アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャーⅡ 屈辱の刻』川野靖子・訳

アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャーⅠ エルフの血脈』川野靖子・訳 - logical cypher scape2に引き続き2巻
ドラマのシーズン3まで見ていて、ちょうどシーズン3の終わりと原作2巻の終わりが同じあたり。
また、ドラマの続きを見てから原作を見ようかな、と思っているが、どうしようかな。


1巻の感想では「ドラマと全然違うやんけ!」と書いたけれど、2巻はそうでもなかった
ただ、映像化作品の原作を読むって普段あんまりしないのだけど、ドラマ見てから原作を読むとどうしても違う箇所を探す読書をしてしまう(逆に原作先読んでると、その違いを探すドラマ鑑賞になるのだろう)。
で、思ったのが、一般的には、小説の映像化って、内容が省略されることの方が多いのかなと思うのだが、『ウィッチャー』の場合、映像化にあたって付け加えられているエピソード、設定、登場人物がすごく多い、という印象
むろん、原作にいてドラマにはいない登場人物とかエピソードとかもあるのだが、映像化にあたって増えた要素の方が圧倒的に多いと思う。
原作、意外と叙述の濃度が薄くて、数ページ地の文なしで台詞だけ続く、とかもちょくちょくある。


以下については、原作とドラマが同じ点

  • イェネファーがシリをアレツザへと連れて行く。
  • その途中、ドワーフの銀行に金を工面してもらう。
  • シリは市場を見物させてもらって、ワイバーンをバジリスクだと偽っている見世物小屋とトラブルを起こし、さらに逃げ出す。
  • シリとイェネファーがゲラルトと再会
  • イェネファーとゲラルトはともに魔法使いのパーティに参加
  • パーティ翌日、会議の日の早朝に、レダニアのディクストラが、ニルフガード側についた魔法使いたちを拘束
  • しかし、ティサイアがその拘束を解いてしまい、戦闘開始
  • スコイア=テルも参戦してアレツザへと潜入してきて乱戦状態
  • ヴィルゲフォルツにボコられるゲラルト
  • ゲラルトは木の精の森で治療。それを見舞うダンディリオン
  • フランチェスカはニルフガードと手を組んでエルフの国を手に入れるが、スコイア=テルを諦める
  • シリは、カモメの塔の門(ポータル)から砂漠に飛ばされ、砂漠でユニコーンに助けられる。火の力で魔法を使う。ファルカの幻影を見る。
  • 砂漠脱出後のシリは、盗賊団みたいなのに助けられる。

以上についても、細部はいろいろ違ったりはする。そもそも登場人物が違ったりするし。
ただ、シリの動きにかんしては、結構原作に忠実に映像化されていたんだな、という感じがする。バジリスク云々のあたりとか、砂漠うろうろするあたりとか
シリの未来視能力、小説では太字になってる。未来視がどこで発動しているかとかはドラマと違ったような気がする。
砂漠うろうろのあたりだと、クリームの空き缶の場所に戻ってきてしまうくだりとか、わりとそのまんまだった。
もっとも細かいところは当然違うところもあり、小説だと、シリが魔法の力で水脈探そうとしたり光源作ったりしていた(ただしすぐバテてしまって、1回しかできなかった)。水については短剣についた夜露でしのいでいた。
魔法使いのパーティ、雰囲気は結構同じ。ただ、アレツザの建物の設定はわりと違いそう。登場人物の設定が色々違うので、交わされる会話などは違いがあるが、ゲラルトとディクストラ、ゲラルトとヴィルゲフォルツの会話あたりは、おおむね同じような感じだった感じ


原作にあってドラマにないのは、基本、国王まわりのあれこれ
ドラマだと、レダニア以外の国王はわりと空気だが(フォルテスト王は短編集由来のエピソードをシーズン1にやっているので何となく印象があるものの、シーズン2以降は、画面の中にいるな程度だし)、原作だとなんかいろいろやっていて、ニルフガードとの戦争の状況も結構詳しく書かれている。
ドラマの方だと、戦争の推移とかはあんまりよくわからない、というところはある。


ドラマにあって原作にないもの~

  • ティサイアの設定

ティサイアがアレツザの校長やってて、魔法使いたちの中で偉い方というのは同じ
あ、ティサイアがかなり高齢というのは、原作でないとわからないところか。
ただ、イェネファーがアレツザの生徒だった頃の話が原作には全然ないせいで、ティアイサとイェネファーの師弟関係の描写も原作に全然ない。
それから、ティサイアとヴィルゲフォルツの恋愛関係も原作にはない
原作のティサイアは、ただやたらと机の上とかに置いてあるものを整理整頓するのが好きな人、というキャラ付けをされている。
フィリパとディクストラによるクーデターののち、ティサイアは魔法使いたちの拘束を解き、それが裏目に出てしまい、最終的にティサイアは自殺する、という流れは原作とドラマで同じなわけだが、こうした行為にでたティサイアをどう捉えるか、という点で原作とドラマは大いに異なってしまう。
原作もドラマも、ティサイアって魔法使いとしては優秀なのかもしれないけれど、こと政治にかんしてはてんでダメな人だな、というところは共通しているわけだけれど、そのダメ判断をしちゃう理由として、ヴィルゲフォルツとの関係があるかないかは結構変わってきてしまう
ドラマだと、ヴィルゲフォルツを信じたかったんだよねーということで、その判断は結果的にダメだったし、信じちゃダメな人を信じちゃったねっていう評価にはなるものの、人間的には理解しやすいし、そのあとのティサイアの半ば暴走気味の魔法乱発も、裏切られたことへの悔しさや絶望がない交ぜになったものだと思うと、理解はしやすい。
また、ティサイアの自殺についても、原作だと読者側にティサイアへの思い入れはあんまりないだろうし、該当シーンもかなりあっさりとしか書かれていない。
ドラマ版は、やはりティサイアとイェネファーの間に師弟としての絆があるため、ティサイアの自殺はそれなりにインパクトのあるシーンとしてある。
まあ、お前あのやらかしに対して、死んで終わりにするのはナシだろ、とは思ってしまうので、個人的にティサイアという人物への評価は、ドラマ版でも原作版でも低いのには変わりないのだけど、原作版のティサイアは描かれ方があっさりすぎるなあ、とは思う。
もっとも原作派からしたら、そんな人物をなぜそんな盛ったの、と思われるかもしれないが。

  • ストレゴボルとイストレド

この2人、原作だと短編には登場するのだが、この本編シリーズには(少なくとも2巻までには)登場していない。
一方、ドラマ版ではこの2人、わりと重要人物である。
ドラマ版だと、ストレゴボルはなんか悪そうな奴というのでずっといるので、視聴者の目をヴィルゲフォルツから背けるのにうまく機能している。ストレゴボルが裏で操ってんだろう、と思わせて、実はヴィルゲフォルツでしたーっていう作劇がドラマ版では行われているのだけど、原作だと、そういうのが一切ない。ヴィルゲフォルツがティサイアの恋人っていう設定もないから、ヴィルゲフォルツは登場時からなんか怪しい人物であり、やっぱり悪役でしたーとなる。
イストレドは、ゲラルトたちとは異なる観点から、視聴者に対して情報提供してくれる役目を担ってくれている。
また、ゲラルト・イェネファー・イストレドの三角関係も度々描かれている。
原作ではむしろ、ゲラルト・イェネファー・トリスの三角関係が描かれていて、そこも違うところ。ドラマでも、トリスがゲラルトを慕っているのは示されているけれど、原作ほどはっきりは描かれていない。

  • フリンギラとフランチェスカ

フリンギラって原作にはいないの??
ドラマのシーズン2での重要人物で、結構物語的にも面白さを担っていたのはフリンギラだと思っていたので、原作に全然いなくて驚いた。
それから、フランチェスカは、原作ではエルフの魔法使いとして、普通にアレツザの魔法使いパーティに出席している。結局ニルフガード側についているという点ではドラマと同じだけど、ドラマではエルフ難民を率いる指導者として泥臭く戦うところが描かれていたが、原作ではそういう描写なし
ドラマ版、この2人が、お互い色々な思惑がありながらも、一時的には友情を抱くようになり、しかしその立場の違いから決裂していく、というところを描いていてなかなか面白かったんだけども……

  • スコイア=テル(リス団)

原作では、スコイア=テルというエルフのゲリラが人間たちに襲いかかっている、ということが様々な人たちの口から語られるのだけど、スコイア=テルのエルフが直接登場してくるシーンはなかった。
これ、スコイア=テルがどういう集団でどういう行動をしていて人々からどう思われているのか、ということについては、ドラマより原作の方がよっぽどわかりやすくて、スコイア=テルという集団に独特の存在感を与えることに成功している。
ドラマ版では、スコイア=テルの人たちって具体的な登場人物として登場してくるけれど、彼らが「スコイア=テル」という名前の集団であるというのなかなか把握できなかったし、フランチェスカたちとは別集団というのも最初はよくわからなかった。
その一方で、具体的な登場人物として登場しているので、フランチェスカとのいざこざや、カヒルへの接近などのドラマがあったのは面白かった。

  • カヒル

この人は、原作とドラマとで役どころはおそらく大して変わりないと思うのだけど、原作では登場してくるのが結構遅い。

  • リエンスとリディア

原作のリエンス、意外と直接登場してこないな、という感じ。名前が出てくるのはドラマ版よりも早く出てきた気がするが。
ドラマでは死んだけど、原作ではこのタイミングでまだ生きているな?
リディアは、ドラマ版ではリエンスへの指示役として登場したけれど、原作での登場シーンは常にヴィルゲフォルツと一緒で、リエンスとの絡みはなかったはず。
ドラマ版は、リエンスのバックが誰なのかについてミスリードさせるようになっていたので、リディアがヴィルゲフォルツの助手だということも途中まで隠されていたけれど、原作はそういうのがないので、という違い。

  • 一枚岩とヴォレス・メイア、天体の合

これ、どちらかといえばドラマのシーズン2、小説の1巻相当の時期にあたる話だが
「天体の合」という設定自体は、この世界の根幹をなすもので、原作にも存在しているはずだが、今のところ説明されていない気がする。
一枚岩とヴォレス・メイアってもしかしてドラマオリジナルなの? ヴォレス・メイアはまあいいとして、一枚岩も??


サブタイトルが「屈辱の刻」だが、このワードはドラマでも言ってたなあ


第1節が、王の使者視点なのちょっと面白い。使者というか伝令。国王と国王の間のやりとりのために馬を走らせる人。
魔法使いがいれば事足りるので役割が減っていたが、最近になってまた召喚されるようになった→国王が魔法使いに不信を抱いていることの示唆とか、シリの行方や各国の情勢について、世間の人たちがどう認識しているのかとか、そういうことを描くために、ゲラルトやシリ、イェネファー視点じゃなくて、あえて、そういう端役視点の節を混ぜてるんだな、と。
このパートにも、ゲラルト、シリ、イェネファーは登場してはくる
ゴーストハントの噂が流れていたり(戦の前兆と見なされているらしい)
この世界、メートル法なんだ! とか


コドリンガー&フェン法律事務所!
あの情報屋の二人組、やっぱり法律事務所なんだ
しかもコドリンガーはウィッチャーであるらしい。フェンは、小人? 脚のない障害者? みたいな感じだった。
情報屋でもあるけど、法務的な何でも屋稼業をしているっぽい。偽の情報ばらまいたりもする。
原作だと、猫は死なずにすんだっぽい。


ゲラルトがヴィルゲフォルツにコテンパンにやられた後、木の精の森へやってくる(原作では、ティサイアがポータル開いてトリスが連れて行ったっぽい(明示されていないが))。
(ところで、ポータルといえば、シリがなんでアレツザのカモメの塔から砂漠に飛ばされてしまったかは、原作の方がちゃんと説明がある。カモメの塔には行き先がランダムなポータルがあるらしい(あ、そういえばドラマシーズン1でイェネファーがアレツザに来ることになったポータルってもしかしてそれ?!))
で、ダンディリオンがお見舞いにくるのだけど、ゲラルトがその後何が起こったのかをダンディリオンに尋ねて、ダンディリオンがそれに答える、という形で叙述されていくところがあった。
上述したように王の使者視点で描くパートがあったり、あるいは、会話文だけで描写していくパートがあったり、ここのように、ダンディリオンが語っているという体で三人称視点でいろいろな人物や場所のことを叙述するパートがあったり、いろいろな視点・語り方を混ぜているのは面白いと思う。
1巻に引き続き、作中世界の著作からのエピグラフも面白い
ダンディリオンの著作だったり、イスリンの予言だったり、なんかの事典だったり歴史書だったり、と。
で、ダンディリオンがゲラルトにいうには、ニルフガードが再び侵攻を始めるのだけど、北方王国の同盟が機能しなくて、テメレアとかケイドウィンとかは援軍送るのではなく、ニルフガードと休戦しちゃう。
そういう話を聞いてゲラルトは、なんて恥知らずなことが起きているんだと落胆するんだけども。そもそもゲラルトは、ヴィルゲフォルツから中立やめてどっちの立場にたつか旗色を鮮明にせよと言われていて(ディクストラからもいわれてたっけ)、ウィッチャーは中立だから、と突っぱねていたんだけど、しかしそれって、北方王国はニルフガードに対して毅然と戦うということを前提にしていたんだろうな、とも思う。
北方王国も魔法使いもぐだぐだじゃねーか、となってしまう。
ヴィルゲフォルツは行方をくらましているらしい。
あと、エメヒルが、シリと結婚しようとしているっぽいんだよな。娘設定じゃないのか? なお、ニルフガードに連行されたシリと称される少女がシリに似た別人なのは、ドラマも原作も同じ。
本物のシリは、砂漠が出たところで、一度、ニルフガードの懸賞金狙いの賊に捕まるが、その後、戦災孤児たちが集まった盗賊集団「ネズミ」に助けられ、彼らと行動を共にするようになる、というのも原作とドラマとで同じ。
ただ、原作の方が、このあたりの描写や説明は多かったし、細かな展開には違うところもあるが。
ニルフガードの騎士たちは、氏族ごとにかたまっていて互いに対立しているらしいとか


古のエルフ
イスリン→予言者
ララ・ドレン→人間と結婚した
ファルカ→反逆者
ここらへん、ドラマ見てたとき整理して把握できてなかった。エルフの名前、なぜか覚えられん。
原作だと、イスリンは確かまだエピグラフにしか出てきてないし、ララ・ドレンも1回言及があっただけ(ドラマ版も言及回数まだ少ない気がするけど)、ファルカは砂漠のシーンでしっかり出てきた、という感じ

柴田崇『サイボーグ―人工物を理解するための鍵』

サイボーグにまつわる言説をひもとく技術思想史の本
ただし、サブタイトルに「人工物」とあるように、サイボーグにとどまる議論ではなく、例えばAI論としても敷衍できる議論になっている。
何でこのような本を突然読み始めたかは柴田崇「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」 - logical cypher scape2にも書いたが、アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』について書かれているようだったから。
なお、この「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」という論文が、本書の第1章の元になっている(結構加筆修正されているが)
また、本書は「知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承」というシリーズの中の一冊ともなっている。目次だけ見ているとギブソンの位置づけが微妙にわかりにくいが(2章の2節のタイトルにギブソンの名前があるが、2章は3節から5節にも学者の名前が並んでいて位置づけの違いがわかりにくい)、第2章全体がギブソンの議論の紹介・評価にあたる
というわけで本書は主に、バナール(とプラトン)、ギブソン、クラークの議論を中心にして、サイボーグ論を論じるものとなっている(「サイボーグ論」論である)。


サイボーグとあるが、もう少し正確に言うと「extension」という言葉を巡る議論である。
道具(人工物)が人間のextensionである(人工物によってextensionされた人間がサイボーグであるともいえる)という時、このextensionという語が何を意味しているか。
extensionは多義語であって、日本語に訳そうとすると3つの用法に分けることができ、extensionという言葉を使って道具を論じる議論も、3つの系譜に分けられる、というのが本書の大きな前提となっている。
具体的には「拡張」「延長」「外化」の3つである*1
第1章で「拡張」、第2章で「延長」、第3章で「外化」をそれぞれ論じる構成。
第1章では、サイボーグ論の多くが「拡張」の論理で語られており、その「起源」はプラトンの『パイドロス』まで遡ることができるが、この語り方は隘路に陥ることが指摘されている(本書ではそれを「プラトンの呪い」と呼ぶ)
第2章では、その隘路を回避するために、extensitonを「延長」として捉える言説が召喚される。それがJ・J・ギブソンである。
第3章では、「外化」の話と、アンディ・クラークの話がされているが、クラークは典型的な「拡張」論として整理されている。
第4章では、マクルーハンの議論を紹介しつつ、今後の展望を語っている。

第1章 サイボーグ論の正統:「拡張」の技術論
1 サイボーグの誕生:一九六〇年、宇宙
2 サイボーグ思想の「原型」:『世界・肉体・悪魔』(一九二九)
3 サイボーグ思想の「起源」:『パイドロス』
4 「拡張」論の系譜(一):AI論に続く道
5 「拡張」論の系譜(二):二一世紀のサイボーグ論
6 まとめ

第2章 サイボーグ論の転回:「延長」への定位
1 「拡大」する身体の意義:「延長」の分節に向けて
2 「延長」の起源を超えて:J・J・ギブソンの道具論
3 F・ハイダーの視覚論:「透明になる」メディウム概念のさきがけ
4 D・カッツの色覚・触覚論:「運動」の発見
5 E・ホルトの行動主義:身体化の基礎理論
6 まとめ

第3章 『生まれながらのサイボーグ』解題
1 第三の extension:「外化」
2 『生まれながらのサイボーグ』:異形のサイボーグ論?
3 『現れる存在』解題:「越境する心」の哲学
4 「大き過ぎる心」:「拡張」に無自覚なサイボーグ
5 アンディ・クラークのサイボーグ:「拡張」のキメラ
6 まとめ

第4章 サイボーグ論の転回、そしてまとめ
1 サイボーグ論の「転回」:見込まれる効用
2 展望:理論化の方向性と課題 
3 まとめ

第1章 サイボーグ論の正統:「拡張」の技術論

大雑把な内容は柴田崇「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」 - logical cypher scape2と同じだが、同論文にあった「二、extension の系譜学」という節は削除されている。
代わりにバナール『世界・肉体・悪魔』の紹介・要約や、プラトン『パイドロス』の論理展開についての解説が加筆される。
「プラトンの呪い」という言い方も、『パイドロス』解説を経ることででてきた言い方だと思う
また、上の論文では、アーサー・C・クラークとK・ウォーリックの議論が、「四、サイボーグ論の正統」という一つの節でまとおめて紹介されていたが、こちらでは、第4節と第5節に分かれている。

  • 『世界・肉体・悪魔』

訳書のタイトルは『宇宙・肉体・悪魔』だが、ここではThe Worldを宇宙ではなく世界と訳している
この3つは克服すべき3つの敵である
世界は、機械技術と化学技術で克服する
肉体は、人工物への置き換え・改造によって
5段階あって、第一段階は人工生殖工場での誕生。ここまではホールデンの構想と同じ
第二段階は、X線や赤外線を受容できる感覚器官や効率的な運動器官による能力拡張
第三段階は、脳を新材料の円筒に格納
第四段階は、群体脳
第五段階は、脳も含めて人工物への置換
悪魔は、進化を妨害する心的要因のことで、能力の欠如と願望の欠如の2つ

  • 『パイドロス』

人工物との「融合」によって能力が「拡張」される、という議論と
人工物からの「分離」によって能力が「衰退」する、という議論が並行して進む
「衰退」は「脆弱性」の露呈でもある。「脆弱性」は克服できるか=「分離」は制御可能か否か、というところで議論が行き詰まる。
サイボーグだけでなく、AIやロボットの反乱もの、というのは、脆弱性は克服できないパターンの話として整理できる。
逆に、楽観的な未来論は、人工物は制御可能だ、というパターン
楽観主義であろうと悲観主義であろうと、技術論がいずれかのパターンに陥ってしまうことを、ここでは「プラトンの呪い」と称している。
重要なのは、道具の「製作者」が、その道具の効果の「判別者」たりうるとは限らない、という点である。
筆者は、先験的に道具の効果を決めてしまうことが、この議論に陥ってしまう要因であって、ここから抜け出すためには、経験的な議論が必要なのではないか、とする。

第2章 サイボーグ論の転回:「延長」への定位

「拡張」論の問題は、人工物の使用方法を先験的に捉えてしまっていることで、それを乗り越えるためには、経験的な研究が求められる、とした上で、それが「延長」の議論に認められるとする
具体的にはJ・J・ギブソンの議論が紹介される。
その上でギブソンに影響を与えた同時代の研究者として、ハイダー、カッツ、ホルトの議論をあげ、ギブソンとの相違に着目することで、ギブソンが何を言い、何を言わなかったのかを明らかにしていく。

  • ラルフ・モシャー(1920~2008)

サイボーグの歴史で必ず名前があがるGE社のエンジニア
モシャーの使う「extension」に拡張と訳せない概念があるとして、それを「拡大」とする
身体化、身体の身体的な伸長
稲見の人間拡張工学の中にも「拡大」がでているという(ただし、稲見は「拡大」も「拡張」と混ぜてしまう。なお、人間拡張工学についていうと、筆者は「拡大」についての論点があるという点で将来に期待していると好意的な評価をしているっぽいが、基本的に筆者がほかの論者を評価する際に、extensionに複数の用法があることを意識できているかという点をチェックしており、「拡張」と「拡大」を混同してしまっている議論には点が辛い傾向にある)

  • J・J・ギブソン

道具を使っていると、自分の体が延長されているような現象
(メルロ=ポンティとかも同じような話をしている奴)
ギブソンの知覚論は、環境を「物質」「媒質」、その2つを分ける「表面」の3つで構成されているとして、この3つで知覚を記述する。これをエコロジカル・アプローチと呼ぶ
媒質というのは、情報を伝達するものであり、行動を可能とする(アフォードする)もの(大気とか)
ギブソンは、自動車の運転をこのアプローチで記述している(ギブソンによる図が多く引用されている。安全運転の場。運転している車を中心に車をうまく制御できる範囲みたいなのを図示している)。
人工物(例えばハサミとか自動車とか)を使うと、「表面」がどう変わるか、というのがポイント
「物質」というのは人工物でもあるし身体でもある。

  • F・ハイダー

ギブソンと交友関係があった心理学者
ハイダー自身は、マイノングから影響を受けている
『物と媒質(メディア)』という著作があり、媒質(メディウム)に着目した点でギブソンと共通
しかし、人工物をメディウムとして捉えた点がギブソンと異なる
ギブソンの議論では、人工物は身体化するがメディウム化(透明化)はしない。ギブソンにとっての媒質は、行動を可能とするものでもあるというのがポイント

  • D・カッツ

実験現象学の手法で色覚論と触覚論を展開
ギブソンはカッツを参照している
カッツは、ロッツェの弟子であるミュラーの弟子
ロッツェに倣い、「探り針」の比喩を使う
19世紀心理学では直に接触する感覚を「近感覚」、媒質を介在する感覚を「遠感覚」とする
触覚は近感覚だが、探り針のように道具を介在して受容する触覚があり、カッツは「遠隔触」と読んだ
表面色や空間色になぞらえ、表面触や空間触などといった触覚現象を名付けた(あとフィルム色に対応する貫通触面だったっけかな?)
道具を介在して対象を知覚するという現象において、それだけでなく、道具そのものについての触覚もあることを指摘した
ハンマーを握って釘を打つとき、ハンマーを通じて釘の感触も知覚しているけれど、ハンマーと指との間の感覚もある。
カッツの議論からみるとギブソンの議論は「素朴」である
ギブソンの側からみると、カッツは人工物をメディウム化してしまっている
筆者的には、「素朴」なままでいることで人工物をあくまで「物質」の側においてメディウム化(透明化)させない、というのが大事らしい
ギブソンにとって、カッツの議論で重要なのは、知覚と運動の関連性の発見だ、と。

最終的に本書の中ではやや否定的な評価をされているが、触覚を色覚のアナロジーで説明してたり、道具が身体化しているような状況でも、身体と道具の境界もあるよね、というように議論の精緻化を行っているところは面白いと思った。
実際、近年のギブソニアンは結構この方向に進んでいるみたい。筆者的には「素朴」に戻れ、ということらしいが。

  • E・ホルト

ウィリアム・ジェームズの弟子で、フロイト支持者であり、「新実在主義」の指導者
ギブソンがホルトと直接接していたのは2年ほどだが、強い影響を受けた
ホルトの行動主義が、エコロジカル・アプローチのルーツ
動物の意図は、行動に現れる
反射弓があって、環境に対して何らかの反応をする(光に反応して動く、みたいな)。それが2つあれば、光に向かおうとする「意図」が生じる、3つあればそれは知性だ、というような論
ブライテンベルクという神経学者による「ヴィークル」論が、ホルトの議論とまったく同じらしい。で、このブライテンベルクのヴィークル論は、ファイファーによるロボティクスにおける自律エージェントに応用されている、と。
「意図」など心的なものは、環境と身体の関数であるということで、身体と物質の二元論・心身二元論を克服
(ホルトはこれを『フロイト流の意図』という著作で論じていて、本人はフロイトっぽい考え方をするとこうなると思っているらしいのが、ちょっと不思議な感じがした。この行動主義自体はわかりやすいが)


ギブソンの「延長」論は、起源であるデカルトから説き起こしつつ、デカルトの二元論を克服することで延長概念を更新している
エコロジカル・アプローチは、人工物がどのような情報を利用し、どのような行動を可能にするかを記述する
先験的に人工物の機能を決めるのではなく、使用から人工物の意味を見出していくアプローチ
人工物というのは、人間の機能の「拡張」や「置換」「代替」を行っているのではなく、行為のレパートリーの増加として語られる。
人間の能力の進化とは、行為レパートリーの管理にある

第3章 『生まれながらのサイボーグ』解題

この章ではextensionの3つめの意味である「外化」と、アンディ・クラークを紹介しているが、では、クラークの議論が「外化」の議論なのかというとそうではなくて、クラークの議論は典型的な「拡張」論であるとして話が進んでいく
クラークの議論については、21世紀に書かれた著名なサイボーグ論ということで検討の俎上にあがっているが、筆者の評価はあまり芳しくはない。
extensionの3つの系譜から読み解くという観点からすると、クラークのサイボーグ論も「拡張」の系譜におり、本書第1章で指摘された「拡張」論の欠点をそのままもっているからである。
ただし、クラークのサイボーグ論は単純に「拡張」とはいえないところもある。
クラークというと「拡張された心extended mind」概念が有名であるが、これは筆者がいうところの「拡張」という意味には相当しない。空間的な広がりという意味では、どちらかといえば「延長」っぽい議論である。
しかし、「延長」はデカルトの延長概念を起源にもつものであり、クラークの議論はあくまでも心についてであり身体の延長について語っているわけではない。というところから筆者は「extended mind」を「越境する心」と訳すことを提案する。なお、クラークの『現れる存在』では「漏れ出しやすい心」という表現をしており、筆者はこれを「越境」という訳を支持するものとしている。
クラークもまた、J・J・ギブソンを参照しているものの、身体を十分に位置づけられていない点で、ギブソンの議論のポイントをつかみ損ねている、というのが筆者の評価である。

  • 3つのextension

ベルグソン、カップ、ダゴニェの議論を参照しながら、第三のextensionである「外化」について論じている
3つのextensionは以下のように整理される

【拡張】
母型:extension
ヴァリエーション:増強enhancement、増幅amplification、増大augmentation
起源:プラトン『パイドロス』
置換substitution、replacement、機能、能力といった語と共起しやすい
【延長】
母型:extension
ヴァリエーション:伸長、伸/縮自在
起源:デカルト
使用、身体化、境界に類する語と共起しやすい
【外化】
母型:射影(投影)projection
ヴァリエーション:外化、外在化externalization, outeringなど
起源:ヒポクラテス
身体の機能とか内的な状態とかが外に現れるないし投影されること
なんで起源がヒポクラテスかというと、人間の内臓の様子とかは直接見ることができないけど、外に現れるものを診ることでわかる、みたいな発想が元々、ということ
道具は、例えば手の機能を外化したものだ、というように使う。

  • アンディ・クラーク

『生まれながらのサイボーグ』と『現れる存在』について紹介されている。
それぞれ各章の議論を要約しながら、それらがいかに「拡張」の系譜に属する議論であるかを述べている。
「延長」っぽい話もちょくちょく出てくるのだが、結局「拡張」の話に取り込まれている、としている。
拡張の中でも楽観主義の方
クラークにとっての身体は、人工物という外的リソースと脳という内的リソースを架橋するだけのもの
クラークは、神経回路というミクロダイナミクスと環境との相互作用というマクロダイナミクスの両方を統合する研究が必要だと論じ、後者の代表例としてギブソンをあげているが、実際のクラークの議論は前者に偏重していて、ギブソン的な身体論を展開できてない、と指摘している。


「拡張」論というのは、存在の階梯を上がっていく、みたいなところがある。
有機物を人工物に置き換えていく、とか、肉体を捨てて純粋な魂になるぞ、的な発想に近い
でも「延長」論はそうじゃない。ギブソンやホルトの考えでは、進化というのは内部機構の複雑化にすぎない、というような話もしていた。


筆者はクラークに対して厳しめの評価だが、人工物論として読むと典型的な拡張論でしかない、ということではあると思う。
(認知の話として読めば新しいことも言っているんだろう的なエクスキューズをどっかでしていた気がする。技術論として整理すると、すごく楽観主義的なタイプの議論なのだなあ、という感じ)

第4章 サイボーグ論の転回、そしてまとめ

章タイトルにもあるとおり、まとめの章だが、主にマクルーハンの議論が紹介されている。
マクルーハンについて、extensionに3つの意味があることを理解した議論がなされていると評価しつつ、自分が主張したい「サイボーグ論の転回」とは道が異なる、としている
「拡張」を「延長」に変えるんじゃなくて、「拡張」と「延長」をうまく組み合わせた議論をつくる(そのことを「編成」と呼んでいる)、ということを目指そうとしている。
最後、マクルーハン以外に、サイボーグ論関係で何人かの論者を駆け足で紹介していっているが、駆け足すぎてよくわからなかった。最後の最後には、サイボーグ論といえばダナ・ハラウェイも重要なのは承知しているけど、時間も紙幅も足りないのでまだ今度的な言及だけされてたりする。


マクルーハンは、メディア環境の変化をパラダイム論を援用して論じた、と。
マクルーハンがいう「銀河系」ってパラダイムってことだったのか~

あとがき

本書の英語版サブタイトル”The Key to Understanding Media”について
メディアはメディア論の文脈では人工物という意味なので、本書サブタイトル「人工物を理解するための鍵」を直訳したものだが、” Understanding Media”はマクルーハンの著作タイトルであり、ダブルミーニングになってんだよ的な解説がされていた。

感想

冒頭でも述べたけど、「サイボーグにまつわる言説をひもとく技術思想史の本」であり「「サイボーグ論」論」である。
だから、直接的にサイボーグとは何か、とか知りたい場合には全然よくわからない本だとは思う。
どういう風に論じるのがいいのか、ということでの思考のヒントという意味では、面白い議論が埋まっていたような気はする
とはいえ、じゃあどうすればいいの、という結論はわかりにくい
ギブソンのエコロジカル・アプローチの具体的な応用を実践するとかがある、とよりよかったかなと思ったりもする。
人工物はメディアではないんだ、というところのこだわりポイントの理由が、あんまりうまく飲み込めなかった。
本書の要旨からすると全然枝葉だが、ロルフ・ファイファーが気になった。身体性認知科学、バイオロボティクスとかの人のようだ。

*1:この3つは、同じ筆者による『マクルーハンとメディア論』(2013)でも論じられていたようである

アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャーⅠ エルフの血脈』川野靖子・訳

ゲーム化・ドラマ化もされている、ポーランド発の人気長編ファンタジーの1作目
前日譚にあたる短編集は、この前読んだところ
アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャー短編集1 最後の願い』『ウィッチャー短編集2 運命の剣』(川野靖子・訳) - logical cypher scape2
TVドラマシリーズについて、シーズン3まで見終わったところ
『ウィッチャー』シーズン2 - プリズムの煌めきの向こう側へ
『ウィッチャー』シーズン3 - プリズムの煌めきの向こう側へ


ちなみに、ウィッチャーシリーズは以下のようになっている。

  • 小説

短編集2冊、長編シリーズ全5冊、それ以外の長編2冊

  • ドラマ

現在、シーズン4まで配信中
完結編とされるシーズン5が制作中
なお、シーズン1が短編集2冊、シーズン2が小説第1巻と第2巻、シーズン3が小説第2巻に相当するとのこと。
ちなみに、主人公ゲラルトについて、シーズン4からキャストが交代したらしい

  • アニメ

スピンオフのアニメ作品が2本ある

  • ゲーム

1~3まである。
ゲームについてはよく知らないが、3は、小説が完結したあとの時系列を描いているらしい。

内容

ドラマと全然違うやんけ!
以下、ドラマとの違いを中心に、大雑把なあらすじと感想


まず、シリの言動がドラマ版よりも幼い感じがした。小説では、13歳になると書かれていたが、13歳の女の子としても、ちょっと幼いような気もしないでもない。まあ、そこはなんともいえないところ。シリの性格もあるだろうし。
ドラマ版のシリは、どうしても見た目がハイティーンだからな。多少、言動が幼い感じになったとしても、見た目でこれくらいの年齢だなという印象が決まる。ちなみに、キャストは撮影当時20歳くらいか。


まず読み始めると、人間(貴族、商人、庶民など)、エルフ、ドワーフ、ノーム、ハーフリングなど様々な種族、階級の人々が集って休憩しているところで、ダンディリオンが歌を披露しているシーンから始まる。
これもドラマに全然ないシーンだが、もっとも、これは世界観や基本的な設定の説明みたいなもののためにあてられているので、小説とドラマの語り方・構成の違いに過ぎない
シントラ陥落後、シリの行方はわからない。ゲラルトが探しているが見つけられたのかどうか分からない。ゲラルトとイェネファーは恋仲だったがその後どうなったかは不明、というのが、公になっていることなんだな、というのがわかる。


その後、ダンディリオンがリエンスに拷問受けて、イェネファーに助けられる
リエンス出てくるの早っ、と思った


で、実際にシリがどこにいるかというと、ケィア・モルヘンでウィッチャーの修行を受けている。そこに、ソドンで死んだことになっている魔法使いトリスがやってくる。
このウィッチャー修行の様子や、トリスがやってくるあたりは、ドラマ同じ
トリスとゲラルトがかつて関係を持っていて、トリスは今もゲラルトを気にしているがゲラルトは距離をおいている(友人としては親しくしているが、そういう関係になるのは避けている)、というあたりも、ドラマにもあったと思うが、小説の場合、トリスの心の声が書かれていて、トリスがかなり未練たらたらな様子がわかる。
で、ドラマだと、シリのヤバさがわかったトリスはいったんアレツザへ逃げてしまったが、小説ではそうならない。
ドラマではゲラルトとシリの二人でだったが、小説はトリスも加えた3人でネンネケのいるメリテレ寺院へ向かう。で、トリスが食中毒になってしまったところ、ドワーフ部隊に助けられる。
ここで登場する、ゲラルトとも旧知の仲のドワーフのヤーペンは、ドラマ版に出てきたドワーフと同じ人だと思うのだが、人間と協力関係にある、という点で、政治的には微妙な立ち位置にいる、ということが小説版では結構書かれている。


スコイア・テルの話もしている。
実は正直、ドラマ版だと、スコイア・テルって言葉が何を指しているのか理解するのに時間がかかったので、小説だと、もうスコイア・テル出てきた! っていうか、スコイア・テルの説明わかりやすっとなった。
そもそも小説だと、フリンギラとフランチェスカがいない?


ドラマだと、メリテレ寺院いってすぐにイェネファー出てきて3人合流だったけど、小説だとそうはならず。ゲラルトがシリを一人寺院に預けて、シリはそこで学校教育を受けることになる。
ゲラルトはレダニアとテメリアの国境あたりにある川に行く。
これは短編集読んだときも思ったけど、この作品、剣と魔法の中世ヨーロッパ風ファンタジー世界のわりに、現代的な生物学用語がでてくるんだよなあ。リンネ的二名法による生物分類が行われている。結構、環境問題的な話もしているし。
で、ゲラルトはレダニアの大学がある街へと。
この街にはダンディリオンもきているのだが、大学に吟遊詩学科なるものがある! この世界の吟遊詩人って大学出なのか?!
ダンディリオンがディクストラたちに協力しているの、ドラマ版でどういう理由だったか忘れたが、小説によると、ダンディリオンがレダニア人だからであるようだ。
っていうか、ディクストラとフィリパが登場してくるのも早いなあと思った。
この大学は、ドラマ版には全くなかったはず。
医学部生のシャニという、ダンディリオンの友人が、リエンスにつながる情報をもっていて、ゲラルト、ダンディリオン、シャニ、フィリパの4人で行動するシーンもある。フィリパが、ディクストラとは微妙に異なる利害で動いているっぽい。
ところで、ゲラルトが早速シャニと寝ている。ゲラルトのプレイボーイっぽさは、ドラマのシーズン1では多少あるのだが、シリと出会った後はそういうシーンはなかったような気がする。


北方諸国の4大王国の国王たちの秘密会議。
ドラマ版は、国際政治の陰謀みたいなパートは、魔法協会がメインで国王たちの話はなかなか前面に出て描かれてこなかった気がするが、小説版は、魔法協会が出てくるより先に国王たちが出てきた。ドラマ版では台詞なかった女王もガンガンしゃべる。
テメリアのフォルテスト王が若くて美形の王様で、これもドラマと違っていて驚いた(ドラマでは結構おじさん)
で、その秘密会議を知って、こっちもいろいろ画策する白炎ことエムヒル
リエンスのボスは、ドラマ版ではヴィルゲフォルツだったが、小説ではエムヒルらしい。
今のところカヒルはいなくて、シントラ総督とかが出てくる。


で、ヴィルゲフォルツとティサイアも出てくるけど、小説ではパートナー関係にはなってなさそう。
ソドンの戦いでヴィルゲフォルツの発言権が増している、というのはドラマも小説も同じだが、ドラマではヴィルゲフォルツはアレツザで魔法協会の会長になったのだが、小説では要職に就いたわけではなさそう。
ティサイアが、小説版だと、極端に几帳面な人間で、食事の際にスプーンやフォークをまっすぐ並べないと気が済まないという描写がされていて、ちょっと面白い
ヴィルゲフォルツが密かにイェネファーのことを探していることに気づく。ティサイアがイェネファーのことを気にかけているのは小説も同じっぽい。
そういえば、章ごとに、この世界内の著作物からの引用がエピグラフとして書かれているのだけど、ティサイアの著作からの引用もあり、「生まれながらの魔法使いはいない」として、魔法の力が遺伝によるものではないこと、というかそもそも、魔法使いは基本的に不妊化することが説明されている。


イェネファーが、ゲラルトに対して「親しき友よ」で始まる手紙を送っているのが小説にもあるのだけど、ドラマ版とはニュアンスが異なるというか、ゲラルトがシリの件で最初にトリスに頼ったことをめっちゃ当て擦っていてウケる。
イェネファーはメリテレ寺院にいって、シリに対して魔法の個人指導を始める。
シリは最初、イェネファーのことが嫌いだったが、次第に仲良くなっていく(嫌いだった理由も仲良くなった理由もゲラルト)。
イェネファーが魔法とは何かについていろいろ詳しく教えてくれるので、ここらへんはファンタジー読者的には楽しい。
シリの力のことは「源流」と表現されている。


ドラマのシーズン1のシリパートの話は、小説版にはなさそう。シントラが攻め落とされてからゲラルトに会うまでの間の行程は、数行で説明されている程度だった。最後、ドルイドの家にいたらしい。
ダーラは小説の方には出てこなかった。
そもそもソドンの戦いも直接的には小説にはでてこないし。
ということは、イェネファーが魔法使えなくなっている云々も小説にはないのか。


小説とドラマとで展開が違うという話は、なんとなくドラマの感想記事とか見て知っていたが、最初からここまで違うとは思っていなかった。
シーズン1と短編集は、もちろん違うところは色々あれど、わりと対応していたので。
小説版には小説版の、ドラマ版にはドラマ版の面白さがそれぞれあるな、と思う。
小説版の方が設定の説明などは分かりやすい
ドラマ版の方がモンスターとのバトルシーンなど映像的スペクタクルが多い

金井良太『AIに意識は生まれるか』

意識研究についての本
とても明快で読みやすく、そして面白い
この本は、著者自身の研究史に沿って進む(子供の頃、こういうことが気になる子供で、大学ではこういうことをして、どこどこに留学してこれの研究をして~)ので、それがこの本の読みやすさにつながっている(科学系読み物ってこのパターン結構あるような)。
そういうわけでサクサク読めるのだが、様々な概念や理論の説明が簡にして要を得ているように思えた。
あくまで一般向けに書かれた本で、専門的・学術的に記載されているわけではないのだろうが、しっかりエッセンスが捉えられているように思えた。


筆者の金井良太については、旧twtterでフォローしたりしていて以前から知っていたし、アラヤという会社をやっているのも知っていたが、どういうことを考えているかなどをまとまって読んだことはなかったので、面白かった。


筆者は、意識の統合情報理論(IIT)+グローバル・ワークスペース理論で意識を説明しようとしている。
IITについてみんな誤解している、IITこそ真の意識理論だ、ということをPart7で説明しているのが、本書のハイライトとなる。
IITについてのよくある誤解は、自分もまさにそう思っていたものがあったので、「そうだったのか」と思いながら読んだ。
それから本書のタイトルは「AIに意識は生まれるか」であるが、これについてはPart9で触れられている。ただ、これについてはあんまりよく分からないなという印象だったが、そもそも、なんでAIの意識について考えているか、という動機が、渡辺正峰とほとんど同じなのが面白かった。
渡辺は、IITについては否定的ではあるものの、渡辺いうところの「意識の自然則」の候補の一つがIITであり、自身のライバル仮説として認めている。
で、意識の自然則を検証するためには、人工的に意識を作って、脳を接続して、意識が発生しているかどうか確かめるしかない、と渡辺はいうわけだが、金井も全く同じことを言っているのである*1
意識の研究をするには大学にいてもお金が足りないので起業した、というところも、2人の共通点だろう。


今月の当ブログ、乾敏郎・門脇加江子『脳の本質』 - logical cypher scape2で始まって、これで終わるのなかなかよい感じ(その間に読んでいたのは、脳も意識も関係ない本だけど)
脳・意識関係の本について、引き続き読みたいと思っている(他ジャンルの本と交互に読んでいくと思うが、とりあえずここ数ヶ月くらいは優先するテーマにする予定)。

1 世界はフィクションかもしれない

筆者の高校時代から大学時代まで、どのような興味関心をもっていたか、という話
ハイデガー読んでたとか何に興味を持っていたのかの話もそれなり興味深いが、まあここでは省略
大学4年くらいの時か、ラマチャンドラン「クオリアの三原則」という論文を読んで、クオリアという言葉を知るとともに、意識が科学的に研究できることに驚いた、という


自分はなぜかラマチャンドランを読んでいないのでちゃんと知らなかったのだけど、ラマチャンドランもクオリアに言及してたんだな。

2 意識とクオリアの謎

意識のハードプロブレムなどについて。


意識には、現象的意識とアクセス意識という2つの側面があるということを、簡潔で明快に説明してあって、よかった。

  • クオリアの4つの特徴

デネットが、哲学で伝統的にクオリアの特徴付けとされているものと紹介したのが以下の4つとのこと
1.言語によって表現できない
2.内在的
3.個人的
4.直接的
筆者は、これらは確かにクオリアの特徴だと思えるが、科学的にはアプローチしにくい、と。ただ、4だけは研究の対象にしやすい特徴だとしている。

  • ラマチャンドランによる「四大法則」

ラマチャンドランによる特徴付けの方が、科学的にはアプローチしやすい、と。
1.撤回不可能性
2.柔軟性
3.短期記憶との関係
4.注意との関係
「撤回不可能性」というのは、認知的侵入不可能性のことでもあるなあと思った
認知的侵入が可能か不可能かというのは知覚の哲学で話題になることだけれど、知覚経験というのは、現象的意識と限りなくイコールだと思うので、これが出てくるのは妥当かなと思う
「柔軟性」というのは、クオリアというのは情報として柔軟な使い勝手があるっていう話で、あとでグローバル・ワークスペース理論と関わってくる
3と4について、筆者は、ラマチャンドランがこれを書いたときはクオリアの特徴としてあげられてたけど、研究が進むにつれて、短期記憶や注意は、クオリアの特徴ではないことがわかってきたよね、と注釈している

3 意識を研究する

この章は、大学院進学の頃の話など
学生時代の土谷尚嗣との出会いなどが語られている。2人で論文をかたっぱしから読んだ話など。本書の巻末に、土谷との対談も収録されている。
ロゴセシスが来日する予定があって、それで両眼視野闘争の論文を読んだとか(実際にはこの来日は実現しなかったらしいが)
それから当時の意識研究の雰囲気として、意識に着目する研究者は増え始めていたが、予算申請とか論文とかに「意識」って書くと採択されないっていう状況で、意識はCワードと呼ばれていた(代わりにawarenessとかattentionとか使われていた)、という有名な話があるが、下條信輔が「クオリアは下ネタだね」という冗談を言っていたらしい。
筆者と土谷の2人は、コッホや下條のいるカルテクへの進学を希望していたが、金井は入試に失敗し、ユトレヒトへ。しかし、土谷はカルテクへ行くことになったらしい。
ちなみにコッホ『意識の探求』を2人で翻訳している。

4 意識のありかを探せ

当時の意識研究は、NCC探しが中心
コッホ偉いよね、という話と、NCCとは何かという話
筆者もNCC探しをしはじめた。
大学院は、前の章にもあった通りユトレヒトなのだが、長期休みのたびにカルテクの下條研に潜り込んでいたらしい。


細かい話だが、視覚の説明がなされている中で、外側膝状体にはパーボ経路とマグノ経路があるよという記述があって、聞いたことない名前だけど腹側経路と背側経路に似ているなと思ったら、それらが大脳では腹側経路と背側経路につながっているらしい。

  • NCCの弱点

いくつかの理由でNCC探しは行き詰まり始める
まず、意識の局在性が怪しくなってきた
脳のネットワークに注目すべきだが、それには技術的制約が大きい(fMRIではむり)
また、実験が色々行われるうち、意識と注意、意識と報告が区別されるようになっていって、実験がシンプルでなくなってきた
あと、そもそもNCC見つけてもハードプロブレム解決できない

5 クオリアが作り出すフィクション

クオリアは世界と脳との間のインターフェース(フィクション)だ、と。
筆者は「フィクション」という言い方を気に入っているようで、本書では多用されている。ただ、個人的には、本書での登場頻度は低い(1回くらいしか使われていない)けど、「インターフェース」という言い回しもいいかな、と思う。
フィクションでも別に意味は通じるものの、フィクションという言葉は意味が広すぎるので
ユーザー・イリュージョンという言葉もあったな、と思い出しつつ
このあたりは以前渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2を読んだときの感想にも書いたのだけど

そもそも、これは生成モデルがどうの以前の話だけれど、自分が外界として知覚している経験って全て脳内で生起している一種の幻想であるというのは想像するとなんかすごいなあ
外界だと思ってるけど、脳内で生起している現象であるということが、脳は外界の中の一部分だと思っているけれど、この外界は全て脳の内部なんだ。


もともと視覚について研究していたが、時間についても。
時間の研究は、「同時性」や「時間の長さ」からアプローチされている。
同時じゃないものを同時だと感じてたり、いろいろ、脳がつじつま合わせをしている(時間についてのフィクション)


それから、筆者が見つけたものとしてヒーリング・グリッドという錯視がある。
これは、視覚がボトムアップだけでなく、トップダウンの経路も用いていることを示している。
もちろんこの、トップダウンうんぬんは、ヘルムホルツから始まる奴である。

トップダウンの流れとボトムアップとの流れが出会ったときに、脳内で情報の共有が発生し、それが意識になるのではないかと思っている。これは、後で説明する「グローバル・ワークスペース理論」のブロードキャストに相当するのではないかと考えている。
p.101

ところで最近、山形浩生で谷淳の説を紹介していた。

意識というのが必要なのは、脳からのトップダウンの命令と、感覚器からのボトムアップの刺激反応とが矛盾する場合だ。その両方がぶつかることで、その判断の回路に決定論的カオスが生じる。それが意識なんだ、と谷は主張する。
意識・知性・良心? Conscousnessの混乱 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

まあ、金井と山形=谷とでは違う話をしているとは思うのだけど、トップダウンとボトムアップがぶつかる場所に注目している点は似ていて、「おっ」となった。もっとも、今、脳を研究している人はみんなそこに注目しているかもしれないが。
カオスが重要、というのは時々見かける主張なのだけど、まだ自分はよくわかっていないので、この谷の本もあとで読んでみたいとは思っている。


さて、トップダウンとボトムアップの話はいったんここで切り上げて、本章ではあと、クオリア空間の構造ないし秩序の話をしている。
赤とオレンジは似ているとか、そういう秩序がクオリアにはある、と。それで独自の構造を持っている。
現実世界にもやっぱり構造があって、クオリア空間と何某か対応しているんだ、と
最近の人工知能研究の言い方をするなら、クオリア空間の構造というのは「世界モデル」といってもいい。

特定のクオリアが特定の質的経験を伴うのは、蓄積されたクオリア空間の構造という「文脈」によって、今現在の経験を「解釈」するからではないだろうか。
p.108

6 内側から見た意識

ユトレヒトで博士号をとったのち、晴れてカルテクの下條ラボにポスドクとして入ることができた。が、ハーバードへ「家出」するようになった、と。下條からは、正式なメンバーじゃない時はよくきていたくせに、正式なメンバーになった途端来なくなって変な奴だなあと言われていたとかなんとか。
筆者は当時、頭頂葉へ注目していたという
「NCC探しというより意識的な知覚を維持しているものを突き止めるための研究」(p.118)だったのではないかと振り返る。
カルテクでのポスドクの任期が切れたのち、ロンドンのUCLのポスドクに

  • ジョージ・スパーリングによる1960年の実験と「報告できない意識」

3列のアルファベットを覚えてもらう実験で、意識されているけれど報告できない状態というのがあることがわかる。
ここから、意識の2つの段階が考えられるようになる。
現象的意識の段階があって、その中から注意の働きによって報告可能な段階(アクセス的意識)へと引き上げられる
現象的意識とアクセス的意識の区別が科学の俎上にあがってきたわけだが、筆者はここで、もともとの現象的意識とアクセス的意識の区別と、ここでいう区別は、異なっていることを指摘する。
もともと、現象的意識とアクセス的意識とは、意識の2つの「側面」であった。現象的意識とアクセス的意識とは、あくまでも同一のものであって、見方によって、現象的であったりアクセス的であったりと異なる側面を見せるのだ、と
ここでは、それが、異なる「段階」にすり替わってしまっている、と
筆者は、この2つはあくまでも「側面」であることにこだわりたい、と
ここは結構、重要な指摘であるような気がした。

  • グローバル・ワークスペース理論

1980年代 バーナード・バースらによって提唱された
「モジュール」どうしで情報の共有をするところ=グローバル・ワークスペース=意識
スポットライト(注意)
「情報のまとまりが他のモジュールにとって利用可能(アクセス可能)」=意識
意識に上がる場合、脳内のネットワークが活動するけれど、意識に上がってこない情報処理の場合、局所的にしか脳内が活動しない、というところからも支持される。
筆者は、「脳内のある情報のまとまり」を外側からみるとアクセス意識、内側からみたらクオリアなのだ、と述べる

7 意識の統合情報理論

2012年 サセックス大で准教授となる(パーマネント職)
サセックス大に来たのは、予測符号化理論から意識を研究しているセスからの誘いがあったから、と。
フリストンがUCLにいたので、筆者はUCL時代に、自由エネルギー原理について触れることもあった、と。
筆者は、予測符号化理論を自由エネルギー原理の応用、というように表現していた
予測符号化理論、予測最小化理論、自由エネルギー原理と、なんか名前がいろいろあるけれど、これらの関係が、自分にはまだいまひとつよくわかっていない(大雑把な説明だけ聞くと大体同じものに見えるのだが、完全に同じものではないんだよな、と。そこの差異があんまり理解できてない……)。
本書では、Part5でもヘルムホルツの話をしていたが、筆者の中で、このあたりの理論をどのように位置づけているのかはあまりはっきり書かれていなかった気がする。


さて、筆者はそういう影響もあって、実験科学から計算論へと、研究がシフトしていったという。
で、筆者は割と研究分野をころころ変えている方で、研究者としてはわりと珍しい方だ、と述べている。


そうして筆者は、トノーニの統合情報理論(IIT)と出会う。
で、IITはとても誤解されているという。
しかし、超重要理論で、意識の研究者は、IITを理解できているか否かで区別されるという。

  • 誤解されているポイント

1.IITはとても難しい
→数理的にとても難しい
2.IITはバージョンアップを重ねている
→2023年現在Ver.4だそうで、世にあるIIT解説の中には、古いバージョンに基づいているものもある
3.IITは意識の指標ではない
→IITは、統合された情報こそ意識そのものである、という主張であり、意識の指標ではない!
これは僕自身ジュリオ・トノーニ/マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』 - logical cypher scape2を読んだ際に、意識の指標だと認識していた。なので、IITはまあいいか、というような認識でいた。
IITの哲学的な側面があまり理解されていない、という言い方も筆者はしている。
4.IITはハードプロブレムを解消する
統合された情報は必然的に意識(意識の自然則に相当)
3のように、統合された情報を意識の指標だと考えると、IITでハードプロブレムは解消できない、という理解になるが、そうではないといこと


情報とは何か
統合された情報とは何か
部分を変えると全体も変わっちゃう、というのが統合。
統合された情報について、『別冊日経サイエンス AI 人工知能の軌跡と未来』 - logical cypher scape2にあった「意識版チューリングテスト」を思いだした。って、これまさにコッホとトノーニがいってる話だ。


IITは、情報を内在的にみる
統合された情報とは、対象についての情報ではなく、自分自身についての内在的な情報
IITは汎心論的な理論である。
IITは内から見る理論であり、その点で現象学的である(トノーニ自身がそういっているらしい)
それゆえに、IITはハードプロブレムをさかさまにしている、と。
ハードプロブレムというのは、客観的・物理的な世界にどうやって主観的な意識が存在しているのかという問題が、IITは、そもそも「主観的な意識は存在する」というのを所与の前提としてスタートする理論なので、考え方が逆


IITは、以下、第0公理から第4公理までの5つの公理をもつ
意識はどうして生じるのか、ではなく、意識は存在する、ということを公理としてそこから始めるのがIIT
0.意識は存在する
1.意識には構造がある
2.意識は情報である
シャノンの情報理論的には相関関係でも因果関係でも情報だが、IIT的には因果関係でのみ情報は成立
3.意識は統合されている
4.意識は排他的である


クオリアとは、「コンセプト」の特定の配置
コンセプトというのは、色、形、空間、明るさなど
コンセプトは、階層構造をもつ
物理世界に対応していないコンセプトもある(痛みなど
このあたり読んでて、うーんカントっぽいと思った(その連想が正しいかどうかはわからないけど)。


意識をもつための条件として、「情報が統合されている」「情報が再帰している」を挙げている
中国語の部屋は、再帰がないし、情報が構造化されていない、ので意識を持っていない
(ここでいう条件と、さっきでてきた公理の関係が微妙によくわからんが)


IITには反証可能性がない?
→だから、人工的に意識を作って確かめてみる
(IITに限らず「意識の自然則」はすべてそういうことになりそう)
渡辺正峰『意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く』 - logical cypher scape2では、IITの研究者は、IITを検証不要のものとして扱っていて評判が悪い、ということが書かれていたが、IITの建付け(?)がまあそうなっているということなのだろう。


IITの困難としては、計算量が膨大になりすぎるというのがある
人工意識なら、計算可能な範囲で作れるのでは、というもくろみでもあるみたい。

8 意識を作る

この章は、最近の筆者の関心事がまとめられているという趣


これまで意識研究の実験では、「個人の中での差」を見てきた、と(両眼視野闘争でどっちが見えるかとか、錯視の実験でどう見え方が変わるかとか)
しかし、「個人間での差」も大きくて、これもみていきたいよね、と。


それから、この章で取り上げられているトピックとしては、以下の通り。
神経倫理学(という語は出していなかったが気がするが、『脳に刻まれたモラルの起源』という本を出していると)
再現性の危機
起業

9 意識を持つAI

2015年からアラヤで「人工意識」をテーマに


LLMはφをもつか
IIT的に現代のコンピュータではだめ、ということになっているらしい。
また、LLMには再帰がないのでむり、という話もあるが、これについて筆者は、フィードフォワードも再帰とみなせるのではないの、みたいな話をしている。


意識があると情報の使い勝手がよくなる
意識の機能は「反実仮想」「世界モデル」
筆者は、意識がグローバル・ワークスペースと考えているが、人工意識として機械にグローバル・ワークスペースをもたせると、プラットフォームないしOSとして働くんじゃないか、というようなことが書かれていたと思うが、ここらへんはあんまりよく呑み込めていない。

10 人工意識とクオリアの意味

AIアライメントにも興味がでてきたよ、という話をしている。
自由意志や好奇心をAIにもたせると危険だが、逆に言うと、人間に従うように作られている限りはAIは安全なのでは、というのが筆者の考えらしい。


それから、筆者が最近唱えているという「クオリア主義」について
世間や社会での価値(お金とか名声とか)じゃなくて、自分が感じる幸福を大事にして生きる方がいいよ、という主張であり、その主張自体は非常に妥当なものだとは思うのだが、その主張に「クオリア主義」という名前をつけるのは、あんまりピンと来なかった。
自分自身の感じることを大事にしよう、ということで、その自分自身の感じている感じってクオリアのことだから、クオリア主義って呼ぶのも間違いではないものの、何というかそう呼ぶことで、クオリアという語に、価値的なニュアンスが付加されてしまうよなあ、と

対談 金井良太×土谷尚嗣 意識研究の「二重らせん」

学生時代からの友人?同志?である2人の対談
面白いのは、興味をもつタイミングが違う、と
クオリアの構造に着目する、というのも、金井が先にそういうことを考えたのだが、それを話したとき、土谷は全然ピンとこなかったらしい(今は、土谷はクオリア構造学というのをやっている。考え方としては似ているが、土谷は圏論を用いてそれをやろうとして、金井はそれは面白いと思いつつも圏論までは手を出していない感じ)。
IITについても、最初に興味をもってこれはすごい、となったのは金井の方で、土谷はあとからトノーニと話をして、IITを評価するようになったらしい。
(ところで、元々「ダイナミック・コア」と呼んでいたよねという旨の発言があった。ダイナミック・コア仮説はエーデルマンの主張の名前だったと思うが、エーデルマンとトノーニは師弟関係があるらしく、なんか関係しているんだろうなあとは思っていたのだが、やはりエーデルマンの説を継承した上で発展させたものっぽいな)
グローバル・ワークスペース理論については、今のところ、土谷は納得しておらず、disり気味であるw
また、土谷は起業はしていないしビジネス系のことには全く興味がなかったらしいが、教授になりお金をとってくる必要がでてくると、そうも言っていられなくなって最近読む本がビジネス書ばかりになったという。

グローバル・ワークスペースのこととか

グローバル・ワークスペース説って、心の哲学や意識の科学の本を読んでいると、わりと名前はよく見かけるのだが、自分の読んだ範囲では、グローバル・ワークスペース説に同意している立場のものを読んだことがなかった。ので、その点は面白かった。

土谷尚嗣『クオリアはどこからくるのか?』 - logical cypher scape2では、グローバル・ワークスペース説は意識ではなく注意についての理論だったと整理しており、他にもそういう風に整理されているのを見たような気がする。
本書では、グローバル・ワークスペースこそ意識という感じで書かれているが、しかし、本書の説明を読んでも、意識より注意の話なのでは、という気はしてしまう。
『シリーズ新・心の哲学3意識篇』(佐藤論文・太田論文) - logical cypher scape2では、佐藤論文において、グローバル・ワークスペース説や予測符号化理論などが比較されていた。
また、同書では、太田論文が「意識の統一性」について論じている
太田による「意識の統一性」解説は『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2にも
意識の統一性と、統合的であることが関係しているのかどうかよくわからないが……。
あと、統一性と現象性の関係とか。
そういえば土谷尚嗣『クオリアはどこからくるのか?』 - logical cypher scape2を読んだときの自分の感想を読むと、自分は、IITにおける「排他性」と意識の統一性が似ているんじゃないかという感想を抱いたっぽい


そのほか、関連
ジュリオ・トノーニ/マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』 - logical cypher scape2
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか』 - logical cypher scape2
渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2
渡辺正峰『意識の脳科学 「デジタル不老不死」の扉を開く』 - logical cypher scape2
『科学2023年6月号』(特集:意識とクオリアの科学は可能か?) - logical cypher scape2

*1:ちなみに本書の参考文献に渡辺本が挙げられていて、本文でも言及がある。そもそも2人はかつて同時期に下條研に在籍していたことがあり、そのことについては渡辺本に書かれている

羽田正・編著『《YAMAKAWA SELECTION》イラン史』

手に取った理由は、完全に時事的な関心によるものである。
イランというと去年ショクーフェ・アーザル『スモモの木の啓示』(堤幸・訳) - logical cypher scape2を読んでいた。ただ、これ読んだ時は、ギリまだイスラエルとアメリカによる攻撃の前だったようだ。
本書は、9世紀頃から20世紀までなので、現代に直接つながらない(時事的な関心には沿わない)部分も多いが、『スモモの木の啓示』を読んだ際にも、イランのことってよくわかってないなあと思うところも大きかったので、まず通史的な本から読んでみるか、と。


イスラム王朝とか、高校の時世界史でやったなあと
まあ正直全然覚えてはいないし、そもそも高校時代だって、とにかく名前と順番を覚えただけであって、中身とかちゃんと理解できていなかったわけだが、それはそれとして、やはり10代の頃に覚えておくと、今読んでみても「名前に聞き覚えはあるわ」というのがちょくちょく出てくるのは、有利な点だなとは思う。


この本、古代史は含まれていないので、イスラム化されて以降の話となる(なぜ古代史が入っていないかは序文に説明がある)。
イランの範囲について、やはり詳しくは以下の各章に書かれているが、今のイランよりも広く、ウズベキスタン、アフガニスタン、アゼルバイジャン、イラクあたりまでも含む(おおよそ現在のイランの国境が確定するのは、ガージャール朝の頃(19世紀)となる)。
長く、トルコ系遊牧民族がその軍事力によって支配を確立し、支配地域の統治にあたってはイラン系の人々が官僚組織を担う、という体制が、王朝が変わったとしても、続いていた感じ。
行政を担う言語としてはペルシア語がずっと支配的で、ペルシア語文化が栄える。
イランというとシーア派のイメージがあり、イスラム王朝の歴史というと、シーア派王朝とスンニ派王朝が対立してきたイメージもあるが、実際のところ、宗派の違いというのはそれほど大きな問題ではなかったらしい。
で、サファヴィー朝があって、神秘主義教団から端を発しているというのが面白いが、この王朝ももとはトルコ系遊牧民族+イラン人官僚組織という典型的な形だったが、脱トルコ化していく。
次いでガージャール朝の頃というのが、近代化の時代で、西欧列強にアジア諸国が食い物にされる時期。イランの場合、ロシアとイギリスがぶつかあう場所で(まあアジアはわりどどこもそうか)、両国との間でどうバランスをとっていくかという外交戦略を強いられていく。
で、ナショナリズムの機運が高まってくる。これが西欧民主主義的、古代復興的、共産主義的、イスラム的の4つくらいに分けられている。先の3つのはどこの国にもあるかなあという感じだけど、イスラム・ナショナリズムがあるのがこの地域ならでは、という感じがする。
つまり、イスラム化以前の古代にイラン性を見いだす動き(古代復興)、イスラムにこそイラン性を見いだす動きがある
ところで、この地域って9~10世紀頃にイスラム化している。つまり、イスラム化してもう1000年も経っているのに、1000年以上前にナショナル・アイデンティティを見いだすの? 日本で喩えると平安時代よりも前だぞ?! とは思ったのだが、仏教伝来以前の大和魂みたいなもんか、と考え直すと、十分ありうるか、と思った。日本よりも古代の歴史長いだろうし。
『スモモの木の啓示』読んだときも思ったのだけど、イランはイスラムとペルシア文化の二重の感じになっているぽくて、ここらへんは、パフラヴィー朝が脱イスラム的にイラン・ナショナリズムを構築していたっぽいので、その関係なんだろうけど、中世を通じても、アラブ語ではなくペルシア語をずっと使ってて、というのがあるのだろう。
で、戦後、石油が経済成長をもたらすが、それが社会の中に格差も生じさせることになり、イスラーム革命に至る、と。
我々、イランのイスラーム共和国体制は悪しきものだと考えているし、『スモモの木の啓示』もイスラーム革命批判の書であるのだが、戦後の経済成長によって生じた社会の歪みみたいなもんにどう対処すべきだった(な)のか、みたいな観点で考えると、うーんとなってしまうところもないではない。

『山川セレクション イラン史』への序文  羽田 正 
第1章 イラン世界の変容  清水 宏祐
第2章 トルコ民族の活動とモンゴル支配時代  井谷 鋼造
第3章 ペルシア語文化圏の形成と変容  羽田 正
第4章 近代イランの社会  八尾師 誠
第5章 国民国家への道  八尾師 誠・松永 泰行

『山川セレクション イラン史』への序文  羽田 正

まず、そもそも「イラン」史ってなんだ、という話で、日本史のようには領域が確定しない、と。
国の名前として使われるのは、近代国家になってから。
ただ、今のイランよりもさらに広い範囲で、このあたりの地域を指す言葉ではあったらしい。これは知らなかった。
近代より前だと、ペルシャという名前だよなあと思うけど、これは他称であって、自称ではないらしい。つまり、イランとペルシャというのは、日本とジャパンみたいなものらしい。
イラン語とかイラン文化、みたいな観点から捉えようとするのも、結構範囲が広くなっちゃって、結構難しいらしい。
それからそもそも、この本の成立過程がやや特殊で、
元々2002年に刊行された世界各国史の『西アジア史2(イラン・トルコ)』から、イラン部分だけを再録した上で、第5章については、現代パートを加筆したものらしい。古代史がまるっとなかったり、他にも抜けがあるけど、そういう事情による、と。

第1章 イラン世界の変容  清水 宏祐

イラン最初の独立王朝からセルジューク朝の成立あたりまで

  • ターヒル朝(821~873)

イラン最初の独立王朝とされるが、アッバース朝カリフに貢納を続けていた。また、カリフではなくアミールと名乗っていた。アミールは総督みたいな感じで、ちょっと独立性劣る感じがある。
ただし、後世、ターヒル朝は、統治の理想例と引き合いにだされる
都、ニーシャープール

  • サーマーン朝

トルコ系奴隷を軍事力に用いた

  • サッファール朝(867~)

アイヤールという任侠の徒が活躍。彼らはイスラム以前の信仰に連なり、仁義を重んじた。盗賊とかになることもあれば、町の顔役みたくなることもあったらしい。
サッファール朝はアイヤール出身者による王朝
ターヒル朝からホラーサーンを奪う
サーマーン朝、ガズナ朝、セルジューク朝、イル・ハン国に攻撃されたり服属したりしてきたが、15世紀まで存続

  • ムスリムへの改宗

イランはこの時期にムスリムへの改宗が進み、ターヒル朝時代に50%、サッファール朝時代に80%、ガズナ朝時代に90%となったという(人名をもとに調べた研究があるらしい)
また、シーア派が成立するのもこの時期、内部分裂してさらに色々な派に分裂(ザイド派、十二イマーム派など)
のちに「暗殺教団」となるニザール派も

  • アリー朝(864~928)

ザイド派王朝

  • ブワイフ朝

カスピ海南岸ダイラム地方のダイラム人による王朝
ダイラム人は、アリー朝時代に歩兵として活躍した。
ブワイフ朝の中で、最初はダイラム人とトルコ人を競わせる感じだったらしいが、次第にトルコ人奴隷が軍事力の中心になっていった、と。


トルコ人は、もともとシャーマニズムを信仰しており、スーフィズムによってイスラム改宗がすすんだ、というのも面白い。
(もともとゾロアスター教という体系だった宗教を信仰していたイラン人の改宗と、トルコ人の改宗とでは、様相が違うらしい)


ーガズナ朝(977~1187)
トルコ系奴隷による王朝

  • セルジューク朝(1038~1194)

トゥルクマーンと呼ばれる者たちが活動し、ホラーサーンの諸都市を襲っていた。
セルジューク朝のトゥグリル・ベクは、トゥルクマーンを統制したことで、都市の支持も得た
セルジューク朝という名前は、始祖セルジュークに由来する。その孫がトゥグリル・ベク。セルジューク朝という王朝が始まるのはトゥグリル・ベクから。
公用語がアラビア語からペルシア語へ
王の呼称が、「アミール」から「スルターン」ないし「シャーハーン・シャー」に変わる


宰相ニザーム・アルムルク
二代目アルプ・アルスラーン、三代目マリクシャー両名の養育係であり、宰相
いろいろな貢献があるが、マドラサ(学院)建設が大きい。
マドラサというのは以前からあったが、国立施設として作ったのは初めてで、各地に建設し、イスラムの法学・宗教教育を行われる場所が、モスクからマドラサへと
バグダードのマドラサには、ガザーリーがいた。
ガザーリーは伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2にも登場していた。高名な神学者。晩年は神秘主義に傾倒したらしい。



ところで、ムハンマドという名前の人が多いのは当然として、セルジューク朝には、アルスラーンという名前の人も何人もいて、お、アルスラーン、となった

第2章 トルコ民族の活動とモンゴル支配時代  井谷 鋼造

主にセルジューク朝とイル・ハン国の話


3代スルターン マリクシャー
→セルジューク朝の全盛期
しかし、マリクシャーが亡くなると、早速ごちゃつきはじめる
最終的に、ムハンマド(兄)が西部、サンジャル(弟)が東部を領有することになる
このころ、十字軍遠征が行われている
西アジア側は十字軍がそもそも何のために来たのか分からず、エルサレムを奪われたのちにようやく反撃を始めたものの、セルジューク朝は、内紛していたこともあり、西方には基本的に無関心であった、と。
ムハンマドは、ニザーム・アルムルクを暗殺した暗殺教団ニザール派を弾圧する。
サンジャルは、ゴール朝、サマルカンド、ホラムズシャー、カラハン、ガズナを征服等するなどして軍事的大成功をおさめるのだが、ヒタイ(契丹)に敗れる
で、ヒタイがセルジューク朝を破ったという話が十字軍に伝わり、プレスター・ジョン伝説のもとになったらしい。へえ
サンジャルに跡継ぎはなく、当然内紛が起き、王子の後見人を意味するアタベグという者たちが次々と政権を作っていく
最終的に14代目トグリル2世が、ホラズムシャー朝に敗れて、セルジューク朝は滅びる。

  • ホラズム地方(ホラズム・シャー朝)

この地方の支配は、アフリーグ朝→マームーン朝(イブン・スィーナーを保護)→ガズナ朝→セルジューク朝と移り変わっていった
セルジューク朝でのホラズム総督がホラズム・シャーを名乗り始める。
2代目アトスズ、サンジャルと戦い負ける。
3代目テキシュ、セルジューク朝を滅ぼし、セルジューク朝の後継王朝になる
最終的にモンゴルに滅ぼされるが、この最後が、ジャラルッディーンなんだな(『斜陽の国のルスダン』)

  • イルハン国

モンゴル人の国だけれども、イラン人官僚を登用したという点では、これまでのトルコ系遊牧国家とと同様
南北に強敵を抱えており、東西の国とは友好関係
フレグ→アバカ→テグデル→アルグン→ガザン
テグデルとガサンはイスラムに改宗している。
テグデルの時はテグデルしか改宗しなかったったが、ガサンの時には他のモンゴル軍人も追随し、イルハン国はイスラム国家に
都はアゼルバイジャンのタブリーズ
文化的には、ペルシア語文学として『集史』という歴史書や『シャー・ナーメ』という叙事詩
「イーラーン・ザミーン」といって、イラン概念が明確化してきた時代でもある

第3章 ペルシア語文化圏の形成と変容  羽田 正

この章は、ティムール帝国からサファヴィー朝まで


15~16世紀 ペルシア語文化圏の政治的中心地は、イラン高原ではなく、以下の3つの地域だった。

  • ホラーサーン(イラン東部・アフガニスタン西部、トルクメニスタン南部)
  • マー・ワラー・アンナフル(ウズベキスタン)
  • アゼルバイジャンからアナトリア東部

ホラーサーンとマー・ワラー・アンナフルをあわせるとホラズム
今のイランからすると、東の端と西の端なのだけど、この時代は違う、と
東の方は、アム川という川があったのが重要っぽい
アゼルバイジャンの方は、近代になっても独自の動きしているし、重要な地域っぽい

  • ティムール朝とカラコユンル朝・アクコユンル朝

ティムール朝は、マー・ワラー・アンナフルから興った王朝
一方、アゼルバイジャンから興ったのが、カラコユンル朝(黒羊朝)で、のちにアクコユンル朝(白羊朝)がとってかわる。
ティムールは、アナトリア東部までのイラン全域を支配するわけだけど、それは一代きりの領土で、その後、この地域一帯は、東半分はティムール朝、西半分はカラコユンル朝・アクコユンル朝にわかれる、というわけ


ティムールはモンゴル系遊牧民族だが言語はトルコ化
サマルカンドに都をおき、マドラサをおくなどして文化的に栄えた
また、ペルシア語だけでなく、チャガタイ・トルコ語による文学が生まれてくる


ウズン・ハサン
トルコマンであり、アクコユンル朝の最盛期を作った
現在のトルコ東部、イラク、イラン、アゼルバイジャンのほぼ全域を含む大帝国に
しかし、オスマンア朝のメフメト2世と戦って敗れ、威信が低下した


1507年、ティムール朝は、ウズベク族シャイバーニーに滅ぼされ、
1508年、アクコユンル朝は、サファヴィー朝のイスマーイールに滅ぼされる

  • サファヴィー朝

もとは、アゼルバイジャンの神秘主義教団
「過激なシーア派」により遊牧民をひきつける
(トルコ系がスーフィズムに改宗しやすかったという話と似ている。単純でわかりやすい的なことらしい?)
サファヴィー教団にひきつけられた遊牧民(=キズィルバシュ)が、のちに、サファヴィー朝の軍事力を担うことになる。
アクコユンル朝は、この教団の危険性を感じていて、ウズン・ハサンは、自分の妹をジュマイドと結婚させて融和を図っていた。
が、このジュマイドとウズン・ハサンの妹の孫であるイスマーイールが、サファヴィー朝を樹立し、アクコユンル朝を滅ぼすことになる。
次いで、イスマーイールは、シャイバーニー朝も倒す。対立の原因として宗派の違いがあげられることもあるが、そういうわけではなくて、これまでずっと続いていた東西勢力の対立が背景にある、という。
この頃は、イラン全体としてはまだシーア化もしておらず、むしろシーア派のふるまいが「奇習」として記録されていたりする。イラン高原の人々は1世紀かけて徐々にシーア化していった
その後、イスマーイールは、オスマン朝とも戦う。
これまた、シーア派王朝とスンニ派王朝の戦いとして言われがちだが、宗派対立によるものではないという。
オスマン朝は、イェニチェリ制度にみられるように、軍事力について脱遊牧民をはかっていた。一方、上述の通り、サファヴィー朝は遊牧民と親和的だったので、オスマン朝領内の遊牧民がサファヴィー朝側に移動するなどがあって、それを巡る対立があった、とのこと
1518年、チャルディラーンの戦い
オスマン側が勝利する
イスマーイールはこれまで無敵無敗で、そのことが求心力の源となっていた。
この戦いの敗北で失った領地はわずかに過ぎないが、このイスマーイール神話の崩壊のダメージが大きかったとか。イスマーイール本人のモチベも切れたっぽい
また、この戦いは、世界史的には、遊牧民の時代から銃の時代へというのを象徴しているとか


イスマーイールの子、タフマースブは10歳で即位したので、当初は、キズィルバシュたちが紛争おこしていたが、成長すると安定した治世に
カフカス遠征を何度かしていて、カフカス系奴隷が入ってくる。トルコ系でもイラン系でもない第三勢力が宮廷に入ってくる。キズィルバシュ対策の一つ
都をカズヴィーンに遷都
ホラーサーンとアゼルバイジャンの中間に位置する

  • アッバース1世

タフマースブが亡くなるとまた後継者争いが起きて、その混乱をついて、オスマンにアゼルバイジャンを奪われる
アッバース一世が即位すると、軍制改革に着手
カフカス系の軍隊と、イラン系による銃兵部隊を作り、トルコ系はお払い箱
新編成の軍隊で、シャイバーニー朝からホラーサーンを、オスマン朝からアゼルバイジャンをそれぞれ奪還
イスファハーンに遷都
シーア派研究の中心地
バザールに各地の品物が集まり、人口も増え、17世紀半ばに50万人をこえ、イスタンブール、パリ、ロンドンに並ぶ都会に
アルメニア商人、ヒンドゥー系金融、イギリスやオランダの東インド会社と国際的な都市
芸術面では、特に写本
アッバース1世が亡くなった後は、どんどん混乱、衰退していく……


15世紀には、ホラーサーンとアゼルバイジャンという東西の勢力に分かれていたが
19世紀までに、その境界線は変わる
サファヴィー朝とオスマン朝の国境が、アナトリア東部にひかれる。かつてのアクコユンル朝の一部はオスマン領に
かつては一体的だったホラーサーンとマー・ワラー・アンナフルは、アム川を境に分離して、サファヴィー朝とウズベク諸王朝に分離
また、アフガニスタンにはドゥッラーニー朝が誕生
現在のトルコ、イラン、アフガニスタン、ウズベキスタンが区別されていく。

第4章 近代イランの社会  八尾師 誠

ガージャール朝について
都はテヘランにおかれ、後述するように、列強との条約の中で国境が画定し、ほぼ現在のイランと同じ領域が国土となる。
第1章から第3章は、現在のイランという国よりもさらに広範囲をさす「歴史的イラン世界」の歴史だったのに対して、第4章以降は、現在のイランへとつながっていく歴史となる。


ガージャール朝は専制君主国だったが、支配力はすごく弱くて、地方有力者に頼った統治だった
というのも、常備軍をもたず、官僚組織もほとんど整備されていなかった(王が親政やりたくて、行政府をすごく縮小したらしい)
産業的には手工業が衰退していったが、西欧の需要があった絨毯だけが例外的に栄えた、と。

  • 積極的均衡政策と消極的均衡政策

インド・アフガニスタン方面からイギリスが、北からはロシアが、そしてフランスもやってくるなかで、列強諸国にどう対応するかという外交政策として、2つの方向性があった
積極的均衡政策は、イギリスに利権を与えたら、フランスやロシアにも利権を与えることでバランスをとる、という政策
消極的~は、逆にどの国にも与えないことでバランスをとる
でまあ、お決まりの不平等条約締結が続く。
それから、そうした条約締結の中で、国境が定まっていく
ただ、ほかの中東諸国と異なる点として、ほかの中東諸国は完全に列強諸国の支配地域として引かれた線が国境になったのに対して、イランは、不平等ではあったものの、イランとの条約という形で国境が引かれたこと。
で、不平等条約だけでなく、さまざまな利権が英仏露には供与された。

  • 抵抗運動

そうした中で、少しずつ抵抗運動が始まっていく。
例えば、バーブ教の反乱がある
バーブ教においては、イラン・ザミーンへのこだわり、聖典をペルシア語でかく、イスラム太陰暦ではなくイラン太陽暦を使うといったイラン・ナショナリズムがあらわれている
そして、タバコ・ボイコットというのが大きな運動となる。
これは、先ほどの利権の話で、イギリスのタバコ商社に与えられようとしていたタバコ利権が、あまりにもイギリス有利すぎなもので、ウラマーから浮浪者まであらゆる人々により、全国的にタバコ・ボイコット運動が行われた。
これによりタバコ利権は撤回され、イラン史上はじめて勝利した住民運動
しかし、これにより賠償金が課せられ、経済状況は悪化

  • 立憲革命

その後も闘争が続き、立憲制要求運動が起こり、1906年、立憲制の詔勅、第一議会の選挙・開催に至る
第六代モハンマドアリー・シャーが、反立憲派だったため、立憲派と反立憲派の争いが起きる
この時、立憲派の武装組織がいち早く組織されたのが、アゼルバイジャンのタブリーズ
ヨーロッパとの交易拠点として栄えたことで、ヨーロッパ思想が入ってきていた
立憲派が勝利し、第二議会が召集される。しかし、第二議会の財政改革がロシアとの確執を生み、最終的にロシアの介入によって議会は解散となる。

  • 4つのナショナリズム

記事冒頭に、イラン・ナショナリズムの4つを挙げたが、本文では第4章の章末で解説されている。
(1)西洋流の民主主義と国民主義の確立を目指す立場
立憲主義者たちからモハンマド・モサッデグらのイラン国民戦線へ
(2)古代礼賛ナショナリズム
レザー・シャー体制の支配的イデオロギーに
(3)マルクス主義の影響を受けながらブルジョワ階級よりも植民地主義支配を障害とみなす立場
アゼルバイジャン国民政府のジャアファル・ピーシェヴァリーや草創期イラン共産党
(4)イスラーム的ナショナリズム
先駆者はセイエド・ジャマーロッディーン・アサダーバーディ。のちにイスラーム革命へ

第5章 国民国家への道  八尾師 誠・松永 泰行

第一次大戦以降から現代までについて書かれている
1980年までを八尾師が書いている(これは本書のもとになった『西アジア史2(イラン・トルコ)』だろう)。それ以降から2020年までを松尾が書いている

  • 第一次大戦とその後

中立を宣言するも、デモクラート党は潜在的にはドイツと同盟を結ぼうとしていた
これを懸念するイギリス・ロシアが暗躍し、政権交代も相次ぎ、第一次大戦をつうじて、イラン政府は弱体化
各地で地方蜂起が続出
カスピ海南岸のジャンギャリーの運動
これは色々あった末に、ソヴィエト共和国を樹立するにいたるも瓦解
また、反英運動の激化したアゼルバイジャンでは、タブリーズ政権が作られるが、これも半年で瓦解
政治的な混乱が続く中、再統一を目指す機運があり、イギリスも背後で動きつつ、レザー・ハーンによるクーデターが起きる。
1923年、首相に就任。
もともと、レザー・ハーン自身は共和制を考えていたらしいが、ウラマー層の反発も懸念して、1925年に、レザー・シャー・パフラヴィーとして即位
(共和制も考えていたらしいけど、結局、息子を2代目にしているんだなーとも思う。1920年代に王政打倒したので、なんでまだ王政にしたんだ感)

  • パフラヴィー朝

国軍、官僚組織の強化。戸籍の整備。従来、宗教が独占してきた司法部門も「西洋化」し、地方行政改革も実施。
上述した通り、古代礼賛ナショナリズムが支配的イデオロギーで、「イラン的であること」と「イスラム的であること」を対置
イスラム化以前の遺跡の保護
太陽暦の採用
アラビア語を排除して、ペルシア語の純化を進める。パフラヴィーやシャーもペルシア語の語彙の組み合わせによるものだとか。『シャー・ナーメ』の称揚
そして、諸外国に対して「ペルシア」ではなく「イラン」を使うよう要請、と

  • 第二次大戦とそれ以降

第二次大戦でも中立を宣言するもナチス・ドイツと関係を維持していたらしい
が、当然、イギリスとソ連からの圧力があり、最終的にドイツと日本に宣戦布告している
対ソ支援ルートとして連合国の占領にあい、これがイラン経済に負の影響を与える。
レザー・シャーによる中央集権化は、テヘランを成長させたが、地方を衰退させた
1940年代、アゼルバイジャンやクルド人の中で自治の動きが活発化し、アゼルバイジャン国民政府とコルディスターン共和国が成立するが、1946年にはどちらも瓦解
第二次大戦で石油需要が伸びたが、イギリスが搾取しまくっていたため、モサッデグが石油国有化。結局、国有化自体は失敗するが、石油収入は増える
1960年代「白色革命」→農地改革
1970年代、石油収入により工業化・経済成長が進む

  • イスラーム革命

経済成長は経済格差を広げ、デモやストライキが広がっていく
1979年、シャーが亡命し、ホメイニーが帰国
ホメイニーによる「法学者の統治論」という主張をもとに「イスラーム共和国」樹立
憲法審議が行われるなか、アメリカ大使館人質占拠事件が起きる
イラン・イラク戦争で、イスラーム体制の求心力が増す。革命防衛隊が逆にイラク領に攻め込むまでいくが、イランの軍事的躍進がイランの国際的孤立につながる
1984年には、アメリカの「テロ支援国家」リスト入り
1987年にはアメリカとの交戦も
1988年、イラン・イラク戦争終結
1989年、ホメイニー死去
ハーメネイーが最高指導者に
ラフサンジャーニー大統領は、国際協調路線を進め、ハーメネイーも当初はそれを支えていたが、92年からその姿勢が変化していく
開放路線と保守派の対立が続く。90年代から2000年代前半まで開放路線のハータミー政権、2005年から保守派のアフマディーネジャード政権は核問題で国際的に対立。2013年からのロウハーニー政権で包括的核合意がむすばれたが、トランプが離脱した、と。
2020年現在、イラン人口の7割が40歳未満の革命以後生まれである、と書かれている。

感想

4つのナショナリズムを順に試していったのかなあ、という感じもある(イラン自体は共産化していないが、一部、地方でソヴィエトできてるし)。
19世紀以降の近代化の流れは、わりと普遍性のあるものもあって、わりと理解可能な部分も大きい半面、タバコボイコット運動にもウラマーがかかわっているし、パフラヴィー朝ができるまで、司法は聖職者のものだったわけだし、そして、1970年代にホメイニーが国民からすごく支持されていたり、といったところでの、近現代における聖職者の存在感、というのがいまいち分からない。

スティーヴン・ミルハウザー『高校のカフカ、一九五九』(柴田元幸・訳)

ミルハウザーの最新短編集
短編集の原著タイトルはDisruptionsで、邦訳版では本書『高校のカフカ、一九五九』と『幽霊屋敷物語』(近刊)とに分冊される。
We Othersは、新作と旧作混ざった短編集だったが、邦訳版では新作のみ
Voices in the Night は『ホーム・ラン』と『夜の声』に分冊されていた
向こうとこっちとで、1冊のボリュームに差異があるらしい。
訳者あとがきにもあったが、相変わらずのミルハウザー節であり、いつもの、という感じでもあるのだが、しかし差異もあって、少し違うテイストだなと感じるところもある。
奇想なしの青春小説っぽいのも多かった感じだが、やっぱり奇想っぽい方が好き(完全に「いつもの」って感じだけど「影劇場」とか)
基本的には、前半の方が好みであった。


ミルハウザーって今83歳で、この本は80歳の時にでた本なのか。執筆時は70代ということにはなるだろうが、それでこれ書いているのはまあまあすごいな。
じゃあ柴田元幸はどうなんだと思ったら、柴田元幸は柴田元幸でもう71か……

お電話ありがとうございます

「お電話ありがとうございます。しばらくお待ちください」的な自動音声が4種類くらい延々と流れてくる間、主人公は自分の子ども時代・学生時代を思い出す。初めて遊びにきた男の子や春のダンスパーティに誘ってくれた男の子のことなど。
自動音声と、主人公の語りが、特に区別されることなく(鉤括弧でくくられたり、改行されたりすることなく)だーっと書かれている。
主人公自身の人生が、おそらくある種の受け身の人生であって、しかし、彼女は幸せな結婚生活を送っており、自分は幸せだと述べているのだけど、まさにそうやってわざわざ自分が幸せだと述べることと、そこまでに展開された思い出話からは、そこにうっすらとした懐疑があって、それと、ずっと待ち続けるように繰り返す電話の自動音声への苛つきが、うまく重ね合わされている。
手法とあわせて、なんといえばいいのか「文学」っぽさがある。ミルハウザーっぽくもあるが、あんまりミルハウザーっぽくない感じもした。

斬首刑のあとで

海沿いにあるわたしたちの町で、ギロチンによる公開処刑が行われた。
2,300年前とかの話ではなくて、インターネットもスマホもある現代の話。
強盗などが連続したことで、にわかに刑罰の厳罰化などに関心があつまり、ギロチンでの公開処刑を実施することになり、1名の処刑が実行された。
その後、主人公含む住人たちの反応や、反対運動あるいは賛成運動などを描きつつ、次第にギロチン台が緑地広場に置かれていることが日常の風景へと変化していくことを描いている。
認識の変容的な話になっている。というか、家が建て替えられたり、お店が別のお店に変わったりして、「あれ、そういえばここ前なんだったっけ」ってなる感覚が、ギロチンでも起きるっていう話。

ありふれた苦境

恋人が絶対顔、というかこちらを振り返ってくれないという男性の話
家にいくと、後ろを向いて座っていて、背中合わせで食事する。出かけるときも、彼女は先に出かけて、出先で合流する。
スキンシップやセックスもしているのだが、身体の前側には見ない、触れないを徹底しているのである。
いや、無理あるだろ、そこまで接近してたら、絶対どこかで破綻するだろ、とは読んでて思うのだが、そこはミルハウザー節で、それが成り立っていることになっているのである。
で、主人公はその理由を色々推測しているけど、わからない

梯子たちの夏

春になると梯子たちが現れ夏にかけて増えていき秋になると次第に姿を消していく、という擬人化というか擬生物化した描写から始まる。
で、ある年、梯子たちはどんどん背を伸ばすようになった、という話が始まっていく。
これ、本当に梯子が生き物のようになって伸びていったのか、町の中での一種の流行として梯子の持ち主たちが梯子を長くしたのか、あるいはメーカーが長い梯子を売るようになったのか、そのあたりははっきしりない。ただ、町を眺める目線として、どんどん長い梯子が増えていった、と描かれている。
でまあ、そうすると落下事故とかも起きる(家の屋根より高くなったりしているので)

喧嘩

主人公の少年の同級生2人が、バス停の前で喧嘩した、というところから始まる。
中学2年生
主人公は、中学生になってから治安が悪くなってきたことを感じていて、小学生の時は一緒に遊んでいた友達とも距離を感じ始めている。
ただ、青春のひとこまを切り取った感じで、奇想的な要素はないが、思春期の子供の内省的な感じを描く作品も、確かにミルハウザー作品の中に一定数あるな、という感じはする。
あまり明言されていないが、喧嘩していた2人のうちの片方は黒人っぽいし、主人公は両親が教育者(母親が小学校、父親が大学の教員)で、ほかの同級生の家族と違うっぽい
自分も喧嘩しているところを思い浮かべて終わる。

影劇場

これは、まさにミルハウザーって感じで、私たちの町に「影劇場」(人形影絵芝居)がやってきて、それが流行って、町の人たちの生活や文化そのものを変えていく話。
何度、同じような話してるのおじいちゃん、って感じではあるのだが、しかし、面白いんだよなあ
今回は、町の住民たちが影劇場にハマって、色のない世界を志向し始める、というのが面白かった
「新しい世界を始動させよう」で終わるのもなかなか。


そういえば、ミルハウザー作品ってよく歴史協会ってでてくるけど何なんだろと思ったら、アメリカには、州ごと、郡ごと、市町村ごとに歴史協会という組織があるらしい。どんな活動してるかは、学術的な定期刊行物だしているところがあったり、博物館運営しているところがあったり、それぞれ違うらしいが。

彼は取る、彼女は取る

なんか言葉遊び的な2ページくらいの奴
あー、離婚した時の財産分与ということなのか

高校のカフカ、一九五九

もしカフカが1959年にアメリカで高校生活を送っていたら、という話
「英語の授業のカフカ」「鏡で自分を見るカフカ」「図書館前階段のカフカ」「ダウンタウンのカフカ」「駅のカフカ」「夏の前のカフカ」など細かく章分けされている。
ロシア文学を必ず持ち歩き、ボニー・ウィルコックスという少女に憧れながらも、なかなかうまく話せず、一人反省会していたりする。
もしカフカが、というところが特殊な設定だが、話全体としては、普通の青春小説という感じもする
表題作であり、収録作の中でも一番長い作品だが、個人的にはそこまでピンとこなかった……

ある夏の夜

ある日、いつものようにガールフレンドの家に遊びに行ったら(ところで、ガールフレンドの家に遊びにいって夜の12時まで一緒にいて帰る、というのが、向こうの高校生的には普通なのだろうか)、当のガールフレンドは不在で、そのお母さんだけがいて、誘われるという話。
誘われるといっても、このお母さんがやたらと子どもっぽい感じで、裏庭のブランコでどっちが遠くまでジャンプできるかとか、屋根の上に上ったりとか。
これはそう悪くはなかった。

ミルハウザー作品リスト

()内は(原著刊行年/邦訳年)
『エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死』(1972/1990)岸本佐知子訳(長編)
『ある夢想者の肖像』(1977/2015)(長編)
『イン・ザ・ペニー・アーケード』(1986/1990)(短編集)
From the Realm of Morpheus (1986/未訳) (長編)
『バーナム博物館』(1990/1991)(短編集)
『三つの小さな王国』(1993/1998)(中編集)
『マーティン・ドレスラーの夢』(1996/2002)(長編)
『ナイフ投げ師』(1998/2008)(短編集)
『魔法の夜』(1999/2016)(中編)
『木に登る王:三つの中篇小説』(2003/2017)(中編集)
『十三の物語』(2008/2018)(短編集)
『私たち異者は』(2011/2019)(短編集)
『ホーム・ラン』 (2015/2020)(短編集)
『夜の声』 (2015/2021)(短編集)
『高校のカフカ、一九五九』(2023/2025)(短編集)  ← 本書
『幽霊屋敷物語』(2023/2026予定)(短編集)


長編は全部で4作だが、それぞれ1972、1977、1986、1996であり、それ以降は長編は書いていない。
これまでに短編集を7作、中編小説集を3作出している。
計14作あって、未訳は1作?! すごい翻訳率だ。
でもって、邦訳されている13作中12作は柴田元幸訳である。

R・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(古沢嘉通・訳)

1830年代のイギリス、オクスフォード大学の王立翻訳研究所に入学した、人種の異なる4人の学生たちの物語
すごい……すごかった。 すごく面白かった。


ネビュラ賞長編部門・ローカス賞ファンタジー長編部門受賞作であり、
『SFが読みたい! 2026年版』ベストSF2025 海外篇の1位をとっている。
いや普段、こういう受賞情報ってブログに書かないけれど、客観的にも評価が高い、と。
この本が出た当時の書評とか読んだ時点で、面白そうだなとは思っていたのだが、ハリーポッター的な学園ファンタジーもの(「ダーク・アカデミア」というジャンル名があるらしい)ということで、そこまで優先度をあげていなかったのだが、しかし、しばらくたってまた別の人の書評や感想があがって、それを見るというの繰り返していくうちに、これはもう絶対読まなきゃいけない奴なんじゃないかあと思うようになっていった*1
というわけで自分も、刊行されてから実際に読むまで1年くらいの間があいてしまい、その間にもう、SFとか海外文学とか読む人たちの間では評価が知られる作品になったのではないかと思うが、
まだ読んでない人は読んだ方がいい、おすすめ、というレベルでは足りなくて、みんな読むべき ってそういうレベル


19世紀イギリスを舞台にした学園ファンタジーと、とりあえずは言えるのだけど、それはあくまでとりあえずで、色々なジャンルの複合した作品になっている。
どちらかといえば、改変歴史ものでもあるのだけど、まあそれだけではない。
これ、普通に映像化作品で見てぇなって作品で、主人公をはじめとするキャラクターたちが魅力的だし、読み終わった後、おもわずファンアートないかググったりもしたんだけど
しかし一方で、帝国主義、植民地主義、人種差別、性差別、格差の問題を扱っている作品でもあり、しかもこの中で主人公が突きつけられてくる選択というのは、全然過去の話ではなくて、21世紀の今を生きる我々にも、というか、まさに今の我々の問題として、突き刺してくる
この、現実における重いテーマを読者に対して突きつけながら、しかし一方で、エンターテインメントとしてぐいぐいと軽やかに読ませてしまう、というところが、例えば内容的には全然違うのだけど『機龍警察』シリーズとも似たところがあるなあ、とも思った。


この作品の核となっているフィクショナルなアイデアは「銀工術」という一種の魔法
銀の延べ棒の表と裏に、異なる言語で同じ意味の言葉を彫る。
ところで、同じ意味の言葉といっても異なる言語である以上、翻訳しきれない意味のズレが生じる。そのズレこそが、魔法の効果として発動する、というもの。
例えば、英語とフランス語のように交流が多い言語間だと、次第に意味のズレがなくなっていくので、銀工術には使えなくなってくる。
だから、古語(古英語、ギリシア語、ラテン語など)を引っ張り出してくるか、中国語やアラビア語といったアジアの言語を用いる、という方法論がとられる。
この銀工術の中心地となっているのが、オックスフォード大学の王立翻訳研究所、通称バベルであり、バベルこそは、上述の理由により、オックスフォードで唯一、非白人の入学が許されている学部なのである。
中国は広東出身のロビンが主人公で、彼の同期として入学した、インド人ムスリムのラミー、イギリス貴族の娘レティ、ハイチ生まれの黒人ヴィクトワールの4人の友情・絆が織りなす物語が描かれていく。
わけだが、この4人の絆を友情と一言で表すことなどとてもできない。
オタクっぽく巨大感情などといってみてもいいのだが、しかし、その巨大感情の背景に、この時代の社会制度と植民地主義がずっしりと横たわっている
しかし本当に、レティというキャラクターの配置が天才すぎる……


物語は、ロビンを焦点人物とした三人称で綴られるが、結構な頻度で注釈が入れられているのが面白い。
まず、この作品、翻訳がテーマというか、銀工術という設定上、複数の言語の単語が入り乱れるし、登場人物のほぼ全員が、外国語学部の教員か学生かみたいな話なので、各単語の語義や語源について、本文中でカバーしきれなかった部分についての注釈がなされている。
それ以外に、この世界は銀工術という魔法が非常に重要な地位を占めている世界ではあるものの、それ以外の点については、現実世界と同じ歴史を辿っている世界でもある。単純に歴史ものとして読める作品でもあり、史実にかんする注釈もなされている。
が、実はそれだけにとどまらず、登場人物の信条や過去についても注釈で説明されていたりするのが面白い。注釈で書くんだ、それ、みたいな。でも、確かに注釈でしか書けないような余談であったりもして。
ところで、冒頭に作者からのコメントがあって、普通に考えると作者の序文なんだけど、オックスフォード出身者に向けて、あなたの知ってるオックスフォードと違うかもしれないけど、これは19世紀が舞台になっているってこと、フィクションだってことを忘れないでねコメントになってて、オックスフォード出身者怖ぇなってなるw (ちなみに作者のクァンもオックスフォード大出身(修士)である。さらにちなみに、ケンブリッジでも修士とってて、イェールで博士をとっている。『バベル』は博士課程在学中に出版された)。

登場人物

  • ロビン・スウィフト(バーディー)

広東出身。中国語
名前の由来は、クック・ロビンとガリバー旅行記

  • ラミズ・ラフィ・ミルザ(ラミー)

カルカッタ出身。ウルドゥー語、アラビア語、ペルシャ語

  • ヴィクトワール・ディグラーヴ

ハイチ出身。フランス語、ハイチのクレオール語

  • レティシア・プライス(レティ)

イギリス出身。フランス語とドイツ語

  • リチャード・リントン・ラヴェル

ロビンの後見人。バベルの教授。妻と2人の子供がいるが、別居している。

  • グリフィン・ハーレー
  • スターリング・ジョーンズ

ウィリアム・ジョーンズの甥

  • イーヴリン・ブルック
  • ミセス・バイパー

ラヴェル教授の使用人。スコットランド出身。ロビンに料理や食材について教えてくれた

  • コリン・ソーンヒル、ビル・ジェイムスン、エドガーとエドワード・シャープ

ロビン、ラミーと同じ寮に住んでいる別の学部の同期学生。

  • ウィリアム・ジョーンズ
  • アンソニー・リッペン

バベルの学生。黒人。フランス語、スペイン語、ドイツ語

  • ヴィマル・スリニヴァサン

バベルの学生。サンスクリット語、タミール語、テルグ語、ドイツ語

  • ジェローム・プレイフェア教授

バベルの学部長

  • マーガレット・クラフト教授

ラテン語担当

  • アナンド・チャクラヴァルティ教授

サンスクリット語・中国語。バベルにおいて東アジア言語を担当しているのはラベルとチャクラヴァルティの2人だけ。

  • エルトン・ペンデニス
  • イルゼ出島

バベルの学生。日本人。

あらすじ(ネタバレあり)

全部で5部構成になっており、第一部から第三部までが上巻、第四部と第五部が下巻となっている。

第一部

1829年の広東、アジア・コレラにより家族も近所の人も死に、自分も死を待つばかりという少年のもとに、一人の白人男性が救いの手を差し伸べる、というところから始まる。
この少年が主人公のロビン・スウィフトで、やってきた白人男性がラヴェル教授である。
なぜここでちょっと回りくどい書き方をしたかというと、広東に暮らしていた時、ロビンは当然中国名で暮らしていたのだが、ラヴェル教授に救われた時から、改めてロビン・スィフトと呼ばれるようになり、彼の中国語の本名が一体何だったのか読者には明かされないのである。
ラヴェルは、あしながおじさんよろしく、広東で暮らしていたロビンに対して、匿名で英語の本を送り、彼の養育係の給料も払い、ロビンが広東語・英語のバイリンガルになるように仕向けていた。
ラヴェルは、ロビンの英語力を確認するために、スミス『国富論』の一部を朗読させているのだが、注釈によるとスミスは植民地主義に対して反対だったらしい。
それから、船に乗り込む際、ロビンは初めて通訳的なことをしているのだが、白人から中国人への理不尽で一方的な通告を訳するというもの。ロビンは、しかし、自分が生き延びるためにはそのまま訳さないとまずそうだなと感じ取っている。
船の中で、ラヴェル教授とミセス・バイパーは2週間前にマカオに着いていたことを知る。2週間前なら母親はまだ生きていたわけで、ロビンはなんともいえない不信感というかをラヴェルに対して抱くことにはなる
そんな感じで、のっけから不穏な雰囲気を色々漂わせながら物語は始まるのだけど、とにかくテンポよく進んでいくので、このあと、何が起きるんだ、という面白さが勝る。
ロンドン郊外のハムステッドにあるラヴェル教授の家で、ロビンは数年間、ラテン語、ギリシア語、北方中国語の教育を受けて過ごした後、オックスフォードに入学することになる。
バベルの同期であり、寮でも部屋が隣になるラミーと出会う。
ここらへんは希望に満ちあふれてワクワクする展開が続き、レティとヴィクトワールというやはりバベルの同期になる少女たちとも顔をあわせ、先輩学生であるアンソニーによるバベルの案内、学部長であるプレイフェア教授による銀工術の披露などが続く
バベル=王立翻訳研究所は、8階建ての塔にあり、文字通りバベルの塔なのである。
ところで、一方で、ロビンは夜中に、図書館の中に盗みに入っていた3人組を見かけ、彼らを助ける。その中の一人に、自分とそっくりな者がいる。

第二部

第二部は、そのロビンそっくりの男グリフィンによって、捻じれた根っこ亭に呼び出され、ヘルメス結社とバベルの真の顔を知らされるところから始まる。
グリフィンは、ロビンにとって異母兄にあたる(ロビンも薄々感づいていたことだが、ラヴェルはロビンの父親である。ただし、ラヴェルは息子として認知しておらず、一部の人たちにとっては公然の秘密である)。
グリフィンももとはバベルの学生であったが、今はバベルをやめて、バベルと大英帝国に抵抗する秘密組織ヘルメス結社の一員となっている。
バベルが生み出す銀工術の最大の取引相手は軍であり、バベルこそ大英帝国による支配を支える屋台骨に他ならず、バベルがその力を維持するために、有色人種の子どもたちを学生にしているのは搾取に他ならない、とグリフィンは語る。
ロビンはその話がある程度説得力のあるものだと認識しつつ、確信はもてないまま、ヘルメス結社への協力をしはじめることになる。
第二部は、ロビンの1年から3年までの大学生活を描いていく。
バベルでの生活としては、1年次はプレイフェアの翻訳理論入門や、マーガレット・クラフト教授のラテン語、さらに、個別の授業としてアナンド・チャクラヴァルティ教授の中国語の授業などを受けることになる。
課題の量に奮闘しながら、4人は友情を育んでいくことになる。
4人のうち3人は非白人ということで肩身が狭く、4人のうち2人は女性ということで肩身が狭い。というか、最初、レティとヴィクトワールは男装しているくらいで(少しずつなれていくうちに、他にも少数ながら女性教員や女子学生がいることがわかってきてから、服装は変わっていくが)。また、女子は学生寮に住むことができないし、図書館で本を借りる際も男子生徒に同行してもらう必要があるなどがある。
また、同じ非白人といっても、ロビンは遠目だと白人として通用しないこともない容貌であるのに対して、ラミーやヴィクトワールは全くそうはいかない。
ラミーはそのことを意識しており、白人が期待するインド人を演ずるのに長けており、逆にあえて目立ったりといった振る舞いをすることがある。
4人の中で1人白人であり、上流階級出身であるレティであるが、彼女には、兄がいて、その兄がオックスフォードをドロップアウトしたので、兄の代わりにオックスフォード行きが許されたという経緯を持つ。彼女には彼女なりの苦しみはある。
とはいえ、やはり白人であることに変わりなく、彼女の3人に対する友情自体は偽りのないものであるが、3人がどのような差別にあっているのかということへの意識はほとんどない。3人が何に対して不満や憤りを感じているのか、ということについて、明らかにピントがあっていない。
しかし、ヴィクトワールは彼女と生活を共にしていることもあって、レティに対してそういうことはあまりいわない。
レティは、性格的にも傲岸なところがあり、わりと普通にイヤな奴ではあるのだが、嘘をつけないというところがあり、それもまたそれで人間関係的には難のある性格なのだが、他の3人が彼女と友情を抱けるのは、そのあたりにも理由がある
また、同じバベルの学生は境遇も違いが、先輩学生たちは自分たちの課題に必死なため、下級生をみてやれる余裕があまりなく、それもあってバベルの同期というのは、互いに互いだけをたのみにしながら、大学生活を送ることになる。
さて、そんな中、ロビンは他の3人には秘密にしたままで、グリフィンに協力し続ける。時折、一方的に指示が与えられ、簡単な仕事(ドアをあけておくとか)をこなす。
しかし、あるとき、バベルの防護装置が起動し、流れ弾にあたってロビンは負傷してしまう。なんとか自力で傷口を縫うロビンだったが、グリフィンからはフォローがなく、ヘルメス結社の能力に対して不信感を抱くようになっていく。
ロビンはヘルメス結社の活動がどのような結果をもたらすのか知りたがるが、グリフィンは結社の詳細をロビンにはなかなか説明しない。代わりに、グリフィンは、イギリスが中国の茶を買っているために銀が中国に流出していることを教える。このあたりで、読者的には、そうか、アヘン戦争が近づいているのかと勘付くことになる。
3年次に進級すると、学業はさらに忙しくなってくる。
それぞれ独自の研究プロジェクトが割り当てられるようになるが、4人の間には緊張が高まるようになる。それは、多忙さからくるストレスでもあるし、あるいはヴィクトワールの場合、希望するプロジェクトが教授から認められなかったことが、ある種のバイアスによるものだと認識しているが、レティにはその認識がないことのズレが、互いのストレスに拍車をかけたりしている。
そんな中、アンソニーが海外派遣中に亡くなったことを知らされる。学生たちは喪服を着ることで追悼するが、しかし、何か葬儀などが行われるわけでも公式の通達がなされるわけでもない。バベルの学生が、バベルにとって消耗品に過ぎないことが示される。
その一方で、イーヴリン・ブルックという、やはり亡くなった学生についてはプレイフェアが特別な思い入れをもっていそうなことがあり、アンソニーとイーヴリンの違いは一体、といった疑問も浮かび上がる。
2年生の時の記念写真
3年生から、チャクラヴァルティによる銀の保守作業を手伝うようになり、共鳴装置を知る
労働者たちの抗議運動が行われて、いっとき、バベルもその標的となって取り囲まれたりする。
第二部は、ロビンがグリフィンに対して、ヘルメス結社への協力はもうやめると告げるところで終わる

第三部

バベルは、3年次と4年次にだけ試験が課せられる。
が、この3年次末の試験が過酷
試験勉強をしている途中で、○○語を専攻している学生が自分は全く○○語が話せない、とか言い出す。ロビンたちの間ではレティにその症状がでたが、レティはドイツ語でドイツ語が話せないと言い出したりした。
試験が終わった後、舞踏会が行われる。3人は行くのを渋ったが、レティが行きたがっていくことになるが、ヴィクトワールが侮辱を受ける
同じ日にバベルだけでのパーティが行われていて、舞踏会から逃げ出した4人はそちらに合流する。レティは、ラミーが自分と踊ってくれないことに涙する。
レティとラミーについては、度々衝突するシーンが描かれているものの、これはまあしかし、ケンカしてるうちに好きになっていく系の奴か、というようにも読めるような雰囲気のものではあった。ただ、果たしてこの4人で恋愛系の話までやるのかどうか、そのあたりは何ともいえないと思って読んでいたら、こんな感じで明示化され、とはいえ、まあレティがラミーを好きだけどうまくいかない、というのは確かにそんな感じはする


しかし、第三部で話が大きく動くのは、ラミーとヴィクトワールもまたヘルメス結社に参加していたことをロビンが知り、ロビンが2人を逃がしたことで、ロビンが捕まってしまうところだろう。
ロビンは、ラヴェルから追求を受けることになる。
しかし、そこでは取引がなされ、ロビンはグリフィンから教えられていた隠れ家の情報を話すことで、釈放されることになる
また、ロビンはラヴェルから、グリフィンがイーヴリンを殺したのだと告げられる。
幕間として、ラミーの生い立ちが語られる。
そして、4人は広東へ向かうことになる
バベルの学生は4年次になると、海外研修へ行くことになっており、どこへ行くことになるかは4人とも気にしていた事柄ではあった。
しかし、タイミングがタイミングだけにレティ以外の3人は気が気でない。そもそもお互いになぜヘルメス結社に協力しているのかの情報交換する機会もなかなかとれず(レティ抜き3人だけで話せる機会がなかなかなかった)
そして広東につくと、4人はラヴェルに引率されて、ジャーディン・マセソン商会の渉外役などに出会う。彼らはまさに、アヘン取引を中国に認めさせようという交渉をしているところであった。
4人のうち一人中国語ネイティブであるロビンは、なんと、林則徐との交渉の場にも立ち会うことになる。ロビンは、イギリス側の一方的な要求を通訳させられる。
また、ロビンは広東のアヘン窟をその目で見ることになる。そして、自分の家の没落が他ならぬアヘンのせいであったことを思いだす。
林則徐は、アヘンの焼き討ちを決行し、ラヴェルらは急いでイギリスへ帰国することになる。
帰りの船中、ロビンは中国人差別を隠そうともしないラヴェルに対して、母のことを訊く。なぜ母を助けなかったのか、と。
そして、ロビンは、グリフィンがイーヴリンを殺したのに用いたのと同じ銀の棒を発動させるのだった。

第四部

ここからが下巻となる。
上巻は、様々な不穏な背景はありつつも、基本的に学園ものとして成立していたわけで、ヘルメス結社についても、ちょっと危険な秘密、という程度のものであった。
しかし、上巻の最後で、いよいよ史実との接続がなされ、さらにロビンがラヴェルを殺害するという衝撃的な展開で上巻は幕を閉じる。
下巻・第四部は、現場に入ってきたラミー、ヴィクトワール、レティが即座に隠蔽の相談をするところから始まる。
突然の展開にロビンは面食らうが、少なくともラミーとヴィクトワールとしては、ロビンにはラヴェル殺害に至る事情があるということと、このままノコノコ帰国したら自分たちも当然ただではすまないという認識がある。レティはこのあたり、若干状況に流されているきらいはあるが、友情から犯罪隠蔽に手を貸す。
ここから物語は一気に、犯罪小説の様相を呈していく。
彼らは船上からラヴェルの遺体を遺棄し、ラヴェルは感染症にかかったと嘘をついて、帰国する。
帰国してまずはハムステッドへと向かう。
ロビンはそこでラヴェルの手紙を見ることで、彼が以前から、対中開戦派の一人であり、今回の交渉も、開戦の口実にするためのものであったことを知る。
3人はこの手紙をヘルメス結社に持ち込むことに決めるが、レティに話を聞かれてしまう。
3人はレティにイギリスの人種差別、帝国主義、自分たちの境遇を語る。

自分たちがレティにすべてを話したあとで、すべての痛みを共有したあとで、慰めを必要としているのがレティだったという事実は、大きなパラドックスに思えるのだった。(下巻p.52

思わず引用してしまったが、この一節は本当にこの物語を象徴していると思う。
ヴィクトワールがオックスフォードでもいかに差別されてきたかを聞かされ、レティは相当に戸惑う。自分はヴィクトワールが差別されていることに全く気づいていなかったからだ。
しかし、それを理解し、レティは泣き崩れてしまう。
ロビンはレティが理解してくれたことを喜びつつも、その状況に何か腑に落ちないものを感じる。ラミーとヴィクトワールもそれを共有しており、上述に引用したとおり、書かれる。
マイノリティとマジョリティとが協力できたときでさえも、マジョリティの感情の方が配慮されている、というパラドックスである。
ロビンもラミーもヴィクトワールも、ヘルメス結社に自分たちから連絡をとる手段はもたず、向こうからの連絡を待たないといけない。そのためにはオックスフォードにいなければならない。
ラヴェルの帰国は遅れるという嘘をついているが、そのような嘘はいずればれてしまう
嘘が露見するのをできる限り先延ばししつつ、いつくるか分からないヘルメス結社からの連絡を待つ、というミッションをこなさなければならなくなる中、毎年恒例のバベルのガーデン・パーティが開かれる。
プレイフェアに気づかれていることがわかり逃げ出したところ、死んだはずのアンソニーと再会して、オックスフォードの地下通路へと。
アンソニーにつれられて、旧図書館と呼ばれる、誰にも使われていない建物へ。そこが、オックスフォードにおけるヘルメス結社のアジトであり、アンソニー、ヴィマル、キャシー、イルゼ、グリフィンがいた。
ここで彼らに新たな目的が生まれる。
つまり、アヘン戦争を止めることである。
議会が開戦を決議すればイギリスは中国に勝ち、中国への銀の流出が止まり、逆にイギリスへと銀が流入するようになり、イギリスの覇権は決定的なものとなる。
逆に、戦争を止められれば、銀の流出は続き、イギリスのパワーは失われていく。
銀工術は、産業革命も支えており、労働問題の原因ともなっていた。急進派や労働者たちと連帯することで、開戦を止められるのではないか、と彼らは考えるのである。
(このあたりの歴史改変ぶりがなかなか絶妙で、この世界は、蒸気機関が銀工術に置き換わった世界、ではない。蒸気機関自体は存在していて、銀はその効率化を支えている。まあそれ以外に一部、現実世界にはないテクノロジーを銀が担っていたりはするのだけれど、スチームパンクならぬシルバーパンクみたいなことには必ずしもなっていない(コンピュータがあったりはしない)。がしかし、銀が必要不可欠に組み込まれた世界にはなっている)
アンソニー、ヴィマル、キャシー、イルゼは、あくまでも非暴力的な方法で、労働者たちと連帯して、議会を動かそうと考えている。
一方、グリフィンは考えが違っていて、暴力が必要だと考えている。暴力だけが奴らに通じる唯一の言語だ、と。で、銃の使い方をロビンに教える。
また、グリフィンは、イーヴィーについても教える。無辜の学生などではなくスパイであった、と。ロビンに対して秘密主義を貫いたのはイーヴィーに裏切られた経験故。
いざ、決行という日。レティが裏切り、警官隊を連れてくる。レティ自身も銃をもっていて、ラミーが撃たれて死ぬ。
他のヘルメス結社のメンバーがどうなったかわからぬまま、ロビンとヴィクトワールは捕まり、監獄に収監される。
そしてロビンは、スターリング・ジョーンズによって拷問にあう。この拷問シーン、かなり過酷。
グリフィンの手によって脱獄に成功するが、グリフィンとスターリングが対決
注釈によって、グリフィンとスターリングとアンソニーとイーヴィーが同期であり、ロビンたちと同様の友情があったこと、イーヴィをめぐりグリフィンとスターリングの間にライバル関係があったことが示されている。

第五部

幕間 レティ
ロビンとヴィクトワールは、バベル占拠を決行する。
バベルの銀関係の業務についてストライキを行うことで、議会に働きかける作戦。
チャクラヴァルティ教授、クラフト教授、イブラヒムとジュリアナ、ユースフとメガーナだけがロビンたちと行動を共にする。
クラフト以外は有色人種であると書かれていて、逆に言うと、クラフトだけは白人でこのストに参加したことになる。
どこかで自分が読み落としただけかもしれないが、クラフトについてはそれほど人となりなどが書かれていなかった気がして、彼女がなぜストに参加したのかは微妙にわからない。
1年次の時、ロビンは彼女のことがあまり好きではなく、レティは彼女を敬愛していたという描写がある。
また、バベル占拠の際、ロビンと学部長の言い分を聞き比べた際に、ロビンの主張のほうが首尾一貫していると捉えて、ロビンに賛同しているわけなのだが、マジでそれだけで最後まで行動を共にしたのだとすると、クラフト教授、かなりすごい人だなとは思う。
ストを始めた当初は、オックスフォードもロンドンも無反応である。銀のメンテナンスをしないことで、少しずつインフラや建築物に影響が出てくるのだが、当局は交渉しようとはしない。
バベルへの立て籠もりは、食料や衛生面での問題があったが(そもそもバベルの教員も学生も象牙の塔の住人で、生活をどのように送ればいいかという根本的なスキルに欠けるところがある)、ある時、労働運動をしていたグループが、バベルの周りにバリケードを築き、治安部隊の接近を阻むと同時に、ロビンたちに差し入れを始めるようになる。
ロビンたちのストライキは、少しずつ人々の生活に犠牲を強いるようになっていく。
これ以上ストライキを続けるとウエストミンスター橋が落ちることがわかるに至り、チャクラヴァルティはロビンと意見を違え、バベルを去ることになる。
なお、ウエストミンスター橋崩落について、本文は一行のみで、その様子はすべて注釈で書かれていた。
イブラヒムが記録を残す。
バリケードに限界が近づく。レティが降伏を勧告する。バベルの塔が崩壊する。ロビンはラミーとの幸せな日々を思い浮かべながら亡くなる。
物語の冒頭で、死を待つばかりの身の上だったことを、ここで思い出す。それで物語としては円環が閉じる
わけだが、エピローグで、崩壊前に塔から脱出したヴィクトワールが描かれる。
もう出口がほしいと思ったロビンと、生きて幸せになりたいと願ったヴィクトワール(ここは、エピローグではなくて、少し前のシーンだが、ロビンとヴィクトワールの会話もかなり胸に迫るものがある。その会話では18世紀に書かれた詩と17世紀に書かれた恋愛小説が参照されていて、いずれも黒人が、ある種誇りを守るものとして死を選ぶ話だが、ロビンとヴィクトワールは死は端的に悲劇だということで同意する)
ヴィクトワールはハイチ生まれだが、生まれたときに革命が起きて、彼女の親は彼女を連れてフランスに逃れた。ハイチは共和国になったがフランスではハイチは無政府状態になっていると聞かされて育った。
そして、ヴィクトワールは逃げる。生き残るために。友たちと共に死にたいと思ったが、それを断ち切って進む。いつか死にたいと思う日が来るかもしれないが、それは今日ではない。
最後に、かつてアンソニーにいったクレオール語のセリフを思い出すシーンで終わる。その言葉の意味をアンソニーは分からないし、読者も(クレオール語を知らない限りは)分からないままで終わる。


ロビンたちは、有色人種として差別され、また大英帝国が世界を支配するための資源としてその言語を搾取される立場であり、だからこそ、彼らはヘルメス結社として抵抗を始める。
一方で、彼らはオックスフォードの学生として、さらに将来は、バベルの卒業生として、エリートの立場が約束されており、何不自由ない生活と自由な学究が保証されている。
ラヴェルをはじめとするバベルの白人教員たちも、あるいはレティも、それで何が不満なのかが理解できないのである(ことレティにおいては、まさに自分がそれを追い求めており、たまたま兄に替わることができたことで手に入れることができたので)。
しかし、このことについては、ロビン自身も常に悩み続けている。
レティは、幸福な生活を送っていたのではないか、と問う。しかし、ロビンやヴィクトワールは、個人の幸福ではなく社会の公正を選んだのであり、レティの問いはピントを外しているのだが、レティはそれにも気づかない。とはいえ、ロビンも幸福な生活を打ち捨てたかったわけではない。
彼は「生き延びるために」バベルに来るしかなかったし、バベルに従うしかなかった。そしてバベルの生活は、彼にとって本当に望ましいものであった。見て見ぬふりをすることの誘因の強さをロビンはよくわかっている。彼は一度ヘルメス結社を裏切っている。
そして、だからこそ、イギリスの白人たちが、自分たちの豊かな生活のために、中国での戦争を見逃すだろう、ということもロビンには想像がついた。なぜ、ストなのか。そうしなければ、彼らは自分たちの言葉を聞きはしないからだ。
とはいえ、彼らのストの影響を最初に直撃するのは、むしろ貧しい庶民からであって、上流階級もむろん銀の恩恵はたくさんうけているのだが、田舎に疎開することで、都市インフラの崩壊という危機からはとりあえず回避できてしまうのだ。
このあたりの、「自分たちの生活を守るためにほんの少しだけ不正義を見て見ぬふりすればよい」ことの倫理的葛藤の描き方が秀逸で、先進国の住人でありマジョリティでもある自分に対して、読んでいて刺さってくるものがある。

感想

原作も上下巻なのかどうかは知らないけれど、上巻と下巻とで、物語の空気感がある
前半は前半で、学園物にしては重たい話だな、というのはあるのだけれど、しかしそれでも、学園物として読めるし、ヘルメス結社にしても、まだ後戻りのできる危険として描かれている。実際、ロビンはいったんヘルメス結社から離れるし
しかし、後半からは、もはや後戻りのできない物語が始まる。
再びあの日常へと帰ることはできないし、戦いはじめてしまった以上は、勝利を得ない限り待っているのは死もしくは苦しみしかない。だからこそ、さらに行動を激化させざるをえなくなっていく。
もう後戻りができなくなった時、物語の展開としては、別世界へ旅立つ、という道もありうる。ファンタジーものであるならなおのこと。
しかしこの物語で、主人公たちは基本的にオックスフォードからは出ない。広東行きはあったが、広東からオックスフォードへと戻っていく。
ファンタジーってどんどん舞台を移動していって、どんどん物語を長大化させていきがちなジャンルだけれど、この作品は、むしろ後半からはファンタジーではなく、犯罪小説や歴史改変小説へと姿を変えていく。
で、舞台をあくまでもオックスフォードに限定することで、上下巻で物語を完結させている。


この作品すげぇなと思ったことの一つとして、歴史改変のオチの宙づりみたいなとこがある。
ロビンたちはアヘン戦争が起きないように尽力してきたわけだが、ロビンの最後の行動の結果としてアヘン戦争がどうなったのかは、明記されていないのである。
銀の力を、一時的かもしれないが、失ったイギリスは、アヘン戦争を戦えなかったかもしれない。
しかし、作中でも示唆されていたと思うが、それでもやはりイギリス議会はアヘン戦争を起こしたのかもしれない。
アヘン戦争が起きたのであれば、それは歴史改変は起きなかったともいえる。もちろん『バベル』の世界は、銀工術がある以上、我々の住む現実世界とは異なる世界ではあるのだが、それ以外の点では同じで、アヘン戦争が起きるか起きないは大きな分岐点となる。
ところで、この物語のサブタイトルには「秘史arcane history」と銘打たれている。
ヘルメス結社の活動は、イブラヒムによる記録以外には全て消えてしまっている。
アヘン戦争がもし起きなかったとすれば、そこにヘルメス結社やロビンたちの活動が記憶される可能性があるが、やはりアヘン戦争が起きたのだとすれば、ヘルメス結社やロビンたちの活動というのは完全に歴史の影へと消えていってしまうだろう。
歴史小説というのは、史実自体は変えずに、歴史書には残っていない隙間をフィクションで埋めるものだ、という考えがある。本作品は、銀工術がある以上、純粋に歴史小説とはいえないものの、アヘン戦争が結局起きたのだとすれば、歴史改変ものというよりは、歴史小説的な方法で書かれた作品とも言えなくはないだろう。
全く書かれていないことではあるが、結局、アヘン戦争は起きてしまった、と考えるのが妥当なような気がしている。
しかし、それではロビンたちの行動って一体何だったのか、無駄だったのか、という話になる。
その点についてはいったん置いておく。
本書の原題は、Babel: Or the Necessity of Violence: an Arcane History of the Oxford Translators' Revolutionというタイトルである。
Or the Necessity of Violenceの部分が邦訳に当たっては省略されている*2
で、Necessity of Violenceは、普通「暴力の必要性」と訳すかなと思うのだけど、一方で「暴力の必然性」という訳もありうると思う。
英語だとどちらも同じ単語だが、日本語の「必要性」と「必然性」だと少し意味が異なるだろう。
「暴力の必要性」だと、暴力を使うべきだ、暴力を使わないといけない、という感じがあるが
「暴力の必然性」だと、暴力を使わざるを得なかった、という感じがないだろうか。
ロビンの最後の行動は、イギリスの帝国主義・植民地主義を打破するのに必要なものだったのだろうか、それとも、ロビンは必然的にそうするしかなかったのだろうか。
兄グリフィンは、暴力の必要性を説いた。
ロビンはその兄の思想に共鳴したように読める。とはいえ、本当にそういうイデオロギー的な理由で行動に至ったのかどうか、というのは結構難しい。
もっと彼の個人的、肉体的、物質的な条件もあったように思う。身も蓋もなくいってしまえば、疲れ果てた、というような理由。
そして、その疲れが何に起因しているかといえば、間違いなくラミーの死がある。
はちゃめちゃに追い込まれてしまった人の破滅的自死だったともいえるし、そういう読み方ができるようにもなっていたと思う。
無論、あそこで死を選んだのはロビンだけではないわけではないけれど、とにかく、バベルの破壊が、アヘン戦争を食い止めるという目的にとって必要だからなされたのか、あるいは、様々な意味で追い込まれた人たちは必然的にそれを選ばざるをえなかったのか
前者としてとらえると、結局、アヘン戦争は起きたんだったらそれは失敗じゃん、無駄死にじゃんということになるが
後者としてとらえると、そういう成功か失敗かとかいう話じゃなかったんじゃないかと、考えることができる。
「暴力の必要性」というと、あたかも暴力を肯定しているかのように聞こえる(必要悪という言葉もあるので、必要=善いことというわけではないけれど)。だからこそ、邦訳ではタイトルから省かれたのでは、と思ったりもするが。
ただ、作品のテーマが暴力の肯定なのか、という疑問はある。
もちろんそのような疑問は、暴力は否定されるべきである、という一般的な現代人の価値観による先入観やバイアスによるものなのかもしれず、本作品は、そうした価値観を一定程度相対化させようとしているようにも読める。
しかし、どちらかといえば、本作品は暴力へと至る道筋を描いただけであって、暴力を肯定も否定もしていないのではないかと思う。そう、暴力を肯定はしていないと思うが、かといって否定もしていない。
アヘン戦争が結局この世界で起きたのか起きなかったのかは宙づりにされたままであるのと同様、暴力が必要なのかどうかも宙づりにされていて、しかし、その上で、暴力を選ばざるをえなかった人たちのことを描いたのではないか、と。


で、少し話が戻って、ロビンとラミーの死の話があるのだが
ロビンにせよレティにせよ(そしておそらくはラミーにせよ、ヴィクトワールにせよ)、彼らの動機とか感情とかの理由というのは、幾重にも重なり合っている。
つまり、ロビンがバベルを壊したのはロビンが中国人だったからであり、レティがラミーを殺したのはレティが白人だったからであるけれど、それと同時に、(ロビンにとって)ラミーが死んだからであり、(レティにとって)ラミーを愛したからでもある。
例えば彼らの人種的理由なしで(つまり彼らに人種の違いがないという設定で)、個人的な愛憎だけを動機として起きたとしても、物語としてチープになってしまうが、話としては成り立つことは成り立つはず。
そこに人種的背景を重ねたことで、深み(と言ってしまうのはそれはそれで軽率な感じがするが)が与えられているのだが、ただこの個人的な愛憎と人種的背景というのは、結局切っても切り離せない形で結びついてくのであって、そこもまた、この作品のすごみだなと思う。
単に、人種差別ってエグいなっていう構造の話ではない
レティの観点は、どこまでいっても白人であることから抜けられないものだったのだけど、でもレティがどうして最後、あのように対立することになったのかということに、彼女と兄の関係もあるわけだし。ただ、彼女と兄がああいう関係になったのは、女性差別の問題があるし。
そういえばレティが途中から、ロビンのことをバーディと呼びはじめる。バーディはラミーがロビンを呼ぶときの呼び名で、ロビンはラミー以外にはその名で呼んでほしくない。しかし、レティはロビンをバーディと呼ぶ。とかこのあたりも、彼らの間の感情の巨大さがやばい。
ロビンとラミーとレティとヴィクトワールの絆の深さは嘘偽りないものだったとしても、4人の行く末はそれぞれ完全に別々になってしまった、という物語の展開も見事だし
ロビンとラミーの関係というか、ロビンがラミーに対して抱いていた感情も一概に言い表せないものがあるし。
そのことがロビンとヴィクトワールを分かつものだったとすると、それはやっぱり個人の感情という側面が強いわけだし。


とりとめもないまま、終わり。

*1:自分のはてブを見ると、去年の3月、7月、12月の書評記事をそれぞれブクマしている。SNSでも時々、読み終わった人の感想をみかけていた気がする

*2:訳者あとがきでは、冗長なために省略したとさらっと書いてあるが、まあ、これタイトルに入れたら売れないと判断されたんだろうなあ、という気はする