『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)


(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

ブライアン・オールディス『地球の長い午後』(伊藤典夫・訳)

はるか未来、地球は植物が支配する世界となっており、人類は文明を失い、森の片隅でひっそりと暮らす存在になっていた。自グループから追放されてしまったグレンは、他の地域の見知らぬ動植物や人々を見て回ることになる。
今まで読んだオールディス作品は、ブライアン・オールディス『寄港地のない船』 - logical cypher scape2『20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻』 - logical cypher scape2に収録されていた「讃美歌百番」。
むろん、有名な作品なので以前から気になっていたが、「讃美歌百番」が面白かったので、いよいよ読むことにした
なお、原題は”Hothouse(温室)”だが、邦訳タイトルは、アメリカ版のタイトルである”the Long Afternoon of Earth”からとったとのこと。


やはり、変な植物がたくさん出てくる、というところが一番面白い。
ツナワタリとアシタカが(あるいはベンガルボダイジュもそうなのだが)、スケール感が大きくて、絵的にも映えるところがあって、読んでても面白かった。
それから、最近読んだ別のSFの元ネタってこれだったのかな、というのも思った。
一方、物語的には、振り返ってみると、わりと行き当たりばったりな話だったなあという感じはある。もっとも、そのことが特別マイナスになっているわけでもないのだが、しかし、一体どういう話だったんだっていうと、グレン少年が色々旅しました、以上という感じもする(感想後述)。

内容

まず、物語はリリヨー率いるグループの子どもがひとり死んでしまうところから始まる。
この物語全体の主人公はグレンという少年だが、序盤では、このグループの年少世代の一人として名前が出てくるだけで、むしろリリヨーが主人公として描かれている。
20名弱の集団なのだが、人がえらくあっさりと死ぬ。
リリヨー含めメンバーの大半は女性で、男は希少な存在となっている。
動物はほとんどが絶滅し、植物の中には動物を模倣した動き回る種もいる。
地球の自転は止まっていて、昼間の領域の大陸は、ベンガルボダイジュという巨大な樹によって覆われていて、リリヨーたちもその樹の上で暮らしている。


で、リリヨーは自分たちの死期が近いと考え、みなでボダイジュの頂へと向かう。
そこには、ツナワタリという植物が上空から蔓をおろしていて、莢が上空と頂とを行き来している。年長世代は、この莢に乗って天へと旅立つ。
で、なんとこのツナワタリは月と繋がっていて、莢は月へと到着する。
リリヨーたちは、文字通りそのまま天に召されると考えていたはずだが、月で目覚めて、鳥人たちと出会う。鳥人は、地上では敵対していたのだけど、リリヨーたちも放射線浴びて鳥人に姿が変容してしまっている。
リリヨーと鳥人たちの話はここでいったん終わりになって、最後の最後でまた再び出てくることになる。


残された年少世代では、トイという少女が新リーダーとなるのだが、まだ求心力がない。
鳥のように飛ぶ植物がいて、これを狩って食べることを提案するのだが、これに失敗。逆に、この植物鳥に乗って海岸まで飛ばされてしまう。
海はボタイジュが支配できなかった世界で、海岸は、海の植物とボタイジュの森の植物とが対立する最前線となっている。
植物たちが激しく争う、まさに弱肉強食、万物と万物の闘争みたいな光景が繰り広げられ、トイたちは必死にボダイジュの森めがけて移動を開始する。
しかし、ここでグレンが、トイの指示に反発。トイはついにグレンを追放する。
グレンは、砂でできた城へと逃げ込む。この城、ハガネシロアリが作ったもので、ハガネシロアリに案内してもらう。ハガネシロアリは森でも人間の味方をしてくれる生き物であった。
ところでこの城には、茶色いぶよぶよしたものを頭に乗せているシロアリがいて、グレンを案内していたのもそういう奴
果たしてその茶色いぶよぶよは、他の生き物に寄生して生きるアミガサダケで、グレンも寄生される。
グレンの脳内では、アミガサの声が聞こえるようになり、アミガサとグレンは共生するようになる。
今後、グレンは半ばアミガサに命令されながら、さすらうことになる。
トイたちはこの後、物語で再度出てくることはないのだが、トイのグループからポトリーという少女が抜け出してきて、グレンと行動をともにすることになる。


アミガサに寄生されたグレンとポトリーは、森の果てで〈牧人〉というグループと出会う。
彼らは〈魚取り〉というグループと交易している。
アミガサは、人類を支配するという野望を抱き、グレンに〈牧人〉〈魚取り〉グループを掌握させようとする。
彼らは〈黒い口〉というのを崇めている。これは火口なのだけど、この中にセイレーンのように歌声で他の生き物を呼び寄せる植物が住み着いている。
結局、グレンは〈牧人〉グループから追い出されてしまい、〈魚取り〉グループへ接近する。その際、〈牧人〉グループのヤトマーという美少女がグレンと同行することになる。
〈魚取り〉は、知能の劣った人々で、会話はできるが何言っているのかが分かりにくい。そして何より、ポンポンの木から伸びる蔦(?)が尻尾のようになってつながっていて、木からのコントロールに従って、漁労をしていたのだった(以後、〈魚取り〉の人たちは、作中で「ポンポン」と呼ばれる。彼らは魚をたらふく食ってお腹がでているので)
グレン=アミガサは、その尻尾を切りおとして、ポンポンたちを支配から解放するが、ポンポンたちからは嫌がられる。そのどさくさの中でポトリーが死ぬ。
グレン=アミガサ、ヤトマー、そしてポンポンたちは、舟に乗って川を下ることになる。
河口から海へ、そして、島へと漂着する。
舟の上で、グレンとヤトマーがセックスしていたのを見て、ポンポンはヤトマーのことをサンドイッチ姉さんと呼ぶようになる。ポンポンは、セックスのことをサンドイッチと呼ぶらしい。しかし、サンドイッチが何か彼らは知らないはずだが。
あと、人類全体の記憶が個人の脳の中に引き継がれているという設定で、アミガサはグレンの脳の無意識下から人類史を掘り出す(この設定、なかなかトンデモない設定だなと思うが、突っ込んだら負けな奴かなと)。
それによれば、人類はそもそもアミガサの祖先種に寄生されたことで、知能を進化させた、と。それを知ってアミガサは大興奮して、アミガサ(と人類)の栄光再び! と野心を燃やすのだが、まあ、グレンはそれにはついていけない。
最初こそ、アミガサがもたらした知識に喜ぶグレンだったが、すぐに、アミガサとの不一致が明らかになり、いやいやアミガサに従うというのが続いていくことになる。


さて、漂着した島は比較的平和で、ヤトマーやポンポンはここに定住しようとするのだが、アミガサは反対する。
ところで、この島には、まだ文明があった頃の人類の遺物があって、ひたすらプロパガンダを繰り返す機械仕掛けの鳥のおもちゃとかが出てくる。
グレンらと比較して、比類なき知識をもつアミガサも、この鳥が言っている内容は理解できておらず、的を外した説明をグレンにしていたりしている。
アミガサの指示に従って、グレンは、島に生息しているアシタカという植物の生態を観測する。
受粉すると、名前の通り、アシのような構造を伸ばして歩き出すという植物で、そのまま海を渡っていく。
このアシタカに乗って島を脱出するぞ、とアミガサ=グレンは息巻く。ヤトマー(とポンポン)は嫌がるが、まあアシカタに乗ることになる。
本書の中で一番驚くべき植物は、月に到達しているツナワタリだとは思うが、次にすごい、というか、映像的に映えるのはこのアシタカだろう。
ひたすら、自動的に歩き続けて海を渡り、さらに大陸に上陸してもそのままずんずんと進み続け、昼夜境界線も越える(この地球は自転が停止しているので、常に昼の領域と常に夜の領域がある)
で、真っ暗な山地を越えて、ようやくアシタカは停止する。
当然めちゃくちゃ寒い世界なんだけど、そんな世界にも生物は存在する。昼間の領域での生存競争から逃れて、こちらにニッチを見出した生物たち。
その中には、トンガリという、中途半端にヒト語を喋るイヌのような生き物たちがいる。
ヤトマーは、グレンとの間にできた子を出産するが、グレンは完全に塞ぎ込んでしまう。
ポンポンたちとトンガリたちは何となく親しくなっている。
そんな中、ソーダル・イーとそのお付きの者たちが現れる。
ソーダル・イーは、知性を持った魚のような生き物で、人間に自身を運ばせている。さらに2人の女性が付き従っていて、1人は時渡りの能力を持つ(未来視のようなことができる)が、その代わりに言葉を失っている。もう1人は、時渡りはできないが言葉は分かり、ソーダル・イーと時渡り能力者との間の通訳的存在。
ヤトマーはソーダル・イーに、グレンとアミガサについて相談する。ソーダル・イーは一計を案じて、見事、アミガサとグレンを切り離すのに成功する。
ソーダル・イーは、世界中を旅して回っており、グレンとヤトマーは彼らとともに昼の領域へと戻ることにする。
ソーダル・イーはかなりの長命で、かつとにかくすごく喋る奴で、この昼夜境界領域で、様々な部族の興廃があったことを語る(時渡り能力者は、かつて興隆していた部族の生き残り)
で、戻ってきて、アミガサの逆襲があったり、月から戻ってきたリリヨーたちと再会したりする。
ポンポンとかトンガリとか、異なる種同士の融合みたいなことが起きているのが、退化なのだ、という話があったり。
リリヨーたちから、この地球がいずれ太陽の新星化に伴い滅びること、それを逃れるため宇宙へ脱出する計画があることなどが聞かされるが、グレンはしかし、それはさらに何世代もあとのことであって自分たちにはさしあたり関係ないとして、リリヨーたちについていくことを拒否する。

感想

色々な諸要素が面白くて、それだけで普通に面白く読めていくんだけど、特に伏線とかにはならないんだな、と。
トイたちが、グレン追放後は一切出てこなくなる、というのも、「え、あれで終わりなんだ」となるし、ポトリーの死なんかもテキトーな感じはする。
文明を失った人類はもはや弱者で、ちょっとしたことであっさり死んでいくし、それについてあんまり深く気にされてもいない、というのは描かれているところで、そういう意味で、ポトリーがあっさり死ぬというのは、作中世界の出来事としては「まあそういうこともあるんだな」と思えるが、物語のつくりとしては、グレンのパートナーとして登場しつつ、その恋のライバル的な存在としてヤトマーが出てきた途端、物語から退場となるので、物語の都合で殺されたな感がありありとする(ポトリーは、グレンとともにアミガサに寄生されてしまっているが、その後の展開上、寄生されていない女の子を旅の道連れとしたかったのだろう)。
ソーダル・イーもなんか都合のよい存在といえばそうで、にっちもさっちもいかなくなったグレン=アミガサ問題を解決する、デウス・エクス・マキナっぽい感じがする。
まあ、ソーダル・イーは見た目が面白いし、キャラも立っているので、それだけで「まあ、いいか」とはなってしまうのだが。なんだったんだ、あいつ。
ハガネシロアリなんかも、わりとあっさり物語からいなくなるよなあ。まあ、物語の舞台が、ボダイジュの森から出てしまうから、ハガネシロアリが出てこなくなるのも仕方ないのだが。

『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』(伴名練編)

『SFマガジン2024年12月号』 - logical cypher scape2で言及されていたので。
このシリーズは、以前、『日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女』(伴名練編) - logical cypher scape2を読んだことがある。
あと、新城カズマを積んでる。積んでるっていうか途中まで読んだところで止まっている。まさか、新城カズマより先に中井紀夫を読み終わるとは思ってなかった。
「見果てぬ風」「死んだ恋人からの手紙」が面白かった。
次いで「殴り合い」「神々の将棋盤」「花のなかであたしを殺して」とかかな

山の上の交響楽

初出:1987年(SFマガジン
演奏するのに数千年もかかる作品を、町をあげて演奏しているという話
すでに何世代かたってる。
楽譜の写しがまだできてないぞとか、新しい楽器(文字通り新種の楽器)の製作がまだだぞ、とかそういう地味なトラブルを乗り越えていく話
設定の壮大さに対して、町の人々の営みというレベルで書かれていて、奇想系なんだな、と

山手線のあやとり娘

初出:1988年(SFアドベンチャー
残業して帰る山手線の車内で、あやとりをしている女の子を見つける主人公
そして、あやとりの相手をさせられる
一言も喋らず、あやとりだけでコミュニケーションをとろうとする少女

暴走バス

初出:1988年(SFアドベンチャー
低速化してしまった高速バスと、その乗客の家族やフィアンセらの話。
読んですぐに「あ、これ伴名練「ひかりより速く、ゆるやかに」の元ネタか」となる。
なお、「ひかりより速く、ゆるやかに」を読み返してみたら、作中人物の持っている本の中に『山手線のあやとり娘』(「暴走バス」が収録されている短編集)があった。
「ひかりより速く、ゆるやかに」と比べると短いし、あっさりしている

殴り合い

初出:1991年(SFアドベンチャー
書籍初収録
主人公が妻に「最近、殴り合いを見てないなあ」と述懐する
若い頃、裸で殴り合いをする男たちを路上でよく見かけたのだという。
その回想内容がなかなかシュールなのだが、実はその男たちは未来から来たという話になっていく。

神々の将棋盤

初出:1994年(SFマガジン
書籍初収録
「いまだ書かれざる「タルカス伝・第二部」より」とあり、長編『タルカス伝』の外伝とのこと。
「一族総出で「神々の将棋盤」と呼ばれる一枚板を支え続けているタシュンカ族のもとに、破壊者タルカスが接近する」ということで、一応ファンタジーっぽい世界の物語となっている。
タシュンカ族の族長が、タルカスが近々自分たちの集落を通過して、自分たちが全員死滅してしまうことを避けるため、将棋盤を動かす方法を探す旅に出る。
タシュンカ族は、巨大な一枚板を文字通りみんなで支えている。順に交代して休憩などはできるのだが、ある一定人数以上が抜けると、残りの人たちがその板に押しつぶされてしまうので、板を下ろすことはできないでいる。動くこともできない。
支えている間は何もできないので、しりとりをして暇を潰したりしている。

絶壁

初出:1995年(SFマガジン
重力方向が他の人と変わってしまった話
マンションの壁で寝ている男を見つける。南から北へと登ってるのだという。
その男が結婚して、そしてまた旅立っていく

満員電車

初出:1988年(SFアドベンチャー
不条理ホラー
満員電車の中で悲鳴と血の匂い。しかし身動きできないし、何が起きているかも分からない。

見果てぬ風

初出:1987年(SFマガジン
北側と南側を巨大な壁に挟まれた世界で、主人公テンズリは、ある時、壁が尽きる場所を見てみたいという思いに駆られて旅に出る。
歩いているうちに雪の降る寒い地域に着き、さらに歩くとまた温暖な地域へ、しかし、自分がいた元の村に戻ってきたわけではなかった。それを何度も繰り返し、壁が渦巻き状をなしており、自分がその外側へ、外側へと向かっていることに気づく。
色々な村を通り過ぎてきたが、10年ほどたち、とある村のとある娘と出会い夫婦となり、その村に定住するようになる。
しかし、また10年ほどたったところで、テンズリは旅への欲求にかられ、再び旅立った。
今度は、女王が治め、農耕を行っている村へとたどり着く。テンズリが見たこともない水田や宗教的儀礼のある村で、女王は、壁の向こうの闇から村を守っているという神話により権威を保っている。
壁の向こうを見てきたテンズリは、女王の統治にとって具合が悪いので、投獄される。再び10年ほどかかってテンズリは脱獄に成功する。
さらに、壁にあいている穴を使って交易をおこなっている集団の一人と再会し、壁が尽きる場所を目指し続ける。

例の席

初出:1986年(SFの本
これも不条理ホラーかなあ。ホラーというのともまたちょっと違うけど、世にも奇妙な系というか。
学生時代にたまり場になってきた喫茶店で、仲間内で誰も座らない席があるという話をしていた。それはただの冗談だったのだけど、確かにいつ見ても誰も座っていない。
ばかりか、誰も座らない席が増えていって……。

花のなかであたしを殺して

初出:1990年(SFマガジン
書籍初収録
人類学者のババトゥンデ・オラトゥンジは、様々な惑星の様々な種族を見てきたが、今はポム・フムの村に暮らしている。すでに100年以上暮らしているが、ババトゥンデ自身は12万年以上も生きている。
17歳のカエ・マノノは、ババトゥンデに想いを寄せるようになっているが、ババトゥンデはそれをどうにかあしらってきた。
人類は、はるか昔に不死になっていた。しかし、次第に子供が生まれないようになっていった。ところが、自殺することを決めたグループからは再び子供が生まれるようになった。
そして人類は、様々な異種族とも混血をすすめていった。
ババトゥンデは、死ぬ存在に戻ることなく不死のまま10万年以上生き続けて、様々な種族を見てきた。
より具体的には、非常に様々な性と死のありかたである。
ポム・フムも独特な性と死のあり方をしている。というのも、女性は死なないと子供ができないのだ。結婚を決めると、男性が女性の方を殺す。結婚式と葬式を同時に行うのだ。
カエ・マノノは、よりはっきりと、ババトゥンデに自分を殺してほしいと頼むようになる。
最後、ババトゥンデは、人が生きるということに悲しみを覚える。

死んだ恋人からの手紙

初出:1989年(SFマガジン
伴名練編『日本SFの臨界点[恋愛編]死んだ恋人からの手紙』 - logical cypher scape2の表題作にもなっていた作品。
TTという兵士が、戦地から恋人のあくび金魚姫(TTがつけたあだ名)へと手紙を出している。その手紙は亜光速通信がもたらす不確定性により、時系列順がシャッフルされている。
戦友のクァラクリが死んだという内容の手紙から始まるのだが、その次は、そのクァラクリと出会った頃の手紙がくる。
ケツァルケツァルという謎の異星種族と戦争をしているのだが。そのケツァルケツァルの言語というのは、人類の言語と違って、無時間的なのだという話とか、戦地での与太話として、この世界には高次元があってそこで生と死は区別されていないのではないかみたいことを話しているんだ、とかそういうことが手紙の中で書かれていて、それがこの作品全体の作りともつながっている。
手紙形式、物語全体のエモさ、それでいてSF的な科学理論っぽい語り、短編としての完成度も高い。
これ、上述の『日本SFの臨界点』に収録されるまで書籍未収録だったとか。

著者あとがき

解説 奇想と抒情の奏者──中井紀夫の軌跡/伴名練

相変わらず、伴名練の解説は分量がすごい。
自分は、伴名練による紹介まで中井紀夫という作家を知らなかったのだけど、いわゆるSF冬の時代に直撃してしまって、SFから離れざるをえなくなってしまった作家だったようだ。
本短編集を読むと、SFっぽいSFというよりは、ちょっとそこからズレた感じの作風だが、元々ごりごりのジャンルSF読者で、高校時代からSFファンダムで活動していた、と
1982年に商業デビューしているが、小説ではなくSF評論
1985年に、小説が『SFマガジン』に掲載され、小説家としてもデビューする。
80年代から90年代にかけて、『SFマガジン』の早川、『SFアドベンチャー』の徳間で、短編、長編を発表していく。さらに、「世にも奇妙な物語」のノベライズを担当、また、中井作品の3篇ドラマ化されている。
しかし、90年代前半、早川も徳間もSFを縮小し、中井の発表した短編について書籍化されない作品が増えていく。1995年11月増刊号が、SFマガジンでの最後の発表となる。
その後、中井は《異形コレクション》、ゲームのノベライズへと活動を移し、電撃文庫で長編ファンタジー、また徳間デュアル文庫からもティーン向けの長編を発表するようになるが、2007年で作品発表が途絶えた、と
執筆を離れるとSF界自体から遠ざかってしまう人が多い中、しかし、2010年に飯田橋でbarを開業し、東京創元社の近くであったために、業界人が集う店となったという。
その後、再評価され、電子化も進んでいるという。
それでも、書籍未収録の作品がまだ相当数残っているとのことで、それも、SF系のものと、ホラー系のものとがそれぞれたまっているらしい。

小草泰・新川拓哉「意識をめぐる新たな生物学的自然主義の可能性」

田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2のあとがきで紹介されていた論文
意識をめぐる新たな生物学的自然主義の可能性
ギンズバーグ&ヤブロンカ、ファインバーグ&マラットについてのサーベイ論文
それぞれの問題点と応用可能性についても触れられている。
『意識と目的の科学哲学』では触れられていない論点なども紹介されており、両方読むことで、互いに補完されるところがある。

1. イントロダクション
2. 新たな生物学的自然主義者の間の共通点と違い
3. ギンズバーグ&ヤブロンカの意識理論の概要
3.1 魂のアリストテレス的な三段階と、生命の自然化
3.2意識への移行の目印としての「無制約連合学習」
3.3 ひとつの「ありさま」としての意識
3.4 「意識の機能」という考え方はカテゴリー・ミステイクである
4. ファインバーグ&マラットの意識理論の概要
4.1 意識の四つの特性
4.2 生物学的特性の三つのレベル
4.3 意識の徴候に関するF&Mの見解
4.4 意識の存在論に関するF&Mの見解
4.5 「自–還元不可能性」と「他–還元不可能性」
4.6 意識の適応上の価値と機能
5. 評価と問題点の抽出
5.1 意識の徴候について
5.1.1 ギンズバーグ&ヤブロンカ
5.1.2 ファインバーグ&マラット
5.1.3 人工生命体への応用可能性
5.2 意識の存在論と機能について
5.2.1 ギンズバーグ&ヤブロンカ
自然主義と目的論
意識の価値や意義をめぐる議論との関連
5.2.2 ファインバーグ&マラット
認識的ギャップを認め、存在論的ギャップを否定するという方針の見込み
意識の機能は生存の観点から理解できるのか

2. 新たな生物学的自然主義者の間の共通点と違い

意識の「徴候」「存在論」「機能」の3点から、ギンズバーグ&ヤブロンカとファインバーグ&マラットを比較する

3. ギンズバーグ&ヤブロンカの意識理論の概要

まず、意識の徴候について、生命と比較しながら論じている。
この点、田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2では触れられてなかったところだと思うので、なるほど、そういう理屈だったのか、と。
生命についての定義は共通見解がないが、十分条件を形成する一連の特徴なら合意がある。
そして、そうした特徴全てを備えたシステムにしかいできないことは、生命であることの目印となる。具体的には「無制約遺伝」
これと類比して、意識についても、その定義は定まらないが、十分条件を形成する一連の特徴なら合意があるだろう、と。
そうした特徴として、以下の8つがあげられている。
(1) バインディング/統一
(2) 大域的なアクセス可能性
(3) 柔軟な価値づけシステム
(4) 選択的注意と除外
(5) 志向性
(6) 通時的な統合
(7) 身体化と行為主体性
(8) 自他の判別
(そういえば、この8つの特徴、クオリアないし現象性への言及がない?)
そして、そうした特徴全てを備えたシステムにしかいできないことは、意識を持つことの目印となる。
それは「無制約連合学習」
混成的な条件刺激、新奇な刺激、二階の条件、柔軟な価値の組み替えなどが可能な連合学習のこと


存在論については、
生命が、独自の目的をともなうひとつの「ありさま」であるのと同様に、
意識も、独自の目的をともなうひとつの「ありさま」である、と。
そして、意識は機能をもたない、と。
ここらへんは、田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2の後半で書かれていたことだろう。

4. ファインバーグ&マラットの意識理論の概要

ファインバーグとマラットは、意識には、参照性、心的統一性、クオリア、心的因果をあげる。
また、意識を3つの階層構造の中に位置づけることで、意識を神経生物学的自然主義の枠組みで捉えることを可能とする。
その上で、意識の徴候として、まず、同型的な神経表象をあげる。
それから「大域的なオペラント条件付け」をあげる。
これは、無制約連合学習よりも条件が緩くなっている(混成刺激による学習までは必要ないとしている)


存在論について、あまりはっきりした言及はなされていないとしつつ、本論文は、彼らの立場をタイプB物理主義に分類する。
ファインバーグ&マラットは、意識には「自–還元不可能性」と「他–還元不可能性」という特徴があるとする。
これは、意識には認識論的ギャップがあることは認めつつ、存在論的ギャップは認めない立場である、と整理されている。
なお、ファインバーグ&マラットは本当は「自-存在論的還元不可能性」と「他-存在論的還元不可能性」という言葉を使うが、本論文は、これは存在論じゃなくて認識論の話してるだろ、ってことで、存在論的を省略したとのこと。


ファインバーグ&マラットについて、自分は以前少し読んだ。

トッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳) - logical cypher scape2


また、ファインバーグ&マラットは意識の「機能」についてもあまり語っていないらしいが、生存に寄与する、という適応上の価値について論じており、これがギンズバーグ&ヤブロンカとの大きな違いだろう、としている。

5. 評価と問題点の抽出

5.1 意識の徴候について

批判がいくつかある。
まず、無制約連合学習と意識の結びつきは明らかでない、というもの(これは経験的証拠が足りないので、今後の研究次第)
次に、意識の特徴の中に、学習は関係しないものもあるのでは、という指摘
個人的にも、意識の話からなんで学習の話がでてくるのか、ピンと来ていなかったので、ちゃんと指摘されているのだな、と思った。
最後に、意識の十分条件をなす諸特徴についてなら合意があるといってるけど、そんな合意もねーよ、という批判

  • 5.1.2 ファインバーグ&マラット

同型的な神経表象と大域的なオペラント学習を意識の徴候としてあげていることについて、有望な仮説の1つとはいえるかもしれないが、十分説得力のある議論にはなっていない、という批判

  • 5.1.3 人工生命体への応用可能性

両者ともに、生物の意識のみを扱い、ロボットやAIへの意識への言及は控えている。
それは、意識の研究をする上で、手堅いアプローチではある、としつつ、例えば、脳オルガノイドが、無制約連合学習や大域的なオペラント学習をするかどうか、という方向で、彼らの意図しないところかもしれないが、応用可能性があるのではないか、と。

5.2 意識の存在論と機能について

5.2.1 ギンズバーグ&ヤブロンカ

彼女らのアリストテレス自然主義は、まさに田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2でも主題的に取り扱われ、田中・鈴木・太田はこの方向性に活路を見出していたわけだが、小草・新川はこの点については中立を保っているように読める。
つまり、興味深いが、現代の科学とこのままでは両立しないだろう、と。
しかし、進化的な総合について、有機体という存在者の復権や目的論的な説明を認める方向での修正を求める議論が存在し、論争中であるということも触れられている。
ここでも、田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2でも、Walshという人への言及がある。

  • 意識の価値や意義をめぐる議論との関連

彼女らの、意識を「ありさま」として捉える議論は、意識ある動物への道徳的配慮・道徳的地位の議論と親和的だろう、と指摘している。

5.2.2 ファインバーグ&マラット
  • 認識的ギャップを認め、存在論的ギャップを否定するという方針の見込み

「自–還元不可能性」と「他–還元不可能性」の議論は、より詳しい説明が必要だ、という指摘

  • 意識の機能は生存の観点から理解できるのか

これは、田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2でもなされていた批判
本論文でも、太田論文が言及されている。
で、太田論文を参照しながら、「目的」を導入することについて、以下のように述べてしめられている

たしかに何かしら魅力や説得力があるようにも思われる。このような考え方が、結局は古風な哲学的幻想にすぎず、進化論的な観点に基づく自然主義的な意識理論の中に居場所をもちえないものなのか、それとも何らかのやり方で進化論的な観点とも両立させることができるものなのか。この問いに取り組むことを通じて、新たな生物学的自然主義をさらに発展させることができるだろう。

というわけで、田中・鈴木・太田ほど積極的に、目的論を導入することによる進化生物学の修正を自説として打ち出しているわけではないが、しかし、その方向性に可能性があるという見方を示しているように思える。

生物学的自然主義全体への大雑把な感想

彼らはみな、意識の起源はカンブリア紀にあり、脊椎動物節足動物、軟体動物には意識がある、と考えているらしい。
そもそも意識が哲学の問題になったり、あるいは科学では扱えないと長らく思われてきたのは、その私秘性によるところが大きいと思うのだけど、そのあたりの話はあまりしないで、かなり広範に動物に意識があることを前提にしているような気がして、そのあたり、飲み込みにくいところはある。
しかし、それはそれとして、意識の多重実現を具体的な形で考えられるのは、確かにそれはそれでSFっぽい面白みがある。


田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2の感想としても書いたが、意識を「ありさま」として捉える議論には、独特の魅力を感じる。
意識の特徴をある程度説明しているように思える。
また、本論文で指摘されている、倫理学との関係も興味深い。
それから、脳オルガノイドへの応用なんかは、指摘されるまで気付いてなかったが、結構重要な観点なのではないか。

春暮康一「滅亡に至る病」

文庫版『オーラリメイカー(完全版)』の書き下ろし
「オーラリメイカー」と「虹色の蛇」も加筆されているようなので、それらを読んだうえでまとめて記事にした方がいいかなとも思うのだけど、とりあえず先にこれだけ読んでしまったので。
春暮康一『オーラリメイカー』 - logical cypher scape2

春暮康一『一億年のテレスコープ』 - logical cypher scape2を読んだ後、この「滅亡に至る病」というタイトルを読んで、もしかして何か関係しているのか? と思って読み始めたのだが、特に何か関係しているというわけでもなさそう。


連合への勧誘に訪れた惑星で、名もなき種族の代表は、自分たちはもうすぐ滅びる、連合への加盟資格は我々にはない、と悲観的に語る。しかし、その理由を語ってはくれない。
その代表をはじめ、衛星に暮らす人々は高度な文明を持っているが、地上に暮らす人々にはそのような様子が見られない。環境は人為的に改良されているが、それを享受している人々には文明がないように見える。
この謎に、主人公は頭を悩まされる。
様々な仮説を立てるが、ピースが足りない。
ついには、こっそりと情報収集を行って謎を解こうとする。


で、結局どういうことだったのか、ということを書いてしまうと重大なネタバレになってしまってあれだが、色んな「変な生き物」を考え出してきた春暮作品らしく、これも、「あーなるほど、そういう形態の生き物だったかー」というところである。
最終的な解決も、わりとポジティブだったかと思う。

追記

これはネタバレになるが、つまりブライアン・オールディス『地球の長い午後』(伊藤典夫・訳) - logical cypher scape2のあれが誠実な存在になるとこうなる、ということだったのかな、と。

田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』

意識について、進化論的なアプローチにより解明するには、目的論を導入する必要があるという本
自然主義だけれども、機能主義ではないこと、あるいは、進化論的なアプローチだけれども、意識を適応の産物と捉えないことが、面白いと思う。
他の意識理論との関係や、意識の哲学的問題がこのアプローチからだとどのように捉えられるのかなどは、本書からは分からないところが多いのだが、有力な考えになりうるのではないかという気がした。


慶應義塾大学三田哲学会叢書 ars incognita」というレーベルから出ている。新書判120ページというコンパクトなサイズで、価格も770円とお安い。しかし、その分、内容の密度はしっかり詰まっている感じ。
このレーベル全然知らなかったのだが、哲学に限らず人文系の内容で色々出しているようである。柏端達也『コミュニケーションの哲学入門』って同じレーベルだったのか。


意識についての科学研究は、心理学や神経科学が担っている印象が強いが、近年、進化生物学からのアプローチが相次いでいる。
例えば、以下などがある。
トッド・E・ファインバーグ&ジョン・M・マラット『意識の進化的起源 カンブリア爆発で心は生まれた』(鈴木大地訳)
ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』(夏目大訳)
シモーナ・ギンズバーグエヴァ・ヤブロンカ『動物意識の誕生 生体システム理論と学習理論から解き明かす心の進化』(鈴木大地訳)
ファインバーグ&マラットならびにギンズバーグ&ヤブロンカの訳者は、本書の著者の一人でもあり、両者は本書でも取り上げられている。とりわけ本書では、ギンズバーグ&ヤブロンカの考えをベースにしながら、それをさらにアレンジしているようである。
自分はトッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳) - logical cypher scape2を読んだことがあるが、ちょっとこれだけだとまだよく分からないなーと思っていたところ。
また、生体の科学 Vol.73 No.1 2022年 02月号 特集 意識 - logical cypher scape2で、鈴木さんが、ファインバーグ&マラットならびにギンズバーグ&ヤブロンカの紹介をしていた。
上記に挙げた本はいずれも気になってはいるのだが、どれも大部の本なので、手に取れていない。


なお、この本、話題としては心の哲学の本のように見え、実際そうなのだが、タイトルには「科学哲学」と冠せられている。
どういうことかといえば、意識についての科学研究を行うために、生物学への修正を迫るという内容になっており、その点で、科学哲学、特に生物学の哲学としての面も強いからである。

はじめに
意識のあらまし/意識の問題は解決困難か/意識の進化研究

第1章 意識
形態失認/盲視/意識的な視覚と無意識的な視覚/鳥類の視覚/「皮質中心主義」への批判/「意識を定義する特性」/生物学的自然主義と神経生物学的自然主義/意識の段階的な創発/相同のスコープ依存性/脊椎動物における視覚意識の進化/進化と多重実現/階層離断/意識は生存に貢献するか/半側無視/意識と報告能力を結びつける見解

第2章 行為者性
意識と行為者性を結びつける/意識と歯ブラシの掴み方/意識の役割/行為者性に高度な認知能力は不要である/理由と理解/行為者性の程度問題と多様性/人間中心主義とアナバチの「愚かさ」について/本能/理性二分法の崩壊

第3章 目的
ラマルクの目的論/アリストテレスの四原因説/ウォレスのラマルク批判/機械論/機械論と目的論の緊張関係/目的論のジレンマ/プラトンの目的論/アリストテレスの目的論/アリストテレスの目的論は従来の批判を免れる/目的指向性/目的論の自然化と目的律/目的論の自律性/表現型可塑性

第4章 意識と目的の進化
「進化の総合説」の拡張/双方向的な修正/目的指向性の進化/「生成評価の塔」/意識はどの段階で進化したか/意識と行為者性の進化/理由と理解の進化/「生成評価の塔」を評価する/意識と生存をどのように結びつけるか/意識は適応的な行為選択の土台である/意識研究の今後

あとがき

第1章 意識

この本、描写の哲学における二視覚システム理論 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめでも紹介されていたのだが、そこで取り上げられている二つの視覚システムの話が早速出てくる。
背側経路と腹側経路があって、腹側経路が損傷していると、形態失認とか盲視とか、視覚意識を欠く症状が出てくる。
一方、鳥類とかは視覚の経路が違う。
哺乳類は、夜行性を経て再度昼行性になったという進化史をたどっているので、視覚システムが二重化しているらしい(夜行性になった時に一度退化した仕組みを、別の経路で復活させた)


ちなみに、本書の話とは直接関係ないが、ナナイによる、画像の二面性と2つの視覚システムの話は以下
ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape2
ちょっと気になったこと

ナナイによると、画像の二面性は人間の脳の視覚にかんする神経回路が二重化されてることで可能になっているのだけど、この視覚の二重システムは脊椎動物だと哺乳類にしか備わっていないらしく、それもかなり偶然の賜物(いったん夜行性になったのち、再度昼行性になったため)のようで、ということは、絵画的表象システム自体、かなり偶然性が高いんだろうか
爬虫類や鳥類から知的生命体が生まれたとしても、彼らは、画像を持たない?
仮に地球外知的生命体がいるとして、画像を持っているのは稀?
文字を持たないなら想像しやすいが、画像を持たないのはちょっと不思議な感じもする
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3lb7tiggf5w26


閑話休題
ファインバーグとマラットの主張
「皮質中心主義批判」
意識には哺乳類のような皮質が必要、というのは皮質中心主義だ、と。
脊椎動物には意識があると考えている
相同な意識が非相同な神経基盤に支えられている、という主張。
進化において多重実現しているのだ、と
しかし、進化における多重実現とは、収斂進化による「相似」であって「相同」ではないのではないか
「階層離断」という現象が紹介される
線虫の陰門発生について、C.エレガンスとP.パシフィクスは、陰門の発生メカニズムが異なる(発生システム浮動)。相同遺伝子が関与している。
相同は、異なる階層レベルでは乖離していることがある、という現象
これ、倉谷滋『進化する形 進化発生学入門』 - logical cypher scape2で読んだ「深層の相同性」を想起したのだが、関係しているのかどうかはよくわからない。


なお、ファインバーグとマラットならびにギンズバーグとヤブロンカは、意識があるのは、脊椎動物節足動物、頭足類の3つの系統だと考えていて、これらでは独立に意識が進化したという。これら3つの系統に関しては、意識は相似


ファインバーグとマラットは、意識は生存に貢献する、と主張する
しかし、一般的には、意識は生存に貢献しないと考えられており、確かに、無意識的な視覚を失うほうが影響が大きそうだ、と。
皮質中心主義者は、報告能力と意識を関係させることが多い。
しかし、そうすると、報告能力を持たないっぽい動物は意識を持たないことになる。
次章では、報告能力が行為者性というところから検討される。

第2章 行為者性

報告能力は、高階の心理過程をつうじて意識と結びつく、と考えられている
が、実際の心理学では、報告能力には必ずしも高階の心理過程は必要ない。感覚刺激との対応を示す行為をする能力である。なので、高階の心理能力を持たないような動物でも「報告」できる。
また、人間による言語報告も、ある種の「行為」である。
しかし、そういう行為者性って、意識か無意識かは関係ないのではないか(盲視者も視覚刺激に対応した反応ができる)
これに対して、本書では、盲視者が視覚刺激に対して何等か返答するのは実験者に促されてのことであって、自ら視覚刺激について何か報告することはない、という点を指摘する
そして、ここでいう「行為者性」は「主体性」のことでもある、としている(英語にするとどちらもエージェンシー)
そして、このエージェンシーは、行為の理由・目的ともかかわっている。
喉を潤す「ために」コップに手を伸ばす、隣の人と感動を共有する「ために」声をかけるなど。
また、さらに、歯ブラシをつかむという事例があげられている。
歯ブラシをつかむとき、視覚意識があると、ブラシ部分ではなく持ち手をつかむだろう、と
このように道具を適切に持てるか、という実験が実際にある
その実験では、被験者に単語記憶課題を与えて道具を掴ませると、掴むことはできるのだけど、適切なつかみ方ができないという結果が出てくる。
背側経路によって、無意識的な視覚処理はされていてものを掴むことはできるのだけど、意識的な視覚からの道具の機能についての認識が阻害されたため、と解釈されている。
意識は、行為の目標の決定や行為の選択にかかわる


意識に高度な認知能力は不要
また、理由があることと、理由を理解していることは別。

第3章 目的

本書は、生物学には目的論が必要だと論じる。
しかし、目的論は、科学の世界では避けられてきた。
アリストテレスの四原因である目的因、質料因、作用因、形相因のうち、近代以降、目的因と形相因は排除された。質料因による還元的説明と作用因による因果的説明が科学的説明とされた。
ここでは目的論的説明の復権が目される。なお、形相因は本質主義と結びついており、やはり排除されてきたものの、近年やはり復権の試みはあるようだが、本書では、注釈で触れられるのにとどまっている。
目的論への批判としては、まずスピノザによる批判(原因と結果が逆になっている)がある
また、目的を意思や欲求に読み替える説明に対しては、擬人主義的という批判がある
自然科学では目的論が排除されて機械論が支配的になったが、生物学では、この両者の緊張関係が続く
ビュフォンは、機械論と目的論の両方の説明様式が必要だとした
カントもそれを踏まえており、両者の緊張関係がある
ウォレスなどは、進化論を機械論的に説明して、目的論のような非科学的なものではないとしたが、ホールデンやマイアは、生物学の中に目的論が避けがたくあることを指摘していた


本書では、目的論をプラトンの目的論とアリストテレスの目的論にわけて、後者は従来の批判を免れるとする。
内在的・自然的なアリストテレスの目的論は、スピノザ的な批判はあたらない。
また、意思や欲求ではなく「目的指向性」だとすることで、擬人主義という批判も免れる。
目的指向性は、サイバネティクスや一般システム論などに登場してきているという
目的論的な行動は、科学の範疇だと論ずる、一般システム論のベルタランフィの言葉が引用されている。


ところで、本書がとるみとは、目的論の自然化、ではないという。
目的論の自然化は、生物学において、目的を「機能」や「適応」と結びつけることで機械論へと還元しようとする動きである。
こういう文脈では、目的論ではなく「目的律」という言葉が使われるらしいが、目的律にはそういう意味合いがあるので、本書では使わない、とされている。
ところで、ファインバーグとマラットは、まさにこういう意味で目的律という言葉を使っているらしい。
目的論は機械論に還元することはできず、そして意識の科学にとって必要不可欠だ、というのが本書の立場である。
なお、表現型可塑性という概念が、かかわってくるらしい。

第4章 意識と目的の進化

本書は、自らの立場を「アリストテレス的な科学的自然主義」と呼び、さらにこの立場を「修正的な科学的自然主義」と位置づける。
これに対して、サールの「生物学的自然主義」やファインバーグとマラットの「神経生物学的自然主義」を「保守的な科学的自然主義」と位置づける。
具体的には、進化の総合説への修正を迫るものである。
ただし、一方的な修正ではなく、アリストテレスの目的論の方にも修正が必要だとしている。


目的志向性の進化を、デネットが提唱した「生成評価の塔」から考える
ダーウィン型生物→スキナー型生物→ポパー型生物→グレゴリー型生物というアレである
ギンズバーグとヤブロンカもこれを参照しており、意識は、スキナー型生物の段階からあるという
それは、彼女らが、意識と無制約連合学習を結び付けているからで、スキナー型生物は無制約連合学習をするからだ。

スキナー型生物が能動的かつ柔軟に振る舞うためには、感覚入力を単なる情報として受け取るだけでは不十分である。その生物自身がもつ理由や目的に照らして特定の行動を選択するためには、一人称的な視点から情報を享受する必要がある。さらにそれはその生物自身にとって特定の行動の結果がどのような価値をもつのかという評価と切り離せない。こうした評価と結びついた一人称的な視点からの情報享受こそが「意識的な経験」と呼ばれるものではないだろうか。(p.77)

(ところで、本書では意識の統一性についてはあまり触れられていないが、行為選択のための一人称的な視点というものをつくると、おのずと統一性も生じるのかな、と思った)
ただし、スキナー型生物は自らの目的や理由を理解しているわけではない。
ポパー型生物やグレゴリー型生物(=ヒト)になって高度な認知能力が伴うことで、自分の行動も目的や理由を理解することができる。
逆に、意識とは何か研究するためには、ポパー型生物やグレゴリー型生物になるまえの、スキナー型生物の段階の生き物を調べる必要がある(例えばヤツメウナギとかが候補になっているらしい)。
なお、鈴木貴之による、説明ギャップを架橋するには、そのギャップが最も狭いところが最適、という指摘もあるとか(この指摘面白い)。


意識は、それ自体では機能を持たないし、適応的価値を持たない、というのが本書の立場であり、その点で、ファインバーグとマラットの立場からは離れる。そして、ギンズバーグとヤブロンカの立場に近い。
本書では、意識を、多細胞体制になぞらえる。
多細胞体制も、それ自体で機能を持つわけではない。むしろ個々の形質(組織や器官)が機能をもつための前提である。
意識もまた、個々の形式(行為)が機能をもつための前提なのだ、と。
脊椎動物節足動物でボディプランが違うように、「マインドプラン」の違いが今後の研究課題になるかもしれない、とも(ゴドフリー=スミスの「タコであるとはどういうことか」という問いは、マインドプランについての問い)。
最後に、意識は行為選択の土台である、というこの考え方が、ハイエクにもみられることが最後に触れられていたりする。


ヤブロンカとギンズバーグは、アリストテレスの四原因とティンバーゲンの四原因とを対応付けている、とか。


意識を、体制になぞらえる、というのは、今まで全然なかった観点で、それでいて結構説得力もあって、すごく面白いなと思った。
意識はそれ自体としては機能を持たないけれど、それでいてなぜ重要なのか、ということがよくわかる

春暮康一『一億年のテレスコープ』

長大なVLBI(超長基線電波干渉計)計画が、異星文明との接触につながり、さらにこの宇宙における知的種族の運命についての物語となっていく。
春暮康一『オーラリメイカー』 - logical cypher scape2春暮康一『法治の獣』 - logical cypher scape2の作者による、初の長編作品
版元の惹句には「レム、イーガンに匹敵する、驚きの宇宙探査SF」とある。
こうした売り文句は、大袈裟であることも多いが、少なくとも「イーガンに匹敵する」というのは大袈裟ではないかもしれない(レムについては自分が大して読んだことないので判断できない)。
読後感に、イーガンの『ディアスポラ』と近いものがあった。
それは、スケールの大きさと、ある種どこまでも前へ進んでいくことの楽観主義みたいなところだと思う。
『法治の獣』においては、地球外生命体との接触における失敗を描いていたが、本作では確かに、このコンタクトは失敗だったのではないか、倫理的によくなかったのではないか、という逡巡が描かれるところはあるものの、基本的にはうまくいく話が描かれている。
うまくいく、といえば、次から次へと異星種族が登場するが、コミュニケーションが致命的にうまくいかないということはなく、わりとあっさりとみんな仲良くなっていくところがある。そのあたりは、SFとしては物足りなさを感じるところもあるかもしれない(特にレムと比較するのであれば)。
実際、そのあたり読んでいるときは、「面白いけれど、前評判などで上がってしまったハードルに対してどうなのか」と思わないではなかったが、とはいえ、よくこれだけ惜しげもなく、色んな種類の異星種族を出してくるな、というところが勝る
そもそも筆者によると最初は長編のつもりではなかったとのことで、いや、正気か、と。

第一部
 遠未来(一) 17
 彼方を望む 8
 遠過去(三) 3
第二部
 遠未来(二) 18
 真冬の遠日点 9
 遠過去(四) 4
第三部
 遠未来(三) 19
 自由の旅人 10
 遠過去(五) 5
第四部
 遠未来(四) 20
 時計を合わせる 11
 遠過去(六) 6
第五部
 遠未来(五) 21
 梯子を接ぐ 12
 遠過去(七) 7
第六部
 遠未来(六) 22
 一億年のテレスコープ 13
 遠過去(二) 2
第七部
 遠未来(七) 23
 導きの星 14
 遠過去(一) 1
第八部
 遠未来(八) 24
 地平の彼方へ 15
第九部
 環が閉じる 16

この目次を見ればわかる通り、各部ごとに「遠未来」「遠過去」というパートが挿入されている
目次の右側にある算用数字は、実際には四角囲みで書かれていて、ページ数ではない。実際の時系列での順序を示す数字になっている。
時系列とは違う順序で並べられているのには意味があるので、まずは目次通り読むとして、一読したあとは、右に書かれた時系列順をたどって読む、という読み方もできるようになっている。
遠未来パートは、大始祖の来歴をたどるため、惑星をへめぐる母子の話
遠過去パートは、〈飛行体〉が、これまたいろいろな惑星をめぐる話
これらのパートが、本編と関わっているのだろうということは読んでいるうちにすぐ分かる。ただ、遠過去パートは、後半になるまで何の話をしているのかはわからない。


主人公の鮎沢望は、父親から自分の名前の由来が「遠くを見る」ことだと教えてもらったこと、また小学校の窓から見えた天文台につれてもらったことをきっかけにして、天文少年になっていく。
高校の天文部で千塚新と、大学の電波観測研究室で八代縁とそれぞれ知り合ったあと、望は彗星を用いて太陽系サイズのVLBIを作る、というアイデアを披露する*1
もっともその時の望は、実現不可能な夢・楽しいお話のレベルとして話していただけだった。
話が転がりはじめるのは、彼らが老年にさしかかった頃、意識のアップロードが実用化され、アップロード知性となってからだ*2
アップロードの話自体は、この物語の前提であって本筋ではないのだが、ある量子ビットが人間の「魂」となっていて、いわば転送可能だけど複製不可能になることの説明が与えられていたり、アップロード後は、蚊のような群体ロボットを通して地球の各地を見ることができたり、といった話だけでも、まあ短編が1つ、2つ書けるよね、という感じになっている。
アップロード後に再会した3人は、本格的に彗星VLBI計画を進めていくのだが、地球外生命がいる候補天体へ、実際に探査へ赴く話が出てくる
この頃には、計画に携わるのは既に3人だけではなく、世界的なプロジェクトへと変わっていた。
探査船〈ディヴィンヌ〉には、3人だけでなく大勢のクルーが乗船した。
特に、ネームドキャラクターとしては、物理学者アフマド、微生物学者レイチェル、人類学者エレーナ、機械工学者ジェイクが出てくる。
この作品、キャラクターも結構出てくる。この4人について、設定などが深堀りされているわけではないのだけど、キャラ自体はそれなりに立っている。
設定が深堀されていないという意味では、主人公の望はともかく、新や縁にしたところで、それほど描かれているわけではないのだが、それで問題なく成り立っている。
ほかに、この後に出てくる異星種族のキャラクターも含めて、アイデアと同様、もっと色々お話を作れそうなところを、惜しげもなく投入されている感じがある。
さて、〈ディヴィンヌ〉が最初に到達した惑星ブランは、自転軸が傾いた惑星で、ずっと移動を続ける渡り鳥のような異星種族が文明を築いている。
彼らは、非常に優れた遺伝子工学を発展させていたが、地球とは技術体系が異なりすぎて、お互いに提供しあえるような技術はなさそうではあった。
ラニアンは、多数派で渡りを続ける正弦族、少数派で定住生活をする水平族、さらに少数派で、正弦族とは逆方向に渡りを行う逆相族の3つに分かれている。もともとは正弦族しかいなかったが、遺伝子改造によって、水平族や逆相族が誕生したのだが、生まれついて決まっているのではなく、ほかの族に変身することができる。
望は、惑星ブランで、それぞれナーニ、ルァクという個体と知り合う。
地球人・ブラニアンの連合となった〈ディヴィンヌ〉は、次に、砂でおおわれた惑星グッドアースへと到着した。
グッドアーサーは、〈砂〉というマイクロマシンによる構造物を生み出していた。
バッタのような姿をした彼らには、孤独相と群生相がある。
群生相は、数百年に一度、姿を現すのだが、サイコパス的な性格をしていて、破壊の限りを尽くす。しかし、技術的には天才で、〈砂〉テクノロジーを生み出したのも群生相である。
彼らの、非常に独特な遺伝の仕組み(後天的性質を遺伝させる仕組みがあるのだが、しかし、それが使われているように見えない。実は、群生相とかかわっている)が物語のキーとなる。
群生相のシストが仲間に加わることになる。
一方、遠過去パートでは、希望の星の狼族(レキュという個体のエピソード)、英知の星の蛸族(〈二つの月〉という個体のエピソード)、栄光の星の蜂族のエピソードが紡がれていく。
望たちは、ブラニアン、グッドアーサーだけでなく、ほかの異星種族ともコンタクトを続けていくが、一方で、滅びた文明にも多数遭遇することになる。
望は次第に、なぜ彼らは滅びてしまったのか、文明には寿命があるのか、といったことを考えるようになる。
また、滅びた文明が残した天体データから、彼らは亡霊星を発見する。
異星文明をつないだ超巨大VLBIは、かくして、過去に向けても観測範囲を拡大し、亡霊星を探すミッションへと望たちは旅立つ
でもって、亡霊星へと辿り着き、そこではブラックホール発電やブラックホールをストレージとして利用するステラエンジニア種族が住んでいたのだった。
船団の人々はここに旅の終わりを見出していく。
しかし、ステラエンジニアのもとにいる〈客人〉からいわれた言葉にモヤモヤする望は、さらに遠くを目指すことにする。
最後の最後で、本作が実は時間SFにもなっていたことが明かされる。ここで、ああなるほどそういうことか、と物語が回収されていく。
時間SFのアイデア単体でいえば、単純なものなのだけど、ここまでこれだけ色々なアイデアを見せられてきて、ブラックホールの話もガシガシ出てきて、ここでこのプロット構成も回収されると、まあすごく読んでいて気持ちいい。こういうのは、イーガンにはあまりないかも?
そうして環は閉じるわけだが、さらなる門出で終わる。
この、じゃあさらにもう少し行ってみますか、みたいな感じで終わるところに『ディアスポラ』みを感じたし、もっといえば、長編SFってこういうのわりとあるかなと思うんだけど、SFのもたらしてくれる感動という感じがする。
タイトルの意味は中盤で明かされるわけだが、しかし、最後の最後でもう一つ意味がかかっていたのかな、となる。

*1:「地球外文明、遠い過去、ダークマターも見たいし、重力特異点も見たい/あとは別の宇宙とかさ」

*2:アップロードされる際に、「ベツレヘムの星」って単語出てきてたんだなー