだと思ったわけだが、実際にはこれは生物ではなかったことが明らかになっている。
さて、このサイクロプス号の海底測量の目的は、深海生物調査ではなく、海底ケーブル敷設であった。この時期、電信網が急速に広がっていたのである。
筆者は、19世紀の(あるいは本書の)キーワードとして「進化」と「ネットワーク」をあげて、この2つが組み合わさって、ド・シャルダンの「精神圏」、ソロヴィヨフの「神人」、ジュリアン・ハクスリーの「トランスヒューマニズム」などの思想が生まれてきたという。
ところで、ド・シャルダンの「精神圏(ヌースフィア)」は、本書では度々言及されているのだが、詳しい解説はほぼなされていない。
なので、とりあえずWikipedia読んだ。
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン - Wikipedia
カトリックの司祭で古生物学者でもある人で、キリスト教的進化論を唱え、北京原人を発見した人、と。なんか、古人類学関係の本で名前を見かけたことがあるような気もするのだけど、自分のブログを検索しても出てこなかった。
また、失敗した歴史の瓦礫から、未来の可能性を組み立てなおす 木澤佐登志『闇の精神史』書評:乗松亨平(東京大学大学院総合文化研究科教授)|Hayakawa Books & Magazines(β)において以下のように書かれている。

たとえば第1章で触れられる「精神圏」概念は、テイヤール・ド・シャルダンを通じてマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』にとりいれられており、この系譜をたどってロシア宇宙主義とサイバースペース論を直接結びつけることもできたはずだが、著者はおそらくあえてそれを控えている。

なので、この「精神圏」概念はかなり重要なキーワードっぽいのだけど、本書では各所へのつながりについては暗示するにとどまっている。
閑話休題
ボグダーノフの場合は『テクトロギア』という著作があるらしいが、このテクトロギアという言葉はヘッケルに由来しており、ヘッケルが考えた生物に関する考え方を宇宙へ普遍化しようとした書物らしい。ここで「進化」と「ネットワーク」に次ぐキーワードである「宇宙」が出てくる。
この時期、例えばスキアパレッリの火星運河の研究があって、宇宙への興味関心も向けられていた時代、と。


という前フリをうけた上で、ロシア宇宙主義のフョードロフについて
フョードロフは貴族の出身だが、幼い頃から飢饉の恐ろしさの話などを聞いて育ち、さらに20代の頃に、育ての親である叔父が死に、その死に強い影響を受ける。
つまり、今までいた世代を新しい世代が追い落とすという世代交代の思想を考えるようになる。
また、キリスト教(正教)の影響も強い。
司書となった後、その記憶力から「モスクワのソクラテス」として尊敬をあつめて、サークルを形成。ツィオルコフスキーもフョードロフから影響を受けている。
彼の思想のキーワードは、神が人類に課した「共同事業」であり、彼の思想は死後に『共同事業の哲学』として刊行される。
生物の中で人間は、その自意識により特別な存在であるとする。また、唯物論を2つに分類し、物質の限界を超克していくことを「倫理的唯物主義」と位置づけた。
具体的には「肉体の改造」という考えになり、未来の人類は、飛行能力や遠視能力を身につけ、独立栄養生物として生きるようになる、と考えた。
そしてそれは、死者復活のプロジェクトへも繋がる。
科学と福音の一致であり、集団(ソボールノスチ)*4による神の意志の実現でもある。
生殖に用いるエネルギーを創造と再生へ使うべきだ、という一種の反出生主義的な考え方でもあるらしい。
大気中の粒子となって散逸した死者の肉体を集め直して復活させるという考えで、散逸した粒子を集めるにあたって宇宙進出が必要になる。

3 実体化する「精神圏」──現代ロシアにおける展開①

第3節は、ロシア宇宙主義の回帰
ソ連末期、実験的創造センターというのが作られて、新しいイデオロギーにするべく過去の思想が研究される。所長のクルギニャンは、ソロヴィヨフやヴェルナツキー*5に着目し、また、フョードロフについて直接言及していないが、「共同事業」というワードは頻繁に出てくる、という。
クルギニャンの考えは、共産主義とロシア・ナショナリズムの奇妙なアマルガム
さらに現代へと話を進めて、ロシアのとあるクライオニクス(遺体冷凍保存)企業についての話へ。
クライオニクスも含めて一種のトランスヒューマニズムだとして、例えば、Googleラリー・ペイジによるCalicoや、イーロン・マスクのニューラリンクについてもあわせて紹介している。
その上で、21世紀のフョードロフ主義者とシリコンバレーのビリオネアの違いについて、前者は資本主義に対して否定的であり、ソ連へのノスタルジーといった背景を持ち、エンハンスメントは否定しており、関係者に女性も多いことを挙げている。
さらに、現在のロシアで展開されているNeuroNetというプロジェクトについても紹介している。
NeruoNetはWeb4.0を標榜した、BMIによるネットワーク構想で、「精神圏ヌースフィア」の実体化であり、フョードロフの共同事業をニューロテクノロジーで実現するものだ、と。
また、NeuroNetには「先見」というコンセプトがある。つまり、未来へのヴィジョンがあって、ソ連が失った未来の代わりとして支持されているらしい。
元々は、アマチュアの技術者などが言っているだけのプロジェクトだったが、2015年頃から、ロシア政府の文書の中にも名前が出てくるようになってきているらしい。
この節だけ、連載当時に読んだことがあった。
『SFマガジン』2021年6月号 - logical cypher scape2
連載時のタイトルは「さようなら、世界 〈外部〉への遁走論」

4 新ユーラシア主義──現代ロシアにおける展開②

第4節では、ユーラシア主義と新ユーラシア主義が紹介される。
ロシアのナショナリズムの系譜というか考え方のようなものが概観されて面白いが、宇宙主義とはやや離れる(最後に宇宙主義との関係も紹介されてはいるが)。


ロシアでは、ピョートルの西欧化改革に対する評価によって知識人が二分されており、西欧派とスラブ派に分かれている。
スラブ派は、没落する西欧と未来あるロシアという枠組みをもち、西欧近代を超克するものとして「ロシア的精神」があると考える。
「ロシア的精神」という考えの形成にあたっては、「ドイツ観念論とドイツロマン主義(とりわけシェリング)の輸入」、「ナポレオンを撃退したこと」、「正教のメシアニズム」が背景にある。
ホミャーコフは、ロシア的精神とソボールノスチ、総和の精神について論じ、
キレーエフスキイは、「全一性」というキーワードを用いた。
ホミャーコフやキレーエフスキイを研究した哲学者としてエフゲニー・トルベツコイがいて、その甥のニコライ・トルベツコイがユーラシア主義を唱えた。
ニコライは、十月革命により亡命を余儀なくされ、プラハ言語学サークルへと参加した。革命と亡命の経験、相対主義的な思想との接触が、ユーラシア主義を生み出したのではないかという。
エフゲニー・トルベツコイとニコライ・トルベツコイについては、桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2にも書かれていた。


続いて、本書では新ユーラシア主義、特にその代表的人物であるドゥーギンへと話が移る。彼は典型的なポストモダン右翼であるという(一見、リベラルな言論のパッチワーク)
また、アメリカのオルタナ右翼からもドゥーギンは人気がある、と。
ところで、本書ではユーラシア主義と新ユーラシア主義の関係について特に何も触れられていないが、最近偶々見かけた浜由樹子・羽根次郎「地政学の(再)流行現象とロシアのネオ・ユーラシア主義」には以下のように書かれていた。

但し、古典的ユーラシア主義とネオ・ユーラシア主義は、直接的な継承者ではなく、それぞれが異なる文脈の中で検討されるべきだというのが、このテーマに真剣に取り組んできた研究者たちの多くが到達した結論である。両者に共通するのは、ロシアを「ヨーロッパでもアジアでもないユーラシア」として再定義を試みたということ、そしてその根底に、西欧起源の価値の普遍化に対する懐疑と批判だけだといっても、過言ではない。

なお、この論文は、やはり怪しげであまりお近づきになりたくないなあと個人的に思っている「地政学」について、コンパクトにまとめてあって勉強になった*6


ここまで「面白いけど宇宙主義どこ行った」と思いながら読んでいたら、ユーラシア主義と宇宙主義を融合した論者の紹介もされていた。
まず、グミリョフという人が、ユーラシア主義と宇宙主義の総合をした、と。グミリョフは、民族の特徴は宇宙環境と地球環境全体に依存していると論じた。
「精神圏」のヴェルナツキーの息子である、ジョージ・ヴェルナツキーも、ユーラシア主義と宇宙主義を結びつけている。彼は、距離と時間を関係づける。京都から離れるほど古い言葉が残っている的な話だと思うのだけど、辺境のほど古いものが残っているという考え方と、宇宙では遠い距離を観測すると古い時代のことが分かるという考え方を結びつけて、シベリアと宇宙を結びつけるような言説をしているらしい。
最後に、日本における宇宙主義の受容として、三宅雪嶺『宇宙』について紹介しているが、ちょっと関係しているくらいの話っぽい。

第2章 アフロフューチャリズム──故郷(ルーツ) としての宇宙

アフロフューチャリズムについて、自分は大和田俊之『アメリカ音楽史』 - logical cypher scape2で知った。ピラミッドと宇宙とを描いたジャケットデザインは印象に残っている。

1 止まって、僕を乗せておくれ──サン・ラー

第1節では、サン・ラー、ジョージ・クリントンのPファンク、ドレクシアが取り上げられている。
アフリカ系アメリカ人、つまり黒人奴隷の子孫たちは、アフリカの地から強制移住させられた者の子孫であり、自らのルーツ・故郷を失ってしまっている(アフリカン・ディアスポラ)。
そこから、宇宙を自らのルーツとして改変する者たちとして、アフロフューチャリズムを位置づける。
アフロフューチャリズムという言葉自体は、1993年にマーク・デリーが提唱したもの。アフリカン・ディアスポラを異星人の誘拐に見立てる。

  • サン・ラー

本名はハーマン・”ソニー”・ブラント、1914年生まれ。
土星人であると自称し(ルーツの改変)、エジプトの太陽神にちなんでラーと名乗っている。
1950年代中頃に結成した、アーケストラというバンドを率いたが、バンドというよりも一種のコミューンだったと述べられている(最大で30名ほどいたとか)
アーケストラの演奏は「宇宙ドラマ」とか「未来の神話」とか

1970年代、パーラメントファンカデリックという2つのバンドを率いる。これらのバンドの音楽がPファンクと呼ばれた。
パーラメントに「Mothership Connection」という曲があって、歌詞の中でチャリオットという何重にも宗教的含意のある言葉が用いられているのだけど、これがさらに宇宙船マザーシップとされている。
宇宙へのイグジットでもあり、ホーム(故郷)としての宇宙でもある

デトロイト・テクノのアーティストだが、独自の神話を創造
奴隷船から捨てられた者が海底で独自の進化をとげたという神話らしいのだが、この神話の構造が、過去が未来を伴って現在へ回帰してくると表現されている。

2 未来は黒い──リー・ペリー

第2節は、ジャマイカのレゲエミュージシャンであるリー・ペリーについて


リー・ペリーは、1936年生まれ、60年代にキングストンでシンガーとしてデビューした。
彼もまた、ジャマイカへ「転生した」といって、ルーツを改変している。
ここではまずレゲエという音楽について、その特徴を説明している。
ジャマイカアメリカ音楽を受容する過程で生まれてきた音楽
それから、サウンドシステムも特徴に挙げられている。
本書では、レコードが高価であるために大勢で聞くためにサウンドシステムが発展した的な説明がされている。
ところで、自分はレゲエという音楽について全然知らないのだけど、昔々に行ったイベントで、そのスピーカの独特さは目の当たりにしていたことがある。なので、レゲエの特徴はサウンドシステム、というのはよく分かる。
次にラスタファリニズムについて。
これは1930年代に生まれたジャマイカ霊性運動で、エチオピアの神への信仰などに特徴づけられるのだが、60年代からレゲエの歌詞で使われるようになっていったという。
再び、レゲエの話に戻って、レゲエでは元音源を加工してインスト盤にするなどした「ダブ・プレート」というのが作られていて、これが後にリミックス・カルチャーへ繋がっていったという。
ここで本書が注目するのは、ダブ・プレートの制作によって、エンジニアのプレゼンスがあがったということだ。
リー・ペリーもまた、エンジニアでもあった。彼は、自身のスタジオをブラック・アーク(黒い方舟)と名づける。
こうしたスタジオというのは、もちろん科学テクノロジーの集積なのだが、一方でペリーは呪具を置いたり、ガンジャを吹き替えたり、黒魔術的なことも行う。
ここでは、ジャマイカで「サイエンス」は、科学と魔術の両方の意味があるのだとか、下村寅太郎からの引用やバロウズを引き合いにだして、科学と魔術が表裏一体であることが論じられている。
そしてさらに、ペリーがスタジオを宇宙船のコックピットにも見立てていたという。
このことは後世にも影響を与えていて、レコーディングスタジオを宇宙船のコックピットに見立てたジャケットデザインが色々あるらしい。また、前節に登場したパーラメント「Mothership Connection」との同時代性もあわせて指摘されている。


順番が前後するが、本節の冒頭で、ケニアの哲学者ジョン・S・ムビティが指摘したアフリカの時間概念についても解説されている。
アフリカには「未来」にあたる概念がなくて、時間は、近未来と近過去を含む現在としての「ササ」、無窮の過去である「ザマニ」に分けられる。
ザマニとは、神話や霊たちの時間であり、ササを生きた人たちは、ザマニへと帰っていくことになる。
西欧(キリスト教と近代)がアフリカに「未来」という概念をもたらしたが、そもそも未来という概念をもたなかったアフリカ人にとっては、近い未来にメシアの到来を望む、極端なメシアニズムを誕生したという。上述のラスタファリニズムの話はそこに繋がってくる。
で、最後に宇宙とザマニを結びつける話をしている

3 変性=変声するヒューマニティ──サイボーグ化の夢

第3節は、マイルス・デイヴィスについて
こちらは宇宙の話はなくて、節タイトルにあるとおりサイボーグの話となる。


ここでは、菊地成孔大谷能生の『M/D』が参照されており、60年代後半以降に「電化」「磁化」したとされている。電化とはエレキギターなどの使用をさし、磁化とはスタジオでの編集制作である。
この時期の名盤として、テオ・マセロというエンジニアと組んだ「オン・ザ・コーナー」
さて、さらにマイルスの変化を本書は「サイボーグ化」と称する。1つには、この時期相次いで手術を行うことになり、特に人工関節の移植が彼にとって大きな出来事だったことをあげる。また、敬愛していたジミヘンの死も「サイボーグ化」につながっていた。
ワウワウを使い、ジミヘンの声に近付くよう変声するようになった、と。


本節は後半から『エレクトロ・ヴォイス――変声楽器ヴォコーダートークボックスの文化史』を参照しながら、ヴォコーダートークボックスの歴史についてもまとめている。
ヴォコーダーの技術は1928年のベル研究所に遡り、1940年代には軍の音声通信システムとして開発され、トルーマンチャーチルのホットラインに使われたという。
また、ソ連でも同様の技術開発が行われ、収容所に入っていたソルジェニーツィンがこの仕事に携わっていたという。
一方のトークボックスは人口咽頭の技術をもとにしており、1960年代後半に発明されたという。
ヴォコーダーよりもアナログで安価だったが、身体に負担をかけるものであったという。身体改造マゾヒズム
最後に、テクノサイエンスとマイノリティの関係ということで、ダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』だったり、オクティヴィア・バトラーのSF作品だったりが参照されている。

第3章 サイバースペース──もうひとつのフロンティア

1 一九八四年──ニューロマンサーマッキントッシュVR

第1節では、カウンターカルチャーとサイバーカルチャーがいかに合流したのか、という歴史が解説される。
主な登場人物は、ジョン・ペリー・バーロウとスチュアート・ブランドである。


60年代のカウンターカルチャーは反テクノロジー
コンピュータのイメージも、IBMメインフレームであり、官僚主義・中央集権と結びついていた。
さて、スチュアート・ブランドは、WEC(Whole Earth Catalog)の創刊者として知られるが、WECはもともとヒッピーライフスタイルのためのカタログ誌であった。
ただ、ブランドは、バックミンスター・フラーサイバネティクスから影響を受けていて、雑誌を読者と編集者のフィードバックループとして捉えた。
サイバネティクスの考え方を広めて、コンピュータのイメージを人間-機械混成システムへ
と変えていった。
ブランドは、サイバーカルチャーへと接近していき、1984年には「Whole Earth Software Review」創刊。同年には、The Hacker Conferenceを開催し、スティーブン・レヴィやスティーブン・ウォズニアックを招待した。
そして、1985年には電子掲示板サービスWELL(The Whole Earth Lectorotonic Link)を始める。
ロックバンド「グレイトフル・デッド」の作詞家であったジョン・ペロー・バーロウは、1986年にWELLに加入
サイバースペース」という言葉を作ったのは無論ウィリアム・ギブスンだが、これを広めたのはバーロウで、1990年にWELLのことを「サイバースペース」「デジタルフロンティア」と表現して語っている。
西部出身のバーロウが、失われたワイルド・ウエスト、リバタリアン的なフロンティアを電子の世界に見いだしたのだ、と。
さらにバーロウは、VRについても熱心に語っていたという。
本節の最後に、最初期のVR企業を設立したジャロン・ラニアーが見た夢が書かれている。電話回線を通じて世界中の子どもたちがつながっていた夢。

2 幸福な監禁──行動分析学ユートピア

第2節は、カジノとスキナーによる行動分析学について、あるいは環境管理型権力について


カジノの天井が低いのは何故か。
ヴェンチューリ『ラスベガス』ではコストの問題として説明されているが、『デザインされたギャンブル依存症』では、周到に意図されたものだという。以後、カジノについてはこの本が主に参照されている。
そこで言われているのは「空間消去の法則」で、空間を感じさせなくするように設計されているという(低い天井や壁によって見通しを悪くしたりしている)。
その結果として、客は「マシン・ゾーン」に入る。スロット・マシーンと自分だけの世界。
そのために温度、照明、カラー、サウンド、香りが設定され、アンビエント音楽がBGMとして流されている。
環境を意識させないことを目的としてデザインされた環境
日本のパチンコホールとラスベガスのカジノを比較して、それぞれ規律訓練型権力環境管理型権力に対応させる(ただし、パチンコホールにそのような権力が働いているというわけではなくて、規律訓練型の建築と類似しているというよう言い方をしている)
カジノについて「幸福な監禁」という言い方がある。


しかし、環境管理型権力だけでは依存症の問題まで踏み込むのは難しい、として、スキナーのオペラント強化と行動分析学が紹介される。
『デザインされたギャンブル依存症』でも、カジノをスキナー箱ととらえる投稿が紹介されている、という。
スキナーは、行動は自由意志ではなく環境で決定されるという人間観を持つ。
ただし、その環境を再デザインできる、というところに、ただ環境に支配されるだけではないという含みをもつ。
スキナーは抑圧と自由を二項対立ではなく、コントロールとカウンターコントロールスペクトラムでとらえる。
また、『Walden Two』というユートピア小説も発表している。
執筆時期は『1984』と同時期
ユートピアじゃなくてディストピアだろう、という話ではあるが

3 人はなぜ炎上するのか──SNS道具主義

第3節では、第2節のカジノの話が現代のインターネット社会へと応用される。


冒頭で、筆者のソシャゲ天井までガチャを回してしまった時の体験を書いているのだが、(前節の「幸福な監禁」を受けて)決して「幸福」な体験ではなく「受難」であったと述べている。
また、SNSにも同様の構造があるとして、樋口恭介の炎上体験についても紹介している。
自分は、ガチャを天井まで回したこともSNSで炎上したこともないが、しかし、筆者のいう「受難」経験自体は理解できる。つまり、「もうやめたい」と頭で分かっていても辞められずに続けてしまう、という点で、SNSのタイムラインを眺め続けてしまうことがよくある。というかこのブログを書いている今まさにこの期間(数日間に分けて書いている)、無駄にSNSを眺め続けて抜け出せなくなる時間が発生しており、しんどい。
オペラント条件付けが起きている。


こうしたSNSで起きていることと、前節でのカジノの事例は類似している。
『監視資本主義』のズボフは、こうしたSNSのあり方を「道具主義」と呼んでいるらしい。支配やコントロールという点で全体主義と似ているが、しかし、道具主義は、訓練や教育をするのではなく、測定・予測・制御をしているだけだ、という点で全体主義とは異なると。
SNS時代におけるスキナーとして、本書ではMITメディアラボのアレックス・ペントランドの「社会物理学」が紹介されている。ペントランドは、人間の行動を「よい」行動へとコントロールできる社会を理想的な社会システムと呼び、具体的にはフェイスブックを称賛しているらしい。


人間の行動を測定したデータ資源が金を生むということに早くに気付いた者として、グーグルのアミット・パテルがいるという。つまり、ターゲティング広告である。
なお、憲法学者の山本龍彦は、ターゲティング広告は消費者法における「広告」より「勧誘」に近いと指摘しているという。
ところで、このターゲティング広告については、80年代のカジノで既に行われていたということが、やはり『デザインされたギャンブル依存症』から紹介されている。
どのスロットマシーンをどのように使っていたか、そして各店舗の情報をデータベース化して、顧客の行動追跡を行い、どのくらいの頻度で来店しどれくらいお金を使っているかのデータを蓄積して、それにあわせてDMを郵送している、と。


フロムの『自由からの逃走』で、外的権威、内的権威に次ぐ第三の権威として、不可視の権威・匿名の権威が論じられていたことが紹介されている。
不可視であるがゆえに抵抗しにくいので効果的に働く、とフロムは指摘しているが、SNSアーキテクチャで働いているものそのものであろう。
ピンチョンの小説には「ネットの歴史そのものに、破滅のシナリオが、はじめから組み込まれていた」という一節があるという。
筆者は、1984年に公開されたAppleのCFへと立ち戻る。中央集権的なコンピュータのイメージを壊して、個人の「自由」を実現してくれるものとしてのコンピュータのイメージを打ち出したCFであったが、筆者はその翌年の1985年には、ハラーズ社のカジノでプレイヤー行動追跡システムが始動していたという構図を描いてみせる。

4 メタバースは「解放」か?──精神と肉体の二分法

第4節では、VRメタバースの背景にある、心身二元論的な思考の枠組みについて指摘している。


80年代後半、VRが軍・航空産業から「サイバースペース」の名で民間へ
スチュアート・ブランドは、「スペース・ウォー」に没頭するハッカーたちを見て、幽体離脱を連想させる記事をかいた。
スチュアート・ブランドには、ヒッピーとコンピューターという二重性があるが、80年代において後者へと比重を変化させていく。
WELLはヒッピーとは異なる性格の共同体で、ヒッピーではないタイプの人たちが多く参加していた。
社会の外部にあるコミューンにこもるのではなく、スタートアップの起業によって社会は変革できるのだ、という信念の変化。
こうした変化は、『WIRED』創刊にも象徴される、と。
上述した通り、ブランドはハッカーたちがゲームに没頭する有様を幽体離脱に喩えたが、80年代後半から90年代、幻覚剤によるトリップとサイバースペースへのジャックインを比喩的に結び付けるのは常套句だった。
VR関連企業のオートデスクがティモシー・リアリーを起用したこと
あるいは、雑誌『High Frontiers』(のちに『Mondo2000』)も。
60年代サイケデリックニューエイジ、オカルトとハッカー、コンピュータとが融合していく→サイバーデリック・カルチャー


サイバーカルチャーとサイケデリック・カルチャーは「体外離脱」の夢を共有
ニューロマンサー』のケイスの設定は、ユダヤキリスト教文化の二分法に由来していたとギブスンは語っているという。前述したラニアーの夢もそうだし、また、近年のメタバースに関連して、バーチャル美少女ねむや加藤直人の記述の中にも、肉体を捨て、精神・情報だけの存在になることを言祝ぐ価値観を見いだす。


肉体=物質に対して、霊・精神=情報を上位におくヒエラルキーは、西洋においては古くから見られる思想的枠組みである。
プラトン主義における「一者」との「合一」(肉体を捨て不死の魂へ)
アウグスティヌス、アクイナス経由でキリスト教
エマソンにも間接的な影響
グノーシス主義(肉体を脱出してプレーローマへ)
→神秘思想への影響
ポストヒューマン、メタバースバ美肉など新しそうに見えるが、その価値観は古典的
不死の観念と結びつくと千年王国となり、シンギュラリティによるマインド・アップロードという考えへ
また、この価値観の変化球的な現れとして、ボストロムのシミュレーション仮説


第4節の最後では、こうした、心身二元論的な枠組みにおさまらないものを指摘している。
東浩紀は「サイバースペースは何故そう呼ばれるのか」において、ギブスンになくてディックにある「不気味なもの」について論じている。
「不気味なもの」とは、物質と情報のあいだのどちらともつかないもの。ギブスンの場合、これが綺麗に切り分けられていて、それによって「サイバースペース」は成り立っている、と。
筆者は「不気味なもの」の具体例として、VR酔いがあるのではないか、と指摘する。
また、筋痛性脳脊髄炎患者であるアーティストの近藤銀河*7の、VRヘッドセットの長時間の利用が困難であるという発言も引用しつつ、メタバースに移住できるのは実は健康な肉体を持った者のみなのではないか、と心身二元論的枠組みを撹乱する。

5 身体というアーキテクチャ──私がユートピアであるために

第5節では、第4節の最後に触れられた、心身二元論的な枠組みでは捉えそこねるものを拾い上げる。


ディック『パーマーエルドリッチの三つの聖痕』では、遍在するエルドリッチによってコントロールされる世界が到来するが、メタバースによる不気味な統治では、と。
ラニアーも、スキナーボックスにとってVRは理想的装置だと述べている。
『三つの聖痕』におけるキャンDの世界はVRだが、現実との境界が消えるチューZの世界はMRではないだろうか、と。
ライフログとMRが組み合わされた時代におけるエルドリッチは、プラットフォーマー


ここまで、カウンターカルチャーからサイバーカルチャーへ、という流れが紹介されてきたが、80年代サイバーカルチャーがカウンターカルチャーから引き継がなかったもの、そして別のところから影響を受けたことについて
(アフロフューチャリズムの名付け親でもある)マーク・デリーは、サイバーデリックカルチャーが、カウンターカルチャーからドラッグやニューエイジなどの面で影響を受けつつも、反戦運動公民権運動、ブラック・パワー、フェミニズムなどの政治的ラディカリズムを排除していたと指摘
一方、80年代は新自由主義の時代でもあり、例えばブランドはサイバネティクスの影響も受けながら、自生的秩序を構想していた。新自由主義によるニューエコノミーは、流動的な雇用をもたらしもした。
また、世界からのエグジットは、ヒッピーのコミューン思想だけでなく、アイン・ランドリバタリアン思想(あるいはハインラインなどのリバタリアンSFとか)の影響もあるのではないか、と筆者は指摘している。


フレッド・ターナーはまた、テック・エリートの自立幻想が、インフラ維持の肉体労働や電力消費問題を無視したものと指摘。つまり、サイバースペースもまた物質からは逃れられない


第5節の最後で、筆者はフーコーの「ユートピア的身体」という概念にある種の希望を託す。
フーコーは、身体が、私にとっていつもある者という意味で、ユートピア=どこでもない場所の反対概念だとする。しかし、私の体には私にとって不可視なところもあり(頭の後ろを見ることはできない)、ユートピアとしての身体という概念を提唱する。
筆者は、身体というアーキテクチャを抵抗のアーキテクチャにできないか、と述べている。


第3章感想

スチュアート・ブランドはテクノ楽観主義者からラッダイトまで – WirelessWire Newsにも名前が出てきたが、実はあんまりよく分かっていなかったので、勉強になった。
ホール・アースという言葉自体は、飯田一史「セカイ系とシリコンバレー精神」で知った。読み返してみたら、スチュアート・ブラントとティモシー・リアリーの名前も出ていた。
上述したように、カリフォルニア・イデオロギーの変質について知るヒントになるのではないかという期待については、おおむね応えてくれる内容であった。環境管理型権力の話など、若干懐かしさを覚える話でもあるのだが、スキナーとカジノの話をはめていたのが面白かった。
カジノの話は、本来直接的にはサイバースペースの話にはならないはずだが、カジノ→ガチャ→SNSという流れによる説得力があった。ここはある種の連想であって、実証的な話ではないけれど、実感としては分かりやすい。無論、ペントランドの社会物理学やグーグルのターゲティング広告が傍証とはなっていて、特にAppleのCFとカジノのターゲティング広告が同時期であることの指摘は面白い。つまり、変質があったというよりは、当初からそうだったという、ピンチョンの小説を引用しての捉え方。
あと、サイバーカルチャーに、カウンターカルチャーの影響はあったとして、それはニューエイジとかの面であって、政治思想の面ではなかった。一方、政治思想的にはむしろリバタリアンからの影響があったのではないか、というのは、別に何の意外なところもない話だけれど、改めて整理しておくことは大事かなとは思う。
メタバースとか火星植民とか、開拓精神あふれるフロンティアというより富裕層のゲーテッド・コミュニティじゃん、というような話ともいえるのかもしれない。
その上で、じゃあなんでニューエイジとかとの結託があったのかというところで、心身二元論的な世界観の話が出てくるのだろう。
ドラッグカルチャーと結びつくことで「クール」になったのだ、と書かれている。ところで、ドラッグやサイケデリックが「クール」という感覚、自分にもないがしかし、理解はできるものではあるのだが、日本のオタクカルチャーとかにどっぷり浸かってる人だと、どう思うのかな、とちょっと思った。
閑話休題、そういう心身二元論的な枠組みの乗り越えとして「不気味なもの」や「身体」を出してくるの、それはそれで古典的だなという印象は受けた。
ところで、ユートピア的身体についての具体例を挙げるならば、腸内細菌叢/腸内微生物叢じゃないのかなあと思う。
失敗した歴史の瓦礫から、未来の可能性を組み立てなおす 木澤佐登志『闇の精神史』書評:乗松亨平(東京大学大学院総合文化研究科教授)|Hayakawa Books & Magazines(β)では、身体の未知の可能性の探究としてボグダーノフの血液交換実験があったのではないかと書かれているが、それこそ糞便移植とか、現代における血液交換なんじゃないのか、という気もしてくる。
ところで、腸内細菌叢ネタのSFとしては、ワッツ「内臓感覚」というのがある。どんな話だったか忘れてしまったが、邪悪と化したGoogleの話でもあるので、結構繋がってくる話なのではないだろうか。橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』 - logical cypher scape2
ただ、腸内細菌叢もまたこうして既知の領域となることで、コントロールの対象になっていくのではないかと考えると、身体というユートピアもまた抵抗の地たりえないという悲観も成り立つかなと思う*8

終章 失われた未来を解き放つ

各節ごとにエピグラフがあって、SFなりなんなりから引かれているのだけど、終章は「オメラスから歩み去る人々」と『われら』だったので、クライマックス感あった。どっちも読んだことないけど。


レーニン廟の話から始まって、ソ連の話になり、資本主義と社会主義は兄弟のような存在だと続き、近代の超克は、近代を必要とするのであり、それは終わりなき近代の弁証法なのだ、と。
近代における「単一性」(普遍性)のイデオロギーとそこからこぼれおちるもの。
一方で、零れ落ちるものによるアフロ・フューチャリズムがあったとしたら、他方で、こぼれおちて果たされなかったユートピアを隠すためにサイバースペースがあったのではないか、と。
実現しなかった大衆の夢を描く「ガーンズバック連続体」 
スヴェトラーナ・ボイムは、ノスタルジーを復古的ノスタルジー」と「リフレクティブ・ノスタルジー」に分類
反動右翼的な前者に対して、後者は、実現しなかった夢へのノスタルジーであり、象徴ではなくディテールを愛し、過去にひかれながらも過去へは戻らないとする。
近代の夢をモンタージュすることで近代の弁証法の外部へといけるのではないか、本書はそういう試みである、と。

感想その2

ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースの3つが何故並立されたのか改めて考えてみると、民族的・人種的アイデンティティや宗教的な救済をテクノロジーの中に見いだそうとした思想群といえるのかもしれない。
ロシア宇宙主義やユーラシア主義には西欧を乗り越えるロシア的精神とかソ連へのノスタルジーが、アフロフューチャリズムにはアフリカ系アメリカ人の故郷喪失が、サイバースペース論には失われたフロンティアへの渇望が、それぞれ背景にあると言えるだろう。つまり、ロシア人として、黒人として、アメリカ人としてという民族的・人種的アイデンティティを巡る問題が関係している。
そしてまた、ロシア正教、メシアニズム、あるいはニューエイジ的なものもそれぞれ絡みあいつつ、テクノロジーによりそうした喪失を補完しようとして生まれたユートピア思想であった、と。
しかし、テクノロジーへの期待というもの自体が崩壊してしまった現在において、改めてユートピアを補完するのは可能なのか、ということが本書の問題設定なのかもしれない。
ある種の科学文化史として、民族的・人種的アイデンティティや宗教心の問題あるいは近代の超克といったテーマが、科学やテクノロジーへの期待と結びついていく、というのは確かに面白い話だなあとは思う。
しかし一方で、やはり個人的な共感レベルの話でいうと、科学やテクノロジーについて輝かしい未来像が失われたという感覚を必ずしも共有しないので、失われたユートピアをどうやって再び補完するのか、という問題意識にはピンとこないのかもしれない。


宇宙開発についていうと、自分はかなり素朴にただのファンで、特に最近は宇宙開発が再び盛り上がっているので、普通に楽しいというのはある。
もう少し言うと、自分の子どもの頃は宇宙開発の縮小期であって、かつてあったような宇宙へのロマンというものは直接実感していないのかもしれない(もっともそれは本書の筆者も世代的には同じだと思うが)。一方で、そうでありながら、科学探査衛星は色々飛んでいたし、どちらかといえば今でも宇宙開発については、科学探査の方を応援している気持ちは強い。というか、自分が宇宙に行きたいとかそういう気持ちはないし、人類が地球以外で生活できるようになるかにもあまり関心がないかもしれない。
もっとも科学探査も有人宇宙開発も区別なく面白がってはいるけれど。
一方で、宇宙開発に対する人文的アプローチとしては、やはり宇宙倫理学に興味関心がある。
宇宙倫理学では、宇宙開発って正当化できるのかみたいな議論がなされていたりする。
自分は宇宙開発ファンではあるのだけど、宇宙を目指すのは人類の運命、みたいな考えには、確かにノリ切れないよなーとは思うようになっている。
環境破壊の問題もあるし(大気汚染コンステレーションの光害)。
一方、宇宙法学とか宇宙ビジネスブームみたいなものもあって、その意味でも宇宙はユートピアじゃなくて、もっと実際的な世界になっているよなあと思うし、それはそれで面白いんじゃないのかなとも思う。
宇宙倫理学関係としては以下、

この本では、「リベラリズムという立場において許容できる宇宙植民とは一体どのようなものなのか」という問題を論じていく。
稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』 - logical cypher scape2

「人類存続の義務」が持ち出されることがあるけど、それが最優先されるかどうかは自明なことじゃないんじゃないかという話とか。
「宇宙倫理学研究会: 宇宙倫理学の現状と展望」 - logical cypher scape2

宇宙開発は巨額の予算が必要になる一方、一般の人たちにとってはメリットがわりとふわっとした分野であり、予算獲得という面では色々と厳しい点もある。
宇宙開発には意義がある、という主張を、哲学とか人文社会科学を使って、よりサポートすることはできないだろうか、という思惑があるということである。
科学基礎論学会シンポジウム「宇宙科学の哲学の可能性――宇宙探査の意義と課題を中心に」 - logical cypher scape2

あと、稲葉振一郎「「コンタクト・パラドックス」とその同類たち」というのがあって、「フェルミパラドックス」にも似た「コンタクト・パラドックス」という問題を、ボストロムのいう存亡リスクとも関連付けながら論じている(存亡リスクは長期主義と関わってくる概念だが、そんなに深刻にとらえなくてもいいのではないか、という論文である)。
それから、宇宙倫理学 - 株式会社昭和堂も今後読みたいなあと思っている。
特に、第4章(呉羽真)、第8章(岡本慎平)、第12章(稲葉振一郎)、第13章(吉沢文武)あたりか。


トランスヒューマンやエンハンスメント技術関係については、あんまり最新のニュースや応用倫理学的な議論を追いかけていないけど、実際にそうした研究開発に携わっている人が書いた本を読んだ際の感想としては以下のようなことを書いたことはある。

まあ、考えとしては分かるし、作ってみたら面白いかもしれないなと思う一方で、無論、こういうのはどれくらいアリな話だろうかとかも思ったりもするわけで、そのあたり、かなりあっけらかんとした書きっぷりであったなとは思った
稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える』 - logical cypher scape2

僕個人も、科学技術の発展については基本的に楽観的であり、科学技術の発達により未来はおおよそはよい方向へと進むだろうとは思っているが、根が文系なので(?)未来はバラ色一辺倒で話をされると違和感はある。
紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線 』 - logical cypher scape2


ところで、インターネットについては、ユートピアとしての期待を抱いてたことがあるのではないか、と聞かれれば、それについては、イエスかもしれない。
だからこそ、本書の第3章については、個別には聞いたことがあるような話もあるにも関わらず、ピンチョンから引用した「ネットの歴史そのものに、破滅のシナリオが、はじめから組み込まれていた」のではないかという観点から組まれたストーリーに対して、逆に深く頷かされているのかもしれない。
もっと若い世代にとって、インターネットがよくいってもディストピアでしかないことは自明かもしれないので。


閑話休題
ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースの3つについての類似性をまとめてみたけれど、やはり、アフロフューチャリズムは浮いているよな、と思う。
この本を手に取ったきっかけがロシア宇宙主義とTESCREALではあるので、そもそもの関心の問題もあるが、では何故その2つがきっかけとなったかといえば、ウクライナに侵攻したロシアとtwitterを崩壊させたイーロン・マスクが問題だからだ、と言える。
twitterの崩壊自体はどうでもいいといえばどうでもいいが、ビッグ・テック企業の富豪たちによる支配構造、みたいなものは、世界にとって漠たる不安材料ではあるだろう。
つまり、世界に危機をもたらす(かもしれない)奴らがいて、そいつらについて知るためにはどうすればいいのか、というのが、本書を読む際の動機かもしれない。
そういう動機のもとに読もうとすると、アフロフューチャリズムは明らかに浮いてしまうということである。
そうか、自分の中でこの本の位置づけが定まらなくてモヤモヤした理由がもう少し見えてきたかもしれない。
動機の面で言うと、むしろ時々安全保障の本を思い出したかのように読むのに近かったのかもしれない。
が、内容的には当然ながら、そういう政治学的なものではなくて、思想史とか科学文化論とかなので、そこに齟齬があったのかもしれない。
もちろん、安全保障論とか政治学的なものと思想・思想史や科学論は接続可能なものであるし、別に切り離されているわけでもないのだが、自分の中でそれをブリッジできる枠組みができていないのかもしれない。
加えて、この本もまた、そうした関心に直接的に応えるようなものではない。
例えば、ロシア宇宙主義やユーラシア主義の現代における回帰とか、サイバーカルチャーの政治的ラディカリズムの排除やインフラストラクチャーの軽視とかいったことについての指摘があって、(言い方があまりよくないが)現実の政治問題へと接地している箇所もあるのだけれど、しかし、現状への処方とか本書全体のコンセプトとかの話になると、精神ではなく身体というアーキテクチャによる抵抗とか、夢の破片をサルベージすることによる近代からの脱出とか、限りなく抽象的な話になっていく。
いや、抽象的だからよくない、というわけではないのだけど、心身二元論とか近代とか資本主義とか、相手取るものが巨大すぎる気がする。


ところで、民族的アイデンティティの問題とテクノロジーへの期待が結びつくという点では、中国でこそ、今まさに現在進行形で進んでいるところだろう。
中国というピースが一体どのようにはまるのか……。


アフロフューチャリズムについていうと、偶々、本当に偶々、以下の記事を見つけた。
「ぬかるみ派」という、加速主義などを紹介している批評系同人誌があるらしいのだが、そこのnote
イターシャ・L.ウォマック『アフロフューチャリズム』読書会/2022,10,9|ぬかるみ派

政治的に大事かはさておき、分析概念として文化や音楽が使えるというのは確かにそうです。(...)トリーシャ・ローズが、アフロフューチャリズムでロボットを扱うのは奴隷はロボットだからと言ったりなど、そうした意味合いで、批評の武器としては使える概念だとは思いますね。

アフロフューチャリズムもそうですけど、加速主義まわりに未来主義みたいなのがあるじゃないですか、あれすごく変だなと思って。(...)中華未来主義も、西洋人の勝手な中国社会への幻想・妄想を持つニック・ランドたちに対するユク・ホイの批判が出発点にあるんですが…

アフロフューチャリズム、中華未来主義、それともうひとつロシア宇宙主義が繋がる気がして、それがエイリアンとつながっているんじゃないか。

コドウォ・エシュンが言うのは、アフロフューチャリズムをもっと陣地戦的に使えということです。資本は過去だけでなく未来も植民地化するから、対抗的な未来表象を差し出して、それに対抗しろと言うわけです。

このnoteの記事を読んだからといって、アフロフューチャリズムのおさまりがよくなったかといえばそんなことはないのだが、うーん、やっぱり中国、とは思った。


何となく関連しそうな書籍を見つけた

本書の著者の2019年の著作。第1章がピーター・ティールだということに気づいた。ピーター・ティールという人自体最近知ったのだが、ペイ・パルの創業者でイーロン・マスクとも近しい人。
(追記)
アメリカ現代思想の教室 | 岡本裕一朗著 | 書籍 | PHP研究所の第5章がカリフォルニア・イデオロギー~ピーター・ティール~ニック・ランドらしいので、さらにコンパクトになっている版として読めるかも。第6章はアメリカの社会主義やポスト資本主義について。
(追記おわり)

サブタイトルは「〈ポスト資本主義〉を展望するための四類型」であり、この四類型として、「コミュニズム」「レンティズム」「ソーシャリズム」「エクスターミニズム(絶滅主義)」をあげている。目次をみると序論が「黙示録とユートピアとしてのテクノロジーエコロジー」というタイトルで、ここにもユートピアとテクノロジーが……。
『闇の精神史』は、ポスト資本主義的なことをなんとなくほのめかしてはいるのだけれど、そちらについてはあまり踏み込んではいないので。
自分は、政治的にも経済的にも心情的には左派ではあって、まあだからこそ、『闇の精神史』の、ユートピア的身体による抵抗を~とか、夢をサルベージしたりコラージュしたりすることで~とかは、フワフワしすぎなのでは、と思ったりもするのだけど、一方で、左派であるといっても、共産主義社会主義にコミットするガチ左翼ではないし、左派とはいっても、社会運動にも参加していないただのノンポリなので、そのフワフワ感に留まりたい気持ちもある。
(追記)
テクノロジーによる「ポスト資本主義」を夢みる「加速主義」、その思想が見逃していたこと(木澤 佐登志) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
人間が労働から解放される日は来るか? アメリカのミレニアル世代が支持する「左派加速主義」 | Web Voice|新しい日本を創るオピニオンサイト
左派加速主義は、労働のオートメーション化による労働からの解放・脱資本主義みたいなことを考えているらしい……。
本書『闇の精神史』の終章で、資本主義と社会主義はともにオートメーション化の夢を見ている(た)ということが書かれていて、上にまとめる際には省略してしまったのだが、この左派加速主義の議論と関わってくる話題だったのだな、と気付いた。
また、テクノロジーがもたらすユートピアと脱資本主義みたいな話は、ここでつながってくるのだなということが分かった。
ただ、上記記事で読む限りにおいては、左派加速主義の主張って、「そりゃあ働かなくてよくなってBIで暮らせるようになったらいいけどさー、さすがに現実味がなさすぎるのでは」という感じだし、実際、上の現代ビジネスの方の記事は、左派加速主義を批判する本の紹介である。
木澤が左派加速主義に対してどのようなスタンスをとっているのかは不明だが、しかし、本書のちょっとフワフワした感じは、左派加速主義への距離感のあらわれなのかもしれない、とはちょっと思った。少なくとも、本書に明示されていない文脈がまだあるのだな、と。
(追記おわり)

サブタイトルは「〈長期主義〉倫理学フレームワーク」であり、筆者は効果的利他主義を主張している哲学者とのことである。
ベネターの『生まれてこない方がよかった』もチラ見して結局読むのやめたしなー。反出生主義よりも、感覚的に受け入れやすそうな主張のようには思える。
(追記)
これからの「ソーシャル・グッド」の話をしよう。「効果的な利他主義」のジレンマを乗り越えるヒントとは|英文学者・河野真太郎 - あしたメディア by BIGLOBE
効果的利他主義への批判
効果的利他主義から長期主義へ──哲学者ウィリアム・マッカスキルが見据える未来の最大のリスク | WIRED.jp
有料記事なので読めていないが、上記の本『見えない未来を変える「いま」』の著者へのインタビュー。「長期主義に対するイーロン・マスクの関心がこの運動の障害になるリスクについて、マッカスキルに話を聞いた」と書かれており、長期主義者にとってもイーロン・マスクはナシなのか?
(追記終わり)
うーん、しかしこれらを読みたいか、自分? 
ある種の思想的文脈を背景におきつつも、しかし文化史・文化論的な本であることが、自分にとって『闇の精神史』に対するモヤモヤになってはいるのだが、しかし一方で、あくまでも文化史・文化論的な本であるからこそ、読みたいとも思えたし、読んで面白かったのではないか、という気もしてくる。
気候変動をきっかけにしてポスト資本主義社会を目指すSF、キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』を読むことにするか(これは以前から読みたい本リストの中に入っている)。
ロビンスンは、マーズ三部作キム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2でもポスト資本主義経済を描いているのだけど、そういえばマーズ三部作の登場人物の1人が、ボクダーノフの子孫という設定なんだよな……。
なんか、めちゃくちゃ長文の記事を書いてしまったけど、これでうまくオチがついた気がするので、ここで終わることにする。

*1:後述する

*2:これらの記事は2023-11-14 - 青色3号からリンクをたどって読んだ

*3:効果的利他主義と長期主義の組み合わせによって導かれる考え方と、反出生主義に似た匂いを感じることがある

*4:ソボールノスチはロシア思想のキーワードである。桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2参照

*5:シャルダンとともに「精神圏」の提唱者

*6:2010年代になって、地政学を関した書籍の出版点数が増えていることを受けて、地政学の流行現象、特にロシアにおけるそれを検討するというもの。地政学の「流行」は、日本だけでなくロシアやブラジルにも見られているらしい。学問としての地政学は一度消滅した後、実は80年代・90年代に復活している。しかし、近年になって「流行」している地政学は、100年前の古典的地政学そのもので、80年代・90年代の議論は反映されておらず、ドゥーギンも、古典的地政学の焼き直しだ、と。いわゆる地政学の「流行」は以前から気になっていたけれど、つい最近、本屋で子ども向けの本にも地政学のタイトルがあって、「ううむ……」と思っていたところだった

*7:つい最近、攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_ISSUE #01 特集_東洋的|The East - logical cypher scape2で名前を知ったばかりだったので、なんかタイムリーだった

*8:一方、個人的に、腸内細菌叢や脳腸相関というの、思われている程すごいものではない、という形で落ち着いていくのではないか、ともうっすら思っていたりはする

『ゴジラ-1.0』

いや、悪くない映画だったと思いますよ。
とりあえず見終わった後にはそう思った。
ただ、ブログに感想書こうと思って、言語化しようとすると、短所がぽこぽこ浮かびあがってくるんだよなー
とりま、よかった探しからしましょう。

ゴジラとか特撮とか

山崎貴作品を映画館で見るのは初めて(と思ってたんだけど、山崎貴Wikipedia見てて『寄生獣』があるのに気づいた。記憶から抹消してたわ……)
ジュブナイル』と『リターナー』はテレビ放映された時に部分的に見ていて、わりとよかったという記憶がある。
まあ、そんなわけで山崎作品については、お噂は色々聞いてはいるけれど実際に視聴してどうこうというのはなかった(いや、忘れてただけで『寄生獣』があったけど)。
一方、ゴジラ映画ということで、やはり劇場で見ておきたいなあという気持ちはあった。
そんな中、感想『ゴジラ-1.0』 山崎貴監督が語る「ゴジラとはなにか」。東宝の映画スター、その価値が最大化される銀幕にて - ジゴワットレポートで「「ゴジラと海」という一点においては、シリーズ過去作の追随を一切許さないクオリティである」という一文を見て、やはり見ておこうと思いが固まった。
実際、海を泳いで襲いかかってくるゴジラはよかった。
自分はサメ映画を全く見てきていないので、サメ映画としてのゴジラ、という観点からこの作品を語ることができないのだけど、まあ確かにそういうことなんだろうなあと思った。
機雷掃海艇(というにはあまりにもお粗末な木造船なのだが)でゴジラと相対するシーンは、実際かなりよかったと思う。
というか、近い!
これはなんというか、日米問わず最近のゴジラ作品にある傾向として、CGであるがゆえに、人間と怪獣の距離が近い
その距離でゴジラに遭遇したら間違いなく死ぬだろ、みたいな距離にいて、「いや、死ぬってw」と思わずツッコミ入れてしまうんだけど、あの迫力には敵わないものがある。


また、サメ映画的なのかどうかは自分にはわからなかったけど、『ジュラシック』的だと思うところはあった。
冒頭、ゴジラがまだ放射能で巨大化する前、とある島に襲い掛かってきて、主人公以外がバンバン食われていくというところから、この作品から始まるのだけど、とりあえず開幕シーンでモブが食われる、というのは『ジュラシック』感があった。
しかも、放射能で巨大化する前とはいえ、ティラノサウルスよりでかいので、その恐ろしさたるや、である。ばくばく人間を食っていく怪獣、というのは、意外と今までなかったのではないか、と。
ゴジラが出てくるの早すぎなんじゃないか説もあるが、あれはあれでよかったと思う。とりあえず冒頭にさっと出てきて、さっとモブ食うっていうのは『ジュラシック』シリーズっぽい。ゴジラという名前が出てくるのもあっさりしすぎだな、とは思ったけど。


で、ゴジラが出てくるシーンとしては、あとは銀座襲撃シーンがあり、これもまたよかった。
怪獣映画なら怪獣が街を蹂躙していくところが見たいよね、という期待に完全に応えてくれるシーンだった。
投擲された電車が吹っ飛んでいく様もよかった。
何より背びれのギミック!
今回のゴジラの一番よかったのは、あの背びれがガチッガチッと跳ね上がっていくギミックだった。
放射熱線を撃つ前のタメ、というのは、ゴジラの決めシーンだと思うのだけど、あの背びれギミックは前代未聞のアイデアだったのではないか。


ゴジラのデザインとしては、確かに顔はよかった。
しかし、海の中で泳いでくるゴジラ、つまり背びれだけ見えている状態とか、顔がどアップで迫ってくる状態とかはよかったんだけど、地上で引きのショットで見た時のゴジラ全身のバランスが個人的にはあまり好みではなかった。
平成ゴジラで育ったから平成ゴジラのバランスが一番好きで、本作だけでなく、『シン・ゴジラ』のも、モンスター・ヴァースのも、なんかちょっと違う感がある。まあ、これは完全に個人的な好みの問題か。なんかマッチョすぎないかっていうか。
本作の場合、全身ショットの時に、全体に比して顔が小さいような感じがして気になった。だから逆に、海中シーンだとそれは気にならなかったのでよかったんだと思う。
一方で、昼間シーンで怪獣の全身がちゃんと見えるというのは、隔世の感があるような(画面が暗いと散々言われた過去作色々あったような)。
皮膚の質感とかも結構よかったなあと思う。
基本的にVFXだけれど、電車はミニチュア特撮だったな。
個人的には特にミニチュア特撮への思い入れがないので、「ああミニチュアだなあ」というくらいの感想しかないし、ノルマ的に入れてないかという気がしないでもないが、しかし、使い方としては悪くなかったし、ミニチュア感が悪目立ちする感じもなかったと思う。
そういえば、上述の「距離が近い」話に通じるけど、銀座でゴジラを生中継しているテレビスタッフのシーンもよかった。


アクション面でいうと、あとは震電
自分は、ミリタリー知識があまりないし、旧日本軍や第二次大戦中の兵器には疎いのだが*1、まあ一応、ああいう変な戦闘機があったことは知っていた。
というか、荒野のコトブキ飛行隊で見たのだった。コトブキ見たときに、一応Wikipedia読んだりくらいのことはしたはずなんだけど、もうほとんど忘れてしまったな。
そういうわけで、「震電キター」とかにはなりようがなかったのだけど、しかしまあ、あの独特のフォルムの戦闘機が飛んでいるところは、面白かったといえる。

あらすじ

終戦間近に特攻を命じられた敷島少佐(神木隆之介)は、しかし機体の故障と偽って大戸島の基地に不時着する。その夜「ゴジラ」が現れる。整備兵から、機銃で攻撃してくれるよう頼まれた敷島だったが、恐怖に身がすくんでしまい、結果として、整備兵部隊は1人(青木崇高)を残して全滅する。
終戦を迎え実家に戻るも、両親は空襲ですでに亡く、1人で暮し始める敷島。そこに、若い母娘(母(典子):浜辺美波)が転がり込んでくる。その母娘も血のつながりはなく、空襲で肉親を失った者同士、見捨てることもできずに共同生活を始めることになる。
敷島は、機雷除去の仕事をすることになり、艇長(佐々木蔵之介)、学者(吉岡秀隆)、小僧(山田裕貴)と出会う。
ビキニ環礁の水爆実験により巨大化したゴジラが日本へと接近する。
ソ連を刺激することを恐れたアメリカは軍事行動をとらず、敷島らが、海上ゴジラと戦う羽目になる。
一度姿を消したゴジラだったが、政府は特に対策をたてず傍観。再出現したゴジラは、銀座の街で破壊の限りを尽くし、典子は爆風に飛ばされ姿を消す。
元海軍の人たちが集い、学者の発案した作戦によって、ゴジラを倒す計画が立てられる。


「戦争を終えることのできなかった者の物語」というテーマ設定自体はよかったと思うが、それがちゃんと達成できてはいなかった。
生き残ってしまったことという形而上の罪とどう向き合うかという話なんだけど、あんまりゴジラと噛み合っていないような。*2
あと、血のつながりがない疑似家族というモチーフも悪くないけど、全然扱えきれていない。子役はよかったけど。
他人の距離感を維持したいのか、家族になっていく過程を描きたいのかがはっきりしないというか。
「寝りゃいいってもんじゃないけど寝ないのかよ」的な感想を見かけたけど、実際それなんだよな。わざわざ律儀にカーテンで寝床を区切ってたりするんだけど、それがどう変化するのかみたいなことは描かれないわけで。

キャスト・キャラクター

神木隆之介*3についていうと、敷島の苦しみなり怒りなり恐れなり決意なりが示される、よい表情は何カ所かあったと思う。
ところで、感想を見てるとよく指摘されている、叫びすぎ問題なんだけど、演技や演出が悪いというよりも、そもそも敷島がどういう人物なのかというキャラクターの一貫性の構築レベルで失敗しているというか。キレ方が唐突すぎて違和感がある。
ところで、キャラクターの描き方という点では、吉岡秀隆演じる「学者」がよかった。
「学者」と呼ばれているが、もともと海軍で兵器開発をしていたという人で、アカデミアの人間だったわけでもなさそうな、現場とインテリの中間みたいな人。
敷島との距離感の取り方もよかったし、自分がたてた作戦についてのプレゼンの様子と、その後気心しれた人間と飲むシーンでは、自分がたてた作戦への不安を吐露する様子などのバランスがとれていた気がする。
彼については唐突感がなく一貫性が保たれている一方で、彼についていうと結構「戦争を終えることができなかった者」とか、形而上の罪への向き合いを感じさせるところがあったかなと思う。彼の内面のドラマは表立って描かれてはいないけど、何かしら感じさせるところがある。
佐々木蔵之介は、佐々木蔵之介が悪いわけじゃないんだけど、キャラクターがなー。彼もキャラクターの一貫性みたいなものは保たれているが、逆に言うと、彼にいうと一貫性が保たれすぎていて、ドラマ性がないというか。
あと「やったか」2回はやりすぎ

演出とか

細かい話でいうと、位置関係がなんか分かりにくいな、という印象があった。
ミクロなところでいうと、大戸島でゴジラが上陸してきた時の、ゴジラ・敷島・整備兵の位置関係が分かりにくかった。
整備兵がゴジラを見上げてるショットのあと、敷島がゴジラを見上げてるショットに切り替わるんだけど、海からゴジラが来たはずなので、陸地側にいる敷島と整備兵は同じ向きを向いているはずでは、という想定に反して、敷島と整備兵の向きが相対する向きになっていて、違和感がある。整備兵と敷島が同じ画面におさまるショットがその後にきて、イマジナリーラインを越えてたわけではないことが分かるので、どうもゴジラの位置が素朴に想定される位置と違ったっぽい(ゴジラー敷島-整備兵が一直線上にいたわけじゃないんだろう、きっと)。
あともう少しマクロな話だと、品川への上陸が予想されます的なセリフがあったあとに、銀座に上陸しましたって報告が入ってくるので、なんか混乱した。
それと、最後の作戦の時も、震電の整備場どこにあるんだっていうのが気にかかった。震電の整備場と港との位置関係が。別に映画なんで、地図とか地名とかを具体的に出す必要はないし、現実の地理と違っていても構わないんだけど、「そうか、全然離れた場所で作業してたのか」みたいなことが不意に気にかかってしまうというか。
そういうのに近い話としては、ゴジラが海に戻ったり、姿を消したりするシーンがないのも気にかかった。
機雷掃海艇での海上遭遇のシーンのあとと、銀座襲撃のあとで、それぞれ海に舞い戻っているはずなんだけど、明示的に描かれていない。ゴジラでは確かに上陸してから海に戻ってまた上陸してくる、みたいな展開自体はよくあるので分かるっちゃわかるんだけど、「あ、あのあと、ゴジラ海に戻ってたのか、そうか……」とちょっと分かりにくくなってた気がする。
本作、説明台詞が多い、という指摘が結構多くて、「だからよくない」というのと「だから話が分かりやすかった」というのと評価は分かれるんだけど、しかし個人的には、物語上説明してほしいところの説明は全然なくて分かりにくかったような、という印象がある。


色々物議をかもしてそうな敬礼シーンだが、敬礼がいいかどうか以前に、敬礼シーンの演出にタメがなさすぎる気がした。もっと、感動的に演出することもできたでしょ、あれ。
最後の最後は展開が早すぎて、典子生存とゴジラ生存も、まああの2つは、予定調和に過ぎないから別に時間かける必要ないといえばないんだけど、それにしたって、感動も驚きもなさすぎでは、と思った。


あと、黒い雨の使い方雑すぎ問題……
確かに、ゴジラというのは、放射能によって巨大化したという設定で、体内にはたぶん放射性物質があってそれをもとに熱線を吐いている、というのがおおよそシリーズに共通する設定だとは思うのだけど、一方、じゃあ実際にゴジラに近付いたり、熱線で攻撃されるとどれくらい「被曝」するのか、というのはあえて触れられてこなかったところだと思う。
普通のゴジラ作品で被曝可能性は無視されてきたと思うし、シンゴジの場合は、放射能が消える設定みたいなのを最後出すことで、放射能は気にしなくてもよくなりましたっていうことにしていたと思う。被曝云々に踏み込むと、エンタメとして成り立たなくなってしまうのだろうと思う。
ガイガーカウンターで接近を察知するというのは便利アイテムに過ぎないのでまあいいとして、「黒い雨」出されるとやはり被曝の可能性が無視できなくなるわけで、そうすると、最初にゴジラに接近して戦った敷島たちヤバいじゃんってところに連想がいってしまう。
あのシーンって、主人公の慟哭には雨降らせておけというクリシェでしかなくて、それ自体は百歩譲ってよいとしても、それを「黒い雨」という強く被曝を連想させるものにしてしまうのは、いただけなかったと思う。
原爆表象を気安く使うなという外在的な意味ででのいただけなさももちろんあるんだけど、それやっちゃうと、物語的にも本来収拾つかなくなってしまうのではないか、という内在的な意味でのいただけなさがある。瞬間的な絵のそれっぽさを優先して、作品全体のバランスや物語世界の整合性を無視しすぎではないか、ということ。
なんだろうな、そもそもテツガク的なテーマが展開されているとか、よく考証されていてリアリティがあるとかそういった作品ではなくて、ゴジラが暴れてるところが怖くて、最後に大団円迎えてハッピーエンドになって泣ける、という、何も考えずに見られるエンタメ作品なのだからこそ、必要もないのに黒い雨入れて変にシリアス度上げるな、と。ここでいうバランスとか整合性とかいうのはそういう意味。

「民間」について

シンゴジが政府だったのに対して、ゴジマイは民間だ、みたいな話は、事前にも目にしていたんだけど
民間っつうか、要するにあれは義勇兵だよな。
政府と民間という対立軸をもとに何か読み込める程の何かはなかった気がする。
それはそれとしてだ
個人的に、特撮作品によって、ある種の組織萌えみたいなものを持ってしまった者としては、物足りなさがあった。つまり、シンゴジにおける「巨災対」みたいに、なんかこう架空の組織でっちあげてもよかっただろう、と。
いや、本作の雰囲気にはそぐわないのは分かるけど、特撮映画には必要だろ、そういうの!
なんだろ、震電とか出す割に、そういうところのオタクっぽさがないんだよな。

ゴジラの倒し方

さて、「学者」が立案した作戦だが、史上もっとも地味な対G作戦だったのでは?
フロンガスゴジラの身体にまとわせると、浮力を失い深海へ沈下、水圧による圧死をもくろむ。圧死が失敗した際には、バルーンによる急浮上を実施し、減圧による死をもくろむという二段作戦。
いやまあそりゃ、普通の生き物なら死ぬだろうけど! 相手ゴジラですよ?!
それで殺せるのか?! っていうのは、作中の人物も気付いていて、佐々木蔵之介がツッコミ入れてたりするんだけど、まあ、そもそも他に策もないんだから、これでやるしかないだろう、と。
まあ実際に始まってみると、無人艦を激突させたり、フロンガス装置をガチャンガチャンと投下させたり、駆逐艦駆逐艦が互いに接触しながらすれ違ったりと、見所は色々あった。
装置ガチャンガチャン投下シーンと駆逐艦すれ違いシーンだけでも、この作戦やった価値はあると思う。
でも、ほかの船がたくさん来るところは笑ってしまった。みんなの力を合わせれば勝てる! 的な奴なんだけど、絵的にはちょっと笑ってしまうよ、あれは。
というか、浮上させれば減圧で死ぬっていう話にいまいち説得されていない観客側としては、みんなで必死にゴジラを引っ張り上げようとしているのも、「みんなで引っ張り上げたところでどうなるんだ? みんなちょっとハイになりすぎていない?」って感じであった。もっとメタに立てば、引っ張りあげたところを、神木隆之介震電でやっつけるんだよなってのは分かるし、逆に登場人物レベルまでいけば「学者が引っ張り上げれば死ぬっていうんだから引っ張り上げるしかないだろ」ってのも分かるけど、やっぱりこう「で、なんでみんなでゴジラを引っ張り上げようとしてるんだっけ?」って思っちゃうんだよな、あそこ。
特攻賛美なのか特攻批判なのか、みたいな話もされているみたいだけど、ゴジラ映画としては、そもそもゴジラは人間によって倒せる存在なのか、というのが大きな問題なのではないかと思う。
基本、ゴジラは通常兵器で倒すことはできず、何らかのスーパー兵器の開発が要請されるか、もしくは、他の怪獣との格闘によって決着をつけることが多いだろうし、あるいは、ゴジラが自分の目的を達したので勝手に海に帰っていくという展開も多いと思う。
その点、シンゴジの結末はかなりユニークなものだったと思う。
エメリッヒゴジラは、ゴジラをミサイルで倒せるわけないだろと散々批判されていたと記憶している。
今回、終戦直後の日本ということでスーパー兵器開発は無理だし、他の怪獣も登場しないわけで、そんな中で水圧で圧死させるのは、絵的に地味すぎるとは思うけど、アイデアとしては面白いといえば面白かった。
で、震電の攻撃は通常の爆弾による攻撃だけど、口内で爆発させれば効くという前振りと、頭部がふっとぶという絵によって、一応の説得性は持たせてはいた。
とはいえ、あっけなかったという感想。
というか、やはり前半に比べて、終盤は色々と物足りなさがあったかと。
っていうか、前半のゴジラは海では泳いでるのに、何で相模湾では「歩いて」いるのか、というか、立ち泳ぎ姿勢なのか、と。あの姿勢のまま沈んでいく絵にしたいのは分かるし、そもそもフロンガス装置を巻き付けるのには、立ち姿勢でいてくれた方が都合がいいけど。でも、やっぱあの泳ぐゴジラの方が、ビジュアルはよかった。


うーん、というわけで、言語化すると悪いところばっかり出てくるし、実際に悪いところは多かったと思うんだけど、しかし、劇場で見たことを後悔する映画ではなかった。
前半の、『ジュラシック』的な惨劇、海で襲いかかってくるゴジラ、銀座襲撃はやはり大画面で見てよかったなあと思うし、人間ドラマパートも、吉岡秀隆演じる「学者」というキャラクターがよかったし、疑似家族ものとしては客観的によい出来だったとは言えないが、子役に素直に感心してしまったので、そこまで点を辛くできないなあという感想。
絵的に地味だとか、それで殺せるのかとか言ったけど、ゴジラを網でぐるぐる巻きにしてみる、というのは面白いっちゃ面白いし、駆逐艦すれ違いシーンはよかったと思う。

*1:じゃあ現代の兵器に詳しいのかといえばもちろんそんなことはない。戦闘車両が何でも戦車というわけではないとか、戦闘機と攻撃機の違いとかは知ってるけど、具体的に写真見ても、見分けられないレベル……

*2:他の人の感想を検索していたら、ゴジラアメリカであり、銀座のシーンは「これがお前たち(アメリカ)のやったことだ」で、最後の震電によるゴジラへの攻撃は「これがやりたかったことだ」になっていて、右翼の溜飲を下げる作りになっている、ということを書いている人がいて、いやまあ確かに言われてみればその通りだなあとは思った

*3:内容と全然関係ないんだけど、自分があまりにも普段実写映画やドラマを見てなさ過ぎて、神木隆之介が主演だということを知っていたにもかかわらず、スタッフロールで神木隆之介の名前見たときに驚いてしまった。子役のイメージから離れられていない。同様に、吉岡秀隆でも驚く。吉岡秀隆についても、30歳くらいのイメージでとまっている

『モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平 批評空間臨時増刊号』

1995年に発行された『批評空間』の臨時増刊号で、現代美術批評の重要文献の翻訳が掲載されいてたことで有名だが、なおかつ、長いこと絶版が続いていて、重要にもかかわらず入手不可能であったためにある意味で「伝説化」もしていた。しかし、今では電子化されているので入手も容易になっている。
何故このタイミングで読んだのかというと、直接的には2023年9月Kindle月替わりセールを眺めて - 殺シ屋鬼司令IIでセール対象品になっているのを知ったから。
一方で、井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』 - logical cypher scape2ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル『なぜ美を気にかけるのか』(森功次・訳) - logical cypher scape2井奥陽子『近代美学入門』 - logical cypher scape2と、美学・美術関連書籍を連続して読んでいたので、その余波で読んでみることにした、というところもある。
モダニズムのハード・コア』というタイトル自体はかなり以前から知っていたのだが、しかし、当初は自分が美術に詳しくないこともあって、どういう本なのか全く把握していなかった気がする。
さて、今回実際に手に取ってみてようやく「これ、現代美術批評基本論文集だ」と理解した(かなり遅い)。
現代美術批評関連の書き手について、名前は知ってるけど……みたいな人が多いんだけど、これを読むことによってようやくマイケル・フリードがなんとなく分かってきた。
マイケル・フリード確かに重要人物だわー、と。
フリードについては(冒頭の座談会の影響もあると思うが)、読んでいて説得的かというと、確かに難点がある気はするけれど、書いてあることは好きだな、と思える論者だった。


本誌の中心人物として、フリードが据えられているのは間違いない。
本誌は、まず本誌の編集者でもある柄谷・浅田と磯崎、岡崎の4人による座談会から始まる。ここでの話題は複数あるが、やはりフリードをどのように解釈するのか、という話が多かったように思う。
次いで、翻訳パートとなっていて、
グリーンバーグとフリードそれぞれの論考の翻訳、
クラークとフリードの間で行われた論争の翻訳、
フリード、ロザリンド・クラウス、ベンジャミン・ブクローの参加したシンポジウムの翻訳、と大体フリードが関わっている企画が続く。
その後、クラウスの論考の翻訳があり、翻訳記事ではないが、来日したコスースへのインタビューがある。
最後に、日本語で書かれた論考が4編(それぞれ岡崎、松浦、田中、丸山による)があって、再び座談会によってしめられる構成になっているが、ここでもやはりフリードへ立ち返る内容となっている。

序 導入にかえて 浅田彰岡崎乾二郎松浦寿夫
モダニズム再考 磯崎新 柄谷行人 浅田彰 岡崎乾二郎
モダニズムの絵画 クレメント・グリーンバーグ
抽象表現主義以後 クレメント・グリーンバーグ
芸術と客体性 マイケル・フリード
クレメント・グリーンバーグの芸術理論 T・J・クラーク
モダニズムはいかに作動するのか マイケル・フリード
モダニズムに関する議論 T・J・クラーク
ミニマリズムとポップ以後の美術論
マイケル・フリード
ロザリンド・クラウス
ベンジャミン・ブクロー
ディスカッション:ミニマリズムとポップ以後の美術論
視覚的無意識 ロザリンド・クラウス
インタビュー モダニズム以後 ジョゼフ・コスースに聞く
経験の条件 岡崎乾二郎
美術館のなかのひとつの場所 松浦寿夫
美術史の曖昧な対象 田中純
「透明性」の内部 丸山洋志
モダニズムの再検討 岡崎乾二郎 田中純 丸山洋志 浅田彰 松浦寿夫

モダニズム再考 磯崎新 柄谷行人 浅田彰 岡崎乾二郎

座談会
グリーンバーグ主義を徹底すると、ミニマリズムに至るわけだが、フリードはそれを是としなかった。そこで彼は瞬間性というのを持ち出すのだけれど、フリードがその具体例としているカロの彫刻だって、瞬時に把握できるものではなく、フリードの議論には困難があるのではないか、という指摘。
また、建築についての話も同時になされていて、建築の世界では、ロウという人がフリードとパラレルなのではないか、と。
理論的にはポストモダニズムを批判しているけれど、文字通りに実現するとポストモダニズムになってしまう、と。
ポストモダニズムの先に、PC(ポリティカルコレクトネス)的な芸術があるけれど、岡崎などはPC的なものに否定的。
ロウの話の中で、フェノメナルな透明性とリテラルな透明性の区別という議論があって、これが興味深かった。


柄谷が、理論家としてのグリーンバーグと批評家としてのグリーンバーグの違いを指摘している。
20世紀後半のアメリカでは、批評の書き手が美術家にもなっていた。マニフェストの代わりとしての批評。
現代美術は、結論先送りゲーム
芸術領域の確定(科学でも道徳でもないものとしての芸術)は、他領域との緊張感において成立する。それがなくなると芸術の自律もない。美術の固有性は単にプレゼンテーションなのか。建築は結局「善」なるものか。サブライムにも科学的認識が必要だ、とか。
美術館の問題について。
ジャッドは自作の美術館を作ることになるのだが、逆にどんどんサイトスペシフィックになっていく
あと、磯崎の第三世代の美術館論とか。
ゴンブリッチウィトゲンシュタイン言語ゲームのように美術を見る、という指摘
磯崎など、コンペの選考を行うこともあって、選ぶのはすぐできるが、理屈はあとから考えて時間がかかる的な話をしていたのも面白かった。議論用に理屈は作れるんだけど、あとづけだと。

抽象表現主義以後 クレメント・グリーンバーグ

グリーンバーグ批評選集』にも収録されているけど、未読だった。
抽象芸術家を束縛したのは再現性ではなくイリュージョン
ポロックとホフマンによって、初めて印象に残るペインタリーな抽象絵画を見た
抽象表現主義=「絵画的であること」であり、ヴェルフリンがマーレリッシュとして特徴付けたような物質的な諸特徴を持つ。
絵画的な抽象は平面的ではない
1910年~1918年のカンディンスキーの作品は風景画に似ている
絵画的なものは400年前から三次元空間のイリュージョンを高めるための手段
ホフマンとポロックとゴーキーの絵画は、モンドリアンピカソの絵よりも額縁の背後に遠ざかる
1950年代以後の抽象表現主義は再現性を求めた→デ・クーニングの「女」
→「帰る場所なき再現性」
それ自体は悪くないがマンネリになるのが悪い
「密かな低浮彫」(絵の具を盛り上げる文字通りの三次元性)→デュビュッフェやフォートリエ
ヨーロッパにおける「帰る場所なき再現性」はヴォルス、ハートクンク、マチュー。これらの3人は線的
タピエスと菅井は、ヨーロッパにおけるジョーンズとディーベンコーン
ジョーンズとディーベンコーン
→デ・クーニング風ながら独自の作風
キュビスムと抽象表現主義
抽象表現主義がみな一貫して絵画的だったわけではない
ゴットリーブは絵画的と非-絵画的の両方で見事な作品
ニューマン、ロスコ、スティールは絵画的であることを放棄してしまった
色彩と開放性が絵画的であることの目的だが、この3人はそこから目を背ける
ティールは色彩の強調の主導者
ニューマンとロスコは、スティールより絵画的に見えるかもしれないが、直線的な形体は両義的。触覚性と線描を避けることで、積極的な開放性と色彩の鋭い効果へと到達
3人の芸術家が到達したのは、開放性の効果
この3人は、モダニズム自己批判を新しい方向へと変えた。芸術とは何かではなく、良き芸術とは何か
技量でも訓練でもなく構想conception
構想だけが個人的なもの。ニューマンの絵は複製が容易に見えるが、それを実際に着想するのは容易ではない
ネオ・ダダやコラージュなどは無難の趣味の支配を脱していない
色彩の本当の冒険は、オリツキーの「純粋な」絵画

芸術と客体性 マイケル・フリード

井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』 - logical cypher scape2で言及されていた。というか、まあ超重要論文のようだ。
ミニマリズムを批判し、カラーフィールド絵画やアンソニー・カロの彫刻を評価した。
その際に「演劇性」という概念を持ち出し、ミニマリズムをその演劇性ゆえに批判した。
最後に、この翻訳は、近刊『現代芸術論集(仮)』(勁草書房)に収録される予定のものを使わせてもらった的な記載が載っているのだが、おそらくこの論集は出版されなかった奴ではないか。このあたりの当時の事情やら反応やらを知らないけど、本誌が伝説化してしまったのは、この論集の出版企画が頓挫してしまったためか? 


フリードは、ミニマリズムのことをリテラリズムと呼んでいる(当時、ミニマリズムは呼び名が色々あった)。
ジャッドとモリスは、彫刻に反対して、全体性と単一性と分割不可能性という価値(スペシフィック・オブジェクトであることの価値)を主張
モダニズムの絵画
ノーランド、オリツキー、ステラは、客体としての形態とメディウムとしての形態との間に軋轢が生じている。この軋轢の鍵は、絵画として経験されるか、物体として経験されるか
それ自身の客体性の打破が不可避。形態は絵画に属すものでなければならない
リテラリズムは、諸客体の所与の特性としのて形態に全てを賭けている。客体性それ自体を見いだして投げ出す
グリーンバーグは、芸術と非-芸術の境界を彫刻に探す。この「非-芸術の状態」の意味が、フリードのいう客体性
モダニズム絵画は客体ではないかのようだ
「リテラリズムによる客体性の擁護は、結局、演劇の新しいジャンルのための口実以外の何物でもない。そして演劇とは今や芸術の否定である」
リテラリズムの経験は、観客を含む経験
1.人間の身体サイズに近い
2.リテラリズムの諸理念に、日常の中でもっとも近いのは「他人」
3.リテラリズムの作品は中空=内側を持つが、それは擬人的
隠された自然主義・擬人観が、リテラリズムの中核にある
リテラリズムの悪いところは擬人観ではなく、擬人観の意味が演劇的であること
トニー・スミスが語る高速道路の経験
高速道路は誰にも所属していないが、スミスにとっての現前性によって確立された状況は彼のものだと感じとられている
演劇として効果的になるほど作品はますます不必要になる
絵画は断じて物体ではない。マネ以降、ますます本質的な客体性をあらわにしていくものだという理解は思い違いである。
アンソニー・カロの彫刻を見るに値するものにしているは、シンタクスのうちにある。各々の要素の相互関係
モダニズム彫刻にとって客体性が問題になってきたのは、色彩に関してもである
オリスキー《ブンガ》
彫刻のメディウムとして絵画の表面を確立しようとする試み。客体の表面ではなく絵画の表面に似ている
(1)諸芸術の成功または残存は、演劇性を打破するそれらの能力に左右されるようになってきている
演劇は観衆を所有している。リテラリズムの作品は観者に依存し、観者がいないと不完全
演劇を免れている芸術は映画。しかし、演劇からの逃避であって克服ではないので、モダニズムの芸術ではない
(2)芸術は演劇の状態に近付くにつれて堕落する
カーターの音楽とケージの音楽との差異、ルイスの絵画とラウシェンバーグの絵画との差異
(ケージとラウシェンバーグは演劇的だと言っているのだと思う、多分)
(3)質と価値という概念は重要である。諸芸術の内部においてのみ全面的に重要なのである。諸芸術同士の間隙に位置しているものが演劇なのである。
リテラリストたちは質または価値の問題を避けている
ジャッドにとっては、「興味」をひきだしているかが問題
モダニズムの諸芸術においては、「確信」が重要
ジャッドのスペシフィック・オブジェクト、モリスのゲシュタルト、スミスの立方体は、常に興味をひく。それは無尽蔵だからだが、無尽蔵なのは豊穣さではなく汲み尽くすべきものが何もないから。終わりのなさ、ジャッドのユニットの繰り返し
不確定な持続の呈示、スミスの夜間ドライブの記述はそれに関連
リテラリズムの時間への没頭(経験の持続への没頭)は、典型的に演劇的
ノーランドやオリツキー、デイヴィット・スミスやカロの作品について、人は無時間のうちに経験するのではなく、どの瞬間にあっても、作品それ自体が完全に明示的であるから。持続性を持っていないかのようである(ある場所からだけカロの作品を見たからといって、作品経験が不完全になるわけではない)
興味深さには「はかなさ」があるが、確信には「はかなさ」はない
(はかなさは、シュルレアリスムにも共通。シュルレアリスムとリテラリズムはともに、断片的で不完全なイメージを採用、擬人化に頼る、閉ざされた部屋やうち捨てられた人工的な風景を重要視する、といった共通点がある。どちらも演劇的な感性)
モダニズムの絵画と彫刻は、現在性と瞬時性によって演劇を打破する


ソンダクと演劇性について触れている注釈がある。
また、注釈でスタンリー・カヴェルへの言及がある。カヴェルと親しく、かなり影響を受けていたみたい。


このフリード論文についてググっていたら見つけたので、参考にはっておく
マイケル・フリードとジョナサン・エドワーズ——『アメリカ哲学史』翻訳余滴|入江哲朗

モダニズム政治学

美術史家のクラークが、グリーンバーグについての記事を書いたところ、フリードが反論してきて、それにクラークが再反論した、という3つの論文が訳出されている。
最初から紙上討論として企画されていたものではなく、クラークにとっては寝耳に水みたいな感じで、フリードから反論が飛んできたものらしくて、ガチ討論となっているというか、ところどころ感情的な言葉の応酬すらみられるものになっていて、面白い。
訳者や、論争当事者であるクラーク自身ですら、すれちがいになっていると述べている論争であり、また、美術批評の文脈を共有していない自分にとっては意味不明な部分もあるのではあるが、しかし、だからといって別に「罵詈雑言言ってて面白い」とかそういう意味の面白さではなくて、それぞれが何を重視しようとしているのかということが伝わってくるものにはなっていて面白いのである。

クレメント・グリーンバーグの芸術理論 T・J・クラーク

グリーンバーグの「アヴァンギャルドキッチュ」「さらに新たなるラオコオンに向かって」(特に後者)について論じている。これ2本とも『グリーンバーグ批評選集』に収録されているが未読。
クラーク自身がマルクス主義的批評の人らしいが、グリーンバーグのこれらの論文の中にも、マルクス主義的なものを読み込む。というか、グリーンバーグのこれらの論文の掲載誌(『パルティザン・レビュー』)の当時の雰囲気(マルクス主義文化)がまずそうしたものだったということを指摘する。
ブレヒトは当時のグリーンバーグにとって鮮烈
デカダンスへの反応としてのアヴァンギャルド
(1)アヴァンギャルドは西洋ブルジョワ社会の一部であり、しかしその母体から距離をとる。
社会から切り離されたものと自身では想定しているが、黄金のへその緒によって結びついている(つまり、経済的にはブルジョワ社会と密接に結びついている、と)
(2)アヴァンギャルドは、イデオロギーの分裂から芸術を守る1つの方法
(3)ブルジョワ文化はかつて自身の文化を持っていたがこれを放棄した。その代わり、マス化された疑似文化・疑似芸術が生まれる。キッチュアヴァンギャルドは、放棄された貴族主義的芸術として生まれた
アヴァンギャルドの豊かさは、平面性に芸術以外に由来する価値の数々を与えた。平面的とはポピュラーの類似語
モダニズムの負性、否定、空虚、無

エリオット的トロキズム

モダニズムはいかに作動するのか マイケル・フリード

クラークに反論するものだが、グリーンバーグ擁護というわけでもなく、クラークとグリーンバーグがともに、芸術に本質があるという誤解を共有している、と批判している。
その上で、クラークの議論における難点もあげている(例えば、具体例がなさすぎ、とか)


クラークの主張の中心は、モダニズムの実践が根本的に否定であったというものだが、これを否定する
グリーンバーグやクラークの発展史観を批判


フリードの立場
(1)絵画芸術に固有の目的と限界とを規定する超歴史的な存在の否定
(2)確信の政治学
(4)モダニズム画家が発見しようとするのは、本質ではなく、約定の数々である。
これは、哲学の反基礎付け主義と関連しているという。


カロのテーブル彫刻について
「《テーブル作品第22番》が芸術であるとの確信は(...)作品のなかで作動しているすべての関係の全き正しさに、もとづいている。批評家がまず責任を負うべきは、その種の正しさにたいする直観なのであって、またその直観のゆえに批評家は直接に報われるのである」
この一節、わりと好き。

カヴェル経由でウィトゲンシュタイン受容したことが述べられている。
グリーンバーグアヴァンギャルドと「ポピュラー」アヴァンギャルドデュシャンとダダ)の区別→演劇的なもの=ポストモダニズム

モダニズムに関する議論 T・J・クラーク

フリードへの再反論だが、クラーク自身、論争とはすれ違うものだが、みたいな言及をしており、困惑しつつ、ガチで反論している。
細かいところでいうと、具体例がないのは具体例を論じると議論に矛盾が生じるからだとと言われたクラークが、違う例を挙げて、この例についてフリードは自説に矛盾なく説明できるのか、と反論しているところとかキレてる感あって面白い


いつのグリーンバーグについての議論なのか、が大事。
「名作」だけを頼りに芸術の歴史を説明しようとしても無理がある(フリードは「名作」以外の作品を無視してるだろう、という批判)。ダダと初期シュルレアリスムを盛り込まないことに悪びれてない
フリードと自分との違いは、知覚第一主義にどのような態度で臨むか
知覚第一主義は精読を主張するが、成功する読みは、1つの事柄に集中することではなく、複雑な要素を総動員すること。優れた批評家(エリオット、リーヴィス、ディドロ、コウルリッジ)は、批評の対象を歴史や政治から解釈している。グリーンバーグの全盛期はまさにそうだった。
カロやオリツキーは自分にとっては退屈
フリードは、現在性の恩寵を説くが、自分の神の名をがなりたてているだけではないか。宗教的だからいけないわけではない、エリオットやコウルリッジは宗教的コミットメントの歴史的問題を語り尽くしていた。


これ2人とも、自分は歴史主義的で相手は本質主義的だ、といいあっているような気がする。

ミニマリズムとポップ以後の美術論

これはシンポジウムか何かでの公開討論で、3人の基調講演とディスカッションを訳出したもの。

マイケル・フリード

グリーンバーグの非歴史的な発想に賛同できなくなった。
カヴェルから後期ウィトゲンシュタインについて教えてもらったから。
「演劇性」が芸術にとって敵なのは、現在の美術において、という意味だった。演劇性があるけど重要な芸術もある、という弁明。
「演劇性」については、その後、ディドロ論やクールベ論でも展開してるよ、というような話。ディドロ論は、最近邦訳が出た『没入と演劇性』だと思う。クールベ論は邦訳ないっぽい。

ロザリンド・クラウス

今回のシンポジウムが、フリード「芸術と客体性」を巡るものなのだと指摘

ベンジャミン・ブクロー

今回の登壇者である3人(フリード、クラウス、自分)の違いと共通点を挙げている。
3人とももともと美術批評を手がけていたが、今ではアクチュアルな批評はやらなくなっている点などが共通点。
フリードはモダニズム、クラウスはポストモダニズムと、批評で評価していた対象は違っていた。

ディスカッション:ミニマリズムとポップ以後の美術論

登壇者同士だけでなく、会場の質問者も含めて、ファーストネームで呼び合っているのがアメリカっぽい(?)なあと思った。
ハル・フォスターが司会をしている。
冒頭からブクローが「アンソニー・カロをメルロ=ポンティで論じてるけど、カロはポンティ読んでないよね、ロバート・モリスは読んでるのに」っていうジャブをいきなり飛ばしてくる。
フリードは、カロを評価して、モリス含むミニマリズムを評価しない立場で、その議論の中でメルロ=ポンティを用いているけど、明示的にメルロ=ポンティからの影響を受けているのはカロじゃなくてモリスの方なのではないか、という指摘で、フリードは、実際に読んでたかどうかはあんまり関係ないのでは的な交わし方をしようとする。
フリードは、このシンポジウムの時点で、美術批評よりは美術史へと転換しているわけだが、元々美術史家であるブクローとは、方法論が違うのだろう。フリードは、このシンポジウムの中で、ブクローについて実証主義的と評している。
大体、フリードとブクローが対立して、クラウスが少しフリード寄りだったりする(フリードとクラウスは古くからの知り合いだが、フリードとブクローはほとんど初対面らしい)
ブクローだけでなく、オーディエンスもわりとフリードに批判的な質問をしてくる人が多くて、フリードは倒すべき過去の権威なのかなあという感じがする。
質問者を納得させるには至っていないが、しかし、フリードもフリードで結構的確に打ち返しているよなあ、という印象はあった。
「今となっては、あなたが擁護していたタイプの芸術は凋落して、批判していたタイプの芸術が繁栄したのだから、間違いを認めたらどうか」のようなことが、ブクローやオーディエンスから出てくるのだけど、フリードはこのあたり全く揺らがないというか、今でもカロのことは評価してるし、それは全然変わらない、という反論をしている。フリードは「確信」というのをキーワード的に使っている。
そのあたり、フリードは結局自分の好みの作家を推してるだけでは(無論、フリード自身は個人の好き嫌いの話じゃないと述べるが)、みたいな疑念は当然浮かぶわけで、ロジカルな部分でフリードが勝てているかというと微妙なのだが、しかし、批評家としての一貫した態度はあるように思う。
あとは、批評ってもう終わってるよね、みたいな話に対してどうこたえるかとか。
クラウスからフリードに対して、カロについてソシュールを持ち出すのって、瞬間性の話と矛盾してないかとツッコミを入れていて、フリードが後日追記している箇所で応答したりしていた。
この、フリードがカロについて瞬間性で読もうとするの無理があるのでは指摘は、座談会で浅田も繰り返している。

経験の条件 岡崎乾二郎

マティスの礼拝堂の壁画について
→統一されたひとつの三次元空間というものが希薄。色彩・デッサン、複数の場面などが分離している
ゴンブリッチ『手段と目的』
アリストテレスの三一致の法則
→「装飾」「象徴」「描写」の三機能の分析
→絵画空間(イリュージョン・「描写」)の契機として「感情移入」
むしろ、時の分離ないし両立しえない複数の場面の分離が条件なのではないか
マチスは、回想という行為(ヴェロニカはハンカチーフを通してイエスの受難を回想し、我々はそのハンカチーフを見て回想の回想をする)によって時制の統一を行ったのではないか。そしてそれはゴンブリッチのいう「感情移入」と通じる
ゴンブリッチは、三一致の法則が使えないほど複雑に時制が入り組んだ場面の描き分けの際には「非現実性のレベルの差」(美術史家サンドストレーム)が使われてきたという
「非現実性のレベルの差」とは、例えば、寓意は彫刻として描き、回想場面は画中画として描きなど、表象間に現実性の階層を作り、区分する方法
しかし、この現実性のヒエラルキーを決定するのは現実には不可能(ただし、ゴンブリッチは主題が描かれた画面が中心となると想定していた)
マティスの礼拝堂壁画では、非現実性レベルの中心が失われ、等値に並列されているように見える。が、ヴェロニカのハンカチーフだけが浮き上がってみるのはなぜか。
場面の順序を示す数字が、ハンカチーフ内部に書き囲まれている。
非現実性のレベルが攪乱されると同時に、別方向から秩序立てられている、と
(ところで、論理と知覚の関係として、「現実とイリュージョン」などの区別自体が論理であり、「論理に媒介されない知覚判断はない、ないし、知覚それ自体に論理は書き込まれている」ということが書いてあって興味深い)
そもそもマティスの絵画は、そういうことを繰り返してきたのではないか
部屋が希薄化し、部屋の中の絵(画中画)や彫刻について、部屋の中にいる人物なのか画中画なのかわからないような状態になる
→見るものが自分の位置を確定できない
見るものの視線の不確実化は、フリードがいう「没入」に近い
フリード曰く、古典的な演劇的な絵画に対して、観客の存在を無視して自己の行為に没入している人物を描く傾向が、1750年代のフランス絵画で発生してきた、と。
「この世界を見ていながら、この世界に属していない」という感覚。しかし、それこそが近代的な意味での主観性を成立させたものであり、また、演劇性と対立するのではなく、演劇性を成立させる条件
ヴェネツィア派の絵画は、画面の統一ではなく、異質な次元の分裂であり、彩色、筆触、明暗、形態などの画面を組織する文法ごとに画面を別個に連合しており、文法ごとに異なる視覚のゲームを遂行させるようになっている、と。
で、これは最後「(続く)」となって終わっていて、どうも連載記事らしい。
ルネサンス 経験の条件』という著作があって、これにまとまっているのかな。

美術史の曖昧な対象 田中純

リーグルが指摘したが、ヴェルフリンが見逃したことで、一方でベンヤミンには引き継がれた「視覚的」と「触覚的」の分裂という問題について


美術史が自律したのは19世紀・リーグルやヴェルフリンから
彼らの手法は「様式史」であり「形式化」
フィードラーによる「純粋可視性」の理論
→知覚・表象は外からの受動的な受容ではなく、現実への能動的な介入。「可視的なもの」の台座は人間の身体
ヘルムホルツの理論を前提
ヘルムホルツの師であるミュラー:神経を刺激すれば感覚が生じる(外界と接している必要は必ずしもない)ことを発見
ジョナサン・クレーリーは、ミュラーの理論を「認識論的スキャンダル」と呼ぶ
ミュラーの理論は、モダニズム絵画による指示対象の不在を示していた


リーグル
装飾にも歴史があることを見出す
衰退期(デカダンス)への着目
様式の発展とは、知覚形式の変化
「芸術意欲」とは、画家個人の意図ではなく、知覚形式の変化を決定づける力、すなわち時間。永続的なものになろうとする規範を破壊する破壊者。衰退期における芸術意欲は、それまでの形式を引き裂く。
芸術意欲を形式化してしまったパノフスキーはこの観点を見逃している
リーグルの芸術意欲は、形式化の果てに見いだされるもの
こうしたリーグルの認識を継承したのは、ウィーン学派内部ではなく、ベンヤミン
リーグルは末期ローマ
ベンヤミンバロック演劇
さらに、この系譜には、バロックからロココにかけての建築ドローイングを分析したリンフェルトがいる


アウラの衰退と知覚形式の変容
視覚(遠隔視)と触覚(近接視)の矛盾・裂け目=作品
現代における知覚形式の中心であり、アウラの衰退をもたらす触覚とは、外傷的なショック
不死なものと非芸術の類比

モダニズムの再検討 岡崎乾二郎 田中純 丸山洋志 浅田彰 松浦寿夫

メンバーを入れ替えて、冒頭の座談会と似た内容でもう一回座談会をしている感じだが、
こちらでは、ゴンブリッチとの比較などにも触れられていた
冒頭の座談会も含めて、具体的に作家名など挙げてその評価がさも当然のように共有されている形で話が進むのが、なかなか鼻につくところではあるのだが、「ステラはどうしてああなっちゃったの」ってところは共感してしまった。というか、プロから見てもそう思うのか、というか。具体的には、浅田が「ブラック・ペインティング」まではいいけどそれ以降どうしちゃったのかと言って、岡崎が、あれは完全にフリードのせいですよ、と答えている。


岡崎が改めてモダニズム批評について整理していく。
グリーンバーグにおいては、「単一性」「視覚性」「実在性」の3つは一致する。図と地の対立を超克しようとした。
ミニマリズムは、図と図で成り立つような作品を作り、物体(実在性)であることを強調することになって、フリードはミニマリズムの実在性への依存を批判した。
知覚から想像は区分できないのであり、図と地の二元論というが、図と地も分離することはできず、想像されたものと想像されたものが並立する。透明性はあくまでもフェノメナルなものである。
クラウスは、図と地に二元論にしろフェノメナルな空間にしろ、背後から条件づけているマトリックスの効果だとした。が、精神分析帝国主義
ジャッドはラディカルで、モダニズムの極限だが、結構立ち位置は微妙な人。絵画を単なる物体にしてしまったけれど、家具とかと比較される場合には、美術というジャンルの線引きを維持した。
フリードが擁護したカロは、必ずしもラディカルではない
「ステラは気の毒な人」
ところで、グリーンバーグは、柳宗悦を読んで「シブイ」とか言い出していたことがあるらしい。


フリードとロウの共通点は、知覚をコンベンションからとらえること
ラスキン以来のモダニズムが前提としてた純粋視覚を否定している
この点でゴンブリッチなどと近い。
田中が、美術史について、ゴンブリッチとフリード、ロウの系譜に対して、ヴェルフリンからグリーンバーグヘという系譜と、リーグルからベンヤミンを経てクラウスへという系譜があると整理する。
岡崎は、ゴンブリッチの流れとリーグルの流れはそれほど違わないのではないかという。視覚と触覚という対比があるが、ゴンブリッチの場合、アフォーダンスなどから影響を受けており、視覚ではなくて、身体図式や認知の話をしている。リーグルの前のヒルデブラントも視覚と触覚を統括する身体的なコンベンションの話をしている
浅田は、フリードはそういうコンベンションを前提にしているのにそれを括弧にいれて、純粋視覚が可能であるかのように語るのが問題だと指摘している。


グリーンバーグやフリードはヨーロッパでは読まれているのか、という問いに対して、最近になってから、ヨーロッパとアメリカの比較論をしたり、建築の話をしたりしている。
フランク・ゲーリーについてや、バックミンスター・フラーの名前も出てくる
最後の方で、岡崎はヴェネツィア派にも言及している
絵画の諸秩序が分散・融合して、見つくせない魅力がある、と。なお、ロスコはそれを単純化しただけだ、とも。
また、「いま・ここ」の世界の確率的なあり方を知覚せよ、という話もしていて、ヴェネツィア派の絵はそういう絵だ、とも。
また、岡崎が、ブクローやクラークをdisってる箇所もあった。ここらへんもPC批判とつながっている話か。

感想というか

自分は、東浩紀から批評を知った人間で、遡って読むような殊勝なところもなかったので、『批評空間』については間接的に知っているだけだった。
浅田彰は、過去にも対談なり座談会なりは読んだことあるんだけど、改めて、浅田彰はまとめ力の強い人だなーということを感じた。
全体的に、岡崎の発言や論考が面白い・興味深いと感じるところが多かった。PCへの冷笑的態度みたいなのが気にかかりはしたが、そのあたりは『批評空間』全体の問題なのだろうかな、と(なんかそんなような話を以前見かけたことがある)。
ヴェネツィア派の話にしろ、フェノメナルな透明性の話にしろ、複数の次元・秩序のものが並列して存在している、という話が、個人的にはかなり興味深いというか、自分の考えとつながったりするところがありそうだなと感じられた。
ただ、ヴェネツィア派の絵については、本物は見たことなくて、写真を見ただけど、その限りはあんまりどういうところがそうなっているのかはよくわからなかったが。
岡崎、田中、松浦って名前は知っているけれど、あまりよく知らないというか、ニアミスし続けてきた人たち(学生時代に表象文化論をかすめつつも、そっちに行かずに分析哲学・美学に行ってしまったので)
美術史とかも今まであまりよく分かっていないところだったので、付け焼き刃的にググってWikipediaとかを読んだりした。
田中純とヴァールブルクについていうと、そういえばイメージ学の現在 - 東京大学出版会という本があって、神経美学関係で存在は知っていたのだけど、神経美学関係の論文は概ね『思想2016年4月号』(特集:神経系人文学――イメージ研究の挑戦) - logical cypher scape2で読んでいたのでスルーしていたのだった。しかし、ヴァールブルク関係について、ちょっと興味わいてきたかもしれない。
人名とかググったので、ちょっとまとめておこう。

  • アロイス・リーグル(1858~1905)

 『美術様式論』『様式への問い』
 「視覚」と「触覚」の対立図式を提案
 ブレンターノやマイノングに学ぶ
 ウィーン学派の形成・ヴォリンガーへ影響

  • ハインリヒ・ヴェルフリン(1864~1945)

 『美術史の基礎概念』
 「線的なもの-絵画的なもの」など5組の対概念

 『抽象と感情移入』
 ヴェルフリンに学ぶ、リーグルからの影響も

  • アビ・ヴァールブルク(1866~1929)

 ハンブルク大学でヴァールブルク研究所(ウォーバーグ研究所)を設立

  • ヴァールヴルク研究所(ヴァールブルク学派)

 1900年・ハンブルグで創設、 1944年・ロンドン大学
 在籍メンバー


あと、アメリカ美術批評関係者の年齢・世代比較

  • クレメント・グリーンバーグ(1909~1994)
  • スーザン・ソンダク(1933~2004)(本誌に直接登場しないが言及されている。年齢・世代比較の参考に)
  • マイケル・フリード(1939~)
  • ロザリンド・クラウス(1940~)『オクトーバー』創刊者
  • ベンジャミン・ブクロー(1941~)『オクトーバー』寄稿者
  • ハル・フォスター(1955~)『オクトーバー』編集委員
  • ジョナサン・クレーリー(1951~)(本誌に直接登場しないが言及されている。年齢・世代比較の参考に)

『科学2023年6月号』(特集:意識とクオリアの科学は可能か?)

クオリア構造学とかロボティクスからのクオリア研究とか言語との関係とか
以前、生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2があったけど、一部重複する人もいるけれど、領域がまた違う感じ。
『生体の科学』にもいた大泉・土谷がこちらにもいて、クオリア構造の研究がより進展しているのが面白かった。実際の実験が行われている。
クオリア構造比較実験を行ったという大泉論文と、集合的な記号創発(言語獲得)とクオリア他我問題をかけあわせる谷口論文が特に面白かった。
乳幼児のクオリアを扱った森口論文や、構成論的アプローチによる堀井論文も面白かった。内受容感覚大事。
谷口論文と佐治論文は、言語とクオリアの関係を扱っているけれど、サピア・ウォーフ仮説的な言語から知覚への影響についての話が再び形を変えて戻ってきている感じなのだろうか。
土谷・谷口対談については、4月号からの続きだったらしいので、4月号もあわせて読んだ


[巻頭エッセイ]意識の科学の系譜と最前線……土谷尚嗣

もともと主観的なものとして避けられてきたけど、測定技術が発展して、様々な意識の理論(グローバル・ワーキング・スペース説と統合情報理論が代表例としてあげられている)が出てきて活況を呈してきているが、それらの理論の「試金石」がない状況であり、クオリア構造が試金石になるはずだ、と
かつては、指導教官のコッホから、グラントにConsciousness(Cword)とか書くな、Attentionとかで書くんだ、と言われていたけど、時代が変わった的なことでしめられていた。

意識をもつのになぜ身体が必要なのか――身体的潜在経験の世界へ……田口 茂

意識に身体は必要なのか。
閉じ込め症候群の患者の意識は身体なしの意識なのでは? → そもそも意識が発生するのに身体が必要なのではないか(その後、身体が使えなくなったとしても)。
ホヤは、幼体の時は動くことができて脳があるが、成長して固着生活を送るようになると脳が消える→身体制御なくして脳はなく、脳なくして意識はない、つまり身体なしに意識はないのでは。
また、ゴンドラ猫の実験から、能動的に身体を動かす経験の重要性について。
それから、色の恒常性錯視について、仮想的に右から見たり上から見たりした時にどう見えるかというものを統合して判断しているのだ、と(少しフッサールの名前も出している)
仮想的なメンタルローテーションは明示的には意識されていない、潜在的なもので、そうした潜在的なあれこれを統合したものが、明示的に意識にのぼるのではないか。
つまり、クオリアというのは、潜在的な様々な身体的動作などの「要約」なのではないか、と。
最後に、現象学とエナクティブ・アプローチの相性の良さに触れ、今後、神経科学的なアプローチとも統合していきたい、と。

クオリアの発達的起源……森口佑介

乳幼児のクオリア研究は、言語的報告ができないこともあってほとんどなされていなかったが、その研究を少しずつしているよ、という話。
例によって視線を向けている時間を測定することで、視覚意識があるかどうか調べる実験
それから探索行動をする時間を測定することで、確信度合いを調べることで、メタ認知しているかどうか調べる実験*1
乳幼児も意識体験を持つと考えられるが、例えばイマジナリーフレンドみたいな、成人とは異なる特徴も持つ。どのように発達していくのか研究はほとんどされていない。
今後、乳幼児についてのクオリア構造(クオリア間の類似度の距離)が研究課題である、と。
構造を捉えるという先例としては、ピアジェ構造主義があった。しかし、用いている数学において限界があった(同じドメイン間でしか比較できない)。今なら、圏論を用いることができる(違うドメイン間でも比較できる)。

感情のクオリア――そのソワソワした感覚に何かメリットはあるのか?……小泉 愛

まず、感情研究においてクオリア(主観的側面)を取り扱う意義を説明している。
感情研究では、発汗量とか心拍数とか客観的側面を調べるのが主流であるが、しかし、感情そのものと相関していないことがある(心拍数が早くなるほど不安の度合いが大きくなる、とは限らないということ)。薬の開発において、心拍数が下がったから効果ありとされても、実際に不安が抑えられていなかったら意味がないわけで、クオリア研究は社会的な意義もあるのだ、と実用的側面を指摘している。
そういう指摘を自分は今まであまり見たことがなかったので面白かった。
クオリア研究において、その進化的側面や機能について着目したものは実は少ないと前置きして、「不安」の機能について試論的なことが書かれている。
つまり、行動を持続的に方向付ける機能を持っていて、だからこそ進化的に獲得されたのだろう、という話。
感情が、行動を方向付けるものとして機能していて、それが適応的だったというのは、大枠の話としては分かる。が、クオリア全体に一般化できるかどうかはよく分からないな、と思った。
あと、哲学だと、クオリアと機能の関係でいうと、志向性の話されることが多いと思うので、こういう話はあってしかるべき議論だと思うけど、ちょっと新鮮だった。

ロボットは感情クオリアをもつことができるのだろうか?……堀井隆斗

構成論的アプローチによる感情クオリア研究
ロボットが感覚情報について機械学習してカテゴリ化を行うみたいな研究だと思うのけど、ページ数の問題か、そのあたりの方法論についての紹介がほとんどなくて、こういう結果が得られたといってグラフが貼られているのだけど、そのグラフの読み方がちゃんとは分からなかった(何となくこんな感じかな、というのは分かるが)
まず、クオリアの発達について、乳幼児は言語報告が難しいので、ロボットを使うという研究について
視聴覚情報に加えて触覚情報も使うロボットと、触覚情報は使わないロボットと(C繊維を持つか否か)で、感覚情報の構造化が得られたのだけど、前者の方が人に似た構造を持つと。
次に、内受容感覚とクオリアの関係について、人間にセンサをつけて実施した研究。
これはいわば人間をロボット化した研究だという。心電とかの情報(内受容感覚)を使って機械学習を行ったのと、そうでないのを比較する。
食べ物の好き嫌いの時の反応から好き嫌いの感情構造を獲得
多くの人が、今存在しているロボットには感情はないと思っているだろうし、筆者もそのように考えているが、内受容感覚の有無(つまり臓器の有無)が重要なのではないか、と。
なお、この堀井論文は、前述の小泉論文や後述の谷口論文や佐治論文、あるいは『科学』1月号(構成論的アプローチ特集)の論文も参照している。

言語はクオリアを斉一化するために創発したのか?……谷口忠大

他我問題やサピア・ウォーフ仮説のような言語と思考の関係についての問題への、記号創発システム論からの仮説
私とあなたで同じ「赤」を感じているのかという問題と、私とあなたで「川」という言葉でイメージするのは同じなのかという問題。
記号創発システムの研究で、マルチモーダルな概念獲得というのをやっているのは、以前谷口忠大『記号創発ロボティクス』 - logical cypher scape2で読んで知っていたが、さらに、複数のロボット間で記号と観測の対応関係が揃う、これを「集合的予測符号化」と呼ぶことにした研究というのもやったらしい。
紙幅の問題もあり、さらっと紹介されるにとどまっていたが、この「集合的予測符号化」気になる。
ググったところ、https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjsai/JSAI2023/0/JSAI2023_4H3OS6b01/_pdfがあった。
言語学習と感覚情報を同時に学習した際の内部表現
さて、その上で、タイトルにあるとおり、言語がクオリアを斉えるために生まれたのではないか、と論じている。
機械翻訳で異なる言語間で対応づけが可能に
言語学習で習得されるクオリア構造は他者と一致するという仮説
言語はコミュニケーションのために進化したといわれるが、その内実として、クオリア構造一致があったのではないか、と。
うーん、面白そうな話
ここで安易にウィトゲンシュタインの名前を出してくるの安易に過ぎるし、要検討ではあるけれど、思わずウィトゲンシュタインを想起してしまう話ではあるよなー。

クオリアと言語……佐治伸郎

最初に、モノクロのイメージが示され、これが何に見えるかという実験が紹介される。何の形とも言いがたい形なのだけど、「リンゴ」という言葉が先に提示されていると、リンゴにしか見えなくなってしまうという実験。言語による指示が、クオリアにも影響を与えるという傍証として。
また、「ネコ」という言葉でも「ニャー」という鳴き声でも人は猫を想起するけれど、言葉の方がより強く想起させるという実験もあるらしい。
言語がクオリアに影響を与える例として、言語隠蔽効果とプラセボ効果の名前も挙げている。
また、サピア・ウォーフ仮説的な話についての実験で、英語における青が示す範囲について、ロシア語はさらに2つ分かれるらしいのだが、その範囲内で、2つの色を示されて色の異同を判断させる実験をすると、どの範囲で示されたかによって英語話者とロシア語話者で判断速度が変わるという結果がみられるという。また、ロシア語話者に対して、他の言語的課題をやらせて言語面に妨害をかけると、この速度差が消える、とか。
ただし、知覚の全てが言語に影響を受けているわけではないことは筆者も認める。
例えば、以前ネットで話題になったドレス問題(「白と金」か「青と黒」か)は言語に影響を受けない。
何が言語に影響を受けて、何が影響を受けないのかは今後の研究課題だと。
その上で、言語と思考の関係については古くから論じられてきたテーマではあるが、過去においては。客観的で連続的な世界と離散的な言語の関係として考えられてきた。連続的な光のスペクトラムを、離散的な色名がどのように切り分けているのか、という問題として。
しかし筆者は、問うべきは知覚の構造と言語の構造の関係である、とする。

あなたの「赤」と私の「赤」は同じ?――自分のクオリアと他人のクオリアをつなぐ数理……大泉匡史

土谷尚嗣『クオリアはどこからくるのか?』 - logical cypher scape2生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2で扱われていたクオリア構造について、実際に行われた実験の話。
クオリアは主観だから測定できないと考えられてきたが、関係性(赤とオレンジは似ている、赤と青は似ていないなど)であれば測定できる。心理学などでは、珍しくないアプローチ。
クオリア構造を調べる端緒として(クオリアは色だけではないが)色について調べた。
類似度アンケートを行う。色の組み合わせが4桁通りあるので、1人の被験者が全部答えるのは困難。複数人の答えをかけあわせる。類似度のベクトルで、ある被験者グループにとっての色の関係性構造を作る。
別のグループの関係性と比較する。この時、どのベクトルがどの色と対応しているのかという情報はいったん外して、関係性だけにした上で、一致するかどうかを調べる。
で、これが一致した。赤が他の何色と似ているのかという関係性において、比較が可能になった、と。
また、定型色覚と非定型色覚では、一致しないことも確かめられた、と。
クオリアは、色だけでなく他にも色々なものがある。色クオリアと匂いクオリアの関係性をどう調べるかという問題もある。また、これはあくまで関係性でしかない。といった課題はあるが、しかし、少なくとも、私のクオリアとあなたのクオリアが同じであるといえるための「必要条件」は分かったのではないだろうか、と。

意識状態とは何だろうか――〈圏上の非可換確率構造〉による理解の試み……西郷甲矢人

筆者は、数学者で、量子場に関する数学の研究をしていたが、共同研究を通じて意識研究にも自分の数学研究が応用できるのかと考えるようになった、と。
最初、「状態」とは何かという話から始まる。「状態」って何となく使われているけど、数学ではちゃんと定義されている、とか
普通の確率論は可換なのだけど、これは非可換確率論の特殊ケース。量子論は非可換確率論が用いられる。で、ヒルベルト空間のことがちょっと出てくる。
で、これが量子論だけでなく意識研究にも使えるのではないか、と。
うーん、全然分からんかったー

意識に迫るべくクオリア研究を切り拓く 「アリス」から,さらに先へ〈番外編〉……土谷尚嗣・谷口忠大

土谷と谷口の対談。4月号に掲載された対談の続き、らしい。
土谷は谷口と自分の共通する考えとして「知能(意識)は関数ではない」がある、という。doingではなくてbeingなのだ、と。
谷口は、関数=function=機能であり、何か役に立つことができるとして捉える知能観を退ける。例えば、2歳や3歳にも知能があるけれど、何か役に立つようなものではない、と。
土谷は、意識研究の方法としてみな報告が必要だと考えているけど、そんなことはないはずだという。1つは、無報告no report課題というのがあり、もう1つとして、massive reportというのがある、と。後者は、先述の大泉論文でも出てきたが、複数の人の報告を組み合わせるというもの。大体このあたりはいちいち聞かなくてもみんな同じだろう、と想定する。
土谷は、自分の基本的な問いとしてクオリア構造の比較があるといい、谷口が、他我問題ですね、と拾う。谷口もそれは同じで、土谷が理学部で、自分が工学部出身なので、脳研究とロボット研究というそれぞれ別の実現方法をとったのだろう、と。
再びno reportの話に戻り、土谷はこれを「純粋経験」の話と結びつける。哲学では議論があるけれど、科学ではまだ扱われてこなかった。しかし、これも意識経験に違いないわけだから、と。

「アリス」から,さらに先へ1 ロボットに意識は宿るのか?……土谷尚嗣・谷口忠大

土谷が、意識研究においてはまず「身体なしの意識」がありうるかで意見がわかれるとして、自分は身体なしの意識は可能だと考えるという。ただし、現在のCPUに意識が生じるとは考えていない。ニューロコンピュータなら可能ではないか、と。そういう意味では、ある種の身体(素材のことか?)は必要だ、と。また、田口茂とこの話をした際に、田口は身体からの入力がなくなったら、一時的に意識は持続してもいずれ意識は消滅するだろうと考えたのに対して、土谷は脳内のループだけで意識は持続するのではないだろうか、と考える。
谷口は、身体という時3つを区別した方がいい、と。1つは、ニューロモーフィックコンピュータのような、ソフトロボティクスなど機械系の人が重視する、形態に機能が宿るというような意味での身体、2つ目は感覚運動系の身体、3つめは社会的存在としての身体。自分の場合は、2つめで使う、と。
また、意識が生じる・生じないという時、時代によって「意識」という概念の変化が起きていることに注意しておいた方がよい、とも。例えば、注意することと意識することは、かつてはあんまり区別されていなかったが、今ははっきりと区別されている。
ロボットに難しいことについての話(ものをつかんだりすることが難しい)など。
アリスの小説を書くに当たって、言語獲得についてはできるんだけど、歩かせるのが難しかった、と。
最後に、小説の中でアリスの内観報告を書かなかったことについて。これは、『科学2023年11月号』(特集:新しい恐竜学) - logical cypher scape2の岡ノ谷との対談にもつながる。

*1:メタ認知を確信度合いで調べるというのは、生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2でサルの研究で紹介されていた

アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

人類存亡の危機に立ち向かうべく、別の惑星系へ旅立つことになった1人の科学教師の物語。
アンディ・ウィアー『火星の人』 - logical cypher scape2アンディ・ウィアー『アルテミス』 - logical cypher scape2に続くウィアーの第三長編。
アストロバイオロジーSFであり、ファーストコンタクトSFでもある。


邦訳は2021年12月にでたようなので、2年くらい経っているのか。そんなにめちゃくちゃ放置していたわけでもないけど、それでも結構読みそびれていた作品だ。
『火星の人』も『アルテミス』も面白かったので、本作もきっと面白いのだろうという予想はしていたのだが、なんとなく読み損ねていた。
ここ1年ほど、「おすすめSF」とかその手の記事には、必ず『三体』と本書のタイトルが挙げられていたような気がするが、それだけに逆に、天邪鬼になってしまって読むのを避けていたところもあるかもしれない。


さて今回、実はこの本を読んではいない。聞いた。
オーディオブックで聞いたのである。
『SF超入門』のオーディオブックが出るのでオーディオブック自体の良さをオススメする。 - 基本読書を読んで、オーディオブックを試してみようかなと思ったのがきっかけであり、なんとなく白羽の矢が立ったのが本作だった。
オーディオブックの聴取体験自体は決して悪いものではなかったが、手元にテキストがないのでこのブログ記事は完全に記憶のみで書いている。
オーディオブックの難点みたいなものを挙げ連ねようと思えば細かいことを色々挙げられるが、しかし、本書をオーディオブックで聞いたこと自体は全体としては悪くなかったように思う。
ただし、自分の生活とあまりマッチしていないというか、オーディオブックで一冊聞き終わるのに結構日数がかかってしまった。もちろん、オーディオブックがなかったら本作を実際に読む機会はもっと後になっていたかもしれない(場合によっては読まずじまいになっていたかしれない)ので、その点、オーディオブックがあってよかったとは思うのだが、今後継続的にオーディオブック聴取を組み込むのもちょっと大変かなと思った。


以下、ネタバレに配慮せずにあらすじや感想を書く。
本作は各所で「ネタバレを踏む前に読むこと」が推奨されており、実際そうした配慮により、自分もネタバレを踏まずに読むことができたのは確かであるが、このブログではあまりそういう配慮しない方針なのであしからず。
ところで、本作についてネタバレを回避することを求める人たちは、一体どの点が致命的だと考えるのだろうか。
というか、謎解きがプロットを推進しているので、ありとあらゆる点が致命的だと言われればそれはその通りなんだけど、順々に読んでいくと順当に解けていくので、「これは意外な展開!」みたいなところはあんまりない気がする。
いや、逆に意外性がないからこそ、事前に知らない方がいいのかもしれないが。
ラストについては、納得感はあるけど意外ではあった。違うラストを予想していたので。しかし、このラストについては、本作の魅力にとってあまり大きなウェイトを占めていないなと思う*1
個人的には、グレースが何故ヘイル・メアリー号になることになったのか、というところが、下巻のプロットにとって一番重要な謎だったと思うので、この点についてのネタバレは致命的になるなと思う。
一方で、それ以外の点についていうと、ネタバレがあったからといって、決定的に面白さを削ぐことにはならないのではないか、と個人的には思う。
もちろん、これは受け手の側の問題であるので、「絶対ネタバレは踏みたくないんだ」という人は回避すべきだと思う。
一方で、この作品について、あらすじを全て知った状態でも読む価値があるのかといえば、個々の結論よりはその結論に至るプロセスに面白さのある作品だから、読む価値はあると思う(逆にそのプロセスまで細々と記されたあらすじを知ってしまった場合、本文を読まなくてもいいことになるかもしれないが、そこまで細かく書かれたあらすじは本文とほぼ一緒ではないか、という気はする)
もっとも、文体重視の作品なのかプロット重視の作品なのかといわれれば、圧倒的に後者ではあるので、プロット全部が分かってしまうと削がれてしまう面白さは確かにあるが……。
このぐたぐだした文章で何か言いたいかというと、「ネタバレしないこと」は確かに望まれる配慮なのかもしれないが、一方で、「物語内容について一切合切触れずに感想を書くこと」がよいことだとも思わない、ということの正当化である。



この作品は、2つの時系列のパートが交互に進んでいく構成になっている。
1つは、記憶喪失状態で宇宙船の中で目覚めた男の話
もう1つは、地球を救うプロジェクトに巻き込まれた科学教師の話
後者は前者による回想になっていて、だんだんと、何故自分がこの宇宙船に乗っているのかを思い出していくという展開になっている。
宇宙船のパートは、まさに『火星の人』のウィアーらしいパートで、一つ一つロジカルにユーモアを交えて問題を解決していく、というものになっている。
(ところで、基本的にポジティブでユーモアを忘れないというのは、ウィアー作品に一貫した特徴だが、前2作と違って、下ネタはほとんど言わなくなっていたと思う。主人公が中学校教師だからだろうか。また、前2作と比べると、ネガティブになることもあったり、人間的弱さも垣間見えたりするところがある気がする)
そもそも自分が一体何者なのかも忘れた完全な記憶喪失状態の中、自分がヤード・ポンド法メートル法を使い分けていることから、自分はアメリカ人の科学者なのではないか、とか推理していくのである。
一方、過去のことも少しずつ思い出していき、自分の置かれた状況を理解していく。
彼は、ライランド・グレースという名前で、中学校の科学教師をしていた。何故か今は宇宙船に乗っていて、太陽系ではない恒星系を飛行している。他のクルーは亡くなっており、宇宙船に一人きりという状況になっている。
グレースは一体何故、恒星間飛行をすることになってしまったのか。
太陽が光度が謎の減少を始め、それはなんと、謎の宇宙微生物が太陽のエネルギーを食べていたからだった。
太陽光度の減少は、近いうちに地球の寒冷化をもたらし、人類は絶滅の危機に陥ることが予想された。
グレースは、ストラットという謎の女性に突然拉致されて、この微生物を調べるように言われる。グレースはもともと宇宙生物学者だったのだが、生命誕生に必ずしも水は必要ではないという論文を発表した際にフルブッコにされたのがきっかけで、研究者をやめて中学教師になっていたのだった。
グレースは、この太陽のエネルギーを食べる微生物をアストロファージと名付け、培養に成功する。
このアストロファージ、もしかして水不要生物なのではないかと最初考えるのだが、基本的には地球生物と同じ仕組みで、ミトコンドリアなども持っていることが分かる。
で、太陽以外にも光度減少が起きている恒星が他にも発見される。アストロファージは、特定の波長の赤外線を発する(ペトロヴァ・ラインと呼ばれる)ので、それを観測することで、他の恒星もアストロファージに「感染」したことが分かる。さらにその中で、タウ・セチ(くじら座タウ星)だけが、アストロファージに感染しているのに、光度減少を起こしていないことがわかる。
何故、タウ・セチは光度減少が起きていないのか、それを調べるためにグレースはタウ・セチ星系までやってきたのだった。
さて、アストロファージはミトコンドリアを持っているので、地球生物と祖先を共有している可能性があり、アストロファージは恒星間移動が可能な生物であることから、パンスペルミア仮説が強く示唆されるわけであり、本書でもそのことへの言及が度々ある。
がしかし、地球滅亡の危機を救うことが主人公たちの主目的であり、本書のプロットもそこへ向けて進むので、アストロファージ播種メカニズムやパンスペルミア仮説の検証などは行われない。このあたり、SF的には大ネタだと思うのだけど、あまり掘り下げがない。
また、グレースの持論である生命水不要説については、彼をアストロファージ研究に引っ張り出す際の動機付けに使われた後は、ほとんど出てこない。アストロファージには水が必要だったので、グレース説はやっぱり間違いだったという結論で終わっていたように思う。
あの説は、グレースの宇宙生物学者としてのユニークさを示すものだと思うのだけど、伏線として用いられることがなく、物足りなさがあった。
別に、必ずしもSF的大ネタをかまさなきゃいけないわけではないだろう、といえばその通りなんだけど、うーん。
なんでアストロファージの感染拡大がこのタイミングで起きたのかとか、過去に起きたであろうパンスペルミアもアストロファージ的な何かの感染拡大として起きたのかとか、そのあたりは気になるっちゃあ気になる点である。


さて、回想パートでは、地球でのアストロファージ対策大作戦の様が描かれていくことになる。
具体的には、ストラットという謎の女性が中心となって、次から次へと世界中の頭脳が招聘されてくることになる。
ストラットは、世界各国からとんでもない権限を付与されており、人類を救うという目的のため、タウ・セチへ行くための恒星間宇宙船を開発するプロジェクト・ヘイル・メアリーを進めていくことになる。
これはグレースが発見したことだが、アストロファージは、E=mc2通りに質量をエネルギーへ変換できる夢の仕組みをもちあわせている。これをもとに恒星間宇宙船を実現しようというのが、プロジェクト・ヘイル・メアリーだ。
エンジンの開発、アストロファージの量産、宇宙船の設計、そして4年間という長期航行をどのように乗り切るのか、解決策をどのように地球へ持ち帰るかという課題が次々と現れ、それらの解決策を持ち合わせた研究者が次々とスカウトされてくる。ストラットは、太平洋上に中国の空母を貸し切っていて、そこで研究開発がすすめられる。
また一方、地球の寒冷化を少しでも遅らせるため、人為的に南極の氷床を溶かして温暖化を進めるという策もとられる。
人類にとって未曾有の危機をもたらすアストロファージだが、エネルギー問題を解決してくれる超有益な存在でもあるし、恒星間宇宙飛行をするにあたっては放射線防護材としても使用できるというお役立ちアイテムにもなる。アストロファージって便利だな的な展開が面白くもあるけど、ご都合主義にも見えなくもない(ちゃんと理由付けはされているけど)。まあ、本書は、ご都合主義的にうまくいく展開が面白さの源になっている気もするので、ご都合主義だからよくないわけでもないけど。
人間は長期間閉鎖空間に置かれると殺し合いを始めてしまう。これを防ぐためにストラットは、人工昏睡技術に目をつけるのだが、人工昏睡ができるのは、昏睡耐性遺伝子を持った人だけという限定がつく。
まあとにかくこの回想パートは、何故か次第にストラットの副官的なポジションにおさまっていくことになるグレースが、ひたすらストラットに振り回されながら、個性の強い世界各地の科学者たちと知り合っていく、という物語になっている。
宇宙船パートと回想パートは交互に進むので、大体宇宙船パートで出てきた謎や問題が、回想パートで解決されていくような感じになっている。なんでこんな風になっている? ああ、こういう理由があったためか、と。


一方の宇宙船パートの方だが、ファーストコンタクトものになっている。
大体状況が分かってきたところで、他の宇宙船と接触することになる。それはやはりアストロファージに「感染」したエリダニ40星系からやってきた異星種族(グレースは「エリディアン」と名付ける)だった。
クモのような姿をしており、また岩のような見た目をしているため、グレースはこの個体のことを「ロッキー」と呼ぶ。
未知の宇宙船の発見から、相手のことを推論しながら徐々にコミュニケートしていく様子は、ウィアー作品ならではのファーストコンタクトで面白い。
元素の周期表とか数字とか物理とかの共通しているところから翻訳を進めていくわけだけど、それ以前に、きっと自分と同じようにアストロファージについて調べにきたに違いないという前提があって、それは大きな賭けでしかないんだけど(グレースもそれは分かっている)、それに成功していく。
エリディアンは、地球とは全く異なる環境(高温・高圧・アンモニアが主成分の大気、重力も地球より大きい)で進化した生物で、その生理や習慣も異なる。何より彼ら(あるいはロッキー)は優れたエンジニアリング技術を持っている。
以後、グレースがサイエンス面を、ロッキーがエンジニアリング面を担当するという分担がなされ、異種族間バディものとなっていく。
まあ、科学に関する語彙が翻訳・修得できるのは分かるとして、それ以外の、(言語学面では素人のはずのグレースとロッキーが)正直そんな簡単に翻訳・修得できるのかってレベルの語彙でも会話できるようになっていて、そのあたりの難しさはわりとスルーされていた。もっとも、そのあたりの難解さまで細かく拾っておくと、物語が進まなくなってしまうので仕方がない。
エリディアンは、人類にとっては未知のキセノナイトというキセノンを含んだ金属を、あらゆる工業製品の材料として使用している。このキセノナイトがかなり万能だったりする。アストロファージとキセノナイトがあると、大体の問題が解決するんじゃないかな、と。
このエリディアン、人類よりも優れた種族なのではと思われるのだが、実は科学知識についてはそうでもないことが分かってくる。
彼らは、視覚を持たず、聴覚によって周囲の環境を把握している。また、超人的な記憶力と計算力を有している。そのためか、彼らは放射線と相対論について全く知らず、なおかつコンピュータに関わる技術も全く持っていないのである。そんな状態で有人宇宙飛行を達成してしまったことによる悲喜劇もある。
こちらの宇宙船パートは、彼らが協力しあいながら、タウ・セチ星系のアストロファージの謎に挑み、タウメーバを採取し、帰還の算段をたてるという物語で、船外活動や惑星への接近などアクションシーンも豊富なものになっている。


いずれのパートでも、様々な問題がグレースの前に立ちはだかるが、それらは全て解決される。実験に失敗したり、迂回したりすることもあるのだが、それでも問題は解決されるものとして描かれている。
問題解決のための科学的プロセスがこの作品の魅力であり、優れたハードSFになっているのは間違いない。
しかしここでは、あえて、本作の解決されざる問題について触れておきたいと思う。
それは、グレースの個人的な問題と、ストラットが語る人類史の問題である。
ストラットは、旅立つ前のグレースに対して、自分が歴史を専攻していたこと、そして人類の歴史のほとんどは食糧争いだったことを告げる。アストロファージ禍が、再び人類を食糧争いに突き落とすになるだろうことを語る。
本作で登場する様々な問題は、自然科学と工学によって解決される問題ばかりだといってよい。しかし、人類がいかにしてこの争いを回避できるか、争いに突入するとしてもどれだけその被害を最小限に食い止められるかという、社会科学や政治に属する問題に対する解決策は、明示されない。
ストラットという人物は、各国政府からフリーハンドの権力を与えられており、プロジェクト・ヘイル・メアリーを遂行するための政治的問題をその権力によって悉くすり抜けていくわけだが、食糧難に陥った際に人類がとるであろう行動に対しては、さすがのストラットも無力であり、歴史を学んだストラットは誰よりもそのことを痛感している。
それは、彼女がプロジェクト・ヘイル・メアリーの実現になりふり構わず奮迅する理由でもあるのだが、この問題は、グレースが直面しない問題でもある。
グレースは、人類がそのような決定的な危機に陥る前に旅立ち、そして、グレースが地球に戻るよりも前に、太陽系のアストロファージ問題は解決する。太陽の光度が回復した早さから、少なくとも人類は宇宙航行技術などは維持できたと推測されるが、人類がどのように困難の時代を生き延びたかは描かれない。
無論、本作にとって、その点が描かれないこと自体は必ずしも瑕疵ではない。
作品の完成度を考えた時、地球の社会科学的問題をあえて描かなかったことは正しいのだが、しかし何故、ストラットは地球を去るグレースにわざわざそんなことを語ったのか。
無論、1つには、特攻ミッションであるヘイル・メアリー号への搭乗を断固として拒否するグレースに少しでも動機付けを与えるためかもしれない。
しかし、ストラットという登場人物レベルで見ればそうかもしれないが、作品レベルで見たとき、そもそも何故グレースは無理矢理搭乗させられなければならなかったのだろうか。
ここにグレース個人の問題が見えてくる。
グレースは、もともとアストロバイオロジー研究をしていた科学者だったが、自説が認められなかったことをきっかけに、中学校の科学教師になった人物である。
彼が、科学教育という仕事にやりがいを持っていることはよく分かるのだが、しかし、彼が転職した経緯自体は、かなりネガティブなものである。
ストラットは、グレースが何事からも逃避しているのだと指摘し、グレースもこのことを認めている。このシーン自体は、グレースがかなり追い込まれている場でのことなので差し引いて考える必要はあるが、しかし別のシーンでグレースは、教師でいると子どもたちから尊敬されて居心地がよい、ということをかなり無防備に語っており、これは事実だと思われる。
教師が教え子から尊敬されること自体は良いことではあるが、教師自身が「みんなが僕のことを尊敬してくれる環境って気持ちいいなあ」と浸ってしまうことは必ずしも健全ではないだろう。少なくともこの物語において、グレースが教師になった動機が「みんなが認めてくれないから研究はやめて、みんなが尊敬してくれる教育をやろう」というものであり、それがグレースの弱さ・逃避的な傾向と結びつけられているので、よいものと見なされてはいないはずだ。
無論、グレースがこうした人間的弱さを持っていることは、グレースという人物のリアリティや魅力ともなっていることは確かだ。全然、英雄的な動機をもっておらず、死にたくないというある意味当たり前の感情を抱えた人物が、行きがかり上、英雄になっていくという物語自体は、読者の共感を誘うものだとも言える。
(グレースが実は志願者じゃなくて無理矢理乗せられたことと、彼の人間的弱点は密接に関わっている)
しかし、結局この、グレースが「研究から教育へと逃げた」という個人的問題が解決されたように見えないのが、物語の作りとしては気にかかる。
もちろんグレースは、子どもたちのことが好きで、教育にも情熱を傾けている人で、決していやいや教育をやっている人物ではない。
とはいえ、じゃあ彼の科学に対する情熱はどうなったのか。最終的に教師として生きることを選択するとしても、それは逃避からではない、という動機付けの再設定みたいなものがあった方がよかったのではないか、と思うところはある。
自分は、回想パートと宇宙船パートが合流してグレースが地球を見るところで終わるのかな、と途中までは予想していたのだが、この予想は外れた。それ自体はそれほど問題ではない。グレースが地球に帰らず、エリドにとどまる展開自体はロッキーの存在を考えると説得的だし、エリディアンと人類の共存という希望あるシーンでもある。
しかし一方で、グレースがエリドで教師をしていたことは気にかかった。
エリディアンの子どもたちに対してグレースが先生をやっているシーンは、絵としては美しいものがあるし、うまく物語の円環を閉じているようにも見える。
だが、上述の理由により、教師をやっている動機付けをもう少しはっきり示してほしかったところがある。
例えばグレースは、宇宙船パートの中で、エリディアン生物学についてもっと研究したいぞ、と思っているシーンがあり、科学者としての情熱がまだ残っていることがありありと窺えるのである。アストロファージの生態や伝播、あるいはパンスペルミア仮説との関係など、彼にとって興味深い研究テーマはまだまだ残っているはずである。彼は、プロジェクト・ヘイル・メアリーにとって必要な問題を優先するために、そうした純粋に科学的な問題を後回しにしていたはずだ。
すぐには地球に戻らずエリドにいることにしたのはいいとして、エリドにおいて彼には研究したいことがいっぱいあるはず。しかし、後日談にはそうしたことは描かれておらず、彼はエリドで教師の仕事をしている。
もちろん、この後日談においてグレースは既に50を過ぎており、それなりの時間経過があったことが分かる。その間に学究生活も送っていたのかもしれないし、その中で自然と教師の仕事が持ち上がり、積極的に科学から教育へと意識が切り替わったのかもしれない。
しかし、そのようなことははっきりとは描かれていなかった。
そしてもう一つ気にかかることは、彼の地球に対する消極的な態度である。
もちろん、彼と地球の間には相対論的距離が立ちはだかっており、また、そもそも地球での人間関係が希薄であることもあり、戻るよりも、バディであるロッキーとともに過ごす方がよい、という選択は理解できるものではある。
とはいえこの結末は、グレースが、地球人類がアストロファージ問題を解決できたかどうかはっきりするまで、地球に向き合うことを避けていたようにも読める。
後日談は、ロッキーが太陽の光度が回復したことをグレースに告げに来てくれたシーンを描く。しかしそのことは、グレース自身は必ずしも太陽の観測にコミットしていなかったことを意味するし、またその後の彼の独白は、太陽の光度回復がわかってようやく、自分が地球に帰ることを検討し始めたようにも読めるからだ。
本作は、次々と様々な問題が持ち上がるが、しかし次々とそれらの問題は解決されていく。たまに解決が足踏みすることもあるとはいえ、その足踏みも含めて解決のプロセスは小気味よく進んでいくし、それが本作の魅力になっていると思う。
しかしだからこそ、人類の争いという問題が、解決策を明示できない=本作では描くことができない問題として残される。
「本作では描けない」ということと、グレースの「地球に向き合えない」という逃避的傾向は重なり合っているように思える。
これが本作の欠点なのか長所なのかは判断しかねるところがある。
古典的な脚本術というレベルで考えると、主人公の個人的な問題が解決されないままになっているのはあまり望ましくないことのように思える。
一方でしかし、自然科学・工学のレベルでは解決できない問題(人類の争いという問題とグレースの個人的問題の両方)があることを示す点で、ある意味では作品の誠実さとしても捉えることができるかもしれない。
ただし、物語全体に対してこれらの要素が浮き気味に思えるので、個人的には欠点寄りに捉えている。

*1:もう少し詳しく書いておくと、グレースが地球に帰還するところで終わると思っていたので、そうじゃなかった点は意外だったということなのだが、しかし、グレースが死ぬことはないだろうなと思っていて、実際死ななかったので、その時点で地球に帰還するかどうかは物語にとっては些細なことだな、と思う。あと、ラストの展開全体はともかくラストシーンの中のラストシーンについては物申したいことがあり、本記事の後半に書いている