桜井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』

第一次世界大戦がヨーロッパの若い世代の作家などに与えた精神的影響についての本
本の惹句としては「20世紀精神史の試み」とある。
どういうのであれば思想史で、どういうのであれば精神史なのか、自分にはよく分からないが、まあそういうジャンルの本で、結構当時の人たちの回想録等からの引用が多い印象である。多くは作家などの著作だが、時折、(のちに出版されることになった)無名の人の日記なども含まれていたと思う。
第一次世界大戦については木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2を読んでいたのでそれを思い出しつつ、そちらの本は政治史だったので、それに肉付けしていくような感じで読んでいった。フランスを中心としつつドイツの話も出てくる感じで、これまで読んできたこの時代に関する本のあれこれと断片的にリンクしつつ、一方で、この本で初めて知る人名・運動等のこともあって、かなり面白かった。
第1章から第3章までが第一次大戦中、第4章から第6章までが第一次大戦後の話となる。
徴兵を免れた年長世代と前線を経験した年少世代との意識のズレ、特にその具体例として出てくるクラルテ・グループやシュールレアリスム反戦運動への傾倒、あるいは、1920年代のモロッコ戦争や植民地問題をめぐるあれこれとか、特に面白かった。

はじめに――第一次世界大戦をこそ問え

第一次大戦の重要性について
ベイトソンは後年、20世紀の重要な出来事として、自身が関与したサイバネティクスのほかに、ヴェルサイユ条約を挙げている。
ドイツに対して当初、ウィルソンの14条が提示されたのに結果的に反故にされた。裏切りとしてのヴェルサイユ条約
また、ヴァレリーによって第一次世界大戦が「精神の危機」としてとらえられている。
→ヨーロッパ文化への幻滅、知性の無力、目標喪失、伝統的文化の解体
ほかに、フロイトウィトゲンシュタインハイデガー第一次世界大戦の関係が簡単に触れられている。

第1章 一九一四年 夏

何故このような大規模な戦争になってしまったのか、色々考えられるがはっきりとは分かっていない。その中で、筆者は通信の「速さ」が最大の要因だったのではないかと
ティーヴン・カーン『時間と空間の文化』でも論じられており、電話・電信の速さによって、コントロールが及ばなくなってしまったのではないか。
またその一方で、外交経路の中でのサボタージュが、事態を悪化させた、とも
社会主義勢力の中で反戦運動はあったが、事態の速さに対応できなかった(ちなみに、そうした展開の速さを予期できなかった者として、フリードリヒ・アードラーの名前があげられていた。アードラーについては木田元『マッハとニーチェ―世紀転換期思想史』 - logical cypher scape2で1章さかれている)

  • 開戦前夜のフランス

戦争に対してフランスは危機感が薄かった。
フランスでは当時、急進党党首ジョセフ・カイヨーの不倫にかかわる裁判に世間の注目が集まっていた。
社会党内部では路線対立があって反戦運動がうまくまとまらず、そんな中、平和主義者ジャン・ジョレスが暗殺されるが、ジョレス暗殺よりカイヨー裁判の方が紙面での扱いは大きかったとか。

  • 実際に戦争が始まった時、人々はどのようだったか。

茫然自失、驚き→静かな受容、諦め→義務を果たそうとする意志→ドイツに対する被害者意識による正当化といった変遷を辿った。
開戦時、特に高揚はなく、ただ粛々と兵役に従っていた、というのは木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2にも書いてあった。


戦後出版された、ある少年の日記が引用されている。
兄が徴兵されていたり、ベルギーにかんするドイツ軍の虐殺について書かれていたりする。また、ドイツによる占領について
当時の新聞に掲載された話として、ベルギーの司祭が、ドイツ軍兵士にレイプされた女性に妊娠中絶をすすめた、というものがあり、これに世間は衝撃を受け、是非が論じられたとか。
合法化すべきという議論が巻き起こる一方、当然ながら教会関係者からは基本的に反対意見が出ている。また、フェミニストからも中絶への反対意見が出ていたらしい(そもそも問題は男の暴力であり子どもを殺すべきではない、と)。政府は、生まれてきた子供の面倒を施設でみるということをいったが、これが捨て子にもつながってしまった、と。

第2章 未知の戦争

本章では、作家、政治家、思想家などの戦争体験について述べられている。

  • ピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの小説『シャルルロワの喜劇』(1934)

ドリュ=ラ=ロシェルは、這いつくばる戦争とか、人間と会わない戦争とかいった形容をしている。
その箇所を引用しながら、機関銃により塹壕戦が展開されたことについて説明している。
ちなみにこのドリュ=ラ=ロシェルという作家は、のちにファシズムに傾倒し、対独協力者となる。本書の中では、この後にでてくるレーモン・ルフェーブルと対比されるほか、度々登場してくる。
自分は全然知らない人だったがググってみると『筑摩世界文学大系』の72巻に収録されている。

  • アンリ・バルビュス『砲火』(1916)

バルビュスは開戦時41歳で徴兵はされなかったが、志願して前線へ赴く。
戦場体験記「砲火」を連載し、その後、ゴンクール賞を受賞した。


第一次世界大戦での特徴的な戦闘方法は、毒ガスと空爆
本書に載っていた興味深い数字を引用すると、
開戦当時の各国軍の飛行機は、フランス148機、イギリス84機、ロシア190機、ドイツ200機だったが、
1918年までに交戦国全体で20万機製造が製造され、フランスは4万1500機、ドイツは4万8000機だったというので、その増加率に驚かされる。当然ながら、航空機産業が大きく発展した。

榴弾と戦車についての描写がある。
毒ガスも飛行機も戦前からあったが、戦車は、第一次大戦で開発された新兵器
ソンムの戦いでは49台だったが、1917年のカンブレーの戦いでは300台超
なお、ドイツは戦車の導入が遅かったらしい


前線の兵士たちが抱いていたのは、「死者への崇拝」と「塹壕の友愛」であって、祖国への崇拝から戦っていたわけではなかった。
この「塹壕の友愛」は、本書ではこの後もたびたび出てきて、戦争体験者のベースになったものとして論じられている。
ただ、この塹壕共同体的なものについて木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2では疑問が呈されていた。

  • レーモン・ルフェーブルの戦争体験

ドリュ=ラ=ロシェルの親友であったが、2人の戦争体験にはズレがあった。
ルフェーブルは兵役から解放されていた。
このため、前線で負傷したドリュ=ラ=ロシェルがルフェーブルと再会した際、ルフェーブルの反戦的な発言にドリュは反発している。
ルフェーブルは戦争に行っていなかったわけではない。戦中に接近した平和運動や労働運動に違和感を覚え志願兵になり、看護兵として前線へ行っている。
しかし、戦後次第に右傾化していくドリュ=ラ=ロシェルに対して、後方に戻ったルフェーブルは、本格的に社会党平和運動へと関わっていくことになる。

ムッソリーニについては、田之倉稔『ファシズムと文化』 - logical cypher scape2で「もともとは社会主義者社会党に入ってい」て「当初は中立の立場だったが、次第に参戦派とな」ったというのを読んでいたが、実際に前線へ行っていたようだ。
元々父親の影響で社会主義者になっていたが、戦前まではアイデンティティのゆらぎに悩まされていたらしい。これが、塹壕での共同体体験によって、このゆらぎが解消していく

  • ユンガーの見たヴィジョン

エルンスト・ユンガー『鋼鉄の嵐の中で』(1920)『内的体験としての戦闘』(1922)
戦争は父と論じ、兵士への英雄的賛美や新たな共同体を説いた
「総動員」についても論じている。
ナチス的な要素のある思想家ではあるのだが、反ナチスとみなされた。
ユンガーの忠誠の対象は独裁者ではなくテクノロジー。「個人」はなくなり、人々は「戦争機械」となる


第3章 戦時体制と知識人

第2章が戦争に行った世代についてなのに対して、こちらはどちらかという年長世代の話が主

ジャン・クリストフ』(1912)はドイツ人音楽家とフランス人詩人の友情を描いた作品で、ドイツでも刊行。融和を説いた作家だが、時勢の中孤立していく。開戦時はスイスにいた。
フランスでは、ベルクソンアナトール・フランスサン=サーンスなどが戦争への賛美、反ドイツ的な言動をとるようになり、ロランは「ドイツびいき」として攻撃されるようになった。

「戦時の考察」において、文化(ドイツ精神)と軍国主義の一致、文化と文明(理性・連合国)との闘争を論じて、ロランはショックを受ける。
平和主義者の兄ハインリヒ・マンとの対立が深まり、ハインリヒへの反論として『非政治的人間の考察』を書き上げる(結果的に、トーマスにとって汚点になるのだが)
リタ・タルマン『ヴァイマル共和国』(長谷川公昭・訳) - logical cypher scape2では、戦後のマンについて書かれているが、共和制の擁護者となり、むしろ理性の側に立つようにドイツ国民に呼びかけるようになったとあったので、ちょっと落差に驚いた


ドイツ知識人(アルフレト・ヴェーバー、経済学者ゾンバルトなど)による、フランス革命批判
フランス・カトリックは、兵役や公債購入を呼びかける。
社会党アルベール・トーマが戦争省次官、後に軍需大臣となり、新しい組織化を試み、ルノー工場の生産性向上に努める。

ギリシャなどの外国、あるいはアルジェリアなど植民地、ひいては中国からも労働者が呼び寄せられるようになる。
労働者だけでなく、植民地からの兵役があったことは木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2にもあったが、このあたりのアジア・アフリカ諸国の人たちが第一次世界大戦に関与していたことは、6章の話へと繋がっていく。

アメリカ人テーラーによる管理法テーラー・システムは、まず、ドイツで適応された。
次いで、フランスではクレマンソーがテーラー・システムの導入を命じる。
さらにロシアでは、レーニンがこれに興味を持ち、テーラー・システムが社会主義には必須だと考えるようになる。トロツキーやスタハノフも。

トロツキーが各国の反戦社会主義者(リープクネヒトとか)とつながりをもっていた話
フランスは国内の反戦主義者たちの動きを警戒して、スペイン国境へ追い込み、スペイン側に情報を流す。トロツキーらはいったんスペインに捕まったあと、アメリカへ行ったりしている。
ロシア革命勃発時に、国外にいたレーニンは慌てて帰国を考える。それで、ドイツの「封印列車」に乗って帰国することになるのだが、これについてはロランが嫌悪感を示している(つまり、革命家たちの気持ちは分かるし、彼らの誠実さ自体は疑わないが、しかしこんな後から何を言われるか分からない倫理的瑕疵のある手段をとるんじゃないよ、と)

  • 反戦知識人の組織化――クラルテ・グループの誕生

レーモン・ルフェーヴルとポール・ヴァイヤン=クーチュリエが反戦運動を立ち上げることを考えて、ロランやウェルズなど各国の知識人へアピール文を送付する。
これにいちはやく反応したのがバルビュスで、彼は彼なりの候補者リストを挙げる。
しかし、バルビュスは思想についてはあまり問わずに、広がりをもった運動を構想していて、反戦とは言えないような人たちも含まれていた(アナトール・フランスとか)。このため、このリストを見たロランは、この運動を忌避するようになる。
とはいえ、こうしてクラルテ運動が始まっていく。

第4章 くたばれ、おやじたち――戦後精神の形成

第4章は、クエンティン・ベルによるケインズについての回想から始まる。ただ、話の枕であって、本章全体からすると分量は短め。
ケインズや、あるいはブルームズベリー・グループの人たちはヴェルサイユ条約のあり方に反対していたけれど、それ以外の人々はそんなことなかった、と。
ドイツへの復讐心、ウィルソンへの期待

ルカーチはもともと、ベラ・バラージュ、マンハイムなどとともに「日曜サークル」という勉強会をしていたが、戦後、共産党へ入党して、サークルのメンバーを驚かせる。

  • 終戦直後のドイツ文学

ヘルマン・ヘッセデミアン』(1919)(新しいものの始まりと戦争)
アーノルド・ブロンネン「父親殺し」(1922)(古い秩序の死)
レマルク『還りゆく道』(1931)(戦死者を讃える教師たちへの不信)

ヒトラーは戦後しばらく軍務についていて、調査任務をしていた先でナチスへ入党することになる。戦後、ナチスは復員兵士が主な支持者となっていく。ここでも、塹壕共同体がキーワードとなっている。

  

  • レーモン・ルフェーブル

フランス社会党第三インターナショナル加盟について、クラルテ運動がかかわっている。
1919年3月 ロシアで第三インターナショナル結成
同年11月 フランスでの選挙で社会党議席減らすが、ルフェーブル、ヴァイヤン=クーチュリエが議員になる
1920年2月 社会党ストラスブール大会 
ルフェーブルは「虐殺された世代」から年長世代への訣別となる演説を行う。
5月 フランスで大ストライキが行われ、ルヴェーブルは共産党設立へ動き始める
6月末 ルフェーブルは、第三インターナショナルの大会に参加すべく、ひそかにロシアへ
9月末 漁船で帰国する際、嵐に巻き込まれそのまま行方不明
12月 社会党トゥール大会 第三インターナショナルの参加を巡り左右分裂。フランス共産党結成のきっかけとなる。
思想的には決裂したルフェーブルとドリュ=ラ=ロシェルだが、ルフェーブルの死にあたって、ドリュは讃辞を述べている。

ヘミングウェイがパリでガートルード・スタインと出会い、スタインが「ろくでなし世代」=ロスト・ジェネレーションと名付ける話。

批評家のプリス・パランは、戦前に高等師範学校で教えられた「個人」の価値のむなしさを覚える。
マルセル・デアは、犠牲者を多く出した若者世代と社会との齟齬を感じる。のちに、社会主義者から国家社会主義者へ

  • パリ・ダダ

ブルトンは友人が自殺したことを契機に、ツァラをパリへと呼び出し、アラゴンらとともにダダの活動を始める。
彼らは表向きは戦争からの影響などは語らなかった。
しかし、ブルトンは担架兵部隊として従軍しており、先の友人の自殺も戦争が遠因であった。
ルイ・アラゴンは衛生部隊の医師であり、そこでブルトンと友人となった。
一方のツァラだが、ルーマニア出身であり、家族などが戦火に巻き込まれていたはずで当然戦争と無縁ではなかったものの、彼自身は戦場体験をしなかった。


ダダは、チューリッヒキャバレー・ヴォルテールで生まれた。
ここでレーニンにも簡単に触れられている。当時、同じ地区に住んでいて、キャバレー・ヴォルテールに行ったことがあるのも分かっているが、しかし、性格的にはダダとは相容れなかっただろう、とかなんとか。
ダダは戦時下の無秩序ゆえに成立したのだろう、と筆者は論じる。
戦後は、知的遊戯やオナニズムに過ぎないとも言われた。
パリ・ダダは、「モーリス・バレス裁判」というパフォーマンスを行った。右派のバレスに対する架空の裁判で、ブルトンが裁判長を演じた。
本書では、その際のブルトンツァラのやり取りが長く引用されている。
このやり取りの意味合いが、自分にはうまく読み取れなかったのだが、ツァラブルトンからの問いかけに上手く答えられていない。
筆者はここに、世代間の齟齬を見て取っている。


世代間の齟齬は、クラルテでも見られた。
フランス共産党成立後、若手世代が急進化していき、当初、バルビュスが集めた保守的な知識人は編集部から離れていく。

第5章 「不安の世代」の登場

戦後世代について
つまり、戦争にはいかなかった年少世代。戦争に行った兄に対して、その弟の世代。
彼らは共通して、孤立感、自分への自信のなさ、不安などを吐露している。
その後の青年世代が共通して抱える問題が出てきた時期。
のちに「アイデンティティ」や「モラトリアム」を論じるエリクソンもこの世代

  • ダニエル・ロップス『われらの不安』(1927)/サルトル自伝『言葉』(1963)

ともに「父なき世代」というような表現をしている。
なお、サルトルは、1915年、(日本でいう)中学校時代にポール・ニザンと出会っている。ニザンについては6章で改めて出てくる。

  • マルセル・アルラン「新しい世紀病について」(1924)

『新フランス評論』に掲載され、ボーヴォワールをはじめ多くの若者に影響を与えた論文。
例えばボーヴォワールは「神の不在によって慰められない」というような一節に共感したらしい。

  • 年長者から

マンハイム「世代の問題」(1928)
「世代」を対象とした先駆的な研究で、戦後世代のことを念頭になされていた。ハイデガー存在と時間』(1927)が引用されているが、そこでも「世代」が論じられている。
オルテガはこの世代のことを論難している

Verlassenheit(ドイツ語で見捨てられるという意味・英語ではローンリネスloneliness)について論じている。
これは、全体主義を生み出した概念だとされる。
孤立・孤独とは異なる
孤独が一人であることに対して、ローンリネスはほかの人と一緒にいるときに現れる。
孤独は自己内対話が可能、ローンリネスはそうではない。
自分がいなくなっても世界には何の影響もないのだという感覚のこと。
ローンリネスは、自分への信頼と世界への信頼が同時に失われる状態
かつて、老齢のような限られた状況での経験だったが、それが大衆の日常的経験になった、と。
なお、筆者は、アーレントハイデガーとの関係のことも少しは影響したのではないか、ということを書いているが、ちょっとゴシップめいた話ではある。

  • ソレル『暴力論』(1908)

戦後ドイツの青年層に熱狂的に読まれ、シュミット、ユンガーに影響を与えた。
なぜそれほど受容されたか、まだあまり研究されていない。
今村仁司が、ソレルの政治的崇高論に受容の理由があったと論じている。
崇高とは栄光と名誉を希求すること
それを与えてくれるのは民族と国家
ソレルはファシストでも民族主義者でもなかったが、そちらへ向かっていくことへの歯止めはなかった。
筆者は、アーレントのVerlassenheitは、政治的崇高を求める精神的基盤として捉えるべきだろうと論じている。


不安感は指導者への希求へ
ドリュ=ラ=ロシェルは、大西洋横断をしたリンドバークを英雄視していた。
また、彼の指導者希求・英雄礼賛は、フランス人民党のジャック・ドリオへと向かうことになる。

第6章 さらば、ヨーロッパ――モロッコ戦争

この章は、アジア・アフリカとの関わりから、戦後の若き知識人層の中に「反ヨーロッパ」観を見いだしていく。

  • ヴェトナムと中国

1920年 フランス社会党トゥール大会
まず、ヴェトナム青年グェン・アイ・クォクによる演説が引用されている。
第一次大戦でフランスは、ヴェトナムから徴兵する代わりに戦後の独立を匂わせていたのだが、その約束は果たされていなかった(イギリスとインドも同様)。これに対する行動を求める演説
へえそんな人がいたのかあと思って読んでいると、「のちのホー・チ・ミン」と種明かし(?)がなされて、「なんと!」となった。


続く節では、周恩来と鄧小平が出てくる。
第3章で既に出てきたが、労働者不足を補うためにフランスでは中国人労働者を入れていた。
これに対して中国側でも、「勤工倹学」という留学プログラムが作られる。
フランスで働きながら勉強する、というもので、これを利用して周恩来1920年に渡仏する。
しかし、実際には働き口が少なくて仕事が得られなかった方が多かったよう。
中国少年共産党ヨーロッパ支部というものが作られて、周恩来は機関誌に携わる。その際、ガリ版を担当していたのが、「勤工倹学」での留学生で最年少だった鄧小平だった、と。
また、周恩来も鄧小平も、グェン・アイ・クォク(ホー・チ・ミン)に紹介されて共産党へ入ったとか
今後の歴史への伏線が張り巡らされている感(?)があった。

この章の主な内容は、章タイトルにもある通りモロッコの話
仕事を得られなかった中国人たちは大使館前でデモをしたりしていて、官憲の取り締まりを受けている。とはいえ人数的には少なくて大した話ではなかったはずだが、フランス政府がこうした動きに敏感に反応していたのは、当時、モロッコ問題を抱えていたため。


1912年 モロッコの多くはフランスの保護領、北部がスペイン領に
1921年 アブデル=クリム兄弟によるリフ民族解放闘争
彼らは、スペインに留学したことでスペインから搾取されていることに気づき、対スペイン闘争を始める。スペインに対して連勝を果たし、独立を宣言する。
しかし、こうした動きを懸念して、1924年頃からフランス軍がスペイン軍と連携し始める。
アブデル=クリム兄弟は当初、フランスと事を構えるつもりはなく、フランスが介入してくることも予期していなかったようなのだが、結果的にフランスとも戦わざるをえなくなる。


フランス国内では、当時はフランス共産党にいたジャック・ドリオが、議員当選の際にアブゲル=クリム兄弟へ連帯を表明し、保守派を怒らせるが、その後もドリオは、親モロッコ・反体制運動を続ける。
ロッコ問題については社会党も保守派とあまり違いがなく、レオン・ブルムは植民地政策の論理をそのままなぞったような答弁をしている。
共産党も世代により意識に差があった。


ロッコでは、フランコが准将へ昇進
1926年リフ敗北
当初は勝っていたわけだが、フランスとスペインの本国がそれぞれ本腰を入れて軍隊を増強してくると当然勝てるわけはなく、というところかと。
ロッコ問題とそこからフランコが頭角を現わした話は斉藤孝『スペイン戦争――ファシズムと人民戦線』 - logical cypher scape2にもあったので、(自分の中で)話が繋がった

ブルトンツァラは決裂し、1924年シュルレアリスム宣言・溶ける魚』発表
1924年 アナトール・フランスが亡くなった際、シュルレアリストとクラルテ・グループはそれぞれアナトール・フランスを批判する文章を発表し、両グループの接近が始まる。
ブルトンは、ポール・クローデルへの反論の中で植民地蜂起を支持
また、ある夫人のドイツ人と結婚できないという発言を、エルンストへの侮辱ととらえたブルトンは「ドイツ万歳!リフ民族万歳!」と突撃を行う。
バルビュスによる反戦アピールに、シュールレアリストたちと『哲学』グループが署名
雑誌『哲学』グループは、アンリ・ルフェーヴルを中心としたグループ
ルフェーヴルとブルトンの接近(初めて会った際に、ヘーゲルフロイトについて話したエピソード)
『哲学』グループの中には、ポール・ニザンも。
ニザンはサルトルの親友であり、2人の1年先輩にはカンギレムがいる。
この頃のニザンは、レーニンとヴァロワ(フランスの北一輝的な存在)の両方を読んでいて、左右両方の思想の間で揺れていた。
シュールレアリストの親モロッコ反戦運動を受けて、ドリュ=ラ=ロシェルはアラゴンへの決別を宣言する。


シュルレアリストと『クラルテ』の共同宣言に『哲学』グループも署名
声明の中に「モンゴル」という語が出てくることに注目する。
ロシアをモンゴルに喩える「タタールのロシア」という表現は、この当時、よく見られていた。ソ連からの共産化をアジアからの侵略に喩えていた
一方、若者世代には反ヨーロッパ意識が生まれており、実際には傾向の異なる複数の若手グループがロシア革命などに熱狂したのは、ソ連をアジアに見立てた上でヨーロッパへの訣別だったのではないか、と筆者は論じている。


このあたりの「反ヨーロッパ」の話は、本書の冒頭で引用されたヴァレリーとの対比でもあると思われる。
ヴァレリーは、第一次大戦の衝撃としてヨーロッパ文化への幻滅があったことを述べているものの、筆者はヴァレリーの文章全体にエスノセントリズムがあり、後続世代との差異を指摘している。


ニザン共産党入党
結婚相手の従兄弟がレヴィ=ストロースで、民族学への関心はニザンからの影響だとか


1926年以降、3グループの結束はゆるんでいく。
ブルトンらも共産党へ入党するも、共産党全体主義的体制へと向かっていく。

本書は最後に、ベンヤミンが戦後世代について論じた論文を紹介して終わっている。
固有の経験や文化を喪失した「国民」(=「大衆(オルテガ)」「ダス・マン(ハイデガー)」)の誕生
人々は、経験を失ったことに対して、経験を補填することを求めるのではなく、経験の貧困そのままを認められることを望むという分析
筆者は、ここに現代に繋がる問題がすでに現れているのだ、ということを述べて結んでいる。


シュルレアリストたちの政治思想って今まであまりよく知らなくて、海野弘『万国博覧会の二十世紀』 - logical cypher scape2で、1931年のパリ植民地博について、シュルレアリストたちは反対の立場をとっていた、というのを読んで「へえ」くらいに思っていたので、そことも話が繋がって面白かった。