『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)


(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

『Newton2023年1月号』

史上初の「惑星防衛」実験に成功(協力 吉川真 執筆 小熊みどり)

DARTの話

スマホと脳の最新科学(監修 髙橋英彦 執筆 西村尚子・尾崎太一)

立ち読みなのでざっと見出し眺めてっただけ。
スマホ見なくても近くにあるだけで集中力落ちるとか、電子書籍は紙より集中力が落ちるとか、わりとネットとかで読んだことある話が多かった。
電子が紙より~の奴、なんか呼吸が浅くなるかららしい。

空から見る 世界の都市(監修 中島直人 執筆 加藤まどみ)

ヨーロッパの城塞都市多め。星形要塞都市すげーな。
あと、キャンベラが計画都市だって知らんかった。
それから、アメリカにサンシティっていう高齢者専用都市がある。どの住宅からも各種施設がある中心部への距離が規定以内におさまるように、完全に円形をしている。

未来の宇宙ステーション(監修 柳川孝二 執筆 荒舩良孝)

アクシオムとかオービタル・リーフとかオービタルの宇宙ホテルとか
ゲートウェイや天宮も載ってた

『日経サイエンス2023年1月号』

ボイジャー最後の挑戦 未踏の星間空間を行く T. フォルジャー

ボイジャー1号、2号について、そのあらましを振り返る記事
惑星直列していてスイングバイの好機だったから、という理由だったのか。
175年に1回のチャンスだ、急げとばかりに始まった計画で急ピッチで打ち上げたみたいだけど、議会の理解を得るのは難しくて、木星まで行く計画として承認もらいつつ、技術者側で選べる場合は、可能な限り予算の高い方の選択肢を選んで開発していったっぽい。
同型機を2つ打ち上げ。当時は、同じものを2つ打ち上げるものだったらしい(ある関係者のそういうコメントが引用されていたが、半分冗談か?)。
40年以上運用しているし、ある時期からは少数のメンバーでやっているので、メンバー同士一緒に旅行してたりかなり家族っぽくなってるとか、新しく入ってきたメンバーの中にはボイジャー打ち上げ時にはまだ生まれてなかった人もいるとか。
ボイジャーからのカメラ映像は、施設の廊下だかどっかに設置しているテレビに映し出されるようにしていたらしいのだけど、初めてイオの映像がきたときは、学生がイタズラでピザを映したのかと思った、みたいなコメントもw 木星の衛星について、完全に予想外の姿だったらしい。ちなみに、カメラについては、既にスイッチが切られている。
ヘリオポーズを脱したとされているが、磁気と放射線のデータが予想と一致せず(放射線は一気に増えたのに磁気は弱まっていないとかなんとか)、チーム内で解釈が一致するのに時間がかかったとか。そもそも今も、ヘリオポーズが一体どんな形をしているのかなど議論が出ている(クロワッサン形をしているという説が有力になりつつある)。
ボイジャーは、実際に観測してみると予想と違ったということを色々発見していて、やっぱ現地行って観測するのが大事だよねーというようなことが書かれている(けど、現地行くの大変すぎる……)。
ボイジャーは今、原子力電池による電力がどんどん低下していて、ヒーターや観測機器のスイッチを切っていっている。コンピュータの近くにあってその熱を得られる磁力計となんかの観測装置は最後まで残す予定とか。
2030年頃まではなんとか運用し続ける予定。
ボイジャーのすごいところは、マイクロプロセッサを使っていないところ。コンピュータプログラムがない時代に作られたから、ソフトウェアでどうこうするみたいな発想がそもそもない。もう、ボイジャーみたいな探査機を作ること自体できないだろうとも言われているとか。

AIに論文書かせてみた A. O. トゥンストローム

タイトルがすごいが、タイトルそのままの記事(なお、原題はAI Writes about Itself)
GPT-3という文章作成AIがあり、こいつはこれまでも人間が読んでも遜色ないブログ記事とかを書いていたはずだが、これは、GPT-3にGPT-3についての論文を書かせてみた、という内容。
試しに書かせてみたらどうなるかなーくらいのノリで書かせたら、思いの外、ちゃんとした論文が出てきてびっくりした、という話。
ちなみに、何故GPT-3について書かせたかというと、GPT-3についての論文は比較的少ないので、その内容を学習していないから。論文形式の文章をちゃんと書けるかを試したいので、既に論文が大量に書かれているテーマを使うと、それを学習しちゃっててそのままアウトプットしてきちゃうから。あと、仮にGPT-3が書いた論文が今後発表されるとして、誤ったことが書かれたとしても、影響が少なかろうという理由から。
で、基本的には、ほとんど指示は出さずにGPT-3任せで論文を書かせて、わりとちゃんとした論文ができたので、投稿してみることにした、と。
この記事は、GPT-3がどんな論文を書いたのかというより、AIが書いた論文を雑誌に投稿しようとしたら、当たり前のことに色々戸惑うことになったという筆者の経験を綴ったエッセイという感じかもしれない。
例えば、GPT-3の姓は一体なんだ? とか、 メールアドレスは自分のアドレスを書いておくか、とか。
また、投稿しようとすると雑誌側の規定で「全ての著者が投稿に同意していますか」とか「利益相反はありませんか」とかがあるので、この筆者はこれらをいちいちGPT-3に訊ねる、ということまでしている。ここらへんは、どこまで冗談でどこまで本気なのかよく分からん感じだったが、書いてる本人も奇妙な感じだったようだ。
なお、この記事を書いている段階で査読結果はまだ出ていないとのこと。


追記
ググったら、論文本体を見つけた
プレプリントの奴
hal.archives-ouvertes.fr
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-03701250/document
下のURLは、論文pdf。


自分のヘボ英語力だと、違和感なく読める。
どういうプロンプトを与えて、何番目の出力を採用したかなど人間側共著者のコメントもついている。
基本的には、1番最初の出力を使っているっぽい。
メソッドについては、このキーワードを使って書け、と細かく指示しているけれど、他の部分については、かなりシンプルな指示(プロンプト)しか与えてない
なお、人間側共著者のコメントとして

The system was far too simplistic in its language despite being instructed that it was for an
academic paper, too positive about its ability and all but one of the references that were
generated in introduction were nonsensical.

ともあった。
too positive about its ability って言われてるのうけるw
最後に参考文献が5つくらいあがってるけど、それがほとんどnonsensicalだったということかな。
あと、論文の最後に、筆者らが何の資金を受けているかと利益相反についてのコメントがついている。
筆頭著者は、セカンドオーサーのサラリーから3ドル29セントの資金を受けてるよーと(OpenAIへの使用料かな)w

最近読んだ文学

以前、文学読もうかという気持ち - logical cypher scape2という記事を書いたが、
2ヶ月ほど経ち、日本戦後文学について、自分の中で一段落ついてきたので、これに該当する奴をリンクしておく。
なお、上記の記事を書いたよりも前のものも含む。

日本文学(戦後)

青木淳編『建築文学傑作選』 - logical cypher scape2
古井由吉『杳子・妻隠』 - logical cypher scape2
古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』 - logical cypher scape2
安岡章太郎『質屋の女房』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
庄野潤三『プールサイド小景・静物』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』 - logical cypher scape2
島尾敏雄『夢屑』 - logical cypher scape2
島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』 - logical cypher scape2
島尾敏雄「離脱」色川武大「路上」古井由吉「白暗淵」(『群像2016年10月号』再読) - logical cypher scape2
澁澤龍彦『高丘親王航海記』 - logical cypher scape2
『建築文学傑作選』と『杳子・妻隠』は1月の記事。『木犀の日 古井由吉自薦短編集』から9月の記事。
もう少し読む予定のものもあるが、まあ大体こんなところで。
庄野潤三島尾敏雄を知ることができたのが収穫。
また、小島信夫も読むことができて、その重要性が分かった気がする。
(最後の澁澤龍彦を除くと)短編ばっか読んだので、いずれ長編も読んだ方がいいかなと思いつつ、短編で色々読むのが楽しい。
『戦後短篇小説再発見』はとりあえず18巻中4巻を読んだが、もうちょっと他にも読んでみてもいいかなあというのもあるし、あるいは、特定の作家縛りでもう少し読むことも考えられるし……。

日本文学(女性)

藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2
藤野可織『いやしい鳥』 - logical cypher scape2
藤野可織『来世の記憶』 - logical cypher scape2
まあ、「日本文学(女性)」というか、単に藤野可織読んだだけだが。
『おはなしして子ちゃん』は去年の12月。
あと、『ピエタとトランジ』も文庫が出たので近いうちに読む予定。

海外文学

さて、日本文学について一区切りつけて、これから海外文学に手を出すかなと思っている。
既に色々と読みたいタイトルは考えていて、日本文学は短編メインだったのに対して、海外文学は長編メインになりそうなので大変そうだけど、12月から1月にかけて読んでいきたい。
で、ちょっとばかり参考にしてみようかなと思って、池澤夏樹『現代世界の十大小説』を気になったところだけ拾い読みした。
また、藤野可織がインタビューで好きな作品の一つに『悪童日記』を挙げていて、ブクマカが好きな小説ベスト108でも『悪童日記』が驚きの1位になっていて、タイトルは知ってるけどどんな作品なんだろと気になっていたところ、本書で取り上げられているようだったので、そこも読んでみた。
第3部に出てくる『老いぼれグリンゴ』『クーデター』『アメリカの鳥』が気になった。
なお、以下に取り上げられている10作のうち、『百年の孤独』『悪童日記』を除く8作は、池澤夏樹編集の『世界文学全集』に収録されている。というか、この『現代世界の十大小説』自体が『世界文学全集』を編集したこときっかけで書かれている。

第1部 「民話」という手法
 第1章 マジックなリアリズム――ガルシア=マルケス百年の孤独
 第2章 「真実」だけの記録――アゴタ・クリストフ悪童日記
第2部 「枠」から作り直す
 第3章 恋と異文化――ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』
 第4章 名作を裏返す――ジーン・リース『サルガッソーの広い海』
 第5章 野蛮の復権――ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』
第3部 「アメリカ」を相対化する
 第6章 国境の南――カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ
 第7章 アフリカに重なるアメリカ――ジョン・アップダイク『クーデタ』
 第8章 正しい生きかたを探す若者――メアリー・マッカーシーアメリカの鳥』
第4部 「体験」を産み直す
 第9章 消しえない戦争の記憶――バオ・ニン『戦争の悲しみ』
 第10章 闇と光の海――石牟礼道子苦海浄土

澁澤龍彦『高丘親王航海記』

澁澤龍彦の遺作にして代表作(唯一の長編らしい)。
高丘親王が天竺を目指す道中を描く作品だが、怪奇・幻想的な風景が、エキゾチックかつユーモラスな文体で綴られている。
元々、特に読もうと思っていたわけではなかったのだが、図書館で島尾敏雄作品を借りた際に、棚の近くにあったのでつい。
とはいえ、澁澤作品は青木淳編『建築文学傑作選』 - logical cypher scape2で「鳥と少女」を、『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2で「ダイダロス」を読み、いずれも面白かったので、本作に興味がないわけではなかった。
ページ数自体それほど長くないということもあるが、文体も読みやすく内容も面白いので、するすると読み進めることができた。
まあとにかく、様々に奇妙な動物やら国やらが出てきて、不思議なことが次々起こる物語でそれが面白いが、古今東西の文献を自在に引用していく技巧もすごい。9世紀後半の話だが、登場人物が突然コロンブスに言及したりもする。この時代にはないだろうカタカナ語なども遠慮なく使われているのだが、世界観は全く崩れていない。
また、虚実入り交じるだけでなく、登場人物の夢の中の話も度々入っており、一体どこからどこまでが作中で起きたことなのかも曖昧になっている部分もあったりする。

高丘親王やあらすじや澁澤龍彦について

おおむねWikipediaからの受け売りになるが、史実の高丘親王について
平城天皇*1の第三皇子。薬子の変に伴い廃太子されるが、関わった証拠がなく、後に復権した。
しかし、23才の時に出家し、空海のもとで修行する。
63才で唐へ渡った後、天竺へ向けて出発するが、その後消息を絶った。
歴史上の人物としては、おおよそこれくらいの感じらしいが、この天竺へ向けて出発した後の記録のない期間を描いたのが、本作ということになる。
本作では、広州を出発した後、今でいうところのベトナムカンボジアラオスミャンマー雲南などを巡った後、ベンガル湾からセイロン島を目指す途中、風に流されスマトラ島に漂着。マレー半島へ渡ったところで終わる。
というわけでナチュラルにネタバレしてしまったが、天竺を目指しつつも天竺には到達できなかった話ではある。なお、やはりWikipediaによれば、実際の高丘親王マレー半島あたりで亡くなったと伝えられているらしい。
66才ないし67才で亡くなったようだが、作中でも67才で亡くなっている。
ところで、澁澤自身はこれを遺作として59才で亡くなっている。病床で執筆していたらしいが、作中で高丘親王が自らの死を予期するところが描かれており、澁澤本人とどうしても重ね合わせたくなってしまう。ここはまあ『ハーモニー』と伊藤計劃本人をどれくらい重ね合わせるのかという問題(?)とも似ているかもしれない。


儒艮

広州から船で出発して、南シナ海を南下し、チャンパー当たりに上陸する話
親王には、安展と円覚という2人の僧侶が同道しているのだが、出発間際になって、逃亡奴隷である少年(のちの男装した少女だと分かる)が一行に加わり、親王により秋丸と名付けられる。
船旅の途中、儒艮(ジュゴン)に出会う。人間に似た姿に秋丸は最初恐れるが、懐いて連れていくことになる。姿が人間に似ているだけでなく、人の言葉をしゃべれるようになる。
このジュゴンは、上陸後も一緒についていくが、暑さのために途中で死んでしまう。
さらに一行は、人語を話す大蟻食にも出会う。
大蟻食が出てきたとき、円覚は「わたしもあえてアナクロニズムの非を犯す覚悟で申し上げます」といって、この生き物は今から600年後にコロンブスが新大陸で発見した生き物で、こんなところにいるわけがないと主張しだす。すると、大蟻食は大蟻食で我々は新大陸にいる生き物のアンチポデスなのだ、とか言い出す。
親王は蟻塚にはまっていた、鳥の入った石をもぎとる。
この大蟻食のことについて、後で話してみると、一行の他のメンバーは誰も覚えていなかった。


この儒艮の章では、親王が何故天竺へ行くことに情熱を燃やしているかについて、回想シーンが入っている。
父親である平城帝の寵姫であった藤原薬子から、幼いころに天竺の話を聞かされたのがきっかけで、その時、薬子は何か光るものを「そうれ、天竺まで飛んでゆけ」と言って放り投げている。薬子が、いずれ今投げたものが卵になって自分がそこから生まれ変わるのだと嘯いたのが、親王にはいつまでも記憶に残った。
蟻塚にはまっていた石はもしかしてそれだったのでは、というエピソード

蘭房

真臘(カンボジア)のトンレサップ湖にて
親王が釣りをしていると、これからジャヤヴァルマン1世の後宮に行くのだという謎の男に声をかけられる。親王を止めようとする秋丸と2人で、男についていくことにする。
男曰く、ジャヤヴァルマン1世の後宮には、単孔の女がいて、王の80歳の誕生日に妓楼として一般開放(?)されるのだという。
入るためには、手形となる貝が必要なのだが、その男の持っていた貝では入れないと門番の白猿に言われる。ところが、何故か秋丸がその貝を持っていて、親王一人入ることが許される。
そこで、頭が女で体が鳥の女が、しかし死んだようにうずくまっている姿を見る。
ところで、後宮へ向かう途中、小舟の中で親王は眠ってしまい、薬子の夢を見る。琵琶湖の竹生島に薬子と2人で向かう夢で、三重塔の壁に描かれた絵に、鳥の姿をした女がいて、薬子から、それは迦陵頻伽(カリョービンガ)というのだと教えられる。
なお、この章の最後に地の文で、ジャヤヴァルマン1世は200年前の王であり、親王の天竺行の際に80歳の誕生日を迎えるのはありえない、と書かれてたりする。

獏園

扶南が南下してできた盤盤という国に訪れた時の話
大きな丸いキノコのようなものを見つけて、秋丸はその香りの虜になる。しかし、さらにその先で見つけた別のそれは、ひどい悪臭で秋丸は倒れてしまう。
しかしてその正体は、獏の糞であった。
その後、親王と秋丸は、土民に捕まってしまうのだが、親王が毎日夢を見るということを知ると、盤盤の太守が作った動物園の中の獏園へと連れてこられる。
獏は夢を食べるが、南方の人間は夢を見ないので、夢を見る人間を求めていたのだという。
また、太守の娘が憂鬱症なのだが、獏の肉が薬になることもあって、獏を健やかに育てる必要があった。
毎日夢を見ていた親王だが、夢を吸われてしまい夢を思い出せなくなる。が、ある時、生まれて初めての悪夢を見る。薬子が父帝を毒殺しようとして、親王はそれを止めようとするのだが、薬子から「おとうさまをころしてくれとは、なんということをいうのですか」と逆に言われてしまう、という夢
太守の娘であるパタリヤ・パタタ姫が獏園を訪れる。興奮している獏を口で絶頂させる姫。
ところで、この獏園のくだりが全て、親王の夢の中の出来事であることが最後に明かされる。

蜜人

盤盤の太守から船をもらうが、風に流されてアラカン国へ漂着してしまう
そこで、犬頭人に出会う。犬頭人は、マルコ・ポーロなど数百年後の出来事をなぜか知っている。
ラカンの海岸には、大食国の商人(アラビア人)がいて船に乗せてもらおうとするのだが、アラビア人商人は、その代わりに蜜人を取ってきてほしいと頼む。
蜜人は、アラカン国の山脈の向こうの砂原で死んで乾燥した遺体で、妙薬として高く売れるのだという。
むろん、安展、円覚、秋丸は反対するのだが、親王は1人で取りに行くことにする
砂原はそのまま歩くと熱気で死んでしまうので、帆を張った丸木舟に乗って、足で漕いでいく。
親王はまた夢を見て、空海上人の夢を見る。
親王雲南まで行ってしまう。
空海は入定して、即身仏つまりミイラになっているのだが、蜜人も一種のミイラであって、蜜人を見つけた親王空海の思い出と重ね合わせている。


ところで、蜜人というと、イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』 - logical cypher scape2にも出てきたので、目次を見たとき「お、蜜人?!」と思った。

鏡湖

親王は一人、雲南の山に囲まれた南詔国へやってくる
洞窟の入口で、秋丸そっくりの少女に出会うのだが、言葉が通じない。そこに男たちが現れ、彼女は南詔国の宮廷の妓女で、無断で逃げ出した罪に問われているという、
親王は、彼女を春丸と名付け、男たちとともに南詔の王城へと向かう。
ところで、この妓女というのは、落雷により感応した女から卵で生まれた娘だという。春丸もやはりそのような卵生の女であった。
なお、地の文において、もし親王が迦陵頻伽のことを知っていたら、春丸と秋丸は迦陵頻伽なのだと思ったことだろうと触れられている。
ところで、王城へ向かう途中、琵琶湖のような鏡のような湖があって、そこに顔が映らない者は1年以内に死ぬという迷信を聞かされるのだが、果たして、親王は自身の顔が湖に映らなかったことに気づく。
さて、南詔の王はまだ若く、ご乱心の噂がある。ある時、親王はその王と2人で会う機会に恵まれるのだが、王から負局先生と間違われる。王は、とある鏡をひどく怖れていた。親王はその鏡を封印するという芝居をして、王の信頼を得る。
春丸は無罪放免となり、親王は彼女を連れてアラカン国へと戻り、安展、円覚と合流する。しかし、2人によると、秋丸は少し前から行方をくらましてしまったという。

真珠

アラビア人の船に乗ってセイロン国を目指す。
親王は己の死期が近いことを感じはじめる。
ベンガル湾で、死んだはずのジュゴンに再会する。
親王は、船内で天文術に長けたカマルという男と親しくなる。
真珠採りの男たちと遭遇し、その技を見せてもらい、真珠を一つもらう。円覚は、美しいものは不吉なものではないかと口を挟むが、安展がそれを笑い飛ばす。
セイロンが近づいてきたはずなのだが、急に風がやみ船が動かなくなる。船乗りたちの中に気がくるって海に身投げする者が出てくる。
そして、幽霊船のような船が現れ、幽霊たちに襲われる。真珠を奪われそうになった親王は、それを飲み込む。
それから、親王は喉に痛みを感じるようになる。
ところで、Wikipediaによると、澁澤は癌で喉を切除している。また、それを真珠を呑んで声を失ったのだと見立てて、「呑珠庵」と号したらしい。
上に「幽霊船のような船」と書いたが作中で幽霊とは書かれていない。時代錯誤の軍船で、ひゃらひゃらと言う男たちが乗り込んでくるのだが、多分幽霊。

頻伽

「びんが」と読む。
船はベンガル湾の魔の領域からスマトラ島へと流されてしまう。
一行はそこで、人の体液を吸ってミイラにしてしまうという花(ラフレシア)を見る。ラフレシアについて地の文で説明されるのだが、そこで、親王も安展も円覚も「後世の事情にはからきし疎いほう」などとさらりと書いてあったりする。
ここまでも散々時系列を無視して古今東西の文献が引用されてきたので今更驚くには値しないが、プリニウスの『博物誌』なんかも引用されたりしている。
円覚が本草学に詳しい博覧な人物という設定なので、仏典などからの引用が基本的に多いが、他に天竺に渡った先人ということで義浄の書からの引用も時々なされていて、しかし、地の文とかだと不意にプリニウスとかが出てきたりする。
親王は、スリウィジャヤに輿入れしたパタタ姫に再会する。パタタ姫は、歴代王妃が眠る墓廟へ親王を案内する。
この国では王子を生んだ妃は、王子を生んだ後ラフレシアの上に乗ってミイラになるのだという。そして、パタタ姫は史上最年少で墓廟に入れることを心待ちにしていた。
また、親王が病状の身であることと、死んでも天竺に行きたいということを知り、ある提案をする。
マライ半島の南端にある羅越には、天竺と行き来している虎がいるという。その虎に食われれば、(死んでしまうが)虎に天竺まで運んでもらえるのではないか、と。
安展、円覚、春丸は当然反対するが、親王はこの提案に乗り気になる。
しかし、親王は病気で弱弱しくなるばかり。
ある日、かつての薬子の真似をして「そうれ、天竺まで飛んでいけ」といって石を投げるふりをしたりする。
その後、夢の中にパタタ姫が現れ、親王の喉の奥の真珠を取り出すと、そのパタタ姫が薬子に変わり「そうれ、日本まで飛んでいけ」といってその真珠を投げる。
一行は、再び旅立ち、羅越のシンガプラ島へ渡り、親王は1人藪の中で幾晩も過ごし、ついに虎に食われる。
春丸は鳥の姿になって飛び立っていき、安展と円覚は、あれは頻伽だなと言って、親王のプラスチックのような骨を拾う。
なお、この「プラスチックのような骨」という表現は、本作のコミカライズをしている近藤ようこがインタビューの中で「素晴らしい」と言って紹介している(ので、ここでも引用してみた)。
近藤ようこさん「高丘親王航海記」インタビュー 澁澤龍彦作品の“明るさ”に惹かれて|好書好日

感想

とここまで各章のあらすじをまとめたが、駆け足でざっくりまとめたので、面白さがスポイルされている気がする。まあ、あらすじなので仕方ないのだが。
読んでいる最中は、各地方に出てくる奇妙な動物やら風習やら景色やらのディテールが読んでいて楽しいのだけど、改めてこうやってまとめてみると(読んでいる最中にも意識はしていたけれど)、薬子というある種のファムファタルの物語であることが分かる。
薬子自身は、親王の夢や回想の中でしか登場しないが、秋丸・春丸、パタタ姫、蘭房の女たちなど、作中に出てくる女性はみな何らかの意味で薬子と重ねあわせるような描写が出てくる。その重ね合わせのために用いられているのが、迦陵頻伽という、頭が女性で身体が鳥の生き物である。そして、卵、石、真珠などの様々な球体も、薬子=鳥と結びついて用いられているが、これが次第に親王自身の死というテーマとも結びついていくことになる。
そういうモチーフとテーマの連なりが、一本縦糸として入っているのが、この物語の読みやすさ・面白さに繋がっているのだと思うが、この縦糸のまわりに、きらびやかな横糸(ディテール)が溢れんばかりに絡みついているのもまた魅力なのだろう。
ダイダロス」は、陳が最後蟹になってしまって、焦点人物が消滅してしまう、みたいなところがとても面白かったのだけど、
本作だと、この地の文の語り手は一体何者なのかとか、一体どこからが作中の事実でどこからが夢や回想なのかとかで、ナラトロジー的な批評もできそうだけど、そのあたりはむしろもうそういうものなのだなと浸ってしまう感じ
(つまり、「ダイダロス」だと「この結末テクニカルですげー」って感じなのが、本作だと、語りのテクニカルさはもはや自然すぎて逆に意識されないな、と)


DTPについて

文春文庫2017年版で読んだのだが、DTP担当が言語社だった*2

*1:という名前だが、奈良時代ではなく平安時代天皇。譲位後、平城京に移り住んだ

*2:本当に単にそれだけをメモするために立てた項目だが、一応補足しておくと、ミステリ作家である笠井潔の息子、笠井翔が代表を務める会社である。彼とは過去に何度か会ったことがあるので、「あ!」と思ったというだけの話。なお、別の本でも言語社の名前を見たことはある

島尾敏雄「離脱」色川武大「路上」古井由吉「白暗淵」(『群像2016年10月号』再読)

島尾敏雄「離脱」

『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その1 - logical cypher scape2で以前読んだことがあるのだが、この記事を見直してみると

島尾敏雄「離脱」(1960年4月号)
夫婦の話
ずっと勝手してた夫が妻からいろいろ

と非常にそっけないメモしか残っていなかったw
読み直してみたところ、まあ、まさにこの通りの内容ではあるのだが、島尾敏雄の伝記的事実をある程度知った今読むと、かなり解像度が上がった。
東京の小岩に住んでいた頃の話で、島尾の浮気が発覚し、妻との関係が悪化。関係回復を図ろうとしている時期の話。
妻からの烈火のごとき詰問にあい、「すみません、すみません」と低頭しながら、聞かれるがままに答えていくのだが、そういう状況にあっても、できれば細部は誤魔化したいと思っている心情が書かれている。むろん、その態度はすぐにばれる。
妻が突然自殺してしまわないかということを恐れ、反省しきりであり、その改心自体は本心なのであろうが、「これからの自分を見て欲しい」という夫と、これまでの10年間がこの3日間でチャラになるわけじゃないからなと言ってくる妻との齟齬みたいなのが、読んでてキリキリするといえばキリキリする。
全くの第三者視点に立つと、妻が明らかに正しいのだが、こうヘナヘナになってしまう夫の心情も分からないでもない。
妻の機嫌がよくなって関係が回復していくのかなと思わせた直後に、再び、詰問が待っている。
また、精神的に参ってしまっている妻は時々激しい頭痛の発作がおこり、それをおさめるために、冷水をかけてほしいとか、頭を殴って欲しいとか頼んでくるし、また、街中を彷徨したりする。終盤は、妻のこの発作に付き合う様子が描かれていて、このあたりは、単なる夫婦喧嘩の域を超えて壮絶なものがある。
ところで、息子の「伸一」*1と娘の「マヤ」も出てくる。2人ともまだ幼く、母親の突然の変貌にただならぬものを感じてはいるが、状況がよくわかってはいないという感じ。マヤが失語症になる前なので、幼児語ながら言葉を喋っている。

色川武大「路上」

やはり、『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その4 - logical cypher scape2で以前読んでいるのだが、その時のメモは以下の通り

色川武大「路上」(1987年6月号)
読んだけど、どんな話だったか思い出せない
なんか、昼ご飯どこで食べようかと彷徨っているシーンとかがある

色川は『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』 - logical cypher scape2で読んだ「蒼」が面白かったので気になった。
本作は、夢と現実とが入り混じるような作品で、確かにあとで一体どんな話だったか思い出そうとすると難しい作品かもしれない。
昼飯をどこで食べようかさまよっているシーンもある。
「けれども、私の一生は、路上を歩き続けただけのようなものだった、という実感は消えない。」というフレーズがあって、それがテーマといえばテーマか。
冒頭はおそらく夢で、材木置き場だらけの道を歩いていたら母校と思われる学校に入って行って、教師が謎の理科の授業らしきものをしている。
夢から覚めるとホテルの最上階の部屋に寝ているのだけど、このシーンも現実かどうか怪しくて、というのも、ホテルの部屋が滑り出して、中庭に落下して、そしてまた戻っていくのだ。
それから、例の昼飯を食べる店を探して、いろいろな店に行くのだが目当ての店はしまっていて、初めて入る店に入って食べてみるけど、ビールを注文しようとするとそんなものはないとにべもなく断られたりする。
そして、店を出ると、再び材木置き場があって、自分の身体が材木に変化してしまったところで終わる。
かなりシュールといえばシュールな話だったかもしれない。

古井由吉「白暗淵」

これまた以前、『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その5 - logical cypher scape2で読んでいるが、その時のメモは下記の1行のみ

古井由吉「白暗淵」(2006年9月号)
空襲で母親が死に、親戚のもとで育てられることになった主人公の話。

特に読み返すつもりもなかったのだが、ふと目に留まって読み始めたら、するすると一気に読んでしまった。
わりと文のテンポがよいからかもしれない。
主人公、坪谷の子供のころの話と、大人になってから回想しているシーンが交互に進む。
先の引用にあるとおり、空襲で母親が死に、親戚のもとで育てられることになったという話なのだが、自分も死にかけて九死に一生を得た、というのが最初の記憶で、その後、聞き分けのよい子だとわりと褒められながら育てられる。
それから、高校時代の英語の女教師から何人かの生徒と課外で創世記の話を聞いた話、大学の時に知り合った友人と年に何度か安酒場で酒を飲みながら哲学話のような話をした話が続く。最後に、坪谷もその友人も就職してから再会して、あの頃は身の程知らずのことを語ったなと言い、坪谷は女から子ができたことを宣告された、というところで終わる。
話のあらすじだけ追うと特に面白みがないのだけど、人生の空虚な(?)感じと時々挟まれる俗っぽい感じ(女教師との関係や最後や)とのバランスとかテンポ感とかがよかった。

*1:実在する島尾の息子の名前は伸三

島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』

筆者の、特攻隊経験をもとにして書かれた系列の作品と、夢系列の作品とを収録した短編集
島尾敏雄については[『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2」を読んだら「蜃気楼」が面白かったので、続いて島尾敏雄『夢屑』 - logical cypher scape2を読んだ。
島尾作品には、戦争体験を描いた作品の系列、妻との関係を描いた作品の系列、夢を描いた作品の系列の3系列があるらしいが、「蜃気楼」は夢を描いた作品の系列で、それを追うために『夢屑』を手に取ったのだが、そこに収録されていた私小説系列の作品もわりと面白かったので、さらに特攻隊関係の作品も読んでみてもいいかなと思って読むことにした。
また、「蜃気楼」は30才の頃に書かれた作品であったのに対して、『夢屑』収録作品は晩年期に書かれた作品で、同じ夢系列の作品とはいえ雰囲気が異なっていた。「蜃気楼」により近い時期に書かれた作品が収録されているのも、この本を選んだ理由である。
本書に収録されている夢系列の作品(後半の作品)は、「蜃気楼」や「夢屑」などとはまた雰囲気が異なっている。シュールレアリスティックな作品というべきか。
この系列では、「蜃気楼」や「夢屑」の方が面白い作品だったかなと思うが、本書収録作品の中では「島へ」がそれらに匹敵するくらい面白かった。


島尾作品は、私小説的な作品の場合、淡々と出来事が書かれていく感じがする。「私」の心情も書かれているのだが、それも含めて淡々としている、ような印象を受けた。
そうした描写の雰囲気は、夢系列の作品でも同様といえば同様なのだが、シュールレアリスティックな作品であるためか、より情景描写が細かくなされているような印象はある。
格別に凝った文体であったりはしないのだが、しかし、やはり書かれた時代が数十年前ではあるので、21世紀現在の感覚で読むと、古めかしい文章だったりあまり使われない語彙が頻出し、その点で、読むのに一定の集中力が必要になるが、雰囲気に浸れる。
また、時々カタカナで書かれる台詞が出てくることがあるのだけど、それが結構効果的だなと思う。

出孤島記

島尾の属していた特攻隊というのは、有名な神風特攻隊ではなく、震洋特攻隊。2人乗りないし1人乗りのボートの舳先に爆薬を搭載したもの。作中で島尾はこれを「自殺艇」と呼んでいる。島尾は、九州大学を出た後に海軍に入ったため、隊長としてこの島に赴任しているが、戦闘経験はない。
出撃直前まで行ったが結局出撃しなかった日のことを描いている
終戦間際の出来事で、沖縄から本土へ向かう米軍艦隊を攻撃するのを目的としているが、どうも奄美周辺は米軍から重要視されておらず、奄美素通りで本土へ行っているようだということが推測されているような状況。
また、制空権をとられているので、敵機はしょっちゅう来ており、そのためかつて行っていた訓練ももう行えなくなっている。このため、特攻兵も含めて畑仕事が日常作業となっている。
そんななか隊長の「私」は、時に部落の方に行ってNに逢いにいったりしている。
いずれ死ぬことが決まっている緊張感と、しかしそのための命令がなかなか来ないことによる弛緩との間に挟まれた「日常」
この緩慢に死に向かう感じは、そもそも自殺艇が大したスピードが出ないということにも反映されている(自分たちには麻痺が必要だが、その麻痺をもたらす速度もでない)。
そしてある夜、ついに出撃準備の命令がやってくる。
準備中に、第四艇で爆発事故が起きるが人的損害が全くでないという不可解な事態も起きる。
一晩中、出撃命令を待ち続けるが、結局その後命令は出されず朝を迎えてしまう。先述した通り、速度の出ない自殺艇が体当たり攻撃を成功させるためには夜闇に乗じるしかないので、夜が明ければ当然出撃はなくなる。
そして再び「日常」へと戻るところでこの話は終わる。


「私」は、一方ではわりと冷静な状況判断ができており、特攻がほとんど無意味だし戦争の大勢は決していて、このまま生き残れるのではないかという考えもあるのだが、他方で、軍人としては、彼らは特攻の訓練しかしておらず、他に何かできるわけでもなく、早く命令をもらって終わらせてしまいたいというような気持ちも抱いている。
死ぬことが決まっているからこそ、この「日常」をなんとか生き抜いているというところもある。
生き抜いているというと格好がいいが、色々なことを誤魔化しているとも言える。
例えばNとの関係だが、部下たちには隠しているという体で(というかまあバレているし、バレていることも分かっているのだろう)夜な夜な通ったりしているわけだが、この話では攻撃命令がそろそろ来そうだという予感を抱いている頃なので、Nのところに行っているわりにすぐ帰らないとまずいんだと言ってすぐ帰ろうとしている。Nが純粋に「私」のことを慕っているのに対して、なんとも言えない態度をとっている。
あるいは、隊内の人間関係というのも、本作ではあまり表だって出ては来ないが、なんとも微妙である。「私」は戦闘経験も何もなく隊長となっているが、一方で先任士官や先任下士官がいて、他方で、階級が下の方の者たちには、年かさで徴兵された者たちがいる。彼は、徴兵される前は色々な職業に就いていた者だが、今は見張りだったり何だったりをさせられている。軍の中では下っ端なので従順だけど、例えば、畑仕事など非軍事的な生活が次第に行われるようになってきて、態度が少し変わってきている者などもいる。

出発は遂に訪れず

「出孤島記」で描かれた出撃待機の夜から始まり、玉音放送を聞いた日の夜までを描く。
敵機が全く来ない日が3日続いた後、守備隊へ来るように命じられる。
戦争が終わったのではないかという予感を抱きつつ、歩いて向かう
そこで玉音放送を聞き、その後、戦争は終わったが待機は解除しないという命令を受け、隊に戻り部下たちにその旨話す。
その晩、先任下士官がやってきて、自分は戦後こういう生活をするつもりだが士官は責任をとらされると思いますよという話を一方的にされ、「私」は軍刀を握りしめて眠る。


「出孤島記」よりも内省的な感じがしたが、冒頭だけかも。
「出孤島記」ではNという名前になっていたミホがこちらではトエとなっている他、「出孤島記」では他の登場人物もイニシャル表記だったが、こちらではそういう表記はあまりなされていない
部落の人たち(もともと島に住んでいる民間人)の描写が増えたかも。

その夏の今は

玉音放送の翌日以降の話
戦争が終わった後の方がむしろ緊張状態を強いられる、というか高圧的になっている「私」
戦争中は、友好的で色々よくしてくれた部落の人々だったが、貸した舟返せとか、あげた鯉返せとか言ってくる人が出てくる。
部隊の中も規律が緩み始める。あるいは「暴発」にも警戒しなければならない。出撃待機の夜に起きた爆発事故の事後処理もしなければならない。先任士官が隊長をしている第二艇隊は、入り江の反対側に位置していて元々「私」の目が届かない部隊であったが、ますます規律が緩んでいるように見える。隊の中には、出身地域が異なる者たちが混ざっていて、その差異による軋轢が今後噴出してくるかもしれない、という考えもよぎる。
そうした状況で「私」は、以前では言わなかったような高圧的な言い方を度々してしまう(こんなどこかで聞いたような言い方をまさか自分がしているとは、というようなことを思いながら)。
2つの出来事が起きる。
まず1つとして、占領軍が入ってきたら女子どもは乱暴されるという噂がたち、部落の者たちがさらに山奥へと移動しようとしているという話を聞いて、そもそも詔勅を伝えていなかったことに気付いて部落を訪れる。そこで玉音放送の原稿を読み上げるのだが、下読みをしていなかったのでつっかえつっかえになってしまい、その上、不意にこみ上げるものがあって半ば泣きながら読むことになる。
もっとも、その前日、実際に玉音放送を聞いたときやそれを部下に伝えたときは、とても淡々とした態度をとっていて、この時も終戦について嘆くような思いや悔しい思いがあったわけではない。むしろ、そのような激情を叫んだ部下に対して、ほんとにそう思っているなら言うだけでなく実際に行動して見せろ的な冷たい言葉を言い放っていたりする。
ただまあそれが功を奏したのか何なのか、噂に惑わされないようにという「私」の話はおそらく部落の人々に伝わる。
もう一つは、ある少尉から、兵曹長がトエの家に行って暴れたという報告を受けたもので、しかし、兵曹長を呼び出すと話が食い違う。少尉はそれを基地隊長から聞いたというのだが、基地隊長を呼び出すとそことも食い違う。少尉は、「私」とは同じ大学出で気安く話せる仲であったが、兵曹長や基地隊長は、その少尉が「私」にあることないこと話すので、「私」との間に壁ができてしまったのだという。

孤島夢

戦闘艇の艇長になって航海していたら、ある島へと迷い込んでしまう。
列島に住んでいる人たちと同じ見た目をしているが言葉が通じない島があるという噂があり、それがこの島だと「私」は考える。列島の人々が、普通二文字の苗字を持つのに対して、島の人々は一文字の苗字と三から四文字の名を持つ。
東京歯科医学士で、列島風の名前を名乗っている歯科医を見つけて侮蔑する

夢の中での日常

小説が1本採用されたが、まだ掲載誌が発売されておらず、ノヴェリストとなったはいいがしかし次の作品が書けないでいる「私」が、とあるビルに住んでいる不良少年たちのグループのところに取材込みで一緒に生活しようとするのだが、そこに何故か小学校時代の友人でレプラ(ハンセン病)患者の男が「私」を訪れる。
その男は、ゴム製の器具を私に売りつけるが、私はなるべく男に触らないようにして、その後、手を消毒する。それを見た男は憤慨し、私はその建物から逃げ出す。
無数の飛行機が飛び交う空に恐怖を覚える。
母が住んでいる筈の南方の町へと向かう。「すると町は全滅した訳ではなかったのだ。」「丘陵も建物も灰になってとろけるように崩れ落ちた平面の感じがする或る区域に、その場所があるようであった。」とあり、長崎かどこかなのかもしれない。
満員電車に乗り込んで、若い女に痴漢のようなことをする
母親の住んでいる家に着くと、不義の混血児がいることが分かる。怒る父親に対して、母とその弟をかばうが、父はさらに他にも子がいるのだと責める。父のむち打ちを母の代わりにうける私。
歯がぼろぼろと崩れ落ちてしまう。
女の部屋にいくと、医者にもう見放されたという子どもがいる。そして、自分の作品が載った雑誌がおいてある。
私の頭に瘡ができて、それをはがしているうちに、腹痛が起きて、手を胃袋の中に突っ込んで、自分の肉体を裏返しにしてしまう。
まさに夢の中の世界のように、脈絡もなく次々とシーンが移り変わっていき、まさにシュールレアリスム、という感じの作品。

鬼剥げ

自分は大学まで行かせてもらったが、弟は専門学校までだったので、弟に引け目を感じている「ぼく」。また、弟は「ぼく」とは違って女性関係が進んでいて、「ぼく」の知らぬ間に女中に手を出していたりしていて、そのあたりでもコンプレックスを感じている。
さて、そんな弟から、Sの家から隣家の夫婦の営みが覗けるという話を聞かされて、ぼくと弟と知人の女と3人で見に行くことになる。
隣の家の者はまだ帰ってきておらず、弟もしらけてどこかへ言ってしまい、ぼくは女と逢引するのだが、すると、弟が担架で運ばれてくる。女は弟のところへ駆け寄るが、ぼくはこれを無視してしまう。その後、弟からそのことを詰られる。

島へ

妻と2人で、群島の中のある島へと赴く話。
島の中を歩いているなかで、光の環を目撃するが、バスを待っていた妻に急かされて何だったのか分からずじまいになる。
混み合った宿で、この島で何かの調査をしているという男と同室になる。この男は「私」のことを知っているが、「私」は思い出せない。
入り江に不思議な塔が立っていて、日に3度、鐘が鳴らされる。妻はその塔に住んでいる男のもとに通うようになる。
ある晩、妻が塔からなかなか帰ってこないので、塔へ赴く。明らかに妻がいた気配がするのに、そこの男は妻は来ていないという。しかし、妻が「私」を驚かせようとするイタズラだった。
妻と二人、宿に戻り眠りに落ちていくところで終わる。
冒頭、連絡船で群島の合間を縫って進んでいく描写で引き込まれる。
連絡船が来ればいつだって列島に帰れるのだと何度となく考えている「私」だが、必ずしも島を全部嫌がっているわけでもない感じ
同室の男が連れてきた者たちによる謎の儀式とか、不思議な塔とか、シュールレアリスティックな光景も度々出てくるが、一本のストーリーとしても成り立っている。

著者に代わって読者へ

本書は1988年に発行されているが、島尾敏雄は1986年に亡くなっているため、妻の島尾ミホが読者への言葉を寄せている。
これによれば、島尾自身は自分の作品を「眼をあけて見た周囲を書いたものと、眼をつぶったそれを表現したもの」に分類しているらしいが、ミホはここで前者についてのみ語っている。
島尾ミホにとっても、本書収録の前半3作は自分の戦争時代を描いているもので思い入れが深いようで、また夫婦で、あるいは夫の死後に改めて基地の跡地に訪れた時のことなどを語っている。
ただ、正直いうと、思い入れたっぷりに書かれているため、文章的にはくどい感じがした。亡き夫の持ち上げがすごいというか……
なお、「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「その夏の今は」は、明らかに続き物だが、実はさらに島からの引き揚げ・隊の解散を描いた話を含めて四部作とする構想があり、この最終話にあたる作品を書いている途中で亡くなったらしい。
「出孤島記」の発表が32才の時、「その夏の今は」の発表が50才の時なので、時間をかけて書いていったのだな、ということが感じられる。

解説

巻末解説は吉本隆明
島尾の戦争体験と作品の中に見られる「死」について
それから、「夢の中での日常」や「鬼剥げ」に見られるコンプレックスについて

作家案内

野間宏に推薦され、その後『近代文学』に参加するなどしており、第一次戦後派に近い位置にいたという一方で、庄野潤三との親交から第三の新人とされることもあるがそこに収まるわけでもなく、文学史的な位置づけとしては、独特の存在であると評している。
また、東大京大のエリートコースでもなく、早慶の文科のような文学青年コースでもなく、神戸、長崎など海に関わる場所で育った点や、一時的に東京に住んでいたこともあるが基本的には奄美諸島で暮らし、鹿児島で亡くなった点など、そのあたりにも他の作家とは違う存在なのだよ、という評し方をしている。
両親が福島出身で幼少期はそこで過ごしていたことも多く、島尾というと九州・沖縄のイメージが強いが、この東北体験も重要なのだと強調しているが、具体的にどう重要なのかはいまいちよく分からなかった。
最後に、彼が大学で東洋史を専攻していたことと南島論とを結びつけつつ、死を悼んで終わり。