タイトルにある通り、ユダヤ人と近代美術の関係について論じた本。19、20世紀のユダヤ人画家やパトロンについて書かれている。
本書は、繰り返し注釈されているが、「ユダヤ美術」についての本ではない。
このテーマにはいくつかの困難がある。
まず、ユダヤ教には偶像崇拝を禁止する戒律があるため、基本的にユダヤ人は造形美術に携わってこなかった。最も厳しい場合には、絵を見ることすらしない。
しかし、近代に入りユダヤの世俗化が始まると、キリスト教世界へと同化していくユダヤ人も現れ、場合によっては改宗し、あるいは改宗しないままでも、画業を選ぶユダヤ人が現れ始まる。
一方そのことはもう一つの困難にもつながる。画家になったユダヤ人たちのあり方は多様で、ユダヤ的なものをテーマにする者もいれば、そうでない者たちもいるからだ。
不勉強でよく知らなかったのだが、近代ヨーロッパには、同化ユダヤ人という人たちがいて、例えばドイツの教養や文化を身につけて、ドイツ人以上にドイツ人たらんとし、ユダヤ人としてのアイデンティティは薄くなっていた人たちがいる。
もっともその同化のあり方も多様で、前述したようにキリスト教に改宗した者もいれば、そうでない者もいる。
近代において、啓蒙思想のもとユダヤ人の同化・世俗化が進んだわけだが、しかし再び反ユダヤがヨーロッパを席巻することになる。
美術史家のゴンブリッチはユダヤ系らしいのだが、戦後、ユダヤ美術についての講演を依頼されて激怒したというエピソードが紹介されている。
ユダヤ美術なるものは、ユダヤ人かユダヤ人でないかという線引きをしたい人たちによって作り上げられるものであり、そもそもそんなものは存在しないのだ、と。
本書の最後で筆者は、この本の中でどの画家がユダヤ人なのかということを挙げているが、それが今後反ユダヤ運動によって悪用されてしまう可能性もないわけではないことに触れている。
ユダヤ人と近代美術の関係というのは、明らかに研究テーマとして面白いものではあるのだが、一方で困難や危険性があるということだ。
そもそもユダヤ人が辿った歴史を思えば、ユダヤと近代美術というテーマもやはりある種の重苦しさを逃れることはできないし、そこを見ないわけにはいかないが、本書はシャガールやロスコ、ニューマンなどの著名な画家について、ユダヤ文化という観点からの解釈が論じられており、また、世紀末ウィーンにおいて、ウィトゲンシュタイン家を始めとするユダヤ系のパトロンたちがどのように芸術家たちを支えてどのような命運を辿ってきたのかなどの話がなされており、普通に(?)美術史の本として面白い話が多い。
個人的には、ロスコの話目当てで読んだのだが、それ以外にも、全然知らなかった画家のことも含めて、色々勉強になって面白かった。
また、新書だが全ての図版がフルカラー掲載となっている。
【序】緋の十字
【第1章】ユダヤ人芸術家の誕生
【第2章】パリ――異邦人たちと芸術の都
【第3章】ウィーン――ユダヤ系パトロンたちの「陽気な黙示録」
【第4章】抵抗、亡命、芸術・文化の大移動
【第5章】ニューヨーク――移民たちの静かな戦場
【結】魂のなかに生きている国
あとがき
【序】緋の十字
ベラスケスが、近年の研究で改宗ユダヤ人の家系であることが分かってきたということを話の枕に使っている。
「緋の十字」というのは、《ラス・メニーナス》に描かれたベラスケス自身の胸に描かれた十字のことで、これはサンティアゴ騎士団の徴で、この騎士団には貴族であり純粋なキリスト教徒の家系でしか入れない。ベラスケスは、宮廷画家となるにあたって、自らの家系を徹底的に隠ぺいしていたらしい。
ユダヤ人への差別・迫害があったことと、既に述べた通り、ユダヤ教の戒律により、近代以前のユダヤ人が「画家」になることは難しかった。
【第1章】ユダヤ人芸術家の誕生
第1章では、ユダヤ人であることを隠さずに活動していた最初期の画家として、以下の3人が紹介されている
フィリップ・ファイト(1793~1877、ドイツ生まれ、画家としてはローマで活動)
モーリッツ・オッペンハイム(1800~1882、ドイツ生まれ)
マウリツィ・ゴットリープ(1856~1879、ガリツィア(現ウクライナ)生まれ)
この3人はそれぞれ随分と異なる
ファイトは、改宗ユダヤ人で、ドイツ人・キリスト教徒として生き、画家の主題としてもユダヤ的な主題は特になかった。
対してオッペンハイムは、ユダヤ教徒としてユダヤ人社会の中で生き、画家としてもユダヤ的な主題を描いた。
対照的な2人だが、互いに親交はあったらしい
一方のゴットリープは、さらに複雑で、若くして画才のあった彼はそれにより伝統的なユダヤ人社会を脱するものの、ユダヤ人差別も多く、同化することもできなかった。彼は感染症により、23歳の若さで夭逝している。
この章では最初に、啓蒙主義思想以降のドイツにおけるユダヤ人について説明されている
ドイツ啓蒙主義における「教養」がいかにユダヤ人と結びついたか
ユダヤ人はもともと教育熱心であり、世界市民的な理想を掲げ、ユダヤ人からの入学も拒まないギムナジウムでユダヤ人が増えることとなった
ユダヤ人の中で、ハスカラと呼ばれる啓蒙主義運動、西欧化・世俗化運動を展開したのが、モーゼス・メンデルスゾーンで、モーゼスの孫が作曲家のフェリックス・メンデルスゾーンとフィリップ・ファイトである。
また、このモーゼス・メンデルスゾーンは、『ラオコオン』のレッシングと親しかったらしい。
- ファイトとオッペンハイム
ファイトは、祖父モーゼスが啓蒙思想家で、母親(モーゼスの娘)は改宗しており、自身はギムナジウムで学び、やはり17歳のときにカトリックへ改宗している。そして、ナザレ派の画家の1人として活躍することになる。
オッペンハイムは、ユダヤの風俗画を描いており、モーゼス・メンデルスゾーンについて描いた作品もある。
- ゴットリープ
ゴットリープは、ガリツィアで産まれたが、当時のこの地域は多言語地域で、公用語はドイツ語でゴットリープもドイツ語で手紙を書いているが、イディシュ語もある程度は話していたはずで、そのあたりははっきりとしていない。
彼もまたギムナジウムへいっているが、そこでユダヤ人差別にあい、卒業まではいたっていない。しかし、その中で、美術で頭角を表していく。ウィーンへ行き、ポーランドの歴史画家マティコに感銘をうけ、またマティコからもその才能を認められる。
本書には、ゴットリープ作品の図版がいくつか掲載されているが、20歳のときに『ヴェニスの商人』を題材に描いた作品や、22歳のときに描いた《贖罪日、シナゴーグで祈るユダヤ人》など、小さい図版からもその才能がよく分かる。
《贖罪日、シナゴーグで祈るユダヤ人》には、ゴットリープ本人の姿も描かれているが、彼は友人に対して、この絵を描く際に死者たちに取り囲まれていた妄想にとらわれていたと語っている。これに対して、筆者は、東欧ユダヤ人の中に霊にまつわる民間伝承が多いことを紹介しながら、ゴットリープの、ユダヤ人としてのアイデンティティに関する葛藤を重ね合わせている
【第2章】パリ――異邦人たちと芸術の都
ピサロの祖先は、スペインにいたユダヤ人「セファルディム」で、同じユダヤ人といっても中東欧やロシアにいた「アシュケナジム」とは異なる歴史・文化を持っていたという。
スペイン・ポルトガルでユダヤ人追放令がなされ、セファルディムはフランスやオランダ、イタリア、ドイツなどへ逃れていく。
ピサロの祖父はフランスへと移住し、フランスへと同化していく。
ピサロ自身、フランス語しか話せない非ユダヤ人の妻と結婚し、ユダヤ人社会からは離れていく。
ピサロの描く絵にも、ユダヤ人の身内あてに描かれたごく一部のものを除き、ユダヤ的な主題は見出されない。
しかし、筆者は、非政治的な印象派のスタイルを貫いたピサロの背景に、当時の政治的状況を重ねてみる。
当時のフランスでは、反ユダヤ主義が広がりを見せ、ドレフュス事件に至る。ドレフュス事件は、印象派グループの中にも、反ユダヤ・親ユダヤの亀裂を作ることになる。
また、印象派の色彩理論が、当時の人種問題と関わり合っていたという。
当時、ユダヤ人色覚異常論というものがあり、ピサロが色彩理論に関心を抱いたことは彼のユダヤ人としてのアイデンティティ問題に関係していたのではないかという説もあるという。
いずれにせよピサロは、そのような反ユダヤ的な時代の空気や、印象派の友人たちの中に反ユダヤ派が現れたことにおそらく傷つきながらも、画家としては、あくまでも非政治的な作品を描いた。それは、ドイツ的な教養によるコスモポリタニズムとは別の方法で、普遍性を求めようとしていた選択肢だったのではないかと、筆者は論じている。
エコール・ド・パリには、様々な国から芸術家が集まり、ユダヤ人画家も多くいて、さらに同じユダヤ人といっても階層や出身もバラバラだった。
その中から、特にマルク・シャガールについて論じられている
シャガールはロシア(現ベラルーシ)で、ロシア語とイディッシュ語の言語環境の中生まれ育った
ここでは、国語とは軍隊をもった方言だという話がなされている
国語とされる言語と方言とされる言語の違いは、国家があるかどうかの違いであるという話で、中東欧のユダヤ人が使うイディッシュ語は、言語的にはドイツ語に近いのだが、ユダヤ人はイスラエルができるまで自らの国家をもっていなかったので、イディッシュ語が「国語」になったことはない。
そして、ナチスにより、イディッシュ語文化圏はかなりダメージを受けてしまっており、今となってはかなり分からなくなっていることが多いらしい。ユダヤと美術を研究する上での困難の一つともなっている。実際、シャガールが幼少期にどのような教育を受けたのか、というのはよく分からないらしい。
シャガールは、サンクトペテルブルクで美術をならい(ただし、ユダヤ人が入れる枠は限られていた)、その後、憧れのパリへと渡る。
フランスへと同化していくが、ユダヤ人であることも特に隠していたわけではなく、キリスト教圏からもユダヤ圏からも人気のある、希有な画家であったという。
彼自身は基本的にはフランスで活動していたわけだが(一時、ロシアに帰国した際に革命が起きてフランスに戻れなくなった時期もある)、彼の家族(妹など)はロシア・ソ連に暮していた。このため、ロシアのユダヤ人復興運動のシンボルのデザインを依頼された時にはそれを断っていたりもする。ソ連に「人質」をとられているような状態なので。実際、近しい人がスターリンのユダヤ人粛正で亡くなり、妹のうち何人かも不審死をとげているらしい
シャガールは、ユダヤ人・フランス人・ロシア人というのが入り交じったアイデンティティを持ち続けるために、上のような「自制」をしていたのだ。
本章では、画家シャガールにとってユダヤ人であること・イディッシュ語話者であることの重要性が論じられている。
7本の指や頭が飛んでいる女性など、幻想的・シュールレアリスム的な表現が見られるが、いずれも、イディッシュ語にある言い回し・隠語にある表現らしい。
外国語としてイディッシュ語を習得する者は非常に少なく、イディッシュ語話者で美術史家や批評家になった者も非常に少なく、シャガール自身がユダヤ的な文脈の中に自作を位置付けてみせたことがなかったので、イディッシュ語表現とシャガール作品の関係はこれまで見過ごされてきたらしい
【第3章】ウィーン――ユダヤ系パトロンたちの「陽気な黙示録」
19世紀末から20世紀前半にかけてのウィーン
ベルリン、パリと並びユダヤ人の多い都市
ウィーンで活動したユダヤ系の画家もいるにはいるが、それほど著名な画家はいない
この章ではむしろ、ユダヤ系パトロンについて紹介されている。
具体的には、カール・ウィトゲンシュタイン、フリッツ・ウェルンドルファー、そしてレーデラー家の人々である。
冒頭で述べたゴンブリッチのエピソードは、本章で紹介されている。
ウィーンとユダヤ人というと、ベラーの『世紀末ウィーンのユダヤ人』が有名だが、その中でベラーが、ウィーンにおけるユダヤ人パトロンがモダン・アートを生んだという主張をしており、ゴンブリッチはその主張を批判している(ナチスの頽廃芸術論と同型だ、という批判)。
本書は、同化ユダヤ人たちにあった「教養」の理想や「ドイツ」への愛着について述べて、ゴンブリッチが何故ベラーの主張に警戒心と反発を抱いたのかを説明しつつも、基本的には、ベラーと同様、ウィーンにおけるユダヤ人パトロンの重要性を論じていく。
- カール・ウィトゲンシュタイン
哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの父であり、オーストリア鉄鋼業界で成功をおさめた実業家である
ウィーン分離派を支えた最大のパトロンであるという
- フリッツ・ウェルンドルファー
こちらは、ウィーン工房のパトロンであり、クリムトにアトリエを提供したりもしている
- ゼレーナ・レーデラー
裕福なユダヤ系一家ピュリッツアー家の生まれで、ピュリッツァー賞創設者の姪
ロートシルト(ロスチャイルド)に次ぐ財産家と言われたアウグスト・レーデラーと結婚
クリムト最大のコレクターにしてパトロン
クリムトは、その後年、先ほど挙げたカール・ウィトゲンシュタインの娘などユダヤ系富裕層の女性肖像画を多く手掛けており、ゼレーナ・レーデラー本人やゼレーナの母や娘の肖像画も描いている。
レーデラー家とクリムトは親しく、ゼレーナの娘のエリザベートは幼い頃、クリムトのことを「おじさま」と呼んでいた。
クリムト作品を集めたレーデラー・コレクションは、しかし、第二次大戦末期にナチスの手により大半が焼失している。
ゼレーナは財産を没収されたのち、ブダペストへ亡命し、そこで亡くなっている。
ゼレーナの娘であるエリザベートは、プロテスタントに改宗しキリスト教徒の貴族と結婚していたが、ナチスがオーストリアを併合した1938年、夫に離縁されてしまう。
しかし、エリザベートは亡命はせず、「半分しかユダヤ人でしかない」証明を得て、ウィーンにとどまりつづける。
どのような証明であったかというと、父親がドイツ系のクリムトであるというものだったらしい。筆者によれば、これはかなり怪しくて、真の父親がクリムトだったということはないようだが、恥も外聞も捨ててそのような「証明」をしなければ、強制収容所送りは免れなかった。エリザベートは、1944年にウィーンで亡くなっている。
先に述べたように、レーデラー・コレクションの大半は焼失しているが、ゼレーナやエリザベートの肖像画はかろうじて国外に持ち出されて、難を逃れている。
- ヘルミーネ・ガリア
ここまで挙げてきたパトロンほどの大富豪ではないが、やはり分離派やウィーン工房を支援したパトロンに、ヘルミーネ・ガリアがいる
ヘルミーネはナチスのオーストリア併合前に亡くなっているが、娘と孫娘は亡命し、収集したホフマンやクリムトの絵画を国外へと持ち出している。
ガリア家の母娘3代は日記を残しており、ヘルミーネのさらにひ孫がこれらの日記を調べて、当時のガリア家の様子をまとめているらしい。
裕福なユダヤ人一家が、当時のウィーンでどのような暮らしをしていたのか、オペラ三昧の暮らしをしていたらしい。
彼女らは、クリスタルナハトが起きた直後にウィーンから脱出しているが、直前まであまり危機感がなく、また、亡命の旅路の途中にもオペラ鑑賞をしたりしていたらしい。
【第4章】抵抗、亡命、芸術・文化の大移動
この章は、第二次大戦直前、反ナチスの表現が試みられた作品2点が紹介されている。他の章と比べると、ページ数の短い章である。
リプシッツ《ハゲワシを絞めつけるプロテウス》
シャガール《白い磔刑》
【第5章】ニューヨーク――移民たちの静かな戦場
マーク・ロスコとバーネット・ニューマンが取り上げられている。
- ロスコ
ロスコ(ロトコーヴィッチ)はロシア(現ラトビア)で生まれた。父親は元々リベラルで、兄たちは伝統的なユダヤ教育は受けなかった。だが、血の日曜日事件後、治安維持にあたったコサックによるユダヤ迫害が起こり、父親が伝統的なユダヤ教徒となる。ロスコは兄たちと違って伝統的なユダヤ教育を受けることになる。
ロトコーヴィッチ一家は、ロスコが7歳のとき、アメリカへ移住する。アメリカでは命の危険にさらされることはなかったが、ユダヤ人差別は変わらずあった。
ロスコは、アメリカには心から馴染むことはできなかったらしいが、一方、故郷ではホロコーストが起きて、多くのユダヤ人が亡くなっている。ロスコ自身は、ホロコーストについては沈黙しており、作品にも現れることがなかったが、彼の作品スタイルが成立していく時期にホロコーストが背景としてあったことに、筆者は注意を促す。ロスコの娘の回想でも、家庭でホロコーストが表立って話題になることはなかったが、暗黙の背景としてあったと語られているらしい。
さて、ロスコやニューマンなどの抽象画家たちは、「主題」を重視するという共通点があり、その点で彼らは自らとプリミティブ・アートなどとの共通性を見出していた。
その上で筆者は、ロスコとニューマンの相違点も指摘している。
そういった主題を、ニューマンはタイトルによって表している(「アダム」「イブ」など)のに対して、ロスコは、タイトルからも内容を連想させるようなことはさせない。
筆者はここに、幼い時とはいえロシアの伝統的ユダヤ人社会で暮らした上でアメリカに移住してきたロスコと、移民2世であったニューマンとの違いを見てとっている。
筆者は知り合いのユダヤ教徒に、嘆きの壁で祈るときに何を心の中に思い浮かべているのか尋ねた時のことを書いている。
その答えは、何も心に思い浮かべないように様々なイメージを混ぜながら祈っている、というものだった。
ロスコもまた、具体的なイメージを消し去っていくことで、宗教的体験を描こうとしたのではないか、と。
ロスコは「根源的な感情を伝えるために描いている」と語っている。具体的な特定の宗教というわけではなく、普遍的で根源的な感情・宗教的体験を描こうとしたのではないか、と。
- ニューマン
ニューマンは、先述した通り、親の代にアメリカに移住してきており、本人はニューヨークで生まれ育った。元々ユダヤ人の多い地区で、少なくともロスコと比べて、生きにくさは感じていなかっただろう、と。
また、ユダヤの伝統的教育を受けたロスコと違って、ニューマンには、ユダヤ教との間に適度な距離感があったのだろうとも述べている。ニューマンの蔵書には、ユダヤ教神秘主義に関する本もあった(幼い頃からユダヤの教えが身についていたというより、ユダヤ教について後から学んだのだろう)。
本書では、ニューマン作品のタイトルについて論じられている。
先ほども述べた通り、ニューマンのタイトルは、ロスコとは違って内容を連想させるようなもの、聖書由来のタイトルがある。
しかし、聖書の語をそのまま使っているかというとそうではなくて、聖書由来でありつつも、アレンジさせており、ユダヤに限定されない、より普遍的な表現にしようとしているという。
【結】魂のなかに生きている国
筆者が何故このテーマに取り組むことになったのか
そして、このテーマの難しさについて論じている。
まず、このテーマに進むことになったきっかけとして、恩師であるハンス・ヤッフェについて述べられている。
日本人から寄せられる素朴な疑問「どうやってユダヤ人かどうか見分けるのか」
これについて、敬虔なユダヤ教徒の場合、見た目で分かる場合がある。
また、名前から分かる場合もある。
さらに、ある地域で生活していると、自然と誰がユダヤ人で誰がそうでないかは分かってくるという。
ユダヤ人の少ない日本では素朴な疑問であるが、ヨーロッパで生活すると、そういうことは普通に分かってくるらしい。
しかし、ユダヤ人であるという出自を隠している人もいるし、同化や改宗、移民、改姓などを経て、本人ですらユダヤ系であることが分からくなっているケースもある。
そして、そうした状況の中で、どうやってユダヤ人かどうか見分けるのか、というのは単なる素朴な疑問では済まなくなる。
既に、ゴンブリッチの怒りについて述べたところで触れられている通り、誰がユダヤ人かどうか見分ける、というのは、ナチスなどのユダヤ人を迫害する側がやってきたことだからだ。
筆者が「ユダヤと近代美術」というテーマをあげると、欧米の研究者の多くが鈍い反応をするという。近代美術にユダヤ人が深くかかわってきたことは間違いないが、このテーマに触れるのは今なお難しい。誰がユダヤ人なのか、ということを明らかにしようとすること自体に、問題があるからだ。
(ところで、これはユダヤ人に限らず様々なマイノリティにも多かれ少なかれ当てはまる話のような気がした。このあたりを読んで自分は、アイヌのことを想起した。アイヌ差別の一つとして、「客観的に」アイヌかどうか判別できないからアイヌ民族というのはもう存在しない、というものがある。しかし、それこそアイヌは和人との同化政策、混血、改名などがあったわけで、誰がアイヌで誰がアイヌでないかを見分けようとすること自体に差別性がある)
それ以外に「美術史」というものが、つねに国によって書かれてきた、という論点もここでは挙げられている。
イタリア美術史、フランス美術史、ドイツ美術史、スペイン美術史等々
ユダヤ美術(史)なるものがあるのかという問いに、筆者は、イスラエルができるまでは存在しなかった、と答える。
逆に、各国の〇〇美術と呼ばれる中に、ユダヤ人画家は含まれているわけで、〇〇美術なるものはあくまでも国家があるからそういうものが成り立っているのであり、国家がなければ、その○○に固有の、あるいはその○○に共通した何かがあるというわけではないのである。
(同様に、ユダヤ美術という括りを作ったからといって、ユダヤ的な性質を共通にもつ美術があるわけではない)
ユダヤ美術というテーマを、多くの批評家や研究者がやんわりとあるいは激しく拒む背景に、ナショナリズムへの批判がある。それには、ナチスのような反ユダヤ的なナショナリズムだけではなくて、イスラエルのようなユダヤ・ナショナリズムも含まれる。
実際、イスラエル建国後、ユダヤ的なテーマを描く画家もいるようだが、筆者がユダヤと近代美術というテーマで取り上げたいと考えているのはむしろ、コスモポリタニズム的な普遍性を持とうとしている画家である。
ドイツの教養主義的な教育を受けた同化ユダヤ人画家は、そのような普遍性への傾向があるし、また、必ずしもそうではない画家でも、シャガールのようにユダヤ的なものを描きつつも、普遍性を獲得した画家もいる。