ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ『現象学入門』(田中彰吾・宮原克典訳)(一部)

サブタイトルは「新しい心の科学と哲学のために」とあり、フッサールから始まり認知科学に至る心の科学・哲学としての現象学入門書となっている。
最近、吉田正俊・田口茂『行為する意識』 - logical cypher scape2を読み、現象学・反表象主義の系譜の存在感を感じたので、それの勉強として手に取ったらドンピシャであった。
以下の目次にあるとおり、2章、3章、5章、6章は哲学者の名前が冠せられているが、4章、7章、9章は心理学・認知科学についての章となっている。
なお、巻末の訳者解説でも、本書の構成について、「科学的心理学の物語(1・4・7章)」と「超越論的現象学の物語(2・3・5・6章)」の2つの系列に分かれており、それが8・9章で合流する、とされている。
今回自分は、1章、4章、5章、7~9章を読んだ。


19世紀に、ヴントによって科学的心理学が成立したが、これを批判したのが、フッサールであり、ジェームズであり、ゲシュタルト心理学であった、と。
これらの影響を受けているのが、メルロ=ポンティでありJ.J.ギブソンである。
そして、現代の認知科学の中には、ハイデガーやギブソンなどからの影響を受けたアプローチが複数存在しており、それらのアプローチは、ダイナミカルシステムモデル(力学系モデル)を道具として重要視しているという共通点を持つ。


ウィリアム・ジェームズも気になってきた……

第1章 カントとヴント──18世紀と19世紀の背景
第2章 エトムント・フッサールと超越論的現象学
第3章 マルティン・ハイデガーと実存的現象学
第4章 ゲシュタルト心理学
第5章 モーリス・メルロ=ポンティ──身体と知覚
第6章 ジャン=ポール・サルトル──現象学的実存主義
第7章 ジェームズ・J・ギブソンと生態心理学
第8章 ヒューバート・ドレイファスと認知主義への現象学的批判
第9章 現象学的認知科学
訳者解説[田中彰吾・宮原克典]

第1章 カントとヴント──18世紀と19世紀の背景

現象学にとっての2つの重要な背景として、カントの哲学と19世紀に興隆した心理学を挙げている
現象学者はカントを引き継ぎつつこれを批判した。
また、フッサールは自らの現象学を「記述的心理学」とも呼びつつヴントの心理学を批判した。現象学は、哲学でもあり心理学でもある

1.2 ヴィルヘルム・ヴントと科学的心理学の興隆
  • カント

2つの理由から心理学は科学になることはできないとした
(1)数値化できない
(2)内観法が信頼できない

  • ヴント

カントの批判に応えるかたちで、科学的心理学を打ち立てる
まず(1)については、ヴェーバーやフェヒナーの精神物理学をあげて、反論する。
(2)については、カントに一部同意する。
ヴントは内的経験と外的経験とを区別して、前者には接近不可能だが、後者は接近可能とする。制御された内観法によって、実験心理学は成立する


ヴントの特徴は、感覚と感情を意識経験の原子とする還元主義


教え子の一人にジェームズ
→のちにヴントを批判


ちなみに、本書には書いていないが、ヴントはヘルムホルツの助手
のち、マッハが、ヘルムホルツやヴントの自然観を批判しているが、そのマッハとジェームズが親しい、という関係があるようだ
参照:木田元『マッハとニーチェ―世紀転換期思想史』 - logical cypher scape2

第4章 ゲシュタルト心理学

フッサールが現象学にとりかかっているのと同時期に、ベルリンで発展したのがゲシュタルト心理学

  • ゲシュタルト心理学と現象学の関係

エーレンフェルスとシュトゥンプフは、ブレンターノの弟子
シュトゥンプフは、フッサールの指導教員で、かつベルリンの心理学研究所を指揮
同研究所のヴェルトハイマー、ケーラー、コフカがゲシュタルト心理学の基礎を発展
ゲシュタルト心理学の成立については木田元『マッハとニーチェ―世紀転換期思想史』 - logical cypher scape2にもあったので、ここに上がっている名前にはなんとなく見覚えがあった

4.1 ゲシュタルト学派による原子論的心理学への批判

ヴントの心理学には「束仮説」「恒常仮説」という前提があるとして、これらを批判
束仮説=経験は感覚という要素の束
恒常仮説=感覚と刺激の間には対応関係がある


ヘルマン格子やマッハの帯
→恒常仮説と矛盾


エーレンフェルス「ゲシュタルト質について」(1890)
マッハによるメロディの分析をもとにした論文
楽器を変えて演奏しても同じメロディ
構成する音を異なる順序で鳴らしたら同じメロディにはならない
メロディは構成する音以上の何か=ゲシュタルト質

4.2 知覚と環境
  • ヴェルトハイマー

1912年論文で「ファイ現象」(仮現運動)
形態の法則
→束仮説と矛盾

  • 伝統的考え

知覚または「外的経験」は要素からなり、これらの要素が認知または「内的経験」において全体に結び付けられる

  • ヴェルトハイマー

形態は知覚に与えられており、認知で付加されない
外的経験は要素ではなくすでに全体

  • ケーラー

チンパンジーの実験
→問題解決への洞察は、認知ではなく知覚

  • クルト・レヴィン

レヴィンの方程式=行動は人と環境との関数
動機について論じた
誘発性ないし誘引特性
→例えばサンドイッチは、空腹によって動機づけられている人にとって誘発性を持つ
誘発性は、人々の状態の機能であると同時に知覚される環境の特性
→ギブソンへ影響

4.3 ゲシュタルト心理学の影響

心理学主流派への影響は限定的
←ドイツから英米へ亡命した際、レヴィンを除き、博士課程をもたない機関に職を得たため
レヴィンは社会心理学に影響
しかし、ゲシュタルト心理学は、メルロ=ポンティとギブソンへ影響を与えた
 

第5章 モーリス・メルロ=ポンティ──身体と知覚

メルロ=ポンティの章は、流し読み


メルロ=ポンティは直接知覚論ともいわれるがむしろ、センスデータと知覚経験あるいは直接知覚論と間接知覚論の区別を崩す

5.1 『知覚の現象学』

身体に注目
ドレイファスやギブソンへの影響

5.2 現象学、心理学、現象野

ゲシュタルト心理学からの影響について

 

5.3 生きられた身体

フッサールに由来するKorper*1とLeibの区別をさらに掘り下げる
Korper 客観的身体
Leib 生きられた身体

  • 幻肢経験

心理学的説明や生理学的説明をいずれも誤りと棄却
生きられた身体から考える
習慣的な身体・習慣的な可能性との齟齬として説明

  • 5.3.1 身体図式

世界とは可能性の空間。
身体の技能を準備する体制=身体図式
経験の可能性を開くという点でカントの超越論的図式と共通するが、カントと違って身体図式は概念とは関係がない

  • 5.3.2. シュナイダー事例

盲視のことか?

  • 5.3.3 運動志向性

ハイデガーは「志向性」概念を排除したが、メルロ=ポンティは「運動志向性」というものを考える
技能の志向性は認知の志向性よりも根本的
対象が私たちを誘引する限りにおいて、対象は私たちに向けられている

  • 5.3.4 いくつかの例

車の幅、盲人の杖、熟練したタイピスト
.

5.4 知覚の恒常性と自然的対象

省略

第7章 ジェームズ・J・ギブソンと生態心理学

7.1 ウィリアム・ジェームズ、機能主義、根本的経験論

ギブソンの前に、ジェームズについて
先述したとおり、ヴントの教え子だったがヴントを批判
『心理学原理』(1890)
ジェームズはヴントと違い、感覚を唯一の主題としない
心の各側面を適応として考える(ダーウィンからの影響)
→「機能主義」と呼ばれる


根本的経験論
→経験的世界と世界それ自体をわけるカント的な区別に対する拒否
純粋経験からなる世界のみが存在 
=中立的一元論(物的でも心的でもない)
世界を表象する何かとしての意識は存在しない
主観的なものが客観的なものを表象する、わけではない。主観性と客観性は属性であって、それらは同じもの

  • ホルト

ジェームズの学生であり、ギブソンの先生の一人
根本的経験論を推し進める
ギブソンは、ホルトとコフカから影響
ギブソンとホルトの関係は柴田崇『サイボーグ―人工物を理解するための鍵』 - logical cypher scape2にもあった。

7.2 ギブソンの初期の仕事──二つの例
  • 運転行動の分析(1938)

レヴィンとコフカの発展させた行動の場の理論の適用
安全な移動の場=肯定的な誘発性を持つ経路
これも柴田崇『サイボーグ―人工物を理解するための鍵』 - logical cypher scape2に載ってた
ギブソンは、根本的経験論者であり実在論者(実在論かどうかが現象学者との違い)

  • 学習について

エレノア・ギブソンとともに行った研究で、行動主義から離れる
行動主義
→学習とは、刺激と反応の間で連合を形成すること。連合は、強化や罰によって刺激に付与
エレノアの実験
→罰、強化なくとも連合が形成されることを示す
経験内容は世界に実在する

7.3 生態学的アプローチ

推論的アプローチと対照をなすアプローチ
推論的アプローチ
←刺激の貧困への説明
(網膜上の情報だけでは小さいのか遠いのかは分からない→距離の推定が必要)*2


『視覚ワールドの知覚』『生態学的知覚システム』『生態学的視覚論』
光学的流動(optic flow)
刺激は乏しいわけではない
第一原理 知覚は直接的である(反表象主義)
第二原理 知覚は行為のためにある
第三原理 知覚はアフォーダンスである

7.4 生態学的存在論

環境には、動物が行動を探る上で十分な情報が含まれていなければならない
媒質・物質・表面
情報は環境の実在的な面だが、物質のように存在するわけではなく、関係的な特徴
アフォーダンスは行動の機会
アフォーダンスに関する情報は光の中に含まれている


情報は偏在しており行動を導くのに十分
→ギブソンとギブソン派にとってこれを証明することが中心的な問題
アフォーダンスが存在し実在するかではなく、アフォーダンスを知覚するための情報を入手できるかどうかが問題


(1)光学的流動におけるルーミング
→壁に向かって歩くと壁が大きくなる
リーによるカツオドリの研究
→視覚的変数タウ=像のサイズの変化率に対する像のサイズが持つ比率
→距離の情報ではない。計算不要。網膜上で入手可能
カツオドリが上空から水面に飛び込む際、水面との距離を推論して突入姿勢をとっているわけではない。タウという情報を知覚することで水面への突入をおこなっている


(2)ダイナミック・タッチ

  • 大きさ-重さ錯覚

同じ重さのものでも、サイズが大きいものと小さいものを渡されると、小さいものの方をより重いと感じる錯覚
→大きさから推論することによって生じる誤り、と考えられてきた

  • アマジーンとターヴェイの研究

「テンソル・オブジェクト」(複数の棒と球体を組み合わせたもの)を使って実験
大きさから重さを推論しているわけではない。
慣性テンソルに含まれる情報=可動性を手首で入手している
「動かしやすさ」を聞くと、錯覚は起きない

7.5 アフォーダンスとインビテーション

メルロ=ポンティ、ギブソン、ノエは同じ目標を追求
ギブソンは、アフォーダンスとインビテーションを区別できない、という批判がある
環境には、アフォーダンスとなるものがたくさんあるが、実際には、そのうち、実際に行動を引き起こすもの(インビテーション)にしか人は注目しない。他の多くのアフォーダンスを無視している。
ギブソン理論では、心理学の目的である、行動の説明ができない、という課題。

第8章 ヒューバート・ドレイファスと認知主義への現象学的批判

8.1 認知革命と認知科学

認知科学や人工知能研究の概略
認知科学とヴントの心理学との類似(原子論、脳内の計算過程が問題で身体や世界は問題としない点)

8.2 「錬金術と人工知能」

ドレイファスが、ランド研究所のテクニカル・レポートとして書いた論文
サイモンとニューウェルによる予言の楽観主義を指摘
ところで、人工知能研究には「テクノロジーとしての人工知能」と「認知科学としての人工知能」の区別がある。
前者は、知的なふるまいができればok
後者は、人工知能を通して人間の認知について解明すること
ドレイファスの批判は、この区別が曖昧。基本的には後者には刺さるが、前者にはあまり刺さらない

8.3 『コンピュータには何ができないか』

認知科学ないし認知科学としての人工知能研究が置く暗黙の前提を4つ指摘している。

  • 生物学的前提

コンピュータ同様、脳は二進法である
→ニューロンはスイッチというより発振器

  • 心理学的前提

心はコンピュータ・プログラム
思考は実際に計算なのか。
思考は計算であるとは、経験的な主張なのか、概念的な主張なのか。
また、「感覚」や「情報」という言葉の曖昧さによって誤魔化していないか。

  • 認識論的前提

チューリングテストに合格できる機械は作製できる
(心理学的前提を緩めたもの。テクノロジーとしての人工知能に該当)

  • 存在論的前提

世界は個別の二値的な事実の集合からなる
「濡れていたので、レインコートをバスタブに置いてきた」という言明を理解するのに必要なのは「道具の全体性」
真か偽かという事実を集めても理解できない

8.4 ハイデガー的人工知能
  • アグレとチャップマンのペンギ

ペンゴというゲームをプレイするプログラム
存在者の表象をもたない(直示的表象のみ)
目標の表象をもたない

  • ブルックスのロボット・アレン

(ブルックス自身はハイデガーとの結びつきを否定するが)
表象をすべて排除

第9章 現象学的認知科学

現象学に触発された認知科学として、以下の4つの立場が紹介されている。
「急進的身体性認知科学」
「身体性認知科学」
「エナクティヴィズム」
「感覚運動アプローチ」
あわせて、これらと関係の深い「ダイナミカルシステム理論」が紹介されている。

9.1 フレーム問題

どのアフォーダンスがインビテーションになるのかという問題は、フレーム問題の一種

9.2 急進的身体性認知科学

生態的心理学+ダイナミカルシステム理論=急進的身体性認知科学(チェメロの命名)
アフォーダンスとインビテーションを区別できる

9.3 ダイナミカルシステム理論

ダイナミカルシステム=「力学法則にしたがって、時間の経過とともに、連続的、同時並行的、相互依存的に変化する量的な変数の集合」
知覚や行為や認知を微積分学を使って説明するということ
生物個体と環境が統合された一つのシステムとして考える

  • ハーケンーケルソーーブンツ(HKB)モデル

ケルソーの指振りの実験
左右の指を振ってもらうと、安定した協調パターンは2つしかない
=相対位相0と相対位相.5にアトラクターがある
複雑なダイナミカルシステムは、自己組織化して単純なシステムのようにふるまう


「現象学の前倒し」(ギャラガーとザハヴィ)
現象学にかかわる仮定を検証するための実験設計


様々なHKBモデルで、運動制御、言語処理、学習・注意・意図、社会心理学、意識経験を説明している(意識については(ケルソー、ヴァレラ、フリーマン))
力学的モデルは、人間を、脳・身体・道具の一部からなる自己組織的なダイナミカルシステムと想定する
自己組織的システム=計画や制御装置なし
→フレーム問題の回避

  • 内因性活動と摂動

自己組織化されたシステムは特定のパターンへと組織化する=内因性活動
例えば、水の渦巻き
そこに枝をたてると、渦巻きの形状が変わる
内因性活動が、枝によって、摂動を受ける、という
微風などは渦巻きに影響をもたらさない
摂動をもたらす関連性をもったアフォーダンスだけがインビテーション

9.4 ハイデガー的認知科学

マイケル・ウィーラー(1996)
ニューロンにはノイズが多い→入力によって決定されない
ニューラルネットワークには入力から独立した内因性活動がある

  • 「身体性認知科学」

例えば、テトリスの画面上の回転と心的な回転についての実験など
拡張された認知にも着目
ハイデガーよりは、ギブソンやブルックスから触発
しかし、ギブソンやブルックスと異なり計算主義的・表象主義的であり、そこが急進的身体性認知科学と異なる点でもある
ウィーラー「行為指向的表象」

  • 反表象主義

ドレイフェスやリートフェルト
→ウィーラーの見方はハイデガー的ではなくフレーム問題も解決できない。ハイデガー的認知科学はフリーマン、と。
フリーマン
→ウサギの嗅球は、臭いを表象しているわけではない。
→内因性ダイナミクスが世界との相互作用で摂動を受けてアトラクターに向かう
(本書は、フリーマンを急進的身体性認知科学に分類)
(本書の筆者らは、ウィーラーよりもドレイファスやリートフェルト、身体性認知科学より急進的身体性認知科学を好む)


トドフ、ニエ、チェメロによるマウスを操作させる実験
1/fスケーリング(それほどランダムではないノイズ)
マウスが適切に操作できるあいだは、参加者の手とマウスの運動に1/fスケーリングがあり、道具的存在として経験される
マウスに摂動がある(操作できなくなっている)と1/fスケーリングが減少し、非道具的存在として経験される

9.5 エナクティヴィズム

オートポイエーシス=作動的に閉鎖*3+環境と構造的にカップリング

ディパオロ
→オートポイエーシスは生命の十分条件ではなく、適応性(自ら状況を変えるための措置が講じられる)が必要


自己創出的なシステムの活動=環境のどの側面と構造的にカップリングするかを決定
→世界と自己は共創出
共創出を「意味生成」と呼ぶ
意味生成は認知的かつ情動的ゆえに世界は有意義
生きられた身体として世界をエナクトする
ブルックスのアレン
吉田正俊・田口茂『行為する意識』 - logical cypher scape2でも意味や価値を生成という言葉が出てきて、若干、どういうことか理解しそこねていた


エナクティヴィズムも「拡張された認知」に注目するが、生物個体が世界を生み出すので、認知システムが生物個体を超えて拡張するというのは変なので代わりに「拡張された生命」に注目する
ミズムシの水泡。盲人の杖。

人工生命も重視
力学モデリング=人工生命
神経現象学者

9.6 感覚運動アプローチ

ノエ、オリガン、ハーリーらのアプローチ
エナクティヴィズムとも呼ばれるが異なるものなでここで「感覚運動アプローチ」と呼ぶ
ギブソンからの影響
知覚とは、私たちの内部で起きることではなく、私たちがおこなうこと
感覚は能動的探索を必要とする

  • 感覚運動随伴性

身体運動と感覚刺激の変化との間の関係性
フッサール的?
トマトを見るとき、一部分しかみえていなくても三次元物体として、背面のあるものとして見る
体を傾けたら背面が見えるから

  • 科学に応用しやすい意識経験へのアプローチ

視覚と触覚の区別は、異なる感覚運動随伴性の集合
1970年代 触覚-視覚感覚代行実験
映像を振動に変える装置をつけると「見える」ように感じられる
経験の違いは、刺激の本性(網膜への光刺激など)とは無関係で、感覚運動随伴性によって決まることを示唆

9.7 科学的現象学の将来

現象学に触発された認知科学への各アプローチの類似点

  • 環境内生物個体の知覚と行為に焦点
  • ダイナミカルシステムモデルを説明の道具として活用
  • 心的表象の説明上の有用性に懐疑的

訳者解説[田中彰吾・宮原克典]

本書の二つの特徴

  • 現象学を英語圏の哲学的な明晰なスタイルで解説
  • 現象学は身体性認知科学にこそ受け継がれているという観点

現象学と認知科学とを結びつけて論じる本としては『現象学的な心』があるが、これは中級者向けの本で、入門的な位置づけの本が邦訳されていなかったため、本書の翻訳が企図されたとのこと。
その他、日本語で読める参考文献が多数紹介されていたが、リード『魂から心へ 心理学の誕生』があり、そういえばこれ以前気になっていた本だな、と思い出した。最後の章がウィリアム・ジェームズにあてられている。

*1:oにはウムラウト

*2:推論的アプローチとしてデカルトが想定されている。刺激の貧困という用語はチョムスキーに由来するが、ここではあえてその言葉を用いているらしい

*3:吉田正俊・田口茂『行為する意識』 - logical cypher scape2では「操作的閉包性」と訳されていた。operational closure

『タクシー運転手 約束は海を越えて』

1980年5月、韓国で起きた光州事件をモデルにした映画
韓国現代史映画を見るシリーズ、1年ぶりに再開。

1979年10月朴正熙大統領暗殺事件
『KCIA 南山の部長たち』 - logical cypher scape2
1979年12月粛軍クーデター
『ソウルの春』 - logical cypher scape2
1980年5月光州事件
→本作
1987年1月~6月民主化闘争
→『1987、ある闘いの真実』

ちなみに、制作年順(韓国での公開年)に並べ直すと以下の感じ

2017年『タクシー運転手 約束は海を越えて』
2017年『1987、ある闘いの真実』
2020年『KCIA南山の部長たち』
2023年『ソウルの春』

『KCIA南山の部長たち』や『ソウルの春』が、政治家、情報局員、軍人を主人公にした政治劇を描いていたのに対して、本作は一般市民を主人公にして事件を描いている。
『ソウルの春』で描かれた粛軍クーデターにより実権を握った全斗煥は、民主化運動への弾圧を行っていくが、その中で最大の虐殺が起こったとされるのが、光州事件である。
当局は、光州の封鎖を行ったため、現地で一体何が起きているのか、国際社会はおろか韓国国内でも状況がわかっていない状態だった。
ところが、一人のドイツ人記者が光州に潜入し、現地の様子を撮影することに成功し、惨状が世に知られるようになった。
で、この時、このドイツ人記者を光州まで送り届けたタクシー運転手がいた
というところまでが史実であり、この史実をもとに、そのタクシー運転手を主人公として描いたのが本作となる。
さて、見終わった後に、また例によってWikipediaなどを読んでいたのだが、この主人公であるタクシー運転手については大幅な脚色がなされているようである。


本作の主人公であるタクシー運転手、ソン・ガンホ演じるところのキムは、男手一つで娘を育てながらも、家賃も長く滞納するなど家計のやりくりに苦しんでいる。
そんな彼がタクシー運転手たちの食堂で、これから外国人を迎えに行く、光州まで行って帰ってくるだけで10万ウォンもらえるという話を耳にして、その仕事をこっそり横取りしてしまうところから、物語が動き始める。


キムは、タクシー運転手になる前はサウジの油田に出稼ぎしていたことがあり、片言の英語なら話すことができる。
妻を病気で亡くしており、それ以来、個人タクシーをして働いている。
当時、ソウル市内でも学生デモが頻発しており、それに対して苦言を呈しているところがある。
上記の通り、家計は火の車状態であるのだが、人のよいところもあって、実はお金がなくて、みたいなお客さんを乗せてしまうこともある。
10万ウォンは、滞納中の家賃と同額。
ただ、大家もまたタクシー運転手で、親しい仲らしく、それで支払いを待ってもらえているらしい。しかし、大家の奥さんの方が色々言ってくるというところがある。また、そんな感じなので、娘と大家の息子もしょっちゅうケンカをしている。


で、10万ウォンだーとウキウキしながら光州へ向かうのだが、軍による検問がなされていて一筋縄にはいかない。引き返そうとすると、それじゃあお金は払えないと言われてしまい、山道を探したり、色々芝居しながら、検問を突破する
そうしてたどり着いた光州は、あちこちにスローガンが貼られ、ビラが舞い散り、閑散としていた。
軽トラックに乗った学生たちと出くわし、ドイツ人記者のピーターは彼らとともに病院へ行ってしまう。
キムは、こっそりソウルへ逃げ帰ろうとするが、病院に息子が運ばれたという老母に頼まれ結局病院へと向かう。
するとそこでは、野戦病院さながらに、負傷者があふれかえっていた。
キムはこうして少しずつ、光州で何か異様なことが起きていることに気づき始めるが、このあたりでは、どうやって無事に帰れるだろうか、と思っている状況である。
キムとピーターは、学生たちのなかで唯一、片言の英語を話せるク・ジェシク、光州のタクシー運転手の一人であるファン・テスルと行動を共にするようになる
キムのタクシーはすでに大分ガタが来ており、故障してしまう。娘に電話しようにも、光州の電話はすべて不通になっている。娘のことを心配しながらも、テスルの家に泊まることになる。
ここまでずっとキムは、ピーターとも、ジェシクや学生たちとも、あるいは光州のタクシー運転手たちとも、あまり関係はよくない。というか、キムはこの段階では、デモをする方があんまりよくないんではないかということと、この場から早く去りたいということを考えているので、より詳しく取材したいと思っているピーターや、軍に憤っている光州市民とはまだ認識に差があるのである。
しかし、ジェシクやテスルとの交流により、少しずつ緩和されていく
そもそもジェシクは学生といってもノンポリ学生で、学生の歌謡祭に出演したくて大学に入ったというし、テスルには妻子がおり、キムの娘を思う気持ちに寄り添ってくれる(キムが早くソウルに帰りたいという気持ちに共感し、協力してくれる)。
また、明らかに学生ではない、一般市民も大挙してデモに訪れているところや、それに対する軍の攻撃なども目の当たりにして、不条理なことが行われていることを実感していく。
しかし、やはり娘のもとに帰りたい気持ちの方が強く、キムはいったんは光州をあとにするのである。
光州から離れると、嘘のように平和な風景が広がっており、そして、食堂で交わされる会話や新聞などから、光州の真実が伝わっていないことを痛感する。
それでキムは光州へ戻ることを決意するわけだが、ここでの娘を思う父親としての気持ちと不正義に悶える気持ちとの葛藤を、ソン・ガンホが熱演している。
一人娘を思ってソウルに戻る彼のことを誰が責められようか
だからこそ、見て見ぬふりはできないと車を引き返す様子は、本当に切なく苦しいものがある。
後半では、けが人や白旗を振る者に対しても容赦なく発砲する軍の様子や、それでもけが人を助けるべく突っ込むタクシー運転手たちの奮闘
また、外国人記者の存在に気づき、キム、ピーター、ジェシクを追いかける私服軍人たちの恐ろしさなどが描かれていくことになる。
ジェシクに至っては、キムとピーターを逃がす過程で殺されてしまう。
そして、ピーターとピーターが撮影したフィルムをどうにかして空港まで送り届けなければならない。
光州の周囲には検問が敷かれている。
ラストはいかに光州から脱出するか、というスリラーものとなっている。光州のタクシー運転手たちと軍人たちのカーチェイスなど、このあたりはかなりエンタメに振った展開となっている。


というわけで、本作はキムという平凡なタクシー運転手のドラマとして描かれており、彼の葛藤や活躍を見ていく物語ではあるが、
しかしやはり、なんといっても印象に残るのは、光州で起きた出来事の映像で
発煙弾が撃たれて、朦々とした視界の中で、軍による無慈悲で不条理な暴力が市民に対してふるわれていく様子に圧倒されてしまう。

『新潮2026年4月号』

工藤郁子「才能の民主化とAI」

最近、といっても1ヶ月前だが、以下の動画を見た
www.youtube.com

工藤さんがゲスト出演していたわけだが、その理由は、山本さんと吉川さんが『新潮』に掲載された工藤さんのコラムを読んだためで、この動画も主にはこのコラムの内容を巡って話が進んでいく。
この動画が面白かったので、コラムの方も読んでみようと思ったのが、今回この『新潮』を手に取ったきっかけである。
AIは、今のところ、クオリティの点では微妙であるが、文章を書いたりプログラムを書いたりし始めるハードルを下げてくる、という話を自分の経験をもとに始めつつ、「才能の民主化」あるいは「才能の共産化」と言われる事態への、一抹の違和感が綴られている。
民主化とはいうけれど、民主化というのは権力や統治の構造が開かれることも含まれるはず(結局、企業に要所を握られているのは民主化か)とか
「確率論的オウム」が、しかし思いのほか役に立つのは、表象の空間が思っていた以上にずっと「世界」だったのかとか、技術はランドスケープを変容させるが、それを前に、我々の感情の起伏は簡単には変化しないとか、気が利いているなと思う。

下西風澄「撤退戦としてのリベラリズム」

選挙の結果を受けてのコラム
20世紀後半、リベラリズム思想が実現したのは、ある種の余裕があったからで、その余裕が世界的に失われつつある今、フルスペックでの実現は諦めて、撤退戦を展開せざるをえない。その自覚がなければまた負けるだろう、というような話

今村夏子「先生のおりがみ」

学童の話
主人公のるりは、母親が学童の申し込みを忘れたため、小学校に入学する4月に一人で留守番をすることになり、それが怖くてたまらなかったので、なんとか学童に入れてもらったが、そこもあまり居心地はよくなかった
なぜかといえば、よくわからないルールが色々あるからだった。そして、それは奥野先生という、ほとんど子どもたちと遊ばないのに、注意だけしてくる先生に要因があることがわかってくる。
子どもたちは当然奥野先生を嫌っており、るりも苦手ではあったが、しかしみんなほど奥野先生のことを嫌いになるわけでもなかった。
物語は、るりがそのまま高学年になっていくところまで進む
毎年、長期休暇には大学生のアルバイトもきて、そうやってくるアルバイトもやはり奥野先生を嫌がるのだが、るりが6年生の時にやってきた男子大学生は、そうではなかった。なんとなく奥野先生もリラックスしてきて子どもたちと一緒に遊んだりして、規律がゆるくなるが……
タイトルにあるおりがみは、奥野先生がいつも折っている。子どもたちは暇つぶしにやっているんだと口さがないが、るりは2年生のころ、奥野先生が子どもたちの無事を祈って追っているもので、子どもたちを守るパワーがこめられているのだと教えられていた。
まあ、結局どうだったかはよくわからないんだけども


高山羽根子「ツクモガミ」

連作と連載の違いは一体? 連作だからこれだけ読んでもわかるかなあと思って読んでみたけど、普通に、話の途中から話の途中までだった。
主人公は、なんか山に登るにあたって現地のガイドを必要としている。で、AIだかロボットだかを一緒に連れて行こうとしているが、現地のガイドがそれをよく思っていなくて、それの折衝しているシーンだった。
動物や道具と同じじゃないか、といって説得しようとする主人公
 

佐藤良明「『ワン・バトル・アフター・アナザー』と『ヴァインランド』──分断をすり抜けるピンチョンに共嗚するアンダーソン」

映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』と、その原案となった(inspired by としてクレジットされている)ピンチョンの『ヴァインランド』を比較していく
だいぶ違うところもあるようだが、アンダーソンはピンチョンのどこにインスパイアされたのか。
ピンチョンは、『ヴァインランド』を期に大きく作風が変わったらしいのだが、当時、それの評価はあんまり芳しくなかったらしい。
しかし、そうやって変わったところを、アンダーソンは受け継いだのではないか、と
つまり、バトルから身を引くことに本作の主題はあり、シリアスではなくユーモアでサヴァイブしていくこと……
というふうにまとめていいのか、映画も見てないし、小説も読んでいないので、よくわからないけれど、『ワン・バトル・アフター・アナザー』は見たいと思っている。

池澤夏樹×田口耕平「教室で読む文学(第2回)横光利一「蠅」」

田口は高校の国語教師
「蠅」を実際に授業で読んだ際の話をしている
指導要領が変わり、小説に割ける時間数が減る中で、「蠅」のような短編小説はよき教材になる可能性があるという
一般的に学校国語では、登場人物に感情移入して読む「同化読み」が推奨されているが、「蠅」は同化読みがしにくいという論文がある。
対して田口は、実際に生徒たちに読ませてみると、生徒たちは同化読みをする。農婦に肩入れして、馭者をダメな奴とする読み方をする。
しかし「蠅」はそういう小説かといえばそうではない。馭者は本当にダメ馭者なのか。細かく読んでいくと、そうではないのではないかという仕掛けがある。
農婦に感情移入して読むと、他の登場人物たちの存在理由がよくわからなくなるが、無駄な描写なのか・
「蠅」はそうやって、読みを深めていくことができるという点で、よい教材になるのだと田口は言うが、一方で、指導書などは単にダメ馭者的な観点からしか解説を書いていない、と。

発掘される小説 速水健朗

鴻巣友季子『なぜ日本文学は英米で人気があるのか』書評
イギリスの雑誌『ブックセラー』の翻訳小説ベストセラー・トップ50の中に日本の小説が23作入っている
で、へえと思ったのは、そのうち11作が「ヒーリング・フィクション」という日本ではあまりなじみのないジャンルで括られているというところ。

『日経サイエンス2026年4月号』『5月号』

日経サイエンス2026年4月号

From nature ダイジェスト 米国の博士課程プログラムが縮小

募集者の7割減とか募集停止とかやってたりしているらしくて、そんな激減してんの、とびびった。

星に届かなかった旅 スターショット計画  S. スコールズ

レーザー推進でアルファ・ケンタウリを目指す、ブレークスルー・スターショット計画
2016年に鳴り物入りでスタートしたが、最近、その後の発表がなくなっており、事実上停止したとみられている。
1億ドル拠出する、といわれたが、実際には1億ドルは支払われなかったという。
実現するためにはめちゃくちゃ時間がかかるわけで、そのことがわかってきて、出資者のミルナーが手を引いたのではないか、と推測されている。
関係者の証言が色々引用されているが、一方で、この計画の主だった科学者からは大体「この記事のインタビューは拒否された」と書かれていて、「あー……」となる。
この計画のポジティブな面として、恒星間飛行が現実にありうるものとして注目を浴びた、というのがあげられている
実際のところ、全く何もしていなかったわけではなくて、それぞれ関係する技術について、多くの科学者が検討を行って、今何ができて何ができないか、というのが整理された点で、意義はあっただろう、と。
スターショット計画で用いられる宇宙船について、当時大学院生だった研究者の超小型衛星の技術が目をつけられて、彼、その後ついたポストはそれとは違うプロジェクトだったらしいのだけど、スターショット計画のおかげでそっちの方の研究も進めることができたらしい。

短期集中連載:定説が覆るとき 改訂され続ける宇宙論

天動説と地動説の話から始まって、暗黒物質の話まで

日経サイエンス2026年5月号

意外に早かった? 多細胞生物の出現  A. エルバイン

2008年、ガボン共和国フランスヴィルの21億年前の地層から発見された「化石」について
発見者であるエル・アルバニらは、これが多細胞生物の化石だと主張
しかし、従来考えられていた時期をはるかに遡るため、懐疑的な研究者も多い
懐疑派は、黄鉄鉱のコンクリーションに過ぎないという。
エル・アルバニは、フランスヴィルの多細胞生物は、現生の生物とは全く異なる系統で、多細胞化を成し遂げたが、すぐに絶滅してしまったと考えていている。
多細胞化自体は、進化史上に1度しかなかった出来事ではなく、複数回起きていたのではないか、というのは、これまでの主流の考えと対立する。


これは化石なのか否か、何を示せば化石だという証拠になるのか
エル・アルバニは、同位体分析などして化石であることを証明しようとしているが、信じようとしないものは端から信じないところがある。
元々懐疑派だったある研究者は、オーストラリアでよく似た構造を発見したことで、こうした化石は実はありふれているのに、見逃してきてしまったのではないか、と考えるようになった。
(ここらへん、観察の理論負荷性というか古生物学の怖さというか、痕跡化石とか素人が見ても何が何だかわからんのが、訓練すると見えるようになるわけだけど、ある専門家には化石に見えて、別の専門家には化石に見えないという時、一体なにが見えてなにが見えていないのか……)
また、やはりエル・アルバニの主張に納得していない研究者でも、一方で、コンクリーションであるという説明にも納得せず、何か別の説明が必要であると考える者もいる。
細菌の活動した跡ではないか、という説もある。
真核生物の誕生から多細胞生物の誕生までの期間は非常に長く「退屈な10億年」などと言われることもあるが、この呼び方がよくない、という者もいう。退屈な期間を誰もわざわざ探したいとは思わないから、予言の自己成就みたくなってしまっている、と。


2024年には、中国の16億年前の地層から多細胞生物の化石が発見されており、最古の多細胞生物の記録を大きく更新した。ただこちらは、フランスヴィルの化石とは似ていないらしい。

海を旅する単細胞 底に住まう多細胞  遠藤智之 協力:五島剛太

名古屋大の五島剛太らの研究
酵母の研究をしていた際に、分裂の仕方が急に変化する現象が発見された。
隔壁形成による分裂から出芽による分裂へ
前者は多細胞生物であるかのように振る舞い、後者は単細胞生物であるかのように振る舞う
可塑的多細胞生物
変化をスイッチするタンパク質も発見
多細胞化は思ったよりも簡単に起きるし、また、単細胞に戻ることもできる
進化の過程で、多細胞と単細胞を切り替えられる中間的な生物がいたのではないか、と

ゲノムが明かした 私たちの脳に潜むネアンデルタール  E. L. カサノバ/F. A. フェルタス

ネアンデルタール人の遺伝子が、現生人類にも残っていることは最近よく知られるようになったところだけど、脳にどのような影響があったか、という点はまだそれほど明らかになっていない。
ただ、自閉症やADHDにおいて、ネアンデルタール人由来の遺伝子が関与していることがわかってきたとか
社会性と視覚的な認知能力の間にトレードオフがある可能性がある、と

短期集中連載:定説が覆るとき 生命のカギを握るのはDNAではなくRNA

ノンコーディングRNAの話
ENCODEとかでたくさん見つかって、RNAが実はいろいろな役割を果たしていることがわかってきたよね、という奴

The Universe 宇宙人から見えるものは?

もし地球外知的生命体がいるとして、彼から地球人類は発見できるのか
地球と同じ文明レベルだった際に、地球のテクノシグネチャーはどの程度遠くから見えるか。
例えば電波。
SETIのように意図的に異星人へ向けて放つ高出力電波ならまあある程度遠くまで届くが、地球上で普段使われている各種電波が漏れ出していくものについては、検出限界は4光年程度で、アルファ・ケンタウリまでも届かない
ほかに、二酸化炭素は検出できるかなど
最悪なのは、人工衛星のトランジットを検出できるか、で、これは火星程度の距離でもわからんとか。

吉田正俊・田口茂『行為する意識』

サブタイトルは「エナクティヴィズム入門」
エナクティブ・アプローチによる意識の理論について提案している。
意識の理論という範囲に収まらず、広く脳と心の研究のあり方を論じている、ともいえる。


「エナクティブ・アプローチ(エナクティヴィズム)」は、フランシスコ・ヴァレラが提唱したもので、本書でも「オートポイエーシス」から説き起こされている。
本書では、「自由エネルギー原理」とエナクティブ・アプローチを繋げる試みでもあり、その中で、「力学的アプローチ」とも関係しあってる。
本書は、神経科学者の吉田と現象学者の田口との共著であり、「神経現象学」という方法論の実践でもある(なお、神経現象学というのもやはりヴァレラに端を発するらしい)。
本書は、サブタイトルにあるとおり「エナクティヴィズム入門」であるが、それと同時に「オートポイエーシス入門」でもあり「自由エネルギー原理入門」でもある、という構成をとっている。
また、田口が提唱する「行為的媒介」論でもある。
本書は、オートポイーエイス(本書では「生物学的自律性」とも)、自由エネルギー原理、行為的媒介、エナクティブ・アプローチが渾然一体となって、意識の科学を立ち上げている本である。


意識という観点でいうと、意識には境界線がない、という指摘が面白かった
これは言われてみれば全くその通りの点であるし、一人称的世界(主観的世界)と三人称的世界(客観的世界)の違いというか、なぜその間にハードプロブレムが横たわっているのか、ということをうまく言い表しているようにも思う。
そして、そこを乗り越えるのに、生物学的自律性や媒介が関わってくる、と。
一方で、個人的には、意識の謎として一番興味があるのは、意識として現象している内容が感覚的な質を持っていることであって、その点についての説明はあまりなかったなあと思った。
本書はどちらかといえば、そういう質を伴った意識内容を可能にしている意識の構造を問題として取り上げているのかな、という気がした。
そう考えるとそれ自体はとても重要な問いであるなとは思った。
しかし、意識とは何か、という定義は人によってまちまちとはよくいうけれど、意識の特徴というのは色々な特徴があって、その中のどの特徴をまず解明するか、という点でも研究者によって違いが出てくるなあ、と思う。
意識の主な特徴として、現象性、一人称性、統一性(統合性)あたりがあるかな、と思う。
本書は、主に一人称性に着目しているかなという印象。統一性もわりとその範疇か。


ところで本書は、オートポイエーシス、現象学、力学系などがキーワードになっているわけだけれど、この系譜の心の科学・心の哲学・神経科学って、名前とかは知っているけれど、そういえば全然ちゃんと知らなかったな、ということに気がついた。
自分がこれまでちゃんと触れてこなかった系譜の知識がどどんと盛り込まれているので、その意味では、結構難しかった。
(これらの系譜についての自分なりの整理・感想は記事の最後に
ただこの本は、上述したとおり、諸分野の入門であることも同時に目指している本なので、その点では非常にありがたかった。
また、他の意識理論との比較なども、適宜行われていて、その点でも本書の立場の相対的な立ち位置を明かしてくれていて、その点では、読みやすかった。
意識の理論について、色々な立場を知りたい、と思っていたところなので、よかった。


はじめに 神経科学と現象学をつなげるわけ
Ⅰ 表象することから自律性へ──意識は外界のコピーではない
Ⅱ 自律性とはなにか──開きつつ閉じている、われわれと環境
Ⅲ 世界を経験するとはどういうことか──切ることによってつながる、行為による媒介
Ⅳ 「予測」を展開する
Ⅴ エナクティヴィズム――行為的媒介による相互決定
Ⅵ 意識の謎に挑む──諸学問が融け合うとき
補論1 北海道大学 人間知・脳・AI 研究教育センター(CHAIN)について
補論2 エナクティヴ・アプローチと生態学的心理学と認知科学
あとがき 吉田正俊
主要参考文献(日本語書籍のみ)

はじめに 神経科学と現象学をつなげるわけ

Ⅰ 表象することから自律性へ──意識は外界のコピーではない

1 進歩する意識の科学
2 「意識とは、出来合いの現実があって、それに対する表象を作ること?」
3 意識のなかの「予測」――環境への働きかけによる結果を予測する脳
4 生物の基礎としての自律性――予測によって作動する感覚と運動のループ

本章では、近年の意識研究についてまとめた上で、多くが表象主義であるとする。
本書の立場は、表象主義ではない。


意識とは、意識のハードプロブレムとは
スーザン・ブラックモアの対談集『「意識」を語る』*1が何度か引用されている。
NCCや両眼視野闘争などの解説があったあと、NCC研究は「表象主義」を前提にしている、と続く。
眼球を動かすことで視覚経験が構成される=アクティブ・ヴィジョン(例えば盲点の補完とか)から知覚における「予測」を、仮現運動から「後付け再構成」を説明
サッケード抑制やブラックモアの「くすぐりマシーン」についても


ヘルムホルツの無意識的推論
→ヘルムホルツ自身がそう考えていたわけではないが、ヘルムホルツ的な考えは、意識とは「コントロールされた幻覚」だという考えに行き着く、と。そのような主張の例として、クリス・フリス、アニル・セス、ドナルド・ホフマンが挙げられている。
(これらの立場について、本書の中盤からは「独我論」と整理されている)


古典的表象主義も「コントロールされた幻覚」も、どちらも表象主義である、とする。
前者は外界がまず確固としてあって、外界は主体によって表象されている、と考える(外界→主体)
後者は主体がまず確固としてあって、主体は外界を推論している、と考える(外界←主体)
いずれも一方的な矢印
これに対して本書=エナクティブ・アプローチは、感覚と運動のループ=主体と外界が相互に特定し合う関係として、意識を考える。

Ⅱ 自律性とはなにか──開きつつ閉じている、われわれと環境

1 わたしたちはなぜ環境と同一化しないのか──自律性をひもとく
2 オートポイエーシス――生物における自律性の原理
3 生物学的自律性、生命と精神の連続性
4 脳における自律性――脳は何もしていないときでも活動を止めない
5 開きつつ閉じる――われわれと環境は入出力関係とは異なる形でつながっている

この章は単体でオートポイエーシス入門としても読めるようになっている。

  • アシュビーの「ホメオスタット」と「入力も出力もない」ことについて

まず、ホメオスタシスの説明があり、アシュビーのホメオスタットが紹介される。
ホメオスタットは、ホメオスタシスの機能を持った機械である。
アシュビーは、イギリスのサイバネティクス研究者で、本書では何度も登場する
オートポイエーシスの特徴として「入力も出力もない」というものがある
これが、オートポイエーシスを良くも悪くも謎めいたものにしてしまっているわけだが、例えばこのアシュビーのホメオスタットは「入力も出力もない」ものである。
制御サイクルが自己完結していること
ただし、外部からの擾乱はある。
外部とのやりとりがない、というわけではない。

  • サイバネティクスの2つの系譜
    • ウィーナーらアメリカの系譜
    • アシュビーやベイトソンらイギリスの系譜
  • 超安定性

予期せぬ擾乱にあっても安定を維持する、オープンエンド性

  • アシュビーの「良い制御器」定理

安定性の結果、システムと制御器の間で相互情報量の最大化が成立すること
イオンチャンネルとか、カリウムの濃度が変わるとそれを調整する。
イオンチャンネル(制御器)は、システムのカリウム濃度の変化幅に対応できている、というのが相互情報量の最大化で、このとき、制御器はシステムをモデル化している、という。
おばあさん細胞というのがあるけれど、これについても「良い制御器」定理から説明している。おばあさんと細胞が一対一対応している、というより、神経細胞の安定性の結果だと。
なお、「安定性→相互情報の最大化」であって「相互情報の最大化→安定性」ではない、と。
石は、相互情報量の最大化は成立しているが安定性を保っているわけではない。
石の温度と環境の温度は一致。石は環境に開かれっぱなし
「開きながら閉じる」のが大事であり、そのことが「自律性」

オートポイエーシス

化学反応(例えばクエン酸回路)について、
普通、代謝物を矢印でつないだ図を描くけれど、化学反応をつないだ図を描くこともできる。
この時、反応と反応とをつなぐ矢印は「可能化関係」


「オートポイエーシス=操作的閉包+構造的カップリング」

  • 操作的閉包性

可能化関係によって、過程と過程がつなって閉じている
例えば、細胞内代謝ネットワークと細胞膜の空間配置
細胞内の代謝は、細胞膜の空間配置によって可能になるが、細胞膜の配置は、代謝によって可能になる。 

  • 構造的カップリング

細胞と環境の相互作用のこと。
生物以外にも見られる。自動車の数と都市の大きさ。自動車が増えると都市の道幅は広くなり、道幅が広くなると自動車の数が増える。
メトロノームの同期もまた。
ヴァレラは、構造的カップリングのことを、適合的ないし適応と表現する。

  • 組織構成organizationと構造structure

マトゥラーナとヴァレラは、この2つを区別する。
前者の観点から見たのが、操作的閉包
後者の観点から見たのが、構造的カップリング
オートポイエーシスの定義に、進化や複製は含まれない。
ある組織構成がイマココで生きているときの特性として、操作的閉包を挙げている

  • 生物学的自律性

ヴァレラによれば、以下の2つからなる
(1)生物とは個体性を構築するプロセス
(2)生物で創発した個体性は相互作用の領域の参照枠を与える
これは、個体性→相互作用の領域→意志・価値→操作的閉包→個体性、という循環構造になっている。
環境:観察者側から見たもの
世界:個体性ができるのと同時に生まれるもの。個体性と世界は互いを定義する

  • 感覚運動カップリングとニューロン間ネットワーク

感覚運動カップリングとは、運動が感覚を引き起こすというプロセス(例:アクションビジョン)
感覚運動カップリングとニューロン間ネットワークは、互いに可能化関係にある

刺激があって反応する、というわけではなくて、外部からの刺激があろうとなかろうと、常に活動している、ということがわかってきた(デフォルト・モード・ネットワークとか)
刺激による反応というのは、その活動に偏りが生じる、ということで、「アトラクター」としての脳、と考えられる

  • 神経細胞

ホジキンとハクスレー
→神経細胞の活動を力学系としてモデル化
安定的な時間パターン=リミットサイクル
膜電位Vという状態を持つことが、力学系としてモデル化された神経細胞と形式ニューロンとの違い
入力は擾乱

  • 神経ネットワーク

神経細胞と同様に力学系として捉えることができる。
→メトロノームの同期と類似。神経細胞は振動子。脳波
じゃあどういう力学系なのかについては、色々な考え方があり、最近、自由エネルギー原理との関係で提案されてきているのが「ベイズ力学」

Ⅲ 世界を経験するとはどういうことか──切ることによってつながる、行為による媒介

1 主観的世界と客観的世界の間に境界線はない
2 主観的世界から観察できない外へ向かう「行為的関わり」
3 媒介とはなにか──切ることによってつなぐ
4 オートポイエーシスとは行為的媒介である
5 不安定さ──「閉じていること」と「外」の経験
6 「外を生きる」ことと「予測」

ここまでシステム論や神経科学の話が続いたが、この章は、どちらかといえば現象学っぽいというか、哲学パートっぽい感じになる。

主観的世界とその外

主観的世界に境界線はない。
例えば、自分の視野に境界線はないだろう。360度覆われていて切れ目はない。
あるいは、ここまでが主観的世界でここからが客観的世界だ、などという境界線を、見たり経験したりすることはない。
しかし「外」はある。
自分の視野に境界線はないけれど、もちろん、自分からは見えていないところ、というのがこの世界にはある。自分から見えていないところ=「外」である。
だが、自分が動けば、その「外」は自分の視野の中に入ってくる。
つまり、行為によって、主観的世界と「外」はつながっている、と。
「外」を知るのは観察によってではなく、行為によって。

媒介

田辺元が提案した「媒介」概念
1.AなしにBはない
2.切ることによってつなぐ
この2つによって特徴づけられる概念。
1の特徴は因果関係っぽいが、媒介は因果関係ではない、より広い関係概念
切ることによってつなぐ、というのも、パッと見わかりにくい言い回しだが、AとBは別物であるというのが「切る」。つながるけど同一にはならない、というような意味かと。
媒介というと、AがCを介してBとつながる、というような三項関係を思い浮かべそうになるけれど、ここでいう媒介は、Cのような媒体を介さない二項関係
本書は、先ほどの、「外」が行為によって主観的世界に入ってくる、というようなことを「行為的媒介」と呼ぶことを提案する。
行為的媒介は、観察的媒介と対比される。

行為的媒介とオートポイエーシス
  • 「システムそのものの組織化」と「観察にとって現れてくるもの」の区別

前者の視点から見ると、入力と出力がない。
後者の視点から見たときは、入出力があってよい。
行為的媒介は前者
観察的媒介は後者


科学は、観察から始まる。こういうのを自然的態度と呼ぶ
これに対して、現象学的態度というのがある。
個体性を作ると同時に世界を作る=行為的媒介

不安定さと予測

生命体は、システムの作動という点で外からは閉じているが、外がなければ生命体は生きることができない
相互的擾乱
不安定さが必要
予測誤差とは、不安定さのあらわれ
認識=閉じた内と見えない外との揺れ動き
予測とは行為的媒介でありエナクションの一種

Ⅳ 「予測」を展開する

1 予測的な処理――生物は環境についての予測を知覚と行動によって更新してゆく
2 予測にもとづいた安定性――アロスタシス
3 神経科学・神経計算論における「予測」――予測誤差最小化
4 知覚、運動、情動を統一する自由エネルギー原理
5 能動的推論

この章は、「予測誤差最小化/自由エネルギー原理」入門


まず、「予測」概念の意味を広くとる
「環境と生物との間の相互作用、つまり感覚運動カップリングが持つ、時間的、空間的な規則性を活用して適応的にふるまうこと」(p.163)
大腸菌も「予測」する
ダーウィン型生物、スキナー型生物、ポパー型生物とあるけど、あれらは、環境に対しての適応策として、複数の表現型から選ぶか、複数の行動から選ぶか、複数の反実仮想から選ぶか、という違い。
大腸菌のようなダーウィン型生物は、表現型によって予測している
予測、というと、脳内での思考のように(つまりポパー型生物だけが行うことのように)思えるかもしれないけれど、ここでいう「予測」はそういうものではないので、もっと広い意味で捉えてね、という前提の説明
(大腸菌の「予測」は、進化による適応を学習の一種と呼ぶのに似ているような感じもする。脳内だけで行われるもの、みたいに限定しないでね、という話)

  • アロスタシス

あらかじめ定められた適正値に応じて調整を行うホメオスタシスに対して、予測に基づく適正値によって調整を行うのがアロスタシス
適正値がホメオスタシスと違って変動する(ただし、ホメオスタシスの提唱者キャノンも適正値が変動しないとは考えていなかったらしい。サイバネティクスの影響で静的なホメオスタシス観が定着した、と)
予測を生成するためのモデルが必要
ここでいうモデルとは、「良い制御器」定理で出てきたモデルと同じ
制御器の活動パターンと外部環境の多様性の関係は、一対一対応=環境を表象というわけではなく安定性の結果によるもの

  • 予測誤差最小化理論と自由エネルギー原理の関係について

予測誤最小化ネットワークは、階層構造になっている
どの階層の予測誤差を最小化すべきか
→その指標を与えるのが、自由エネルギー原理
自由エネルギー原理の式自体には、予測誤差はでてこない
→自由エネルギー原理にとって、予測誤差最小化は手段の一つにすぎない


内受容感覚の予測誤差は、自己の概念
アニル・セスも言っている

  • 自由エネルギー原理

もとはカルマンフィルターとしての知覚や最適制御理論としての運動制御の代替、として考えられてきたもの
しかし、自由エネルギー原理は、それらとは目的が違う
生物が環境と安定的であり続ける条件や、知覚・運動・情動の関連に見通しを与えるための理論

  • 能動的推論の時間的推移

将来の変分自由エネルギーが確率的に下がる行動選択
そのために、反事実に基づく予測(反実仮想)を行う(アロスタシスと同様)

Ⅴ エナクティヴィズム――行為的媒介による相互決定

1 エナクティヴィズムとは
2 感覚運動随伴性
3 予測誤差は消せない。差異を食らうネットワーク
4 エナクティヴ・アプローチから自由エネルギー原理を見直す
5 現在から過去へ、意味づけする意識

ヴァレラのエナクティヴィズム

『身体化された心』(1991)で提唱された
enactは、制定する・役を演ずる、という意味だが、ヴァレラは言い換えとして「bring forth(生みだす)」という表現を使う
エナクティビズムでは
「知覚とは、知覚的に導かれた行為のことである」
という定義がある。
知覚の定義の中に知覚が入っていて、循環的定義になっているが、この循環性がエナクティヴィズムのポイント、らしい

ノエの感覚運動随伴性仮説

知覚能力は、感覚運動随伴性の所有によって構成される。
「感覚運動随伴性の所有」とは、技能的なものである。
エナクティヴィズムにでてくる、感覚運動カップリングとほぼ同じもの


夢の中の経験を説明できないと反論されるが、技能をもっていればよいので夢の中でも経験は生じる
水槽の中の脳は、最初は意識を持つが、徐々に意識を失うだろう、と予測(外部との関係がないので、感覚運動随伴性が徐々に失われていくだろう、と)
メカニズム的説明ではない、という批判がなされることもある。

  • ノエとヴァレラの違い

ノエ:自律性にはコミットしない。ギブソンを受け継ぐ直接知覚論。分析哲学系であるマクダウェルなどに依拠
ヴァレラ:現象学に依拠


感覚運動随伴性としての習慣
ジェイムズ「生物とは習慣の束」
エグバートのロボット

  • 逆さ眼鏡

感覚運動随伴性の崩壊と再獲得

  • 現実感

HMDによる実験(鈴木啓介)
眼前にいる人と会話している途中で録画と切り替わる
→現実かどうか疑わしくなると、自分の手や身体を動かして自分の動きが映るか確かめる
→現実感の確認に、感覚運動随伴性が用いられている

その後のエナクティブ・アプローチ

ディ・パオロらが発展させている

自由エネルギー原理とエナクティブ・アプローチの関係について

本書は、予測誤差最小化ではなく予測誤差「消費」理論を提案する。
大腸菌の例
予測誤差を食らうことで維持する
予測誤差の消費=ほかの階層の予測誤差消費を可能にする
操作的閉包をできるだけ長く維持することが、予測誤差の消費、ということ。


フリストンは、自由エネルギー原理をヘルムホルツの無意識的推論からの系譜として論じているが、一方で、自由エネルギー原理自体は、ヘルムホルツの無意識的推論に対してもエナクティブ・アプローチに対しても中立だという。

  • エナクティブ・アプローチと自由エネルギー原理が整合するか

そういう観点で研究も進められているが、相性がいい点もあるが、まだうまく整合性が詰められていないところもあるという
例えば、自由エネルギー原理では、生物の自律性をマルコフ・ブランケットから説明しているが、これは、因果関係が循環していないので、操作的閉包ではない(エナクティブ・アプローチとの不整合)
一方、アシュビーの超安定性を捉えているという点では自由エネルギー原理はいい、とも本書は評価している
(サイバネティクスには、制御工学につながったウィーナー的側面と、人工生命研究につながったアシュビー的側面とがある。自由エネルギー原理は制御工学的な道具を用いてアシュビー的なことを再興しているとも見れるのではないか、と指摘している)

  • ベイズ力学

フリストンらが提唱している力学系
ベイズ力学の力学系と脳の内部状態の力学系は、センサー値を共有している
2つは強く関係している
このあたり、マジで何言っているのかよくわからないのだが、筆者自身も、このあたりの数理をちゃんとは理解できていない、と告白されていた。

変分原理としての自由エネルギー原理と目的論の部分的復権

自由エネルギー原理は規範性を持つ=変分原理と同じ構造
→未来に向けての最適化なのではないか。だとすれば、それは最適な一つに収束していき、多様性を失う原理なのではないか、と筆者は疑問を呈する。
筆者は、これに対する答えになりうるものとして、以下を展開する

  • 渡辺慧による目的論の部分的復権

渡辺慧(1910~1993)は、「醜いアヒルの子定理」で知られる物理学者・情報科学者
本書の記述やWikipediaの記述をあわせるとこんな人
ド・ブロイのもとに留学し、ハイゼンベルクに師事し、ボーアらとも交流があった。
ベルクソンの影響を受けて時間論や生命論も書いている。
パターン認識の先駆け
シャノンに先駆けて、エントロピー概念を用いた情報理論を展開した、と。
つまり、物理学にとどまらず幅広く研究を行った人で、戦後、思想の科学研究会の発足時の同人の1人だったとのこと。


渡辺によれば、生命のようなエントロピーの減少する系では、因果律の逆が成り立つ、と。
つまり、エントロピーが増大する系では、現在の状態から結果(未来)が推定できる(因果律)のに対して、目的(未来)から手段(過去)の推定ができる(因果律の逆)、と。
この、目的から手段の推定のことを「遡言(retroduction)」と呼んだ。


目的から遡って価値が生じる
→能動的推論と合致
→エナクティブ・アプローチとも合致(生物が自分にとっての価値を生成)


物理的因果の世界:時間方向に物理的な自由エネルギーを下げる
心的世界:時間を遡って情報的な自由エネルギーを下げる
=生物は負のエントロピーを食う


「予測」とは現在から過去、未来から現在への意味づけ
(なお、変分原理は、解析力学によって無時間的な軌道としても捉えることができるけれど、現在主義と永遠主義の関係っぽいよねと注釈した上で、『スローターハウス5』や『あなたの人生の物語』が紹介されていた。確かに、自分は変分原理を『あなたの人生の物語』で知ったクチなので思い出してはいた)


想定外の事態も取り込んでいく

Ⅵ 意識の謎に挑む──諸学問が融け合うとき

1 「意識を理解する」ことの意味とは
2 神経科学と現象学をつなげる
3 具体的問題に挑む1――意識の問題への提言
4 具体的問題に挑む2――精神疾患などの意識経験の変容の理解へ
5 人文知、脳科学、AIがつながる

意識の本、という意味では、この章が本題となる。
第2節が、一番中心的なところ
第3節は「意識の分布問題」について
第4節は、統合失調症にかんするサリエンス仮説の検証について書かれている。以下では省略した。
第5節は、補足的な議論がいくつか

意識をどのように捉えるか

意識:説明できないが自明な概念
→隠れた前提を主題化するのが現象学
表象主義のような実在論にも独我論のような観念主義にも与しない


意識を「もの」化しない(=脳状態と対応するような対象として捉えない)
意識とは行為的媒介を生きられた経験から表現したもの

神経現象学

現象学的説明と認知科学が相互に拘束条件を与えるという関係
その形式化に非線形力学を用いる
なお、認知を計算と考えるか、力学系として考えるかという区別があるが、現在、RNNが力学系を表現できるので、この区別の再検討が必要という注釈あり。


オーラ経験(てんかん発作前の症状)の脳波計測
意識状態と脳波を対応させるのではなく、ベクトル場の対応として捉える
(同型ではなく、位相同型)


脳の状態と意識の状態の対応ではなく、脳の過程と意識の過程の絡み合い(循環的構造)
可能化関係
例えば、大砲を撃つとき、砲弾の向きの束縛条件に大砲の筒がある。仕事(火薬の爆発)がなければ束縛条件は見えない。束縛条件は数式化されない。
可能化条件は行為的媒介そのもの


信念ユニットと生成モデルと予測誤差

  • 信念の集合体=イマココで生物が知覚しているもの
  • 生成モデルの集合体=学習、発達、進化で獲得した世界のモデル

「予測的処理」
相互作用の安定化こそが規範(ベイズ的な最適計算と変分自由エネルギーの最小化と分散する予測誤差の最適調整は必ずしも一致しないかもしれない)

  • 表象主義   :意識=信念の束
  • 感覚運動随伴説:意識=生成モデルの束

これに対して、第三の道を考える。

  • 意識経験の構造(フッサール現象学)

(1)注意を向けられている対象(主題的なもの)
(2)周辺視
(3)視覚世界を成り立たせている非主題的な前提条件
→(1)は信念の束、(3)は生成モデルの束、(2)は両者の相互浸透

  • 本書:意識=媒介のプロセス

信念と生成モデルの間の差異が意識を成り立たせる(差異がないと意識は消える)

本書が提案する理論の自己評価

志向的対象と非主題的な前提条件の相互浸透
→「意識の境界は見えない」ことの説明になっている
単一性や一人称性と整合
→知覚の理論ではなく意識の理論になっている
周辺視野も意識経験の一部分に組み込まれる
→アクセス意識ではなく現象的意識の理論になっている

用語法にかんする枝葉末節な感想

意識が「信念」の束と言われると、分析哲学に馴染んでいる身としては違和感がある。
ただ、本書での「信念」という言葉の出所は、予測符号化や自由エネルギー原理の説明の際に出てくるもので、知覚の説明をする際に、信念ユニットと予測誤差と生成モデルのネットワークみたいな図が出てきて、自由エネルギーを下げる方法として、信念の更新、予測の更新、生成モデルの更新があるよ、みたいな話をしていたところだと思う。
ということは、ここでいう信念は、知覚の内容みたいなものに近い意味で使われている感じがする。
分析哲学系の心の哲学だと、基本的に、信念と知覚は区別された概念のはず。
分析哲学だと、信念ってそもそも命題として表されるものだが、知覚の内容は非命題的なので。うーん、ただこれも、一枚岩ではないか……
現象的意識も、その点で、普通は信念ではないと考えられているはず。
予測誤差理論における「信念」がどういう意味合いだったか
まあ、これは単に「信念」が、多義語であって、何に依拠しているかで意味が違ってくるから、それを踏まえよ、という話でしかない
なので別に全然かまわないのだけど、やっぱり、意識の現象性(経験に伴われる感覚的な質)があまり念頭に置かれていないような気もしてしまう。
じゃあまあ、分析哲学系の心の哲学が、そのあたりどれくらいできているか、というとまた話は別なのだが
個人的には、クオリア構造学とかは、そこを説明しようとしているような気はしている。


それとはまた別件
生成モデルを意識と呼ぶのはまた違う気がする。生成モデルは、意識を可能にしている背景であって、意識そのものではないような
そういえば、渡辺正峰は、生成モデル=意識論だったっけか。ノエとはまた全然違う立場だとは思うのだけど。
その点で、生成モデルと信念(知覚)とが互いに誤差を生じさせるプロセスが意識、という本書の立場の方が、理解できる。
個人的には、上述された構造でいうと、(1)と(2)が意識なんじゃないかなー、と思うけれども。

意識の分布問題

分布問題とは、人間以外の動物にも意識はあるかという問い(ギンズバーグ&ヤブロンカ)
本書の理論は、以下のような予想を行う。そしてこれらの予想は、既存の意識理論とは異なる

  • 大腸菌やカエル

なんからの意識をもつ
むろん、人間のような意識ではない。感覚運動ループの豊かさが意識の豊かさとつながるのではないか

  • サーモスタットや模型の車

生物学的自律性をもたないので、意識ももたない(本理論は汎心論ではなく、統合情報理論とは異なる)

  • 人工ニューラルネット

ヤコブ・ホーウィのように、予測誤差最小化ネットワークの信念の部分が意識だと考える立場からは、意識を持つ
本書の理論からは、外部への介入ができないので、意識を持たない

  • 水槽の中の脳

もともと意識を持っていた人の脳を水槽の中へと移した場合、当初は意識を持つ
が、外界への介入ができず、感覚運動随伴性が維持できないので、次第に失っていく

  • AI

不可能ではないが、実装は非常に困難
生物学的自律性を持たせる必要があるので
自律性を0から立ち上げるのではなく、すでに自律性を持っているものから分化する方法が有望

マトゥラーナとヴァレラについて

以下、補足的な議論が続く。
『オートポイエーシス』などを共著した2人は、『知恵の樹』以降は別々の道へ進む

  • マトゥラーナ
    • オートポイエーシスを、心的システムや社会的システムへ広げる。この道は、ルーマンやネオサイバネティクスへ
    • 基本的にサイバネティクスの人
    • マトゥラーナにとってオートポイエーシスは、認識論的転換
  • ヴァレラ
    • 人工生命研究や神経ダイナミクス研究へ
    • 基本的に現象学の人
    • ヴァレラにとってオートポイエーシスは、存在論的転換
本書とほかの論者との比較
  • クリス・フリスやアニル・セス
    • 同じ:予測誤差から考えているとこ
    • 違う:独我論的なところ
  • ヤコブ・ホーウィ
    • 同じ:自由エネルギー原理のところ
    • 違う:表象主義で、心は脳に閉じ込められていると論じているところ
  • アンディ・クラーク
    • 自由エネルギー原理、力学系、自己組織化などを取り上げていて、非常に近い
    • クラークは表象主義とエナクティブ・アプローチの調停を試みる。本書は、よりエナクティブ寄りだが、目指すところは近い

「予測的処理」という言葉もクラークからとった
(ギャラガーによる分類:ホーウィ「予測符号化」、クラーク「予測的処理」、ギャラガー「予測的関与」)

今後の課題的なもの(1)

自由エネルギー原理は、記憶をあまりうまく扱えていない
中井久夫による認知の分類

  • 微分回路(兆候)
  • 積分回路(索引)

自由エネルギー原理は、積分原理をすべて生成モデルに押し込めている。
また、「予測」という言葉より「兆候」という言葉の方が、明確な対象でない予感を含んでいる
予測という言葉では、「答え合わせ」モデルを温存してしまうのではないか

今後の課題的なもの(2)

ニューロAI(神経科学とAI研究を融合していく研究動向)との関係
「直接フィッティング」がいわれている(心理学的概念いらなくないか、という考えらしくて、つまり消去主義みたいな考えのことだろうか)
ニューロAIは、自由エネルギー原理を相対化してくれる点で、有用だ、と
また、津田一郎も参考になる、としている。

補論1 北海道大学 人間知・脳・AI 研究教育センター(CHAIN)について

本書の著者である吉田と田口はともに北大のCHAINに所属する教員である。
田口はセンター長を務めており、吉田と田口がこのセンターで行ってきた共同研究が本書へとつながっている。
また、センター内ではそれ以外にも、分野を超えた共同研究が行われているという紹介がされている。
このセンターは研究とともに大学院への教育も行っていて、吉田は「意識の科学入門」という講義を担当しており、この講義の中で「知覚としての意識」「自己としての意識」「感情としての意識」を扱っている。本書は主に「知覚としての意識」を取り扱ったものであり、「自己としての意識」「感情としての意識」までは論じることができなかった旨、補足されている。

補論2 エナクティヴ・アプローチと生態学的心理学と認知科学

チェメロは、エナクティブ・アプローチとJ.J.ギブソンの生態的心理学と認知心理学の3つのアプローチを比較
ここでは、チェメロを踏まえながら筆者たちなりにこの3者の関係を整理している。
特に、エナクティヴ・アプローチと生態学的心理学とは、互いに補完し合う関係のように思えるとしつつ、しかし、安易に統合させるのは難しいだろうということも指摘している。
例えば、認知心理学はギブソンの概念を取り入れてはいるが、本当に統合できているのか、という点で疑わしい、と。
つまり、ギブソンの存在論(環境実在論)を受け入れずに概念だけ用いても駄目なんじゃないか、と。
エナクティブ・アプローチとギブソンも、採用している存在論が違うのだ、としている。

あとがき 吉田正俊

本書が作られた経緯、主に田口との共同研究の経緯が書かれている。
最後の謝辞のところに、平井靖史や池谷裕二の名前があった。平井靖史のベルグソン本もいつか読みたいけど

主要参考文献(日本語書籍のみ)

ここにあげられている文献のうち、特に本書にとって重要なものには、○がつけられている。その○がついている文献だけ並べてみる(ただし、本では筆者五十音順に並べられているものを、ここでは勝手にテーマ別に分類した。分類に誤りがある可能性はある)

  • オートポイエーシス、エナクティブ・アプローチ

マトゥラーナ+ヴァレラ『オートポイエーシス』
マトゥラーナ+ヴァレラ『知恵の樹』
ヴァレラ+トンプソン+ロッシュ『身体化された心』

  • サイバネティクス

アシュビー『頭脳への設計』
ベイトソン『精神と自然』

  • 現象学

ギャラガー+サハヴィ『現象学的な心』
コイファー+チェメロ『現象学入門』
田口『現象学という思考』

  • 認知科学

クラーク『現れる存在』
下條『潜在認知の次元』
ギャラガー『身体性認知とは何か』


セス『なぜ私は私であるのか』
ノエ『知覚の中の行為』
西郷+田口『〈現実〉とは何か』
カウフマン『WORLD BEYOND PHYSICS』
田中+鈴木+太田『意識と目的の科学哲学』
渡辺『生命と自由』『知るということ』

いろいろな系譜

この記事の冒頭で以下のように述べた

ところで本書は、オートポイエーシス、現象学、力学系などがキーワードになっているわけだけれど、この系譜の心の科学・心の哲学・神経科学って、名前とかは知っているけれど、そういえば全然ちゃんと知らなかったな、ということに気がついた。

心の哲学(分析哲学系と現象学系)

「心の哲学」というの、文字通りにいうと心についての哲学のことを指すので、分析哲学系の伝統のみを指すわけではないのだけれど、とはいえ「心の哲学Philosoph of mind」という分野名のつけかたは英語圏っぽいし、心の哲学と冠された本はたいてい分析哲学系のそれを取り扱っている。自分にとっても、心の哲学についての知識はこの系譜のもの
しかし一方で、現象学もまた心についての哲学であり、分析哲学系の心の哲学が人工知能研究や認知科学と関わっていたのと同様、現象学もまたそうした経験科学との関わりをもってきた分野である。
また、近年では現象学か分析哲学かという垣根を越えつつもあるようでもある。
例えば、心の哲学ではなく知覚の哲学だが、以下のような本がある。
源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scape2
ベースは分析哲学系だと思うが、現象学の議論も積極的に取り入れているように思える。
現象学系の心の哲学もあるというだけなら知っていたが、しかし、ちゃんと読んだことはなかったなあ、と。

オートポイエーシス・サイバネティクス・システム論

オートポイエーシスの方は、サイバネティクスとかシステム論とかそういった系譜に属するものだと思うけれど、ここらへんもまあ「りろんはしってる」状態というか何というか。昔、現代思想の本とか複雑系の本とか読んで、通り一遍に聞きかじったりはしたけれど、分析哲学の本を読むようになってから、とんと触れなくなっていた気がする。
そういえば、現代思想のウィーナー特集買ったんだけど、冒頭の対談記事読んだだけのまんまになっているんだった……
そこで、ネオ・サイバネティクスというのがある、というのは知ったけど、「な、なにそれ?」状態になった。
ルーマンとかも結局触れずにきたしなー
現代思想とかで結構もてはやされていたような気がするけれど、それが今現在、どうなっているのかよくわからん、というのもあるかもしれない。複雑系とか……。

表象主義vs反表象主義

まず、力学系の神経科学や力学系の認知科学についてはほんとに全然知らない。
以前、『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2を読んで、認知における「力学系」という言葉を初めて知った。
本書によると、計算論的な認知観の系譜と力学系的な認知観の系譜というのがどうもあるらしい(アンディ・クラークが『現れる存在』でこの2つの系譜について論じているとか)
でもって、この力学系というのが、もっと広くいうと、反表象主義の中に位置づけられるっぽい。
本書もまた、反表象主義の立場をとる。
反表象主義って、心の哲学とか人工知能研究の本を読むと、立場の一つとして一応紹介されることは紹介されるんだけど、このあたりもそういえばあんまりちゃんと分かってなかったかも、と。
反表象主義というと、個人的には、ロドニー・ブルックスの名前とかが思い浮かぶけど、そういう点でしか認識しておらず、線としてつながってない、というか。
で、本書では主題的に取り扱われなかったけれど、これにJ.J.ギブソンも加わる。
個人的には、ギブソンもまた、「アフォーダンスの人ね」というキーワード的には覚えているけれど、それ以上はよく知らない人なのだが
『現象学と二十一世紀の知』長滝祥司編著 - logical cypher scape2リチャード・グレゴリー『脳と視覚――グレゴリーの視覚心理学』(一部) - logical cypher scape2といった自分のブログ記事を読み返してみたら、
ヘルムホルツ=表象主義(間接実在論)の系譜と、
ギブソン=反表象主義(直接実在論)の系譜
というのがあるということが書いてあった。
あと、計算論的神経科学は表象主義の流れで、力学系は反表象主義の流れっぽい。
それから、身体性認知・4E認知も、反表象主義の系譜に属するということなのだろう。
予測符号化や自由エネルギー原理が、4E認知とは相性が悪い、というのが『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2フリス「心をつくる」によってpredictive codingについてのモヤモヤをなくす - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~に書かれているが、こういう2つの系譜の違いが背景にあるのか、ということにようやく気付いたというか。
で、アンディ・クラークや本書は、この2つの系譜の調停を試みているのだ、と。
反表象主義について、並列的に存在する複数の説・立場の一つだと思っていた(同一説やら機能主義やらとか)。しかし、どちらかといえば、それ自体が一つの知的伝統をなしているような感じなのか


ところで、ギブソンといえば最近柴田崇『サイボーグ―人工物を理解するための鍵』 - logical cypher scape2を読んだばかりだが、これがギブソン論であった。
というわけで、今急速に、自分が見てこなかった系譜の存在感が、自分の中で立ち上がってきている。
現象学、サイバネティクス、ギブソン……

アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャーⅡ 屈辱の刻』川野靖子・訳

アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャーⅠ エルフの血脈』川野靖子・訳 - logical cypher scape2に引き続き2巻
ドラマのシーズン3まで見ていて、ちょうどシーズン3の終わりと原作2巻の終わりが同じあたり。
また、ドラマの続きを見てから原作を見ようかな、と思っているが、どうしようかな。


1巻の感想では「ドラマと全然違うやんけ!」と書いたけれど、2巻はそうでもなかった
ただ、映像化作品の原作を読むって普段あんまりしないのだけど、ドラマ見てから原作を読むとどうしても違う箇所を探す読書をしてしまう(逆に原作先読んでると、その違いを探すドラマ鑑賞になるのだろう)。
で、思ったのが、一般的には、小説の映像化って、内容が省略されることの方が多いのかなと思うのだが、『ウィッチャー』の場合、映像化にあたって付け加えられているエピソード、設定、登場人物がすごく多い、という印象
むろん、原作にいてドラマにはいない登場人物とかエピソードとかもあるのだが、映像化にあたって増えた要素の方が圧倒的に多いと思う。
原作、意外と叙述の濃度が薄くて、数ページ地の文なしで台詞だけ続く、とかもちょくちょくある。


以下については、原作とドラマが同じ点

  • イェネファーがシリをアレツザへと連れて行く。
  • その途中、ドワーフの銀行に金を工面してもらう。
  • シリは市場を見物させてもらって、ワイバーンをバジリスクだと偽っている見世物小屋とトラブルを起こし、さらに逃げ出す。
  • シリとイェネファーがゲラルトと再会
  • イェネファーとゲラルトはともに魔法使いのパーティに参加
  • パーティ翌日、会議の日の早朝に、レダニアのディクストラが、ニルフガード側についた魔法使いたちを拘束
  • しかし、ティサイアがその拘束を解いてしまい、戦闘開始
  • スコイア=テルも参戦してアレツザへと潜入してきて乱戦状態
  • ヴィルゲフォルツにボコられるゲラルト
  • ゲラルトは木の精の森で治療。それを見舞うダンディリオン
  • フランチェスカはニルフガードと手を組んでエルフの国を手に入れるが、スコイア=テルを諦める
  • シリは、カモメの塔の門(ポータル)から砂漠に飛ばされ、砂漠でユニコーンに助けられる。火の力で魔法を使う。ファルカの幻影を見る。
  • 砂漠脱出後のシリは、盗賊団みたいなのに助けられる。

以上についても、細部はいろいろ違ったりはする。そもそも登場人物が違ったりするし。
ただ、シリの動きにかんしては、結構原作に忠実に映像化されていたんだな、という感じがする。バジリスク云々のあたりとか、砂漠うろうろするあたりとか
シリの未来視能力、小説では太字になってる。未来視がどこで発動しているかとかはドラマと違ったような気がする。
砂漠うろうろのあたりだと、クリームの空き缶の場所に戻ってきてしまうくだりとか、わりとそのまんまだった。
もっとも細かいところは当然違うところもあり、小説だと、シリが魔法の力で水脈探そうとしたり光源作ったりしていた(ただしすぐバテてしまって、1回しかできなかった)。水については短剣についた夜露でしのいでいた。
魔法使いのパーティ、雰囲気は結構同じ。ただ、アレツザの建物の設定はわりと違いそう。登場人物の設定が色々違うので、交わされる会話などは違いがあるが、ゲラルトとディクストラ、ゲラルトとヴィルゲフォルツの会話あたりは、おおむね同じような感じだった感じ


原作にあってドラマにないのは、基本、国王まわりのあれこれ
ドラマだと、レダニア以外の国王はわりと空気だが(フォルテスト王は短編集由来のエピソードをシーズン1にやっているので何となく印象があるものの、シーズン2以降は、画面の中にいるな程度だし)、原作だとなんかいろいろやっていて、ニルフガードとの戦争の状況も結構詳しく書かれている。
ドラマの方だと、戦争の推移とかはあんまりよくわからない、というところはある。


ドラマにあって原作にないもの~

  • ティサイアの設定

ティサイアがアレツザの校長やってて、魔法使いたちの中で偉い方というのは同じ
あ、ティサイアがかなり高齢というのは、原作でないとわからないところか。
ただ、イェネファーがアレツザの生徒だった頃の話が原作には全然ないせいで、ティアイサとイェネファーの師弟関係の描写も原作に全然ない。
それから、ティサイアとヴィルゲフォルツの恋愛関係も原作にはない
原作のティサイアは、ただやたらと机の上とかに置いてあるものを整理整頓するのが好きな人、というキャラ付けをされている。
フィリパとディクストラによるクーデターののち、ティサイアは魔法使いたちの拘束を解き、それが裏目に出てしまい、最終的にティサイアは自殺する、という流れは原作とドラマで同じなわけだが、こうした行為にでたティサイアをどう捉えるか、という点で原作とドラマは大いに異なってしまう。
原作もドラマも、ティサイアって魔法使いとしては優秀なのかもしれないけれど、こと政治にかんしてはてんでダメな人だな、というところは共通しているわけだけれど、そのダメ判断をしちゃう理由として、ヴィルゲフォルツとの関係があるかないかは結構変わってきてしまう
ドラマだと、ヴィルゲフォルツを信じたかったんだよねーということで、その判断は結果的にダメだったし、信じちゃダメな人を信じちゃったねっていう評価にはなるものの、人間的には理解しやすいし、そのあとのティサイアの半ば暴走気味の魔法乱発も、裏切られたことへの悔しさや絶望がない交ぜになったものだと思うと、理解はしやすい。
また、ティサイアの自殺についても、原作だと読者側にティサイアへの思い入れはあんまりないだろうし、該当シーンもかなりあっさりとしか書かれていない。
ドラマ版は、やはりティサイアとイェネファーの間に師弟としての絆があるため、ティサイアの自殺はそれなりにインパクトのあるシーンとしてある。
まあ、お前あのやらかしに対して、死んで終わりにするのはナシだろ、とは思ってしまうので、個人的にティサイアという人物への評価は、ドラマ版でも原作版でも低いのには変わりないのだけど、原作版のティサイアは描かれ方があっさりすぎるなあ、とは思う。
もっとも原作派からしたら、そんな人物をなぜそんな盛ったの、と思われるかもしれないが。

  • ストレゴボルとイストレド

この2人、原作だと短編には登場するのだが、この本編シリーズには(少なくとも2巻までには)登場していない。
一方、ドラマ版ではこの2人、わりと重要人物である。
ドラマ版だと、ストレゴボルはなんか悪そうな奴というのでずっといるので、視聴者の目をヴィルゲフォルツから背けるのにうまく機能している。ストレゴボルが裏で操ってんだろう、と思わせて、実はヴィルゲフォルツでしたーっていう作劇がドラマ版では行われているのだけど、原作だと、そういうのが一切ない。ヴィルゲフォルツがティサイアの恋人っていう設定もないから、ヴィルゲフォルツは登場時からなんか怪しい人物であり、やっぱり悪役でしたーとなる。
イストレドは、ゲラルトたちとは異なる観点から、視聴者に対して情報提供してくれる役目を担ってくれている。
また、ゲラルト・イェネファー・イストレドの三角関係も度々描かれている。
原作ではむしろ、ゲラルト・イェネファー・トリスの三角関係が描かれていて、そこも違うところ。ドラマでも、トリスがゲラルトを慕っているのは示されているけれど、原作ほどはっきりは描かれていない。

  • フリンギラとフランチェスカ

フリンギラって原作にはいないの??
ドラマのシーズン2での重要人物で、結構物語的にも面白さを担っていたのはフリンギラだと思っていたので、原作に全然いなくて驚いた。
それから、フランチェスカは、原作ではエルフの魔法使いとして、普通にアレツザの魔法使いパーティに出席している。結局ニルフガード側についているという点ではドラマと同じだけど、ドラマではエルフ難民を率いる指導者として泥臭く戦うところが描かれていたが、原作ではそういう描写なし
ドラマ版、この2人が、お互い色々な思惑がありながらも、一時的には友情を抱くようになり、しかしその立場の違いから決裂していく、というところを描いていてなかなか面白かったんだけども……

  • スコイア=テル(リス団)

原作では、スコイア=テルというエルフのゲリラが人間たちに襲いかかっている、ということが様々な人たちの口から語られるのだけど、スコイア=テルのエルフが直接登場してくるシーンはなかった。
これ、スコイア=テルがどういう集団でどういう行動をしていて人々からどう思われているのか、ということについては、ドラマより原作の方がよっぽどわかりやすくて、スコイア=テルという集団に独特の存在感を与えることに成功している。
ドラマ版では、スコイア=テルの人たちって具体的な登場人物として登場してくるけれど、彼らが「スコイア=テル」という名前の集団であるというのなかなか把握できなかったし、フランチェスカたちとは別集団というのも最初はよくわからなかった。
その一方で、具体的な登場人物として登場しているので、フランチェスカとのいざこざや、カヒルへの接近などのドラマがあったのは面白かった。

  • カヒル

この人は、原作とドラマとで役どころはおそらく大して変わりないと思うのだけど、原作では登場してくるのが結構遅い。

  • リエンスとリディア

原作のリエンス、意外と直接登場してこないな、という感じ。名前が出てくるのはドラマ版よりも早く出てきた気がするが。
ドラマでは死んだけど、原作ではこのタイミングでまだ生きているな?
リディアは、ドラマ版ではリエンスへの指示役として登場したけれど、原作での登場シーンは常にヴィルゲフォルツと一緒で、リエンスとの絡みはなかったはず。
ドラマ版は、リエンスのバックが誰なのかについてミスリードさせるようになっていたので、リディアがヴィルゲフォルツの助手だということも途中まで隠されていたけれど、原作はそういうのがないので、という違い。

  • 一枚岩とヴォレス・メイア、天体の合

これ、どちらかといえばドラマのシーズン2、小説の1巻相当の時期にあたる話だが
「天体の合」という設定自体は、この世界の根幹をなすもので、原作にも存在しているはずだが、今のところ説明されていない気がする。
一枚岩とヴォレス・メイアってもしかしてドラマオリジナルなの? ヴォレス・メイアはまあいいとして、一枚岩も??


サブタイトルが「屈辱の刻」だが、このワードはドラマでも言ってたなあ


第1節が、王の使者視点なのちょっと面白い。使者というか伝令。国王と国王の間のやりとりのために馬を走らせる人。
魔法使いがいれば事足りるので役割が減っていたが、最近になってまた召喚されるようになった→国王が魔法使いに不信を抱いていることの示唆とか、シリの行方や各国の情勢について、世間の人たちがどう認識しているのかとか、そういうことを描くために、ゲラルトやシリ、イェネファー視点じゃなくて、あえて、そういう端役視点の節を混ぜてるんだな、と。
このパートにも、ゲラルト、シリ、イェネファーは登場してはくる
ゴーストハントの噂が流れていたり(戦の前兆と見なされているらしい)
この世界、メートル法なんだ! とか


コドリンガー&フェン法律事務所!
あの情報屋の二人組、やっぱり法律事務所なんだ
しかもコドリンガーはウィッチャーであるらしい。フェンは、小人? 脚のない障害者? みたいな感じだった。
情報屋でもあるけど、法務的な何でも屋稼業をしているっぽい。偽の情報ばらまいたりもする。
原作だと、猫は死なずにすんだっぽい。


ゲラルトがヴィルゲフォルツにコテンパンにやられた後、木の精の森へやってくる(原作では、ティサイアがポータル開いてトリスが連れて行ったっぽい(明示されていないが))。
(ところで、ポータルといえば、シリがなんでアレツザのカモメの塔から砂漠に飛ばされてしまったかは、原作の方がちゃんと説明がある。カモメの塔には行き先がランダムなポータルがあるらしい(あ、そういえばドラマシーズン1でイェネファーがアレツザに来ることになったポータルってもしかしてそれ?!))
で、ダンディリオンがお見舞いにくるのだけど、ゲラルトがその後何が起こったのかをダンディリオンに尋ねて、ダンディリオンがそれに答える、という形で叙述されていくところがあった。
上述したように王の使者視点で描くパートがあったり、あるいは、会話文だけで描写していくパートがあったり、ここのように、ダンディリオンが語っているという体で三人称視点でいろいろな人物や場所のことを叙述するパートがあったり、いろいろな視点・語り方を混ぜているのは面白いと思う。
1巻に引き続き、作中世界の著作からのエピグラフも面白い
ダンディリオンの著作だったり、イスリンの予言だったり、なんかの事典だったり歴史書だったり、と。
で、ダンディリオンがゲラルトにいうには、ニルフガードが再び侵攻を始めるのだけど、北方王国の同盟が機能しなくて、テメレアとかケイドウィンとかは援軍送るのではなく、ニルフガードと休戦しちゃう。
そういう話を聞いてゲラルトは、なんて恥知らずなことが起きているんだと落胆するんだけども。そもそもゲラルトは、ヴィルゲフォルツから中立やめてどっちの立場にたつか旗色を鮮明にせよと言われていて(ディクストラからもいわれてたっけ)、ウィッチャーは中立だから、と突っぱねていたんだけど、しかしそれって、北方王国はニルフガードに対して毅然と戦うということを前提にしていたんだろうな、とも思う。
北方王国も魔法使いもぐだぐだじゃねーか、となってしまう。
ヴィルゲフォルツは行方をくらましているらしい。
あと、エメヒルが、シリと結婚しようとしているっぽいんだよな。娘設定じゃないのか? なお、ニルフガードに連行されたシリと称される少女がシリに似た別人なのは、ドラマも原作も同じ。
本物のシリは、砂漠が出たところで、一度、ニルフガードの懸賞金狙いの賊に捕まるが、その後、戦災孤児たちが集まった盗賊集団「ネズミ」に助けられ、彼らと行動を共にするようになる、というのも原作とドラマとで同じ。
ただ、原作の方が、このあたりの描写や説明は多かったし、細かな展開には違うところもあるが。
ニルフガードの騎士たちは、氏族ごとにかたまっていて互いに対立しているらしいとか


古のエルフ
イスリン→予言者
ララ・ドレン→人間と結婚した
ファルカ→反逆者
ここらへん、ドラマ見てたとき整理して把握できてなかった。エルフの名前、なぜか覚えられん。
原作だと、イスリンは確かまだエピグラフにしか出てきてないし、ララ・ドレンも1回言及があっただけ(ドラマ版も言及回数まだ少ない気がするけど)、ファルカは砂漠のシーンでしっかり出てきた、という感じ

柴田崇『サイボーグ―人工物を理解するための鍵』

サイボーグにまつわる言説をひもとく技術思想史の本
ただし、サブタイトルに「人工物」とあるように、サイボーグにとどまる議論ではなく、例えばAI論としても敷衍できる議論になっている。
何でこのような本を突然読み始めたかは柴田崇「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」 - logical cypher scape2にも書いたが、アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』について書かれているようだったから。
なお、この「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」という論文が、本書の第1章の元になっている(結構加筆修正されているが)
また、本書は「知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承」というシリーズの中の一冊ともなっている。目次だけ見ているとギブソンの位置づけが微妙にわかりにくいが(2章の2節のタイトルにギブソンの名前があるが、2章は3節から5節にも学者の名前が並んでいて位置づけの違いがわかりにくい)、第2章全体がギブソンの議論の紹介・評価にあたる
というわけで本書は主に、バナール(とプラトン)、ギブソン、クラークの議論を中心にして、サイボーグ論を論じるものとなっている(「サイボーグ論」論である)。


サイボーグとあるが、もう少し正確に言うと「extension」という言葉を巡る議論である。
道具(人工物)が人間のextensionである(人工物によってextensionされた人間がサイボーグであるともいえる)という時、このextensionという語が何を意味しているか。
extensionは多義語であって、日本語に訳そうとすると3つの用法に分けることができ、extensionという言葉を使って道具を論じる議論も、3つの系譜に分けられる、というのが本書の大きな前提となっている。
具体的には「拡張」「延長」「外化」の3つである*1
第1章で「拡張」、第2章で「延長」、第3章で「外化」をそれぞれ論じる構成。
第1章では、サイボーグ論の多くが「拡張」の論理で語られており、その「起源」はプラトンの『パイドロス』まで遡ることができるが、この語り方は隘路に陥ることが指摘されている(本書ではそれを「プラトンの呪い」と呼ぶ)
第2章では、その隘路を回避するために、extensitonを「延長」として捉える言説が召喚される。それがJ・J・ギブソンである。
第3章では、「外化」の話と、アンディ・クラークの話がされているが、クラークは典型的な「拡張」論として整理されている。
第4章では、マクルーハンの議論を紹介しつつ、今後の展望を語っている。

第1章 サイボーグ論の正統:「拡張」の技術論
1 サイボーグの誕生:一九六〇年、宇宙
2 サイボーグ思想の「原型」:『世界・肉体・悪魔』(一九二九)
3 サイボーグ思想の「起源」:『パイドロス』
4 「拡張」論の系譜(一):AI論に続く道
5 「拡張」論の系譜(二):二一世紀のサイボーグ論
6 まとめ

第2章 サイボーグ論の転回:「延長」への定位
1 「拡大」する身体の意義:「延長」の分節に向けて
2 「延長」の起源を超えて:J・J・ギブソンの道具論
3 F・ハイダーの視覚論:「透明になる」メディウム概念のさきがけ
4 D・カッツの色覚・触覚論:「運動」の発見
5 E・ホルトの行動主義:身体化の基礎理論
6 まとめ

第3章 『生まれながらのサイボーグ』解題
1 第三の extension:「外化」
2 『生まれながらのサイボーグ』:異形のサイボーグ論?
3 『現れる存在』解題:「越境する心」の哲学
4 「大き過ぎる心」:「拡張」に無自覚なサイボーグ
5 アンディ・クラークのサイボーグ:「拡張」のキメラ
6 まとめ

第4章 サイボーグ論の転回、そしてまとめ
1 サイボーグ論の「転回」:見込まれる効用
2 展望:理論化の方向性と課題 
3 まとめ

第1章 サイボーグ論の正統:「拡張」の技術論

大雑把な内容は柴田崇「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」 - logical cypher scape2と同じだが、同論文にあった「二、extension の系譜学」という節は削除されている。
代わりにバナール『世界・肉体・悪魔』の紹介・要約や、プラトン『パイドロス』の論理展開についての解説が加筆される。
「プラトンの呪い」という言い方も、『パイドロス』解説を経ることででてきた言い方だと思う
また、上の論文では、アーサー・C・クラークとK・ウォーリックの議論が、「四、サイボーグ論の正統」という一つの節でまとおめて紹介されていたが、こちらでは、第4節と第5節に分かれている。

  • 『世界・肉体・悪魔』

訳書のタイトルは『宇宙・肉体・悪魔』だが、ここではThe Worldを宇宙ではなく世界と訳している
この3つは克服すべき3つの敵である
世界は、機械技術と化学技術で克服する
肉体は、人工物への置き換え・改造によって
5段階あって、第一段階は人工生殖工場での誕生。ここまではホールデンの構想と同じ
第二段階は、X線や赤外線を受容できる感覚器官や効率的な運動器官による能力拡張
第三段階は、脳を新材料の円筒に格納
第四段階は、群体脳
第五段階は、脳も含めて人工物への置換
悪魔は、進化を妨害する心的要因のことで、能力の欠如と願望の欠如の2つ

  • 『パイドロス』

人工物との「融合」によって能力が「拡張」される、という議論と
人工物からの「分離」によって能力が「衰退」する、という議論が並行して進む
「衰退」は「脆弱性」の露呈でもある。「脆弱性」は克服できるか=「分離」は制御可能か否か、というところで議論が行き詰まる。
サイボーグだけでなく、AIやロボットの反乱もの、というのは、脆弱性は克服できないパターンの話として整理できる。
逆に、楽観的な未来論は、人工物は制御可能だ、というパターン
楽観主義であろうと悲観主義であろうと、技術論がいずれかのパターンに陥ってしまうことを、ここでは「プラトンの呪い」と称している。
重要なのは、道具の「製作者」が、その道具の効果の「判別者」たりうるとは限らない、という点である。
筆者は、先験的に道具の効果を決めてしまうことが、この議論に陥ってしまう要因であって、ここから抜け出すためには、経験的な議論が必要なのではないか、とする。

第2章 サイボーグ論の転回:「延長」への定位

「拡張」論の問題は、人工物の使用方法を先験的に捉えてしまっていることで、それを乗り越えるためには、経験的な研究が求められる、とした上で、それが「延長」の議論に認められるとする
具体的にはJ・J・ギブソンの議論が紹介される。
その上でギブソンに影響を与えた同時代の研究者として、ハイダー、カッツ、ホルトの議論をあげ、ギブソンとの相違に着目することで、ギブソンが何を言い、何を言わなかったのかを明らかにしていく。

  • ラルフ・モシャー(1920~2008)

サイボーグの歴史で必ず名前があがるGE社のエンジニア
モシャーの使う「extension」に拡張と訳せない概念があるとして、それを「拡大」とする
身体化、身体の身体的な伸長
稲見の人間拡張工学の中にも「拡大」がでているという(ただし、稲見は「拡大」も「拡張」と混ぜてしまう。なお、人間拡張工学についていうと、筆者は「拡大」についての論点があるという点で将来に期待していると好意的な評価をしているっぽいが、基本的に筆者がほかの論者を評価する際に、extensionに複数の用法があることを意識できているかという点をチェックしており、「拡張」と「拡大」を混同してしまっている議論には点が辛い傾向にある)

  • J・J・ギブソン

道具を使っていると、自分の体が延長されているような現象
(メルロ=ポンティとかも同じような話をしている奴)
ギブソンの知覚論は、環境を「物質」「媒質」、その2つを分ける「表面」の3つで構成されているとして、この3つで知覚を記述する。これをエコロジカル・アプローチと呼ぶ
媒質というのは、情報を伝達するものであり、行動を可能とする(アフォードする)もの(大気とか)
ギブソンは、自動車の運転をこのアプローチで記述している(ギブソンによる図が多く引用されている。安全運転の場。運転している車を中心に車をうまく制御できる範囲みたいなのを図示している)。
人工物(例えばハサミとか自動車とか)を使うと、「表面」がどう変わるか、というのがポイント
「物質」というのは人工物でもあるし身体でもある。

  • F・ハイダー

ギブソンと交友関係があった心理学者
ハイダー自身は、マイノングから影響を受けている
『物と媒質(メディア)』という著作があり、媒質(メディウム)に着目した点でギブソンと共通
しかし、人工物をメディウムとして捉えた点がギブソンと異なる
ギブソンの議論では、人工物は身体化するがメディウム化(透明化)はしない。ギブソンにとっての媒質は、行動を可能とするものでもあるというのがポイント

  • D・カッツ

実験現象学の手法で色覚論と触覚論を展開
ギブソンはカッツを参照している
カッツは、ロッツェの弟子であるミュラーの弟子
ロッツェに倣い、「探り針」の比喩を使う
19世紀心理学では直に接触する感覚を「近感覚」、媒質を介在する感覚を「遠感覚」とする
触覚は近感覚だが、探り針のように道具を介在して受容する触覚があり、カッツは「遠隔触」と読んだ
表面色や空間色になぞらえ、表面触や空間触などといった触覚現象を名付けた(あとフィルム色に対応する貫通触面だったっけかな?)
道具を介在して対象を知覚するという現象において、それだけでなく、道具そのものについての触覚もあることを指摘した
ハンマーを握って釘を打つとき、ハンマーを通じて釘の感触も知覚しているけれど、ハンマーと指との間の感覚もある。
カッツの議論からみるとギブソンの議論は「素朴」である
ギブソンの側からみると、カッツは人工物をメディウム化してしまっている
筆者的には、「素朴」なままでいることで人工物をあくまで「物質」の側においてメディウム化(透明化)させない、というのが大事らしい
ギブソンにとって、カッツの議論で重要なのは、知覚と運動の関連性の発見だ、と。

最終的に本書の中ではやや否定的な評価をされているが、触覚を色覚のアナロジーで説明してたり、道具が身体化しているような状況でも、身体と道具の境界もあるよね、というように議論の精緻化を行っているところは面白いと思った。
実際、近年のギブソニアンは結構この方向に進んでいるみたい。筆者的には「素朴」に戻れ、ということらしいが。

  • E・ホルト

ウィリアム・ジェームズの弟子で、フロイト支持者であり、「新実在主義」の指導者
ギブソンがホルトと直接接していたのは2年ほどだが、強い影響を受けた
ホルトの行動主義が、エコロジカル・アプローチのルーツ
動物の意図は、行動に現れる
反射弓があって、環境に対して何らかの反応をする(光に反応して動く、みたいな)。それが2つあれば、光に向かおうとする「意図」が生じる、3つあればそれは知性だ、というような論
ブライテンベルクという神経学者による「ヴィークル」論が、ホルトの議論とまったく同じらしい。で、このブライテンベルクのヴィークル論は、ファイファーによるロボティクスにおける自律エージェントに応用されている、と。
「意図」など心的なものは、環境と身体の関数であるということで、身体と物質の二元論・心身二元論を克服
(ホルトはこれを『フロイト流の意図』という著作で論じていて、本人はフロイトっぽい考え方をするとこうなると思っているらしいのが、ちょっと不思議な感じがした。この行動主義自体はわかりやすいが)


ギブソンの「延長」論は、起源であるデカルトから説き起こしつつ、デカルトの二元論を克服することで延長概念を更新している
エコロジカル・アプローチは、人工物がどのような情報を利用し、どのような行動を可能にするかを記述する
先験的に人工物の機能を決めるのではなく、使用から人工物の意味を見出していくアプローチ
人工物というのは、人間の機能の「拡張」や「置換」「代替」を行っているのではなく、行為のレパートリーの増加として語られる。
人間の能力の進化とは、行為レパートリーの管理にある

第3章 『生まれながらのサイボーグ』解題

この章ではextensionの3つめの意味である「外化」と、アンディ・クラークを紹介しているが、では、クラークの議論が「外化」の議論なのかというとそうではなくて、クラークの議論は典型的な「拡張」論であるとして話が進んでいく
クラークの議論については、21世紀に書かれた著名なサイボーグ論ということで検討の俎上にあがっているが、筆者の評価はあまり芳しくはない。
extensionの3つの系譜から読み解くという観点からすると、クラークのサイボーグ論も「拡張」の系譜におり、本書第1章で指摘された「拡張」論の欠点をそのままもっているからである。
ただし、クラークのサイボーグ論は単純に「拡張」とはいえないところもある。
クラークというと「拡張された心extended mind」概念が有名であるが、これは筆者がいうところの「拡張」という意味には相当しない。空間的な広がりという意味では、どちらかといえば「延長」っぽい議論である。
しかし、「延長」はデカルトの延長概念を起源にもつものであり、クラークの議論はあくまでも心についてであり身体の延長について語っているわけではない。というところから筆者は「extended mind」を「越境する心」と訳すことを提案する。なお、クラークの『現れる存在』では「漏れ出しやすい心」という表現をしており、筆者はこれを「越境」という訳を支持するものとしている。
クラークもまた、J・J・ギブソンを参照しているものの、身体を十分に位置づけられていない点で、ギブソンの議論のポイントをつかみ損ねている、というのが筆者の評価である。

  • 3つのextension

ベルグソン、カップ、ダゴニェの議論を参照しながら、第三のextensionである「外化」について論じている
3つのextensionは以下のように整理される

【拡張】
母型:extension
ヴァリエーション:増強enhancement、増幅amplification、増大augmentation
起源:プラトン『パイドロス』
置換substitution、replacement、機能、能力といった語と共起しやすい
【延長】
母型:extension
ヴァリエーション:伸長、伸/縮自在
起源:デカルト
使用、身体化、境界に類する語と共起しやすい
【外化】
母型:射影(投影)projection
ヴァリエーション:外化、外在化externalization, outeringなど
起源:ヒポクラテス
身体の機能とか内的な状態とかが外に現れるないし投影されること
なんで起源がヒポクラテスかというと、人間の内臓の様子とかは直接見ることができないけど、外に現れるものを診ることでわかる、みたいな発想が元々、ということ
道具は、例えば手の機能を外化したものだ、というように使う。

  • アンディ・クラーク

『生まれながらのサイボーグ』と『現れる存在』について紹介されている。
それぞれ各章の議論を要約しながら、それらがいかに「拡張」の系譜に属する議論であるかを述べている。
「延長」っぽい話もちょくちょく出てくるのだが、結局「拡張」の話に取り込まれている、としている。
拡張の中でも楽観主義の方
クラークにとっての身体は、人工物という外的リソースと脳という内的リソースを架橋するだけのもの
クラークは、神経回路というミクロダイナミクスと環境との相互作用というマクロダイナミクスの両方を統合する研究が必要だと論じ、後者の代表例としてギブソンをあげているが、実際のクラークの議論は前者に偏重していて、ギブソン的な身体論を展開できてない、と指摘している。


「拡張」論というのは、存在の階梯を上がっていく、みたいなところがある。
有機物を人工物に置き換えていく、とか、肉体を捨てて純粋な魂になるぞ、的な発想に近い
でも「延長」論はそうじゃない。ギブソンやホルトの考えでは、進化というのは内部機構の複雑化にすぎない、というような話もしていた。


筆者はクラークに対して厳しめの評価だが、人工物論として読むと典型的な拡張論でしかない、ということではあると思う。
(認知の話として読めば新しいことも言っているんだろう的なエクスキューズをどっかでしていた気がする。技術論として整理すると、すごく楽観主義的なタイプの議論なのだなあ、という感じ)

第4章 サイボーグ論の転回、そしてまとめ

章タイトルにもあるとおり、まとめの章だが、主にマクルーハンの議論が紹介されている。
マクルーハンについて、extensionに3つの意味があることを理解した議論がなされていると評価しつつ、自分が主張したい「サイボーグ論の転回」とは道が異なる、としている
「拡張」を「延長」に変えるんじゃなくて、「拡張」と「延長」をうまく組み合わせた議論をつくる(そのことを「編成」と呼んでいる)、ということを目指そうとしている。
最後、マクルーハン以外に、サイボーグ論関係で何人かの論者を駆け足で紹介していっているが、駆け足すぎてよくわからなかった。最後の最後には、サイボーグ論といえばダナ・ハラウェイも重要なのは承知しているけど、時間も紙幅も足りないのでまだ今度的な言及だけされてたりする。


マクルーハンは、メディア環境の変化をパラダイム論を援用して論じた、と。
マクルーハンがいう「銀河系」ってパラダイムってことだったのか~

あとがき

本書の英語版サブタイトル”The Key to Understanding Media”について
メディアはメディア論の文脈では人工物という意味なので、本書サブタイトル「人工物を理解するための鍵」を直訳したものだが、” Understanding Media”はマクルーハンの著作タイトルであり、ダブルミーニングになってんだよ的な解説がされていた。

感想

冒頭でも述べたけど、「サイボーグにまつわる言説をひもとく技術思想史の本」であり「「サイボーグ論」論」である。
だから、直接的にサイボーグとは何か、とか知りたい場合には全然よくわからない本だとは思う。
どういう風に論じるのがいいのか、ということでの思考のヒントという意味では、面白い議論が埋まっていたような気はする
とはいえ、じゃあどうすればいいの、という結論はわかりにくい
ギブソンのエコロジカル・アプローチの具体的な応用を実践するとかがある、とよりよかったかなと思ったりもする。
人工物はメディアではないんだ、というところのこだわりポイントの理由が、あんまりうまく飲み込めなかった。
本書の要旨からすると全然枝葉だが、ロルフ・ファイファーが気になった。身体性認知科学、バイオロボティクスとかの人のようだ。

*1:この3つは、同じ筆者による『マクルーハンとメディア論』(2013)でも論じられていたようである