分離された虚構的世界と視覚的修辞

『フィクションは重なり合う』のAmazonページに、実はレビューが書かれているのを最近知って、ちょっとそれに対する応答をしつつ、ちょっと気になっていることをメモしておきたい。

2.2.分離された虚構世界の
> 例えば、TVアニメ『四月は君の嘘』の22話(最終回)「春風」における演奏会演奏会のシーンを取り上げてみよう。主人公の有馬公生が演奏会でピアノを演奏しているのだが、シーンの途中から公生とピアノがステージ ではなく、水面上に置かれている映像へと変わる。ホールの様子は消えて、水平線の広がる水面上で公生が演奏している映像である。

この映像について、著者はこれをフィクションの世界の中で起きていることだと主張しています。
『フィクションは重なり合う』カスタマーレビュー「大事なところを「明らかだ」で済まされてしまった」


この点について、2つの応答の仕方がある。

  • 四月は君の嘘』の映像において、「水面上で公生が演奏している」が虚構的であるのは自明である。
  • このレビュアーの指摘はかなりよいポイントを突いていて、論じ切れていない点が残っている。

相反するような応答なのだが、どちらも自分にとってはこうだろうと思われることです。

「水面上で公生が演奏している」が虚構的であるのは自明

これは正直、用語法の問題みたいなところがあって、こういう定義でこの用語を使うと自明にならざるを得ないのではないか、と思っているのだが、まあしかし、その定義を採用するのが適切だったのか、みたいな問題はあるので、説明は必要であった。
まず、本論では、「Pがこの画像・映像の内容である」ということと、「Pがこの画像・映像を用いた作品において虚構的真理になっている」ということをほぼ区別していない。
というのも、本論はウォルトンのメイクビリーブ論に大きく依拠しており、ウォルトンの従うのならば、画像・映像の内容=虚構的真理である。
ウォルトンによるこれは、問題があって、本当はちょっとこのままでは採用できない。
ただし、一般にウォルトンのこれが問題なのは、ノンフィクションの画像・映像もあるから、という理由による。
四月は君の嘘』がフィクション作品であることは予め分かってるし、フィクションの画像については、メイクビリーブ説あり、という意見もある(このまとめ方、ちょっと雑だが)。
で、「Pが、あるフィクション作品Wに使われている画像・映像の内容である」ならば「Pは、あるフィクション作品Wにとって虚構的真理である」というのは、僕自身は、あまり問題ないのではないかと思っている。
ここで、「Pは虚構的真理である」という時に僕が想定しているのは、「Pは事実ではない」ということと「Wについて記述する際にPが用いられる」というようなことである。
後者についていうと、「『四月は君の嘘』の22話には「水面上で公生が演奏している」シーンがあった」という記述が、正しい記述になっている、ということである。
一方で、例えば「『四月は君の嘘』の22話には「山の上でで公生が演奏している」シーンがあった」とか『四月は君の嘘』の22話には「水の中で公生がダイビングしている」シーンがあった」とかいった記述は、間違った記述であり、当然ながら「山の上でで公生が演奏している」や「水の中で公生がダイビングしている」は虚構的真理にはならない。


ただし、このラインの説明については、実はすでに松永さんからもツッコミが入っている。

「分離された虚構世界」概念を使って説明したい事柄はよくわかるが、それを「虚構世界」(あるいは「虚構的真理」)と呼ぶ必要性がよくわからない。つまり、ふつうに「内容」じゃだめなのかということだ※4。

単純な例を出せば、当の虚構世界上で明らかに偽の事柄q(たとえばある人の妄想の中身)を偽として描く場合にも、受け手はqを想像する必要がある。で、ふつうそのqを「虚構的真理」とは呼ばないだろう。

シノハラユウキ「フィクションは重なり合う」について - 9bit


で、この指摘に対しては、「うーん、確かにそれでも別に、論旨にさほど影響は与えないな」と思う気持ちと「もうちょっと頑張りたいな」という気持ちがある。
前者についていうと、そもそも、そうかqは虚構的真理とは呼ばないのか、というのをこの指摘をされて気付いた、というところがある。
ウォルトンは、虚構的真理をMMBでは想像するよう指定されている内容、というふうにしか定めていないので、qも虚構的真理のように見える。
もうちょっというと、「q」という虚構的真理と、「qが妄想である」という虚構的真理があって、入れ子構造になっているイメージ。
これ、真理っていう言い方がわかりにくさを増している気がして、フィクションの中にさらにフィクションがある、というイメージ。
逆に(?)、ある作品の大部分(例えば、主人公が大冒険をする)が主人公の夢で、最後に「実は全部夢でした、主人公は冒険していません」というオチだけが付けられているとき、主人公が冒険していない世界の中に、主人公が冒険した世界(主人公の夢の中の世界)がある、という入れ子構造になっているという想定をしており、そのどちらの世界の出来事も、その作品の虚構的真理と言ってもよいのではないか、というふうにも思う。


一つの虚構作品の中に、世界が一つしかない、とは考えていなくて、世界が複数あると考えている。
で、『フィクションは重なり合う』で一番言いたかったことは、そういう複数の世界の関係は、必ずしも順序だった入れ子構造はしていないのではないか、ということだったりする。
妄想とか夢とか作中作とかは、基本的には、順序だった入れ子構造をとる(そうなってない場合もあるけど)。
で、そういう入れ子になっているわけではなくないか、というのを「分離された虚構世界」と呼ぶことにした、という話である。
SHIROBAKO』で、ミモジーとロロが喋っているシーンは、宮森の幻覚という形で、あの作品が主に描いている物語世界の下位に位置づけられる、わけではなくて、ミモジーとロロが喋っている世界が、別個に・並列に成り立っている、というイメージ。
でもって、二つの並列している世界が干渉しあうことがある=フィクションは重なり合う! という話がしたかったのである。


ただ、このような話をするにあたって、別に「世界」という概念を持ってこないとできないか、といえばそういうわけではない。
あるフィクション作品が描いている「内容」の中に、物語世界の中で成り立っている事柄と、成り立っていない事柄がある。
物語世界の中で成り立っているわけではないが、その作品の描いている「内容」であるには違いないだろう、と。


『フィクションは重なり合う』のポイントは、フィクション作品の中にある、物語世界の中で成り立っている出来事の部分と、物語世界の中では成り立っていないだろうという部分とを腑分けして、その上で、後者が前者とどういう関わり合いをしているのか、というところにある。
なので、2節はその準備段階として、『SHIROBAKO』には、どう見てもぬいぐるみのミモジーとロロが喋っているシーンがありますよね、『四月は君の嘘』には、どう見ても水の上でピアノを弾いているようにしか見えないシーンがありますよね、ということを確認している、くらいに捉えてもらって、「虚構世界において成り立っている」という言い回しを、それをなんか言い直しているだけと思ってもらっても、よいのかもしれない。

もうちょっと頑張ってみる

先ほどのレビューに戻ると、最後にこのように書かれている。

「公生が水面上で演奏している」も物語とは直接関係のない、たんなるきれいな絵だと考えられないでしょうか。非常に洗練されており、フィクションの世界との継ぎ目に気づかない、そういうしかけになっているとは考えられないでしょうか。
一般論として、作家には「この部分は視聴者に物語を忘れて音楽に集中してほしい」という意図がありうることは(こちらこそ)明らかです。「水面上でピアノを演奏している」ことのおもしろさと、視聴者が能動的に演奏を聴く体験では、正直比べるまでもないかと思いますが。著者の分析が誤りだというのではなく、ためにする分析には意義は少なく、しかも鑑賞を遠ざけるということです。

まず、ここでは、虚構的真理であるかどうかは、それが物語世界内で真であるかどうかとは無関係であるというだけでなく、作品の面白さとも無関係。
繰り返すけれど、「水面上でピアノを演奏している」という内容の映像があり、しかし、その内容は物語世界内では成り立っていない、ということをまずは言いたいのであって、「水面上でピアノを演奏している」ことに、特に面白さはないと思っている。
一方で、その映像を一体どのようにして使うのか、というのはまた別問題で、それは3.1節で論じているところで、そこに面白さがあると思っている。


で、ああいう映像が、物語から離れて演奏に集中させる的な使われ方をされることが一般的、という、このレビュアーの指摘自体はもっともだと思う。
ホールにいる客を描くのではなく、なんか抽象的な空間を描いた「きれいな絵」にしてしまう手法は当然ある。ただ、『四月は君の嘘』のあのシーンは、そういう手法で使われていないように思える。
先に言ったように、画像・映像の内容=虚構的真理という定義にのっとれば、理屈の上では、仮に「たんなるきれいな絵」であっても、その絵の内容はやはり虚構的真理であり、分離された虚構世界を作っていることになる。
ただ、そのこと自体は何一つ面白くはないので、そういう作品だったら、自分はここで取り上げていないし、分離された虚構世界論なんてものも作っていない。
「たんなるきれいな絵」を使って音楽に集中させる、というのではない、映像の使い方をしていると思われたからこそ、「分離された虚構世界」論の一例として、このシーンを紹介した。


この最終回のシーンが「たんにきれいな絵」ではないのは、公生が、いままさに死の床についているかをりと出会って合奏するシーンがそこで描かれているから。
あのシーンは、フィクションを忘れて音楽に集中してほしい、というシーンではないと思う
公生とかをりの間の音楽で結ばれた絆、とでもいうべきものを描こうとしているシーンで、だからこそ感動的なのではないか、と。
公生はホールで演奏している、かをりは病院で今まさに死んでしまうところである。だから、実際には2人は合奏できない。
しかし、一方で公生は確かにあの場にかをりがいて、一緒に演奏してくれたかのような実感を抱いただろう。
ところで、それを公生の全くの空想の産物であったとか、公生が単にそう感じていただけに過ぎないとかではなく、実際に2人が一緒に演奏している世界を見せることで、2人の合奏が、ある意味では、より確かな事実であると思わせるところが、あのシーンの感動的なところなのではないかと、と言うのが自分の解釈。
もちろん、「ある意味では」というのがポイントで、物語世界内でかをりが突然病気が回復して会場にやってきたとかそういう話ではなく、物語世界内では2人の合奏は全く事実ではない。
しかし、視聴者の見た内容としてはそれは事実であった、ということにできてしまうのが、フィクションの面白いところなのではないか、と。
つまり、『四月は君の嘘』という作品は、物語としては「公生とかをりがもう一度合奏すること叶わず死別してしまう世界」を描くと同時に、他方で、「どこでもない水面上で、公生とかをりが合奏することのできた世界」を描いているのだろう。そういう世界を、物語上は一切成り立っていないにも関わらず(そしておそらく公生の妄想だったというわけでもなく)、しかし鑑賞者は直接見ることができてしまった、という点に感動のポイントがあるはず。
で、後者の世界は物語世界では当然ないのだが、虚構世界ではある。
「非常に洗練されており、フィクションの世界との継ぎ目に気づかない、そういうしかけになっているとは考えられないでしょうか。」と言われているけれど、むしろ逆で、「きれいな絵」だと思っていたら継ぎ目に気付かないままに別のフィクションの世界に連れ込まれていた、というのが僕のあのシーンに対する解釈だ。
そして、こう解釈するためには、やはり単に「内容」というより「(物語世界ではないが)何らかの虚構的な世界で成り立っている」という言い方をしたくなる。
なので、概念を先に持ってきて、それを当てはめるために分析しているわけではなくて、鑑賞した際の感動を説明しようとした時に、こういう概念が必要になってきた、というつもりではある。
ただ、概念の作りが甘いだろう、といえば、それは認めざるを得ないところなのだが。
また、一応このあたりは、松永さんにも多少フォローしてもらっているかな、と思っている。

シノハラさんが「分離された虚構世界」の事例として挙げるもののいくつかに関しては、そう言いたくなる理由はなんとなくわかるが、明確に述べられているわけではない。

このレビュアーの指摘はかなりよいポイントを突いていて、論じ切れていない点が残っている。

ここまで「水面上で公生が演奏している」ことが、あの映像の内容であることは自明であることにして、話を進めてきた。
そして実際、あの映像の内容自体は、「水面上で公生が演奏している」以外に記述しようがなくて、どうしてそういう内容だと言えるのか説明しろ、と言われることかなり困る。
しかし、とはいえ、実際に何が映像の内容と言えるのか、というのは本来フォローすべき論点だったと思う。


このレビュアーは3つの例を挙げてくれている。
(1)

古い映画では上映時間が長くなり、途中で「休憩」がはさまることがありました。(中略)休憩中は画面に大きく「休憩」と出ます。さてこれはフィクションの世界の中で起きていることでしょうか。カメラの前あたりと思われるところに「休憩」という字が空中に出現したのは虚構的真理でしょうか。

(2)

アニメにはアイキャッチがあります。これも同様に、真っ白なフィクションの世界が突如出現し、番組ロゴが立ち人物がにこやかにほほえむことが虚構的真理でしょうか。

(3)

ウルトラマン」ではハヤタ隊員が変身ポーズを取ったあと、赤い画面の奥手からウルトラマンがパンチのポーズで現れる映像になりますが、これも真っ赤なフィクション世界が突如出現し、ウルトラマンがポーズをキメるのでしょうか。

(2)について

アニメのアイキャッチ画像において、「真っ白な空間で、ロゴが立っていて人物がにこやかにほほえんでいる」ことが虚構的に真なのは、トリビアルに正しいと思う。
「真っ白な空間で、ロゴが立っていて人物がにこやかにほほえんでいる」ことは、このアイキャッチ画像の内容に他ならないし、その内容は、事実ではないという意味で虚構なので。
こういうミニマムな虚構、というのは、あちこちにあるだろうと思う。
ただただ「真っ白な空間に人物がほほえんでいる」という内容だけしかもたない虚構であり、そういう虚構があること自体は、それほど驚くべきことではないように思う。
こういう虚構は、あまり他の虚構ともかかわりが薄いように思える。
ただ、「真っ白なフィクションの世界が突如出現し」という言い方はちょっと気になるので、訂正しておくと、「「真っ白な空間に人物がほほ笑んでいる」ということが、ある虚構世界において成り立っている」ことは、「どこかの世界において、突如真っ白な世界が(新たに)出現する」ということは別に意味していない。
例えば、『はてしない物語』の作中には、ファンタージェンという世界が成り立っているが、僕が『はてしない物語』を読むとき、突如ファンタージェンの世界が出現してくるわけではない。

(1)について

文字の話はちょっと面白いところではあると思う。
ここで例に出ている「休憩」の場合、しかし、普通に文字が投影されているわけであって、文字が宙に浮いているという内容の映像になっているわけではないと思う。なので、文字が空中に出現したことが虚構的真理になっているわけでもないだろう。
例えば、普通の本を読むときに、文字の書かれているページは、白い空間上に字が浮いているという画像だとは普通認識されない。
これが紙ではなく、スクリーンやモニタになっても同じことだろう。
ところで、これが例えば「皆の衆、休憩すべし」というような文だったとしたら、登場人物のセリフだと解釈して、「その登場人物が「皆の衆、休憩すべし」と言っている」ことが虚構的真理になる可能性はある。
一方、個人的に、ややこしいなと思う例はむしろ、スターウォーズの冒頭のあらすじ字幕である。
宇宙空間の上で、文字が奥の方へと飛んでいくように流れていくアレである。
あれもまた、文字送りな特殊なだけで、ページ上に印刷された文字列と同じもの、として見ることもできるし、実際そのように見ている人も多いと思うが、「宇宙空間を文字型のオブジェクトが隊列をなして次々に飛んでいく」という内容の映像として見ることも不可能ではない。
この場合、スターウォーズはその冒頭において、「文字が宇宙を飛んでいる」という虚構が成り立っている、という奇妙な主張が可能になる。
これは奇妙な主張なのだが、僕は現時点で、この主張をうまくブロックできない。

(3)について

これについて、(2)と同様に、そういうミニマルな虚構が成り立っているという考えることもできなくもないと思う。
が、そもそも「赤い空間をウルトラマンが飛んでくる」という内容の映像なのかどうか、という点が気になる。
例えば、白黒写真は、「白黒の人間がいる」という内容を持つわけではない。白黒写真であっても「肌色の人間がいる」ということがその写真の内容となる。
あるいは、ピントをわざと甘くしてぼやけた映像にしたり、ノイズを入れたりするような画像・映像も同様だろう。これらは映像の上にかけられた効果であって、「輪郭がギザギザしている顔の人間がいる」ことを内容としているのではない。
ウルトラマン変身シーンの、画面の赤さもこれに類するケースのように思われる。


ここで、自分が画像の内容になっているかどうかの指標として考えているのは、奥行きの知覚経験があるかどうかである。
これは、定義であるとか必要条件であるとか考えると、ちょっと問題があるので、あくまでも指標・手がかりとして考えるにとどめるけれど
画像には、フラットなものである表面と奥行きのある描かれた対象の、二面性がある、と。
で、画像の内容というのは後者を指す。
文字表象は、奥行きのある知覚経験がなく、二面性をもたないので、画像ではない。だから、画像の内容も持たない(文字としての内容はもちろん持つ)。
ところが、文字が宇宙空間を飛んでいく様子自体は、奥行きのある知覚経験をもたらしていて、画像になっているように思える。
逆に、わざとぼかしたピントやノイズ、あるいは画面を赤くすることは、画像の表面に属する性質であると思う。だから、ピンぼけは、その画像が持つ性質ではあるけれど、その画像の内容ではない。

視覚的修辞

さて、ここにきてようやくタイトル回収なのだが、画像の内容を特定するにあたって、視覚的修辞が問題になってくるように思える。
aizilo.hatenablog.com
上記の記事で紹介されている、アボガド6の『心配事』について、村山は「『心配事』の視覚的修辞:〈万力に頭を挟まれること〉は画像内容に含まれず、それを媒体として獲得される〈頭を締めつけられる感覚〉は画像内容に含まれる。」と述べている。
〈万力に頭を挟まれること〉は、表面に属する性質ではなく、明らかに奥行きのある知覚経験の中で捉えられていることであるが、しかし、これを画像による修辞として捉え、画像内容に含めない、というのが視覚的修辞の考えである。
この考えは、確かにある種の画像を説明するのに、適切な概念であるように思う。


アボガド6の絵のように一枚絵の場合、特に問題はない。
しかし、例えばマンガ作品の中で、ショックを受けたことを示すために、銃で心臓を撃ち抜かれているところが描かれたシーンがあるとする。
これは、視覚的修辞であり、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことを画像内容に含めないのは妥当であるように思える。
一方で、分離された虚構世界論の枠組みを使うと、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことを画像内容に含めると考えてもよくて、「銃で心臓を撃ち抜かれている」ことが成り立っている虚構もあって、その虚構が、物語の中で登場人物がショックを受けていることを比喩的に表すために使われている(これもある意味では、重なり合っている)と言えなくもなさそうなのだ。
もちろん、こういう一枚の絵でおさまる場合、視覚的修辞で説明する方が絶対合理的だと思う。


しかし、分離された虚構世界なのでは、と思う例もあると思う
例えば『イノサン』で、マリー・アントワネットが日本の高校に通っているシーン
むろん、『イノサン』はアントワネットが日本の高校に通っているという物語ではないし、また、アントワネットの妄想や夢のシーンというわけでもない(アントワネットが現代の日本の高校を知っているわけではないし、そもそも出来事自体は、親しかった者が立ち去っていくというアントワネットの身に実際に起きたこと)。
あれは、シーン全体として、物語内のアントワネットに起きた出来事についての修辞的表現になっているだと思う。アントワネットが仲良くしていたお友達に逃げられることやアントワネットの幼さやを、高校生の友情の薄さ(?)や高校生の幼さに喩えている、のではないかと。
ただ、視覚的修辞の例と違うのは、この数ページだけを取り出すと、アントワネットが日本の高校に通っているマンガとしても読めてしまうこと。『イノサン』という作品全体がどういう物語か知らないと、あれが修辞なのか、「もしアントワネットが日本の女子高生だったら?」的なマンガなのかが判断できない。
つまり、「アントワネットが日本の高校に通っている」という内容の虚構があって、それをさらに、『イノサン』の物語の中で起きたアントワネットの出来事の比喩として用いている、のではないか。
分離された虚構世界の用いられた方の一つの例では、と。
視覚的修辞は、一枚絵として見て、それと一応判断できるはず(そもそも分離だし)。
(これ、松永さんが、分離という現象と類比が成り立っていないよね、と言っていたことそのものかもしれない)

平松和久「キャラクターはどこにいるのか――メディア間比較を通じて」(『サブカル・ポップマガジンまぐまPB11』)

以前、松下哲也「ビアズリーの挿絵はマンガの形式に影響をおよぼしたのか?」(『ユリイカ2019年3月臨時増刊号』) - logical cypher scape2で読んだ平松論文で、平松の4空間論というのが気になったので、こちらも読んでみた。
タイトルにある通り、キャラクター論であり、4空間論を踏まえつつ、マンガに限らないキャラクター論の枠組みを考えるというもの

はじめに
マンガと他ジャンルの違い
異世界構築とキャラクター
小説と他ジャンルとの違い、そして図像無きキャラクターについて

4空間について

まず、平松のいう4空間とは何か
「解釈空間」「メディウム空間」「場面空間」「物語空間」の4つ
まず、「解釈空間」というのは、簡単に言ってしまえば現実世界のことで、読者・鑑賞者が存在する世界のこと
メディウム空間」というのは、マンガであれば紙面、映画であればスクリーンなどのこと(マンガであればコマ空間、映画であれば映写空間と平松はメディアごとに呼び分けている。なお、小説についてもこの空間があるとされ、これを散文空間と呼んでいる)。
「場面空間」と「物語空間」は、二つ合わせて「フィクションの空間」ともされている。作品によってあらわされている虚構世界のことを指している。「場面空間」と「物語空間」の違いは、この論文だけだとあまりよく分からないのだが、おおよそ、場面空間が空間に、物語空間が時間に対応しているように思われる。


ここでのポイントは、解釈空間からは、メディウム空間を見ることはできるが、フィクションの空間を見ることはできず、
また、フィクションの空間からは、解釈空間はおろか、メディウム空間も見ることができない、ということだろう。


この論文タイトルにある「キャラクターはどこにいるのか」に対する答えは、本論文の半分当たりで出てくる。
後半は、やや応用的な例をいくつか挙げている。

キャラクターはどこにいるのか

答えから先に書くと、メディウム空間にいるということになる
答えというか、平松論ではそのように定義されている、という方がよいか。
まず、平松論では、登場人物≠キャラクターとなっていて、区別されている。
登場人物はフィクションの空間に存在していて、鑑賞者からは直接見ることができない。
鑑賞者から直接見ることができるのはメディウム空間で、メディウム空間にあって、フィクションの空間にいる登場人物を指示しているもの=キャラクター、ということになっている。


マンガのおいて、キャラクター図像はコマ空間にある、と
さらに、別のメディアではどうかということで、映画・舞台・アニメーションが検討されるが、例えば、映画の場合は、登場人物を演じる俳優の映像が、キャラクターの図像と同等なものにあたる。
ここでは、金田一耕助石坂浩二が演じていたり古谷一行が演じたりしている例をあげている。鑑賞者からは、金田一耕助石坂浩二の顔として知覚されるが、フィクション世界の登場人物たちからは、おそらく金田一耕助石坂浩二の顔はしていないだろう、と。すなわち、金田一耕助を演じている石坂浩二というのはメディウム空間に位置するのだ、と。

擬人化キャラクターと擬獣化キャラクター

ディズニーに出てくるようなキャラクターと、アート・スピーゲルマンのコミック『マウス』に出てくるようなキャラクターが対比されている。
前者は、動物が人間の表情豊かなキャラクターとして描かれているもの
基本的に、キャラクターと登場人物は同じ見た目である保証はないが、ディズニーなど動物を擬人化したキャラクターの場合、限りなく等しいと考えられる。
サンリオのキャラクターやくまモンひこにゃんのようなゆるキャラなど、物語がなく着ぐるみなどでのみ存在しているようなキャラクターを、ここでは、ノンフィクショナルキャラクターと呼んでいて、物語がなくとも成立するキャラクターだとしていて、そういうキャラクターのあり方をしているから、フィクションの世界とも見た目が一致するだろう、ということらしい。
また、こうしたキャラクターのいる世界は、現実世界とはかなり様子の異なる異世界になっているだろう、とも。
一方、『マウス』に出てくるキャラクターは、動物の擬人化というよりは、むしろ人間の擬獣化で、人間の姿で頭だけネズミになっているのだけど、むしろこれは人間を比喩的に表現しているのであって、フィクションの空間では人間の姿をしているのだろう、と述べている。

感想

  • 「キャラクター」について

既に述べた通り、平松論では「登場人物」と「キャラクター」が区別されている。
ただ、あまり一般的な区別ではないように思える。確かに、ゆるキャラなど、物語の登場人物ではないキャラクターもいるので、区別したい気持ちも分かるし、日本語の語感だと確かに何となく違うものを指しているようにも感じられる。
とはいえ、登場人物を英訳するとcharacterなので(このことについても言及はされているが)、ややこしさがある。
個人的には、松永さんのDキャラクターとPキャラクターの区別を用いてもいいのではないか、と思った。
「登場人物」がDキャラクター、ここでいうキャラクターが「Pキャラクター」
『フィルカルvol.1no.2』 - logical cypher scape2

この論文では「キャラクター」と「キャラクター図像」という言い方が両方出てくるが、どのように区別されているのが読み取れなかった。
この二つはもちろん違うもので、Pキャラクターは、キャラクターの図像ではない。
ここで気になってくるのは、メディウム空間というものとしてどういうものが想定されているか、ということである。
マンガの「コマ空間(紙面)」や「映写空間(スクリーン)」という表記があり、いわば、画像の表面が想定されているようにも思えるのだが、そうだとすると空間という言い方とは齟齬をきたす。
(マンガであれ映画であれ)画像というのは、その表面(二次元的なそれ・平面・線や染み)と、画像によって描き出されている三次元的な対象との二面性がある、とされる。
コマの枠線であったり吹き出しであったりは、表面に属するように思われる(もっというと、そもそもそれらは二面性を有しているわけではないので、画像ではないが)
キャラクターの図像という時、何を指しているかは微妙で、文字通りキャラクターの画像という意味であって、その画像の表面だけを殊更指しているわけでもないように思えるだのが、あえて図像という場合、二次元的なそれであるということを意味しているようにも見える。
そして、キャラクターは実際には立体的なものである。Pキャラクターというのも、画像によって描き出されている立体的なものの方のことだろう。

  • フィクションの空間について

平松は「場面空間」と「物語空間」とに分けている。
上述したように、この区別が厳密に何を指しているのか分からなかったのだが、空間と時間を指しているように思える。
しかし、だとすれば、どちらも等しくフィクションの世界の要素なのであって、空間が二つあると考える理由がよく分からない。
これ、由来するものの違いを反映しているのかな、とは思った。
「場面空間」を指示しているのはマンガにおける絵の部分
「物語空間」を指示しているのはマンガにおける言葉の部分、というようように。
ただ、それは、コマ空間によってそれぞれ異なる領域なのであって、フィクションの空間において異なる領域に分かれているのかどうかはよく分からない。分かれていないような気がするのだが……。

これ面白くて、同じ動物を人型に模したキャラクターだけど、片や人間を比喩的に表現したもの、片や本当にそういう二本脚で歩く動物となっているというのと、一体どうしてそういう違いが生じるのかという問題
個人的に今「視覚的修辞」と「分離された虚構世界」の関係に悩んでいて、それとパラレルな問題のように思えている。

日経サイエンス  2020年5月号

インドネシアで見つかった最古の洞窟壁画 K. ウォン(SCIENTIFIC AMERICAN編集部)

www.nikkei-science.com
獣と人の組み合わせである獣人を描いた絵として最古であるし、狩りの「場面」を描いているものとしても
年代測定に幅があって、その一番古い方の値をとると、最古ということになる
7mだかの洞窟の中でも高い位置にあり、また、それ以外に人が住んでいた痕跡はない。
ヨーロッパの場合、洞窟の奥深くに描かれているが、こちらは洞窟の入り口付近。しかし、いずれにせよ、壁画のためだけに使われている特別な場所っぽい。
骨は出ていないので、描いたのが誰なのかはわからないが、さすがにホモサピだろう
一方、疑いの意見も出ている。
まず、壁画全体を年代測定したのではなく、一部を測定しただけ。人と思われる部分と動物と思われる部分で大きさが違いすぎていて、あとから書き足されている部分があるのでは、と。ヨーロッパの壁画でも数千年後に描き足されているとかあるらしい。「場面」を描いているとは言い難いのではないか、とか。
あと、そもそも人を描いていると言えるのかも怪しいという意見もついているようだ。

生と死の境界を考える C. コッホ

www.nikkei-science.com

死というのが不可逆な過程であるとして、技術の進歩によりそれは変わりうる
脳死は今は人の死とされているが、技術の進歩でそれも変わるかも。というのも、首を切断されたブタの脳が、その後、再び活動したという実験結果がある。
栄養を消費した、というような活動であって、高度な神経活動が復活したわけではないのだけど、ただそれは、神経活動を抑制するような薬を入れての実験だったからであり、もしそうでなかったらどうなったかは分からないとかなんとか。
ところで、コッホはヴィーガンらしい

Shaun Nichols ”Imagining and Believing: The Promise of a Single Code"

philpapers.org

Journal of Aesthetics and Art Criticism 掲載で、中身もフィクションの美学に関わる内容だが、筆者の専門は心の哲学のようだ。
ティーブン・スティッチと共同研究しており、この論文自体は単著だが、スティッチとの共同研究に基づいている。
ウィキペディアによれば、スティッチの指導のもと博士号を取得しており、心の理論に関わるような共同研究を行い、2003年に共著を出している。なお、この論文は2004年。
Shaun Nichols - Wikipedia
Stephen Stich - Wikipedia



フィクションの哲学の主流において、想像と信念は区別されているが、ここでは、想像と信念のシングルコード理論というものが紹介されている。
想像と信念は、機能は違うが、同じコードで書かれており、同じ内容を持つというもので、フィクションの哲学で論じられているいくつかのパズルについて、説明を与えられるというもの。

1.FICTION AND IMAGINATION
2. PUZZLES IN FICTION
i. Emotions and Fiction
ii. Emotion and Iteration
iii. Fictional Names
iv. Tacit Pretense
v. Imaginative Resistance
3. CONCLUSION

1.FICTION AND IMAGINATION

最初に、Leslieの実験が紹介される。
子どもに対して、空のコップを2つ用意し、片方をひっくり返して見せる。そして、満タンのコップと空のコップを指すように言うと、ひっくり返したコップを空、そうでない方を満タンという。
これは、コップに入っているふりと、コップが空になっているふりをしている。
が、もちろん両方ともコップは空なので、コップは空だという信念も有する。
ふり表象の内容と信念表象の内容が同じ
この2つは機能によって区別されるが、内容は同じとなることがある
これを、筆者とスティッチは信念と想像は「同じコード」だという(シングルコード理論)
同じコードで書かれているので、同じ認知システムで同じように処理される。
例えば、推論システムへの入出力と処理は、信念も想像も同じように行われる。
この説は、もともと「ふり」を説明するために作られたが、フィクションに対しても適用できる。
また、推論システムだけではなく、感情システムなども同様に働く。

2. PUZZLES IN FICTION

i. Emotions and Fiction

いわゆるフィクションのパラドックス
シングルコード理論の説明はシンプル。感情システムは、想像でも信念でも同じように働くので。

ii. Emotion and Iteration

例えば、作中でモンスターに追っかけられているシーンではらはらしていたのが、実は夢オチだったとなって、ホッとする。
とはいえで、夢だったこともフィクションの中の出来事で、どっちもフィクションなのに、反応が変わるのは奇妙なのでは、という問題
これも、シングルコード理論の場合、信念と想像でパラレル
実際に起きたと信じていたことが夢だったとわかれば、反応が変わる
同様に、(作中で)実際に起きたと想像していたことが(作中で)夢だったとわかれば、反応が変わるのだ、と
ところで、この問題、ウォルトンのMimesis As Make-beliveに載っていたらしく、覚えてなかったので確認してみた
心理的参加なしの鑑賞の節に書かれていた。ここは、装飾的な表象の話とかがなされているところで、二階のメイクビリーブでの参加は実際の参加にはなっていない、みたいな話をしていた

iii. Fictional Names

フィクション名に関するパズルについても、シングルコード理論から説明できる、という話はちょっと驚き。
ただし、フィクション名に関する意味論を与えることが目的ではなく、フィクション名が固有名と同じものだという直観があることについての説明が目的だとしている。
フィクション名は、一意の個体を指示しているように思える、記述に合致することが十分条件ではない、記述に合致することが必要条件ですらない、という点から、記述ではなく固有名とパラレルなものであるような直観がある。
フィクション名も固有名も同じコードで、推論システムにインプットされると、このシステムがどちらも同じように処理する。だから、フィクション名と固有名がパラレルだという直観を持つのだ、と。

iv. Tacit Pretense

ギャッツビーは、首を切られたら死ぬとか、髪の毛は1憶本よりは少ないとか、作中には明示されていないし、読者も明示的に想像はしていないけれど、暗黙的にはそうだと知っている内容について
カリーは、傾向性とかに訴えて説明しようとしているらしい?
Lycanによる暗黙の信念tacit beliefという用語を用いて、暗黙の信念と信じる傾向性being disposed to believeとを区別する。

v. Imaginative Resistance

想像的抵抗について
Moranは、道徳や感情的要素によって抵抗されているとしたが、想像的抵抗は、道徳や感情の関わらない、例えば数学でも起きる(2≠2は想像しがたい)
我々の推論システムがこれに抵抗するから。

3. CONCLUSION

シングルコード理論、色々広く説明できるでしょ、と
ただ、想像と信念には違いもあるわけで、それはまた別の個所で説明できるようにしたい、とも。

Deena Skolnick and Paul Bloom ”The Intuitive Cosmology of Fictional Worlds"

"The Architecture of the Imagination: New Essays on Pretence, Possibility, and Fiction"の第5章 
https://pdfs.semanticscholar.org/8a0a/bb1d0e73c11017ae923a844aa0a43c67ac62.pdf
筆者のポール・ブルームはイェール大の心理学者
複数のフィクション世界や、フィクション世界と現実世界の関係について、どういうふうに認識しているか、という話
なお、この本は、アイロニーについてカリーが、想像的抵抗についてウォルトンやメスキンが書いているようだ。
James Harold "The Value of Fictional Worlds (or Why 'The Lord of the Rings' is Worth Reading)" - logical cypher scape2の参考文献にあがっていたので、眺めてみた


基本線としては、ルイスやウォルトンが、フィクション世界を解釈する際に、まずは現実世界とできるだけ近い世界を想定する(ウォルトンが現実原理と呼んだもの)としていた奴が、似ている話かなと思う。
心理学的なフィクションの研究なのかなと思うけれど、この論文自体は、あまり心理学の実験結果とかが書かれているわけではない。
フィクション世界とフィクション世界との関係を、我々はどのようにとらえているのか、という点を考察しているという意味ではちょっと面白い


REALITY AND FICTION
THE RELATIONSHIPS AMONG FICTIONAL WORLDS
THE CREATION OF FICTIONAL WORLDS
CHALLENGES AND EXTENSIONS
 Crossovers
 Putting characters in the right world
 Errors versus alterations
 Porous boundaries
BEYOND FICTION

REALITY AND FICTION

フィクションと現実の区別という二値的なカテゴリは正しくない
バットマンスポンジボブはどちらもフィクションだが、互いに別の世界に属している。我々はバットマンにもスポンジボブにも実際に会うことができないが、同様に、バットマンスポンジボブと会うことは出来ない。
で、そういう区別を子どもも大人と同じようにしているか、という発達心理学的研究
少なくとも、フィクションと現実の区別は3歳から出来ているというのは既に多くの証拠があるところらしい

THE RELATIONSHIPS AMONG FICTIONAL WORLDS

(1)「~は~にとって現実である」関係:同じ世界にいるキャラクター同士の関係
(2)「~は~にとってフィクショナルである」関係」:別の世界にいるキャラクター同士
キャラクターが有している信念の推論が可能になる。バットマンはロビンが実在していると信じているがスポンジボブはフィクショナルだと信じている、など。
(2)の関係は非対称的。バットマンは「あなた」がフィクショナルであるとは思っていない。現実世界についてバットマンは何も知らない。フィクション間にも非対称性はある。

THE CREATION OF FICTIONAL WORLDS

フィクションの世界をどのように想像するか。
まずは、現実世界と同じ世界を仮定する。
次に、作品で書かれていること、ジャンルの慣習などから、修正しして調整していく。


まず、現実世界を仮定する、次に、現実世界には存在しないバットマンやロビンが存在するというように調整する。あと、バットマンの世界にバットマンについてのコミックや映画はないとか、『ミリオンダラーベイビー』の世界に俳優クリント・イーストウッドはいないとか。
こうしたworld creation理論がフィクショナルキャラクターの他のキャラクターについての信念についての我々の直観を説明する
異なる世界のキャラクター同士の関係について尋ねられた時、私たちは直接これらの世界の関係を計算するわけではない。ジェームズ・ボンドの世界に対して、我々の世界と同様に「シンデレラはフィクションである」ということをエクスポートしてもよいか、考える。これは、非対称性を説明する。シンデレラの世界は現実世界からより離れているので、「ボンドはフィクションである」ということを我々の世界からシンデレラの世界へエクスポートできない。

CHALLENGES AND EXTENSIONS

クロスオーバー

ウォルトンが述べているが、第3の世界を作る。
CSIとクロスジョーダンのコラボとか、バットマンスパイダーマンのクロスオーバーとかは、現実世界との違いが同じくらい(前者は大体現実世界と同じ世界だし、後者はスーパーヴィランがいるという点で似てる)なので、特に問題はない
しかし、リアリスティックなドラマである「ロー&オーダー」とスポンジボブの世界は、そもそもクロスオーバーが可能かどうかさえわからない。
クロスオーバーにおける類似度(likeness)は、フィクション世界のコスモロジーの組織化を反映している(現実に近い世界同士は近いとか)

Putting characters in the right world

現実かフィクションかをどのように区別するか。
→現実状態(reality status)の情報が多くの場合は明示されているが、そういう情報を欠く場合も多い。他の手がかりへのsensibilityを子どもも持つ。
現実世界に属しているものであるかどうか。フィクションの中で新しいキャラクターや生き物に出会ったら、現実世界にいるものと似ているか、フィクションの中にでてきたものと似ているかを、知覚的に比較する。知覚的性質を用いて、異なるカテゴリーへ分けるということは子どもにとってたやすい。子どもたちは、私たちと一緒に歩く漫画のキャラクターを見ることはないということを知っている。
現実かファンタジーかを区別する主な手がかりが類似度であるなら、リアリスティックなキャラクターがフィクショナルなのを理解するのは難しいだろうが、それは今後の研究の課題。
フィクションとリアルを区別できたら、残るは、キャラクターを正しい世界に配置することである。我々の理論では、新しい物語に触れるたびに新しい世界を作っているのだとしているが、その前に「物語」について確認。シャーロックホームズ作品は、どれも同じ世界に属してるはずなので、各作品を読むたびに新しい世界を作っているわけではない。物語は、1つの作品よりも広い。
1つの物語とは一体? 同じキャラクターがいるという方向で考えてみる。ホームズシリーズについてはうまくいく。しかし、同じキャラクターがいなくても同じ世界ということはある(例:スタートレック)。一方、同じキャラクターがいるのに同じ世界と思えない例もある。ジェームズ・ボンドは、原作小説の世界では(1950年代が舞台なので)、1920年代生まれでなければならない。しかし、映画版では、現代においてもまだ中年である。役者が変わるたびに新しい世界となっているのだろうか。だが、それにも問題がある。それぞれのボンドの間で歴史が共有されない。
解決法として、ボンドの本質的な性質と偶然的な性質を区別し、本質的な性質を持つが偶然的な性質を持たない(?)1つの世界を作る。
この解決法は、各小説や映画で様々なボンドを同じキャラクターとする一方で、同じ名前の別人が出てくる作品を別の世界に分けることができる(ジェームズ・ボンドという名前のダンサーが出てくる映画が仮にあるとして)
ボンドが黒人、女性、ゲイといった作品はどう考えるかは、難題として残る。が、これの難しさは、キャラクターの本質的な性質と偶然的な性質が何であるかという問題に起因しているということは分かる。この問題への答えは、新しいボンドが同じ世界に属しているかどうかで示されるだろう。

エラーvs変更

作者の誤りなのか、作者がそのような世界を作ったのか
ロバート・パーカーの小説は、ボストンが舞台なのだが、実際のボストンと道が異なっていた。これは、パーカーの間違いだろう。
マクウェインの小説『土曜日』で、物語の最後、バクスターという悪漢が若い女性の詩になだめられる。バンヴィルは、バクスターがこんな反応をするだろうか、マクウェインはバクスターの反応を間違ったのではないか、と批判した。重要なのは、マクウェインへの非難ではなくて、ボストンの道を間違うというような単なる間違いと、目的ある描写a purposeful depictionとを見分ける能力があるということ


Larsonの書いたコミックでは、蚊の夫婦が出てくるのだが、あるとき、読者からLarsonに対して、蚊で血を吸うのはメスであってオスではないという手紙があった。Larsonは、蚊が家に住んで服を着て英語をしゃべっているマンガなのに、蚊のジェンダーロールに気を遣うべきなのか、と応答した。しかし、Larsonは間違っている。現実から離れているといって全てが白紙になるわけではない。破られるべき現実のルールと守られるべき現実のルールがあることが期待されている。

Porous boundaries

フィクションと現実の境界の区別における孔
感情的反応におけるそれは、フィクションのパラドックスとして知られているが、それに限らない。フィクションを通して現実世界について知る・学ぶということもある。
こうした多孔性は、混乱をもたらす。ドラマの中の医者が言っていることを信じるなど。役柄に基づいて結論を下してしまうことを避けるのは難しい。
こうした混乱は、現実世界とフィクション世界が類似していることの重要性を示している。この類似により、現実世界について正しいことを知ることもできるが、だまされてしまうこともある。

Craig Derksen & Darren Hudson Hick "On Canon"

https://contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=832
James Harold "The Value of Fictional Worlds (or Why 'The Lord of the Rings' is Worth Reading)" - logical cypher scape2でカノンという言葉が出てきたが、ここでいうカノンというのは、西欧文学作品などにおけるいわゆるクラシック(古典)としてのカノン、のことではなくて、派生作品などの多い作品におけるいわゆる「正史」とか「公式設定」とか
シャーロック・ホームズシリーズにおいて、このカノンという言い方が使われるようになり、この論文では他にスターウォーズなど映画作品の例が多く紹介されている。
ポピュラー・カルチャー研究やファン研究と美学をあわせた研究という感じか
Published on March 27, 2018.

1. The truths of fiction
2. Holmes and canon
3. What is canon?
4. How canon works

1. The truths of fiction

デヴィッド・ルイスの論文にでてくる、虚構的真理がcarry overするという話
例えば、『緋色の研究』でホームズは熟達したヴァイオリニストであるというのが出てくるが、だとすれば「株式仲買店員」においてもやはりホームズは熟達したヴァイオリニストだろうし、「ギリシア語通訳」でシャーロックの兄であるマイクロフトが出てくるけれど、『緋色のけんきゅ』でもシャーロックの兄はマイクロフトである。
ところで、これらの例のあとに「A Scandal of No Importance」という作品が例として出される。実はこれ、ホームズもののファンフィクションで、どうもホームズとワトソンとのBLものらしい。で、これは1897年を舞台にしているのだけど、これを踏まえると、1903年の出来事を描いた「白面の兵士」でのホームズの発言が奇妙なものになるらしい。
で、これに対して「あなたはこう言うだろう。「A Scandal of No Importance」はファンフィクションだ! ドイルが書いたホームズとは別人だ。それはカノンじゃない、と」と書かれていて、まあ要するに、カノンとそうでないものとがあるよね、という導入に使われている

2. Holmes and canon

ホームズというのは、カノンについてシリアスな議論がなされるようになった最初の大衆文学
ドイルによって書かれて54編の短編と4編の長篇がカノンとされている
こうしたホームズのカノン研究を行った初期の1人が、ロナルド・ノックス
ノックスは「最後の事件」以後の作品は、カノンに含めず外典扱いしているらしい
理由は、ホームズのキャラクターの一貫性がなくなっているから
ノックス自身が聖職者であるため、聖書のカノン研究の基準がそこには使われている、と。
ここでポイントとなっているのは、人物の人格の一貫性などであって、誰が書いたかではない、ということ。


これのいわば逆の例として、スターウォーズが挙げられる。
新三部作は、ルーカスが作ったわけじゃないけど、スターウォーズのカノンではないという人は少ないだろう、と。


キャラクターの存在論はカノンの考察に洞察を与えるかもしれないってことで、トマソンの分析が軽く紹介される
ここで、トマソンは、キャラクタの同一性について必要条件は与えているけど、十分条件は与えられていない、と。で、トマソン十分条件っぽいものとして、性質の集合をあげているけど、それだけでは同じってことにならないのでは、ということを指摘して終わっている。
ここでは、ある作品がカノンなら、やはりカノンである他の作品と同一のキャラクターが描かれている、という形でカノンの特徴づけを行っていて、ちょっと面白いのだが、キャラクターの同一性条件とカノンの定義みたいな話は、ここでちらっとされているだけで、これ以降でてこない。

3. What is canon?

ここでは、法的な権利者・著作権者とカノンのオーソリティの関係について述べている
現代において、正統な続編が何かとかをコントールしているのは、確かに法的な権利者
でも、それとカノンって必ずしも一致しないのではないかと。
(Highlanderという映画が、続編作られるたびに、前の話がなかったことになってパラレルワールドになっていくという例が紹介されている。続編は法的にはオーソライズされているけれど、カノンとしてはどうなの的な例として。ところで、英語には、retconという「後付け設定」を意味する単語があるんですね)
そもそも、著作権以前に作られた作品やキャラクター(ロビン・フッドやサンタクロース)にとってカノンとは、みたいなことにも触れて、著作権とカノンのオーソリティは必然的な結びつきではないと述べている。
スターウォーズにおける「ハンが先に撃った」(これ、何のことかと思ったらウィキペディアにちゃんと項目があった。ハンが先に撃った - Wikipedia)。
1997年の特別編で、オリジナル版と場面が差し替えられているものがあって、これがファンの不興を買ったというもの。どうも、ルーカスの意図としては特別編の方がより正しいらしいのだけど。
T.クックとかヘンリー・ジェンキンスとかが言及されていて、ファンとカノンの関係というものがここで出てくる。

4. How canon works

この節はいくつかのことが書かれているが、節全体として何を言いたかったのか、いまいちよく分からんし、カノンのこと考えるのって重要なんだ、と言って終わっているだけのようにも見える。
まず、カノンの範囲について少し広げていて、作品・物語だけでなく、例えばマーベルのオフィシャル・ハンドブックとか、J.K.ローリングも小説以外に設定集みたいなものを出しているみたいで、そういうのもカノンの一種として受け入れられている、と。


虚構的真理と解釈という2つのアプローチがあるけど、解釈の方にもカノニカルなものとそうでないものがある(なんか、ディズニーによる「スターウォーズはこういう物語だ」みたいな解釈はカノニカルじゃない、というようなことが書かれている)
カノンかどうか、というのは解釈にも影響を与える、と(ここで再び「A Scandal of No Importance」に言及があって、これがカノンかどうかでホームズの感情についての解釈が全然変わる、と)。
ここらへんの話面白そうだなと思うので、1,2段落程度しか書いていなくて、あんまり大したことが書かれていない印象
最後に、こういう意味でのカノンについてってあんまり研究されてきてないけど、哲学者にとっても作り手にとってもファンにとっても、もっと気にかけるべきだ、みたいなこと書いて終わっている。

James Harold "The Value of Fictional Worlds (or Why 'The Lord of the Rings' is Worth Reading)"

ジェームズ・ハロルド「虚構世界の価値(なぜ『指輪物語』を読むのか)」
https://contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=584
この論文は、以前高田さんの記事で読んで存在を知った。
at-akada.hatenablog.com
で、存在を知ってから読むまでにもわりと間が空いているのだけど、それはいつものこととして、読んでからこのブログ記事書くのにもわりと間が空いている。
なお、論文自体はPublished March 10, 2010



フィクション作品・物語ではなくて、フィクションの世界にも価値がある、という話
サブタイトルに『指輪物語』とある通り、『指輪物語』を主たる例としつつ、スタートレックとかホームズシリーズとかに関する話をしている。
まず、前提として、アメリカでは『指輪物語』は批評家からの評価が低い、というのがあるみたい。にも関わらず、熱心なファンがいるけど、じゃあどこに価値があるのか、みたいな問題の立て方をしている。
その上で、作品自体に注目する批評家と、作品の向こう側にある世界に注目するファンという筋になっていて、で、作品とは独立して世界の方にも鑑賞する価値があるんだという話。

1. Introduction
2. Central Cases: Fictional Works That Fans Love
3. Valuing Fictional Works Instrumentally
4. It Can Be Reasonable to Value Fictional Works Instrumentally

2. Central Cases: Fictional Works That Fans Love

まず、この論文で扱われているのがどのようなケースか、というのを明らかにしている
中心的なケースには3つの特徴がある
(1)複数の作品が1つの世界について語っている。例えば、『指輪物語』『ホビット』『シルマリル』、あるいはスタートレックは複数のテレビシリーズが同一の世界について、また、シャーロック・ホームズシリーズも同様。
作者が同じでスタイルが同様というだけでは世界を共有しているのに十分ではないし、また、必要でもない。
(2)作品がエピソディック(挿話的)
ホームズやスタートレック。それぞれの話の間で時間がとんだりする。
(3)常にではないが、多くの作品は、我々の世界と様々な意味合いで異なっている世界を描く。こういう作品は、SFやファンタジーに多い。


この3つの特徴は、鑑賞者の関心を育てやすいという点で重要。(1)は、複数の物語が同じ「場所」について語っている点で、(2)と(3)の重要度は下がるが、物語ではなく世界へと鑑賞者の注意が向く点で


とりわけ、この論文は「ファン」というものが、批評家とは異なるどのような評価をしているか、ということに注目しようとしている

3. Valuing Fictional Works Instrumentally

ファンは、作中の出来事よりも、作品の舞台になっている世界へと興味を向けている
その根拠として
(1)世界を想像させるようなものを得るのにお金と時間を使う。スターウォーズで、メインキャラクターだけでなくサブキャラクターのドールも売れた件
(2)フィクション世界のパズル解決に励む。細部の矛盾の整合性とか。作品が増えれば細かいところで矛盾が出てきたりするものだけど、そういうところに注目するのは、世界に関心を持っているから。
(3)ファンフィクションの創作

4. It Can Be Reasonable to Value Fictional Works Instrumentally

最後の節では、ここでいう虚構世界とは一体どういうものなのかという点と、虚構世界に(作品とは区別された)どのような美的価値があるのかという点について論じている


虚構世界とはどういうものか、という説明のために、まずはウォルトンの作品世界とゲーム世界の区別を持ち出した上で、筆者は「ファン世界」なる概念を持ち出す。
この論文で検討されているケースは、複数の作品が一つの同じ世界を舞台にしているというものだが、
単純に、複数の作品の虚構的真理をあわせただけだと、作品間で矛盾が生じたりする。だから、何を想像すべきかをgovernするルールをもっと特定すること
ファンコミュティ(時に作家もコラボレートして)が、虚構世界として何を想像すべきかについて、明示的であれ非明示的であれ、相対的に安定した指示を創る。同意、基準、世界への関心の共有。
そうやって共有されているものを、ファン世界と呼ぶことにする。
カノンは改訂不可能だが、他のカノンと矛盾する場合、カノンのelementsは改訂できる。非カノン作品は改訂可能。カノンか非カノンかの基準は原理的に定めにくく、実践の問題。
ファン世界は、作品世界ともゲーム世界とも違って、相互のディスカッションと想像のコラボレーションで、ファンが集合的に想像している。


世界に美的価値があるとしても、それは作品が持っているものであって、それ以上ではないのではないか、といえばそうではないと筆者は主張する。
虚構世界が持つ美的価値が、作品のもつ美的価値から独立しているのには色々理由が考えられる。
(1)世界も作品も同じ性質を持っているが美的価値が異なる場合。例えば、『指輪物語』に出てくる叙事詩。作品にとっては、キャラクターの物語やテーマと直接関わっていなくて、混乱させるものだが、虚構世界にとっては、文化的・歴史的な複雑さを与えるもの
(2)作品の持っている性質を世界が持っていない。例えば、韻文で書かれた作品の詩的な性質を、対応する世界の方は持っていない。
(3)中心的なケースの場合によくあるのが、様々なメディアで展開されていて、多数の作品が1つの世界を記述している場合。作品は非常に多くの美的価値を持っているだろうけど、重要なのは一部で、ほとんどは重要さがはっきりしない。
(4)ファン世界は作品だけではなく、ファンコミュニティによっても作られる。作品にない想像の指定が暗黙的に作られたりしている。作品が持っていない美的価値を持つこともありうるだろう。またオープンエンドとなっている作品もある。文学作品にとって、オープンエンドはよいことも悪いこともあるが、虚構世界にとってはよい。
こうした理由から、虚構世界の美的価値はオリジナルとなる作品の美的価値に還元されない。
指輪物語』が文学的には価値があまりないとしても、虚構世界としては価値がある。