『フィルカル』Vol. 7 No. 3

久しぶりに『フィルカル』
これは2022年12月に出た号なので、もう3年ちょっと前か。
「作者の意図、再訪」という特集が組まれており、村山さんと銭さんが書いていて、これが主な目当て。

特集 映画で倫理学 フィクションもまたドキュメンタリーである 和島香太郎監督『梅切らぬバカ』をめぐって 上村 崇・佐藤 靜・谷田雄毅・吉川 孝

和島監督を、4人の哲学者・倫理学者が囲んでの座談会記事
『梅切らぬバカ』というのは、50歳になった自閉症の男性とその母親の日常を描いた作品で、彼らの家にある梅の枝が隣の家の敷地に飛び出していて、それで隣の家族との関係なども主題になってきているらしい。
母親を加賀まりこ自閉症の男性を塚地武雅が演じている。
フィクション作品ではあるのだが、当事者への取材を通じて何度も脚本を書き直して*1制作していったということで、制作過程にドキュメンタリー的な要素もある、と。
倫理学的な研究のあり方といった話もすれば、純粋に映画の話をしているところもある。
この作品のことは自分は全く知らなかったが、それでも面白く読める記事だった。

特集シリーズ 作者の意図、 再訪

2022年6月に行われたWSを行っていて、そのWSの報告
同WSでは、村山、銭に加えて、原虎太郎も発表しており、それについての報告は次号(実際の掲載は次々号)とのこと

作者の意図はなぜ芸術解釈の問題になるのか 村山正碩

意図主義と反意図主義の間の論争というのは、互いに穏健な立場となり、いってること自体は似通ってきて落ち着いてきているが、そもそも、なんで意図について論争していたのかの前提を改めて捉え直す。3つの論点

  • (1)なぜ解釈の適切さを気にするのか

意図論争は、適切な(正しい)解釈をするのに作者の意図は関与するのか、という議論だが、そもそも適切な(正しい)解釈を何故目指すのか。
芸術鑑賞においては、解釈には正解がない、自由な鑑賞がよい、という立場もあり、その立場からすると、適切な(正しい)解釈を目指す意味がわからない。
これに対して、芸術鑑賞をゲームプレイにたとえる、Nguyen(2020)の議論が紹介されている。
要は、適切な(正しい)解釈を気にする、というのは、芸術鑑賞をより面白くする縛りプレイなんだよ、ということ
このグエン論文は、村山さんが自分のブログで紹介している
ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

  • (2)解釈では何が問題になるのか

Matravers(2014:Ch.5)の議論が紹介されている。
芸術作品を解釈するにあたって、気にすべき4つの問題がある。
a.目の前の対象は解釈の適切な対象か
→作品なのか否か。例えば、全然聞き慣れない音楽ジャンルを聞いた際、それがただのチューニングなのか演奏なのか
b.その対象の境界や同一性
→どこまでが作品の一部なのか。例えば、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けの作品は、それを入れている容器も作品の一部なのか、それともあれは絵画における額縁のようなものなのか。
c.その対象が位置づけられるカテゴリー
d.その対象の意味
aとbは、芸術作品の存在論として論じられることが多く、解釈の問題として論じられてきたことはないが、しかし、解釈が必要な問題である。
cについては、一般的に作者の意図に基づくと考えられており、反意図主義者とされる人であってもそう。
なので、意図論争は基本的にdのレベルでおきている。

  • (3)作者の発言をどう受け止めるべきか

作者の意図で決まるんだったら、作者の発言ですべて決まるじゃん、ということに対して、作者が正直に全部言ってるとは限らないなど。
ざっくりまとめると、作品解釈の話なのに、作品そのものよりも作者の発言の方を見ることになったら本末転倒では、という疑念に対して、意図主義をとるとしても(強い現実意図主義をとらない限りは)(作者の発言が絶対ではないので)作品を見ることに意味はあるよ、というような趣旨の話かなと思う。で、これが、次の村山論文ともつながる。

創造的行為における意図とその明確化 村山正碩

これも、意図論争のそもそもの前提を問い直す議論
「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」あとがき - #EBF6F7から元になった発表や、その発表を元にした論文を確認できる。
「意図」の定義がそもそもできてなくない? 行為論をヒントに考えてみる、というもので
なぜ作品から、作者の意図がわかるのか、というか、作者の意図を知るのに作品をみていくことの意味というか。
前の論文の論点(3)とも関わっていて、もし意図主義が正しいとして、作品解釈の面白さ・よさってどこよ、という話でもある、多分。


行為一般において、行為の前に行為者が自分の意図を知らない、ということは普通考えにくい。(例えば、道ばたで腕をあげた人が「私は今なんで自分が腕をあげたのかわからない」といえば、それはタクシーを止めるという行為をしたことにはならない)。
しかし、それがありうる行為がある。
それが芸術制作などの創作行為
芸術家は、自分がどういう作品を作りたいか、作品を作る前に正しく意図できているわけではない。実際に作品を作っている中で、自分が何を作りたかったのかが分かってくる、ということが往々にしてある(ように思われる)
「意図の明確化」
2つの基準を提案している。
基準1:記述できる
基準2:自分の行為がうまく運んでいることに気づくことができる
基準2は、自分の意図を言葉にすることはできないが、やりながら「なんか違うな……お、これだ!」と思うような感じ。

制度は意図に取って代われるのか 銭 清弘

エイベル『フィクション 哲学的分析』への批判と改善
なお、銭による同書の書評は以下
フィクションにおいて想像はいかにして伝達されるのか——キャサリン・エイベル『フィクション 哲学的分析』書評 | Phantastopia〈パンタストピア〉
エイベルに対する批判ポイントは以下。
まず、エイベルはグァラ説を元にしながらも、グァラ説にとってポイントである「均衡」をいかしていない。
サール的な制度説でもいえる話で、実際エイベルはほかの論文だとサールに依拠しているらしい。
次に、エイベルはフィクションの読解を「理解」と「解釈」とに分けた上で、前者は制度で分析するが、後者は意図主義をとる。なので、あんまり反意図主義にはなりきれていない、と。
それがら「想像の伝達」をフィクションの価値としているけれど、それは本当か。
20世紀以降の文学なんかはむしろ、想像が伝達しにくいものに価値を置いていたのではないか、と
銭の代案
まずカテゴリを、前意図的カテゴリ、後意図的カテゴリ、超意図的カテゴリとに分けている。
特に超意図的カテゴリについて。
フィクションに限らず芸術鑑賞一般について、「想像の伝達」というゲームをしているのではなく、「経験価値の最大化」を目指したゲームをしていると考える。
まあこのあたりの話が、おそらく『芸術をカテゴライズすることについて』にまとまっていくのだろうと思うので、詳しい話はそちらでまとめたいと思う。

特集シリーズ 小山虎『知られざるコンピューターの思想史』

小山虎氏著者インタビュー『知られざるコンピューターの思想史― アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 』(PLANETS、 2022 年)

どうしてこういう本を書くことになったのかという経緯など
本の内容についても触れているが、本の書き方というかそういう話になっている。つまり、あまり学術的に書かれた本ではなく、小山としても、このテーマ自体は今後も研究するけれど、こういう本は多分もう書けない、と語っていたりするので。


内容は、ヨーロッパ編、アメリカ編、コンピュータ編の三部構成
ヨーロッパ編では、ドイツ的なものvsオーストリア的なものという軸から書いている。
これは、この分野、オーストリアの存在感が実は結構あるということを(論理学とかアングロサクソンのイメージがあるので)編集者が面白がったから
もう一つ、カントvsアリストテレスという軸もおいてあるが、これは筆者の創作だという。創作というか、学術的には厳密じゃないけど、一般向けには分かりやすいだろう、と(学術的なレベルで検証できてないけど、大雑把にはこうだったはず、と)。
それから、カルナップ不在になった、と(インタビュアーがカルナップ研究者でもある長田なので、このインタビュー中でカルナップの話について度々触れている)。
アメリカ編は、大学制度や移民の話など。
一方、プラグマティズやロイスの話ができなかった、と。
コンピュータ編について
本書の独創的な点は、コンピュータがアメリカ的な製品開発して特許をとる的な考えの産物ではなく、ドイツ的な富国強兵のためのアカデミアという思想のもとで生まれてきたものだ、と示したこと。
行動科学について書けなかった(が、これは書こうとすると膨れ上がるの仕方ない、とも)

小山虎『知られざるコンピューターの思想史― アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 』書評 村上祐子

哲学の社会史について
哲学もまた、当時の社会のあり方に規定される。
あと、やはりここでもこの本が学術的なものではない(査読誌に掲載されていたわけではない)ことに触れつつ、しかし、かつて、紀要に掲載された連載が本になっていったことに触れて、web連載というのもそういう場たりうるのではないか、と指摘している。

シリーズ 哲学の居場所を探る

インタビュー 第 1 回 『フィルカル』統括編集長 長田怜

『フィルカル』という雑誌を作った経緯とか、現在に至るまでの流れとか
美学系の人たちと、『フィルカル』作るまでは距離があったっぽくって、へえそうだったんだーと思った。美学の人たちはネットで結構いろいろやってたみたいなんですよねえ、みたいな言い方をしていた。
分析哲学の特徴、そして長田さんにとっての分析哲学のよさとして「ペラさ」を強調していた。
『フィルカル』は分析哲学の雑誌であるけれど、ある時期から、そこにそこまでこだわらなくなったというようなことも。

哲学の居場所を探るために 稲岡大志

2022年において、ポピュラー哲学として、どのようなものがあるのかの整理

  • 哲学入門書

専門家によって書かれた新書、ストア哲学が流行りつつある、哲学の多様性(女性哲学者についての本とか)、人生相談としての哲学
挙げられている新書のラインナップや女性哲学者についての本などは少なくともタイトルは知っていたりしたけど、ストア哲学の流行あたりは全然気づいてなかった。

コロナによってイベントのオンライン化が進んだことや、哲学系YouTubeチャンネルなど

  • 哲学カフェ・哲学対話・P4C

P4Cっていうのは子供のための哲学のこと。そういう概念(?)は知っていたけど、そういう名前がついているのは知らなかった。

  • マネタイズ

若手研究者がアカデミア以外での道をいろいろ模索している、と。クロス・フィロソフィーズ、The Five Books、AaaS Bridgeといった例

  • 哲学エンタメ

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』、まんが学術文庫、『ここは今から倫理です』やNHKの番組など。

シリーズ ポピュラー哲学の現在 対談 「哲学と自己啓発の対話Ⅱ」 第一回 企画:稲岡大志/文責:玉田龍太朗

ヘーゲル研究してる哲学者で高校教師の玉田と、自己啓発の著作がある百川の対談第2弾の初回。
玉田は、百川の提案する自己暗示法を実践しており、玉田が色々哲学と自己啓発の関係についての話をふって、百川がそれに対して質問したりコメントしたりしながら進む。
玉田が、稲岡などの哲学者や宗教社会学者の島薗から聞いた話などを元にしながら、哲学者の自己啓発に対するスタンスは、哲学と自己啓発を区別する/区別しない、自己啓発に肯定的・否定的の4象限で分類できるのではないかというアイデアを出す。
百川は、哲学者の中にも自己啓発に肯定的な人たちがいることを意外に感じるとコメントしたりしている。
また、玉田は、島薗の話から、現世視線のものとと宇宙視線のものの区別、救いを求める宗教と癒やしを求めるスピリチュアルの区別などあげ、次回から、スピリチュアルをめぐる話になるのかな、と思わせるところで終わっている。

自著紹介 自著解説『「美味しい」とは何か』で消化できなかった話 源河亨

ワインについての言説で、人に喩えるのは何故なのか。
欠点も愛らしく思えるから、という説を、たまたま飲んでいたら出会った人に聞いたのだけど、深夜で記憶も曖昧だ、という話。

自著紹介 自著解説『哲学の門前』余滴 吉川浩満

哲学そのものより、哲学との出会いについて書いている

訳者による紹介 ノエル・キャロル『ホラーの哲学』なぜ怖いものが見たいのか 高田敦史

マンガ『空が灰色だから』「こわいものみたさ」のコマを引用して始まってるのが目を引く
ホラーに関心がないのでスルーし続けているが、ホラーに限らずポピュラーカルチャーの哲学にかかわる話してる、とプッシュされている。

編者による紹介 稲岡大志・森功次・長門裕介・朱喜哲編『世界最先端の研究が教える すごい哲学』 長門裕介

「生煮え」をキーワードに紹介してる
研究が生まれる瞬間
この本も積んでる……

コラム 新海誠が苦手だ 森 功次

新海誠作品に苦手意識を感じているらしいのだけど、それについて整理・分析している
まず、どういう種類の苦手では”ない”のか、とか、どういう要素に苦手を感じるのかなどを整理している。
その上で今後どうするか、という話で、適切なカテゴリの鑑賞に馴れる必要があるだろう、と。
例えば、苦手に感じる理由の一つとして、そもそも自分がアニメに慣れていないからではないか、というのを挙げているからなのだが、完全にウォルトン「芸術のカテゴリーについて」の話だなあ、という感じだった。

*1:全然知らなかったのだが、加賀まりこも、パートナーの連れ子が自閉症らしく、加賀からもかなり意見をもらったとのこと

阿部和重『Ultimate Edition』

2022年に刊行された短編集(2025年文庫化)。短編集としては約10年ぶりだとか。
その、約10年前、2013年に刊行された阿部和重『Deluxe Edition』 - logical cypher scape2を2023年に読んだりしたので、そのあたりの時間感がむちゃくちゃだが。っていうか、Deluxe Edtion読んだのがもう2年半前、ということにもちょっとビビる。
ところで、2021年に長編『ブラック・チェンバー・ミュージック』が出ていて、食指が伸びていなかったのだけど、そろそろ読みたくなってきたかも。
それから、『Wet Affairs Leaking』という長編を今連載中らしい。
『ブラック・チェンバー・ミュージック』では北朝鮮が、『Wet Affairs Leaking』ではロシアが題材になっているが、この短編集にもそれぞれ北朝鮮やロシアを題材とした作品が登場する。
この短編集は、時事的な国際情勢をそのまま取り込んだ作品が多いのが特徴となっている。


なお、阿部和重のへのインタビュー記事が公開されている。
風刺小説として書いているとのこと。
阿部和重インタビュー第1回/「Hunters And Collecters」「Аноун」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第2回/「Drugs And Poison」「Across The Border」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第3回/「It’s Alright,Ma (I’m Only Bleeding)」「Eeny, Meeny, Miny, Moe」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第4回/「Green Haze」「扉の陰の秘密」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第5回/「Set Me Free」「Goodbye Cruel World」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第6回/「Sound Chaser」「Watchword」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第7回/「Hush…Hush, Sweet Charlotte」「Let’s Pretend We’re Married」「(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第8回/「Neon Angels On The Road To Ruin」「There’s A Riot Goin’ On」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
これらインタビューを読んでいると、自分はこれっぽっちも阿部和重作品が読めていないなあとなる。
それにしても阿部和重、自分にとってずっと読み続けている稀有な作家となりつつある(好きな作家は色々いるが、継続的に作品を追っているかというとなかなか)わけだが、何故なのかは自分でもあんまりよく分かっていないな。
面白いことは面白いんだけど、どれくらい面白がれているのか。短編だと特に。

Hunters And Collectors

とあるロシア人の殺し屋が、やはり殺し屋である自分の師匠を訪ねてシベリアまでやってくる。
ある男が師匠の家に毎年来ており、今年も来るかどうか確認するためだったが、どうにもはぐらかされる。
師匠の方がナイフコレクター。
焦って師匠を殺してしまった後、家を出るとそこにはゲームをしている少女の姿があった。

Аноун

タイトルは「アンノーン」をロシア語表記したもので、ポケモンGOに出てくるレアポケモンの名前
Hunters And Collectorsに出てきた少女視点での話
少女の母親はゲーム配信者で、家族の様子を世界中の人が見ていて、少女を助けようとしているけれど、ネットの向こう側からできることはあまりない

Drugs And Poison

密室で拘束されて尋問される男
実は仮想現実アトラクション

Across The Border

空爆のさなか、男たちがゲームに興じている。顔が似ているので双子と呼ばれる二人の男は指に数字が書かれている。ルーレットでその数字がでると、数字の書かれている指が落とされる、というゲームだ。
指輪が、工芸職人のもとにもたらされる。母親が行方不明の息子を案ずるニュースを見ていて、これはその息子のものでは、と通報するが、逆に逮捕されてしまう

It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)

今からおよそ100年後の未来、高校の修学旅行は時間旅行体験になっている。
主人公の少年は、趣味でサルベージしたファイルから、過去のシリア難民の少女の動画を見つけて、旅行先を当時のシリアに決める。
実際に行ってみて、その少女がシリアにはいないことを知るのだが、シリアのあまりの惨状にアサドの暗殺を決心する
実際に時間旅行に行っているわけではなくて、仮想現実だったというオチであり、彼の記憶は消されるのだが、高い評価ポイントだけがつけられることになる。

Eeny, Meeny, Miny, Moe

父親の後を継いだばかりの男。父親とは似て非なる趣味をもつ。
そして、叔父の暗殺命令を出すか否かに悩み続けている。そう、この作品の主人公は、固有名詞はでてこないものの、金正恩なのである。
実は霊言

Green Haze

ブラジルの大統領ボルソナロの、アマゾンの熱帯雨林が火事になった際の対応を描いている。
ボルソナロというのは、ブラジルのトランプみたいな人であり、地球温暖化よりも自国の経済発展を優先し、諸外国とくにフランスのマクロンバチバチやりあった、という話なのだが、それを未来からタイムトラベルしてきたと称する者が語りかけてくるという形式で書かれている。
未来からすると、この件が重要な契機になったのでここに介入しなければならない、是非協力してほしいという内容なのだが、これ、つまり、そういう詐欺なのでは、というオチになっている。
全然知らなかったが2019年に環境活動家トゥンベリさん、「時を駆ける少女」だった? 19世紀にそっくり写真 - CNN.co.jpというニュースがあって、このネタも織り交ぜられている。
これは過去に読んだことがあった
群像2020年1月号 - logical cypher scape2
この作品が発表されたのは2020年だが、ボルソナロ大統領は2022年に選挙で負けた後、クーデターを起こそうとして、現在服役中とのこと(Wkipediaによる)。


ここまでの作品は、海外時事ネタを絡めたような作品だった。
時事ネタを絡めるというのはこれまでの阿部作品にもあったけれど、ここまで海外での紛争などを直接取り込んできているのは新たな展開なのかなあと思うし、それが長編にも結実しているのだろう、と思うと、まあやはり長編も読まないとな、と思う。
実は仮想現実だった的なオチが多く、そうやってまとめてしまうと、何だそれ、となるかもしれないが、フェイクニュースやらポストトゥルースやらといった状況への風刺的な対応なのだろう、とも思う。でもまあこういう処理は短編ならではというところもあるだろうから、やはり長編も(ry
それはそれとして、Hunters And Collectorsは殺し屋によるある種のスパイアクション的なところが純粋に面白いし、Drugs And PoisonやAcross The Borderはそのゴア描写に引き込まれるし、各話どれも内容が面白い(ので、オチとのギャップ感もあるんだけど)
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)、Eeny, Meeny, Miny, Moe、Green Hazeは、そういえばどれも独裁者の話なんだな。アプローチが三者三様なので、読んだときの感じはかなり違うのだけど。It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)が一番シリアスで、後ろに行くほど滑稽味が増していく感じ。

扉の陰の秘密

怪我をした舅の家を毎日訪れている嫁が、トイレで自慰行為をしているようだと気づいた舅は悶々とした日々を過ごし、ついにはトイレに盗撮カメラを設置するのだが、調整中に自分の行為を逆に見られるのだった
なんだこれ、と思ったら、週刊ポストの企画で、官能小説を書いてという依頼だったらしい。葵つかさ×阿部和重だったらしい。

Set Me Free

下戸が上戸優位社会をぶち壊すために、大手酒造メーカーにテロをしかける話

Goodbye Cruel World

主人公の少年が、ヤンキーな少年を家に呼んで、レアカードやら両親の持っているへそくりなんやらを渡して交渉をしようとしているのだが、最終的にうまくいかない
で、実はそういうゲームで、主人公はそのゲームをプレイしているおじさん
Big Issue』に掲載された作品らしく、お題は「ホーム」
スマホのホーム画面に戻る、という形でお題が回収されている

Sound Chaser

ストームチェイサーに憧れる主人公が、大学で気象学を専攻し、アメリカに留学し、その夢を叶い、日本に帰ってきてドリームチームを結成するまでの話
主人公の名前は智、結成されたチームの名前は「嵐」
というわけで、朝日新聞で企画されたジャニーズの「嵐」とのコラボ小説とのこと
これは、それを知らなくても普通に面白く読めて、最後に「嵐」のオチがついたところで、なるほど、そういうことでしかた、となる。

Watchword

ゾンビによって荒廃したポストアポカリプス世界で、主人公が、「砦」を築いているグループに接触し、仲間を助けてほしいと交渉を持ちかける話
最後まで読んだところで、これもまた、前の作品と同じように何かとのコラボ作品なのね、ということはわかったが、自分がコラボ先のA.B.C-Zのことを知らなかったので、あんまりよくわからなかった。


ここまでの5作(「扉の陰の秘密」から「Watchword」まで)が、企画ありきのショートショートという感じ。
以下に続く4作品も、雑誌からの依頼があって書かれているもののようなので、それぞれお題はあったんだろうけど、上の5作のようにはっきりと、これがお題です、みたいな感じはない。

Hush...Hush, Sweet Charlotte

夜の公園でドラッグきめてた少年二人の前で事故が起こり、その車内には赤ん坊が
彼らは、この赤ん坊こそ、懸賞金の噂のある奴だと気づいて、女友達のもとへと連れて帰る。が、発熱して泣き止まない赤ん坊に、彼らは右往左往させられ続ける。
懸賞金というのは実は嘘で、その赤ん坊を探してくれと頼んでいた親は、そのまま病院の赤ちゃんポストにおいていってほしいということを言ってくる。
少年は病院に持って行って一度はそこに赤ちゃんを置いていくのだけど、早朝でなかなか病院の人が出てこなくて、もう一回連れて帰るところで終わる。
もともと金目当てだったんだけど、赤ちゃん引き取っちゃうと育児せざるをえなくなるという話なんだけど、せざるをえなくなる感を、ネガティブなものにしないオチ

Let's Pretend We're Married

特殊詐欺の受け子をやっている少年が、殺人事件を目撃してしまい、自殺団地といわれている団地の屋上へと隠れる。
仲のよい女の子にだけ居場所を告げて来てもらって、「俺の人生、もう積みだ」って嘆いているところに、当の殺人犯までやってくる
雨の降りしきる屋上、流れる血、どこかへと逃げ出す少年少女

Neon Angels On The Road To Ruin

自動車泥棒の下請けやってるおじさんが絶体絶命の危機に陥る
これ、最初にイーロン・マスクがどったらこったらという話から始まる。このあと、twitterも作品内に出てくるのだが、2022年1月号とかで発表されている作品なので、マスクのtwitter買収はまだ。
マスクの話というよりも、本当はカルロス・ゴーンの話が書きたかったらしい。ゴーンについても作中に出てくる。
トヨタからテスラへ、という世代交代の話でもあり、主人公はレクサス盗んでいたのだけど、急遽、テスラ車を盗むことになる話になっている。
町田を中心に多摩地区で盗みを働いていて、同じところばっかりで盗みしていてもまずいから、と世田谷区へと越境を試みる。しかし、相方がついてきてくれず、急遽、twitterで闇バイト募集して若い男と即席コンビを組む。で、世田谷を縄張りにしている同業者に見つかりボコられる、と。
登場人物の一人が「馬小屋の乙女」(『グランド・フィナーレ』収録の短編)にも出てきた人らしいのだけど、全く覚えていないので、あとで確認しとこう。

There's A Riot Goin' On

子供の頃からなぜか警察に職質されやすい主人公の青年は、20歳の誕生日であるハロウィンの日に、復讐のための爆弾テロを決行しようとする
バイト先で、いじめというよりも虐待にあってるベトナム人技能実習生がいて、普段は見てみないふりをしているのだが、いざ、決行の日に「助けて」と声をかけられてしまう。
最後の2作品は、いかにも阿部和重作品っぽいなという雰囲気が強くて、特に面白かったのだが、従来の阿部作品ともまた違う雰囲気もある。
「There's A Riot Goin' On」は、『ニッポニアニッポン』とも似た作品で、少年が独特の被害意識を持って、ネットでの情報を参照しながら、テロに望むという点が同じだが、『ニッポニアニッポン』では、主人公のテロはあえなく失敗してしまう。主人公の誇大妄想と(本人にとっては)綿密な計画が、最後に挫かれるというのは物語の一つのパターンかと思うのだけど、本作はそれとはまた別の結末を迎える。
主人公のもともともっていた動機は、やはり挫かれるのであってある意味では果たされることはないのだが、それが別の形に変わって果たされる。つまり、彼の「復讐」は果たされないが、ベトナム人を助ける、という本来彼の目的にとっては邪魔だったことを、復讐のために用いるはずだった手段(爆弾)によってなすことになる。
どこかで「It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)」や「Hush...Hush, Sweet Charlotte」にも通じるところがあるように思う。
少年にどこか希望を託す、というか。
Neon Angels On The Road To Ruin」も「There's A Riot Goin' On」も、結局、このあと主人公は死ぬことになるんだろうな、というもうどうしようもないところへ追い詰められるところまで描かれているのだけど、どちらの作品も主人公が死ぬところまでは描かず、もうあとは死ぬしかないかもしれないんだけど、その前に、なんとかとりあえずやりきった、切り抜けた、あとはもう何も考えずにいったん休もう、というところで終わる

ウィムザット&ビアズリー「意図の誤謬」(河合大介・訳)ウォルトン「芸術のカテゴリーについて」(森功次・訳)

銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』を読む前に、基本論文を読んでおく企画。
「意図の誤謬」はノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳) - logical cypher scape2の中で言及されていて、あれ、そういえば読んでいなかったぞ、と気づいたので読むことにした。

ウィムザット&ビアズリー「意図の誤謬」(河合大介・訳)

『フィルカルVol.2No.1』
詩を読むときに、詩人の伝記的事実を気にする必要はないですよね、みたいな話?
いや、読んだはいいのだが、全然頭に入ってこなかった。
一つは自分の読んだときのコンディションの問題で、眠いなあと思いながら読んでいた気がするので。
もう一つは、この論文の中で言及・引用されている議論とか作品とかが知らないものが多くてよくわからなかった、ような?


なんか目についたキーワードだけひろう
クマラスワミという美学者が、芸術作品についての探究は、二種類あると述べている、と。
一つは、意図が実現されているかどうかについて、もう一つは、保存されるべき価値があるかどうかについて。
これって、ノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳) - logical cypher scape2における成功価値と受容価値にそのまま対応するのでは、という気がした。
クマラスワミは前者こそが芸術批評だと主張するのに対して、ウィムザット&ビアズリーは、芸術批評は後者だよねえ、という。


意図の誤謬はロマン主義


詩の批評と作者の心理学があり、
内的な証拠と外的な証拠がある。

ウォルトン「芸術のカテゴリーについて」(森功次・訳)

以前、一度読んだけれど、再読
モリス・ワイツ「美学における理論の役割」、ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」 - logical cypher scape2
冒頭から「意図の誤謬」が!
「意図の誤謬」に対する反論として書かれているのである(とはいえ結構限定的な反論であるようにも思う)
美的性質の知覚はカテゴリーに依存する
どのカテゴリーのもとで知覚するのがよいのか、については、正しさの規準がいくつかある。

そのカテゴリーにおいて見たときに、標準的特徴が比較的多くなり、反標準的特徴が最も少なくなるカテゴリー
作品が最もよく見えるカテゴリー
作者が意図していたカテゴリー
作品が提示された社会において確立しており、はっきり認識されされているカテゴリー
ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。 - 昆虫亀

どのカテゴリーで知覚するのが正しいかを判断するのに、作者の意図は基準になる、という点で、意図の誤謬は誤謬である、ということになる。
あくまでも、知覚されることにこだわっていて、知覚できるようになるには訓練がいるという論点もある。どのカテゴリーが正しいカテゴリーか知っているだけでは、そのカテゴリーのもとで知覚できるとは限らない、と。
基準が4つあるけど、どの基準をどう採用すればいいのか、というのは難しそうでもある。
基準1と2だけではだめで、基準3や4があるのは、1や2だと明らかに正しくないのに当てはまっちゃうカテゴリをはじけないから。
十二音技法は、シェーンベルクが作曲していた当時、社会的に確立されていたカテゴリではないけれど、シェーンベルクは自覚的で本人が意図していたので、シェーンベルク作品にとって十二音技法というカテゴリが正しいのは基準3で判断される。
ただ、ジャコメッティの作品なんかは、どのカテゴリが正しいかは最後まで議論が分かれて、正しいカテゴリは判断できないかも、とそういう場合がありうることも述べられている。

ノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳)

批評の哲学の入門書
実はずっと積んでいたのだが、銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』を読むための予習として読むことにした。


ざくっとまとめると

批評とは、理由に基づいた価値付けである
芸術作品には、成功価値と受容価値があるが、批評は前者に基づく価値付けを行う
そのために意図主義の立場にたつ
批評は、客観的なものたりうる。その客観性は、芸術作品を適切なカテゴリーに分類することによって確保される。

といった感じか。
キャロルの主張は、ある程度規範的な側面があり(つまり「事実、批評とはこういうものである」という形式の主張ではなく「批評は、理想的にはこうあるべきである」という形式の主張に近い)、その点で、論争的な面を持つだろう。
例えば「批評は価値付けである」という主張に対して、価値付けをしていない批評もあるという反論も当然あり得るだろう。
キャロルは、批評の構成要素として、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析、そして価値付けを挙げている。前者6要素を理由として価値付けを行うのが批評である、というわけである。絶対に必要なのは価値付けで、前者6つについては少なくとも1つは必要だが全て揃っている必要はない。
ところで、解釈や分析をやっていれば批評になるのであって、価値付けは必ずしも必要ではない、という立場もありうるが、キャロルとしては、それだと研究と批評の区別がつかないでしょ、ということらしい。価値付けなしで解釈や分析だけやってるものは研究と呼ぶべきで、研究と区別して批評というものがあるなら、それは価値付けをやっているかどうかで区別されるものなのだ、と。感想は後述する。
それから、成功価値か受容価値か、意図主義を採用するかどうか、ここらへんも議論が割れるところではあるだろう。
キャロル的には、批評というのは、主観的なものと思われがちだが、客観的なものでありうるのだ、というのがおそらく主張したいこととしてあって、そのためには、受容価値よりも成功価値に基づく価値付けであるべきだろうし、また、そこでの成功を測る基準として意図が持ち出されるのだろう。
個人的に一番面白いなと思ったのが、批評の客観性を支えているのは分類である、ということを論じる第四章
へえ、そういう風に議論が展開していくのかー、と。
実は結構、分類に力点が置かれている、というのは意外な感じがして面白い。
そして、なるほどそれならば確かに「芸術をカテゴライズすることについて」へとつながっていくよなあ、という感じがする。


ところで以上の論点のいくつかについては、北村紗衣『批評の教室』 - logical cypher scape2でも触れられている。
批評が価値付けであるかどうか、成功価値か受容価値かどうかについて、キャロルの主張は尊重しつつ、規範的にはそこまで重視していない感じ。
つまり、価値付けすることは面白いし、成功価値を見ることは大事だけど、必須ではないんじゃないか、と。初心者は価値付けまで踏み込まなくてもいいし、受容価値が面白い切り口につながるよね、といったスタンス。
批評を書く場合に、より実践的なのは明らかに北村本の方ではある。
ただ、キャロル本もキャロル本で、第三章の批評の構成要素を分解しているあたりは、実践的なものとしても読むこともできる。記述、解明、解釈あたりを意識して書き分けられると、作品読解としてかなりよいものになりそう。
素朴には、解釈って言葉はかなり広めに使われがちだし。これら3つは、シームレスな部分もあるけど概念上区別可能なものとして認識しておきたい。北村さんとかが、正しい解釈はないけど間違った解釈はあるといったりするけれど、間違った解釈というのは、記述や解明のレベルが誤っているということではないかな、と思う。

はじめに
第一章 価値づけとしての批評
 1 導入
 2 価値づけからの撤退
 3 批評の本性と機能 本章の要約
第二章 批評の対象
 1 導入
 2 成功価値vs受容価値
 3 芸術的意図は批評の価値づけに関わるのか:ラウンド1
 4 手短なまとめ
第三章 批評の諸部分(ひとつを除く)――批評はいかなる作業によって成り立っているのか
 1 導入
 2 記述
 3 分類
 4 文脈づけ
 5 幕間:用語法についての注意をひとつ
 6 解明と解釈
 7 分析
 8 ここまでの議論のとても短い要約
 9 芸術家の意図ふたたび:ラウンド2 意図と解釈
第四章 価値づけ 問題と展望
 1 導入
 2 でもそれって主観的なものですよね
 3 批評の原理は存在しない、という意見について
 4 分類(再び)
 5 批評と文化的な暮らし
訳者あとがき



以下、かなり雑まとめ

第一章 価値づけとしての批評

批評とは「理由にもとづいた価値付け」である、と主張する
ここでは、批評とは価値付けではないとする主張への簡単な反論が展開される。 

第二章 批評の対象

作品の価値を、成功価値と受容価値とにわける
前者は、作者が作品を作る上でもった意図が成功しているかどうか、ということ
後者は、読者が作品からどのような快を経験したか、ということ
批評は前者にかかわる、というのが本書の主張

第三章 批評の諸部分(ひとつを除く)――批評はいかなる作業によって成り立っているのか

タイトルにある通り、批評の中で行われている個々の作業について。
批評は、記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析、そして価値付けから成り立っているとする。
記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析は、価値付けのための理由を提供するもので、価値付けの下位に位置づけられる。本章はこれら6つについて扱う。
章タイトルに「ひとつを除く」とあるのは、価値付けは、次の章で独立して取り上げるから。
記述、分類、文脈付けはまあ、読んで字のごとしである。
記述と分類との間には解釈学的循環がある。
解明、解釈、分析は、よく似た言葉だが、本書でははっきりと区別されている。解明→解釈→分析の順の階層構造になっている。
解明は、言葉とか記号とかの意味を明らかにすること
解釈は、作品の中で描かれていることの意義とかメタファーとかを明らかにすること(主人公がとった行動の理由とか)
解明と解釈は、時にその境界が曖昧になることもあるが、概念としては別物。
分析は、作品全体としてどのような効果があがっているか明らかにすること
解明と解釈は意味にかかわるが、分析は必ずしもそうではない。解釈は分析の一種だが、分析は解釈を含むとは限らない。
例えば、装飾芸術の場合、物語作品のような意味内容は持たないので解釈はできないが、この形や色がこのように働いてこういう目的を果たしている、と言うことはできる。これもまた分析。


あらゆる意味が実際の作者の意図通りになる、という強い現実的意図主義は退ける。
慣習的意味と作者の意図が食い違った場合に、慣習的意味を採用することもできる意図主義として、仮説的意図主義と穏健な現実的意図主義とをあげる。
両者を比較して後者の立場をとる。

第四章 価値づけ 問題と展望

批評は価値付けであるとして、それは客観的なものとしてありうるのか
単に批評家の好みを押しついているだけでは、という批判にこたえる


批評がなぜ主観的なものと思われるのか
その要因をヒュームに見いだす。
ヒューム自身が主張したかったことではないが、ヒュームの影響により、批評=主観的と思われるようになった。
それは、以下のような推論による
前提1)あらゆる批評は趣味の行使である
前提2)あらゆる趣味は主観的である
結論)ゆえに、あらゆる批評は主観的である。
本章の第2節では、前提1の誤りを指摘している。批評は必ずしもすべて趣味判断ではない。
必ずしも美についての判断ではないから、というのと、知覚的なものとは限らないから、というのがあげられていたかと思う。
なお、注釈において、前提2を疑う方向もあることが示唆されている(ヒュームやカントはおそらくそういう方向性なのだろう)。


それからもう一つ、アイゼンバーグとマザーシルによる、批評の原理は存在しない(から批評は主観的である)という主張への反論もなされる。
批評の原理は存在しない派は、批評が以下のような論証構造をしているとする。
前提1)この作品WはFという性質を有する
前提2)Fという性質を有する作品は優れている
結論)故に作品Wは優れている
前提2で導入された一般法則(批評の原理)は存在し得ない。だから、批評はこういう論証をすることができないために、主観的だ、という批判
これに対してキャロルは、ここで批評の原理とされるものの条件が厳しすぎる、という
確かにそんな一般法則は存在しないけれど、それは求められる一般性が高すぎるからであって、カテゴリごとであればありうる。
(ここでキャロルが導入してくる、カテゴリ相対的な法則には「ほかの条件が同じならば」という限定がつけられているが、こういう限定は、自然科学でも使われるのだから批評で使っていけないいわれはないよね、と釘を刺している)
ということで、分類の客観性こそが、批評の客観性を担保する、という方向で議論が進む(なお、文脈づけがその役割を担う場合もあると補足されてもいる)。
*1
構造、歴史的文脈、意図という3つの理由に基づいて、分類はなされる。
理由に基づくので客観性が保たれる、と。
一つの作品が複数のカテゴリーにまたがっている場合もあるよね、ということで、多元カテゴリー的アプローチを採用する。


異なるカテゴリーに属する作品間の比較はできるか(例えば絵画作品とテレビドラマ作品の比較とか)。
基本的にそういうことはできないけど、できる場合もあるよね、としていて、そのできる場合の一つとして、カテゴリー同士を比較する場合がある、と。
コメディドラマの傑作と絵画の傑作を比較する場合、コメディドラマというカテゴリーと絵画というカテゴリーの比較になっている。文化全体のなかで、コメディドラマと絵画のどちらの方がより重要か
で、キャロルは、「この作品はコメディドラマの傑作だ」という批評と、「コメディドラマより絵画の方が、より重要なカテゴリである」という批評を区別していて、前者を芸術批評、後者を文化批評と呼ぶ。
当然だが、文化批評の方がより広い見識が必要。
批評家は実際にはどっちもやることがあるけれど、別物だと区別しておいた方がいいよね、と。


順番前後するけど、批評における価値付けについて、
作品のランキングつけるのが批評というわけではないよ、と。作品の注目すべきところ、価値あるところを示すのが批評だ、と。

訳者あとがき

感想

  • 批評と価値付け

批評、読んでも書いても面白いのは解釈や分析かな、とは思うので、解釈や分析だけでいい、価値付けがなくてもいい、という意見も分からなくもないのだけど、研究と批評とが区別できなくなってしまうのでは、というキャロルの指摘も納得できる
で、あと、それ以外にふと思ったのは、読むにあたっての動機付けにはなるな、と。
例えば、なんか作品の要素(ショットとか)の数をひたすら数えるタイプの研究とかあるけど、数えましたってだけだとまあ読む気にはなれない。
でも、この作品がどうして面白いのか、この数を数えると実はわかるんです、となってたら、読む気になるかもしれない。
解釈や分析(数えるのは記述だろうけど)にしても、なんでそんな解釈や分析をしたのか、というのがはっきりしていた方が読みやすいし、その際に、価値づけというのは活きてくるのだろう。
どうしてそういう分析などをしたのか、という目的が分かればいいので、その目的が必ずしも価値付けである必要はないのだけど。例えば、作家の変遷を明らかにするとか、そのジャンルの特徴を明らかにするとか。でも、それは確かに批評というより研究っぽいなという感じ

  • 成功価値と受容価値

これについては、自分個人の話をすると、自分は受容価値についてばかり書いてきた、と思うので、何もいえねーという感じでもあるのだが……
受容価値、というか、自分はその作品を鑑賞してこういう経験をしたというのは、結局、あなたの感想ですよね、という指摘を免れない
自分自身の書くものについては、まあそう言われても仕方ないかな、という意識はある。
とはいえ、批評(ないし研究)が全てそうあっていいのか、といえばそうではないだろう。
つまり、何らかの客観性はもつべき。
自分も自分個人の経験(受容価値)をスタートにはしているけど、個人的なものには尽きないもの、ちゃんと他の人たちとも共有できるものが提示できるようにしたいと思って、ものを書いていたつもりでいる。
自分は全然、成功価値に着目して何か書いたことはないんだけど、批評が客観性を確保するのにそちらに着目する、というのは、確かにそうかもな、とは思う。

  • カテゴリごとの原理

上の2つは論争的な感じもするのだけど、批評に対するスタンス・心構えみたいなものだと思えばまあ、という気もする
これに対してもう少し気になってくるのは
キャロルは、芸術一般に適用されるような原理の存在は否定するけれども、カテゴリごとの原理ならばあるだろうと考え、それに基づく客観的な価値判断があると考えているようで、
言われてみれば確かにありそうな気もするものの、本当にそんなうまくいくかそれはとか、芸術作品の価値判断ってそんな法則を当てはめるようにして行われるものなのかとか
ここは結構重要なポイントのような気がしている

  • 意図主義まわり

このあたりも色々あるとおもうんだが、このあたりは自分があんまり関心をもてないでいる

*1:批評の客観性を担保する他の道として、倫理学における個別主義を美学に拡張するという方法が示唆されているが、具体的にどういうものかは書かれていない。個別主義って言葉自体は鈴木貴之『人工知能の哲学入門』 - logical cypher scape2でも見かけたのだが、シブリーっぽい話か? というふわっとした認識でしかない(し、それであってるのかもわからない)上に、それがどう客観性に結びつくのかもよくわからない

藤野可織『青木きららのちょっとした冒険』

フェミニズムに出会ったミルハウザーみたいな短編集
藤野作品は以前からミルハウザーっぽいなあと思っていたけれど、本作もアイデアは結構ミルハウザーっぽいところがある
それからもう一つ藤野作品の特徴としては、フェミニズム、女性の生きにくさを扱っている点があり、本作品集は特にこれが前面に出てきている感じがする。
すべての作品に「青木きらら」が出てくるが、同姓同名の別人、というか、この短編集の各作品をつなぐ象徴的な記号のようなもの。
背表紙には「きららはあなたかもしれない。(...)どんな彼女たちの名前も、青木きらら。8人のきららの人生を通して、私たちの痛みを掬い上げ、ともに生きる力をくれる芥川賞作家による傑作エンパワーメント小説」という紹介文が書かれている。「青木きらら」はいわば「私たち」の名前なので、各作品にそれぞれ青木きららという名前の登場人物が存在するのである。
そして、この奇想とフェミニズムは、分かちがたく結びついている。
例えば、フェミニズム的なメッセージには目をつむって奇想だけ楽しみますね、ということはちょっとできない(逆もまた然り)。そもそも、各作品に、同姓同名の別人がでてくるという仕掛けの面白さ自体、両方の要素を含んでいるからこそだろう。


奇想としてミルハウザーみが特に強いのは「トーチカ」「スカート・デンタータ」
短編としてよかったのは「消滅」とか「幸せな女たち」とか
とはいえ、どれも面白く読んだ。
一方、男性としては、読んでいて居たたまれなさを感じる部分もあるのは確かである。だが、だからといって完全に女性向けの作品というわけでも決してない。
確かに、この短編集では男性は加害者・抑圧者として描かれていることが多く、また「青木きらら」という名の下にくくられる「私たち」は女性たちのことであって、そこに男性は含まれていないだろう。
しかし、例えば「花束」や「消滅」で、主人公は亡くなった青木きららを悼む立場だが、男性であってもまた立場に立つことができる*1。あるいは明らかに男性を加害者として描く「スカート・デンタータ」や「幸せな女たち」であっても、男性に敵対している作品ではない。むしろ、男性へ問いかけてくるような作品だともいえる。
じゃあ「この作品は男性も女性も分け隔てなく対象としています」とまで言ってしまうとやっぱりそこは欺瞞で、一義的には女性のための女性をエンパワメントする作品であるわけだが、藤野の描く奇想世界を楽しむのに男性も女性もないんだよなあ、というか、そこはまあ普通に両立するわけで、それは本当は当たり前すぎてわざわざ注釈するようなことではないんじゃないだろうかとも思うのだけど……。

トーチカ

次第に巨大化していって街そのものと化していく「放送局」という、ミルハウザー作品にあってもおかしくないような設定の話。実際「放送局」の内部にショッピングモールがあったり、病院ができたり、集合住宅ができたりしていく様子は、ミルハウザー作品を読んでいるような感じがした。
一方、主人公の近子は、派遣社員として「放送局」の警備員をやることになった女性で、ミルハウザー作品ではあまり出てこないタイプの人物だろう。
近子は芸能人全般にはあまり興味がないが、モデルの「青木きらら」には崇拝に近い念を抱いている。そして彼女はある日、青木きららの偽物を見つける。
青木きららの偽物を見つけ出すべく、近子は警備の仕事へとのめりこんでいくが、そのために離婚することになる。
「放送局」はある種の管理社会のメタファーみたいな世界でもあり、青木きららの偽物は、管理から逃れた存在ともいえる。
近子は、青木きららの偽物と知り合いになる。青木きららの偽物は、会うたびに姿を変えている(見た目の性別すらも変えていて、本当の名前・年齢・性別は分からない)が、近子は青木きららの偽物を遠子と呼ぶようになる。
離婚後の近子は、「放送局」の各所にある警備員控室を仮寓として、「放送局」内で完結する生活を送る(そしてそういう人は他にもいる)


まるで覚えてなかったけど、群像2020年1月号 - logical cypher scape2で読んでた。

積み重なる密室

ライターの青木きららは、とあるミステリ作家へのインタビュー取材のために、新幹線に乗って鄙びた温泉街へとやってくる。
タクシーの運転手やホテルのフロント係から、熱烈な歓迎をうけるがどこか様子がおかしい。
ホテルの女性専用フロアに部屋をとってもらう。ほかのフロアは満室だというのだが、夜に外から見てみると他のフロアに一切明かりがついていない。
取材相手の作家は、約束の喫茶店に姿を現さない。
この町で見かけるのは女性だけ……


取材先のミステリ作家が過去に書いていた作品が、醜い女性が被害者になったり笑いものになったりする作品だったことが、ライターの青木自身の価値観形成にも影響していることが書かれている。殺されないためには美しくないといけない、と。

スカート・デンタータ

この作品は、(なんと)痴漢が主人公
ある日、電車で痴漢をしていた男の手首が切断され消滅するという出来事が起きる。主人公は、たまたま同じ車両に乗り合わせていた。
痴漢されていた女子高生のスカートに歯が生えて、痴漢の手を食べてしまったのである。その日から、他のスカートにも次々と歯が生えるようになり、同様の出来事が続く。
この最初の女子高生の名前が「青木きらら」なのだが、ネット炎上が起きてしまい、その後、女性たちが連帯をしめすためにみな、「青木きらら」と書かれたタグを持つようになったりする。
スカートを履くことがある意味文字通りの「武装」となり、女性たちが抑圧から解放されていく様子が、痴漢側から描かれていく。痴漢側としては、そうした様子はむしろ自分たちへの「攻撃」に思えるのであるが。
スカートに歯が生えるという異常事態と、しかしそれが(最初は若干戸惑われつつも)まるで自然なことのように社会へと広がっていく、という展開の仕方は、やはりミルハウザーっぽさがある。
また、ミルハウザーとは使い方が異なるが、一人称複数形が時々用いられるのは、もしかしたらミルハウザーからの影響もあるのかもしれない(スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(柴田元幸・訳) - logical cypher scape2に寄せた解説で、藤野は「私たち」という人称にも着目している)


この記事の冒頭で「男性へ問いかけてくるような作品だともいえる」と書いた。
この作品は、唯一主人公が男性という作品である。
といって、痴漢なので、その点、別に主人公に共感したりするところはないし、(歯の生えた)スカートを履く女性が増えていったり「青木きらら」タグをつけて連帯していくところは痛快に感じるし、主人公の理屈は身勝手だと思う。
つまり、主人公が男性だから男性読者にとっての物語に(も)なるというわけではない。
しかし、最後、主人公が渋々引き受けていくことになる変容は、「俺は別に痴漢ではないし」という男性でも、少し自分とつながりうるものとして読みうるだろう。

花束

主人公の女子高生が、ニュースに映っていた花束であふれる川原へと、高速バスに乗って向かう。家族には黙って。花屋で花束を買おうとすると、花が意外と高くて驚くなど。
目的地である川原に近づくと、ほかにも多くの人たちが集まっている。川原で亡くなった少女「青木きらら」をみなで悼んでいるのだ。
死亡推定時刻である深夜までみなずっと残っており、炊き出ししてたりして、そこにちょっとしたコミュニティみたいなものが形成されている。

消滅

学生時代の友人たちとの年に1回の飲み会へと出かける主人公
その途中、コンビニの脇に、捨てられたビニール傘が自分の背丈よりも高く堆積しているのを見かける。
ラオス料理屋で、なじみのない料理と酒に舌鼓を打ちながら、選択的夫婦別姓の話や香港のデモと推しのインスタの話、学生時代の思い出や、さっきコンビニで見かけた傘の話など、おしゃべりに興じる3人。
みな結婚して、学生時代から姓が変わっている。
主人公は学生時代、子供が生まれたら「青木きらら」と名付けたいと友人たちに話していた。今は大久保になっていて青木ではない。青木ではないのなら、きららとも名付けない。夫は当然のように自分の姓のままで、青木姓を維持しようと思ったら戦わないといけなかった。
そして、友人たちに話そうとして話せなかったことが一つ。彼女のお腹の中には、死産した子がいる。その子の名前は「青木きらら」。産まれてこれないことがわかってはじめて、密かにつけられた名前。
主人公は、帰り道、傘をコンビニ脇の傘の地層に押し込んで帰る。翌日、傘は消え去っている。
この作品は、この捨てられた傘たちと産まれてこれなかった子どもというモチーフの使い方がよかった。
それはそれとして、男性は改姓を意識しなくてもよい、というのはその通りで……

幸せな女たち

主人公はカメラマンの青木きらら。元々、結婚式のカメラマンとしてキャリアを開始した。
結婚式をターゲットにした無差別フェミサイド事件が起きたことで、結婚式が減り、独立
「ハッピリーエバーアフター」を始める。
それはおとぎ話のクリシェ「いつまでも幸せに暮らしました」だが、日常のシーンを撮影するサービスだった
結婚式が、人生で一番幸せな日と称されたりするが、主人公はそのことに疑問をもっていた。結婚式以外も幸せである、と。それは、女性が一番幸せな日だから結婚式を襲ったというフェミサイド犯に対するプロテストでもあった。
「ハッピリーエバーアフター」には、生前にSNSなどへの死亡報告用写真を撮影するというサービスもあって、それがヒットして会社が大きくなる。後半は、経営者になりつつも現場仕事を続ける青木きららと、少し年上(70代)の女性客との会話が中心
青木は、脅迫状を写真に撮り続けている。女性に向けられる悪意へ、カメラを使って抵抗し続ける。


この作品は、途中でぽんと時間がとぶのがなかなかいい。主人公の若い頃から話が始まるのだけど、老境になってから(しかしまだ現役として働いている)のシーンがメインで、それを短編というサイズに盛り込んでいるのがうまい
そしてこの「ハッピリーエバーアフター」というサービス自体が魅力的である。

美しい死

昼休憩にはいった青木きららが、後輩の男性社員から、青木さんも「江付山ロスっすか」と尋ねられ、それに対して反論というか、長文レスしはじめる(というか、正確には、本当はこういうことを言いたいけど、実際には言ってないというもの)。
「江付山」というのは、結婚を発表した中年の男性芸能人
青木きららが語るのは、クリスマスケーキ理論。つまり、25歳はいきおくれというアレだが、青木自身もこの説を信じているのだという。ただし、男女逆で。
そして推しに対して、25歳までに死んでほしいと思っている。ただし、推しに抱く感情は、自分も男の子になりたいというもの。
自分も美しく猛々しい男の子になって、美しい死を死にたいのだ、と青木は思っているのである。
そういうことを内心でまくしたてているのだが、実際にはそんなことには後輩には伝えずに終わる。

愛情

青木きららのママは専業主婦なので離婚できない。大人になったきららは共働きとなるが、子供を産んだあとワンオペ育児を強いられる。
という、それらは「寮」において見せられる夢
子供は生まれると「寮」で育てられている。
現実だと思っていたのが実は夢で、夢から覚めるとそこはディストピアだった、という、よくあるフレームを使って、いやしかし寝ても覚めてもどっちの世界もアレだね、っていう話だったかと思う。

トーチカ2

「トーチカ」のつづき。近子は、派遣切りにあう。再就職するためには「放送局」内の住所が必要で、そのために、ある種の偽装結婚をする。
青木きららの自殺
近子は、夫の正体は遠子ではないのかと思うが、そうではなかった。
「放送局」内の郊外にある団地で、ラジオの海賊放送が流れる。近子はそれを聞きに行く。青木きららがどこかから放送しているラジオだった。

私たちは勝ちの目のないこの戦いを共にすべく組まされたペアで、私がこうする以外どうしたらいいのかわからなかったと同じく、この人もきっとこうする以外どうしたらいいのかわからなかったんだ。夫の親指が気遣うように近子の手の甲を撫でた。近子はいっそう力をこめて夫の手を握りしめた。(中略)今、『放送局』の翼の下で震えるよるべない隷属者として立っている近子は、同時に特権を行使する冷酷な共犯者だった。遠子。でも私は、ただそこそこ安心してそこそこの暮らしをしていきたかっただけなのに。
「えーと、ハロー、聞いてる人、いますか? 青木きららです。(中略)あいかわらず最悪ですか?こっちは……こっちはこっちでまあまあ最悪かな!」

この「トーチカ2」のラストは結構複雑というか
近子と遠子は、ピエタとトランジのようなシスターフッド的な関係もありえたと思うのだけど、近子と遠子の道は決別してしまう。まあ、誰もがピエタとトランジ、あるいは遠子のようには生きられない。
というか、本短編集、男性から女性への加害や抑圧に対する様々な形の抵抗を描いてきたのだけれど、「トーチカ2」での近子は、結局生活のために夫婦関係を選ばざるを得なかったところが描かれている。ただ、「消滅」や「愛情」に描かれていたような夫婦関係とも少し違うことが示唆されている。
青木きららは「私たち」であるが「私たち」は青木きららではない、とでもいうべきジレンマがそこにはあるように思う。
ただ、それって諦めとか絶望とかなのかというと、最後に青木きららが「こっちはこっちでまあまあ最悪かな!」と言ってのけてくれることに救いのようなものがある。

解説 谷澤紗和子

谷澤は、美術家で、これまで藤野とは何度も作品制作のコラボをしてきたことがある人だという。
度々コラボをしているので、ユニットを組もうという話になり、最近「青木きらら」というユニット名で活動し始めたのだとか。

これまで読んだ藤野可織作品

藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2
藤野可織『いやしい鳥』 - logical cypher scape2
藤野可織『来世の記憶』 - logical cypher scape2
藤野可織『ピエタとトランジ』 - logical cypher scape2
未読は『パトロネ』『爪と目』『ファイナルガール』『ドレス』
全部で9冊刊行されているうちの5冊まで読んだのか。
『私は幽霊を見ない』はエッセイか。あとは絵本もあるみたいだけど。
(なお、Wikipediaで確認したので、抜けはあるかも)

*1:むろん「消滅」の主人公は死産している点で、男性が彼女と全く同じ立場に立つことは不可能ではあるが、それを言い出せば、どのような物語でも主人公と読者が全く同じということはありえない

渡辺正峰『意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く』

自分の脳と機械の脳を接続することで、意識の謎を解明し、さらに意識のアップロードを可能にしようと考えている神経科学者による、意識の科学入門
以前、同じ作者による渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2を読んだことがあり、非常に面白かったと記憶している。(渡辺の著作は他にも出ているが、この記事では、この本をさすのに「前著」と呼ぶことにする)
前著は、前半が神経科学の研究史となっており、筆者のアイデアは後半に書かれていた
対して本書は、全体的に筆者のアイデアを開陳するものとなっている。筆者自身のエピソードなどにもページがさかれ、文章や用語の使い方が、より平易になっているように思える(ちゃんと前著と読み比べてはいないので、記憶に頼った印象論だが)
基本的なアイデア自体は前著と変わらないが、BMI周りの話がより具体化されたように思えるので、進捗報告といった感じもある。


ちょっと積んでいたのだが、浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』 - logical cypher scape2を読んだので、そろそろこっちも読もうと思って手に取った。
サブタイトルに「デジタル不老不死」とあるが、意識をコンピュータ上にアップロードすることで、死を回避しようという話。
一方、タイトルには「意識の脳科学」ともある。筆者の研究において、意識を解明するための研究に必要な技術と、意識をアップロードする技術とは同一のもの。意識研究と不老不死が表裏一体となっているのである。
不死の技術という名目で人とお金を集めて、意識の研究をやろう、という目論見でもある。
本書の前半は、意識のアップロードに関する話、後半は、意識とは何かについての話となっている。

プロローグ
1章  死は怖くないか
2章  アップロード後の世界はどうなるか
3章  死を介さない意識のアップロードは可能か
4章  侵襲ブレイン・マシン・インターフェース
5章  いざ、意識のアップロード!
6章  「わたし」は「わたし」であり続けるか
7章  アップロードされた「わたし」は自由意志をもつか
8章  そもそも意識とは
9章  意識を解き明かすには
10章 意識の自然則の「客観側の対象」
11章 意識は情報か 神経アルゴリズム
12章 意識の「生成プロセス仮説」
13章 意識の自然則の実験的検証に向けて
14章 AIに意識は宿るか
15章 意識のアップロードに向けての課題
16章 20年後のデジタル不老不死
エピローグ
あとがき

プロローグ/1章  死は怖くないか

プロローグでは筆者が死の恐怖を他の人に打ち明けたがうまく理解されなかったエピソードとかを枕に、本書の概要
1章では『順列都市』を枕にして、意識のアップロードと不老不死研究の話
ちょっと面白いのは、こういう研究しているからだろうけれど、集まってくる学生がみな、不老不死を目指す意識が高くて、筆者が「不老不死ネイティブ世代」だと驚いているくだり。
筆者の研究室に進むか、それとも遺体冷凍保存の研究に進むかとか、そういう進路の悩み方をしていているらしい。

2章  アップロード後の世界はどうなるか

環境、身体、脳の3つの観点にわけて、それらのデジタル化について
環境のデジタル化=いわゆる仮想現実技術
身体のデジタル化=コンピュータ・シミュレーション上の仮想身体からの信号を脳に伝える
脳のデジタル化
フェーディングクオリアチャーマーズの思考実験)
神経細胞一つ一つをシリコンに置き換えていくが、仮に実現できても非常に高価になってしまう(脳一つにつき1台ずつコンピュータが必要)
→コンピュータ上で、ニューロンの入出力特性をシミュレーション(1台に複数人アップロード可能)

3章  死を介さない意識のアップロードは可能か

この章の冒頭、筆者が下條研究室に入ったばかりの頃の話が書かれているが、筆者はもともとは、意識の研究をしていたわけではないらしい。


アップロードの際に死んでしまうような方法は、アップロードによって死を避けたい人間にとっては望ましくない、と
分離脳がヒント
生体脳半球と機械半球をつなげる

4章  侵襲ブレイン・マシン・インターフェース

非侵襲は論外
この章では、ニューラリンクのBMIを主に紹介した後、筆者が提案・開発中のBMI技術を紹介している。
また、ニューラリンクの話以外に、DARPAの100万ニューロンBMI計画や、2019年に中国科学院が新設した神経科学関連キャンパスなども紹介されており、侵襲BMI開発が米中で加速していることが述べられている。

  • ニューラリンク

アカデミア発の技術で、ニューラリンクが注目したものが2つ
(1)神経機能代替(ロボットアーム動かす実験)
(2)柔らかい電極
また、侵襲BMIのネックとして有線だと開口部から感染症になるおそれがあげられる
このため、ニューラリンクは「無線皮下封印」にも力を入れる。この技術自体はすでに脳疾患治療で実用化されているらしいが、BMIとして用いるためには、無線通信容量の問題がある。ニューラリンクの求人みると、集積回路のエンジニアを募集している、と。


ところで、BMIが実用化された際に軍事利用されないかという懸念について本書は検討していて、その可能性は低いとしている。
AIやドローンの進歩が速すぎて、BMI兵器は優位性とれないだろう、というのがその理由
BMI実用化は普通に医療応用から始まって、そこからどう健常者に普及するかは、アーリーアダプターがどう利用するかや法規制に依る、と

さて、我らが半球接続だが、現状、ニューラリンクなどが作っているBMI技術の延長で実現できるのか
現在、主に開発されている侵襲BMIというのは灰白質に電極を差し込むというもの
そもそも電極はニューロンよりもでかい
脳半球同士をつなぐ脳梁には1億ものニューロンがあるが、ニューラリンクの次世代BMIでも5桁足りない
また、灰白質BMIでは脳への情報の書き込みができないという指摘がある。
灰白質に挿しこんだ電極で刺激すると、遠い場所のニューロンも反応してしまうため。

  • 神経束断面BMI

そこで筆者が提案しているのが、神経線維束の断面に高密度二次元電極アレイを挿しこむというもの
高密度二次元電極アレイというのはCMOSのような集積回路技術で電極を細かく並べたもの
現在、最も集積度が高いものは700ナノメートル間隔で、あと数分の1狭められれば、1本1本の神経線維に電極をつなげられる、と。
神経線維を切断してしまうのがネックだが、神経線維の再生治療技術は今日進月歩だ、と。

5章  いざ、意識のアップロード!

本章では、筆者が提案する、生体脳半球と機械半球を接続するという方式による、意識のアップロード手順が紹介されている。


まず、現在でも重度のてんかん患者に行われる脳梁離断術の応用で、BMIを挿入する
注意すべきは、この段階で分離脳状態になる(意識が右半球と左半球の二つに分かれる)こと。
機械半球を接続。機械半球は記憶も人格ももたない「ニュートラルな」意識
機械半球との接続の仕方の詳細は13章
その後、記憶の転送を行う
これは、海馬にある短期記憶が大脳皮質全体に保存される長期記憶へと転換されるプロセスを真似する形で行われる。
(ところで、海馬の研究に貢献したHM氏って2008年に亡くなったあと本名公開されていたのね。知らんかった)
人格の同一性には思い出せない記憶も重要なので、ペンローズの実験よろしく、電極で刺激していろいろ強制的に想起させて転送していく。
ここらへんの記憶転送アイデアは前著にも書いてあった。
後日、生身の方の半球が死を迎えたら、やはり記憶の転送などをされたもう一方の機械半球と接続し、意識の統合を果たすことで、アップロードは完了となる。


章の末尾で、これはお話風に書かれているだけだが、現実世界と同じ速度で演算するとサーバーコストが嵩むので、現実世界との交流は当面できない。先にアップロードを果たした人たちとでデジタルあの世へいくことになる、ということが書かれていた。


ところで、これって比較的意識が明瞭な状態で自然死することを想定しているような気がするけれど、それはなかなか稀なことのようにも思えるので、死を迎える前にどこかでえいやっと機械に乗り移る決断をしないといけないような気がする。
あと、コンピュータ上でも自分の意識を保てる、というのは、半球接続状態でも確かめられるとして、その後、生体が失われた後にいくことになる仮想現実空間の解像度はいかに、というのはありそう。
それともう一つ気になったのは、機械半球って接続時には物理的にどこにあることになっているんだ? 生体脳そのものは、左右どちらの半球も頭蓋骨の中にそのまま残り続けるんだと思うんだけど。高密度二次元電極アレイの先は無線になるのかな。

6章  「わたし」は「わたし」であり続けるか

アップロードされても人格の同一性は保たれるのか。
本章では、良いアップロード(漸進的破壊性アップロード)、悪いアップロード(灌流固定方式)、普通のアップロード(生体脳半球・機械半球接続)の3つのアップロード方式を比較する形で検討している。

  • 良いアップロード(漸進的破壊性アップロード)

フェーディングクオリアをもとにした方式。ニューロンナノマシンに置き換えていく。
心理学的連続性という意味ではもっとも優れている。
「不可能だという点に目をつぶればよぉ~」(とは本文には書いてない、念のため)
技術的には実現可能性が低すぎる、と

  • 悪いアップロード(灌流固定方式)

灌流固定された脳から侵襲コネクトームをつくる
神経配線構造を読み取るという点ではもっとも精度が高い。しかし、(死後に読み取るので)配線の強度は十分読み取ることができない
そもそも一度活動停止した脳からアップロードしようとしたって、それは連続性絶たれてんじゃないのか、と。

  • 普通のアップロード(生体脳半球・機械半球接続)

記憶の転送が完全なら、漸進的破壊性アップロードと同様、心理学的連続性は保たれる
では、その問題となる記憶の転送についてだが、5章にあったとおり、エピソード記憶の転送手法についてはアイデアがあるが、意味記憶や手続き記憶について、現状難しいのだという(アイデア募集中と書かれている)。
一般的なものを学習させて補う、とされているが、無論その点で、心理的連続性の一部が損なわれてしまうことを、筆者は潔く認めている。
漸進的破壊性アップロードと比較して、実現可能性がある、というところでのトレードオフとなる。

7章  アップロードされた「わたし」は自由意志をもつか

本章はタイトルにあるとおり
ロバート・ケインという哲学者の議論をもとに展開されている。
この章については、ちょい省略


この中で2種類の行動選択として、搾取行動(exploitation)と探索行動(exploration)とあった。
まあ訳語の問題なんだけど「搾取?」となって、ちょっと分かりにくい。
これ、鈴木貴之『人工知能の哲学入門』 - logical cypher scape2で「探索と活用(exploration and exploitation)」となっていたものではないかと思う。

8章  そもそも意識とは

ネーゲルによる意識の定義
→そのものになってこそ味わえる感覚
→ある対象が意識を有することの必要十分条件とは、そのものになったときに何らかの感覚が生じること


ライプニッツの「風車小屋の思考実験」
これは、仮に意識が生じる機械があったとして、その中に構成要素を見ても意識を見つけることができない

9章  意識を解き明かすには

従来的な意識研究の例として、ロゴセシスの両眼視野闘争研究が紹介されるが、従来的な研究は、意識があることが前提になっていて、意識そのものの解明としては適当ではない、として、以下の方向へ進む。

  • 自然則

意識のハードプロブレムをソフト化するには「自然則」の導入が必要、というのが筆者の立場
ここでいう自然則とは、光速度不変の原理など、自然側でそのように定まっていて、それ以上理由を問えないようなもの。
自然則は、それ以上の理由は問えないが、本当にそうなのかは検証できる
(光の速度が不変なのが何故なのかは分からない(世界の方でそのように決まっている)が、本当に光の速度が不変なのかどうかを検証することはできる)
意識の自然則も検証が必要。

  • 意識の自然則の検証実験

生体脳での実験
→どの側面が意識を生むのか検証するためには、該当する側面だけをオンオフしないといけない。生体脳でそれは無理
人工物での実験
→「哲学的ゾンビ」問題と「風車小屋の思考実験」問題がある
→人間の脳とつないで確かめるしかない
スレーブデバイス問題
→単に機械をつないでもだめ。CCDを脳につないだ実験はすでにある。映像が見えたからといってCCDに意識があるとはいえない(CCDは単なるスレーブデバイス
→ヒントは分離脳
→生体脳半球と機械半球をつないで、機械半球側の視野が見えたとする。機械半球がスレーブデバイスの可能性はない
→何故なら、半球同士をつなぐ神経連絡にそんな容量はないから

10章 意識の自然則の「客観側の対象」

意識の自然則=「脳が斯々然々の振る舞い(客観)をすると、意識(主観)が生じる」
客観側の候補はNCC

  • NCCについて

「意識の神経相関(NCC)」は、相関と訳されているが、単なる相関関係ではなく、さらにいえば因果関係よりも強い関係が要求されている、と。
例えば、眼球の活動と意識の間には相関関係も因果関係もあるが、眼球はNCCではない。なぜなら、夢を見ているとき、眼球がなくても意識が生じているから。

  • NCC候補を検討

というわけで、以下、意識の統一性の観点からいくつかの候補について検討している。
そういえば、意識の統一性ってウィリアム・ジェームズ由来なんだな、と。

極端な説から。
意識は統一性がないといけない→情報の集約が必要→脳で情報が集約される場所……樹状突起だ! という説
脳内には無数の樹状突起があるのでは、という疑問に対しては、無数の意識が発生しているのだ、と答える。
一つの樹状突起に集まってくる神経線維の数の割合を考えると、情報集約の程度が足りないし、厳密に空間の一点に集まってくるわけではない、という問題がある

量子脳理論にもいろいろなバージョンがあるらしいが、ここでは最も有名なペンローズとハメロフのマイクロチューブルの奴
問題は量子もつれの持続時間が短すぎること。感覚刺激が意識にあがってくるまでの時間、もたない
近年、植物の光合成や渡り鳥の磁場検知に量子もつれが使われていることがわかってきているが、これらは持続時間が短くてすむので矛盾しない、と

情報に関する説を二つ。一つ目はチャーマーズ
意識の統一性については放棄している

こちらは、意識の統一性から当然導かれるもの
なお、本書では補足的なコメントとして、統合情報理論が物議を醸す理由として、中心的なメンバーがこれを当然の公理として扱っていて検証実験すら不要、という態度をとっているから、というのが書かれていた(日本の研究者はそうではない、とも)。

11章 意識は情報か 神経アルゴリズム

筆者は、意識の自然則の客観側を担うのは、情報ではない、と考えている。
この章では、情報が不適当である理由(アルゴリズムがふさわしい理由)が論じられている。

  • 場所コーディング

脳の情報表現の方式
例えば聴覚
周波数帯域は蝸牛で分解されて、それぞれ違うニューロンを刺激する。つまり、周波数の情報はどこのニューロンが反応したか、という場所によってコードされる
音の位相情報は、電気スパイクのタイミングで記録される。これは蝸牛においては時間コーディングだが、次にオリーブ核に到達するタイミングの違いで、オリーブ核のどこのニューロンが刺激されたか、と場所コーディングされる。
聴覚に限らず、すべての感覚モダリティが場所コーディングによって情報化されている。

  • 感覚モダリティの違い

すべての感覚モダリティが同じ方式でコーディングされているので、どんな専門家が見ても、脳のニューロン活動を見せられただけでは、それがどの感覚モダリティの情報かはわからない。
しかし、主観側において、視覚、聴覚、触覚、嗅覚といったモダリティは、それぞれ異なる現れ方をしている。
もし、意識の自然則が、「脳の情報(客観側)が意識(主観)となる」というものである場合、縮退している客観側を、モダリティごとに選り分ける「黒魔術」が必要になってしまう、と。

主観側で異なっているものは客観側も異なっているのが望ましい。
視覚、聴覚、触覚のアルゴリズムは異なる目的で動くので、異なるものになるはず
また、アルゴリズムが個々のニューロンをまとめてくれるので、その点で、統一性も担保される、と。

12章 意識の「生成プロセス仮説」

筆者は、自然則の客観側にくるアルゴリズムの有力候補として「生成プロセス」を挙げる。

  • 「意識の仮想現実メタファー」(アンティ・レボンスオ)

筆者は、自分は意識が機能を持つかどうかには中立的な立場をとる、が、仮想現実には機能がある、とする
つまり、脳内仮想現実は、反実仮想的に状況の予想などに役立つので、適応的であり進化の中で獲得された、と。意識はそのオマケではないか、と。

  • 生成モデル

90年代に、川人光男、乾敏郎、デイヴィッド・マンフォードがそれぞれ独立に提案したもの
生成プロセスと誤差フィードバックの二つの仕組みからなる。
「生成プロセス」
CGのレンダリング過程に喩えて説明している。
まず、記号的表象がある。これは、モノの種類、モノの特性(形状や光吸収反射特性など)、光源の特性を含む。
記号的表象をもとに、三次元化したりテクスチャを貼ったり光源をあてたりする
さらに仮想カメラがあって、この内なるカメラから見た像として投影する。
「誤差フィードバック」
生成プロセスによって作られた仮想現実と現実世界の同期をとるしくみ
例えば、夢においては、現実世界との誤差フィードバックはとっていないはずだが、意識は発生していることから、誤差フィードバックの方はNCCではない、としている。

  • 意識の自然則の一般化

生成プロセスの本質とは「モデル化」である、として以下のように一般化している
「システムAがシステムBをモデル化したとき、システムAにシステムBの主観体験が発生する」

  • 感想

意識とは何か、については、この章が肝だろう。
気になったことを2つ
まず、些細な点から
「内なるカメラ」というのが出てきたけど、これはレンダリングというか仮想現実を作る際の視点位置の情報、くらいのもの、という理解でいいんだろうか。
記号的表象にはたぶん、そのモノが上から見たら丸い形していて、横から見たら四角形になっているみたいな情報が含まれていて、仮想現実を生成する際には、例えば右上から見た場合の情景を生成するという形で生成されていくのだろうから、その「右上から見た」ということを指定するのが「内なるカメラ」ということなのだろう、と理解した。
ということをわざわざ書くのは、「内なるカメラ」という言葉だけだと、すわホムンクルスか、という早とちりした誤解も招きかねないのでは、と思ったから。


もう一つは、一般化された意識の自然則について
まず、生成プロセスによって生成された仮想現実が意識経験の内実だろう、ということは、わりと納得できる話なのだけど
それを「モデル化」とまで一般化・抽象化されると、疑わしくなる。
例えばこれだと、台風のシミュレーションは台風についての主観体験をしているとか、どこかの地形や地区の模型はその地形や地区についての主観体験をしているとか、そういうことが帰結しかねない。
無論、そんなことはないだろう。
「システムAがシステムBについての生成プロセスを有する時、システムAにシステムBの主観体験が発生する」というのはとりあえず正しいとして、
また、生成プロセスがモデル化の一種であることも正しいとして、
しかし、一言でモデル化といってもいろいろなモデル化があるので、「システムAがシステムBをモデル化したとき、システムAにシステムBの主観体験が発生する」とまでいってしまうと、さすがに言い過ぎなのでは、と思う。
「これこれこういうモデル化をしたとき」と、何かもう少し限定が必要な気がする。
あるいは、システムAの方に何か条件が必要になるか。
うーん、ただこれは、新書という形式で書かれているために、わかりやすさが優先されてこのような書き方になったのかもしれない、という可能性もあるなとは思っている。
本書、全体的に、新書というフォーマットにあわせて、わかりやすさを優先して書いていそうだな、と思われるところがある。それ自体は決して悪いことではない。
ただ、そうすると、どこ読むと、これをより厳密に定式化したものがわかるのか、というリファレンス情報が欲しかったかもしれない。


そうなると、「生成プロセス」とは一体何なのか、ということももう少し詳しく知りたくなってくる。
このあたりも、どのあたりを次に読めばいいのか、というのがいまいち分からないんだよな、と。
実際、名前の挙がっている乾敏郎とかって、本書ではNCCじゃないって切り捨てられた「誤差フィードバック」の方にこそ注力しているような気がして、そっちの方は調べたらすぐに色々出てくるような気がするのだが。


さて、単に「モデル化」だけだと抽象度が高すぎるので、もう少し限定する場合、実は「内なるカメラ」が重要だなと思い始めた。
つまり、台風のシミュレーションや地形の模型は、「内なるカメラ」を持っていないので。
ところで先ほど「内なるカメラ」は、視点位置の情報くらいのものだろうと述べた。つまり、それはそういう「薄い」概念なのではないか、と。
逆にこれを、例えば、内なるカメラ「から見ている」などと言ってしまうと、「厚い」概念になってきて、ホムンクルス化してしまう気がする。ホムンクルス無限後退を引き起こすのでよろしくない。
しかし、ここはある程度大事なところだと思う。
つまり、意識経験が「主観的」であると言われるのは、それが「一人称的」な経験だからである。
台風のシミュレーションや地形の模型は、台風や地形をモデル化しているけれど、それだけでは主観的な体験をしているように思われないのは、シミュレーションや模型には「一人称」的な要素がないからで、つまり、シミュレーションや模型は、何かを体験するような主体ではないと思われるから。
しかし、例えば「内なるカメラ」こそが、何かを体験している主体なのだ、などと口走ってしまえば、そのカメラの中にまたカメラが、という無限後退を引き起こしかねない(ホムンクルス問題)。
ところで、上でこの章のまとめをするときに省略してしまったのだが、この章では、システムAはシステムA自身をモデル化することもある、ということも書かれている。
脳は脳自体もモデル化している。これがうまく働かないと、例えば、恐怖に伴う身体反応は起きているのに、恐怖の感情が起きないということがある。
自分自身のこともモデル化して、モデル内に統合していること、というのは「主観的な」意識にとっては重要な条件なのではないだろうか、と思った。
つまり、一般化すると、「システムAがシステムBをモデル化しており、かつ、システムAがシステムA自身についてモデル化しシステムBのモデルと統合している時、システムAにシステムBの主観体験が発生する」とか。


渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2では、「モデル化」という言葉は使われておらず、因果関係の取り込み、という表現が使われていた。
ただ、個人的に上の疑問は、因果関係の取り込み、という言い方をしても同じかな、とは思う。
前著では「このことから、自動運転車には現象的意識が生じているのでは、とも述べている」ようで、やはり一般化しすぎると、かなり広汎に意識が生じていることになってしまうな、と思う。自分の機能主義者なので、人間以外にも意識が生じる可能性は否定しないものの、既存の人工物にも意識がすでに生じている可能性は限りなく低いのではないか、と思っている。
*1
ところで、渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2を読んだときの記事では、鈴木『ぼく原』を読んだばかりだったこともあって、鈴木説と整合するかどうかを考えていた形跡があるのだが、表象説って渡辺的には情報説の一種くらいのものなのではないだろうか……
うーん、というか結局、表象なるものがどう神経系で実装されているかが問題で、鈴木のいう表象システムは、渡辺がいうところの生成プロセスとして実装されるのだ、と考えれば両立可能か。

13章 意識の自然則の実験的検証に向けて

前章までで導かれた意識の自然則を、次は、検証しなければならない。
9章では、その検証方法として、人工物に意識を発生させて、生体脳と接続する案が提案されていたが、これをより具体化する。

  • 機械脳をつくる

まず、これについては第6章で悪いアップロードと評された灌流固定方式による侵襲コネクトームを利用させてもらう、という。
これによってまずは、定性的な配線構造をデジタル化する。
しかし、第6章で述べたとおり、これだけでは定量的な配線構造がわからないので、意識を生み出すには不十分
そこで、学習させる
生成モデルは「自己符号化器」でもあるので、教師なし学習ができる
高次の記号的表象や視覚世界のルール(生成プロセス)を学習させる

  • 半球の接続方法

生体脳と機械脳のどこをつなげばいいのか
ガザニガによる脳梁離断術を参考とする
高次の視覚野同士さえ結合すれば、統合された一つの視覚的意識が生じるはず
生成プロセス仮説にもとづくなら、これは記号的表象を半球間同士で共有することに相当する

  • テーブルへの置き換え

動物実験でできるだけひっぱったのち、最終的には自らの脳で行いたい、というのはまあ以前から言っている通り
でまあ、接続して機械に意識が発生していることが確かめられたとする。
次に、本当に生成プロセスが意識なのかを確認するための実験として、機械脳の生成プロセスを、ルック・アップ・テーブル、つまりは入出力を記録した表に置き換えてしまう方法を提案している。
生成プロセス仮説が正しければ、表に置き換えた途端、機械脳側の視野が消滅するはず。
もしそうでなければ、別の何かが意識を生んでいることになる。


ところで、この接続テストのアイデアについて、筆者はコッホやサールに披露する機会があったらしく、彼らから有効性を認めてもらった旨記されている。

  • 感想

これまた些細な話であるが
筆者は「意識のハードプロブレム」と「説明のギャップ」を同義語のように使うのだけど、個人的な理解では、このふたつは少しレベルが違う。
意識のハードプロブレムは、客観と主観の間にはなんかギャップがあるので、そのギャップのせいで問題がハードになっている、という話
これに対して対応の仕方がいくつかあって、
ギャップはないという立場
それは説明のギャップのせいであるという立場、
認識論的ギャップというギャップがあるという立場、
存在論的ギャップというギャップがあるという立場、
にわかれるんだと思っている。
ギャップはないとか、説明のギャップであるという立場にたつと、問題はソフト化してくれる。
ところで筆者は、最終的には自分自身の脳を接続して確かめる必要がある、ということを常に訴えているが、これは問題の所在が、説明のギャップにあるのではなく、認識論的ギャップとして捉えているからではないか、と思えてならない。
渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2の時も、自分は以下のように述べている

その機械と接続すれば、その機械に意識が生じているか確認することができるのでは、ということを言いだし、本当に確認出来るかの検証を始める。
ところでこれって、タイプB物理主義なのでは、という気がする。
タイプA物理主義ないし還元主義的な立場であれば、生成モデルが成立している=現象的意識が生じているということなので、前者の検証で後者の検証も尽きていると考えるのでは。
現象的性質は、一人称的視点からしか知ることができない、がゆえに、一人称的に知る方法を考えよう、という話になっているので。

タイプA物理主義は、ギャップは存在しないという立場
存在論的ギャップはないが認識論的ギャップはあると考えると、タイプB物理主義になる。
もっとも、この手の哲学的な立場の整理が、意識の科学にとって何か役に立つんですか、ということはできて、その点ではやはり些細な話ではある。
逆に、哲学側からみると、心の哲学では、タイプB物理主義は穏健な立場だとは思うけど認識論的ギャップって物理主義にとって本当に無害なんですか、というのを色々議論していたけれど、この筆者は、そのギャップを、BMI使って直接接続して確かめてみればいいんじゃ! という力業で潰してしまおうとしているのが、面白いんだ、と言えるかもしれない。

14章 AIに意識は宿るか

この章は、最近話題のLLMについてもコメントしておくか、という感じで、オマケっぽい章である。


ChatGPTの誕生は色々インパクトを与えているが、例えば、生成文法への打撃もあったらしい。つまり、言語能力の生得性への疑いの点から


LLMは意識を持つ、という主張もあったが、どうか
ここでは「中国語の部屋」やそれに対するロボット・リプライ、サールの再反論、記号接地問題、フレーム問題などが紹介されているが、筆者としては、LLMに生成プロセスを組み込んだ場合、仮想世界内で記号接地が行われ、暗黙知も獲得でき、意識も生じるとしている。
まあ、筆者としては、意識というのは生成プロセスに他ならないので、LLMだろうと何だろうと、生成プロセスがあれば意識があるし、なければ意識はない、ということだろう。

  • 生体脳と人工神経回路の違い

連続時間-離散出力(0か1かの電気スパイクを任意の時間に出力)か
離散時間-連続出力(一斉に出力を更新、出力値は連続した値)か

15章 意識のアップロードに向けての課題

生体脳の理解において足りていない部分(今後の研究課題)をいくつか取り上げている。
補論という感じだが、脳内クロックを明晰夢使って調べる実験が面白かった

  • 脳における時間処理について

脳には内部クロックがあるのか
「リアル・ワゴンウィール・イリュージョン」
回転する車輪を見ている時、その回転数が増えると車輪が逆回転しているように見える錯覚
映像の場合だとコマ数の関係でそう見える、あるいは点滅する光源のもとでそう見えるのも不思議なことはない(フィルムのコマや光源の点滅がクロックとなっている)。
しかし、太陽光下の実物の車輪でも起きる
→脳の側に内部クロックがある
しかも、遅い。10ヘルツ程度
でも、実際には世界はパラパラ漫画のように見えてはいない。五次視覚野という高次視覚野が200ヘルツ程度の高速なクロックを付加している。五次視覚野が欠損すると、世界はパラパラ漫画のように見える、らしい。


明晰夢実験
夢の中でも同じクロックが動作しているのか。
(ここで映画『インセプション』などが例示され、夢の中では時間の進みが遅くなっているのか? という疑問が呈される)
スティーヴン・ラバージが、明晰夢を見れる人たちを集めて、これを確かめる実験を行った。
明晰夢の中で数を数えてもらったり、スクワットをしてもらったりする。
実世界での経過時間と比較する(ちなみに眼球運動をしてもらうことで、数を数える動作の開始と終了を夢の中から外へと伝えてもらうのだという)
結果、夢の世界の中での時間経過と、実世界での時間経過は、大体同じくらい、らしい
ただし、身体動作が伴うと遅くなる
夢の中では身体からのフィードバックがなくなるためではないか、と推測されている。
筆者は、夢の中で体をうまく動かせない例を挙げている。それは確かに、自分にも覚えがある感覚だなと思った。
内部クロックが、脳内にあるっぽいことはわかるが、具体的にどの神経回路が担っているかなどはよくわかっていない。
機械脳にクロックを与えるために、そのあたりの機序解明が必要、と。
ちなみに、筆者の過去の研究エピソードが挿入されていて、下條研で、現アラヤの金井良太と一緒だったことが書かれている。で、隣のコッホ研には土谷尚嗣がいたらしい。

  • 脳の仕組み

機能主義か非機能主義(生物学的自然主義)か
グリア細胞神経伝達物質についても検討している
同じ機能を持つ人工物に置き換えたらどうなるのか、という思考実験をしている。
機能的には置き換えても問題ないはず
意識が、例えば生体細胞や化学物質でないと生じないとすると、意識が神秘的なものになりすぎなのでは、と。
まあ、ここらへんは実際にやってみないとわからんなーという話でもあり、実際、作者自身も、機械脳半球を開発することで、どっちが正しいかが検証できるはず、としている

  • 機械半球に求められるもの

脳に接続する必要があるわけで、そのためには「脳語」に堪能である必要があるという
ニューロンが電気スパイクを発することが必要
前の章の最後に述べられたように、現在、生体脳と人工神経回路は、連続時間-離散出力か離散時間-連続出力かという違いがあり、これは形式をそろえる必要がある、と。
また、ニューロンには種類の違いがあって、放出する神経伝達物質や受容する神経伝達物質が違ったり、電気スパイクの発生のさせ方が違ったりする。それらも反映させる必要がある。

16章 20年後のデジタル不老不死

最後の章は、意識のアップロード研究と社会との関係について

  • 研究開発の途上で実った果実の社会還元

→プライマリーターゲットとして認知症治療を想定
海馬のAIチップ開発はすでに行われ始めている
筆者の考える神経束断面計測型BMIにより、海馬チップと脳とを接続する(灰白質へのBMIではなく)

  • 研究開発の速度

BMIのハードウェア開発は10年でできると考えているが、意識のアップロードは普通にやってるともっとかかる
単一の研究室だけでやってたら、マウスの生体脳半球と機械脳半球接続で15年はかかる
ここで筆者が参考にしているのが、ポール・アレンが設立したアレン研究所
資金と人材が大量に投入されていた。アレン研究所と同規模のリソースを自分のプロジェクトにつっこめるなら、10年でサルの実験まで進める、と


ところで、おそらく前著と本書とでの一つの大きな違いとして、筆者がベンチャーを創業したりして、金策とかをかなり意識するようになったところがあるのではないだろうか。
この章も、日本ってベンチャーがなかなか大きくなれなくてイノベーションが起きにくくなってるよね、みたいなことを結構書いてたりする。

エピローグ

以前、浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』 - logical cypher scape2で、仮にアップロード技術が実用化したとしても、サーバ維持とかで経済的な格差の問題が出てくるのでは、と軽くコメントした。
筆者も当然そのあたりのことは認識しているようで、本書では時々そういう(イーガン『順列都市』をたぶんに意識した)ことを示唆する記述があるが、エピローグでは、
アップロード後の世界でも労働必要だよね、という話と
筆者としても、富裕層だけがアップロード技術を利用できるというのは避けたい、ということが述べられている。
後者についてはあくまでも、筆者がそうしたいといっているだけで、具体的なことは書かれていないが、それはもう神経科学の話ではないので、別の専門家による全く別の検討が必要になる話だろう。


最後に突然、斎藤幸平『人新世の「資本論」』に感動した、という話が始まってちょっとびっくりするのだが
アップロード後の世界の設計として、メタユートピアっぽいものを考えていることが書かれている(様々な社会システムの仮想世界(その中の一つが斎藤幸平式ネオ共産主義世界)を作り、どの仮想世界にもいけるようにする。どの社会システムがもっともよいか、そのまま社会実験できるんじゃね、という話)。

あとがき

筆者の学生時代の進路選択の話がされていて、紆余曲折あって神経科学の世界に入ってきたことがわかる。
当初は宇宙に興味があってNASAに入りたかったらしい。大学3年の進路選択では航空宇宙系の学科に希望を出すが、結果は原子力工学核融合ロケットがあるよと唆されるが、実際にはそんな研究はなく。で、カオスの授業をとった際に、手に取ったのが合原一幸『カオス』。この本でカオスニューラルネットワークについて知り、それで一旗揚げてやろうと考えて研究を始めたところ、甘利-合原研に入ることができたという。
甘利研にいたんだ、この人
あ、前著でカオスの話している?!

決定論カオスによって、神経回路上のすべてのニューロンが「因果性の網」にとらえられるという言い方をしている。
ところで、甘利俊一『脳・心・人工知能』 - logical cypher scape2でも、脳ではカオスが発生しているのでは、そしてそのカオスを何かに利用しているのでは、という話がなされている
渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2

それから最近は、信原幸弘との共同研究もしているっぽい。ってそういえば対談本あったな。

*1:ところでところで、自動運転車の仕組みをよくわかっていないのでよくわからないが、自分についてのモデル化もしているかもしれない(エンジンの状態とかのセルフモニタリング)。そうすると、上述の限定した一般則でも、やはり自動運転車に意識が生じることになりうる。さすがに自動運転車に現象的意識はないでしょうと思う一方、さらにこれ以上限定を増やしていくと、今度は原始的な生物をハネてしまいかねない。まあ、原始的な生物にもないんじゃない? ということもできるが、最近の動向はそうでもないから。というか、原始的な生物にあてはまるような自然則を考えると、ある程度の機械にも意識を認めざるをえなくなりそうだが……。いやしかし、自動運転車と接続したくないだろ

カール・ダイセロス『「こころ」はどうやって壊れるのか』

サブタイトルは「最新「光遺伝学」と人間の脳の物語」
光遺伝学技術を開発したダイセロスによる精神医学ノンフィクション
これ読むまで知らなかったのだが、ダイセロスは基礎研究に従事していると同時に精神科の臨床医であるらしい(宿直もやっていると書いている。また、プライベートではシングルファザーとのことで、かなりすごい人だな、と)。
本書は、ダイセロスが精神科医として経験したことを中心に書かれており、目次を見ても、症例ごとに章わけされているのが分かる。
邦訳だとサブタイトルに「光遺伝学」とあるが、原題は”PROJECTIONS: A STORY OF HUMAN EMOTIONS”とあり、光遺伝学はフィーチャーされていない。実際、内容的には、光遺伝学について「も」書いてあるが、必ずしも光遺伝学は主題ではない。
邦題メインタイトルの『「こころ」はどうやって壊れるのか』あるいは原題サブタイトルの”A STORY OF HUMAN EMOTIONS”あたりが内容には沿っているように思える。つまり、精神病患者たちの物語を綴った本である。
なお、光遺伝学についてのまとまった解説は、巻末の解説を読むのがよい。


光遺伝学(オプトジェネティクス)については、2017年頃に脳神経科学関係の本をいくつか読んでいたら、あちこちに書いてあったことがあって、それで印象づけられていた。
この本は2023年に邦訳が出た本で、存在は知っていたものの、読む優先度はそれほど高くないままだったが、最近、光遺伝学デバイスのニュース記事を見かけたのをきっかけに、ちょっと読んでみるかと思い出したという次第。
しかし、上述の通り、本書は精神病患者の話がメインなので、光遺伝学についての話を期待するとやや肩透かしをくらす
そういうこともあり、ほとんど読み飛ばすようにざーっと眺めるだけとなった。
以下、本文よりもむしろ解説を中心にメモを残す。

序章
第1章 涙の貯蔵所―脳幹がん、大鬱病
第2章 初発―躁病、双極性障害
第3章 情報保持能力―自殺願望、自閉スペクトラム症
第4章 傷ついた皮膚―境界性人格障害
第5章 ファラデーケージ―統合失調症
第6章 自己充足―不安障害、摂食障害
第7章 モロー―認知症
終章

光遺伝学

ところで、本の内容に入る前に、個人的にこの名前に思うところというか、注意すべきところだけ書いておく。
光遺伝学はoptogenetics(オプトジェネティックス)の直訳なのだが、遺伝学のサブジャンルというわけではない点に注意が必要だと思う。
神経科学分野における研究手法ないし技術、のことを指す。
遺伝学のサブジャンルでないばかりか、学問分野・学問領域を指す言葉ですらない。

チャネルロドプシンという、光に反応するイオンチャネルを持つタンパク質がある。
イオンチャネルというのは、神経細胞が信号をやりとりする時にも使われるものでもある。遺伝子導入により、神経細胞にチャネルロドプシンを発現させると、光をあてることで神経細胞をオンオフすることができるようになった、というのが光遺伝学
従来の神経科学は、脳の活動を観測することによって、あるいは、脳の部位が損傷している個体を観察することによって、脳のどこがどういう機能をもっているのか、ということを調べてきた。
しかし、光遺伝学によって、直接、脳のある一部を活動させたらどうなるのか、という実験を行うことができるようになった、というものである。

序章

光遺伝学とハイドロゲル組織化学(CLARITY)について紹介している。
ダイセロスって光遺伝学だけでなくCLARITYの開発者でもあったとは……
ってこれ読んで初めて知ったような顔してたけど、『日経サイエンス2017年3月号』 - logical cypher scape2に書いてあった

第1章 涙の貯蔵所―脳幹がん、大鬱病

光遺伝学関係の話だと、脳内のBNST(分界条床核)の話している
チャネルロドプシンを脳内に導入して神経系に広がっていく様子が書かれている。

第3章 情報保持能力―自殺願望、自閉スペクトラム症

とあるASD患者を治療していて、不安症状はなくなったけれど、アイコンタクトの問題は残ったまま。
→不安とアイコンタクトの問題は別の理由によるものと推測
実際、患者自身から、社交については、情報量が多くてオーバーロードするんだと言われる。
神経細胞の興奮抑制のバランスが崩れているのではないか、という仮説
従来型の青色光駆動のチャネルロドプシンに加えて、赤色光駆動のチャネルロドプシンが開発されることで、興奮性の細胞と抑制性の細胞という、2種類の細胞集団を制御することが可能に。
マウス実験で、仮説検証

第5章 ファラデーケージ―統合失調症

この章、ちょっと書き方が面白くて、患者側の視点で小説のように書かれている。
なので、この章は神経科学的な解説などはなし
投薬治療受けて少しまともになったのだが、自己判断で薬やめて、またなんかおかしくなっていくのが読んでてわかるのがなんとも(患者本人視点で書かれていて、おかしくなっている自覚とか全くなく、文体なども全然変わらないのだが、読んでいると、内容だけどんどん妄想めいていくのがわかる)

第6章 自己充足―不安障害、摂食障害

視床下部に光遺伝学の適用。哺乳類の行動制御。

第7章 モロー―認知症

認知症になるとモロー反射(新生児にみられる反射)が戻ってくる、というのが興味深かった。

終章

マウスへの実験で、光遺伝学用いて、あっさり暴力行動を生じさせることができるものの紹介(倫理的な課題というか)
最後の方で、意識についてもちらっと触れている。ハードプロブレムという言葉は一切使っていないけど、神経科学的に研究してもハードプロブレムあるよね的なことを書いている(というかまあ、ダイセロスは意識研究はほとんどやってないんだろうな、ということがわかる)。
ところで、意識のこと考えるのに思考実験やってみようというくだりがあるのだけど、何故かゲダンケン・エクスペリメントとドイツ語を使っている上に、「ゲダンケン・エクスペリメント」って書いているところと「思考実験」って書いているところが混ざり合っていて、どうして使い分けたのか全くわからなかった……


どの章に書いてあったか忘れたんだけど、元々は、同じ種類の細胞「集団」を単位とした制御だったのが、だんだん、精度があがってきて、もっと個々の細胞とかを単位に制御できるようになってきているらしい。

解説 加藤英明

解説を書いているのは、ダイセロスと共同研究もやっている生物化学者
ダイセロスと異なり、完全に基礎研究の人で、医者とかはやってない(それが普通だと思うが)
チャネルロドプシンX線結晶構造解析をやっている人
この加藤さん的には、ダイセロスの個人的な人となりがわかるのが、この本の面白かったところらしい。

1870年代 キューネ カエルの網膜から「ロドプシン」の単離成功
赤い色素なので、バラroseから命名されている
桿体細胞(rod cell)だからロドだと思っていたが、roseだったのか……
1971年 エスターヘルト、ストケニウスによる古細菌からの発見
ここから、微生物ロドプシンの研究が始まる
1977年 向畑 ハロロドプシン 塩化物イオンを運ぶポンプ型ロドプシンの発見
2002年 ヘーゲマンら クラミドモナスという藻類から、チャネルロドプシン発見
このチャネルロドプシンに注目したのが神経科学者たち
世界各国5つのグループが、研究開始
2005年 5つの研究グループのうちダイセロスらが最初に実現 in vitro実験
2007年 in vivo実験 マウスに対して光ファイバー使って行動制御に成功
光遺伝学という言葉がいつ生まれたのか正確にはわからないが、2006年の北米神経科学学会内でOpto-Geneticsの言葉が確認できるとのこと。


チャネルロドプシンは様々な微生物から発見されており、それぞれ少しずつ種類が異なることに加え、アミノ酸変異を加えることでの改良も行われている。
これによって色々な応用が可能に
特に、改良にあたっては、X線結晶構造解析によるチャネルロドプシンの立体構造情報が助けになったと。


チャネルロドプシンの研究の進み方について、下村脩ノーベル賞受賞で知られる緑色蛍光タンパク質研究の歴史とも似ている、ということが述べられていた。
また、下村と同時受賞しているチェンは、チャネルロドプシンの応用研究にも関わっていたらしい。

  • 応用

全光生理学
光遺伝学は光によって神経活動を生じさせるものだけど、全光生理学は、神経活動によって光を生じさせて、それを観測するというもの。
GEVIやGECIという、カルシウムイオン濃度変化に応じて蛍光を発するタンパク質を使う。


光ファイバーを使う方法から、二光子レーザーを使う方法へと進歩


青色光駆動チャネルロドプシンに加えて赤色光駆動チャネルロドプシンの開発


弱い光にも反応するように改良し、光ファイバーを脳内に入れることなしに、頭蓋骨越しの光照射でも可能に。


神経科学以外の医学領域への応用も進められており、網膜色素変性症の治療に使われた例もある。


解説の中では、2021年に、ダイセロスが、エスターヘルト、ヘーゲマンとともにラスカー賞を受賞していることをあげ、ノーベル賞受賞への期待が語られている。
Wikipediaを見ると、ダイセロスはほかに、京都賞もガードナー賞など多数の賞を受賞している。京都賞もガードナー賞も、ノーベル賞受賞者ノーベル賞とるまえにとっていたことで知られる賞。
ダイセロス、まだ年齢が若いのが受賞に当たってはネックかなあとも思うが、山中さんの例もあるので可能性はある。ラスカー賞共同受賞のエスターヘルトは既に亡くなっているらしい。ヘーゲマンは年齢的に妥当な気がする。