『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)


(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

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海外文学読むぞまとめ

2022年12月〜2023年3月

事の発端(?)は、文学読もうかという気持ち - logical cypher scape2を参照
これが2022年の9月頃で、12月頃から「海外文学読むぞ期間」と称して海外文学を読み始めた。
(9~11月は日本文学篇で、まとめは最近読んだ文学 - logical cypher scape2
海外文学読むぞ期間用の読みたい本リストにはまだまだ本が残っているのだが、10冊読んだところで、いったんまとめてみる。
今後も、まだ読みたい本リストに残ってる海外文学読むの続けるつもりだけど、海外文学以外の本とも交互に読んでいくつもり。
なので、少しペースは落としつつ、次は9月とかその頃に、この記事を更新できればいいな、と思っている。


グラフも更新してみた!

2023年、3月にしてこの数になってるの我ながらすごい。

マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(旦敬介訳) - logical cypher scape2
『世界終末戦争』は1981年の作品。
バルガス=リョサは、大江健三郎(1935〜2023、1994年ノーベル賞)と同世代
バルガス=リョサは今後他のも読みたい。具体的には『楽園への道』

ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2
ウィリアム・フォークナー『エミリーに薔薇を』(高橋正雄・訳) - logical cypher scape2
アブサロム、アブサロム!』は1936年の作品。
『エミリーに薔薇を』は1930年~1942年に発表された短編を集めた短編集。
フォークナーは、川端康成(1899~1972、1968年ノーベル賞)と同世代
フォークナーはあと『響きと怒り』とかかなあ

イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』(米川良夫・訳) - logical cypher scape2
『レ・コスミコスケ』は1965年の作品
カルヴィーノは、星新一(1926~1997)と同世代

  • 色々

『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2

ミハイル・A・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫・訳) - logical cypher scape2
巨匠とマルガリータ』は、1966年(作家の死後)に発表された作品。

フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2
フリオ・コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(寺尾隆吉・訳) - logical cypher scape2
『悪魔の涎・追い求める男他八篇』は、1951年、1956年、1959年、1966年に出された短編集からそれぞれ数本ずつ集めて編み直した日本オリジナル短編集。
『奪われた家/天国の扉:動物寓話集』は、1951年の短編集
コルタサルアルゼンチン出身の作家だが、のちにフランスに移住した。
コルタサルももう少し読みたい感じ。

アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』(中野恵津子・訳) - logical cypher scape2
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』は1999年の作品。
クラウドは、バルガス=リョサ大江健三郎と同世代ということになるが、本作によってブレイクした。大江健三郎は2000年の『取り替え子』から晩年様式(レイト・スタイル)と言われていることを考えると、遅咲きの作家だといえるかもしれない(それ以前は知る人ぞ知る作家だったらしい)

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦・訳) - logical cypher scape2
ウィトゲンシュタインの愛人』は1988年の作品

ウラジーミル・ナボコフ『青白い炎』(富士川義之・訳) - logical cypher scape2
ナボコフは、ロシア出身だが亡命し、のちにアメリカ国籍になっている。ロシア語で書いていた時期と英語で書いていた時期とに分かれる。
『青白い炎』は1962年、英語で書かれた作品

ニコルソン・ベイカー『中二階』(岸本佐知子・訳) - logical cypher scape2
『中二階』は1988年の作品
イカーは、田中康夫(1956~)と同世代(『なんとなく、クリスタル』は1981年)

  • ブックガイド

橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scape2
『世界終末戦争』はここから。
木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2
マークソン、ナボコフ、ベイカーはここから。
あと、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』も読みたい。
池澤夏樹の世界文学全集は、何が読まれているのか? - ボヘミアの海岸線
総括&お気に入りランキング! 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第1集 - ウラジーミルの微笑
総括&お気に入りランキング! 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集 - ウラジーミルの微笑
この2つのブログは色々参考にしている。
巨匠とマルガリータ』はこれらから。

  • 暫定まとめ

まあ完全に、アメリカ大陸偏重であり、それは個人的な好みの反映である。
今回の「文学読みたい」の主な動機は「面白い小説読みたい」なので、自分の好みに偏重するのはそれに適っているのだが、この「面白い小説読みたい」には、「今まで読んでこなかったところに面白いと思える小説がないか探す」という意味合いもあるし、それはそもそも「今まであまり海外文学読んでこなかったから海外文学も読もう」ということで、偏りをなくすという目的もあったことを考えると、なかなか悩ましいところである。
このあと読む予定の本も、やはりアメリカ大陸多めだが、アジア文学も少しずつ手を伸ばしたいと思っているところである。ヨーロッパはこれまで通りパラパラ混ざる感じ。アフリカはまだ遠い……。
あと、やはり男性作家ばかりだな……。

2022年9月以前に読んでいた海外文学まとめ

非SF海外文学について、これまであまり読んでいなかったので、いっそのこと、これまで読んできたものもまとめてしまうかと思ってまとめてみた。
まあしかし、そこそこあるか。
なお、ブログを始めて以降なので、ブログを始める前に読んだものは入っていないが、多分ほとんどない(今思いつくのはカフカ『変身』とカミュ『異邦人』くらいだ)。
読んでいる時期と全然読んでいない時期に分かれるので、「2007年~2009年頃」「2013年」「2015年・2017年~2020年」に分けてみた。

2007年~2009年頃

色々、まとまりもなくポロポロ読んでいる

この時期にオースターを読んでいたわけだが、2009年に『ムーンパレス』を最後に、その後さっぱり読んでいない。
『幽霊たち』
ポール・オースター『幽霊たち』 - logical cypher scape2
『シティ・オブ・グラス』
ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』 - logical cypher scape2
鍵のかかった部屋
ポール・オースター『鍵のかかった部屋』 - logical cypher scape2
『最後の物たちの国で』
5月後半に読んだ本・雑誌 - logical cypher scape2
『ムーンパレス』
ポール・オースター『ムーン・パレス』 - logical cypher scape2

まあ、有名だし読んでみるかと手を出したボルヘスとガルシア=マルケス。しかし、『百年の孤独』に手を出さなかったあたり、腰が引けている。
まあまあ面白かったが、しかし、自分はそこまでラテンアメリカ文学好きじゃないかも、とも思った記憶があり、その後10年くらい読まなくなった。
ボルヘス『伝奇集』
ボルヘス『伝奇集』 - logical cypher scape2
ガルシア=マルケス予告された殺人の記録
ガルシア=マルケス『予告された殺人の記憶』 - logical cypher scape2
ガルシア=マルケスエレンディラ
ガルシア=マルケス『エレンディラ』 - logical cypher scape2

試しに手に取ってみた『黒い時計の旅』がとても面白かったのだが、その次に読んだ『Xのアーチ』に困惑してしまい、その後、続かなかったエリクソン
気になる作家であり続けてはいる。
『黒い時計の旅』
スティーブ・エリクソン『黒い時計の旅』 - logical cypher scape2
『Xのアーチ』
エリクソン『Xのアーチ』 - logical cypher scape2

カルヴィーノおもしれーおもしれーって読んでた気がする。『レ・コスミコミケ』『宿命の交わる城』読んだのは2010年か。
『見えない都市』
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』 - logical cypher scape2
『柔らかい月』
イタロ・カルヴィーノ『柔らかい月』 - logical cypher scape2
レ・コスミコミケ』『宿命の交わる城』
あんまりちゃんと感想メモ書けてなかったけど、読んだ本の記録1 - logical cypher scape2

  • それ以外

すごく雑多なラインナップ。バートルビーとかラヒリとか、読んだことすら忘れていた。
それ以外も正直、読んだことは覚えているけど、内容はほとんど覚えていないというものばかりで、その後に続いていかなかった。ウエルベックは自分にあわないな、と思ったことだけ印象に残っている。
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー - logical cypher scape2
カズオ・イシグロわたしたちが孤児だったころ
カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』 - logical cypher scape2
レイモンド・チャンドラーさらば愛しき女よ
チャンドラー『さらば愛しき女よ』/円城塔『オブ・ザ・ベースボール』 - logical cypher scape2
『モンキービジネス』(ハーマン・メルヴィル「書写人バートルビー」など)
『モンキービジネス』Vol.1野球号 - logical cypher scape2
ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』
ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』 - logical cypher scape2
ジョセフ・コンラッド『闇の奥』
コンラッド『闇の奧』 - logical cypher scape2
ミシェル・ウェルベック素粒子
ウエルベック『素粒子』 - logical cypher scape2

2013年

スリップストリーム文学みたいな言葉を聞きかじった時期ではないか。どちらかといえばSF文脈からの流れで手に取った気もする。
クリストファー・プリースト『夢幻諸島から』
クリストファー・プリースト『夢幻諸島から』 - logical cypher scape2
ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』
ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『バーナム博物館』
スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』 - logical cypher scape2

2015年・2017年~2020年

あまり海外文学読むぞーという気持ちでは読んでいない気がする。
主には、プリーストとミルハウザーを読み進めていた時期、というか。

そもそもプリーストを非SF文学くくりに入れていいのか、という話もあるし、自分も半分SFジャンルとして読んでいるところはある。
いわゆる文学とSFとの中間みたいなポジションの人という位置づけのはずである。
デビュー作に遡った後、最新作と有名な奴を読んだ。
『魔法』
クリストファー・プリースト『魔法』 - logical cypher scape2
『限りなき夏』
クリストファー・プリースト『限りなき夏』 - logical cypher scape2
『隣接界』
クリストファー・プリースト『隣接界』 - logical cypher scape2
『双生児』
クリストファー・プリースト『双生児』(古沢嘉通訳) - logical cypher scape2

『バーナム博物館』を読んで以来気に入って、ポツポツ読むようになった作家。
まだ読めていない本も全然あるのだが、まあ好きな海外の作家はと聞かれたら「ミルハウザーとかかな」くらいは答えられるようになったかな、と。
『魔法の夜』
スティーブン・ミルハウザー『魔法の夜』 - logical cypher scape2
『三つの小さな王国
スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』 - logical cypher scape2
『マーティン・ドレスラーの夢』
スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』 - logical cypher scape2
『十三の物語』
スティーブン・ミルハウザー『十三の物語』 - logical cypher scape2
『私たち異者は』
スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』 - logical cypher scape2

『不在の騎士』
イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』 - logical cypher scape2

エリクソンはずっと気になり続けていて、2018年にふとデビュー作『彷徨う日々』を読んだ。
『彷徨う日々』
スティーヴ・エリクソン『彷徨う日々』(越川芳明訳) - logical cypher scape2

ラテンアメリカ文学は自分にはあわないのではないか、となんとなく思っていたのだけど、せっかくこんな本が出たので読んでみるかと思った奴
『20世紀ラテンアメリカ短編選』
『20世紀ラテンアメリカ短篇選』野谷文昭 編訳 - logical cypher scape2

  • 中国文学

特に中国文学を読もうと意識したわけではないが、2018年に高行健、2019年に残雪を読んだ。
海外文学読むぞ、と言いつつ、読んでいるのは欧米圏ばかりでアジア・アフリカは全然読めていないので、そのあたりも徐々に読めていけたらなあと思いつつ。
SFも中国・韓国のものは結局あまり読めてないな。
高行健『霊山』
高行健『霊山』 - logical cypher scape2
残雪『黄泥街』
残雪『黄泥街』 - logical cypher scape2

フリオ・コルタサル『奪われた家/天国の扉 動物寓話集』(寺尾隆吉・訳)

コルタサルのアルゼンチン時代に書かれた8篇からなる第一短編集。
海外文学読むぞ期間の一環として、フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2に続いてコルタサル
のちにパリに移住する作家だが、それ以前に書かれた作品なので、いずれもブエノスアイレス周辺が舞台となっている。
ラテンアメリカ幻想文学の1人だが、あくまでも日常的・現実的なところを舞台にしつつ、少し不思議・奇妙なことがおきるという作品が多い。
また、やはりどこか暗い不穏な雰囲気がいずれの作品にも漂っている。
「天国の扉」「バス」が特に面白かった。「動物寓話集」「パリへ発った婦人宛の手紙」もよい。

奪われた家

フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2では「占拠された屋敷」というタイトルで訳出されていた。
ストーリー自体はもちろん同じなので繰り返さないが、訳文の印象がずいぶん違っていた。
どちらの本も図書館で借りて読んだので、手元において直接比較していないが、本書の寺尾訳の方が、新訳ということもあって読みやすい文体になっていたと思う。
ちなみに訳者解説によると、1940年代のアルゼンチンではペロン大佐の人気が高まり、1946年に大統領に就任するが、ペロニズムの広がりへの比喩として読むという解釈が発表当時からあったらしい。

パリへ発った婦人宛ての手紙

同じくフリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳) - logical cypher scape2では「パリに居る若い女性に宛てた手紙」というタイトルで訳出されていた作品。
こちらも、訳文が読みやすくなっている印象。語り手の申し訳なさや不安な気持ちがよりわかりやすくなっているというか。
些細な違いをいうと、子兎が子ウサギになっている。

遥かな女 ──アリーナ・レエスの日記

サブタイトルにあるとおり、日記形式の作品だが、最初は何が起きているのかよく分からない。
エスという女性が、ルイスと結婚するまでの日記なのだが、レエスは時々ブダペストにある「あの子」ないし「遥かな女」」について思いを馳せている(白昼夢的なものを見ている?)。ぶたれているあの子は私なのではと思う。
最後のオチは、日記ではなく三人称で書かれているのだが、レエスとルイスは新婚旅行で実際にブダペストに行く。見ていた橋に実際に行くと、薄汚れた女性がいて、抱き合ってレエスは本当の自分になれたと思うのだが、なんと入れ替わられてしまうというオチ
回文が出てくる。

バス

クララがバスにのると、運転手、車掌、乗客からじろじろと見られる。墓地に向かうバスのためか、乗客はみな花束を持っていて、花束を持っていないクララのことを不審げに見ているようだった。
次いで、やはり花束を持っていない若者が乗車すると、皆クララと若者のことを見るようになり、クララと若者は連帯感をもつようになり、急速に接近していく。
墓地を過ぎて乗客はみな降りるが、運転手と車掌はまだ敵意のある目で見てくるが、2人はそれに抵抗する。
バスに下りた2人は花束を買って、そしてそれぞれ別々の道を歩いていく。
バスの車内で恋人同士のような距離感にもなった2人が、バスを降りた後急速に離れていくラストはどこかしら「南部高速道路」を思わせなくもない。
なおこの作品も、訳者解説によると、ペロニズムへの抵抗という解釈がありうるとか。

偏頭痛

マンスピアという動物を育てている「私たち」の話。
「私たち」という一人称複数形で語られているが、「私たちの男の方」「私たちの女の方」という書き方がされることもあり、男女2人組、夫婦もしくは「奪われた家」のようなきょうだいのようであるが、そのあたりははっきりしない。
ホメオパシー小説で、「わたしたち」は絶えず悩まされている心身の不調をホメオパシー用語で記録している。ホメオパシーは、症状を「トリカブト」とか動植物の名前で呼び分けていて、「明らかに○○だ」とか「○○なのかもしれない」とかそうしたホメオパシー用語で不調を訴え続けている。
2人の使用人を雇った上で、4人でマンスピアという動物を繁殖させ、飼育している。最終的に売却するのが目的らしいのだが、かなり飼育が面倒そうな動物である。
しかし、使用人は逃げた上に盗みを働き逮捕され、マンスピアへの飼料は減っていき、さらには原因不明の脱走を起こし、夜には正体不明のうめき声に悩まされることになり、マンスピアの売却もあまりうまくいきそうにない、という踏んだり蹴ったりの話
そういう状況の中、「私たち」はホメオパシーの手引きを読むことに没頭していく。
訳者解説によると、コルタサル自身が体調を崩していた際に「悪魔払い」(自己セラピー)として書いた作品で、当時のコルタサルホメオパシーにも関心を持っていたらしい。

キルケ

婚約者を2人相次いで亡くした女性デリアに、マリオは惹かれていき、婚約するに至る話。
語り手は、マリオの弟妹?
マリオは彼女の家に通い、少しずつデリアやその家族に受入れられていくが、婚約者2人が相次いで死んだ彼女のことを周囲の人たちは結構怪しく思っている(1人は自殺だが、自殺なんてするような人ではなかったと証言されている)。
デリアは、リキュールやボンボンを作るのが趣味で、新作をつくっていくのだが、両親はあまりそれを好まず、マリオが試食してくれるので、それを通して2人は親しくなっていく。
婚約後、彼女の作ったボンボンの中からゴキブリが出てきて、マリオがキレて、彼女の首を絞める。
ラストが急展開でちょっとよく分からなかった。
訳者解説によると、これまたコルサタルによる自己セラピー的な作品で、食べ物から虫が出てくる妄想にとらわれ拒食気味だったが、本作を書いて回復したらしい

天国の扉

語り手の友人夫婦の妻セリーナが、結核で急死する。
語り手と夫のマウロは、キャバレーでセリーナを偲ぶ。
語り手は弁護士で、夫婦はその依頼人だったようだが、友人づきあいをするようになった関係らしい?
セリーナの方は、元々怪しげなキャバレーで遊ぶのが好きだったようなのだが、結婚後は、時々夫を誘ってもう少しまともな(?)店でダンスする、くらいだったらしい。
語り手とマウロは2人で、キャバレーを訪れる。
語り手はキャバレーを地獄と呼んだり、そこの客たちのことを「怪物」と呼んでいたりしてちょっとギョッとする。
色黒娘とも書かれているが、人種の違いがあるのか階級の違いがあるのか(肌の色なのか日焼けなのか)何なのかいまいちよく分からなかった。語り手は、セリーナは本当は自分たちより「怪物」に近かったのだなと思ったりする。
マウロは、見知らぬ女性と踊ったりするが、しかし2人とも店内の雰囲気にはなじめないまま、セリーナが踊っているところを目撃する。
「今のみたか」「そっくりだったな」という会話で終わるので、よく似た人を見かけたという話だが、彼女の幽霊を見た、というふうにもとれる話になっている。
天国の扉を自分たちは越えられないのだ、という感慨で終わっている。

動物寓話集

夏休みの間、田舎の家に預けられる少女イサベルが主人公。
幼い主人公の視点から語られるためか、登場人物たちの血縁関係がよく分からないが、この田舎の家には、年かさの男性ネネ、哲学を勉強しているルイス、若い女性レマ、主人公と同じかさらに幼い少年ニノが住んでいて、さらに農夫たちの親方がいる。
そして、この家の周辺には虎がでて、時々家の中にも入ってくるらしい。それを親方が知らせてくれて、その間はその部屋には入れなくなる。
主人公はニノと蟻を観察したりなんだりして比較的楽しく過ごすようになっていく。
ある晩、ネネは主人公に対して、レマにレモネードを持ってきてもらうよう頼むのだが、レネマは明らかに行くのを渋り、主人公が代わりにネネにレモネードをもっていく。
翌日、主人公は親方が言っていた警告を誤って伝える(虎はネネの書斎にいる)。それを聞いて読書室へ行ったネネが虎に襲われる。
レマがイサベルに感謝を告げて終わる。
「大食堂から母とイネスの話し声が聞こえ、荷物、発疹について医者に相談、鱈油、アメリカマンサク、夢ではない、夢ではない。(p.172)」みたいな、単語を羅列するちょっと奇妙な文が時々出てくる。

解説

コルタサルの生誕100数年、没後30周年であった2014年は、ガルシア=マルケスが亡くなったこともあり、日本でラテンアメリカ文学が再注目を浴びた年であったというところから、コルタサルは日本でも人気があるが、しかし、あまり正確に知られていないのではないかという話がなされて、本書の成立過程へと解説されていく。
コルタサルは教員として働いていたが、上述の通り、アルゼンチンでペロン大佐が台頭すると教育現場も国粋主義的になってきたために、教員を辞め、創作活動に移っていったらしい。
本作より前に『対岸』という短編集がある(寺尾により翻訳されている)が、これは出版には至らず、本作が「真の処女作」である、と。
「奪われた家」が雑誌掲載されたのがコルタサルにとって転機だった。掲載誌の編集長がボルヘスだが、持ち込み時にコルタサルボルヘスは初めて出会ったという逸話は、ボルヘスコルタサルのどちらかあるいは両方による作り話だとか。
また、この『動物寓話集』という短編集については、パリへいくコルタサルから友人たちが原稿を取り上げて出版社に持ち込んだという逸話が日本では知られている(『悪魔の涎・追い求める男他八篇』の解説にも書かれていた)が、これも裏付けのない話らしい。
「天国の扉」はコルタサル本人も気に入っており、研究者からの評価も高い作品。訳者はコルタサル作品の重要なテーマの一つとして「死」があるという。1940年代に相次いで友人知人を亡くしており、30年後の作品でもその悲しみについて書いているらしい。

ニコルソン・ベイカー『中二階』(岸本佐知子・訳)

1980年代後半の20代半ばの会社員が、自らの生活のディテールをひたすら綴っている小説。
木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2で紹介されており、海外文学読むぞ期間の一環として手に取った。
ウラジーミル・ナボコフ『青白い炎』(富士川義之・訳) - logical cypher scape2と同様、注釈が多い作品だが、『青白い炎』は注釈が本編みたいな作品だったが、こちらは単に注釈が多かったり長かったりするだけで、本文は本文でちゃんとある。
タイトルの「中二階」というのは、主人公の勤務先がビルで中二階にあることから。
正直な話、物語自体はつまらない、というか、物語らしい物語は存在していない。
一方で、本作は1988年刊行で、物語の舞台もほぼ同じだが、80年代後半のアメリカのサラリーマンの生活の様子が垣間見えるという点での面白さはあるかもしれない。
とにかく主人公が、靴紐とかホッチキスとかエスカレーターとかドラッグストアとかストローとかについて、それらに対する偏愛とともに詳細に記述している。80年代のことなので、2020年代の現代にも共通するものも多くあるけれど、もはやなくなってしまったものについての記述も当然あって、そのあたりの歴史的な(?)面白さはあるかもしれない。
あとはその、主人公のディテールに対する偏愛に、クスりと笑えるかどうか、とか。

概要

昼休みが終わり、エスカレータに乗って会社に戻るところから始まり、最後の第十五章では、そのエスカレータを見るところで終わる。
つまり、エスカレータに乗っている間だけという、とても短い時間の物語であるが、実際には、回想に継ぐ回想となっている。昼休みにドラッグストアへ靴ひもを買いに行っているのだが、それは午前中に靴ひもが切れたからで、さらにそもそも靴ひもを結べるようになった幼少期の思い出へと話が進んでいく、というように。
また、この文章を書いているのは、さらにその後のことで、思い出しながら書いているようだ。
主人公は、入社して数年目の若いサラリーマン。あまり詳しいプロフィールは分からないのだが、靴ひもを結べること、エスカレータのステップを見なくても登れること、自分の会社がトイレに高級なペーパータオルを設置していることなどを、誇りに思っている。また、恋人もいる。


各章

  • 第一章

ストローの話など
ところで、紙ストローからプラスチックストローに変わった時のエピソードを、ちょうど、マックで紙ストローを使って飲み物を飲みながら読んでいた。

  • 第二章

昼休みに入ろうかという時に靴ひもが切れた話だが、日常生活で同様の驚愕を感じる例とか(ホチキスをしようとして針が入ってなかったとか)、「私の人生における大きな進歩」を8つ挙げていたりする。
この「大きな進歩」のうち最初の3つは、靴ひもの結び方を覚えたなど靴ひも関係

  • 第三章

「大きな進歩」の4番目以降について
恋人が歯磨きの時に舌も磨いていることを知って、自分も磨くようになったこととか、やはり恋人の影響で、ほうきで部屋の掃き掃除をすると気持ちがいいのを知ったとか

  • 第四章

秘書のティナとの会話
レイが入院してしまったので寄せ書きを作ってるとか、靴ひもならどこそこのドラッグストアで売っているはずだとか
ドアノブから父親のネクタイの思い出話につながるやたら長い注釈がついてたりする。
ティナが使っている日付スタンプについても長々と考察していたり

  • 第五章

エスカレータに乗る喜びは、子ども時代の思い出補正なのが、大人にとっても喜びなのか

  • 第六章

牛乳パックの話
子ども時代、家では配達される瓶牛乳を買っていたが、それがスーパーで売られる紙パック牛乳へととってかわられるようになっていった話とか

  • 第七章

会社に勤め始めて数か月くらいの頃の朝、自分の成長が終わって、大人になったのだとふいに気づいたこと

  • 第八章

オフィスに戻るとき、ロビーでメール室で働く同僚たちとすれ違ったことや、清掃員がエスカレータの手すりを掃除しているところに出くわしたこと
スケートやレコードの溝についての長い注釈がある
大人になった時の話として、自分でお金をやりくりする喜びについて書かれており、その中で、レストランの会計の時にカーボン紙にサインすることなどが書かれていたりする

  • 第九章

オフィスにあるトイレのペーパータオルの話とか、会社のエレベータの話とか、会社の廊下にある自動販売機の話とか
ミシン目を称える注釈ついていたり、温かい飲み物の自動販売機が何故プラスチックコップじゃなくて紙コップなのか考察する注釈がついていたり

  • 第十章

トイレの話
他の人がトイレに入っているとうまく尿ができないとか、トイレで放屁することについてとか

  • 第十一章

トイレのハンドドライヤーdisとペーパータオル賛美
再びストロー話

  • 第十二章

エスカレータでは絶対歩く派だった主人公が、いかに、エスカレータで歩かなくてもいいかと思うようになったか

  • 第十三章

ポップコーン、ドラッグストア、シャンプー、靴用品、レジ係

  • 第十四章

昼休みに読もうと思っていた、ペンギンブックスの『自省録』について
自分の思考内容の周期表について(どういうことを普段よく考えているか、というのを、年に何回くらいの頻度で考えたかという周期で表にしたもの)

  • 第十五章

中二階についてエスカレーターを見下ろす。

ウラジーミル・ナボコフ『青白い炎』(富士川義之・訳)

老詩人の遺作となった詩「青白い炎」に、元隣人がつけた大量の注釈が、とある王国から革命の末亡命してきた元国王の物語になっているという作品。
著者のナボコフというのは『ロリータ』のナボコフである。というか、自分はナボコフについて『ロリータ』の作者である、というえらく薄ぺっらい知識しかなかったので、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2を読んだ時に、実験小説を書いていると知って驚いてしまった。そして面白そうだったので、海外文学読むぞということで読んでみた。
なお、ナボコフWikipediaを見ると代表作の一つとして本作の名前も挙げられている。


構成としては、前書き、詩、注釈、索引となっていて、小説ではなく学術書的な体裁をとっている。
しかし、読んでみれば、学術書風を装いながらも、一人称の小説になっているのはすぐ分かる。
チャールズ・キンボートという文学者が、ジョン・シェイドという詩人の遺作に大量の注釈を書いているのだが、その注釈はすぐに詩そのものから逸脱して、キンボートの出身国であるゼンブラ王国の国王の話が語られていくことになる。
なお、キンボートは、自分がジョンにゼンブラ王国の話をしたことが、この詩の発想源になっていると考えていて、それを伝えるために書いている注釈なので、キンボート的には逸脱ではない。むしろ、ゼンブラ王国の話=シェイドの詩への正当な注釈nanoである、あくまでもキンボート的には。
もちろん、読者からすると、詩とは全く関係ない話をしているようにしか読めないし、実際まあ、キンボートの妄想みたいなものではある。
このため、本作は「信頼できない語り手」の代表的作品と紹介されることもあるようだ。

前書き

キンボートが、シェイドの亡くなる数ヶ月前にシェイドの隣へと引っ越してきて知り合いになった経緯ならびに本書の出版の経緯が書かれている。
他のシェイド研究者による追悼記事などを批判しつつ、本書出版にあたって、ジョンの妻であるシビルや他の研究者からキンボートが批判されているっぽいことが分かる。
キンボートは、ジョンとは短い間で親友になったが、シビルからは嫌われたと思っている。シビルがキンボートのことを胡散臭く思っていたのは事実だろう。ジョンが実際のところキンボートをどのように感じていたのかは、はっきりとは分からない(面白い隣人だ、くらいには思っていたようだ)。
また、この詩が、カードのような原稿用紙に書かれていたこと、そこにはその詩を書いた日付が記されていること、また、最終的には採用されなかった異校も残されていることが説明されている。
なお、文中に突然「隣の遊園地の音がうるさい」的なことが書かれたりして、この文章を書いているキンボートが、あまりまともな語り手ではなさそうだ、ということが読者には分かるようになっている。

ジョン・シェイドの「青白い炎」という詩は、シェイドの自伝的な詩になっている。
四篇からなり、おおよそ第一篇は子ども時代、第二篇は妻との高校時代の出会いから娘の死のことまで、第三篇は心臓発作を起こした際の臨死体験、第四篇は晩年について書いている。
妻のシビルを「きみ」と呼びかけている。
両親を幼い頃に亡くし、叔母のモードに育てられている。
また、娘が20才くらいの頃に事故で亡くなっている(湖での溺死だが、自殺の可能性もかかれている)
心臓発作を起こして臨死体験をしているのだが、その後、似たような経験をした女性がいることを知り会いに行ったら、その経験について書かれた記事に誤字があって、全く誤解だったことが分かる
(ところで、キンボートはシェイドと神の存在について議論したりしている。キンボートの方がよりキリスト教の信仰を持っているっぽい)

注釈

ちゃんとした(?)注釈になっているところもなくはないが、ごくわずか。
キンボートがジョン・シェイドとの思い出話を語っていたり、そこから、ゼンブラ王国の話をしたりしている。
キンボートとシェイドはともに同じ大学で文学研究者をしており、大学の同僚の話なども出てくる。シェイドが同僚を自宅に招いて夕食会をしたりしているからだが、ちなみにキンボートは菜食主義者であるため、夕食会では食事を拒否したりしている。このあたり、金ボートは自らを被害者として書いているが、顰蹙を買いそうな振る舞いをしている気配がある。
キンボートは、元々シェイドの詩のファンであり、隣人となってからは、自らの祖国であるゼンブラの詩を書いてもらおうとして、ゼンブラととりわけチャールズ最愛王の脱出行について、ことあるごとにシェイドに語って聞かせるようになる。
一方、シェイドの方は、キンボートと散歩に行って花の話などをしたりしていたようだ。
キンボートは、執筆中の詩をどうにかして読もうとするが、シビルから、夫は書いている途中の原稿を誰にも見せることはないとぴしゃりと言われてしまう。そのため、シェイド家をたびたび出歯亀している。
さて、ゼンブラ王国だが、北ヨーロッパの小国で、ロシアと隣接もしくはロシアの影響下にある国のようである。この作品の舞台は1950年代後半で、ゼンブラでは革命が起きて、チャールズ王は城内に軟禁される。が、愛国者の協力と地下道によって脱出し、パリに逃れ、さらにアメリカへと向かうことになる。
で、キンボートの語りの中では、キンボートの正体は、変装したチャールズ王なのである。
当初は、王のことを三人称で書いているが、後半からは、王についての話も一人称で書くようになっていく。
チャールズ王は同性愛者であり、政略結婚した王妃とはあまりうまくいっておらず、王妃は革命前にフランスに移住している。
さて、この注釈の中には、もう1人の主要登場人物がいる。それは、過激派グループの一員で、国外へ脱出した国王暗殺を命じられたジェイコブ・グレイダスである。
度々、シェイドが詩を書いた日付と、グレイダスの行動した日付(出発した日とかパリに着いた日とか)の一致が指摘されていて、あたかもシェイドの詩と暗殺者の行動がリンクしているかのように書かれている。

結末など

グレイダスは色々と無駄足も踏むのだが、最終的にはキンボートとシェイドの住むニュー・ワイの町までやってきて、暗殺を決行する。しかし、銃弾はシェイドを貫いてしまう。
その直前、詩人から完成したばかりの原稿を読ませてもらえることになったキンボートは、シェイドが凶弾に倒れた直後、なんと、その原稿を自宅の中に隠してしまうのである。そういうとこやぞ。
また、キンボートはグレイダスからここまで何があったかを聞き出すのだが、逮捕後、彼は警察に対してジョン・グレイと名乗る。グレイは精神病院の患者であった。
その後、キンボートはニューワイを離れ、詩人の原稿に目を通すことになるのだが、ゼンブラについて何も書かれていないことに気づき、憤る。しかし、いくつかの箇所や、ボツになった方の原稿から、(勝手に)自らが詩人に物語った話の片鱗を見いだし、この注釈を書くに至るのである。
また、世間ではジョン・グレイは最初からジョン・シェイドを狙ったのだとしているが、しかし、実際には王である私を狙っていたのだ、というのもこの注釈の狙いだったらしい。


最後に、訳者解説があるが、本書を巡っては解釈上の論争があるらしく、語り手が何人いるのかということが議論されてきたらしい。
普通に読むと、この本にはシェイドとキンボートの2人の語り手がいる。つまり、詩の部分はシェイド、注釈の部分はキンボート、と。
しかし、実は語り手はシェイド1人説、というのがあって、キンボートの手による注釈部分もシェイドが書いたものだとする論が、ナボコフ研究者によって書かれているらしい。
ただし、訳者はこの説に懐疑的で、語り手2人説をとっている(ちなみに、ナボコフもシェイドを語り手とする説には否定的な反応を示したらしい)
なお、作中でキンボートは自分の正体はゼンブラのチャールズ王だと名乗っているわけだが、実際には、シェイドの同僚であるボトキンというロシア文学者の妄想だというのが一般的解釈のようだ(ボトキンのアナグラムがキンボート)。
ジョン・グレイも、王を暗殺しようとしていたわけではない。キンボートが住んでいる家は、元々ある裁判官の家で、いっときキンボートが借りているのだが、グレイはその裁判官を逆恨みして、年格好の近いシェイドを撃ってしまったらしい。


ところでシェイドの詩の939行目には

難解な未完の詩への注釈としての
人間の生涯。のちのちの使用のための注

本作そのものを言い表しているような表現である。
『偶然性・アイロニー・連帯』でも引用されているらしい。全く覚えてないけど。

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦・訳)

地上でただ1人の人間となってしまった主人公が、狂気すれすれの中でタイプした手記
今、狂気すれすれ、と書いたがそれはあまり適切な言い方ではないかもしれない。
その筆致自体は軽妙で、狂人のようでは全くない。
誰もいなくなった世界を孤独にさまよいながら、そこで見聞きしたもの、感じたことと、主人公がこれまで読んできたこと(古代ギリシアから現代までの欧米の絵画、演劇、音楽にまつわることが多い)とが入り交じりながら書かれている。
設定的には、ポスト・アポカリプスSFっぽいがSFではない。版元のページでは「アメリカ実験小説の最高到達点」と紹介されている。実験小説とは何かというと難しいけれど、実験小説と聞いて身構えるような読みにくさは、あまりないかもしれない(いやしかし、かといって読みやすいわけではないが)。


本書は、原著が1988年で、日本語訳が2020年に刊行された。
日本語訳出版時に、版元の宣伝や書評などをネットで見かけて、その時から気になっていた。
海外文学読むぞ期間としてこの前、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2を読んだので、木原善彦つながりで読むことにした。
日本語訳出版時は、新刊の翻訳かと勘違いしていたのだが、上述の通り、原著は1988年に刊行された本で、著者のマークソンが注目を浴びるきっかけとなった作品らしい。
マークソンは、1927年生まれで2010年に亡くなっている。『読者のスランプ』(1996)、『これは小説ではない』(2001)、『消失点』(2004)、『最後の小説』(2007)という「作者四部作」が有名らしく、この中で『これは小説ではない』は日本語訳があり、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2でも紹介されている。
実をいうと『実験する小説たち』を読んでも、『これは小説ではない』はそこまで曳かれるものはなかったのだが、こちらの方は気になっていたので、読んでみることにした。

どんな本か

世界に1人の人間になっていまった主人公が日々タイプした手記、という体裁の作品
まず、その特徴として、単行本にして300ページほどあるが、区切りが一切ないという点がある。章や節による区切りもないし、一行空きによる区切りもない。
どうも、1日に少しずつタイプしていっているらしく、時々、日が改まったのは分かる(○行前は昨日書いていたのだが、とか、この行とこの行の間に寝ていたのだが、とか、実は昨日は何も書いていなかった、とか、ここから明日になったとか書かれている)のだが、その際も、一行空きをしたりすることはないので、文章としてはずっと一続きになっている。
ただ、1段落あたり1文か2文のことが多いので、ページに文がぎっちり詰まっているということはないので、その点では、わりとすいすい読めるような気はする。
内容的には、彼女が思いついたままに書いているという体裁なので、書かれる出来事は全く時系列順にはなっておらず、彼女の記憶と認識によってのみ書かれているので、「今書いたことは間違いだった」とか「今~と書いたが、実は~だ」とかそういった文がしょっちゅう出てくる。
しかし、そのこと自体が文章にある種のリズムを生んでいて、どこか軽妙な文章になっている。
今彼女と書いたが、主人公は、40代後半から50歳ほど*1の女性で画家。
先ほども書いたとおり、書かれている内容が時系列にそっていないのだが、それだけでなく色々と繰り返しもある。
例えば、ある話題自体の繰り返し。ブラームスの伝記を自分は何で読んだのか、みたいなことを、度々繰り返している。そして、その時々で書いていることが少しずつ異なる。本人が自覚して訂正していることもあれば、気付かずに矛盾したことを書いていることもある。
また、そもそも同じ文自体が再度出てくる箇所も何カ所もあった。
他に、フレーズや単語単位で、彼女が気に入っていると思われるものは繰り返し使われる傾向にある。例えば、彼女は、オーディオの説明書の中で見かけた「スピーカを互いに等距離におく」というのが気に入っており、その後「互いに等距離」「等距離」というフレーズを頻繁に使うようになる。
一方、話題が非常に頻繁にあちこちに飛ぶ、というのも特徴である。
今これこれについて書いていたら、突然どれそれについて思い出した、みたいな形で、全然関係しないだろうことを書き出したりする。全然違うことだというのは本人も意識しており、何故これを突然思い出したのかは分からないが、と言って、そこで終わってしまう話題も多い。
逆に、あの時、そのことについて思い出していたのだが、あの時は書かなかった、みたいな感じで突然不意に出てくる話題もあったりする。
そのあたりはすごく、人間の意識の流れをそのまま切り取っているように感じる。
そして何より特徴的なのは、歴史上の人物や有名人への言及が多いということだろう。また、記憶に基づく引用もしばしばある。
主人公が20世紀アメリカの画家ということもあり、ロバート・ラウシェンバーグを始めとする同時代の画家などは直接の知己であったということで言及されている。
が、それ以上に歴史上の人物への言及が多い。
なお、時々、人名をひたすら羅列することがあって、「私は今知識をひけらかした」とコメントがついていたりする。
また、この小説自体が、主人公がトロイア遺跡を「探索」の途中で見に行ったことを思い出しているところから始まっていて、『イリアス』『オデュッセイア』への言及も多い。
そして彼らの日常生活に関わるようなことを考えている。
同じ町で知り合いだったはずで、こんな会話をしたはずだ、とか、猫を飼っていたんだ、とか。
彼女がどこかで読んだのであろう内容もあれば、単に彼女の想像に過ぎない話もある。そうした想像を次々と展開していって、こうだったに違いないと断言しているところもある(そういう時は「誓って言うが」というフレーズが頻発する)。が、明らかに間違っているところもいくつかある。
そんなわけで、主人公の広い教養と記憶力に読んでいて最初は感嘆する。画家であるために美術関連の話題は多いが、文学、哲学、音楽、映画などジャンルは多岐にわたる。しかし、上述のように、記憶がいい加減になっているところも見受けられるし、読んでいるうちに、広いとはいえ、出てくるのが欧米圏に限定されていることにも気付いてくる。

あらすじ(?)

どうして世界で1人の人間になってしまったのかという経緯は謎
世界がまだ普通だった頃は上述の通り画家をやっていて、夫と子どもがいたが、世界がこうなる前に、子どもは亡くなり、離婚したようである。このあたりの経緯は、終盤で語られるものの事情ははっきりしない。メキシコに子どもの墓があるらしい。
世界で1人になってしまってから、世界中を「探索」してまわったようで、その頃のことが断片的に書かれている。捨ててある自動車を乗り換え乗り換えしながら、アメリカ→ベーリング海峡経由でロシア→ヨーロッパを回ったようだが、正確な順番は不明。
その間、美術館を回っていたようで、ニューヨークのメトロポリタン、ロンドンのテートギャラリーやナショナル・ギャラリー、パリのルーヴル、マドリードのプラドなどに泊まっていたらしい(絵の額縁を燃やしたりしていた)。ロシアでは、ロシア語の標識が読めなかったためにサンクトペテルブルクを気付かず通過してしまい、エルミタージュに行くことができなかったのを後悔している記述がある(が、かなり後になってエルミタージュでのエピソードが出てくるが、そのエピソードは以前にルーブルでの出来事として記述されていたはず)。
最終的にアメリカに戻ってきて、東海岸の浜辺の家で暮らしながら、タイプライターを打っている状況のようである。
探索期のどこかで「アウト・オブ・マインド」になっていた時期がある(狂っていたとも、そのときの記憶がなかったとも、書かれている)。今はそうではない、と。
探索をしていた時期には、発電機をはじめとして「荷物」を持っていたが、今はほとんどの「荷物」を捨ててしまったらしい。衣服もほぼ身につけていない。
美術館では額縁を外して燃やしている(絵は戻している)が、浜辺の家に戻ってきてからは、本を読みながらページを1枚1枚燃やしたりしている。
さらに家を二度燃やしている。1度目は失火だが、2度目は家を解体して薪にしたらしい。解体された家の2階部分のトイレだけが残っており、2階がなくなったあとの2階のトイレはいまでも2階だろうか、みたいなことを度々書いている。

ウィトゲンシュタイン

タイトルが「ウィトゲンシュタインの愛人」とあるが、主人公は別にウィトゲンシュタインの愛人だったとかそういうわけではない
しかし、作中で全くウィトゲンシュタインが出てこないかといえばそういうわけでもない。
本作は画家や音楽家への言及が多いが、哲学者への言及も多く、また哲学書からの引用もいくつかある。例えば、パスカル『パンセ』やハイデガーだが、ラッセル、ホワイトヘッドウィトゲンシュタインも何度か名前が出てくる。
ただ、それだけなら「パスカルの愛人」でもよかった(?)わけだが、何故ウィトゲンシュタインか。
まず、主人公がウィトゲンシュタインには好意を持っているようだというのがある。
また、本作を「アメリカ実験小説の最高到達点」と評したデイヴィッド・フォスター・ウォレスという作家が、本作を「『論考』のパロディー」と論じているらしい(なお、ウォレスには『ウィトゲンシュタインの箒』という作品がある)。実際、作中には『論考』からの引用もある。
ただ、個人的にはこの主人公が行っている思索は、どことなく『哲学探究』風なところがあるように思った。
1人であるがゆえに、どこか脱臼した言語ゲームをしているようなところがある。
まるきり同じというわけではないが、私的言語や私的感覚に近い話をしているなと思しき箇所もある。
例えば、彼女はイヤーワーム的に音楽が頭の中で聞こえていることがあるのだが、それを文字通り、誰それが歌う○○を聞いた、と書くことがある。しかし、それは実際に文字通り聞いているわけではない。また、例によって、何を聞いていたか間違えた、という記述が出てきたりするわけだが、これの確認しようのなさは、どことなく私的感覚の話を思い起こさせるからだ(最もウィトゲンシュタインの議論と完全に同じというわけではない)。
なお、ウィトゲンシュタインの哲学そのものの話は作中には出てこない。
ラッセルが、ホワイトヘッドがボート競技をするところをウィトゲンシュタインに見せた話とか
ウィトゲンシュタインが、鳥が好きで、カモメだったかを飼っていた話とか
例によって言及されているのはほとんどそういう話である。
ウィトゲンシュタイン的かどうかはともかく、言葉の使い方の適切性への気の使い方が面白いところがある。今言ったのは、ほんとはこういった方が適切だったとか、現在形と過去形の使い分けとか、複数の意味にとれてしまう文を書くと「またやってしまった」と言って即座に注釈してくるのとか面白い。

結末

終盤になって、「私」は、世界で1人になってしまった女性を主人公に小説を書くことにしたということが書かれ始める。
ここまで「私」がやったこととして記述されてきたことが、「彼女」は小説のなかでこういうことをするのだ、と記述しなおされる。
メタフィクショナルな展開なのだが、個人的にはこの部分にあまり、メタフィクションさを
感じなかった。
あるレビューだと、ここの「私」はマークソンで、男性作家が女性を主人公にした小説を書いていたと明かされるオチなのだ、的な解釈がされていて、まあそれはそうなのだが、
しかし、相変わらず、行空きなどの区切りを示すマーカーはなくて、また、文章的にも「私」の人格が変わったようなところは感じられない。
自伝的小説を書くことにしたと述べており、「彼女」=「私」というのがすんなり納得できる。
なので、あまりマークソン本人が出てきた感は、個人的には感じなかった。

よく出てきた人名・作品名

何度も出てきた人名や作品名を列挙してみる
ただし、全てを網羅してるわけではない。また、1,2度しか出てない名前も拾っていない。
下では、苗字だけの表記にしているのがほとんどだが、実際には、初出はほぼ確実にフルネーム。それ以降も、語り手の好みによって、フルネームだったり、ファーストネームだったりで書かれていることもある

美術

ゴッホはフルネーム、ファン・ゴッホ表記のほか、フィンセント表記でも出てきた

ラウシェンバーグとデ・クーニングは主人公の直接の知り合い

レンブラントは色々と出てくるが、例えば主人公が飼ってた猫の名前が朽葉(ラセット)で、そこからラセット色といえばレンブラントだ、とか
レンブラントの弟子が床に金貨の絵描いていて、レンブラントが騙されていた話とか
犬につける名前を猫の名前にしてた話もレンブラントだった気がするけど、どうだったか。

デルフトで、スピノザやレーウェンフックとこんなすれ違いをしていたはずだとか、そんな話

音楽

ブラームスは、非常に多く出てきた印象がある。
ブラームスのエピソード(ジャンヌ・アヴリルという踊り子との関係とか)がたびたび出てくるのだが、それを果たしてどこで読んだのかということを主人公は非常に気にしていて、それが子ども向けの本だったのか、ちゃんとした伝記だったのか、レコードのジャケットに書いてあったことなのか、とか
今、自分が住んでいる海辺の家に置いておる本を、読んで燃やしたり、あるいは別の部屋にしまい込んでみないようにしていたりするのだけど、そこにあったブラームスの伝記で読んだのだろうか、とか
それから、頭の中でブラームスの『アルト・ラプソディ』がキャスリーン・フェリアの歌で聞こえてくるというのだが、それが途中で『四つの厳粛な歌』だったかもしれないとなり、シュトラウス『四つの最後の歌』だったかもしれない、となっていく。
頭の中で曲が流れるというのは、ある程度多くの人が実際に経験することだと思うし、さらにそれが何の曲か分からなくなるという経験もあると思うが、この主人公の場合、最終的にそれを確かめる術が存在しないので、自分でこうだ、というしかない。
というあたりに、ちょっと私的感覚の議論に似たものを感じる。
ブラームスのエピソードとしては、子どもにキャンディをあげるのが好きというのもあって、キャンディをあげていた子どもはウィトゲンシュタインに違いない、というくだりもある。

文学

トロイア戦争の話は、しょっちゅう出てくる。

ギャディスも主人公は直接会ったことがある

エッフェル塔を見たくなくてエッフェル塔の下で食事をとっていたエピソードがたびたび出てくる

作品名としても人物名としてもたびたび出てくる。

哲学

『パンセ』からの引用など

海辺の家の地下に、本がたくさんはいった箱がいくつかあって、ドイツ語の本が詰められているのだが、そのいくつかがハイデッガーの本だったらしい。「存在(ダーザイン)」だけ読めた、みたいなことが書かれている。
それから、主人公はハイデッガーに手紙を送って返事が返ってきたというエピソードがある。
まだ、世界が普通だったころ、猫に名前をつけていなくて、知人たちが色々アイデアを出していた時に、著名人に名前を付けてもらうのはどうかという案が出て、ハイデッガーだけでなく、エリザベス女王とかとにかく色々な人たちに手紙を送り付けた、という迷惑千万なエピソードがあるのだが、その中で、ハイデッガーだけが返信をくれたという話
なお、それがレンブラントか誰かの猫の名前。

*1:年齢についての記述も時によって異なる

瀬名秀明『ポロック生命体』

AIをテーマに4篇収録した短編集
積ん読しているさいちゅうにいつの間にか文庫化されていた。
今まさに現実世界で話題になり続けている技術であるだけに、あっという間に古びてしまいかねないテーマではある。
ディープラーニング系のAIなどの発展が、人間の創造性などを身も蓋もなく機械化してしまう時、人間社会はどう反応するのか、みたいな話

負ける

将棋AIと人間の棋士の話
人工知能学会開発による「舵星」というAIが、毎年棋士との頂上決戦をしている。
将棋AIそのものではなく、ロボットアームの研究者が主人公
カメラを搭載せずに動く独特のアームで、人間らしい動きの再現に挑む。
初めて舵星が棋士と対戦した際、いわば見苦しい戦いをしたことで、永世名人に恥をかかせたと炎上
開発チームは、来年の対戦に向けて「投了できる」AIを開発目標とする。
主人公の久保田(博士課程学生)が、新たに開発チームに加わった、やはり大学院生の国吉が何を考えているかを徐々に探っていく。
「負ける」ことを目標と定めつつも、国吉は次の対戦ではAIが圧勝するだろうことを既に悟っていた。
手の動きに宿る知性みたいなものを探求する話で、人間とAIの間にどのような敬意が生じうるかみたいな話だったような気がする。
また、完全解がでてきたゲームはどうなるのか的な話もしている。
Stable DiffusionだのChat GPTだのが話題になっている2023年初頭に読むと、ゲームAIの研究はまだ続いているとはいえ、あー将棋や囲碁で人間とAIどっちが強いかで盛り上がっていた時期もあったなあ、と思ってしまうところがないわけではない。
棋士とAIの共存は今のところできつつあるように思うし。詳しくないのでよくわからんが。
とはいえ、じゃあこの作品は現実に追い抜かれてしまったのかというと、やはり、ロボットアームに着目したところで面白さはあるのかなとは思う。
ただ、ここらへんは瀬名作品独特の難しさがあって、どう読めばいいのかが難しい。
右利きと左利きの話とかな。
このロボットアームは、どちらの利き手にもなることができるんだけど、一方、国吉という男は左利きであるがゆえに、将棋を指すのを幼い頃にやめてしまった過去があるというエピソードがあったりして、そのあたり、物語としてどう解釈すればいいかな、と。

144C

新米編集者が研修でメンターから、小説を書ける人工知能の開発史について教わる
小説の書ける人工知能の開発にあたって、ある1人の小説家が協力した
ストーリーの創作には、寓話を使うのがよい、というのが分かるきっかけになったのは、皮肉にも、読者は新しいもの(創造性)など求めていないということにその小説家が気付かされたから。
「人間らしさ」とは何かを問いかけてくるメンター

きみに読む物語

理系の大学を出た後、出版社の編集者になった主人公の「私」(優子)が、同じ大学の文学部で心理学を研究していた知人の多岐川が生み出した共感指数(SQ)という概念により、世界が変わっていった様、あるいは変わらなかった様を語る。
人が物語に感動するのは何故か、というテーマを研究していた彼は、物語の登場人物への共感度合いという点に着目し、読者と小説それぞれに対してSQという指数を適用する。
SQの高い(低い)人は、共感する能力が高い(低い)。
SQの高い(低い)作品は、共感させにくい(やすい)。
なお、シンパシーは、共感した状態、エンパシーは、感情移入する能力のことを指し、SQもどちらかといえば能力を測定している。実際、作中でもこの指数はもともとEQと名付けられている。
その後、別の経営コンサルタントなる人物が、この概念をSQと呼びかえ、大々的に宣伝したことによって、世界に広まることになる。
共感させやすい作品というのは、文脈が細かく解説されている作品とされている。つまり、この登場人物はこういう人で、過去にこういうことがあったがから、今、この出来事に対してこう思っているみたいなことが説明されている作品は、読者も共感ないし感情移入しやすい。こういう文脈の説明が多いのがいわゆるエンタメ作品で、少ないのが文学作品だ、とも。
また、ここではざっくり共感と書いたが、概念としては、シンパシー、コンパッション、エンパシーがある。
世界にSQという概念が広まることで、色々な作品や、あるいは文学賞の審査員のSQが次々と明らかにされていく。SQに対する反発も強まるが、SQのない世界には戻れなくなっていく。
そうした世界の変化を、主人公は編集者として見ていくことになる。
ところで本作では、「物語の感動は計量化できるのか」というテーマと「世界の価値観の変化とSF」というテーマの2つが並行して走っている。
世界が未来に進むとは倫理が変化することで、人類の大多数がテロリストになったときだ、と述べているところがある。
ある何らかの技術の誕生が倫理観の変化を引き起こし、その変化をテロとして表現するのは「希望」とも通じるかもしれない(「希望」は実際にテロが起きる、本作は単にテロリストという言葉を使ってるだけ、という違いはあるが)
主人公は、学生時代に、多岐川と2人でSFコンベンションに参加したことがある。
主人公は全くSFファンではないのだが、そこで、SFファンタジー作家協会長である今井を知る。これが明らかに瀬名秀明本人をモデルにした人物だったりする。本作は2012年が初出なので、まさに瀬名がSF作家クラブ会長やっている最中に書かれているわけだが、コンベンションのなかでちょっと腫れ物に触るような扱いになっている描写があって、複雑な気持ちになる。
さて、本作は冒頭と末尾で、主人公が「きみ」に語りかけている体裁をとっている。
普通に考えると主人公の娘っぽいのだが、実はAI育ててたりするんじゃないだろうな、と勘ぐってしまった。

すっかり忘れていたけれど、以前読んだことがあった。 
『SFマガジン2012年4月号』 - logical cypher scape2

ポロック生命体

こちらは、絵画生成AIの話。ただし、この作品の初出は2019年~2020年の連載であり、今流行りの画像生成AIとはちょっと違う(技術的には同様のものだが)
亡くなった画家と同じ画風の作品を生成するAIが登場してきて、2016年ころのネクスレンブラントとかを念頭においていると思う。また、美空ひばりAIとかも作中で(固有名詞は伏せているけど)言及されている。
若手のSTS研究者でAI倫理を研究している女性(水戸絵里)が主人公
石崎という研究者が、5年前に亡くなった抽象絵画の画家・光谷一郎の画風を模倣した絵画生成AIで新作を発表し始める。水戸の友人である光谷の孫娘が、水戸にそのことを相談してくることから物語が始まる。
水戸は自分の後輩である飯島と、石崎がAIに作らせている作品と光谷の作品を調べ始める。
そして飯島は、作品の「生命力」の指標化に成功し、石崎のAIが単に光谷の作品を模倣しているのではなく、光谷よりも「生命力」を上回った作品を描いていることを見出す。
この「生命力」というのは、絵画作品の中のリズムを指標化したもので、作家人生の中にピークがあることを、飯島は見つける。AIは、作家が老い、衰えなかった場合、どのような作品を生み出すことができたのか、というシミュレーションになりうるのか、ということが問われ始める。
光谷は生前、小説家の上田猛とタッグを組み、上田作品の装丁を手がけたことで有名であったが、実は、石橋は上田の息子。上田も故人となり、石橋はAIを使って上田の新作も発表するのである。
石橋がAIで作る作品は、絵画も小説も、いずれも故人が生前に作っていた作品よりも優れた作品だった。
故人の作風を模倣して創作を行い、あまつさえ故人以上の傑作をなしてしまうAIの登場に、人々は様々な反応を示す。
石橋は自殺し、人々はAI上田の新作について黙殺するようになった。その一方で主人公は、石橋から遺された動画から、光谷と上田が積極的に石橋のAIの学習に協力していたことを知る。
作品に宿る生命が作家を生かし未来へつなぐのではないか、ということに主人公は希望を見出す。
タイトルのポロック生命体は、石橋の自らのAIに対しての呼称


きみに読む物語」と「ポロック生命体」はよく似ている
まず、テーマやモチーフがよく似ている。
作品の魅力がもし定量化されるようになった時、社会の芸術創作に対する倫理観・価値観が揺らぐのではないか、ということを描いている。
それだけでなく、登場人物の配置も似ている。
まず、主人公はいずれも、文理横断的なバックボーンを持つ女性であり、社会を動揺させることになる新技術を開発した男性研究者と親しい。また、学生時代の同性の友人が物語を動かすために時々出てくる。
そして、業界と距離をとる理系作家が出てきて、主人公は、この作家に話を聞きたいと思いつつなかなか聞けない。そして、終盤でこの作家がキーパーソンになる。
というあたりが、この2編でほぼ同じ。
ただし、上で「社会を動揺させることになる新技術を開発した男性研究者」と書いたが、「きみに読む物語」では多岐川1人なのに対して、「ポロック生命体」ではこの役割は石橋と飯島の2人に分かれている。
主人公にとって、多岐川は同期、飯島は後輩だが、それぞれ2人で出かけるシーンがあり、デートっぽく見えるけれど男女の関係ではない、ということがわざわざ宣言されたりする。
上のあらすじでは省略したが、「きみに読む物語」では、主人公と多岐川を繋げる役目をした友人がいて、「ポロック生命体」には柾目という作家が出てきて、登場人物たちに影響を与えている。