「クプカ展(1994年)」図録

1994年に愛知県美術館宮城県美術館世田谷美術館)で開催されたクプカ展の図録
「ABSTRACTION抽象絵画の覚醒と展開」展 - logical cypher scape2「パリポンピドゥセンター キュビスム展 美の革命」 - logical cypher scape2とでクプカの作品を見て、興味を覚えたため、94年の展覧会の図録を見てみることにした。
紛れもなく抽象絵画創始者の一人であるにも関わらず、カンディンスキーモンドリアンマレーヴィチと比較しても知名度が一段劣る画家だろう*1
もちろん、94年に日本でもこうして単独の展覧会が開かれており、美術史の本もちゃんと読めば名前が載っているのであって、自分がクプカの名前を知らなかったのは不勉強でしかないわけだが、しかしやはり、美術の世界においても評価が定まるのに時間がかかった画家ではあったようだ。


フランティセック・クプカ(1871年~1957年)は、チェコ出身の画家で、1912年のサロン・ドートンヌに出品した「アモルファ、二色のフーガ」という作品が、史上初めて展覧会に展示された抽象絵画として有名である。
ちなみに、先に挙げたカンディンスキーは1866年生まれ、モンドリアンが1872年生まれ、マレーヴィチが1879年生まれであるが、この3人はいずれも1944年までには亡くなっている。1957年というのは、ジャクソン・ポロックが亡くなったよりもあとで、クプカはこの年に86歳で亡くなっている。
このクプカ展では、彼の10代の頃の作品から、1950年の作品までが展示されていたようで、生涯に渡って絵を描き続けていたことが分かる。そして、抽象に至ったのは40歳頃であるが、それ以降はずっと抽象絵画を描いていたようだ。
クプカは、しかし、抽象絵画に至る前の作品も興味深い。
象徴主義の影響下にあり、ある種、幻想的とでもいえそうな作品も多い。また、雑誌などの挿絵を手がけていた時期もあり、その頃は風刺画を描いている(パリではまずそこから有名になったようだ)。かと思えば、抽象絵画への過渡期においては、時間や運動を描くという未来派と共通する目的で、独創的な作品を描いている。
個々の作品についてはあとでいくつか言及しようと思うが、抽象以前の作品だけでも結構面白い画家だなと思う(もっとも、のちに抽象絵画を描くことなかったら名前は残らなかったかもしれない)。
その上で、しかし、抽象絵画もまたかなり独創的である。
いや、抽象絵画を描いている画家は、どの人も独創的ではあるのだが、その誰とも違った道を歩んでいるし、また、フォロワーもいなかったように思える。
1920年代の作品群はいつか実物で見てみたいが、図版で見ているだけでも、「なんだこれすごいな」と思える。
1930年代以降、幾何学的抽象になっていき、言ってしまえばモンドリアンっぽい絵になってしまうわけだが、しかし、じゃあ本当に単にモンドリアンっぽい絵でしかないか、というと決してそうではなく、独特の複雑さを含む作品を描いている。


図録の中では、クプカのことを矛盾に満ちた人、と形容している箇所があった。
彼は神秘主義と合理主義の双方の面をあわせもち、また、政治思想的には無政府主義に接近しながら、愛国主義的な面もあったなどなど。
まあこのあたりは、誰しもそうした二面性は持ち合わせているものなのではないかとも思うので、ここから何か人物像を引き出せるものでもないと思うが、何故そうなったのかという彼の経歴は興味深いものである。
クプカは、ボヘミアの貧しい家庭に生まれ、13歳で馬具職人の徒弟となっている。
かなり早い時期に自分は画家になる、と確信したようで、また、父親やこの親方もその点については協力的だったらしくて、プラハの美術アカデミーへ進学することになる。
で、この親方からは、降霊術の手ほどきも受けている。プラハ時代は貧しい苦学生だったようだが、霊媒としての才能があったとのことで、霊媒の仕事で生計を立てていたという。
さらにウィーンの美術アカデミーへも進学し、ここで象徴主義の影響を受けることになる。
この頃に、王女に絵を見初められて有名になったりしている。
貧しい中でパリへと移住し、本格的に画家として生活するようになる。
先に述べたように、雑誌等への挿絵の仕事をしていて、無政府主義者の雑誌『バター皿』への連作や、アナキストの地理学者であるエリゼ・ルクリュの著書『人類と地球』への挿絵を描いている。こうした政治思想への共感があったらしい。
また、ソルボンヌ大学の講義に出るなどして、物理学や生物学など自然科学を学んでいる。
隣人にジャック・ヴィヨンがおり親しくしていて、のちにピュトー・グループの会合にも顔を出すようになる。が、クプカという人は、個人的に親しくしている画家なり詩人なり批評家なりという人はいたようだが、こういうグループなり美術運動なりの一員になるというのが苦手だったようで、あまりなじめなかったようだ。
オルフィスムに分類されることが多いが、クプカ自身はこの分類を拒んでいる。
まあ、こういう外部からのラベリングを拒否すること自体は、画家やら作家やら思想家やらには珍しいことではないけれど、とかく、様々な運動やイズムが乱立する20世紀前半の前衛美術の世界の中で、どれとも距離をとっていたということが、クプカへの評価や理解を難しくしていたのかもしれない。
また、これは一概にクプカの方にだけ原因があったわけではない。
この図録の中で、クプカ作品を形容するにあたって「非フランス的」「東欧的」「チェコ的」「バロック」といった語が飛び交っている。個人的には、これらの語が何を意味しようとしているのか、正確なところは分からないのだが(特に、抽象絵画についてバロックという形容がされるとき、何を意味しているのか分からない)、これらは概ね、当時のフランスにおいてクプカがずっと「異邦人」扱いされてきた、ということを表している。
クプカは若い頃にパリに移住して以来フランスで暮らし、パリ郊外のピュトーで亡くなっており、生涯の大半をフランスで過ごしてきているわけだが、ずっと「異邦人」扱いされているという孤独感を抱いていたらしい。
彼の作品の独創性にも繋がってくるのだが、プラハやウィーンで美術教育を受けたこともあってなのか、彼の作品については上記のように「非フランス的」などと見なされてきたようだ。フランスでは彼の抽象絵画の評価は一定せず、賛否両論だったようだ。一方、祖国のチェコでは高く評価されていた。また、ドイツでも肯定的に受け入れられていたっぽい。
さて、第一次世界大戦が始まると、彼は志願兵となりソンムの戦いに赴くが、年齢的に体力がついてこず、凍傷などを負ったこともあり後送される。後送した後もチェコ軍に志願したらしい。
こうした彼の半生を追うと、確かに神秘主義と合理主義、無政府主義愛国主義といった相反するかのような面が、矛盾としてあったというよりは、それぞれの彼の人生の時期においてしかるべきものとしてあったのかなあと思えてくる。
クプカよりも年長だが、同時代のチェコの画家としてミュシャもいて、ミュシャとクプカが当時のチェコにおける大画家だったようだ。クプカは、プラハのアカデミーの講師としてパリで教鞭をとっていたりして、そういう形で財政支援を受けていたらしい。年譜を追うと、一時期プラハとの関係が悪化した時期もあったようだが、基本的には、祖国からのフォローがありクプカもそれに感謝していたようだ。
クプカは、生前全く評価されず死後になって注目されるようになった画家か、といえばそういうわけでもなくて、生前からある一定の評価は受けていたようである。チェコでは個展が開かれているし、フランスでもポンピドゥー・センターが作品を購入したりしている。ただ、この時期の前衛画家たちの多くは、様々な○○主義を掲げ、マニフェストや理論書など言葉によって自作の説明を試みたりしていたのに対して、クプカは、一応、理論書は書いているもののあまりテキストを書く人でもなく、どの主義ともつかない作風だったので、傍流と位置づけられてしまったのかな、という感じがする。


クプカの抽象絵画においては「垂直」と「円環」が主要なモチーフとなっている。
一番最初に発表された作品である《アモルファ、二色のフーガ》と《垂直の面》はそれぞれ円環と垂直が扱われている。
クプカ研究においては、こうしたモチーフの変遷を追っているようだが、源泉が何に由来するのか特定するのが難しいというのも特徴のようだ。抽象に至る以前、具象絵画を描いていた頃からその流れを位置づけることができる一方、その流れがかなり複雑で、長期に渡るためである。

論考

  • ルドミラ・ヴァフトヴァー「普遍性に向かう「もうひとつの現実」」

クプカの略伝

  • ヤナ・ブラブツォヴァー「素描家としてのクプカ」

初期の素描について
特に、1901年~1902年頃の《バラード=喜び》について
この作品は、海岸で2人の女性が馬にまたがっているという絵で、亡くなった元恋人と当時の恋人とがモデルになっているらしい。

  • アレナ・ポマイズロヴァー「フランティシェク・クプカ,色彩の道」

クプカの色彩表現について

  • ジェルマン・ヴィアト「パリ国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)のクプカ作品」

ポンピドゥー・センターにクプカ作品が収蔵されるようになった経緯について
同時代作家のコレクションをどう形成するかという話
クプカ自身がかなり美術館に好意的で、美術館側が購入を決めた際に、さらに他の作品もあわせて寄贈したらしい。死後も夫人からの寄贈がある。
現在は、パリとプラハにそれぞれクプカ作品のコレクションができているらしい。
また、ポンピドゥーには一時期、クプカ・ルームがあったこともあるらしい。

  • ヴラスタ・チハーコヴァー「見えないものに終始する」

クプカの非フランス的な要素について、といえばいいのか。
まず、《水(浴女)》、《彼岸》、《ピアノの鍵盤=湖》の3作品に注目する。いずれも、水がモチーフになった作品だが、フォーヴィズム風、ドイツ風、抽象絵画風といった変遷が見られる。
また、クプカの中の「バロック」や「スラブ」的要素について。
やはり「バロック」というのは当時における悪口だったっぽいが、バロック幾何学というのが、ウィーン時代に身についていた云々。
チハーコヴァーはクプカについて、他の抽象絵画の画家と比較して「幻想的な抽象の表現」と特徴付ける。理知的で平面的な抽象ではなくて、幻想要素のある抽象。

  • 吉田浩俊「クプカと東洋」

タイトル通り、クプカ作品に見られる東洋要素について
連作「宗教」にはその名の通り「日本の宗教」という作品があって、仏像が描かれているのだけど、これの元ネタであったであろう写真を特定したり、クプカが何を通じて日本の宗教についての知識を得ていたのかなど
それから、仏教つながりで、《蓮の魂》や《生命の始まり(睡蓮)》にも見られる蓮モチーフについて。
また、書にもクプカは関心を持っていたのではないか、という話とか。
実際、彼の理論書の中には、日本では筆運びと呼吸を結びつけているのだ、という話が書かれていたりする。

  • 村上博哉「《垂直の面》と《夢》」

タイトル通り、クプカの《垂直の面》という作品と《夢》という作品について。
《夢》という作品は、男女が重なったかのような人物の影みたいなのが大きく描かれていて、右下の方にクプカ夫婦が横たわっているという作品で、《垂直の面》はその名の通り、垂直の面を描いた抽象絵画なのだけど、垂直性というモチーフや構図が共通していて、《夢》をもとにして《垂直の面》が描かれたのだろう、と。
そして、この《夢》における男女のモチーフは、当時シャガールなど他の画家も描いていたアンドロギュノス的なイメージだろう、と。

図録

ウィーンの美術アカデミーで学んでいたが、当時のウィーンはナザレ派の画家が多くて、そこからの影響が強かった、と。
《銭》1899
雑誌『バター皿』に掲載された連作の風刺画。丸々と膨らんだ腹の中に小銭を貯め込んでいる老人?小鬼?みたいなのが描かれている。そういうファンタジーっぽい要素がまぶされている。
《馬車の窓からの眺め》1901
ブルターニュの海岸を描いた作品だが、馬車の窓枠を模した、アールヌーヴォー風の枠がついている。どことなくミュシャっぽさもある気がする。
《蓮の魂》1898
《生命の始まり(睡蓮)》1900-03
前者は三連画、後者は胎児の入った球体が宙に浮かんでいる絵
《静寂の道》1903
これはファンタジー小説か何かの挿絵か? みたいにも思える作品で、スフィンクスがずらりと並んだ道が描かれている。
《秋の太陽》1906
初めてサロン・ドートンヌに出品した作品で、三美神という伝統的なモチーフを描いた作品で、パッと見は保守的な感じもする絵なのだが、奥に描かれている森が不気味な感じでもある。
《彼岸(マルヌの川岸)》1895
文字通り、川岸を描いた風景画なのだが、タイトルにあるとおり、川の向こう岸を彼岸に見立てた作品で、森の奥が影になっていてそういう雰囲気を漂わせている。象徴主義神秘主義的な作品でもあり、北ヨーロッパ的な作品でもありつつ、また、この作品から垂直性のモチーフがあったのではないかとも言われている
《バビロン》1906-09
世界の七不思議に題材をとった作品の一つ。題材的に当然なのだが、ファンタジー作品のイラストレーションにも見える。

2人類の諸相

連作「宗教」「平和」1904
『バター皿』に掲載された風刺画の連作。「平和」とかはまさに雑誌に載っている風刺画っぽい感じ。「宗教」の中には、上述した通り「日本の宗教」というのもある。仏像の上によそ見している日本人が乗っていて、次々と宗旨替えをする日本人という風刺になっている。また「理性の女神」というので締められていて、理性の勝利みたいなことを謳っているらしい。
エリゼ・ルクリュ『人間と地球』挿絵1904-07
《縛られたプロメテウス》1908
こちらも挿絵。直立した女性がずらりと並べられていて、これが後に垂直を描く抽象画へ繋がっていったのだろう、と
《水(浴女)》1906-07
フォーヴィズム風の色彩で描かれた作品だが、水面の表現などで時間を描こうともしている、とか。
《タンゴ》1909
これ以外にも色々な画風(?)を試していたっぽい作品が色々載っているのだが、この作品は、あたかもサーモグラフィー風に人体が塗られている。もちろん、サーモグラフィーなんてまだなかった時代だが、このサーモグラフィー風の塗り方はクプカの他作品にも再度出てくる。
なお、連続写真とかX線画像とかにも興味を持っていたらしい。
《自画像》1910
これまたフォーヴィズム

  • 3空間と運動の分析

《連続的な運動の分析(騎手たち)》1900
時間や運動について描こうとする中で、画面を垂直方向に分割して描く、ということをし始める。その最初期の作品。
志向としては未来派なのだが、実際の作品のあらわれは未来派とも似ていなくて独特。
《夢》1909
この作品から《垂直の面》1912へ、というのは上述した論文にも記載があった通り。《夢》は本展で展示されていたが、《垂直の面》は未出展で、カタログに参考画像として掲載されている。
《色面の構成》1910
これもクプカ展未出展で、カタログに参考画像として掲載されているのみだが、「パリポンピドゥセンター キュビスム展 美の革命」 - logical cypher scape2で見たことがある作品だった。クプカはピュトー・グループの会合には顔を出していて、人的交流の面では関係しているが、上述の通り、関心としては未来派的なところがあったようなので、キュビスムの流れで見ると、やはり浮いているのだろう。とはいえ、未来派の流れでみても、やはり浮いている気がするが。
《垂直線の中のクプカ夫人》1910-11
かなり抽象化が進んでいる作品だが、無数に描かれた垂直線の中にクプカ夫人の顔だけが浮かんでいる。クリムト風といえばクリムト風かもしれない。
ノクターン》1911
上述の作品から人の顔もなくなった感じで、抽象に至った段階の作品かと。クプカ展のキービジュアルに使われていたっぽい。
《ピアノの鍵盤=湖》1909と《垂直の面1》1912は、未出展でカタログに参考画像のみ掲載されているが、重要作品っぽい

《ボールを持つ少女》1908
継娘アンドレー(妻ウジェニーの連れ子)を描いたフォーヴィズム風の作品だが、これが後に《アモルファ、二色のフーガ》を生むことになった。
ここでは、1908年に描かれたボールを持つ少女に基づく習作や、アモルファ、2色のフーガのための習作が複数展並べられて、どのように抽象化されていったのか、という経緯を詳しく追う構成になっている。
少女やボールの形が円に単純化され、また少女の僅かな腕の運動などをその中で描こうとしている。
《ボールを持つ少女》と《アモルファ、二色のフーガ》とは、正直似ても似つかない作品なので、前者から後者が生まれたと言われても俄には信じがたいのだが、一連の習作を見ると、どのように形態が単純化・抽象化されていったのかがよく分かる。ただ、こうした習作群がなければ、この2作の間の関係は分からないわけで、このあたりが、クプカ研究ないし美術研究の難しいところと面白いところなのかなあと思った。
さらに色相環と組み合わされて、色彩との関係も模索されていく。その過程で《ニュートンの円盤》1912という作品も描かれている。
どこかの論考に書いてあったが、クプカは他の抽象絵画の画家(カンディンスキーとか)と同様、音楽をその創作において参照していたようだが、後に、音楽家のように創りたいのであって音楽を描きたいわけではない、と述べており、タイトルに「フーガ」という言葉を使ったことを後悔していたらしい。

  • 5有機的な形、宇宙的な形

1920年代に描かれた一群の抽象絵画は、本当に圧巻で、驚かされる。
知る人ぞ知る扱いなのが本当に謎だが、美術史上の位置づけが確かに難しいのかもしれない。
タイトルに有機的な形、とあるが、クプカ自身生物学を学び、生命の営みにも発想源があったようだし、有機的抽象といいたくなる形態をしているが、バイオモーフィズムとは一線を画しているように思う。
《創造1》1920
クプカは自著でも「創造」というのがキーワードで、現実世界とは違う世界を創ることを絵画の目的と考えたらしい。
ヒンドゥー教のモティーフ(赤の階調)》1919
何でヒンドゥー教なのかはよく分からないのだが、クプカ独特の反復が描かれている。ところで、「パリポンピドゥセンター キュビスム展 美の革命」 - logical cypher scape2でみた《挨拶》がわりと意味不明だったのだが、このあたりの他のクプカ作品と比べると、反復の描き方とかにクプカの特徴が見れるようになって、なんとなく分かってくるような気がする。また、抽象絵画に至ったあとも、人物モチーフの作品をいくつか描いていて、《挨拶》はそれらとも関連するのだろう。
《灰色と金色の展開》1919
「ABSTRACTION抽象絵画の覚醒と展開」展 - logical cypher scape2で見て衝撃を受けた奴。
クプカの他作品と比べると、色彩が非常に地味である。これ、もとはもっと金色多めで描かれていたらしい。『白と黒の4つの物語』を準備しはじめていて、その影響で色彩抑えめなのでは、という話も
《おしべとめしべの物語》1919-20
タイトルが「ザ・生命」って感じ。代表作っぽくて、円環と反復のモチーフによるかなり迫力ある作品
《非描写的空間》1914
《生命力ある線》1920-33
《線、平面、空間3》1923-27
上述の作品群が有機的~って感じなのに対して、これらの作品群は幾何学的~って感じの作品だが、幾何学的抽象がわりと形態の単純化に向かうのに対して、必ずしもそうではなくて、複雑な空間を作り出そうとしている。かなりかっこいい。
《赤い色斑》1928
タイトルに赤とあるが、作品全体として青緑っぽい色の方が広くて、画面下の方に赤が使われている。フランツ・マルクっぽい色彩ってどこかに書かれていた気がするが、確かにそんな感じで、好き
『白と黒の4つの物語』 1926
版画作品で、垂直とか円環とか4つのモチーフについてそれぞれ何葉ずつ描かれている。かっこいいデザイン集みたいな感じ
《雲1(飛行機からの眺め)》1934
ロンドンに招待されて飛行機に乗った際に窓から見えた雲を描いた絵で、そのままの絵なのだけど、抽象絵画にも見えてくる。

  • 6垂直の面と斜めの面

《垂直の面と斜めの面(冬の記憶)》1913-23
クプカは、垂直と円環が主要モチーフだが、それに負けず劣らず斜めも大事だった、というのがどこかの論考に書かれていた気がするが。
それはそれとして、この作品めちゃくちゃかっこいい。
垂直な線が立ち並ぶ構図だが、それぞれ結晶のような構造が並べられている。色彩も、少し暗めのトーンでシックな感じに仕上がっている。

1930年代にマシニズムに接近。ピカビアっぽい機械を描いている絵だが、ピザなどの食べ物のモチーフが加えられていたり、とユーモアのある側面もある。
ただまあ、ここらへんは迷走期なんだと思う。
その後、コントラストシリーズという作品を描いている。
《シリーズC 5》1935-46
モンドリアンっぽいというか、デ・ステイルのファン・ドゥースブルフの影響を受けた幾何学的な作品。実際、かなりモンドリアンと見まがうような、単純化された直線だけで描かれた作品もあるのだが、しかし、この《シリーズC》は、幾何学的な直線の中にさらに細かく幾何学的な図形が重なるように描き込まれていて、平面ではなくて空間性がある。
なお、ファン・ドゥースブルフの影響と上述したが、解説によれば、ファン・ドゥースブルフの影響以上に、「抽象=創造」グループへの参加が大きな影響を与えていた、とのこと。
「抽象=創造」グループ参加にあたっては、リーダーに推す声もあったらしい。当時、クプカというのは大御所的なポジションにいることはいたらしい。ただ、クプカは辞退している。「抽象=創造」グループからものちに脱退。そのときに知り合った何名かとはその後も付き合いは続いていたらしいが、やはりそういう美術グループみたいなものに属するのは苦手な人だったのだろう。
《動く面》1950
本展の一番最後の作品。やはり幾何学的な作品だが、面が十字状に並べられている作品で、これまたなかなかかっこいいし、最晩年に描いているのがなかなかすごいと思う。
というか、1950年代で同時代の抽象画の動向ともだいぶ独立している気がする。


稲賀繁美「クプカの宇宙--その生成と無意識的記憶」 『世田谷美術館紀要』 世田谷美術館 1995年
ググってたら見つけた奴。白黒だが図版豊富


クプカのこと、ABSTRACTION展で初めて知ったと思っていたのだが、過去記事見直してたら、ポンピドゥー・センター傑作展 - logical cypher scape2で見ていたことがわかった。「垂直の面1」来てたの?!

*1:しかし、確認のため、Wikipediaで「抽象絵画」を見てみると、初期の抽象絵画の画家のところにはクプカ以外にもあまり有名でない人が並んでいた……