天冥の標(1〜4)

ついに読み始めてしまった……
これ読み始めたら、しばらく他のもの手につかなくなるなと思って、読まずにいたのだけど
無料だったkindleを読み始めたのが運の尽きw
とりあえず途中経過


こんなにも性と羊をめぐる話だったとは
あと、こんなに各巻ごとに時代も作品の雰囲気も違うとは思わなかった。時系列順じゃないというのはちょっと知ってたけど


1巻は、2800年頃、文明の停滞した宇宙植民地でのポリティカル・アクション
2巻は、2010年頃の地球を舞台にした感染症もの
3巻は、24世紀のアステロイド・ベルトと木星を舞台にしたスペオペ
4巻は、3巻と同じ時代で、アンドロイド娼館で究極のセックスを探求する物語

《天冥の標》合本版

《天冥の標》合本版


とりわけ、2020年の今読むと2巻はくるものがある。
冥王斑という新しい感染者がパンデミックを起こす物語で、この冥王斑、というか、患者群(プラクティクス)という集団がシリーズを通して登場することになるのだが、とにかく、2巻ではこの病気がいかに怖ろしい病気か描かれていくことになる。
致死率の高さ、感染の仕方、その他の病気の特性どれをとっても非常に悪質で、地獄めいた世界が現れるのだが、それはそれとして、作中の日本の対策が明らかに現実のそれより優っている、ということをまざまざと見せられる。
東京アウトブレイク後、非常に迅速に検疫体制が作られる。もっとも、そのような体制もこの病気の前になすすべもない様が描かれていくのだが、とかく、作中の体制がいかに迅速で強力なものかというのが、2020年現在に読むとあまりによく分かってしまう、というのは、このタイミングでこの本を読むことによる独特の読み心地だったのではないかと思う
ちなみに、この体制は、感染研の柊部長という登場人物が異様に有能だったことに起因しているのだろうとは思うが


1巻で登場したキーワードの来歴が、2巻以降で一つ一つ紐解かれていく。
2巻では、冥王斑と救世群(プラクティクス)、医師団(リエゾン・ドクター)がいかに生まれたか。また、1巻でセアキのもとにいたロボットのフェアドールもこの時代に遡る
3巻は、酸素いらずのアウレーリア一統の物語であり、冥王斑の宿主が(2巻の時点で既に地球外生物であることはある程度分かっていたが)木星から来ていたことがわかる。ダダーとミスチフの対立構図も。
4巻は、恋人たち(ラバーズ)とプラクティクスの少年の物語。ラバーズのリーダーたるラゴスがいかにしてリーダーになることになったかという話でもある

フィルカルvol.5 no.2

表紙のカラーリングが好き
読む前は描写の哲学特集が一番の目当てではあったけれど、他のとこが結構面白かった
悪い言語哲学入門とかファース論文とか

対談「哲学対話:言葉による言葉の吟味としての」 (山田圭一、池田喬、佐藤暁)
特集1:描写の哲学
「描写の哲学を描写する」(松永伸司)
「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか インターネットのミーム文化における画像使用を中心に」(銭清弘)
「キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか 画像のふたつの意味と行為の解釈」(難波優輝)
「視覚的修辞 エル・グレコからアボガド6まで」(村山正碩)

特集2:アメリ哲学史をリブートする
序文 (朱喜哲 )
アメリ哲学史の何がリブートされつつあるのか」(加藤隆文)
「古典的プラグマティズム再考 共訳書紹介を兼ねて」(大厩諒)
「子どもの道徳性はどこからくるのか 19世紀米国における超自然主義有機体論を再考する」(岸本智典)
デイヴィドソンからローエル兄弟へ あるいはアメリ哲学史とハーヴァードの切っても切れない関係について」(入江哲朗)

シリーズ:哲学のニーズ 「哲学者への市場ニーズ」を再考する
「「フィルカル・サーベイ」事業の立ち上げに寄せて」(朱喜哲)
「基礎研究への貢献という哲学の使い道」(仲宗根勝仁)
「哲学は役に立たなくても」(濵本鴻志)
「古代型の哲学者」(中川裕志)

シリーズ:ポピュラー哲学の現在
対談「哲学と自己啓発の対話」第四回 (玉田龍太朗/企画:稲岡大志)

哲学への入門
悪い言語哲学入門 第1回 (和泉悠)

特別連載
ウソツキの論理学(連載版)哲学的論理学入門 第2回「ハーモニー」(矢田部俊介)

翻訳
倫理的絶対主義と理想的観察者 (ロデリック・ファース、岡本慎平訳)

解説
「ロデリック・ファースの生涯とその影響 「倫理的絶対主義と理想的観察者」解説」 (岡本慎平)

報告
「環境美学のフィールドワーク ヘルシンキ滞在を通じて」(青田麻未)

コラムとレビュー
「バーナード・レジンスター『生の肯定 ニーチェによるニヒリズムの克服』(法政大学出版局、2020 年)書評」(中山弘太郎)
酒井健太朗『アリストテレスの知識論』(九州大学出版会、2020 年)書評」(杉本英太)
「教養の意義を語ることの意義について 戸田山和久『教養の書』に寄せて」(八重樫徹)
「ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店、2019 年)書評」(飯塚舜)
「美学相談室 第2 回 分析美学は批評に使えるのか?」(難波優輝)

対談「哲学対話:言葉による言葉の吟味としての」 (山田圭一、池田喬、佐藤暁)

「哲学対話」について
ざっくばらんな対談なので、内容をまとめるのは難しいが、読みやすく面白かった

特集1:描写の哲学

以前行われた描写の哲学研究会をもとにした特集

「描写の哲学を描写する」(松永伸司)

描写の哲学の概観
めちゃ勉強になる
シアーって名前は見かけていたけどどういう人か分かってなかったので、重要人物と知れてよかった
自然生成性という概念の提唱や再認能力からの説明を行い、シアーの示した論点の多くはロペスに引き継がれている、と。


また、今回の特集は「画像の使用」に着目しているものが多いのが特色と述べている。
個人的にはそこまで関心があるわけではないのだが、今後重要になっていくトピックかもしれない

「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか インターネットのミーム文化における画像使用を中心に」(銭清弘)

「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか」|投稿論文あとがき|参照ミーム一覧 - obakeweb
紙面では画像の引用ができないため、論文中で扱われた具体例は上記の記事で紹介されている。
画像には、(公式な・意味論的な)primaryな内容と(非公式な・語用論的な)secondaryな内容があるとして、インターネットミームを例に、どのようなS内容があり、それはどのように解釈され、どのような役割があるかを論じている
ホプキンスの分離の議論を不十分と考えたアベルが、グライスを援用して「画像の含み」という議論をしているらしい

「キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか 画像のふたつの意味と行為の解釈」(難波優輝)

銭論文に引き続き、画像の使用について
こちらは、画像提示行為というものを提唱し、その行為を解釈するためにどのようなファクターがあるのかを論じている

「視覚的修辞 エル・グレコからアボガド6まで」(村山正碩)

この特集の中で、個人的な関心ともっとも近いのがこれ
ホプキンスからブラウンによって論じられた分離の議論を踏まえたパンティナキの議論がまずおさえられている
パンティナキは、分離によって生じる逸脱的性質を、無視するか描写内容とみなすかの二者択一ではなく様式的変形によって行われる表出として捉えるという形で鑑賞に組み込む
村山は、この議論をさらに視覚的修辞という形で一般化する
すでに、発表時の資料をブログで読ませてもらっていたりしたが、パンティナキの議論の部分など、論文になってないと分からないところで、他にも用語などやはりプレゼン資料より論文の方が分かりやすいので、論文化ほんと有難い

特集2:アメリ哲学史をリブートする

アメリ哲学史に関する本が最近続けざまに出ており、それのブックガイドを兼ねた特集
以前からこれらの本はちょっと気になっていたが、ますます気になってきた

アメリ哲学史の何がリブートされつつあるのか」(加藤隆文)

分析哲学史のリブートとドイツ観念論のリブートがあり、その両者をつなぐのがプラグマティズムだと
前者としてミサック『プラグマティズムの歩き方』、後者としてククリック『アメリ哲学史』を挙げる
前者では、論理実証主義による分析哲学プラグマティズムに取って代わったという従来の歴史観に変わり、論理実証主義プラグマティズムの密接な関連が論じられ、後者では、プラグマティズムは観念論の一形態であることが論じられているという

「古典的プラグマティズム再考 共訳書紹介を兼ねて」(大厩諒)

筆者が翻訳に関わった『ウィトゲンシュタインウィリアム・ジェイムズ』と『アメリ哲学史』(ククリック)の二冊が(分量的には主に後者)が紹介される。
前者では、従来、ウィトゲンシュタインプラグマティズムやジェイムズについて批判的でそれほど関心を持っていなかったとされていたのに対して、実はジェイムズの影響がとても大きかったことを論じていると
後者は、古典的プラグマティズムを、観念論から実在論への転換期、そしてアメリカの大学制度の転換期にあった思想として論じている、と

デイヴィドソンからローエル兄弟へ あるいはアメリ哲学史とハーヴァードの切っても切れない関係について」(入江哲朗)

タイトルは筆者の関心の変化
つまり、卒論をデイヴィドソンで書き、著作でパーシヴァル・ローエルを論じたのは何故か、ということを、ハーヴァード大学の歴史から捉える
デイヴィドソンは、パーシヴァルの弟であるローレンス・ローエル学長時代に教養重視へと転換されたハーヴァード型教育を受けていた、と

シリーズ:哲学のニーズ 「哲学者への市場ニーズ」を再考する

「「フィルカル・サーベイ」事業の立ち上げに寄せて」(朱喜哲)
「基礎研究への貢献という哲学の使い道」(仲宗根勝仁)
「哲学は役に立たなくても」(濵本鴻志)
「古代型の哲学者」(中川裕志)
『フィルカル』刊行元のミュー社が立ち上げたサーベイ事業について
実際にサーベイヤーとして働いた若手研究者2名の体験談と、学際的な研究プロジェクトのPIをしているAI研究者からの哲学者へ求めるものについての文章

シリーズ:ポピュラー哲学の現在

対談「哲学と自己啓発の対話」第四回 (玉田龍太朗/企画:稲岡大志)
哲学対話について

哲学への入門 悪い言語哲学入門 第1回 (和泉悠)

悪口など、悪い言葉遣いを具体例に用いながらの言語哲学入門
「悪口とは人を傷づける言葉です」というのは「星とは空でピカピカ光っているもののことです」というくらいのものだ(大雑把な特徴としては間違ってはいないが全然定義にはなってない)という喩え話が、なんか刺さった
連載なのでこれからも楽しみ

特別連載 ウソツキの論理学(連載版)哲学的論理学入門 第2回「ハーモニー」(矢田部俊介)

論理や言語についての規範主義と心理主義という2つの立場がまず紹介される。
この2つはどちらも正しいように見えるが相反する立場である。
これに対して、システムというのは複数のレベルから構成されており、どのレベルから見るかで見方が変わることが論じられ、上の2つの立場も、どのレベルから見ているかの違いであり、その意味でどちらも正しい
サブタイトルにある「ハーモニー」はダメットに由来する概念で、システムの上下の関係が理想的でシステムが堅牢であること
ハーモニーについての詳しい説明は次回ということなので、若干タイトル詐欺ではという気もしないでもないが……
システムというのが複数のレベルで構成されていることの例として、インターネットのOSI参照モデルやマーの3つのレベルが紹介されていた

翻訳 倫理的絶対主義と理想的観察者 (ロデリック・ファース、岡本慎平訳)

倫理的言明を、理想的観察者を使って分析する
この分析は、絶対主義的で傾性的、客観的、関係的、経験的であるということと、理想的観察者に求められる6つの特徴について説明している


実は読んでてよく分からなかった部分も多いのだが、下記解説にある通り、理想的観察者という概念は美学でも関係があるので、その点で読んでて面白くもあった
理想的観察者概念、あまりに便利すぎでは、と思いながら読んでたかな

解説 「ロデリック・ファースの生涯とその影響 「倫理的絶対主義と理想的観察者」解説」 (岡本慎平)

この論文は1952年のもの
ファースは、ハーヴァード大学でC.I.ルイスに師事し、1953年からルイスの後継者として自身もハーヴァードの教員となっている。
同じルイスの学生にチザムがおり、2人ともロデリックだったために親しくなり、2人とも認識論を研究した
実はファースは認識論が専門だったのだが、有名なのは、今回訳出されたこの論文とのこと
当時のメタ倫理学へのカウンターであり、スミスやヒュームなどスコットランド道徳哲学を復権させたものとなった

報告 「環境美学のフィールドワーク ヘルシンキ滞在を通じて」(青田麻未)

タイトルにある通りヘルシンキ滞在記だが、自分自身が、居住者とまでは言えないまでも、単なる観光者ではなくなっていった様をレポートしている
その中で、新型コロナウイルス流行の影響で急遽帰国することになっていった経緯も述べられていたりする。

「教養の意義を語ることの意義について 戸田山和久『教養の書』に寄せて」(八重樫徹)

「ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店、2019 年)書評」(飯塚舜)

この2つの書評読んだ
因果性の方、各理論のマッピングがあってそれがよいみたい
スティーヴン・マンフォード、ラニ・リル・アンユム『哲学がわかる 因果性』(塩野直之・谷川卓訳) - logical cypher scape2と補完的とのこと

「美学相談室 第2 回 分析美学は批評に使えるのか?」(難波優輝)

カテゴリ概念が分類に役立つのでは的な話

岩下朋世『キャラがリアルになるとき』

筆者が『ユリイカ』などに書いてきたキャラクター論を集めた論集。2011年〜2016年の間に書かれたもの(と書き下ろし一編)が収録されている。
第1部がマンガ、第2部が仮面ライダーテニミュ、ラッパーなどを題材にしたもの、となっている。


Ⅰ マンガのなかの「人間」たち

序論 キャラクターを享受すること

1 キャラクターと囲む食卓――グルメマンガの実用性とリアリティ

2 〈まなざし〉の行方――『雨無村役場産業課兼観光係』試論

3 「世界」の描き分け、キャラクターの対話――描画スタイルの併用について

4 “ぽっちゃりヒロイン”は伊達じゃない――『BUYUDEN』にみる『少年サンデー』スポーツマンガの系譜

5 動かずに立つキャラクター――「死に様」から読む『島耕作』入門 

6 岩明均の輪郭、線――パラサイトからマンガ的人間へ

Ⅱ 「リアル」に乗り出すキャラクターたち

7 誰が「変身」しているのか?――「特異点」としての『仮面ライダー電王

8 2次元と2・5次元の『テニスの王子様』――キャラクターの成長、キャラクターへの成長

9 「マンガの実写化」と「マンガから生まれた映画」――マンガ原作映画についての覚え書き

10 マンガと2・5次元――『弱虫ペダル』におけるキャラクター生成のメカニズム

11 「リアル」になる――キャラクターとしてのラッパー

12 キャラクターはどこにいる――『ヒプマイ』そして「解釈違い」

ブックガイド 「マンガ論の現在」のこれまでとこれから

あとがき

初出一覧

1 キャラクターと囲む食卓――グルメマンガの実用性とリアリティ

クッキングパパ』と『きのう何食べた?』を、レシピが作中でどのように提示されているかという観点から比較

2 〈まなざし〉の行方――『雨無村役場産業課兼観光係』試論

登場人物たちのまなざし(どちらを向いているか)がどのように描かれているか

3 「世界」の描き分け、キャラクターの対話――描画スタイルの併用について

描画スタイルの違い(ありていにいえば、リアルっぽい絵柄とデフォルメ調の絵柄など)が1つの作品の中で併用されることで、キャラクターが立ち上がることについて

4 “ぽっちゃりヒロイン”は伊達じゃない――『BUYUDEN』にみる『少年サンデー』スポーツマンガの系譜

『がんばれ元気』などサンデースポーツマンガにおける、主人公の憧れ・動機となる存在がどのように変遷していったか

5 動かずに立つキャラクター――「死に様」から読む『島耕作』入門

島耕作』の様々な登場人物の死に様

6 岩明均の輪郭、線――パラサイトからマンガ的人間へ

岩明の『寄生獣』連載を通じての描線の変遷を追う
多義的な線から明快な線へ
パラサイトから「マンガ的人間」へ

7 誰が「変身」しているのか?――「特異点」としての『仮面ライダー電王

キャラとしてのイマジン

8 2次元と2・5次元の『テニスの王子様』――キャラクターの成長、キャラクターへの成長

「キャラ」としての役者
ベンチワークの話は、テニミュの話でよく聞くけど、普通の舞台でもそういうのはあるのではという気がする。
一方、成長の話はこのジャンルないしテニミュ独特なのかなと思う。舞台で、続編が次々と作られていく、というのはあまりなさそうなので。


今の2.5次元業界がどうなってるのか全く知らないので何ともだが、多少、女性声優コンテンツ(?)かじってる身としては、キャストの成長とキャラクターの成長を重ね合わせるのは、たまたまそういうシチュエーションが生じることもあるだろうけど、ジャンルの特徴にはならないかなとも思う。
意図的に起こせるものではないし、キャストのキャリアに負担かける可能性もあるし、とかで、

9 「マンガの実写化」と「マンガから生まれた映画」――マンガ原作映画についての覚え書き

楳図かずお原作鶴田法男監督『おろち』について

10 マンガと2・5次元――『弱虫ペダル』におけるキャラクター生成のメカニズム

マンガと舞台について

11 「リアル」になる――キャラクターとしてのラッパー

自己紹介ソング=キャラソン的なラップ
ラッパーは「原作者」であると同時に「キャラクター」を演じる
ラッパーがリアルであるとは、キャラクターとして虚実の緊張を引き受けること

12 キャラクターはどこにいる――『ヒプマイ』そして「解釈違い」

いわゆる「公式が解釈違い」という現象に対して、DキャラクタとPキャラクタの違い(松永)を用いて説明する
曰く「Pキャラクタに見当外れののDキャラクタを演じさせている」時に解釈違いとなる、と。
また、いわゆる2.5次元と呼ばれるミュージカル・演劇について、演者は直接Dキャラクタに演じようとするのではなく、Pキャラクタを演じることを介してDキャラクタを表現しようとしている、と特徴づけている。
このあたり面白いなと思った

ブックガイド 「マンガ論の現在」のこれまでとこれから

2000年代、1970年代以前、1970年代以降、2010年代とわけて、マンガ論の歴史を概観するブックガイド
読むだけで勉強になる

スタスニスワフ・レム『完全な真空』

架空の本についての書評
対象となるのは、小説が多いが、最後の4編は学術書
原著が1971年、1989年に刊行された邦訳が今年文庫化された。
SF的な作品もあれば、文学パロディなものもある。
今でも面白いなあ、というものもあれば、もうさすがに古いかなというものもある。

完全な真空 (河出文庫)

完全な真空 (河出文庫)

スタニスワフ・レム著『完全な真空』読書人チテルニク出版所、ワルシャワ

この本は、この本の書評から始まる。
自著解説としても読むことができるし、実際このあとに掲載されている各作品を分類し解説しているが、この書評の中で言及されている『完全な真空』の序文なるものは、本書にはない。

マルセル・コスカ著『ロビンソン物語』書肆スィユ、パリ

パトリック・ハナハン著『ギガメシュ』トランスワールド出版社、ロンドン

ジョイスの『ユリシーズ』を意識して書かれた作品への書評なのだが、作中に出てくる単語などに対する事細かな注釈で、そんなのほんとに読み取れるのかみたいな感じになってる

サイモン・メリル著『性爆発』ウォーカー&カンパニー、ニューヨーク

ルフレート・ツェラーマン著『親衛隊少将ルイ十六世』ズアカンプ社、フランクフルト

この書評は、ほぼこの作品のあらすじをまとめたもので、長編のアイデアはあるが書ききれないものを開陳したもの、という印象だが、実際面白そうな作品ではある。
ナチスの親衛隊少将が、戦後に南米に逃れ、自分の王国を作るというもの。彼はもちろんドイツ人だが、タイトルにある通り、何故かルイ16世を自称し、元部下や途中で連れてきた売春婦たちも含めてその世界を演じるようになる。

ソランジュ・マリオ著『とどのつまりは何も無し』真昼書房、パリ

ヨアヒム・フェルセンゲルト著『逆黙示録』真夜中書房、パリ

作者はドイツ人だがオランダ語で書かれており、しかし作者も書評子もオランダ語はろくに知らない、というとんでもない書評

ジャン・カルロ・スパランツァーニ著『白痴』モンダドーリ書房、ミラノ

『あなたにも本が作れます』

これは本ではなく、こういう名前の商品について書かれた文章
名作の文章を継ぎ接ぎして、自分の本を作れるキットで、批評家たちはこれを冒涜として怒ったが、大して売れなかったみたいな話だが
何というか、二次創作・ファンフィクションや同人出版(自費出版)が広く行われている世の中でこれを読むと、面白さが感じられないというか何というか

クノ・ムラチェ著『イサカのオデュッセウス

これ結構SF
この作品の主人公は、天才を探している、それも第一級の天才を。主人公によれば、二級の天才は同時代には認められないが後世になると認められる存在。一級の天才は、あまりにかけ離れていて、後世に渡って永遠に認められない存在
で、それらしき人を見つけるのだが、第一級の天才というのは、他の人類とは全然違う別のところを歩んでいるのだと気づく
オルタナティブ数学みたいなことをやってる。

レイモン・スーラ著『てめえ』ドゥノエル書店、パリ

アリスター・ウェインライト著『ビーイング株式会社』アメリカン・ライブラリー、ニューヨーク

ヴィルヘルム・クロッパー著『誤謬としての文化』ウニヴェルシタス書店、ベルリン

ツェザル・コウスカ著『生の不可能性について』『予知の不可能性について』全二巻、国立新文学研究所、プラハ

冒頭の『完全な真空』書評においては、家庭年代記の馬鹿馬鹿しい面白さに惑わされてはいけません、本題は確率論への攻撃にあるのです、とあるのだけれど、しかし、それでもやっぱり、家庭年代記の部分が面白い

アーサー・ドブ著『我は僕ならずや』パーガモン・プレス

コンピュータの中で作られたパーソノイドたちを何世代も進化させる実験で、彼らが到達した神学論争の記録

『新しい宇宙創造説』

これは書評ではなく、ノーベル賞受賞者の講演録という形式を取っている。
新しい宇宙創造説を唱えた物理学者テスタが、そもそもその説を提唱した忘れられた哲学者アヘロプーロスの『新しい宇宙創造説』について語っている。
現在の宇宙の物理法則などは、自然なものではなく、他の文明によって作られたものであるという考え
太陽が生まれるより前に出来ていた文明は、物理法則をもコントロールできるようになるまで発展したが、そこでこの宇宙の他の領域に同じような文明が他にもあることに気付き、それらの文明間の暗黙的な均衡が、今の宇宙だという説
宇宙に生命や文明が生じる確率は十分にあるのに、それを示すような痕跡がないことへの答え

スタニスワフ・レム著『完全な真空』沼野充義工藤幸雄・長谷見一雄訳、国書刊行会、東京、日本語版

89年の邦訳時に、冒頭に置かれた『完全な真空』自体への書評にならって、翻訳者たちが本書の書評を書き、訳者解説に代えたもの
文庫には、普通の文庫版訳者解説もついている。

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史8』

今年1月から刊行の始まった「世界哲学史」シリーズ。いよいよ完結の第8巻(と思いきや、12月
に別巻が出るらしいが)
8巻は「現代 グローバル時代の知」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史7』 - logical cypher scape2

現代、主に20世紀の哲学を扱う。
前の巻では、10章中8章が欧米であったが、今度は半分以上が非欧米圏となる。8巻のタイトルは「グローバル時代の知」であり、より「世界」感(?)を出しているのかもしれない。
この巻のテーマとして他のフレーズを何かつけるなら「二元論・二項対立を超えて」とでもなるかもしれない。そういう感じの章が多かった印象。


第1章にわりと不満があり、5、6章が難解でちょっとよく分からなかったというのがあり、シリーズ全巻の中ではちょっと微妙なとこがあるかな、というのが正直なところだが、後半は結構面白かった。
面白い、というのは、現代中国とかアフリカとかの全然知らなかった哲学事情を知れたのが面白かったという意味ではあるが。

第1章 分析哲学の興亡 一ノ瀬正樹
第2章 ヨーロッパの自意識と不安 檜垣立哉
第3章 ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理 千葉雅也
第4章 フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治 清水晶子
コラム1 世界宗教者会議 冲永宜司
第5章 哲学と批評 安藤礼二
第6章 現代イスラーム哲学 中田考
コラム2 現代資本主義 大黒弘慈
第7章 中国の現代哲学 王前
コラム3 AIのインパクト 久木田水生
第8章 日本哲学の連続性 上原麻有子
第9章 アジアの中の日本 朝倉友海
第10章 現代のアフリカ哲学 河野哲也
コラム4 ラテン・アメリカにおける哲学
終章 世界哲学史の展望 伊藤邦武

第1章 分析哲学の興亡 一ノ瀬正樹

事実と価値・規範の二分法が、分析哲学の歴史の中でどう変化していったのか、という観点から論じられている。
クワインの「経験主義の2つのドグマ」やオースティンの言語行為論によって、上述のような二分法は弱められていった・解体された(が、それでも残り続けている)というストーリーで、そのことにより、「もともとの分析哲学」は「終息・滅亡」したと論じている。


しかし、分析哲学って今やかなり曖昧な、はっきりとした定義の難しい概念だと思っていて、ある考え方が退潮したことで、終われるものでもない気がする。
例えば哲学の場合、「ヘーゲルで哲学は終わった」とか「ニーチェで哲学は終わった」とか、ある意味では言えるかもしれないけど、素朴な意味では、それ以降も哲学は続いているよね、と。
分析哲学もまあ同様で。論理実証主義的な考え方自体は衰えたかもしれないけど、そのことをもってして分析哲学の滅亡とは言えないのではないかと。
哲学、と一言で言ってもその中には無数の、時には相反する主義主張、方法が入り混じっていて、分析哲学も同様だと思う。
ポスト分析哲学あるいは新分析哲学としての「徳認識論」、という言い方も出てくるのだけど、徳認識論も、分析哲学の中にある様々な論の中の一つであって、別に分析哲学に取って代わるものでは決してないと思う。

twitter.com
なお、この章については、笠木さんが上のツイートに続く形で問題点を指摘する。長くなるので詳しくはリンク先を見てほしいが、ブラックバーンの見解として紹介されている部分が、実際はブラックバーンが批判してる側の見解であるなど、事実誤認もいくつかある模様。


個人的には、分析哲学の章としては、以下のようなものを読んでみたかった。
本書には、久木田水生によるAIについてのコラムがあるが、ならばいっそのこと(?)、今PLANETSで小山虎が連載しているような、初期の計算機科学と分析哲学の関係についてはどうか。
【新連載】小山虎 知られざるコンピューターの思想史──オーストリア哲学と分析哲学から 第1回 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真 | PLANETS/第二次惑星開発委員会
でもって、章の後半で、応用倫理学とAIについて触れるとか。
あるいは、世界哲学史シリーズの目論見として、西洋中心主義の相対化があるなら、実験哲学に触れるのもありだったのではないか。それだけだと哲学史にならないが、初期分析哲学史と絡めて、「概念分析」や「直観」などのメタ哲学的な概念史として構成するとか。
そんな章が可能だったかどうかはともかく……。

第2章 ヨーロッパの自意識と不安 檜垣立哉

ヨーロッパの危機の時代としての20世紀
大衆というテーマでオルテガベンヤミン
技術というテーマでフッサールハイデガー
それぞれ紹介している。

第3章 ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理 千葉雅也

ポスト構造主義の特徴をダブルバインド思考とした上で、デリダドゥルーズフーコーレヴィナスを、ダブルバインド思考という観点から整理する
(途中で、同一性ではなく差異に注目した先駆者として、ニーチェフロイトマルクスへの言及もある)
さらに、その後の展開として、メイヤスー、ラリュエル、マラブーが紹介されている。
最後に、東の動物論、ラリュエルの「普通の人」論が紹介され、それがダス=マンであることを頽落ではなく平時のあり方として肯定する、「世俗性」の肯定と捉える。
また、そのような世俗性の肯定は、体制を追認するだけであり、結集して抵抗すべしという反論に対して、これは、あらゆる結集に抗して個を徹底することで、逆説的に、異質さを認め合う共につながることを信じる思想なのだと締められている。


ところで、ポストモダン相対主義であるという批判に対して、ポストモダンが目指すのは、「落とし所」を探すことであり、「準安定的」な社会状態を再構成することなのだ、と論じられている。
この部分だけ読むと、ほとんどプラグマティクスの主張と見分けがつかないなあという感想を抱いた。プラグマティクスにおける科学や民主主義の捉え方に近い。
穏当な相対主義とでもいうべき立場で、分析哲学でもこういう立場は結構多いのではないかと思う。
で、穏当な相対主義って、近代の科学や民主主義の考え方の延長線上に普通にあるものでもある。
ポストモダンが批判されがちなのは、穏当な相対主義を越えて、過激な相対主義に陥っているように見えるからだと思う。
ここで、仮想敵を、(あえていうなら)絶対主義的なものとして論じていてるけれど、そしてそういう主張もまあ確かにしばしば見受けられるものだとは思うけど、実際のとこどうなのか。
言う通り、ポストモダンが穏当な相対主義だとして、そうだとすると、近代主義とそれほど変わりはなくなってくるのではないかという気もする。


ポストモダンポスト構造主義、いわば思弁として面白いなあとは思うのだけど、具体的にはそれってどうなるのか、というのがあんまり分からない、というのがやはり気になる。

第4章 フェミニズムの思想と「女」をめぐる政治 清水晶子

冒頭で、何故「ジェンダー」という概念は嫌われるのかという問いを置いた上で、フェミニズム史を論じる。
アンチ・ジェンダー言説は、日本では2000年代にいわゆる「バックラッシュ」言説としてあらわらたが、日本国外ではむしろ2010年代に広まりを見せているという。


19世紀の女性参政権運動から、ボーヴォワール、イリガライ、第二波フェミニズム、ブラック・フェミニズム、モハンティ、スピヴァク、ウィティッグ、そしてバトラーまで。
「女性とは誰のことか」を巡っての議論の過程ともいえる。
まず、女性は男性と違う役割がある、ということが生物学的な差異から正当化されてきた言説に対して、ボーヴォワールがセックスとジェンダーを区別することで、「女性とは○○だ」と一方的に規定されることを拒むのが、まずはフェミニズムの始まりだろう。
しかし、では女性とは一体何なのか。イリガライは、この社会では男性の鏡として(つまり男性との比較において)女性というのがカテゴライズされてきたと批判する。
男性との比較ではない形で、女性とは誰かを考えることが求められたが、これは、本質主義へと接近する流れでもあった。
このあたりは、ラディカル・フェミニズムにも通底するらしい。
女性として団結するためには、女性なら誰でももっている本質が必要になるのではないか、という考えは、しかし、第三世界性的少数者からの批判にあう。
女性の中にも差異がある。
こうした流れで、ウィティッグは「レズビアンは女性ではない」、バトラーは「セックスもまたジェンダーである」と述べるにいたる。


「女性とは○○だ」という規定は拒むが、女性というカテゴリーはなくさない。女性の中にある差異を認め、女性というカテゴリーに属する者を拡張しつつ、女性として団結する
ジェンダーというのは、規定することのできないカテゴリーなので、嫌われるのだろう、と。


改めて、コンパクトにフェミニズムの歴史がまとめられていて、勉強になった。ウィティッグ知らなかったので、そのあたり特に。

コラム1 世界宗教者会議 冲永宜司

前巻のインドの章で、名前は出てきたがあまり解説のなかった世界宗教者会議。
巻を跨いでの伏線回収(?)
1893年、シカゴで開催され、ヴィヴェカーナンダや、日本の釈宗演が演説。仏教の因果の話から科学的合理性と宗教的信念が矛盾しないことを解いた釈演説は、アメリカのプロテスタントに共感され、それがもとで、鈴木大拙の渡米に繋がったとか。
ところで、世界宗教者会議、次に開かれたのは1993年らしい。その後は数年に一回のペースで、一番近くでは2018年にも開かれている。

第5章 哲学と批評 安藤礼二

井筒俊彦


批評とは何か、について、ボードレールマラルメランボー詩学から始める。この詩学ベルクソンプルーストにも影響を与えているとした上で、小林秀雄ランボーの翻訳から始め、ベルクソン論を書いたのは偶然ではなく、最後に本居宣長論を書いたのは何故か、と繋げる
で、批評とは聖なるテクストの解釈学であるとした上で、『古事記』を解釈した本居宣長を批評家と位置付ける。
歴史の「始まり」に「憑依」を見る批評の系譜として、本居宣長平田篤胤折口信夫を置き、さらにそれを受け継ぐものとして井筒俊彦がいるという。


とここまでがおよそ章の3分の1ほど使って書かれた序論で、残りは井筒俊彦論なのだが、そちらはよく分からなかったので省略

第6章 現代イスラーム哲学 中田考

まず、「現代イスラーム哲学」なるものは、翻訳を経た日本文化なのであって、実際に現地で行われているイスラームの哲学を理解するのはできないのだ、という注意がなされている。
その上で、
ハディースの徒とワッハーブ派について
復古主義・伝統主義・近代主義について
西洋思想とイスラームの融合の試みについて
などが解説されている。

コラム2 現代資本主義 大黒弘慈

第7章 中国の現代哲学 王前

清末に西洋哲学の輸入が始まり、1930〜40年代の中華民国時代に中国の現代哲学は発展を見せる
が、1949年、人民共和国の成立以降、自由な哲学の発展は停滞、80年代に入り改革開放とともに再び西洋の哲学が入ってくるようになる。


清末
厳復が多くの啓蒙思想を翻訳。特にハクスリーの翻訳により「適者生存」が魯迅胡適に影響を与える


中華民国時代
日本に留学しベルクソン現象学を研究した張東蓀
デューイのもとで学んだ胡適
分析哲学(ラッセルやウィトゲンシュタイン)と道教から独自の認識論やオントロジーを展開した金学霖
儒学の開祖とされる熊十力など


1980年代
ハイデガーに師事した熊偉、シュリックに師事した洪謙など、中華民国時代に台頭した哲学者がまだかろうじて生きており、後進を輩出
カッシーラーサルトルカミュハイデガーニーチェフロイト、フロムなどが人気を集めたらしい。デリダフーコーなども入ってきたが、注目を集めたのは近代についての思想。
マルキシズムとカント研究の李沢厚が、この時期の代表的な哲学者で、面白いことに、主体性を擁護するために美学を推進しており、当時の中国で美学ブームが起きたらしい
また、9章で再度出てくるが、ラッセルの論理学を学び、カントと儒学について研究した牟宗三も(本土ではなく香港・台湾で活動)


1990年代以降
現象学の翻訳が進み、フッサールハイデガーの研究が盛んに
分析哲学も改めて広まる
リクール、ハーバーマスデリダ、ローティが訪中。特にハーバーマスデリダは旋風を巻き起こした
なお、100年前にラッセルもデューイが訪中しているらしい


近年は、政治哲学が盛ん
90年代には、欧米における政治哲学の各潮流はおよそ紹介されており、まずはリベラリズムが力を持ったそうだが、中国の経済発展とともに、カール・シュミットレオ・シュトラウスが注目されているらしい。

コラム3 AIのインパクト 久木田水生

第8章 日本哲学の連続性 上原麻有子

西周井上哲次郎西田幾多郎を日本型観念論の系譜と位置づけ、彼らの思想の連続性を論じる。
西周実証主義であって、観念論者ではないが、彼の「理外の理」という主張の中に観念論の萌芽を見いだす。
「自己否定を含む自己矛盾的に展開する連続性」を日本哲学の特徴として論じている。

第9章 アジアの中の日本 朝倉友海

日中比較哲学といった趣きの章
7章と8章を受けてのこの章という位置付け。章タイトルだけ見ると、中国・日本・日本という感じで、日本二連続? となるが、実際は、中国・日本とそれぞれ個別に見てからの日中比較という順になっている。


儒学と仏教について
キリスト教道徳に代わるものとして、儒学は注目されたけど、のちに封建的なものとされ、現在では生きた思想にはなってない
むしろ、仏教の方が肯定的に評価されているし、西洋哲学と共振するものとされている。
日本では、井上円了井上哲次郎のW井上が仏教哲学を積極的に展開し、のちに西田に受け継がれる。
中国では、熊十力が、新儒学という名前と裏腹に仏教と西洋哲学を結びつけた。
より具体的には、東アジアの代表的な哲学者とされる西田幾多郎と牟宗三が比較される。
仏教を背景としつつ仏教への批判的観点も持ち、また、論理学を重視したという点で両者は似ているという。
また、面白いなと思ったのは、東アジアにおいて、大陸系/分析系という分断はあまり有効ではないという点。
例えば、大森荘蔵が高く評価していたのが廣松渉だった件。
西田をはじめとする京都学派はハイデガーに影響を受けた大陸系、牟は元々ラッセルの研究からスタートしており新儒学には分析哲学との関係がある。が、既に見てきた通り、西田と牟は類似点が多い。筆者は、論理学を重視した西田がもし戦後も生きていたら、分析哲学に「転向」していた可能性もあるのではないかと述べ、また、牟はこの分断に対して冷ややかだったともいう。

第10章 現代のアフリカ哲学 河野哲也

アフリカには哲学があるのか
歴史的にいうと、古代においてはエジプトやチュニジアなど地中海文化圏にアウグスティヌスなどの哲学者がいたし、近世においても哲学者は輩出されており、19世紀以降は汎アフリカ主義の政治思想家が数多くいる。
その点、アフリカにも当然哲学はあるのである。


この章ではタイトルにある通り、現代のアフリカ哲学が概観されている。
まずは、エスノフィロソフィーが取り上げられ、次いで、フランス語圏、英語圏南アフリカのそれぞれの地域別に具体的な哲学者が紹介されている。


エスノフィロソフィーは、ベルギーの宣教師タンペルによって始められた。アフリカ文化における西洋とは異なる思考、哲学的概念を明らかにする試みである。
しかし、エスノフィロソフィーは哲学ではないという批判もある。エスノフィロソフィーは、文化人類学的研究で当事者たちがどう考えているかの記述であって、そうした思考に対する自己批判的な面を持たないからである。また、多様な文化をアフリカとして一般化しすぎる傾向などもあるという。
現代のアフリカ哲学は、このエスノフィロソフィーの他、政治哲学、賢人の哲学、講壇哲学の4つの潮流があるという。講壇哲学は総じてエスノフィロソフィーに批判的。


フランス語圏
1930年代、マルチニークのセゼールやセネガルのサンゴール、モザンビークのクラヴェイリーニャによるネグリチュード運動
しかし、後の世代、例えばファノンなどは、エスノフィロソフィーやネグリチュードを、植民地主義の内面化であると批判した。
ほかに、バシュラールやキュリーのもとで科学を学び、古代エジプトは黒人文明であるとしてアフロ・セントリズムを唱えたジョップなどがいる。


英語圏
英語圏はフランス語圏に比べて遅く、1960年代後半から活発化する。
分析哲学や科学哲学、倫理学現象学など多彩な哲学者がいる
ガーナのエイブラハムは、汎アフリカ主義を訴えガーナ独立運動を指揮。
同じくガーナのウィルドゥは、エスノフィロソフィーの批判者で、ライルとストローソンに学び、アフリカ現地語の概念を分析し、西洋の諸概念を相対化する。
倫理学では、共同体中心主義を批判するジェチェや、ヨルバの伝統哲学を研究するバデゲシン
ケニアのオルカは、人種的神話化や「見た目」の批判的分析を行い、また「賢人性の哲学」を展開
解釈学では、ナイジェリアのオケレ、コンゴ出身でガダマーの弟子のオコロなどがいる。
シリキバハンは、ウィルドゥなどが安易に西洋的な方法論をアフリカ哲学に持ち込んでいるという批判をしている。


南アフリカ
アパルトヘイト以前・アパルトヘイト下では、分離政策を正当化するために哲学が利用された。
アパルトヘイト後、アフリカ主義が標榜され、その動きの一つとしてウブントゥ倫理が展開されている(ウブントゥというとOSの名前という認識しかなかったが、wikipedia見て、ウブントゥの創始者南アフリカの人であることを知った)


twitter.com
個人的にアフリカ哲学の章はよかったと思っているが、twitter見てたらこういう指摘を見つけたので貼っておく
まあ、これは重版かかれば訂正されていく類のものだと思う。
他の巻で、誤変換がそのまま残ってる箇所があったりして、スケジュールとか大変なのかな、と思ったりはしている。

コラム4 ラテン・アメリカにおける哲学

コラムなのでページ数が短く具体的な哲学者名などは出てこないのだが、「あ、なるほど」という感じで面白かった。
東アジア、アフリカときて、ラテン・アメリカという本書後半の構成はなかなか良かった。


ラテン・アメリカは、19世紀に近代国民国家が成立し、西洋の哲学を受容し続けてきた、という点で、日本と状況が似ており、その展開がそっくりだという。
19世紀の実証主義と新カント派、20前半に現象学実存主義、そしてマルクス主義が広まり、20世紀後半に分析哲学が台頭し、大陸哲学から反発を受ける……という展開

終章 世界哲学史の展望 伊藤邦武

D.Lopes "The 'Air' of Pictures"

絵画の表現について
分析美学では、表現というのは、作品が何らかの感情を表現していることを指し、特に音楽における表現が論じられている。
絵画については触れられることが少ない
この論文は、ロペスの絵画(画像)論についての本の第2章である。


「この曲は、悲しげな旋律をしている」「この絵は憂いを帯びている」などと言われることがある。一方、悲しみや憂いなど感情は、人間が持つものであって、人工物が持つものではない(ピアノや絵の具は悲しんだり憂いたりしない)。*1
曲や絵画など芸術作品もやはり人工物の一種なので感情を持つことはない。
だとしたら、曲が悲しげだったり、絵が憂いを帯びていたりするというのは一体どういうことか。
これが、分析美学において扱われている表現の問題である。
本論もこれに応答すべく、色々な説が検討されていき、最後に、輪郭説という立場が擁護される。


なお、この記事は途中で力尽きました。

Sight and Sensibility: Evaluating Pictures

Sight and Sensibility: Evaluating Pictures

Conceptions and Cases

  • Expression theory
  • Modes of pictorial expression

The Missing Person Problem
If Zombies cannot Smile

  • Personalism: creator as expresser
  • Hypothetical personalism
  • Arousalism

If Dogs can Smile

  • Expression and ressemblance
  • Natural expression
  • Mechanism of expression

Pictorial Expression

  • Figure expression
  • Scene and design expression
  • Seeing expressions

Arousal and Evalution


まず、表現を3つに分類する
人物表現figure expression:描かれている人物に帰属する表現
情景表現scene expression:描かれている情景に帰属し、人には帰属しない表現
デザイン表現design expression:人や情景ではなくデザインに帰属する表現
例えば「この絵は、怒りを表現している人物を描くことで怒りを表現している」というなら人物表現、「穏やかな海を描くことで柔和さを表現している」というなら情景表現、抽象表現主義のような絵の場合、デザイン表現となる


例えば、人が顔をしかめるなどして怒りの表現をしている時、その怒りはその人に帰属するし、その怒りの表現は怒りという感情の一部。
では、絵で表現される怒りは?
人物表現の場合、描かれている人物に帰属すると考えればよいかもしれないが、情景表現やデザイン表現の場合、表現された感情は一体誰に属するのか、という問題がある。
これについて、まず大きく2つの路線が考えられる。
一つは、表現された感情は、描かれていない誰かに帰属するというもの。
もう一つは、表現された感情を誰かに帰属させなくても表現は成り立つというもの


描かれていない誰かに帰属させる路線はさらに3つに分かれる
(1)作者
(2)仮説的ペルソナ
(3)観者


ロペスは上3つの説についてそれぞれうまくいかない点を指摘
描かれた感情は、誰かの感情である必要ではないという路線へ

バーナード犬の顔は悲しく見える。この犬は悲しんでるわけではなくて、人が悲しんでいる時の顔に似てるので、悲しく見える。
このように、自然表現natural expressionとの類似に訴えるのがロバストな輪郭説

  • ミニマルな輪郭説

ある絵が悲しみの表現であるのは、それが悲しみのexpression-lookである時かつその時に限る、とする説
expression-lookであるとは、その感情を示す機能を持つということ。


(1)ただの物理的配置が感情を表現するためには何がいるのか
(2)表現のメカニズムは何か
という2つのタスクがある
ミニマルな輪郭説は、2つ目のタスクにうまく答えられないが、ロペスはこの路線でいくらしい。

*1:たまたまどちらもネガティブな感情を例に出したが、ポジティブな感情でも話は同じである

伴名練編『日本SFの臨界点[恋愛編]死んだ恋人からの手紙』

タイトル通り、恋愛SF(一部、恋愛ではなく家族愛ものだが)を集めたアンソロジー
何故か歴史改変ものが2作ある。
恋愛SFというと時間SFと相性がよいという勝手なイメージがあるが、その点直球の時間SFはなく、しかし、歴史改変ものも広義の時間SFと捉えればそれも含めて4作品くらいは時間ネタを用いた作品。
むしろ、共感覚SFが2本ある方が「何故か」感あるかも。


伴名練編『日本SFの臨界点[怪奇編]ちまみれ家族』 - logical cypher scape2より、おそらくかなり読みやすい。もちろん、どちらが好みかは人による。
タイトルにナンバリングがないので、どちらを先に読むべきかというのはないのだろうけど、編集後記に収録されているブックガイドは、恋愛編がPART1で、怪奇編がPART2になっているので、一応恋愛編を先に読む想定なのかなと。


怪奇編と変わらず、各作品ごとに書かれている解説文と編集後記とブックガイドがとても丁寧
あと、ところどころ、伴名練が自作を書くにあたって受けた影響を語っているところもある。

中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」

初出1989年
冒頭の解説に「海外作家の某有名短編が連想されるだろうが」とあり、そういうの俺全然分からないんだよなあと思ったが、読んだら普通に分かった。チャンの「あなたの人生の物語」だ。
宇宙で戦争してて従軍してる兵士から、地球に待つ恋人への手紙、という形を取っているのだが、亜空間通信の技術的限界だかで、手紙が順番に届かない。
よい話でよいSF

藤田雅矢「奇跡の石」

初出1999年
共感覚SF
バブル期の企業すごいな感。企業メセナかなんかで、会社に超能力研究室があって、超能力者がたくさんいるという東欧の小国に行く話
主人公は、その国で幼い姉妹に出会い、舐めるとオルガンの音が聞こえる結晶をもらう。
妹は予知能力、姉は感覚を結晶に封じ込める(?)能力を持つ

和田毅「生まれくる者、死にゆく者」

初出1999年
編者の解説にもあるが、家族愛もの
また、筆者の和田毅は、草上仁の別名義(というか、『SFマガジン』で夢枕獏のページ減になった際、代理原稿として書かれたもので、同号に草上作品が既にあったので別名義となったもの)
子どもはじわじわと生まれてきて、老人はじわじわと死んでいく世界。
じわじわ死んでいくとはどういうことかというと、時々姿が見えなくなる、次第に見えなくなる時間が増えていく、数日に一回とか数ヶ月に一回とかしか姿を現さないようになる。そして、完全に見えなくなったら死んだことになるのだが、明確な線引きはなくて同居家族がもう死んだなと思うと法的にも死んだことになる。
生まれてくるのはその逆。完全に見えるようになるまでは数年かかる。
とある夫婦のもとに、子どもが生まれそうになっているのだが、一方で夫の父が亡くなりかけている。孫に一目会わせたいね、というそれだけ、と言ってしまえばそれだけの話

大樹連司「劇画・セカイ系

初出2011年
扉イラスト・はしもとしん
タイトルは「劇画・オバQ」から
ヒモ同然の暮らしをしている売れないラノベ作家
彼のデビュー作はいわゆるセカイ系だが、実はフィクションではなく実話。かつての彼女は、世界の危機を救うべく旅立っていった。残された主人公は、彼女のことをいつまでも待つと言っていたが、その体験を元に小説を書き、別の女性と同棲するようになっていた。
そこに、戦いを終えた少女がかつての姿のまま戻ってくる。

高野史緒「G線上のアリア」

初出1997年
歴史改変もの
電信電話技術がイスラムから伝来した技術だったら、という世界
舞台となるのは、18世紀のドイツだが、中盤、十字軍遠征からヨーロッパにいかに電話網が敷かれたかという歴史が語られる。その中には、免罪符ならぬ免罪電話サービスなるものも登場する(声が直接聞けたからここまで広がったのだという旨言われている)
主人公は、カストラート(去勢歌手)なのだが、自分の芸術や存在が時とともに消えてしまうことに不安を持っている。また、電話ハッカーでもある。
インターネットやパソコン通信がなかった時代に、電話回線にハッキングして無料通話したりとかそういうことしてた人たちがいたらしいが、おそらくそういう人種
この物語の世界では、交換機の自動化に電算機が使われているが、まだ現在のようなパソコンやインターネットはできてないが、主人公が、ネットにジャックインできるように未来を夢想する、という独特なサイバーパンク作品になっている。
高野作品は、年刊日本SF傑作選あたりに収録された短編は読んでいるのだけれど、主な作風(?)である歴史改変ものは読んでなかったので、ちょっと気になり始めた。

扇智史「アトラクタの奏でる音楽」

初出2013年
編集後記などで、編者はほとんどが人間同士の異性愛ものになってしまい保守的なラインナップになってしまったと語る中、唯一の異性愛ではない作品。
近年、急速に百合SFなるジャンルが注目を集めているが、本作はそれに先立ち書かれていた百合SFということになる。
扇作品は、一作だけ単発で読んだことがあるのだけど、他にどういう作品を出しているか知らなかったのだが、2005年以来、少女同士の絆をテーマとした作品を書き続けているらしい。
本作は京都を舞台に、路上ミュージシャンの少女と工学部の女子大生の出会いを描く。
ARタグの発展した近未来、路上ライブのログを周囲の歩行者のリズムと同期させてアテンションを集める実験を2人で行う話。

小田雅久仁「人生、信号待ち」

初出2014年
初出媒体がen-taxiなの珍しい気がする
横断歩道と横断歩道の間の飛び地みたいなところに閉じ込められてしまった男女
信号が青にならないままに時間の流れが変化して、人生をそこで過ごすことになる

円城塔「ムーンシャイン」

初出2009年
2008年の円城作品は傑作が多く、年刊SF傑作選に何を選ぶか悩んでいた大森望が円城本人に訊ねたところ、書き下ろし作品が返ってきたというわけわからん制作秘話のある話
数学共感覚をもつ少女
数が人間に、なんちゃらという群が立ち並ぶ塔に見える
彼女は共感覚で見える世界の中にいて、傍目に意識を失っているように見える
で、17という数がチューリング・マシンとなり、一つの人格を持って浮上してくる。
主人公と17の対話

新城カズマ「月を買った御婦人」

初出2005年
19世紀末のメキシコを舞台にした歴史改変もの。
とあるご令嬢が、5人の花婿候補に、月が欲しい旨告げた結果、宇宙開発競争(ただしロケットではなく大砲方式)が始まってしまう。
大砲方式なので宇宙進出はできないのだが、ほかの様々な技術が発展し、我々が知るのとは異なる20世紀が展開される。
大砲による戦争と物流。奴隷による演算機。
なお、この世界、どうもアメリカ合衆国がないようなのだが、そのあたりは説明がない。
誰も月にはたどり着かずに50年が経過する。
すっかり年を取ってしまった彼女の元に、詩人が現れる。