井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』

ABSTRACTION展の図録で、企画の際に参照した先行研究として挙がっていて、日本語でまとまって読める抽象絵画の歴史についてのほぼ最新の文献っぽかったので、読んでみることにした。
テーマ別に章分けされており、抽象絵画は第1章と第3章
第2章にダダやシュールレアリスム、第4章にネオダダやポップアート、第5章が身体表象、第6章が政治と芸術、第7章はメディアアートになっている。
第1章から第7章までおおむね時系列順に進むが、テーマ別の章立てなので、時系列的には行きつ戻りつすることになる。しかし、その構成がわりと読みやすい。重複して登場する作家・作品もあるが、章によって着目点が違うので、復習しつつ多面的に見ていくことができる。
図版は、登場する作品数に対して少なめだとは思うが、それは致し方ないところもあるかも。名前とかは知ってるけど、というところを、テキストでしっかり解説してもらって、歴史的文脈の理解が進んだ。
なお、著者の1人である田中は、2021年から国立西洋美術館館長。村上は、元は愛知県美術館学芸員でクプカ展を企画した人、とのこと。

  • 感想

自分の主な興味関心は抽象絵画にあったので、最初は、抽象絵画の章だけ読もうかと思っていたのだけど、結局全部読んだ。抽象絵画以外は、相対的に関心度は落ちるが、関心がないわけではなく*1、一応大雑把な流れや有名な作家の名前などは知っていたが、それについて改めて理解し直すことができた。
その上で、美術史研究上での変遷も踏まえられていて、そのあたりはかなり勉強になった。例えば、抽象絵画についての理論というと、グリーンバーグが有名だけれど、その発展史観は批判されている。研究がすすんで、どのように見られるようになったのか、というのがうかがえた。
抽象絵画は画家自身が理論を色々と掲げているけれど、そのあたりについても概要がつかめてよかった。また、今現在は「抽象美術」と呼ばれているけれど、当時は「抽象」という言葉にネガティブなニュアンスがあって、「純粋絵画」とか「具体絵画」とかいった呼び方があったというのが勉強になった。
また、当時の美術館やサロン、ギャラリーの関わりについても、書かれている。このあたり、美術展で作品見てるだけだと分からないところだったりもするけれど、基礎知識のような気がする。
1930年代以降の抽象絵画の流れとか全然知らなかったのでそこも面白かった。
構成主義、というのも理解がぼんやりしていたけど、自分の中でもう少し明確になったかも。
ABSTRACTION展で見たけど、どういう位置づけの人なのか分からなかった人やグループについても整理できた。
ダダの歴史もあんまりちゃんと分かってなかったので、勉強になった(ツァラ創始者というわけではなかったのか、とか)。
シュールレアリスムも知っているつもりだったけど、オートマティスムからデペイズマンへ、という流れが分かってなかった(それぞれの単語は知ってたけど)。
モホイ=ナジとかアルプとか意外とあちこちで名前を見かけて、キーパーソンなのかなという印象を受けた。
ポスト・ペインタリー・アブストラクションからミニマリズム、ポスト・ミニマリズムとかも、単発では知っているところもあったけど、流れで読めてよかった。あと、グリーンバーグの「ポスト・ペインタリー」の意味を読み間違っていたみたいだったので、助かった。
ヨーゼフ・ボイスは、名前は知っているし、特にリヒターに影響があったということで記憶にあるけれど、しかしやはりあんまりよく分かっていなかったので、漸くちょっと分かった感じ。
あと実は全然知らなかったのですごく面白かったのがブラック・マウンテン・カレッジ関係。ジョン・ケージがこんなに美術にとってのキーパーソンだったということを知らなかった。ラウシェンバーグフルクサスナム・ジュン・パイクなどに影響を与えていたのかー、と。それから、このブラック・マウンテン・カレッジではアルバースが教員になっている。アルバースという名前、オップ・アートの人ということでなんとなく聞き覚えがあったが、元バウハウス教員でバウハウスの流れをアメリカに持っていった人だと知らなかった。また、ケージから学び、ハプニングやインスレーションを始めるカプローという人がいるが、この人が他方で美術史のシャピローに学んでいて、シャピローはグリーンバーグを批判した人で、というつながりがあるところも面白かった。

  • 20世紀美術史について、過去に読んだ本

高階秀爾『20世紀美術』 - logical cypher scape2
もうこの本の内容覚えていなかったが、今、このブログ記事で読み返す限りだと、グリーンバーグ的な考えをもとに書かれているように読める。
林洋子編『近現代の芸術史 造形編1 欧米のモダニズムとその後の運動』 - logical cypher scape2
上の感想で「これ知らなかったー」と言っていたトピックのいくつかについて、この本でも取り上げられていたようだ。うーん、読んだの2019年でそんなに前ではないはずだが、かなり忘れている。両方読むと、相補的になってよさそう。

序章 二〇世紀西洋美術史を語るために
第1章 抽象芸術の成立と展開
第2章 イメージと物
第3章 第二次世界大戦後の抽象芸術
第4章 現代生活と美術
第5章 身体表象と二〇世紀美術
第6章 美術と政治
第7章 美術とさまざまなメディア

序章 二〇世紀西洋美術史を語るために 田中正之

そもそも「20世紀西洋美術史」を語る難しさがざっと挙げられている。
「20世紀」→20世紀初頭のことはもう歴史化されてきたけれど、90年代は逆に歴史として捉えるには近すぎる、という難しさ
「西洋」→西洋という枠で区切ることが適切なのかどうか、という難しさ
「美術」→20世紀は、美術という枠組みがどんどん更新されていったので、何が美術なのかという難しさがある(しかし、それは20世紀だけの問題なのか、近代以前だって美術という枠組みはそんなに自明じゃなかったよね、ということも簡単に触れられている)
その上で、この序章では、20世紀美術史がどのように語られてきたか、ということを紹介している。
主にはフランスとドイツでのことだが、アメリカについても触れられている。
まず、美術史の本、それから美術館、サロン、画廊での扱われ方である。

  • 美術史の本

ドイツの『20世紀の芸術』『芸術のイズム』(アルプとリシツキーの共著)、フランスの『19世紀と20世紀の絵画』『美術史』(フォール)が取り上げられている。
ドイツの方ではいずれの本もイズムごとにまとめられているが、フランスの方の2冊はイズムにはほぼ触れられていないという違いがある。また『19世紀と20世紀の絵画』では、その後触れられなくなった第一次大戦後の「秩序への回帰」について触れられている

  • 美術館

フランスのリュクサンブール美術館とアメリカのニューヨーク近代美術館が取り上げられている。先に触れたドイツの『20世紀の美術』は、現在のオーソドックスな20世紀美術史、つまり前衛美術中心の歴史だが、同時代的には必ずしもその見方は一般的ではなく、例えばマティスピカソをフランスの美術館が収集し始めたのは少し遅くて、まずはアメリカやロシアのコレクターによって収集されていた、と
ニューヨーク近代美術館は、世界の「近代美術館」のモデルとなったが、それまでに近代美術館的なものがなかったわけではなく、初代館長のバーは、ケルン、ベルリン、エッセンの美術館を視察している。
1936年、ニューヨークでは「キュビスムと抽象芸術」展が開催され、翌1937年には、《ゲルニカ》が展示されたパリ万博が開かれ、さらにパリの二つの美術館でそれぞれアンデパンダンの展覧会が開かれている。その一方で、同じ1937年にドイツでは退廃芸術展が開催されている。

  • サロン

官展とも訳される。もとは国家主催の年1回開催の展覧会。
1884年、落選者のための「サロン・デ・ザンデパンダン(独立派展)」が設立される。20世紀にはさらに、秋に開催される「サロン・ドートンヌ」が開催されるようになる。
サロン・デ・ザンデパンダンで、ルソーのような素朴派が出てくる
また、フォービスムやキュビスムにとっても、サロンは役割を果たした。
ただし、ピカソやブラックはサロンに展示されたことはない。ドローネー、メッツァンジェ、レジェ、グリスなどで、彼らは「サロン・キュビスト」とも呼ばれた。
ピカソやブラックと、サロン・キュビストは、活動していた場所だけでなく色彩などにも違いがあった。「ABSTRACTION抽象絵画の覚醒と展開」展 - logical cypher scape2でグリスとメッツァンジェについて見ていたが、サロン・キュビストという括りを知らなかったので、得心がいった。
なお、世界で初めて展示された抽象絵画とされるクプカの《アモルファ、二色のフーガ》が1912年のサロン・ドートンヌに展示されている。

  • 画廊

ピカソやブラックは画廊で展示された。この時期、画廊(ギャラリー)が発表の場としての役割を大きくしていった。

  • ドイツ

フランスのサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌにあたる役割をドイツで果たしたのが「分離派」でミュンヘン、ベルリン、ウィーンで設立されている。ドレスデンでは「ブリュッケ」、ミュンヘンではカンディンスキーが「ファランクス」や「青騎士」を組織している。


第二次大戦後の動きとしては、ヴェネツィアビエンナーレドクメンタについても解説されている。


モダニズム」についてのコラムがついている
広義のモダニズムと、狭義のモダニズム=フォーマリズムについて

第1章 抽象芸術の成立と展開 村上博哉

まず、抽象芸術についてどのように論じられてきたかの経緯が紹介されている。
最初は、バーやグリーンバーグによるフォーマリズム的な議論
造形上の理由により近代絵画は抽象に至ったという議論だが、これに対して、1960年代後半以降、カンディンスキーやモンドリン、マレーヴィチ神秘主義思想との関係に注目する研究が生まれ、1976年、ローゼンブラムの『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』*2で抽象表現主義についてもこれに連なるものとされる。抽象絵画は、造形上の形式的な要請によって描かれたのではなく、神秘主義的な内容を描くためのものだったのだという見方である。
実際、カンディンスキー自身が書いた文章などを見ると、彼は、何を描くかにこだわっており、完全な抽象にいたるのを躊躇っていた時期がある。完全な抽象へ踏み切ったのは、それでしか描けない内容があったから。
しかし、近年では、グリーンバーグ的な枠組みともローゼンブラム的な枠組みとも異なる見方がされるようになっている。それは19世紀後半から20世紀初頭にかけての、象徴主義や自然科学や思想との関連から抽象絵画を位置づける見方である。
例えば、光の波動説が出てきたことにより、色と音とを類比させる流れに拍車がかかったなど。

近年の研究では、象徴主義と初期の抽象絵画との関係を重視
象徴主義では、抽象という語を非具象という意味ではなく、線と色彩を指していて、線と色彩を、内面を伝えるための「言語」として利用すべきという考え方をした
こうした考え方は、詩的言語のモデルや、音楽とのアナロジーによっても強化された。
また、抽象表現は、19世紀末からの装飾の分野での展開される
ミュンヘンのユーゲントシュティール運動には、カンディンスキーも参加し、クプカやジャコメッティは装飾芸術を学んだ
装飾芸術に関する研究書も相次ぎ、リーグルによる装飾史の理論が、ヴォリンガー『抽象と感情移入』(1908)へ引き継がれる。ヴォリンガーのいう抽象は古代の装飾を指し、同時代の前衛美術は年頭になかったが、カンディンスキー、マルク、クレーらに影響を与えた
また、19世紀末から20世紀には神秘主義が広まる。
ブラヴァツキーやシュタイナーの神智学に、カンティンスキーやモンドリアンは一時期ハマッていて、モンドリアンは神智学の概念を描いている。
また、マレーヴィチは、ウスペンスキーからの影響を受けている。
生物学者のヘッケルや精神医学者のモーリス・バックなど科学者の立場から神智学に通じる考え方が論じられることもあった。

  • クプカ

チェコ生まれで、画家としてはパリ郊外のピュトーで活動する美術家グループに属した。
彼は、抽象絵画に至る流れの要素が全部盛り。装飾芸術の基礎を学び、ウィーンで象徴主義に接し、また、少年時代に霊媒の経験があり、神秘主義の画家の共同体に参加していたこともある。1896年にパリに移住し、哲学、生物学、生理学、色彩論を学び、ベルクソンの影響も受けている
なお、オルフィスムとして位置づけられることが多いが、オルフィスムの命名者であるアポリネールからの言及はない。フランス美術界では異質の存在とされ、独自の主義も唱えず、理論書の翻訳も遅れたために、過小評価されてきた。
1912年の《アモルファ、二色のフーガ》が、初めて展覧会に出展された抽象絵画とされる。
「円環」と「垂直の面」によって、生命エネルギー、宇宙の意思などを表現しようとした。

芸術によるユートピアへの道を示すことを目指す
理論的には抽象絵画の可能性を見出していたが、対象を完全に失うと単なる装飾になってしまうとして、すぐには純粋な抽象絵画には至らなかった。精神的な内容を表現するために、段階的に抽象へと向かった。1910~1913年の間に描かれた7点の連作「コンポジション」により、「純粋絵画」に達した。

  • オルフィスム

アポリネールは、ドローネー、レジェ、ピカビアをオルフィスムの画家として名前をあげていた。当時のフランスで「抽象」は否定的な意味あいがあり、アポリネールは「純粋絵画」という言葉を使った。
この3人はいずれも1912年頃に抽象絵画を描いているが、1913年には再び具象絵画を描いている。彼らの作品の主題は現実世界に根差していたため。

1908年、36歳の時に、新印象主義フォーヴィスムを初めて知るとともに、神智学にも惹かれて、1909年には入会する。1911年、キュビスムを知り、以降キュビスムに取り組む。
もともと現実世界に主題となる対象があったが、1913年ころから独立しはじめ、1916年には自然のモチーフからではなく、純粋に線と色面から構想されるようになる。
芸術論も書き、個別的な自然に対して普遍的な感情を描くべきで、それが「新しい造形」であり「抽象的=現実的絵画」と呼んだ。「新しい造形」も神智学の概念に由来する。

「ザーウミ(超意味言語)」による実験を行う詩人たちや、まだ10代だったヤーコブソンと親交をもつ。絵画におけるザーウミとしてのスプレマチズム
スプレマチズムは、作品の出発点から現実とのかかわりを持たない「無対象」の絵画
マレーヴィチも出品した、1915年ペトログラードで開催された「市電V―最初の未来派絵画展」や「0,10―最後の未来は絵画展」では、タトリンも出品し注目を集めた。
タトリンは、抽象的な立体作品を作り、部屋の空間自体を作品の一部としたりした。ナウム・ガボに影響を与え、ガボは「マッスの否定」を唱える。
同じく抽象彫刻としては、自身は、抽象と呼ばれることを拒否したが、ルーマニアブランクーシもいる


第一次大戦以降、抽象芸術は、絵画・彫刻だけでなく建築、工芸、デザインなどに広がり、工業化社会の芸術となっていく。その際のキーワードは、コンポジションではなく「構成(コンストラクション)」

モンドリアンに心酔した画家ファン・ドゥースブルフを中心にしたグループ
しかし、ファン・ドゥースブルフは、関心が建築へと移り、また、ダダや構成主義の国際的なネットワークを構築していき、モンドリアンの新造形主義と対立するにいたる

マレーヴィチやタトリンの影響のもと、ロトチェンコを中心として成立
実用的目的のある造形物を作る生産芸術を目指す
ただし、当時の経済事情や工業生産能力の限界から、理想と現実のギャップは大きく、そのデザインは労働者階級にも好まれず、政府も前衛からリアリズムへと転じる。

表現主義的な思潮から合理主義的な造形思考への転換
1923年、イッテンの辞職とモホイ=ナジの招聘(バウハウスの方向転換)
パウル・クレー
自然の観察から「生成」の法則を把握する。自然を再現するのではなく、そこからフォルムの運動を抽出。それがまた何らかの具体的なイメージへ。ゲーテの形態学への共鳴。

  • 1930年代のパリ

1920年代、「秩序の回帰」などもありフランス美術界で抽象画家は孤立していたが、1930年代にはグループを作るようになる
「円と正方形」
ベルギーの詩人スフォールとウルグアイ人画家トーレス=ガルシアを中心に結成したが、スフォールの病気により数か月で活動停止
トーレス=ガルシアは、ABSTRACTION展に展示されていたが、一体何者なのか全然分からなかったので、なるほど、と。
「具体芸術」
ファン・ドゥースブルフが結成。抽象という言葉が、具象から出発して非具象にいたるというプロセスを想起させることから、むしろ「具体芸術」を名乗る(線や面こそ具体的だ、と)。資金難により消滅するが、そのラディカルなマニフェストはその後も参照された。
「抽象=創造」
主義主張を超えて緩やかに連帯することが目指された。1931年から1936年にかけて活動。作家たちの国際的ネットワークを維持し、若手会員の中には、カルダーやフォンタナなどがいた。

  • バイオモルフィズム

1930年代前半、これまでの幾何学的抽象に変わって、有機的な形態が、抽象絵画のもう一つの傾向として認識される。
先鞭はアルプとミロであり、それが、タンギー、ダリ、ジャコメッティなどシュールレアリスムに取り入れられ、一方で「抽象=創造」グループにも広まる。
1935年、イギリスの批評家グリグソンが「バイオモルフィック抽象」と呼ぶ。
相反する潮流とされる抽象絵画シュルレアリスムだが、その両方にかかわりのあるアルプは、やはり抽象絵画を「具体芸術」と呼び、自然の再現をする絵画を批判し、芸術作品自体が具体的なものであるとした。

  • イギリス

1930年代前半、ニコルソン、ヘッブワース、ムーアらにより前衛芸術コミュニティ形成
1935年、グロピウス、モホイ=ナジ、ナウム・ガボがロンドンへ移住し、ロンドンは構成主義の中心地へ
ヘッブワースとムーアはバイオモルフィックな抽象彫刻へ
イギリスの前衛芸術は、抽象とシュールレアリスムの2陣営に分かれていったが、ムーアはその両方にかかわった

1930年代半ばから抽象芸術への公的評価が高まり、コレクションが形成され、展覧会も開かれるようになる。
アメリカの抽象画家には、マクドナルド=ライト、ラッセル、ダヴ、オキーフがいるが、ダヴやオキーフにとっては自然とのつながりが重要だったので、のちに具象へ回帰

第2章 イメージと物 村上博哉

キュビスム、ダダ、シュールレアリスムについて

象徴主義が絵画を「言語」としてとらえたように、ピカソも言語のアナロジーを用い、キュビスムを「新しい言語」と呼んだ。ブラックはキュビスムについて「触覚的な空間」を志向した。
二人は競い合うように作品を制作し、パピエ・コレへといたる。パピエ・コレ以降は総合的キュビスム。そしてさらにアッサンブラージュへ。
作品・イメージと現実の物・対象との間に複雑な関係を作る。

  • ダダ

チューリッヒ・ダダ、ベルリン・ダダ、ニューヨーク・ダダ、シュヴィッタース、エルンストについて
ダダは、1916年、チューリッヒの「キャヴァレー・ヴォルテール」に起源があるが、当時のチューリッヒ第一次大戦中に兵役を逃れて亡命してきた画家が集まっていた。「キャバレー・ヴォルテール」の創設者であるフーゴ・バルがダダという名称の発見者だが、彼は1917年にはグループを離脱し、代わりにツァラが主導権を握る。
チューリッヒ・ダダの一人にアルプがいる。
また、シャートは、感光紙に直接ものを置いて作る写真作品を制作したが、これは同様の手法を使ったモホイ=ナジやマン・レイに先立つ。
終戦によりチューリッヒでの活動は終息するが、1918年にはベルリンに伝播
ベルリン・ダダでは、フォトモンタージュが主要な手法として使われる。フォトモンタージュは(知的な探究だったパピエ=コレと違って)民衆の実践(出兵した家族の写真を切り貼りして飾っていた)に起源がある。ベルリン・ダダのグループは政治性が強かったのも特徴。
フォトモンタージュは、モホイ=ナジやロシア構成主義へ影響を与えた。
1915年、デュシャンのニューヨーク移住により、ニューヨーク・ダダの動きが始まる。ピカビア、クロッティ、マン・レイ
デュシャンレディメイド、大ガラス、ロース・セラヴィ
ハノーファーシュヴィッタースは、独自のダダ的運動を展開。自分の作品をすべて「メルツ」と名付けた。ベルリン・ダダと合流しようとしたが相いれなかった。ツァラやアルプなどチューリッヒ・ダダ系の人と交流があった。自宅を作品化して、芸術と日常生活の垣根を取り払った「メルツバウ」は、第二次大戦の空爆で破壊されるが、亡命先のノルウェーメルツバウの二作、三作を試みている。
エルンストは、1919年からケルンで属していたグループでダダ的な活動を展開する。コラージュ作品を制作。ベルリンのフォトモンタージュが要素間の断絶を強調したのに対して、エルンストは統一的なイメージを提示した。

当初、シュールレアリスムは詩人の運動であり、美術との関係は不明瞭だった。
オートマティスムという手法と絵画との相性の悪さのため。
シュールレリスム絵画などは存在しない、という理論家もいた)
マッソン、エルンスト、ミロは、絵画におけるオートマティスムを探求。マッソンは砂絵、エルンストはフロッタージュを応用したグロッタージュという手法を作る。
1930年代以降。シュールレアリスムの原理がオートマティスムからデペイズマンへと変わり、またそれにあわせて、再現的・イリュージョニスティックな傾向が現れる。
この傾向はタンギーに始まり、マグリット、ダリ
ダリはシュールレアリスムにオブジェへの関心を喚起した。ダリは、ジャコメッティから。
最後に、ジョゼフ・コーネルにも少し触れられている。


コラム記事で、エコール・ド・パリについて
圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 - logical cypher scape2を参照したシャガールの説明が書かれていた。


第3章 第二次世界大戦後の抽象芸術-抽象絵画の理論 田中正之

抽象絵画の登場を歴史的必然として論じた論者として、アルフレッド・バー・ジュニアとクレメント・グリーンバーグについて改めて解説されている
バーの歴史観は、その目的論的発展史が今では批判されているし、また、第一次大戦後の「秩序への回帰」が全く触れられていないという問題もある。
グリーンバーグは、モダニズム自己批判と自己限定、つまり自らの本質へと限定していくことだとした上で、絵画の本質はメディウムであると考え、メディウム純化として抽象絵画を位置付けたが、グリーンバーグ自身がこの理論を修正し、絵画の本質をメディウムではなく視覚性へと求めるようになった。視覚性が本質であるならば、抽象である必然性はもはやないはずだが、グリーンバーグは抽象にこだわった。その先に見出したのが、ポスト・ペインタリー・アブストラクションで、「絵画性」への反動としての「線的明瞭さ」と「開放性」を特徴として挙げた。
こうした理論への批判者として有名なのが、メイヤー・シャピロ。専門は中世美術史だが、バーと親しく現代美術にも造詣が深かった。普遍的な原理に基づいて抽象絵画が生まれたのではなく、他の文化・社会状況から影響されてきたという立場。

抽象表現主義とひとくくりにしていうが、むろん一枚岩だったわけではない。
また、具象と抽象の間のせめぎあいに関心があった(例えば、デ・クーニングは具象的な主題があるし、ポロックものちに具象的イメージが復活する)。
「ニューヨーク・スクール(ニューヨーク派)」と呼ばれることもあったが、これは「エコール・ド・パリ(パリ派)」との対比。ニューヨークだけでなく、サンフランシスコからはディーベンコーンが出てくる。
(ディーベンコーンも「ABSTRACTION抽象絵画の覚醒と展開」展 - logical cypher scape2で見たけど、初めて見る名前だった)
抽象表現主義に最も影響を与えたのはシュルレアリスム
ニューマンやロスコは短期間だけ芸術学校を作っていたり、積極的に議論の場を作っていたが、彼らは純粋に造形的な面だけを問題にしていたのではなく、主題を重要視していた
(ロスコの感情、ニューマンの崇高)。
彫刻についても少し触れられている

  • ヨーロッパ

アンフォルメル、フォンタナ、クラインなど

美術史家のヴェルフリンがルネサンスバロックを、線的・閉鎖的・明瞭と絵画的・開放的・不明瞭と対比させて特徴づけたが、グリーンバーグはそれを踏まえて、抽象表現主義を絵画的としていたが、そのあとに続く動向は「線的明瞭さ」「物理的に開放されたデザイン」とし、また、筆跡や身振りへの反動として「匿名的な手法」をとると特徴づけた。
ここではポスト・ペインたりーが脱絵画的と訳されている。
以前、クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」「ポスト・絵画的抽象」 - logical cypher scape2を読んだのだけど、読み間違えたなあと思ったのは、ポスト・ペインタリー・アブストラクションのことも絵画的と言っているのかと思ったのだけど、絵画的から脱している、ということだったのか。
そうすると、ケネス・ノーランドなんかは絵画的ではなく線的だけど、「線的明瞭さ」という特徴に合致するわけで、本書でも、そのようにしてノーランドが紹介されている
ハード・エッジともいわれるノーランドやケリーは「システミック・ペインティング」とも呼ばれている。幾何学的・機械的・匿名的
(オリツキーへの言及はなかった。リヒターのところで、オリツキーのようなスプレーを用いた云々という形で、名前だけ出てくるが。オリツキーについては「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展 - logical cypher scape2

1959年「16人のアメリカ人展」で注目されたフランク・ステラ「ブラック・ペインティング」は、ポスト・ペインタリー・アブストラクションと様式上の特徴を共有していたが、「物体」としての存在感も強く、その物体性はミニマル・アートの特徴でもあった
ミニマル・アートは、ABCアートやプライマリー・ストラクチャーという名でも呼ばれた。ミニマル・アートという名の名付け親は、ウォルハイムだったとか!
イリュージョンを排して作品が物体として見られることを目指した。
また、鑑賞者の経験が重要な役割を果たし、特にロバート・モリスは鑑賞者の主体性を重要視したが、フリードは「芸術と客体性」の中で、そのことを批判。フリードは、作品内部の関係性こそを重視し、カロやステラの作品にそれを見出した。

  • シュポール/シュルファス

1960年代の終わりから1970年代にかけて活動したフランスのグループ
絵画の物質性を強調し、絵画を日常生活に属するものへ変えようとした。
五月革命と時期を同じくしていて、社会との関係を意識しており、美術館やギャラリーではなく街路や工場で展示を行った
なお、同様の動きはイギリスにもあった(「場」展)。なおこれは、アメリカのカプローによる「環境芸術」にも近いとされる。カプローは4章で。

幾何学的・システマティック・非個性的なミニマリズムへの批判的動き
まず「エキセントリック・アブストラクション」
ルイーズ・ブルジョワエヴァ・ヘス、ブルース・ナウマンら。触覚性を強調した。なお、同様に触覚性を強調した作家として草間彌生の名前も挙げられている。
次に、ロバート・モリスの「アンチ・フォーム」
もともとモリスは、ミニマリズムの代表的彫刻家だが、60年代の終わりに方向転換。明瞭な完成形をもつミニマリズムに対して、素材の変化や制作過程を重視した。
リチャード・セラは、特定の場所と結びつく「サイト・スペシフィック」を特徴とする。ニューヨークのフェデラル・プラザに設置された《傾いた弧》が有名。彫刻の存在により。何でもない広場が意識されるようになる、という作品だが、のちに撤去される。撤去の顛末は第6章に詳しい。

  • リヒター

リヒターの抽象作品は、見た目の上では、ポスト・ペインタリー・アブストラクションに類似しているが、背後の思考はデュシャンレディメイドであり、モダニズム美学とは異なっていて、むしろ抽象絵画に対する価値観への懐疑があるのではないかと論じられている。
また、抽象絵画の筆触を具象的に描く、という作品もあり、抽象絵画の特徴とされる非再現性を混乱させる、とも。

もともとは、円と正方形の設立メンバーであるウルグアイの画家トーレス=ガルシアが有名
パリで活動しキネティック・アートで知られるベネズエラの画家たちもいる。
また、1951年にサンパウロビエンナーレが開始
1952年のリオデジャネイロで「新具体主義」というグループが結成されている。

第4章 現代生活と美術 田中正

  • アラン・カプロー

今でいうインスタレーションのような「環境芸術」「ハプニング」を実施
シャピロに美術史を学び、ジョン・ケージからも学んだ(ケージと美術の関係は7章で詳述される)。
ポロックに、モダニズム的な作品の自律性ではなく、作品と生活空間が混じりあう可能性を見出しており、それが彼の「環境」へと繋がっていく。

  • ネオ・ダダ

ネオ・ダダは、ラウシェンバーグ、ジョーンズ、カプロー、オルデンバーグらについて、ローゼンバーグが名付けた名前。ただし、現在ではラウシェンバーグとジョーンズのみを指す言葉となっているとのこと
ラウシェンバーグは、アッサンブラージュにより自分の日常生活と絵画作品をつなげる(《ベッド》)。
ジョーンズは、表象として平面性を示す(旗の絵)。日常用品を絵画に取り込んだラウシェンバーグに対して、絵画で日常用品のようなものを作るジョーンズ。

  • ポップ・アート

ポップ・アートにおけるアイコンとしての自動車
ウォーホルについて各作品が論じられている。
オルデンバーグは、石膏で作った日用品を実際にマンハッタンの通りに店を構えて販売した。また、ソフト・スカルプチャーで有名
ポップアートは西海岸でも展開される。廃品の利用やアッサンブラージュ。ビート・ジェネレーションの詩人・小説家とも共鳴。西海岸の美術は「ファンク・アート」とも呼ばれた。コナーの《ブラック・ダリア》は日用品をアッサンブラージュした作品で、ラウシェンバーグの《ベッド》と似ているが、後者が自分の日常に由来するのに対して、コナー作品は、女性が惨殺された事件に由来しており、社会への応答であった

  • ヨーロッパ

イギリスやフランスでは、消費社会を肯定的にとらえた運動
ただし、ブリティッシュ・ポップ第二世代は、ホックニーなど必ずしも消費文化礼賛ではない。
廃棄物のアッサンブラージュにより自壊する機械を作るティンゲリー
クリストとジャンヌ=クロード
「包む」作品への多元的な作品参加(作品の鑑賞だけでなく、この作品の制作に至るまでに、資金調達や権利者や住民との交渉・折衝があり、そうした交渉・折衝なども含めて作品への参加とみている)。助成金はもらわず観覧料も徴収しない、美術の商業主義化への抵抗。

  • 社会への介入

シュチュアニスト(状況派)
ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻
資本主義リアリズム

  • その他

イタリアのアルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)
ニューペインティングとグラフィティ・アート

第5章 身体表象と二〇世紀美術 田中正之

まず、美術において身体が主要なテーマでありつつ、また抑圧されていたことが確認される。これは矛盾ではなく、描かれる対象としては身体は重要だったけれど、描く側や鑑賞する側の身体は隠されてきたということ。
身体の抑圧というのは、視覚性優位であること。
主要なテーマとされたのは、主に理想的身体(ケネス・クラークによる「裸体ヌード」と「はだかネイキッド」の違い)であった。
20世紀はこの両方が崩れていく。

  • 前衛性をめぐって

20世紀前半の美術は、多くのイズムが前衛を競い合っていた。
マティスキュビスムを批判していたし、サロン・キュビストと未来派は互いに争っていた。デュシャンの《階段を降りる裸体No.2》は未来派的だという理由で、サロン・デ・ザンデパンダンへの出品を拒否されたらしい。
で、女性の裸体は、前衛性を競い合うアリーナとなっていた、と。
マティスの《青い裸体》に競い合う形で、ピカソが《アヴィニョンの娘たち》を描き、さらにそれを受けてブラックが《大きな裸婦》を描く。
マティスは造形的には、理想的ではない身体を描いている(という点で先進的だ)が、一方、女性を自然と結びつけるなど、ステレオタイプもまだ残存している。
アヴィニョンの娘たち》は、美術史において最初のキュビスム作品として知られるが、しかし近年は、キュビスムには含まれないのではないかという指摘が出てきているという。(最初のキュビスムだ、という)造形的な問題ばかりが注目され、その主題が無視されてきたのではないか。売春宿が主題で性(性病)に対する恐怖が描かれた作品であり、その感情を描くために複数の様式が用いられた、と。
また、この作品はピカソがアフリカの仮面から影響を受けて描かれた、と言われてきた。ピカソが当時アフリカの工芸品に何らかの影響を受けていたことは確からしいが、一方で、《アヴィニョンの娘たち》のモデルになったとされる仮面は実際には見ていなかったことが分かっているらしい。
アフリカの造形から影響を受けた者として、さらにジャコメッティブランクーシ

それぞれの機械と身体について述べられている。
ベルリン・ダダのメンバーだったベルメールは、機械ではなく人形へ

  • 戦後

デ・クーニングの描く女性もまた、《アヴィニョンの娘たち》同様、女性への欲望と恐怖を描いているのではないか。ローゼンバーグが「アクション・ペインティング」という言葉を作り出したとき、(この言葉は一般的にポロックに結び付けられるが)ローゼンバーグの念頭にあったのは、デ・クーニングではないかとも。ここでも《アヴィニョンの娘たち》同様、女性という主題的内容よりも、造形的革新性が評価された。
女性身体が、造形的革新性のために用いられた例として、ほかにイヴ・クラインの「人体測定」シリーズ
ニキ・ド・サンファルの作品は、そうした傾向への批判的応答。アッサンブラージュ

  • 1960年代以降
    • 自らの身体や鑑賞者の身体をメディアとして用いる作品

ピエロ・マンゾーニやブルース・ナウマン、ギルバート&ジョージなど
ナウマンデュシャン《泉》のパロディなど

ヴィト・アコンチ、リンダ・ベングリス、ジュディ・シカゴ、キャロリー・シュニーマン。

自らの身体を傷つけ、社会における暴力や社会規範を批判する
クリス・バーデン、デニス・オッペンハイムなど

特に過激なパフォーマンスで知られるユーゴスラヴィア出身の作家。
観客は、用意された道具とアブラモヴィッチを自由にしていいという《リズム0》などのパフォーマンス作品をして、また鑑賞者が介入して中止せざるをえなくなるような作品が多い。

  • 近年

ボディ・アートのような破壊的な表現ではなく、身体を観察の対象にするような作家・作品が多い傾向にある。

第6章 美術と政治 井口壽乃

タトリンの第三インターナショナル記念塔は、もちろん実現こそしなかったものの、回転体が上へ向かう構成は、イッテン、グロピウス、モホイ=ナジにも用いられた。
ロシア構成主義はロシア国内よりもむしろドイツへ移っていく(ソビエト政府の思惑通りでもあった)。
国際的な構成主義の連帯が生まれ、リシツキーはアルプとともに『芸術のイズム』を著すに至る(序章でも紹介されていた本)。

  • 戦争

戦争を描いた絵と言えば、ピカソゲルニカ》が有名だが、万博に間に合わせるように制作している。また、ほとんど知られていないが、朝鮮戦争での虐殺を描いた作品もあり、ピカソが社会参加への意識が強い画家だったことがうかがえる。
ダリ《茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)》の内乱の予感とは、スペイン内戦のこと。
エルンストは《雨後のヨーロッパ》によって、デカルコマニーを用いながら、戦争で荒廃したヨーロッパを表現した。

  • 退廃芸術展

ナチス・ドイツモダニズム絵画を「退廃芸術」と呼んだのは有名だけど、なんでわざわざ展覧会開いたのがよく知らなかった。「これは○○への侮辱」みたいなキャプションが各作品につけられていたようだ。古典主義的なナチス好みの作品の展覧会を同時開催していたが、退廃芸術展の方が人気があったとか。
会期終了後はオークションにかけられ、売れ残りは処分された。

名前は1925年の展覧会に由来。
後、退廃芸術展にかけられた。

メキシコ壁画運動は、メキシコ革命に呼応して、民衆にメキシコの歴史と革命の意義を伝えるための壁画制作で、ディエゴ・リベラダビッド・アルファロ・シケイロスホセ・クレメンテ・オロスコが主な作家。
リベラは、パリで印象派キュビスムなどに触れたモダニスムの画家だったが、シケイロスに触発され、祖国に帰り革命のために働くことを選んだ。
フレスコ画で、様式としてはあまりモダニスムではないが、コラージュが如くたくさんの人物が所狭しと敷き詰められた構図で、ケツァルコアトルやメキシコ史の英雄などが描かれている。
ただ、リベラ、シケイロス、オロコスは政治的な理由でメキシコにはいられなくなり、むしろアメリカで活動するようになっていく。
アメリカの壁画政策は、雇用政策
ロスコ、ポロック、デ・クーニングが参加していた。
やはり様式としてはモダニスムではない(社会主義リアリズム的)のだが、美術史的には、アメリカの画家がアメリカのアイデンティティのルーツを探し、大衆と芸術の間に橋を架けた、という意義があるようだ。

革命直後のソ連では、アヴァンギャルドから構成主義が推進されたが、スターリン政権下において、リアリズムだけが唯一の様式と定められる。
ソ連に限らずナチス・ドイツファシズム下のイタリア、東欧諸国、ユーゴスラヴィアにみられる
周辺の東欧諸国もこれにならう。チェコスロバキアでは、モダニズム系の画家が美術行政の中枢にかかわったが、年齢がいっていたためにソ連にならったらしい。

ボイスは、アクティヴィスト、大学教授、政治家、運動家、思想家でもあった
議会政治家ではなかったが、美術展をアクションの場として政治活動を行い、逆に、アクション、演説や討論を作品とした。
ドクメンタで植樹プロジェクトを行っていた

  • パブリック・アート

アメリカにおけるアーティストへの支援政策の中で、1967年、公共空間アートプログラムができて、パブリック・アートが制作されるようになった(成功例として、シアトルの公園に設置されたイサム・ノグチ《黒い太陽》)
1970年代には、アメリカの各市で「アートのための%」条例がつくられていく(成功例として、シカゴでのカルダー《フラミンゴ》)
物議をかもしたのが、ニューヨークでのセラ《傾いた弧》で、高さ3m強、長さ36mの鋼の板で、邪魔になる、危険である等で市民からの抗議がでて公聴会の末に撤去が決まったが、それに対してセラが裁判を起こした。所有権をもつ行政と著作権をもつ画家という論点だったが、所有権を持つ行政側が取り扱いを決められるという判決となった。

  • 歴史と記憶

リヒター、キーファー、ボルタンスキーが論じられている。

第7章 美術とさまざまなメディア 井口壽乃

  • サイエンス・アート

ジョルジョ・ケペシュが示した考え

運動を作品に取り入れたロシア構成主義
ナウム・ガボは、未来派を運動そのものを再創造できないとして批判。1本の金属の棒をモーターで回転させる《キネティックな構成》を制作(1920)
デュシャンは、同年、やはりモーターを使った《回転ガラス板》を制作

  • モホイ=ナジ・ラースロー

ハンガリー出身バウハウスの教師
ドゥースブルフやリシツキーと共鳴し、国際的な構成主義運動をひきいる。
光と運動による造形の理論を構築し、フォトグラムやキネティック彫刻を制作

モホイ=ナジと同じくハンガリー出身のニコ・シェフェールサイバネティックス芸術理論を提唱した。

1965年、ニューヨーク近代美術館の「応答する目」展
ヨゼフ・アルバース
バウハウスの教師で渡米後ブラック・マウンテン・カレッジでも教鞭をとる。
ほかに、ハンガリー出身のヴィクトル・ヴァザルリ、イギリスのブリジット・ライリー、ベネズエラ出身のヘスス・ラファイエル・ソト

  • 戦後イタリア

ルーチョ・フォンタナ
アルゼンチン生まれのイタリア移民で1947年にミラノに移住
空間主義運動。カンヴァスに穴をあける作品を作り、《期待》へいたる。時間の痕跡を空間に見せる
同時期、ミラノで時間を原理とした「グルッポT」というグループが結成される。
磁石と鉄、スポンジ、ゴムチューブなど、非定型の素材が観客とのかかわりで動く作品を作った。
さらにタイプライターからコンピュータ開発を行っていたオリベッティ社の主催でプログラム・アート展が開かれる。

アルバースは、アメリカ亡命後、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジにおいて、バウハウスでの実験的舞台芸術をさらに発展させる。
講師として、画家デ・クーニング、建築家ミンスターフラー、写真家キャラハン、作曲家ケージ、舞踏家カニングハムなどが招かれた。
1952年、世界で最初の「ハプニング」と目され、ケージの理論を実現させた、ケージのイヴェントが行われ、ラウシェンバーグの《ホワイト・ペインティング》がつるされた。「4分33秒」はこの作品に触発されたともいわれている。
ケージは、ラウシェンバーグ、ジョーンズ、カプローに対して、アメリカの風景や禅に注目させた。
ケージは、ナム・ジュンパイクにも影響を与えている。
フルクサスは、リトアニア生まれのマチューナスが主唱したが、参加者であるヤングやブレクトはケージからの影響を受けていた。
フルクサスの名前の通り、メンバーは流動的で、その中には日本人もいた。
フルクサスの活動は、パフォーマンスやイヴェントで、作品と違ってモノが残らないので、東欧でも展開された。

1960年代初めに言われ始めたが、60年代末には早くも行き詰まりを見せる。
ミニマリズムからの派生。作品としては多様
《一つと三つの椅子》など言葉を用いるジョセフ・コスース
時間の経過を表現することに取り組んだオパウカ、河原温、ディベッツなど
アート理論そのものが作品となりうる。
アルテ・ポーヴェラやランド・アートの出現で、コンセプチュアル・アートは行き詰まる。言葉よりも自然の方が感覚に訴えかけるから。

  • ランド・アート

アース・ワーク、アース・アートとも呼ばれるが、現在は「ランド・アート」が一般的な呼び名。
ウォルター・デ・マリアやロバート・スミッソンなど
ミニマリズムのロバート・モリスもランド・アートを手がけている。
ここでは、クリストとジャンヌ=クロードも一緒に紹介されている。
ランド・アートは、所有できないし美術館で展示もできないわけだが、さらに、クリストとジャンヌ=クロードの「梱包」は、権利者と交渉や周辺住民や諸機関との折衝、資金調達など、公共性・社会性・政治性をもった作品だった。
ランド・アートはのちにパブリック・アートへと変容していく。

  • ビデオ・アート

ナム・ジュン・パイク
ビデオアートのパイオニア。ビデオアートの中のサブジャンルすべての作品を制作
ケージのプリペアド・ピアノから着想を得た作品があったり、フルクサスに参加した経験もある。東京大学出身。
ほかにブルース・ナウマンビル・ヴィオラなど
ビデオ・アートはインタラクティブ・アートへと展開していく。パイクにもインタラクティブ・アート作品がある。

*1:なんで相対的に関心が落ちるのかなーと考えてみたが、20世紀の美術はインスターレションだったりパフォーマンスだったりランドアートだったり、後世になって美術館とかで見ることができないからではないか。抽象絵画への関心が増したのは、美術館で実物を見たからだし

*2:ロバート・ローゼンブラム『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』 - logical cypher scape2