銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』

サブタイトルは「批評とジャンルの哲学」
批評というか、批評のことをも含む芸術鑑賞のことと、ジャンルについて
銭さんの博論の書籍化だが、博論からだいぶリライトしているとのこと
もともと、例えば応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2などで、もとになるアイデアについては触れていたが、こうして一冊の著作として読むことができてよかった
刺激的だし、ジャンル実践について説得力のある議論だと思った
一方、一般的な、通俗的な、あるいはぼく個人の直観とは異なるところもある。そうしたところへのフォローもなされてはいるのだけれど……。色々な人の感想も聞いてみたい。
自分はジャンルについての伝統説もそれなりに惹かれる

はじめに
第一章 批評とは鑑賞のガイドである
第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない
第三章 鑑賞とは卓越性の測定である
第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する
第五章 カテゴライズは単なる分類ではない
第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである
第七章 ふさわしいジャンルとは制度である
第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

はじめに

この本で何をどのように論じていて、何を論じていないかが書かれている。
さーっとひっかかりなく読んでいたが、ブログのために見直した際、本書では、経験主義を擁護することなく採用してる(が、その前提を今は疑っているとも)と書かれているのに気づいた。
アリストテレス的説明とか、あんまり経験主義的ではないのではないかと思ったのだけど、7章の鑑賞の最適化とかが経験主義なのかな。

第一章 批評とは鑑賞のガイドである

 1 批評とはなにか
 2 鑑賞ガイドではない批評があるとする反論に応答する
 3 批評ではない鑑賞ガイドがあるとする反論に応答する
 4 酷評も鑑賞ガイドなのか
 COLUMN 選択ガイドとしての批評

鑑賞ガイドではない批評や、批評ではない鑑賞ガイドもあるのではないか、という反論に対して答えている(必要性と十分性の検討)


批評ではない鑑賞ガイドもあるのではないかを検討する中で、サティの曲に対する2つの対照的な演奏を例に出して、こうした曲に対する解釈がなされた演奏も、サティの曲の鑑賞ガイドとして機能しているので、批評といえる、という主張がされている。
「批評的だ」と言われる時の用法の少なくとも一部は拾っているといえそうで、妥当だとも思える反面、批評っていうのはあくまでテキストであって、そうではないものを「批評的」とか「批評性がある」とかいうのは比喩表現なのではないか、と考える余地もある。
「鑑賞のガイド」という考えは、基本的にはしっくりくるのだが、「批評」という言葉の定義として用いるには広すぎるような気もする。


選択ガイドは批評ではない
どれを買えばいいよ、的な奴は批評じゃないよ、と。それも批評だというと、Amazonのリコメンドのアルゴリズムも批評ということになってしまう。

第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない

 1 芸術鑑賞は好き嫌いの問題なのか
 2 素朴な主観主義に反し、鑑賞は単なる好き嫌いの問題ではない
 3 ヒューム的説明――鑑賞は好き嫌いの問題だが、鑑賞者については有能さが問えるとする見解
 4 ヒューム的説明の問題点――理想的鑑賞者は一方で十分な権威を持たず、他方で過度な権威を持つ

主観主義に対して、芸術鑑賞には深刻な意見対立があるという事実と教育可能性の観点から、素朴な主観主義は成り立たないことを指摘している。
主観主義が支持されるのはむしろ客観主義への反発だろうとした上で、客観主義は「正解」があるということではない、としてその反発を和らげる。
鑑賞を説明する理論は「主観制約」と「客観制約」を満たす必要がある。


主観主義の代表例である「ヒューム的説明」
理想的鑑賞者により、客観制約を満たそうとする。


理想的鑑賞者の問題点

  • レヴィンソン

→なぜ「私」が理想的鑑賞者の意見を気にする必要があるのか
→快楽の最大化のため

  • ジェームズ・シェリー

→レヴィソンの説明は、過小評価をやめる理由にはなるが、過大評価をやめる理由にはならない

  • アレクサンダー・ネハマス

→画一化の問題(ネハマスの悪夢)

第三章 鑑賞とは卓越性の測定である

 1 鑑賞の客観的側面から出発する
 2 アリストテレス的説明――鑑賞は好き嫌いの問題ではなく、特定の目的に照らした測定だとする見解
 3 主観制約を満たさないことは美的なものと芸術的なものの区別によって正当化される
 4 アリストテレス的説明に残された課題――観点選択の問題
 COLUMN ムーア的説明?

鑑賞についての「客観制約」と「主観制約」
前者の方から鑑賞を考える


アリストテレス的説明=目的論的アプローチ
卓越性の測定としての鑑賞
芸術的価値の多元主義にコミット


主観制約を満たさない
→美的と芸術的を区別することで正当化


芸術的価値の多元主義
(1)卓越性は、ある目的を首尾よく達成できる限りにおける良さであり、端的な良さではない
(2)美的価値は、芸術の種類によって卓越性に寄与することもあれば、そうでないこともある
(3)有能な鑑賞者の普遍的な基準は存在しない(ネハマスの悪夢の回避)


アリストテレス的説明にとって、観点選択が課題


理屈としてはわりと納得できるが、感覚としてはなかなか
確かに、美的経験を伴わない芸術作品もあるわけだし、主観経験に重きをおくのもおかしいよね、というのは理解できつつ、しかし、「卓越性の測定」なんて実際そんなやってないのでは、という気もする。
もっとも「鑑賞」という言葉はそもそも多義的である、という予防線も張られているのだが。

コラム ムーア的説明?
  • ケレン・ゴロデイスキー

良いものは良いと世界の側で決まっているというムーア説を芸術へ拡張した
芸術作品に芸術的価値があるかどうかは世界の側で決まっている
芸術的価値は美的快楽を引き寄せる
美的快楽によって芸術的価値があることを知ることができる
芸術的価値について、形而上学的にも認識論的にも神秘化されている点が問題

第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する

 1 カテゴライズが鑑賞を左右するとはどういうことか
 2 反文脈主義から文脈主義への移行
 3 美的判断はカテゴライズによって左右される
 4 美的判断論から芸術批評論へと拡張する

ウォルトン「芸術のカテゴリ」解説
ウォルトン論文そのものだけでなく、論文が発表された当時の文脈や、論文発表後にこの論文に対してなされた解釈も紹介されていて、非常に勉強になる。
特に、2020年に、「芸術のカテゴリー」出版50周年記念でウォルトン自身も含めて再検討されていたのは面白い(ウォルトン自身、当時の自分の意図がわからなくなっているところがあったり、ほかの人の解釈に対してお墨付きを与えたり、していたようだ)

主観的テーゼ:作品を鑑賞するカテゴリー次第で、特徴への重みづけが変わり、知覚される美的性質も変わる
規範的テーゼ:作品には、そのもとで鑑賞するのにふさわしい特権的なカテゴリー(Nカテゴリ)がある。これは、文脈的なものを含む一連の考慮事項を通して決定される
認識論的テーゼ:カテゴリーに依存した美的判断にとって、狭義の知識は必要でも十分でもない。美的判断は知識を動員した推論ではなく、学習を経た知覚だけに基づいて下される。(pp.96-97)

認識論的テーゼについては、認知的侵入説と知覚学習説という2つの解釈があるが、前者ではなく後者だ、とも整理されている(ウォルトン自身が後者の解釈にお墨付きを与えている)。
ウォルトン論文は、反文脈主義から文脈主義へと美学の傾向が変わっていく流れの中に位置づけられている。
が、規範的テーゼが文脈主義的である一方、認識論的テーゼは反文脈主義的である、という複雑なところがある。


エリザベス・シェリケンスによる、美的判断の形成と正当化の区別
→ウォルトンは形成についてのみ述べている
ブライアン・リーツによる、カテゴリーが役割を果たすケースの場合分け
→カテゴリーは様々な役割を果たすが、ウォルトンはそのうちの一つのことしか言ってない


何故ウォルトンは美的判断の正当化に触れていないのか
→シブリーの非推論性テーゼを前提しているから
→ところで、シブリーは知覚的証明、という非推論的な正当化を主張している
→が、実際の批評実践において、正当化はなされているのではないか?
→シェリケンスは、美的判断の形成と正当化を区別することで両立を試みている
筆者:美的性質と非美的性質の正当化構造を実現しているのものこそ、カテゴリー

第五章 カテゴライズは単なる分類ではない

 1 ふさわしいカテゴリーと属するカテゴリー
 2 芸術作品は属するカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるとは限らない
 3 芸術作品は属さないカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるかもしれない――奇妙さからの論証
 4 純粋な認知主義との決別

  • NカテゴリーとCカテゴリーの区別

Nカテゴリー:ある作品をそのカテゴリーのもとで鑑賞すべきカテゴリー
Cカテゴリー:ある作品が所属するカテゴリー

  • NカテゴリーではないCカテゴリーはあるか

→ゲルニカス
→そもそもウォルトンがNカテゴリーを選ぶ考慮事項に意図や確立を挙げていた。Cカテゴリーの中からNカテゴリーを選び出すため。

  • CカテゴリーではないNカテゴリーはあるか

筆者は、革新的な作品における奇妙さのパラドックスを提示している
これがパラドックスなのは、NカテゴリーはCカテゴリーでもあるという前提の時
背理法的に、NカテゴリーはCカテゴリーではないことがあることが導かれる。
「4分33秒」は、古典音楽として聞くと奇妙な作品であり革新的であるが、コンセプチュアル・アートとして聞かれる場合はそうではない。そして「4分33秒」のCカテゴリーは、古典音楽ではなくコンセプチュアル・アートである。しかし、「4分33秒」は、奇妙で革新的な作品である。

  • 純粋な認知主義との決別

作品がどのカテゴリーに属しているかと、作品をどのカテゴリーのもとで鑑賞すべきかは別問題
=カテゴリーに依る芸術鑑賞(「カテゴライズ」)は、単なる「分類」ではない

第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである

 1 ジャンルとはなにか
 2 ジャンルとは作品を分類するための諸概念であるとする見解 
 3 ジャンルとは鑑賞を統制するルールであるとする見解
 4 作品はジャンルへと分類されるのではなく、ジャンルのもとにフレーミングされる
 COLUMN 1 伝統としてのジャンル?
 COLUMN 2 ジャンルとしてのカラー写真

カテゴリにも色々な種類(メタカテゴリ)がある。
メディウム、形式、様式、そしてジャンル
本書は、ジャンルを分類概念として捉えることに反対し、分類説に対して統制説を提案する。

  • 分類説

分類ルール:作品Xが性質Fを持つならば、XはジャンルKに属する。
ジャンルをほかのメタカテゴリからどうやって区別するか
追跡する特徴の種類によって区別できるのではないか
分類説の問題点 
→追跡する特徴が多様で、ジャンルというメタカテゴリの個別化ができない


ジャンル理論が捉えるべき二つの側面
(1)ジャンルは鑑賞や批評を左右する
(2)上述の規範的な効力と無縁でない仕方でジャンルは社会的


ジャンルは、評価、解釈、鑑賞的反応を統制する
ジャンルは批評的理由付けの背景となる

  • 統制説

鑑賞ルール:作品Xが性質Fをもつならば、Xに対して鑑賞的反応Rをせよ
鑑賞的反応=評価、解釈、想像、知覚、注意、共感、知識形成など
分類ルールは構成的ルール、鑑賞ルールは統制的ルール


リーツによる、カテゴリーが関与する場合分け
(1)直接的に関与的なケース(贋作とか)
(2)比較において関与的なケース(ヒッチコック映画とか)
(3)目的論的に関与的なケース
いずれもルール化できる


ジャンルのルールの明確化
(1)鑑賞ルールの入力には限度がある
(作品のあらゆる要素が入力になるわけではない)
(2)ジャンルのルールの出力ははるかに広い
(本書では「鑑賞的反応」と鑑賞者に限った話をするが、創作や編集、修復、キュレーションなど様々な関与を統制しうる)


ルールは何でもジャンルになるわけではない
有効なルールだけがジャンル
→ルールのセットアップ
作品の理由付けの背後にジャンルが位置づけられる
(このブラシストロークがあるから優美だ、というのが理由だとして、ブラシストロークが優美になりうるのはその絵画が印象派だから、というのが理由の背景にあるルール)
ジャンルをセットアップする社会的基盤とは何か?
→共有された信念? 人々のふるまい?


「この作品はホラーだ」という言明は、分類ではなく「フレーミング」
提案行為
セットアップのもとをたどればフレーミング


なぜジャンルなのか
(1)ジャンルはほかのメタカテゴリと違い強引な帰属を許容する
(2)様式や形式はしばし「~を持つ」と言われるのに対して、ジャンルはそのように表現されない
ジャンルとほかのメタカテゴリ(様式・形式)にはこのような非対称性がある
にもかかわらず、ジャンルが分類概念とみなされるのは何故か
カテゴリーは多機能的で、同じカテゴリーがジャンルとしても様式としても用いられることがあるため
(例えば俳句は形式だがジャンルのように機能するものもある)


構成的なルールは統制的ルールに還元可能(構成的なルールは統制的なルールから導出可能)(グァラ)
分類ルールは鑑賞ルールから導出可能

コラム 伝統としてのジャンル

エヴニンの伝統説を紹介している
エヴニンは、ジャンルのもつ規範性を、シェフラーによる伝統の説明を参照しながら説明している
筆者は伝統説の問題点として、全体-部分関係の推移性を挙げている
筆者は、伝統説と自分の統制説がある意味では似ている(規範性や社会性を説明しようとしている点)としつつ、伝統説は存在論的にラディカルすぎるので、伝統説までいかず、統制説で十分と
テローネが、クラスタ説を提案しているが、これは分類説の亜種

第七章 ふさわしいジャンルとは制度である

 1 ふさわしいジャンルはなにによって決まるのか
 2 ふさわしいジャンルは作者の意図によって決定されるという見解
 3 ふさわしいジャンルは制度的に決定されるという見解
 4 いいとこ取りとしての制度主義
 COLUMN ジャンルとしてのヴェイパーウェイヴ

観点選択の問題を解決する
ジャンルの決定について、意図主義に対して制度主義を提案する。


ふさわしいジャンルとは、鑑賞の最適化という課題に取り組むジャンル選択ゲームにおける、均衡=制度
鑑賞の最適化には、個人的なインセンティブと共同体的なインセンティブがある
自分の経験を最大限よくしようというインセンティブと、自分のやり方が周囲の人に受け入れられたいというインセンティブ
ジャンルは新設される
ふさわしいジャンルは偶然的なもので改定可能性をもつ
ふさわしいジャンルは共存することがある(『ねじの回転』は幽霊譚か精神分析小説か、どちらのフレーミングも定着)
作者は、作品にもっとも早くアクセスし、もっとも目立つ形でフレーミングを行うことができる、という点で特権的だが、やっていることはほかの鑑賞者・批評家と同じ


鑑賞の最適化のスタートは、鑑賞者の好き嫌い、という点で制度主義は主観制約を満たす

コラム:ジャンルとしてのヴェイパーウェイブ

自分はこの本の筆者を、まさにヴェイパーウェイブの紹介などをしていた頃に知ったので、いまだにヴェイパーウェイブ好きな人というイメージがあるのだが、当時自分で書いたものの意味がわからなくなっている旨書かれていて、時の流れを感じた

第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

 1 批評の意義とはなにか
 2 芸術実践をゲーム実践になぞらえる
 3 芸術鑑賞の価値をゲームプレイの価値になぞらえる
 4 芸術批評の価値をゲームデザインの価値になぞらえる

グエンが、芸術鑑賞をゲームプレイに喩えて論じている。
筆者はそれを踏まえて、鑑賞者をゲームプレイヤー、批評家をゲームデザイナーに喩えた描像を提案する(なお、作者ではないのかという点に対して、作者は一番最初の批評家として位置付ける)


批評は鑑賞ガイドであるが、正解へ導くという意味でのガイドではない
観光ガイドのような発散的なガイドであり、柔軟性を養う
主観主義でも客観主義でもなく観点主義

ミラノ・コルティナ五輪モーグル

久しぶりにモーグル観戦した。
自分のブログ見ると2018年がラストだな。ショート動画とかは見てたりするので、トップ選手の名前とかは一応なんとなくわかるが、ちゃんと見るのは本当にめちゃくちゃ久しぶりだ。
五輪でいうと平昌は見たけど北京は全く見てなくて……

モーグル女子

女子でもコーク720が基本みたくなってるし、みんなグラブをガンガン入れてくるので楽しい。特にジャパングラブをあんなにモーグルで見る日が来るとは。
第1エアと第2エアどっちもコーク720とんで、片方はグラブとかも何人かいたなあ
まあ、コークは飛ばずにアイアンクロスバックフリップとかもわりといた気がするけど。
五輪では見れなかったけど、女子で一人、コーク1080飛べる選手がいるらしい……。
アイアンクロス・トラックドライバーみたいなのあったけど、あれ何(実況の人が技名言ってたけど聞き取れなかった)。
エアが下のアングルから見れるのよかった

1 Elizabeth LEMLEY
2 ジェーリン・カウフ
3 ペリーヌ・ラフォン
4 冨高日向子
5 マイア・シュビングハマー
6 シャーロット・ウィルソン
7 アビタル・キャロル
8 ジャカラ・アンソニー


日本の藤木日菜、柳本理乃、中尾春香は決勝2回目に進めず。
自分も知っている選手でいうと、テス・ジョンソンとユリア・ガリシェヴァも決勝2回目に進出ならずだった。ガリシェヴァは相変わらずフロントフリップ・トラックドライバーだったはず。


ど、同点4位……!
初めて見た。
ラフォンと富高がなんと同点。同点の場合、エア点で順位をつけるらしく、それで4位に。点差わずかに0.2点差という……
上村愛子も五輪で4位になってメダルならずということがあったけど、あれは滑りに対して思いのほか点が伸びなかったなあ、という奴だった。
ラフォンは怪我からの復帰戦が五輪と実況が言ってたけど、そこで銅メダルはさすが。
富高って名前は知ってたけど滑りを見るのは初めて。
自分にとってラフォンは10代で新女王へと躍り出た若い選手のイメージだったけど、今はむしろもう追われる側だよなー、と。
金メダルの選手は五輪初出場。初出場で金はすごい

男子モーグル

NHKで放送されるとTVerで配信されないのか……
見逃し配信で見ようかなと思っていたら、いつまでも来ないので調べてみたら、どうもそういうことらしい。
ハイライトで、メダルとった3人のファイナル2(決勝)の滑りだけは見た。ほかの選手やファイナル1(準決勝)の滑りも見たかったなあ……
ハイライトを漠然と1回見ただけの印象なのだが、金のウッズは文句なし金の滑り。堀島とミックは堀島のがよかったように見えた。ミックはミドルセクションでターンが一回乱れたというか足開いた。あと、720と1440でどっちも転倒なしだったら、後者勝たせろよ、と。
なお、実際にはウッズとミックが同点だった
ど、同点ってそんなにしょっしゅうありましたっけ??

デュアルモーグル女子

一回戦を少し見た後、途中飛ばして準々決勝の途中から見た。
準決勝のラフォンとカウフがなかなか衝撃的な展開だった。
ラフォンがバランスを崩してしまい、負けたと思ってコース外へ出てしまうが、その後、カウフが大きく転倒。
え、まさか2人ともDNF?!と思ったが、カウフは転倒したもののコースアウトはしなかったのでカウフの勝ちとなった。しかし、ラフォンがコースアウトせずに完走したらラフォンが勝ってた……。
スモールファイナルのラフォンとリズはラフォン勝ったと思ったんだけどなあ。まあひいき目はあるとして。ラフォンはスピード点で勝ってもエア点で負けていた。
アンソニーとカウフはさすが決勝というサイドバイサイドの大接戦で、アンソニーが競り勝った。

デュアルモーグル男子

とりあえず、堀島の分だけダイジェスト映像があったので見れた。
最初がニック・ペイジと。
2人ともミドルでコースアウトしているが、ペイジの方が先にコースアウトしていたため堀島の勝利。
ただ、すごかったのは、堀島がバランス崩したまま第2エアに入ってしまい、ランディング時に後ろ向きになってしまうが、後ろ向きのままゴールするという異例の展開
準々決勝は穏当に堀島の勝利。それにしても第2エア、バックフリップアイアンクロスの飛距離がすごい、ボトムが始まるギリギリまで飛んでる
準決勝はマット・グラハムとで、こちらも堀島が圧倒
そして決勝がvsミック
ミドルセクションで一瞬、堀島がミックを抜いたが、そこで1,2ターン、ポールが突けず、そのあと、持ち直したかと思ったが、再びバランスを崩してしまい、第2エアはキッカーに入れず、そのまま棒ジャン(キッカーとキッカーの間であっても段差あって飛ぶ)。
ミックが金、堀島が銀という結果
ジャッジを見ると、ターンとエアは全て5-0でミックだったが、スピードだけ0-5で堀島だった。最後、完全に暴走状態だったけれど、それでもよく抑えて滑り切ったなあ、と思う。

『フィルカル』Vol. 7 No. 3

久しぶりに『フィルカル』
これは2022年12月に出た号なので、もう3年ちょっと前か。
「作者の意図、再訪」という特集が組まれており、村山さんと銭さんが書いていて、これが主な目当て。

特集 映画で倫理学 フィクションもまたドキュメンタリーである 和島香太郎監督『梅切らぬバカ』をめぐって 上村 崇・佐藤 靜・谷田雄毅・吉川 孝

和島監督を、4人の哲学者・倫理学者が囲んでの座談会記事
『梅切らぬバカ』というのは、50歳になった自閉症の男性とその母親の日常を描いた作品で、彼らの家にある梅の枝が隣の家の敷地に飛び出していて、それで隣の家族との関係なども主題になってきているらしい。
母親を加賀まりこ自閉症の男性を塚地武雅が演じている。
フィクション作品ではあるのだが、当事者への取材を通じて何度も脚本を書き直して*1制作していったということで、制作過程にドキュメンタリー的な要素もある、と。
倫理学的な研究のあり方といった話もすれば、純粋に映画の話をしているところもある。
この作品のことは自分は全く知らなかったが、それでも面白く読める記事だった。

特集シリーズ 作者の意図、 再訪

2022年6月に行われたWSを行っていて、そのWSの報告
同WSでは、村山、銭に加えて、原虎太郎も発表しており、それについての報告は次号(実際の掲載は次々号)とのこと

作者の意図はなぜ芸術解釈の問題になるのか 村山正碩

意図主義と反意図主義の間の論争というのは、互いに穏健な立場となり、いってること自体は似通ってきて落ち着いてきているが、そもそも、なんで意図について論争していたのかの前提を改めて捉え直す。3つの論点

  • (1)なぜ解釈の適切さを気にするのか

意図論争は、適切な(正しい)解釈をするのに作者の意図は関与するのか、という議論だが、そもそも適切な(正しい)解釈を何故目指すのか。
芸術鑑賞においては、解釈には正解がない、自由な鑑賞がよい、という立場もあり、その立場からすると、適切な(正しい)解釈を目指す意味がわからない。
これに対して、芸術鑑賞をゲームプレイにたとえる、Nguyen(2020)の議論が紹介されている。
要は、適切な(正しい)解釈を気にする、というのは、芸術鑑賞をより面白くする縛りプレイなんだよ、ということ
このグエン論文は、村山さんが自分のブログで紹介している
ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

  • (2)解釈では何が問題になるのか

Matravers(2014:Ch.5)の議論が紹介されている。
芸術作品を解釈するにあたって、気にすべき4つの問題がある。
a.目の前の対象は解釈の適切な対象か
→作品なのか否か。例えば、全然聞き慣れない音楽ジャンルを聞いた際、それがただのチューニングなのか演奏なのか
b.その対象の境界や同一性
→どこまでが作品の一部なのか。例えば、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けの作品は、それを入れている容器も作品の一部なのか、それともあれは絵画における額縁のようなものなのか。
c.その対象が位置づけられるカテゴリー
d.その対象の意味
aとbは、芸術作品の存在論として論じられることが多く、解釈の問題として論じられてきたことはないが、しかし、解釈が必要な問題である。
cについては、一般的に作者の意図に基づくと考えられており、反意図主義者とされる人であってもそう。
なので、意図論争は基本的にdのレベルでおきている。

  • (3)作者の発言をどう受け止めるべきか

作者の意図で決まるんだったら、作者の発言ですべて決まるじゃん、ということに対して、作者が正直に全部言ってるとは限らないなど。
ざっくりまとめると、作品解釈の話なのに、作品そのものよりも作者の発言の方を見ることになったら本末転倒では、という疑念に対して、意図主義をとるとしても(強い現実意図主義をとらない限りは)(作者の発言が絶対ではないので)作品を見ることに意味はあるよ、というような趣旨の話かなと思う。で、これが、次の村山論文ともつながる。

創造的行為における意図とその明確化 村山正碩

これも、意図論争のそもそもの前提を問い直す議論
「意図を明確化するとはどういうことか:作者の意図の現象学」あとがき - #EBF6F7から元になった発表や、その発表を元にした論文を確認できる。
「意図」の定義がそもそもできてなくない? 行為論をヒントに考えてみる、というもので
なぜ作品から、作者の意図がわかるのか、というか、作者の意図を知るのに作品をみていくことの意味というか。
前の論文の論点(3)とも関わっていて、もし意図主義が正しいとして、作品解釈の面白さ・よさってどこよ、という話でもある、多分。


行為一般において、行為の前に行為者が自分の意図を知らない、ということは普通考えにくい。(例えば、道ばたで腕をあげた人が「私は今なんで自分が腕をあげたのかわからない」といえば、それはタクシーを止めるという行為をしたことにはならない)。
しかし、それがありうる行為がある。
それが芸術制作などの創作行為
芸術家は、自分がどういう作品を作りたいか、作品を作る前に正しく意図できているわけではない。実際に作品を作っている中で、自分が何を作りたかったのかが分かってくる、ということが往々にしてある(ように思われる)
「意図の明確化」
2つの基準を提案している。
基準1:記述できる
基準2:自分の行為がうまく運んでいることに気づくことができる
基準2は、自分の意図を言葉にすることはできないが、やりながら「なんか違うな……お、これだ!」と思うような感じ。

制度は意図に取って代われるのか 銭 清弘

エイベル『フィクション 哲学的分析』への批判と改善
なお、銭による同書の書評は以下
フィクションにおいて想像はいかにして伝達されるのか——キャサリン・エイベル『フィクション 哲学的分析』書評 | Phantastopia〈パンタストピア〉
エイベルに対する批判ポイントは以下。
まず、エイベルはグァラ説を元にしながらも、グァラ説にとってポイントである「均衡」をいかしていない。
サール的な制度説でもいえる話で、実際エイベルはほかの論文だとサールに依拠しているらしい。
次に、エイベルはフィクションの読解を「理解」と「解釈」とに分けた上で、前者は制度で分析するが、後者は意図主義をとる。なので、あんまり反意図主義にはなりきれていない、と。
それがら「想像の伝達」をフィクションの価値としているけれど、それは本当か。
20世紀以降の文学なんかはむしろ、想像が伝達しにくいものに価値を置いていたのではないか、と
銭の代案
まずカテゴリを、前意図的カテゴリ、後意図的カテゴリ、超意図的カテゴリとに分けている。
特に超意図的カテゴリについて。
フィクションに限らず芸術鑑賞一般について、「想像の伝達」というゲームをしているのではなく、「経験価値の最大化」を目指したゲームをしていると考える。
まあこのあたりの話が、おそらく『芸術をカテゴライズすることについて』にまとまっていくのだろうと思うので、詳しい話はそちらでまとめたいと思う。

特集シリーズ 小山虎『知られざるコンピューターの思想史』

小山虎氏著者インタビュー『知られざるコンピューターの思想史― アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 』(PLANETS、 2022 年)

どうしてこういう本を書くことになったのかという経緯など
本の内容についても触れているが、本の書き方というかそういう話になっている。つまり、あまり学術的に書かれた本ではなく、小山としても、このテーマ自体は今後も研究するけれど、こういう本は多分もう書けない、と語っていたりするので。


内容は、ヨーロッパ編、アメリカ編、コンピュータ編の三部構成
ヨーロッパ編では、ドイツ的なものvsオーストリア的なものという軸から書いている。
これは、この分野、オーストリアの存在感が実は結構あるということを(論理学とかアングロサクソンのイメージがあるので)編集者が面白がったから
もう一つ、カントvsアリストテレスという軸もおいてあるが、これは筆者の創作だという。創作というか、学術的には厳密じゃないけど、一般向けには分かりやすいだろう、と(学術的なレベルで検証できてないけど、大雑把にはこうだったはず、と)。
それから、カルナップ不在になった、と(インタビュアーがカルナップ研究者でもある長田なので、このインタビュー中でカルナップの話について度々触れている)。
アメリカ編は、大学制度や移民の話など。
一方、プラグマティズやロイスの話ができなかった、と。
コンピュータ編について
本書の独創的な点は、コンピュータがアメリカ的な製品開発して特許をとる的な考えの産物ではなく、ドイツ的な富国強兵のためのアカデミアという思想のもとで生まれてきたものだ、と示したこと。
行動科学について書けなかった(が、これは書こうとすると膨れ上がるの仕方ない、とも)

小山虎『知られざるコンピューターの思想史― アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 』書評 村上祐子

哲学の社会史について
哲学もまた、当時の社会のあり方に規定される。
あと、やはりここでもこの本が学術的なものではない(査読誌に掲載されていたわけではない)ことに触れつつ、しかし、かつて、紀要に掲載された連載が本になっていったことに触れて、web連載というのもそういう場たりうるのではないか、と指摘している。

シリーズ 哲学の居場所を探る

インタビュー 第 1 回 『フィルカル』統括編集長 長田怜

『フィルカル』という雑誌を作った経緯とか、現在に至るまでの流れとか
美学系の人たちと、『フィルカル』作るまでは距離があったっぽくって、へえそうだったんだーと思った。美学の人たちはネットで結構いろいろやってたみたいなんですよねえ、みたいな言い方をしていた。
分析哲学の特徴、そして長田さんにとっての分析哲学のよさとして「ペラさ」を強調していた。
『フィルカル』は分析哲学の雑誌であるけれど、ある時期から、そこにそこまでこだわらなくなったというようなことも。

哲学の居場所を探るために 稲岡大志

2022年において、ポピュラー哲学として、どのようなものがあるのかの整理

  • 哲学入門書

専門家によって書かれた新書、ストア哲学が流行りつつある、哲学の多様性(女性哲学者についての本とか)、人生相談としての哲学
挙げられている新書のラインナップや女性哲学者についての本などは少なくともタイトルは知っていたりしたけど、ストア哲学の流行あたりは全然気づいてなかった。

コロナによってイベントのオンライン化が進んだことや、哲学系YouTubeチャンネルなど

  • 哲学カフェ・哲学対話・P4C

P4Cっていうのは子供のための哲学のこと。そういう概念(?)は知っていたけど、そういう名前がついているのは知らなかった。

  • マネタイズ

若手研究者がアカデミア以外での道をいろいろ模索している、と。クロス・フィロソフィーズ、The Five Books、AaaS Bridgeといった例

  • 哲学エンタメ

ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』、まんが学術文庫、『ここは今から倫理です』やNHKの番組など。

シリーズ ポピュラー哲学の現在 対談 「哲学と自己啓発の対話Ⅱ」 第一回 企画:稲岡大志/文責:玉田龍太朗

ヘーゲル研究してる哲学者で高校教師の玉田と、自己啓発の著作がある百川の対談第2弾の初回。
玉田は、百川の提案する自己暗示法を実践しており、玉田が色々哲学と自己啓発の関係についての話をふって、百川がそれに対して質問したりコメントしたりしながら進む。
玉田が、稲岡などの哲学者や宗教社会学者の島薗から聞いた話などを元にしながら、哲学者の自己啓発に対するスタンスは、哲学と自己啓発を区別する/区別しない、自己啓発に肯定的・否定的の4象限で分類できるのではないかというアイデアを出す。
百川は、哲学者の中にも自己啓発に肯定的な人たちがいることを意外に感じるとコメントしたりしている。
また、玉田は、島薗の話から、現世視線のものとと宇宙視線のものの区別、救いを求める宗教と癒やしを求めるスピリチュアルの区別などあげ、次回から、スピリチュアルをめぐる話になるのかな、と思わせるところで終わっている。

自著紹介 自著解説『「美味しい」とは何か』で消化できなかった話 源河亨

ワインについての言説で、人に喩えるのは何故なのか。
欠点も愛らしく思えるから、という説を、たまたま飲んでいたら出会った人に聞いたのだけど、深夜で記憶も曖昧だ、という話。

自著紹介 自著解説『哲学の門前』余滴 吉川浩満

哲学そのものより、哲学との出会いについて書いている

訳者による紹介 ノエル・キャロル『ホラーの哲学』なぜ怖いものが見たいのか 高田敦史

マンガ『空が灰色だから』「こわいものみたさ」のコマを引用して始まってるのが目を引く
ホラーに関心がないのでスルーし続けているが、ホラーに限らずポピュラーカルチャーの哲学にかかわる話してる、とプッシュされている。

編者による紹介 稲岡大志・森功次・長門裕介・朱喜哲編『世界最先端の研究が教える すごい哲学』 長門裕介

「生煮え」をキーワードに紹介してる
研究が生まれる瞬間
この本も積んでる……

コラム 新海誠が苦手だ 森 功次

新海誠作品に苦手意識を感じているらしいのだけど、それについて整理・分析している
まず、どういう種類の苦手では”ない”のか、とか、どういう要素に苦手を感じるのかなどを整理している。
その上で今後どうするか、という話で、適切なカテゴリの鑑賞に馴れる必要があるだろう、と。
例えば、苦手に感じる理由の一つとして、そもそも自分がアニメに慣れていないからではないか、というのを挙げているからなのだが、完全にウォルトン「芸術のカテゴリーについて」の話だなあ、という感じだった。

*1:全然知らなかったのだが、加賀まりこも、パートナーの連れ子が自閉症らしく、加賀からもかなり意見をもらったとのこと

阿部和重『Ultimate Edition』

2022年に刊行された短編集(2025年文庫化)。短編集としては約10年ぶりだとか。
その、約10年前、2013年に刊行された阿部和重『Deluxe Edition』 - logical cypher scape2を2023年に読んだりしたので、そのあたりの時間感がむちゃくちゃだが。っていうか、Deluxe Edtion読んだのがもう2年半前、ということにもちょっとビビる。
ところで、2021年に長編『ブラック・チェンバー・ミュージック』が出ていて、食指が伸びていなかったのだけど、そろそろ読みたくなってきたかも。
それから、『Wet Affairs Leaking』という長編を今連載中らしい。
『ブラック・チェンバー・ミュージック』では北朝鮮が、『Wet Affairs Leaking』ではロシアが題材になっているが、この短編集にもそれぞれ北朝鮮やロシアを題材とした作品が登場する。
この短編集は、時事的な国際情勢をそのまま取り込んだ作品が多いのが特徴となっている。


なお、阿部和重のへのインタビュー記事が公開されている。
風刺小説として書いているとのこと。
阿部和重インタビュー第1回/「Hunters And Collecters」「Аноун」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第2回/「Drugs And Poison」「Across The Border」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第3回/「It’s Alright,Ma (I’m Only Bleeding)」「Eeny, Meeny, Miny, Moe」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第4回/「Green Haze」「扉の陰の秘密」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第5回/「Set Me Free」「Goodbye Cruel World」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第6回/「Sound Chaser」「Watchword」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第7回/「Hush…Hush, Sweet Charlotte」「Let’s Pretend We’re Married」「(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
阿部和重インタビュー第8回/「Neon Angels On The Road To Ruin」「There’s A Riot Goin’ On」(河出文庫『ULTIMATE EDITION』刊行記念 全作品解説/全8回)|Web河出
これらインタビューを読んでいると、自分はこれっぽっちも阿部和重作品が読めていないなあとなる。
それにしても阿部和重、自分にとってずっと読み続けている稀有な作家となりつつある(好きな作家は色々いるが、継続的に作品を追っているかというとなかなか)わけだが、何故なのかは自分でもあんまりよく分かっていないな。
面白いことは面白いんだけど、どれくらい面白がれているのか。短編だと特に。

Hunters And Collectors

とあるロシア人の殺し屋が、やはり殺し屋である自分の師匠を訪ねてシベリアまでやってくる。
ある男が師匠の家に毎年来ており、今年も来るかどうか確認するためだったが、どうにもはぐらかされる。
師匠の方がナイフコレクター。
焦って師匠を殺してしまった後、家を出るとそこにはゲームをしている少女の姿があった。

Аноун

タイトルは「アンノーン」をロシア語表記したもので、ポケモンGOに出てくるレアポケモンの名前
Hunters And Collectorsに出てきた少女視点での話
少女の母親はゲーム配信者で、家族の様子を世界中の人が見ていて、少女を助けようとしているけれど、ネットの向こう側からできることはあまりない

Drugs And Poison

密室で拘束されて尋問される男
実は仮想現実アトラクション

Across The Border

空爆のさなか、男たちがゲームに興じている。顔が似ているので双子と呼ばれる二人の男は指に数字が書かれている。ルーレットでその数字がでると、数字の書かれている指が落とされる、というゲームだ。
指輪が、工芸職人のもとにもたらされる。母親が行方不明の息子を案ずるニュースを見ていて、これはその息子のものでは、と通報するが、逆に逮捕されてしまう

It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)

今からおよそ100年後の未来、高校の修学旅行は時間旅行体験になっている。
主人公の少年は、趣味でサルベージしたファイルから、過去のシリア難民の少女の動画を見つけて、旅行先を当時のシリアに決める。
実際に行ってみて、その少女がシリアにはいないことを知るのだが、シリアのあまりの惨状にアサドの暗殺を決心する
実際に時間旅行に行っているわけではなくて、仮想現実だったというオチであり、彼の記憶は消されるのだが、高い評価ポイントだけがつけられることになる。

Eeny, Meeny, Miny, Moe

父親の後を継いだばかりの男。父親とは似て非なる趣味をもつ。
そして、叔父の暗殺命令を出すか否かに悩み続けている。そう、この作品の主人公は、固有名詞はでてこないものの、金正恩なのである。
実は霊言

Green Haze

ブラジルの大統領ボルソナロの、アマゾンの熱帯雨林が火事になった際の対応を描いている。
ボルソナロというのは、ブラジルのトランプみたいな人であり、地球温暖化よりも自国の経済発展を優先し、諸外国とくにフランスのマクロンバチバチやりあった、という話なのだが、それを未来からタイムトラベルしてきたと称する者が語りかけてくるという形式で書かれている。
未来からすると、この件が重要な契機になったのでここに介入しなければならない、是非協力してほしいという内容なのだが、これ、つまり、そういう詐欺なのでは、というオチになっている。
全然知らなかったが2019年に環境活動家トゥンベリさん、「時を駆ける少女」だった? 19世紀にそっくり写真 - CNN.co.jpというニュースがあって、このネタも織り交ぜられている。
これは過去に読んだことがあった
群像2020年1月号 - logical cypher scape2
この作品が発表されたのは2020年だが、ボルソナロ大統領は2022年に選挙で負けた後、クーデターを起こそうとして、現在服役中とのこと(Wkipediaによる)。


ここまでの作品は、海外時事ネタを絡めたような作品だった。
時事ネタを絡めるというのはこれまでの阿部作品にもあったけれど、ここまで海外での紛争などを直接取り込んできているのは新たな展開なのかなあと思うし、それが長編にも結実しているのだろう、と思うと、まあやはり長編も読まないとな、と思う。
実は仮想現実だった的なオチが多く、そうやってまとめてしまうと、何だそれ、となるかもしれないが、フェイクニュースやらポストトゥルースやらといった状況への風刺的な対応なのだろう、とも思う。でもまあこういう処理は短編ならではというところもあるだろうから、やはり長編も(ry
それはそれとして、Hunters And Collectorsは殺し屋によるある種のスパイアクション的なところが純粋に面白いし、Drugs And PoisonやAcross The Borderはそのゴア描写に引き込まれるし、各話どれも内容が面白い(ので、オチとのギャップ感もあるんだけど)
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)、Eeny, Meeny, Miny, Moe、Green Hazeは、そういえばどれも独裁者の話なんだな。アプローチが三者三様なので、読んだときの感じはかなり違うのだけど。It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)が一番シリアスで、後ろに行くほど滑稽味が増していく感じ。

扉の陰の秘密

怪我をした舅の家を毎日訪れている嫁が、トイレで自慰行為をしているようだと気づいた舅は悶々とした日々を過ごし、ついにはトイレに盗撮カメラを設置するのだが、調整中に自分の行為を逆に見られるのだった
なんだこれ、と思ったら、週刊ポストの企画で、官能小説を書いてという依頼だったらしい。葵つかさ×阿部和重だったらしい。

Set Me Free

下戸が上戸優位社会をぶち壊すために、大手酒造メーカーにテロをしかける話

Goodbye Cruel World

主人公の少年が、ヤンキーな少年を家に呼んで、レアカードやら両親の持っているへそくりなんやらを渡して交渉をしようとしているのだが、最終的にうまくいかない
で、実はそういうゲームで、主人公はそのゲームをプレイしているおじさん
Big Issue』に掲載された作品らしく、お題は「ホーム」
スマホのホーム画面に戻る、という形でお題が回収されている

Sound Chaser

ストームチェイサーに憧れる主人公が、大学で気象学を専攻し、アメリカに留学し、その夢を叶い、日本に帰ってきてドリームチームを結成するまでの話
主人公の名前は智、結成されたチームの名前は「嵐」
というわけで、朝日新聞で企画されたジャニーズの「嵐」とのコラボ小説とのこと
これは、それを知らなくても普通に面白く読めて、最後に「嵐」のオチがついたところで、なるほど、そういうことでしかた、となる。

Watchword

ゾンビによって荒廃したポストアポカリプス世界で、主人公が、「砦」を築いているグループに接触し、仲間を助けてほしいと交渉を持ちかける話
最後まで読んだところで、これもまた、前の作品と同じように何かとのコラボ作品なのね、ということはわかったが、自分がコラボ先のA.B.C-Zのことを知らなかったので、あんまりよくわからなかった。


ここまでの5作(「扉の陰の秘密」から「Watchword」まで)が、企画ありきのショートショートという感じ。
以下に続く4作品も、雑誌からの依頼があって書かれているもののようなので、それぞれお題はあったんだろうけど、上の5作のようにはっきりと、これがお題です、みたいな感じはない。

Hush...Hush, Sweet Charlotte

夜の公園でドラッグきめてた少年二人の前で事故が起こり、その車内には赤ん坊が
彼らは、この赤ん坊こそ、懸賞金の噂のある奴だと気づいて、女友達のもとへと連れて帰る。が、発熱して泣き止まない赤ん坊に、彼らは右往左往させられ続ける。
懸賞金というのは実は嘘で、その赤ん坊を探してくれと頼んでいた親は、そのまま病院の赤ちゃんポストにおいていってほしいということを言ってくる。
少年は病院に持って行って一度はそこに赤ちゃんを置いていくのだけど、早朝でなかなか病院の人が出てこなくて、もう一回連れて帰るところで終わる。
もともと金目当てだったんだけど、赤ちゃん引き取っちゃうと育児せざるをえなくなるという話なんだけど、せざるをえなくなる感を、ネガティブなものにしないオチ

Let's Pretend We're Married

特殊詐欺の受け子をやっている少年が、殺人事件を目撃してしまい、自殺団地といわれている団地の屋上へと隠れる。
仲のよい女の子にだけ居場所を告げて来てもらって、「俺の人生、もう積みだ」って嘆いているところに、当の殺人犯までやってくる
雨の降りしきる屋上、流れる血、どこかへと逃げ出す少年少女

Neon Angels On The Road To Ruin

自動車泥棒の下請けやってるおじさんが絶体絶命の危機に陥る
これ、最初にイーロン・マスクがどったらこったらという話から始まる。このあと、twitterも作品内に出てくるのだが、2022年1月号とかで発表されている作品なので、マスクのtwitter買収はまだ。
マスクの話というよりも、本当はカルロス・ゴーンの話が書きたかったらしい。ゴーンについても作中に出てくる。
トヨタからテスラへ、という世代交代の話でもあり、主人公はレクサス盗んでいたのだけど、急遽、テスラ車を盗むことになる話になっている。
町田を中心に多摩地区で盗みを働いていて、同じところばっかりで盗みしていてもまずいから、と世田谷区へと越境を試みる。しかし、相方がついてきてくれず、急遽、twitterで闇バイト募集して若い男と即席コンビを組む。で、世田谷を縄張りにしている同業者に見つかりボコられる、と。
登場人物の一人が「馬小屋の乙女」(『グランド・フィナーレ』収録の短編)にも出てきた人らしいのだけど、全く覚えていないので、あとで確認しとこう。

There's A Riot Goin' On

子供の頃からなぜか警察に職質されやすい主人公の青年は、20歳の誕生日であるハロウィンの日に、復讐のための爆弾テロを決行しようとする
バイト先で、いじめというよりも虐待にあってるベトナム人技能実習生がいて、普段は見てみないふりをしているのだが、いざ、決行の日に「助けて」と声をかけられてしまう。
最後の2作品は、いかにも阿部和重作品っぽいなという雰囲気が強くて、特に面白かったのだが、従来の阿部作品ともまた違う雰囲気もある。
「There's A Riot Goin' On」は、『ニッポニアニッポン』とも似た作品で、少年が独特の被害意識を持って、ネットでの情報を参照しながら、テロに望むという点が同じだが、『ニッポニアニッポン』では、主人公のテロはあえなく失敗してしまう。主人公の誇大妄想と(本人にとっては)綿密な計画が、最後に挫かれるというのは物語の一つのパターンかと思うのだけど、本作はそれとはまた別の結末を迎える。
主人公のもともともっていた動機は、やはり挫かれるのであってある意味では果たされることはないのだが、それが別の形に変わって果たされる。つまり、彼の「復讐」は果たされないが、ベトナム人を助ける、という本来彼の目的にとっては邪魔だったことを、復讐のために用いるはずだった手段(爆弾)によってなすことになる。
どこかで「It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)」や「Hush...Hush, Sweet Charlotte」にも通じるところがあるように思う。
少年にどこか希望を託す、というか。
Neon Angels On The Road To Ruin」も「There's A Riot Goin' On」も、結局、このあと主人公は死ぬことになるんだろうな、というもうどうしようもないところへ追い詰められるところまで描かれているのだけど、どちらの作品も主人公が死ぬところまでは描かず、もうあとは死ぬしかないかもしれないんだけど、その前に、なんとかとりあえずやりきった、切り抜けた、あとはもう何も考えずにいったん休もう、というところで終わる

ウィムザット&ビアズリー「意図の誤謬」(河合大介・訳)ウォルトン「芸術のカテゴリーについて」(森功次・訳)

銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』を読む前に、基本論文を読んでおく企画。
「意図の誤謬」はノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳) - logical cypher scape2の中で言及されていて、あれ、そういえば読んでいなかったぞ、と気づいたので読むことにした。

ウィムザット&ビアズリー「意図の誤謬」(河合大介・訳)

『フィルカルVol.2No.1』
詩を読むときに、詩人の伝記的事実を気にする必要はないですよね、みたいな話?
いや、読んだはいいのだが、全然頭に入ってこなかった。
一つは自分の読んだときのコンディションの問題で、眠いなあと思いながら読んでいた気がするので。
もう一つは、この論文の中で言及・引用されている議論とか作品とかが知らないものが多くてよくわからなかった、ような?


なんか目についたキーワードだけひろう
クマラスワミという美学者が、芸術作品についての探究は、二種類あると述べている、と。
一つは、意図が実現されているかどうかについて、もう一つは、保存されるべき価値があるかどうかについて。
これって、ノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳) - logical cypher scape2における成功価値と受容価値にそのまま対応するのでは、という気がした。
クマラスワミは前者こそが芸術批評だと主張するのに対して、ウィムザット&ビアズリーは、芸術批評は後者だよねえ、という。


意図の誤謬はロマン主義


詩の批評と作者の心理学があり、
内的な証拠と外的な証拠がある。

ウォルトン「芸術のカテゴリーについて」(森功次・訳)

以前、一度読んだけれど、再読
モリス・ワイツ「美学における理論の役割」、ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」 - logical cypher scape2
冒頭から「意図の誤謬」が!
「意図の誤謬」に対する反論として書かれているのである(とはいえ結構限定的な反論であるようにも思う)
美的性質の知覚はカテゴリーに依存する
どのカテゴリーのもとで知覚するのがよいのか、については、正しさの規準がいくつかある。

そのカテゴリーにおいて見たときに、標準的特徴が比較的多くなり、反標準的特徴が最も少なくなるカテゴリー
作品が最もよく見えるカテゴリー
作者が意図していたカテゴリー
作品が提示された社会において確立しており、はっきり認識されされているカテゴリー
ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。 - 昆虫亀

どのカテゴリーで知覚するのが正しいかを判断するのに、作者の意図は基準になる、という点で、意図の誤謬は誤謬である、ということになる。
あくまでも、知覚されることにこだわっていて、知覚できるようになるには訓練がいるという論点もある。どのカテゴリーが正しいカテゴリーか知っているだけでは、そのカテゴリーのもとで知覚できるとは限らない、と。
基準が4つあるけど、どの基準をどう採用すればいいのか、というのは難しそうでもある。
基準1と2だけではだめで、基準3や4があるのは、1や2だと明らかに正しくないのに当てはまっちゃうカテゴリをはじけないから。
十二音技法は、シェーンベルクが作曲していた当時、社会的に確立されていたカテゴリではないけれど、シェーンベルクは自覚的で本人が意図していたので、シェーンベルク作品にとって十二音技法というカテゴリが正しいのは基準3で判断される。
ただ、ジャコメッティの作品なんかは、どのカテゴリが正しいかは最後まで議論が分かれて、正しいカテゴリは判断できないかも、とそういう場合がありうることも述べられている。

ノエル・キャロル『批評について』(森功次・訳)

批評の哲学の入門書
実はずっと積んでいたのだが、銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』を読むための予習として読むことにした。


ざくっとまとめると

批評とは、理由に基づいた価値付けである
芸術作品には、成功価値と受容価値があるが、批評は前者に基づく価値付けを行う
そのために意図主義の立場にたつ
批評は、客観的なものたりうる。その客観性は、芸術作品を適切なカテゴリーに分類することによって確保される。

といった感じか。
キャロルの主張は、ある程度規範的な側面があり(つまり「事実、批評とはこういうものである」という形式の主張ではなく「批評は、理想的にはこうあるべきである」という形式の主張に近い)、その点で、論争的な面を持つだろう。
例えば「批評は価値付けである」という主張に対して、価値付けをしていない批評もあるという反論も当然あり得るだろう。
キャロルは、批評の構成要素として、記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析、そして価値付けを挙げている。前者6要素を理由として価値付けを行うのが批評である、というわけである。絶対に必要なのは価値付けで、前者6つについては少なくとも1つは必要だが全て揃っている必要はない。
ところで、解釈や分析をやっていれば批評になるのであって、価値付けは必ずしも必要ではない、という立場もありうるが、キャロルとしては、それだと研究と批評の区別がつかないでしょ、ということらしい。価値付けなしで解釈や分析だけやってるものは研究と呼ぶべきで、研究と区別して批評というものがあるなら、それは価値付けをやっているかどうかで区別されるものなのだ、と。感想は後述する。
それから、成功価値か受容価値か、意図主義を採用するかどうか、ここらへんも議論が割れるところではあるだろう。
キャロル的には、批評というのは、主観的なものと思われがちだが、客観的なものでありうるのだ、というのがおそらく主張したいこととしてあって、そのためには、受容価値よりも成功価値に基づく価値付けであるべきだろうし、また、そこでの成功を測る基準として意図が持ち出されるのだろう。
個人的に一番面白いなと思ったのが、批評の客観性を支えているのは分類である、ということを論じる第四章
へえ、そういう風に議論が展開していくのかー、と。
実は結構、分類に力点が置かれている、というのは意外な感じがして面白い。
そして、なるほどそれならば確かに「芸術をカテゴライズすることについて」へとつながっていくよなあ、という感じがする。


ところで以上の論点のいくつかについては、北村紗衣『批評の教室』 - logical cypher scape2でも触れられている。
批評が価値付けであるかどうか、成功価値か受容価値かどうかについて、キャロルの主張は尊重しつつ、規範的にはそこまで重視していない感じ。
つまり、価値付けすることは面白いし、成功価値を見ることは大事だけど、必須ではないんじゃないか、と。初心者は価値付けまで踏み込まなくてもいいし、受容価値が面白い切り口につながるよね、といったスタンス。
批評を書く場合に、より実践的なのは明らかに北村本の方ではある。
ただ、キャロル本もキャロル本で、第三章の批評の構成要素を分解しているあたりは、実践的なものとしても読むこともできる。記述、解明、解釈あたりを意識して書き分けられると、作品読解としてかなりよいものになりそう。
素朴には、解釈って言葉はかなり広めに使われがちだし。これら3つは、シームレスな部分もあるけど概念上区別可能なものとして認識しておきたい。北村さんとかが、正しい解釈はないけど間違った解釈はあるといったりするけれど、間違った解釈というのは、記述や解明のレベルが誤っているということではないかな、と思う。

はじめに
第一章 価値づけとしての批評
 1 導入
 2 価値づけからの撤退
 3 批評の本性と機能 本章の要約
第二章 批評の対象
 1 導入
 2 成功価値vs受容価値
 3 芸術的意図は批評の価値づけに関わるのか:ラウンド1
 4 手短なまとめ
第三章 批評の諸部分(ひとつを除く)――批評はいかなる作業によって成り立っているのか
 1 導入
 2 記述
 3 分類
 4 文脈づけ
 5 幕間:用語法についての注意をひとつ
 6 解明と解釈
 7 分析
 8 ここまでの議論のとても短い要約
 9 芸術家の意図ふたたび:ラウンド2 意図と解釈
第四章 価値づけ 問題と展望
 1 導入
 2 でもそれって主観的なものですよね
 3 批評の原理は存在しない、という意見について
 4 分類(再び)
 5 批評と文化的な暮らし
訳者あとがき



以下、かなり雑まとめ

第一章 価値づけとしての批評

批評とは「理由にもとづいた価値付け」である、と主張する
ここでは、批評とは価値付けではないとする主張への簡単な反論が展開される。 

第二章 批評の対象

作品の価値を、成功価値と受容価値とにわける
前者は、作者が作品を作る上でもった意図が成功しているかどうか、ということ
後者は、読者が作品からどのような快を経験したか、ということ
批評は前者にかかわる、というのが本書の主張

第三章 批評の諸部分(ひとつを除く)――批評はいかなる作業によって成り立っているのか

タイトルにある通り、批評の中で行われている個々の作業について。
批評は、記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析、そして価値付けから成り立っているとする。
記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析は、価値付けのための理由を提供するもので、価値付けの下位に位置づけられる。本章はこれら6つについて扱う。
章タイトルに「ひとつを除く」とあるのは、価値付けは、次の章で独立して取り上げるから。
記述、分類、文脈付けはまあ、読んで字のごとしである。
記述と分類との間には解釈学的循環がある。
解明、解釈、分析は、よく似た言葉だが、本書でははっきりと区別されている。解明→解釈→分析の順の階層構造になっている。
解明は、言葉とか記号とかの意味を明らかにすること
解釈は、作品の中で描かれていることの意義とかメタファーとかを明らかにすること(主人公がとった行動の理由とか)
解明と解釈は、時にその境界が曖昧になることもあるが、概念としては別物。
分析は、作品全体としてどのような効果があがっているか明らかにすること
解明と解釈は意味にかかわるが、分析は必ずしもそうではない。解釈は分析の一種だが、分析は解釈を含むとは限らない。
例えば、装飾芸術の場合、物語作品のような意味内容は持たないので解釈はできないが、この形や色がこのように働いてこういう目的を果たしている、と言うことはできる。これもまた分析。


あらゆる意味が実際の作者の意図通りになる、という強い現実的意図主義は退ける。
慣習的意味と作者の意図が食い違った場合に、慣習的意味を採用することもできる意図主義として、仮説的意図主義と穏健な現実的意図主義とをあげる。
両者を比較して後者の立場をとる。

第四章 価値づけ 問題と展望

批評は価値付けであるとして、それは客観的なものとしてありうるのか
単に批評家の好みを押しついているだけでは、という批判にこたえる


批評がなぜ主観的なものと思われるのか
その要因をヒュームに見いだす。
ヒューム自身が主張したかったことではないが、ヒュームの影響により、批評=主観的と思われるようになった。
それは、以下のような推論による
前提1)あらゆる批評は趣味の行使である
前提2)あらゆる趣味は主観的である
結論)ゆえに、あらゆる批評は主観的である。
本章の第2節では、前提1の誤りを指摘している。批評は必ずしもすべて趣味判断ではない。
必ずしも美についての判断ではないから、というのと、知覚的なものとは限らないから、というのがあげられていたかと思う。
なお、注釈において、前提2を疑う方向もあることが示唆されている(ヒュームやカントはおそらくそういう方向性なのだろう)。


それからもう一つ、アイゼンバーグとマザーシルによる、批評の原理は存在しない(から批評は主観的である)という主張への反論もなされる。
批評の原理は存在しない派は、批評が以下のような論証構造をしているとする。
前提1)この作品WはFという性質を有する
前提2)Fという性質を有する作品は優れている
結論)故に作品Wは優れている
前提2で導入された一般法則(批評の原理)は存在し得ない。だから、批評はこういう論証をすることができないために、主観的だ、という批判
これに対してキャロルは、ここで批評の原理とされるものの条件が厳しすぎる、という
確かにそんな一般法則は存在しないけれど、それは求められる一般性が高すぎるからであって、カテゴリごとであればありうる。
(ここでキャロルが導入してくる、カテゴリ相対的な法則には「ほかの条件が同じならば」という限定がつけられているが、こういう限定は、自然科学でも使われるのだから批評で使っていけないいわれはないよね、と釘を刺している)
ということで、分類の客観性こそが、批評の客観性を担保する、という方向で議論が進む(なお、文脈づけがその役割を担う場合もあると補足されてもいる)。
*1
構造、歴史的文脈、意図という3つの理由に基づいて、分類はなされる。
理由に基づくので客観性が保たれる、と。
一つの作品が複数のカテゴリーにまたがっている場合もあるよね、ということで、多元カテゴリー的アプローチを採用する。


異なるカテゴリーに属する作品間の比較はできるか(例えば絵画作品とテレビドラマ作品の比較とか)。
基本的にそういうことはできないけど、できる場合もあるよね、としていて、そのできる場合の一つとして、カテゴリー同士を比較する場合がある、と。
コメディドラマの傑作と絵画の傑作を比較する場合、コメディドラマというカテゴリーと絵画というカテゴリーの比較になっている。文化全体のなかで、コメディドラマと絵画のどちらの方がより重要か
で、キャロルは、「この作品はコメディドラマの傑作だ」という批評と、「コメディドラマより絵画の方が、より重要なカテゴリである」という批評を区別していて、前者を芸術批評、後者を文化批評と呼ぶ。
当然だが、文化批評の方がより広い見識が必要。
批評家は実際にはどっちもやることがあるけれど、別物だと区別しておいた方がいいよね、と。


順番前後するけど、批評における価値付けについて、
作品のランキングつけるのが批評というわけではないよ、と。作品の注目すべきところ、価値あるところを示すのが批評だ、と。

訳者あとがき

感想

  • 批評と価値付け

批評、読んでも書いても面白いのは解釈や分析かな、とは思うので、解釈や分析だけでいい、価値付けがなくてもいい、という意見も分からなくもないのだけど、研究と批評とが区別できなくなってしまうのでは、というキャロルの指摘も納得できる
で、あと、それ以外にふと思ったのは、読むにあたっての動機付けにはなるな、と。
例えば、なんか作品の要素(ショットとか)の数をひたすら数えるタイプの研究とかあるけど、数えましたってだけだとまあ読む気にはなれない。
でも、この作品がどうして面白いのか、この数を数えると実はわかるんです、となってたら、読む気になるかもしれない。
解釈や分析(数えるのは記述だろうけど)にしても、なんでそんな解釈や分析をしたのか、というのがはっきりしていた方が読みやすいし、その際に、価値づけというのは活きてくるのだろう。
どうしてそういう分析などをしたのか、という目的が分かればいいので、その目的が必ずしも価値付けである必要はないのだけど。例えば、作家の変遷を明らかにするとか、そのジャンルの特徴を明らかにするとか。でも、それは確かに批評というより研究っぽいなという感じ

  • 成功価値と受容価値

これについては、自分個人の話をすると、自分は受容価値についてばかり書いてきた、と思うので、何もいえねーという感じでもあるのだが……
受容価値、というか、自分はその作品を鑑賞してこういう経験をしたというのは、結局、あなたの感想ですよね、という指摘を免れない
自分自身の書くものについては、まあそう言われても仕方ないかな、という意識はある。
とはいえ、批評(ないし研究)が全てそうあっていいのか、といえばそうではないだろう。
つまり、何らかの客観性はもつべき。
自分も自分個人の経験(受容価値)をスタートにはしているけど、個人的なものには尽きないもの、ちゃんと他の人たちとも共有できるものが提示できるようにしたいと思って、ものを書いていたつもりでいる。
自分は全然、成功価値に着目して何か書いたことはないんだけど、批評が客観性を確保するのにそちらに着目する、というのは、確かにそうかもな、とは思う。

  • カテゴリごとの原理

上の2つは論争的な感じもするのだけど、批評に対するスタンス・心構えみたいなものだと思えばまあ、という気もする
これに対してもう少し気になってくるのは
キャロルは、芸術一般に適用されるような原理の存在は否定するけれども、カテゴリごとの原理ならばあるだろうと考え、それに基づく客観的な価値判断があると考えているようで、
言われてみれば確かにありそうな気もするものの、本当にそんなうまくいくかそれはとか、芸術作品の価値判断ってそんな法則を当てはめるようにして行われるものなのかとか
ここは結構重要なポイントのような気がしている

  • 意図主義まわり

このあたりも色々あるとおもうんだが、このあたりは自分があんまり関心をもてないでいる

*1:批評の客観性を担保する他の道として、倫理学における個別主義を美学に拡張するという方法が示唆されているが、具体的にどういうものかは書かれていない。個別主義って言葉自体は鈴木貴之『人工知能の哲学入門』 - logical cypher scape2でも見かけたのだが、シブリーっぽい話か? というふわっとした認識でしかない(し、それであってるのかもわからない)上に、それがどう客観性に結びつくのかもよくわからない

藤野可織『青木きららのちょっとした冒険』

フェミニズムに出会ったミルハウザーみたいな短編集
藤野作品は以前からミルハウザーっぽいなあと思っていたけれど、本作もアイデアは結構ミルハウザーっぽいところがある
それからもう一つ藤野作品の特徴としては、フェミニズム、女性の生きにくさを扱っている点があり、本作品集は特にこれが前面に出てきている感じがする。
すべての作品に「青木きらら」が出てくるが、同姓同名の別人、というか、この短編集の各作品をつなぐ象徴的な記号のようなもの。
背表紙には「きららはあなたかもしれない。(...)どんな彼女たちの名前も、青木きらら。8人のきららの人生を通して、私たちの痛みを掬い上げ、ともに生きる力をくれる芥川賞作家による傑作エンパワーメント小説」という紹介文が書かれている。「青木きらら」はいわば「私たち」の名前なので、各作品にそれぞれ青木きららという名前の登場人物が存在するのである。
そして、この奇想とフェミニズムは、分かちがたく結びついている。
例えば、フェミニズム的なメッセージには目をつむって奇想だけ楽しみますね、ということはちょっとできない(逆もまた然り)。そもそも、各作品に、同姓同名の別人がでてくるという仕掛けの面白さ自体、両方の要素を含んでいるからこそだろう。


奇想としてミルハウザーみが特に強いのは「トーチカ」「スカート・デンタータ」
短編としてよかったのは「消滅」とか「幸せな女たち」とか
とはいえ、どれも面白く読んだ。
一方、男性としては、読んでいて居たたまれなさを感じる部分もあるのは確かである。だが、だからといって完全に女性向けの作品というわけでも決してない。
確かに、この短編集では男性は加害者・抑圧者として描かれていることが多く、また「青木きらら」という名の下にくくられる「私たち」は女性たちのことであって、そこに男性は含まれていないだろう。
しかし、例えば「花束」や「消滅」で、主人公は亡くなった青木きららを悼む立場だが、男性であってもまた立場に立つことができる*1。あるいは明らかに男性を加害者として描く「スカート・デンタータ」や「幸せな女たち」であっても、男性に敵対している作品ではない。むしろ、男性へ問いかけてくるような作品だともいえる。
じゃあ「この作品は男性も女性も分け隔てなく対象としています」とまで言ってしまうとやっぱりそこは欺瞞で、一義的には女性のための女性をエンパワメントする作品であるわけだが、藤野の描く奇想世界を楽しむのに男性も女性もないんだよなあ、というか、そこはまあ普通に両立するわけで、それは本当は当たり前すぎてわざわざ注釈するようなことではないんじゃないだろうかとも思うのだけど……。

トーチカ

次第に巨大化していって街そのものと化していく「放送局」という、ミルハウザー作品にあってもおかしくないような設定の話。実際「放送局」の内部にショッピングモールがあったり、病院ができたり、集合住宅ができたりしていく様子は、ミルハウザー作品を読んでいるような感じがした。
一方、主人公の近子は、派遣社員として「放送局」の警備員をやることになった女性で、ミルハウザー作品ではあまり出てこないタイプの人物だろう。
近子は芸能人全般にはあまり興味がないが、モデルの「青木きらら」には崇拝に近い念を抱いている。そして彼女はある日、青木きららの偽物を見つける。
青木きららの偽物を見つけ出すべく、近子は警備の仕事へとのめりこんでいくが、そのために離婚することになる。
「放送局」はある種の管理社会のメタファーみたいな世界でもあり、青木きららの偽物は、管理から逃れた存在ともいえる。
近子は、青木きららの偽物と知り合いになる。青木きららの偽物は、会うたびに姿を変えている(見た目の性別すらも変えていて、本当の名前・年齢・性別は分からない)が、近子は青木きららの偽物を遠子と呼ぶようになる。
離婚後の近子は、「放送局」の各所にある警備員控室を仮寓として、「放送局」内で完結する生活を送る(そしてそういう人は他にもいる)


まるで覚えてなかったけど、群像2020年1月号 - logical cypher scape2で読んでた。

積み重なる密室

ライターの青木きららは、とあるミステリ作家へのインタビュー取材のために、新幹線に乗って鄙びた温泉街へとやってくる。
タクシーの運転手やホテルのフロント係から、熱烈な歓迎をうけるがどこか様子がおかしい。
ホテルの女性専用フロアに部屋をとってもらう。ほかのフロアは満室だというのだが、夜に外から見てみると他のフロアに一切明かりがついていない。
取材相手の作家は、約束の喫茶店に姿を現さない。
この町で見かけるのは女性だけ……


取材先のミステリ作家が過去に書いていた作品が、醜い女性が被害者になったり笑いものになったりする作品だったことが、ライターの青木自身の価値観形成にも影響していることが書かれている。殺されないためには美しくないといけない、と。

スカート・デンタータ

この作品は、(なんと)痴漢が主人公
ある日、電車で痴漢をしていた男の手首が切断され消滅するという出来事が起きる。主人公は、たまたま同じ車両に乗り合わせていた。
痴漢されていた女子高生のスカートに歯が生えて、痴漢の手を食べてしまったのである。その日から、他のスカートにも次々と歯が生えるようになり、同様の出来事が続く。
この最初の女子高生の名前が「青木きらら」なのだが、ネット炎上が起きてしまい、その後、女性たちが連帯をしめすためにみな、「青木きらら」と書かれたタグを持つようになったりする。
スカートを履くことがある意味文字通りの「武装」となり、女性たちが抑圧から解放されていく様子が、痴漢側から描かれていく。痴漢側としては、そうした様子はむしろ自分たちへの「攻撃」に思えるのであるが。
スカートに歯が生えるという異常事態と、しかしそれが(最初は若干戸惑われつつも)まるで自然なことのように社会へと広がっていく、という展開の仕方は、やはりミルハウザーっぽさがある。
また、ミルハウザーとは使い方が異なるが、一人称複数形が時々用いられるのは、もしかしたらミルハウザーからの影響もあるのかもしれない(スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(柴田元幸・訳) - logical cypher scape2に寄せた解説で、藤野は「私たち」という人称にも着目している)


この記事の冒頭で「男性へ問いかけてくるような作品だともいえる」と書いた。
この作品は、唯一主人公が男性という作品である。
といって、痴漢なので、その点、別に主人公に共感したりするところはないし、(歯の生えた)スカートを履く女性が増えていったり「青木きらら」タグをつけて連帯していくところは痛快に感じるし、主人公の理屈は身勝手だと思う。
つまり、主人公が男性だから男性読者にとっての物語に(も)なるというわけではない。
しかし、最後、主人公が渋々引き受けていくことになる変容は、「俺は別に痴漢ではないし」という男性でも、少し自分とつながりうるものとして読みうるだろう。

花束

主人公の女子高生が、ニュースに映っていた花束であふれる川原へと、高速バスに乗って向かう。家族には黙って。花屋で花束を買おうとすると、花が意外と高くて驚くなど。
目的地である川原に近づくと、ほかにも多くの人たちが集まっている。川原で亡くなった少女「青木きらら」をみなで悼んでいるのだ。
死亡推定時刻である深夜までみなずっと残っており、炊き出ししてたりして、そこにちょっとしたコミュニティみたいなものが形成されている。

消滅

学生時代の友人たちとの年に1回の飲み会へと出かける主人公
その途中、コンビニの脇に、捨てられたビニール傘が自分の背丈よりも高く堆積しているのを見かける。
ラオス料理屋で、なじみのない料理と酒に舌鼓を打ちながら、選択的夫婦別姓の話や香港のデモと推しのインスタの話、学生時代の思い出や、さっきコンビニで見かけた傘の話など、おしゃべりに興じる3人。
みな結婚して、学生時代から姓が変わっている。
主人公は学生時代、子供が生まれたら「青木きらら」と名付けたいと友人たちに話していた。今は大久保になっていて青木ではない。青木ではないのなら、きららとも名付けない。夫は当然のように自分の姓のままで、青木姓を維持しようと思ったら戦わないといけなかった。
そして、友人たちに話そうとして話せなかったことが一つ。彼女のお腹の中には、死産した子がいる。その子の名前は「青木きらら」。産まれてこれないことがわかってはじめて、密かにつけられた名前。
主人公は、帰り道、傘をコンビニ脇の傘の地層に押し込んで帰る。翌日、傘は消え去っている。
この作品は、この捨てられた傘たちと産まれてこれなかった子どもというモチーフの使い方がよかった。
それはそれとして、男性は改姓を意識しなくてもよい、というのはその通りで……

幸せな女たち

主人公はカメラマンの青木きらら。元々、結婚式のカメラマンとしてキャリアを開始した。
結婚式をターゲットにした無差別フェミサイド事件が起きたことで、結婚式が減り、独立
「ハッピリーエバーアフター」を始める。
それはおとぎ話のクリシェ「いつまでも幸せに暮らしました」だが、日常のシーンを撮影するサービスだった
結婚式が、人生で一番幸せな日と称されたりするが、主人公はそのことに疑問をもっていた。結婚式以外も幸せである、と。それは、女性が一番幸せな日だから結婚式を襲ったというフェミサイド犯に対するプロテストでもあった。
「ハッピリーエバーアフター」には、生前にSNSなどへの死亡報告用写真を撮影するというサービスもあって、それがヒットして会社が大きくなる。後半は、経営者になりつつも現場仕事を続ける青木きららと、少し年上(70代)の女性客との会話が中心
青木は、脅迫状を写真に撮り続けている。女性に向けられる悪意へ、カメラを使って抵抗し続ける。


この作品は、途中でぽんと時間がとぶのがなかなかいい。主人公の若い頃から話が始まるのだけど、老境になってから(しかしまだ現役として働いている)のシーンがメインで、それを短編というサイズに盛り込んでいるのがうまい
そしてこの「ハッピリーエバーアフター」というサービス自体が魅力的である。

美しい死

昼休憩にはいった青木きららが、後輩の男性社員から、青木さんも「江付山ロスっすか」と尋ねられ、それに対して反論というか、長文レスしはじめる(というか、正確には、本当はこういうことを言いたいけど、実際には言ってないというもの)。
「江付山」というのは、結婚を発表した中年の男性芸能人
青木きららが語るのは、クリスマスケーキ理論。つまり、25歳はいきおくれというアレだが、青木自身もこの説を信じているのだという。ただし、男女逆で。
そして推しに対して、25歳までに死んでほしいと思っている。ただし、推しに抱く感情は、自分も男の子になりたいというもの。
自分も美しく猛々しい男の子になって、美しい死を死にたいのだ、と青木は思っているのである。
そういうことを内心でまくしたてているのだが、実際にはそんなことには後輩には伝えずに終わる。

愛情

青木きららのママは専業主婦なので離婚できない。大人になったきららは共働きとなるが、子供を産んだあとワンオペ育児を強いられる。
という、それらは「寮」において見せられる夢
子供は生まれると「寮」で育てられている。
現実だと思っていたのが実は夢で、夢から覚めるとそこはディストピアだった、という、よくあるフレームを使って、いやしかし寝ても覚めてもどっちの世界もアレだね、っていう話だったかと思う。

トーチカ2

「トーチカ」のつづき。近子は、派遣切りにあう。再就職するためには「放送局」内の住所が必要で、そのために、ある種の偽装結婚をする。
青木きららの自殺
近子は、夫の正体は遠子ではないのかと思うが、そうではなかった。
「放送局」内の郊外にある団地で、ラジオの海賊放送が流れる。近子はそれを聞きに行く。青木きららがどこかから放送しているラジオだった。

私たちは勝ちの目のないこの戦いを共にすべく組まされたペアで、私がこうする以外どうしたらいいのかわからなかったと同じく、この人もきっとこうする以外どうしたらいいのかわからなかったんだ。夫の親指が気遣うように近子の手の甲を撫でた。近子はいっそう力をこめて夫の手を握りしめた。(中略)今、『放送局』の翼の下で震えるよるべない隷属者として立っている近子は、同時に特権を行使する冷酷な共犯者だった。遠子。でも私は、ただそこそこ安心してそこそこの暮らしをしていきたかっただけなのに。
「えーと、ハロー、聞いてる人、いますか? 青木きららです。(中略)あいかわらず最悪ですか?こっちは……こっちはこっちでまあまあ最悪かな!」

この「トーチカ2」のラストは結構複雑というか
近子と遠子は、ピエタとトランジのようなシスターフッド的な関係もありえたと思うのだけど、近子と遠子の道は決別してしまう。まあ、誰もがピエタとトランジ、あるいは遠子のようには生きられない。
というか、本短編集、男性から女性への加害や抑圧に対する様々な形の抵抗を描いてきたのだけれど、「トーチカ2」での近子は、結局生活のために夫婦関係を選ばざるを得なかったところが描かれている。ただ、「消滅」や「愛情」に描かれていたような夫婦関係とも少し違うことが示唆されている。
青木きららは「私たち」であるが「私たち」は青木きららではない、とでもいうべきジレンマがそこにはあるように思う。
ただ、それって諦めとか絶望とかなのかというと、最後に青木きららが「こっちはこっちでまあまあ最悪かな!」と言ってのけてくれることに救いのようなものがある。

解説 谷澤紗和子

谷澤は、美術家で、これまで藤野とは何度も作品制作のコラボをしてきたことがある人だという。
度々コラボをしているので、ユニットを組もうという話になり、最近「青木きらら」というユニット名で活動し始めたのだとか。

これまで読んだ藤野可織作品

藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2
藤野可織『いやしい鳥』 - logical cypher scape2
藤野可織『来世の記憶』 - logical cypher scape2
藤野可織『ピエタとトランジ』 - logical cypher scape2
未読は『パトロネ』『爪と目』『ファイナルガール』『ドレス』
全部で9冊刊行されているうちの5冊まで読んだのか。
『私は幽霊を見ない』はエッセイか。あとは絵本もあるみたいだけど。
(なお、Wikipediaで確認したので、抜けはあるかも)

*1:むろん「消滅」の主人公は死産している点で、男性が彼女と全く同じ立場に立つことは不可能ではあるが、それを言い出せば、どのような物語でも主人公と読者が全く同じということはありえない