林健太郎『ワイマル共和国』

タイトル通り、ワイマル共和国14年の歴史についての本
1963年刊行の本だが、分かりやすくて読みやすい本であった。とりあえず、ワイマル共和国史について最初に読むにはよさそうな本であった。
というか、なんでパウル・フレーリヒ『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』 - logical cypher scape2から読み始めたのか、自分。ルクセンブルクの伝記もそれはそれで面白くはあったが、よく分からない箇所も多かったわけで、そのあたりがこの本を読んで大分解消したし、ルクセンブルクやドイツ革命周りで知りたかったことは、大体こっちの本に書いてあったなあと思った。
いやしかし、14年しかないのだなあ、ワイマル共和国
なんか途中で「共和国から成立して5年」みたいなこと書いてあるんだけど、そこに至るまでの出来事が多すぎて、読んでいて「え、まだ5年しかたってないの、このボリュームで」と思ったりした。

第一章 共和国の成立

帝政ドイツにも憲法と議会はあったけれど、政府は議会とは独立に構成され、議会には責任を負っていなかったという意味で、議会政治ではなかった。
大戦末期にヒンデンブルクルーデンドルフが、いよいよもうまずいと掌をかえして、社会民主党、中央党、進歩人民党による内閣が成立する
キール軍港の反乱がおきて、その後、ドイツでもっとも保守的とされたバイエルンミュンヘンでまず革命が起きて、バイエルン王が退位する(連邦国家なので皇帝以外にも王が各地にいた)
なかなか退位しなかったウィルヘルムもオランダへと逃亡。
ドイツの左翼として、オップロイテとスパルタクス団という2つの集団がいた
オップロイテは金属労働組合から端を発したグループで、スパルタクス団はリープクネヒトやルクセンブルクを中心としたグループ
どちらも、暴力革命により議会主義を排して社会主義化を目指すという点で一致していたが、革命の戦術に違いがあった(後述)。
オップロイテは、ルクセンブルクの伝記にもでてきていたんだけど、いまいちどういうグループかよく分からなかった。

第二章 民主主義か独裁化

で、労兵協議会(ソヴィートないしレーテ。評議会と訳されることが多いような気がするけど、本書では協議会となっている)とは何か
これは、マルクスエンゲルスの理論の中にもレーニンの思想の中にもなかったもので、ロシア革命の中で自然発生的にでてきた組織だという。
そもそもロシアには労働組合がなく、労働者の代表機関がなかったため、革命の中でそれに代わるものとして生じた。また、当時は戦争中で、兵営も人々の生活拠点になっていたので、労働者と兵士による組織となった。
レーニンは、これをボルシェヴィキ独裁のために利用した。
もともと、労働組合が存在していた西欧では不必要な仕組みであったが、大戦中に労組が戦争遂行のための組織と化していたドイツでは、あらためて労働者を代表する組織としてレーテがつくられ、また、ロシア革命の影響もあり、革命の「シンボル」として重視されるようになった、と。


社会民主党の首脳部はだいぶ保守化していて協議会を警戒していたが、協議会を構成している労働者たちの多くは社会民主党の支持者で、国民議会に権力を委ねることになる。
仮政府の首脳となったエーベルトは、軍のグレーナーとの間に密約を交わしていた。評議会の動きに軍が反発していたため


ソヴィエトないしレーテの説明が分かりやすかったというか、今まで全然ちゃんと分かってなかったことがわかった。

第三章 一月蜂起

オップロイテとスパルタクス団との違い
先に述べた通りオップロイテは労働組合がベースなので当然労働者たちのグループだったのに対して、スパルタクス団はルクセンブルクなど言論人中心なので、実は労働者とは距離があった。このため、スパルタクス団は基本的に街頭デモを通じて労働者に働きかける方法をとったのであり、そこから自然発生的に革命へといたるということを考えていた。それに対してオップロイテは指導部が秘密裏に作戦を立ててそれにしたがって革命を起こすという考えだったので、スパルタクス団のやり方とは相いれなかった
スパルタクス団は、別の左派グループと一緒になりドイツ共産党を結党するが、オップロイテはこれへの参加を拒んだ。
1月、ベルリンでデモが発生し、これが革命につながると考えたリープクネヒトらが革命委員会を発足させ、一月蜂起が起きる。
いわゆるスパルタクス団の蜂起などといわれているが、本書ではこれはスパルタクス団の蜂起ではなかった、と述べている。確かにリープクネヒトが参加していたし、また、オップロイテからも参加者がいたが、しかし、あくまでもデモから自然発生的に生じたもので、スパルタクス団やオップロイテが起こしたものではなかった。
で、結局ぼやぼやしている間に、軍が出動して鎮圧されてしまう。その鎮圧の過程で、リープクネヒトとルクセンブルクも暗殺されてしまう。
ところで、当時から極左の中でスパイの挑発行為によるものという説があったが、これは証拠が薄弱であると退けられている(ルクセンブルクの伝記に書いてあった話だが)。
ローザ・ルクセンブルクについて一節をさいて論評されている。
彼女は非妥協的な革命家でありつつ極左的冒険主義を退け、ボルシェヴィキ一党独裁を批判したので評価されているが、これはやや偶像化されたものである、と。内乱こそスパルタクス団にとって有利だと述べたりしていたし、また、大衆の「自発性」への宗教的に近い信頼があって、しかし、それはある種の幻想だったのだと。
この「自発性」への信頼については、伝記の方でも繰り返し述べられていた。あちらの方では、その点をルクセンブルクマルクス主義者としての優れたところとして評価していたけれど、まあ、マルクス主義者じゃない側からみると、そういう感じの評価になるよなあ、と思った。


終戦から「スパルタクスの蜂起」までの流れや、ローザ・ルクセンブルクの人物評価など、いまいちよく分からなかった部分も含めて、本書の1~3章までを読んで大分整理できた。
これくらいの感じの解説が読みたかった。


仮政府のノスケは、軍隊を出動させて極左への取り締まりを行った。このため、皆殺しのノスケなどと言われて忌み嫌われた。
また、仮政府は、軍隊とは別に義勇軍もつくったが、これは右翼的な人物たちの根城みたいになって、のちのち共和国への禍根となってく(ひいてはナチスへとつながっていく)。

第四章 憲法と平和条約

最初の国民議会選挙が行われ、社会民主党、中央党、民主党、国家人民党、独立社会民主党、人民党が議席を得る。
ベルリンはまだ焼け野原だったので、ワイマルで議会が招集され、エーベルトが議会によって大統領に選出される。
社会民主党、中央党、民主党による連立政権ができるが、この3党のつながりを「ワイマル連合」と呼ぶ。国家人民党などの右翼、独立社会民主党などの左翼を除いた中道政党のあつまり。
ワイマル憲法の特色として、大統領権限の強さと「経済生活」の項における社会主義的政策が挙げられる。
しかし、後者は、共和国がそもそも経済的になかなか安定しなかったので、あまり実現はしなかった。


とにかく、政党がたくさん出てくるし、内閣が次々替わるし、連立の顔ぶれも変わるしで、となかなか大変なんだけど、巻末に、選挙結果の表と内閣の年表がついているので、都度、それを見返しながら読むと、あまり混乱せずにすんだ。

第五章 カップ一揆

ミュンヘンでは、アイスナーが政権を担い安定させていたが、アイスナーが暗殺されたのち、「バイエルン・レーテ共和国」が宣言されるも、直後に共産党が再度革命を起こして政権を担う。しかし、ベルリンの中央政府は共産政府を許さず、軍が送られ壊滅する。
もともと保守的なミュンヘンでは、そもそも共産政権は受け入れられていなかった。左翼のアイスナーがミュンヘンで受け入れられていたのは、ミュンヘンに反ベルリン意識があったため。共産政権壊滅後は、ミュンヘンは(やはり反ベルリン意識によって)右翼化していく。右翼団体が乱立し、その中の一つに「ドイツ労働者党」があり、その党員としてヒトラーがいた。
一方ベルリンでは、右翼政治家であるカップによるカップ一揆が起きる。このため政府は一時ベルリンを離れるが、社会民主党の指示によりベルリン市民はゼネストによる抵抗を行い、カップ一揆は失敗に終わる。
ゼネストを率いたのは労働組合だったので、組合は労働者内閣を要望する。結局、組合の要望通りの内閣は作られなかったが、内閣の顔ぶれ自体は変わる。
新内閣成立に伴い、国防相のノスケが退職し、代わりにゲスラーが就任する。そして、ゲスラーのもとで軍の長官となったのがゼークトであった。
ノスケは、反共産主義者であり、軍隊による取り締まりを行い、国軍を強化させた人物ではあるが、一方的に軍を助長させてはこなかった。これに対してゼークトは、政府から半ば独立した集団として国防軍をつくりあげていき、ゲスラーもこれを容認した。
1920年選挙において、社会民主党は退潮する(163議席→102議席


ドイツが連邦国家であるというのは知っているけれど、実際それがどういうものかという認識は全くなかったので、それぞれの州で革命が起きたりなんだりしているのが、最初よく分からなかった。
ワイマル史としては、このバイエルンの存在が結構重要っぽい
あと、地図見ると驚くのだが、プロイセン州が巨大で、ワイマル共和国の半分くらいはプロイセン州になっている。第二次大戦後は分割されたので、今はないらしいが。

第六章 内外の難問

コミンテルン加盟をめぐり独立社会民主党が分裂する。
独立社会民主党はそもそもベルンシュタインやカウツキーによる党で、彼らは、戦争中に戦争反対を掲げて、社会民主党から離れたが、一方で、リープクネヒトやルクセンブルクのような暴力革命には批判的で、その点では社会民主党とあまり変わりはなかった。
一方で、普通の党員には極左寄りの者たちも多く、コミンテルン加盟の賛否が割れる。結局、コミンテルン加盟派は共産党と合流し、コミンテルン加盟反対派は社会民主党と合流することになり、独立社会民主党は消滅する。ただ、コミンテルン側もかなり傲慢な態度であったため、これに反発して共産党にはいかなかった者たちもいる。
その後、ドイツ共産党は、コミンテルンの方針転換に何度も振り回されることになる。
当時のドイツ共産党の指導者レヴィは、コミンテルンとの意見対立があった。
マンスフェルトで蜂起が起きるが、コミンテルンは当時世界革命路線を撤回していたので、これを批判する。そして、それはレヴィによるマンスフェルト蜂起批判と全く同じ内容だったのだが、レヴィはコミンテルンと対立していたので、罷免されてしまう。
ソ連のラデックは、右翼であるゼークトと接触し、ドイツ軍との関係を深めていく。
ドイツの外務省の中には、「東向き政策」と「履行政策」という二つの政策があった。前者はソ連と手を結び、ポーランドと戦うというもの。後者は、ヴェルサイユ条約での賠償を履行して西側諸国との協力関係を強化するというもの。
内閣は基本的に履行政策側だったのだが、外務省内部には「東向き政策」推進派がいた。
賠償などの内容を具体化させるジェノア会議において、西側諸国がソ連にも賠償を要求する権利があることを示唆され、ドイツは、「東向き政策」に転換して、ソ連と単独でラッパロ条約を締結する。
外相ラーテナウ暗殺
ヴィルト内閣の瓦解とクーノ内閣


コミンテルン加盟後、ドイツ共産党は基本的にコミンテルンの方針通りに動くのだが、このコミンテルンの方針というのが結局ソ連国益に沿ったもので、ソ連の事情が変わるところころ変わる。ドイツでの革命に反対したり、革命させようとしたり。

第七章 一九二二年の危機

イギリスは反対していたがフランスがルール占領を行う。
(賠償をめぐって、イギリスは無茶な賠償だという認識がありこれを緩める方向をもっていたが、フランスは厳しい対応をとっていた。ルール占領についても、英仏のこうした差異があった)
クーノ内閣は「消極的抵抗」策をとるのだが、工業地帯での生産力低下はむしろドイツ自体に対してダメージを与えることになる。
「消極的抵抗」のせいだけではないのだが、悪名高いインフレーションが発生する。
中産階級が没落し、コンツェルンが出現する。
もともとドイツは労働者階級の中から経済的に豊かになった中産階級がうまれ、この層が結構厚かったのだが、ここが没落していく。
クーノ内閣が退陣し、シュトレーゼマンの「大連合」内閣(ワイマル連合+人民党)が発足する。
シュトレーゼマンは人民党の右派政治家で、戦中は「勝利の平和」論者であった*1が、戦後、ドイツを立て直すためには「履行政策」をとるしかないと方針転換した。
彼の首相としての功績は、消極的抵抗の中止とレンテン・マルクの発行による、インフレーションの解消。
レンテン・マルクを発行したのはライヒスバンク総裁のシャハトであり、この功績によって称賛されている。ただ、このアイデア自体は蔵相のヒルファーディングに由来するのだが、彼はレンテン・マルク発行前に辞職してしまったので、あまり功労者とみなされていない(ヒルファーディングは学者として優秀だったが、政治家としては実行力不足だったと評されている)
地方政府において、左右それぞれのクーデターが起きる。
まず、バイエルンの右翼的政権発足について
バイエルンでは「ドイツ労働者党」がナチスに改名し、突撃隊を創設するなどして勢力を拡大していた。
バイエルン人民党がカールを擁立して右翼政権をたちあがるのだが、それと同時期に、ルーデンドルフを戴いたヒトラー一揆計画(ミュンヘン一揆)が実行される。バイエルン人民党ヒトラー一揆と一瞬だけ手を結ぶのだが、ヒトラーナチスをよく思っていなかったので、即座にヒトラーは切り捨てて、ナチスミュンヘン一揆自体は失敗する。
一方、ザクセン、テューリンゲン両州は、もともと共産党の地盤が形成されており、そこにコミンテルンの方針転換があって、革命が起こされた。しかし、中央政府によって即座に鎮圧される。
ところで、社会民主党は革命に否定的だったので、ザクセン、テューリンゲンの鎮圧には賛成していたのだが、一方、同じようなことが起きているバイエルンが黙認されていることの不釣り合いに対して批判が起き、社会民主党は政府を離脱することになる。

第八章 シュトレーゼマン時代

6つの内閣で外相をしたシュトレーゼマン
履行政策のもと、シュトレーゼマン外交は効果をあげる。
ドーズ案が成立し、共和国の経済は次第に安定していく。
本書は、かなりシュトレーゼマンを高く評価している(シュトレーゼマンは、ナチスからは平和主義と批判され、戦後は逆にシュトレーゼマンの平和主義は本気ではなかったと批判されたらしいが、筆者は、こうした評価はあたらないとしている)。


この時期、2つの重要な裁判が行われる。
1つはミュンヘン裁判で、ヒトラーを被告としたものだが、ヒトラーはこの裁判の席で弁舌をふるい評価を高めていく。有罪判決を受けるものの、かなり軽めであり、獄中でも優遇をうけ『わが闘争』を書くことになる。
もう一つはマグデブルクでの裁判で、ナチス党員がエーベルトの戦中におけるストライキを国家反逆罪だったと訴えたもので、エーベルトは無罪とされるが、国家反逆だったという事実認定はされる。これがエーベルトの積み重なった心労へのとどめとなり、彼は早逝する。
ドイツの官僚は、戦前の体制がそのまま維持されており、それ自体は仕方ないとしても、司法官に右寄りの者が多く、戦後の裁判でも、右翼に甘く左翼に厳しい判決がでがちで、上の2つはそれらを象徴している。
マグデブルクの裁判でいわれているのは、いわゆる「匕首伝説」で、ドイツが戦争に負けたのは国内の左翼のせいだ、という右翼のプロパガンダ


エーベルトが亡くなったため、1925年に初の大統領選挙が行われた。
第1回投票の結果は、ヤレス(国家人民党・人民党)1040万、オットー・ブラウン(社会民主党)780万、マルクス(中央党)390万、テールマン(共産党)190万、ヘルパッハ(民主党)150万、ヘルト(バイエルン人民党)100万、ルーデンドルフナチス)30万であり、過半数をこえなかったため、第2回投票が行われることになった。
第2回投票では、第1回投票で立候補していなかった者も立候補できるようになっており、右派政党は、ヒンデンブルクを担ぎ出す。
第2回投票では、ヒンデンブルク1465万、マルクス1375万、テールマン193万となり、ヒンデンブルクが大統領となった。
中央党のマルクスとの差は僅差であり、左派の敗因は、共産党が独自候補を下げなかったためだと、分析されている。
そもそも大戦中の参謀総長であったヒンデンブルクが、大統領となる、というのは諸外国にとっては衝撃であり、そもそもヒンデンブルク自身、当初は辞意していた。
ただ、彼は良くも悪くも無思想の人間であり、そのため、請われれば大統領になるし、そして、意外にも(少なくとも当初は)あまり右傾化することもなく、立憲体制の擁護者となった。
また、現場たたき上げの軍人であったヒンデンブルクは、参謀出身のゼークトをあまりよく思っておらず、独断でことを進めていたことをきっかけに、ゼークトを罷免する。
しかし、その後、国防軍に実力者として登場してきたシュライヒャーは、ゼークトよりもさらにくせ者であった。共和国が滅ぶ要因となる人物である。
防相もまた、ゲスラーからグレーナーへと人が代わる。

第九章 経済復興と社会主義

1920年代後半、ドイツは経済復興をとげ、労働時間の改善、失業保険の充実がみられるようになる。労働時間については政策的に掲げられた8時間/日自体は達成されなかったものの、相当改善することになった。
ただし、経済復興はアメリカ資本の流入によるものであり、短期信用が多く、その基盤は脆弱だった。
のちの共和国崩壊の要因として、社会民主党に対して「社会化(国有化)」政策を行わなかったことが批判されることが多かったらしいが、筆者は、そもそも当時のドイツで社会化は現実的ではなかったと述べている。
一方で、社会民主党の責任として、筆者は、官僚(司法官)改革と中産階級の取り込み・民主主義の擁護をしなかったことを挙げている。
司法官が右翼に甘かったことは既に述べた通りだが、それを統制する改革が必要だった、と。
また、ドイツはそもそも中産階級が発展していた国だったのに、社会民主党はこの層をあまりに軽視していた。次第に、労働者階級の利益だけを代表するようになってしまったため、国政政党としてよくなかった、と。また、イデオロギーとしては社会主義を掲げていたために、民主主義の擁護ということができていなかった、と。
軍艦建造の予算に、社会民主党が反対するという出来事が起きる。この建造費はそれほど高いものでもなく、ヴェルサイユ条約に反するものでもなかったのだが、社会民主党内部に反軍拡の声が強く、これに反対していた。その後の選挙でもこれを争点としてしまう。
選挙後成立したミュラー内閣は、改めて軍艦建造の予算案を提出するのだが、社会民主党はやはり反対する。この予算案自体は成立するのだが、社会民主党ミュラーおよびその内閣は、自分の提出した案に自分に反対するというよく分からないことをする羽目に陥る。

第十章 経済恐慌の襲来

ドーズ案は5年の計画だったので、その後の計画としてヤング案が提案される。
ヤング案は賠償的にも軽くなるだけでなく、ラインラント撤兵も約束され、かなりドイツにとってよい内容であった。
しかし、右翼によるヤング案反対運動が起きる。右翼にとっては、賠償額減額よりもヴェルサイユ体制の打破が重要だった。右翼の大物政治家のフーゲンベルクとヒトラーが結びつき、シャハトが右翼化する。
そして、シュトレーゼマンが若くして亡くなってしまう。
世界恐慌に先駆けて、アメリカ資本の流入減少による失業が増加。
失業保険の国庫負担が間に合わなくなり、失業保険の負担率増加を行おうとして、蔵相ヒルファーディングは失脚してしまう。ヒルファーディングはマルクス主義経済学者でもあったので、資本家側が攻撃してきたのである。
ヤング案はなんとか議会を通過して成立するが、議会の論点は、再び失業保険の負担増へと向かう。
中央党のブリューニングが妥協案を提出するが、社会民主党がこれを蹴って、ミュラー内閣と社会民主党は下野することになる。
ここで陰謀家のシュライヒャーが暗躍する。彼は自分が表立って政治の舞台にたつことはせず、傀儡をたてることを画策しており、ブリューニングに白羽の矢を立てた。ヒンデンブルクにブリューニングを推薦し、ブリューニング内閣成立
これ以降、議会の多数派ではなく、大統領が擁立した内閣=大統領内閣時代が訪れる。

第十一章 大統領内閣

ブリューニングは、大統領の緊急令発令により法律を成立させ、さらに国会解散へと手を打つ。
しかし、ブリューニングの誤算があった。
ブリューニングは、国家の危機に際して、大統領の権威を高めることで対応しようとした。そしてそれは、ワイマル憲法が想定していることでもあった。
しかし、この頃のヒンデンブルクへ右翼政治家たちが接近しており、もはやヒンデンブルクは、ブリューニングが期待するような憲政の支持者ではなくなっていた。ヒンデンブルクはもともと帝国軍人であり、右翼からの働きかけを受ければ、容易にその思想に染まっていった。
また、国会解散でブリューニングは勝てると思っていたのだが、選挙結果は、ナチス共産党の躍進、社会民主党の漸減、国家人民党の大幅減であった。
ミュンヘン一揆に失敗した後のナチスは、2つの新戦術を掲げていた。
1つは資本家への接近、もう一つは国防軍と対立しないこと
ナチス躍進により、海外資本の引き上げが起きて、経済はますます悪化した。
ブリューニングは独墺関税同盟を成立させることで、経済の回復を図ろうとした。既に多民族帝国でなくなったオーストリア共和国は、民族的にはドイツ人で構成されており、独墺の接近は自然なことであったが、しかし、ヴェルサイユ体制は国境の変更を禁じていた。むろん、関税同盟であればそれに抵触することはないが、英米への事前の根回しをブリューニングが怠ったため、フランスが反発。資本引き上げによりオーストリアの銀行がつぶれ、連鎖的にドイツ経済の悪化へと繋がった。
共産党ナチスが接近
ナチスと資本家を仲介したシャハト
グレーナーは反ナチだったが、シュライヒャーがナチスに接近
そして、大統領選挙へヒトラーが出馬することになる。これへの対抗馬として、もう高齢のヒンデンブルクが再び擁立され、再選することになる。
もともとヒンデンブルクは右翼政党の支持により大統領になったが、今度は、反ナチスの左翼政党の支持による当選で、ヒンデンブルク自身は変わっていないのに、支持政党がまるっと逆転する事態となった。
ナチスとの協力関係を模索するシュライヒャーにより、グレーナー辞任劇、ブリューニング罷免が起きる。


ナチス共産党は、いずれも共和国体制の打破を目指していて、議会制民主主義を軽んじているという意味で似ていたようだ。
また、共産党は、社会民主党の方をより危険視・敵視していて、ファシズムの危険性を軽視していた、というのもあるみたい。

第十二章 共和国の最期

ブリューニングの後、シュライヒャーが担ぎ上げたのは、パーペンであった。
パーペンは国民的には無名の人物で、シュライヒャーとしては傀儡にうってつけではあった。
1923年7月選挙の直後、国会が解散され、11月にも選挙が行われた。
この7月選挙と11月選挙の間に、ベルリンでストが起きたのだが、この際、ナチス共産党の共闘があった。資本家への接近を続けていたナチスが、もとの支持層である労働者への人気をてこ入れするために行われた協力関係であったが、あまり功を奏さず、11月選挙においてナチス議席は減少する。ナチス人気はここでピークをすぎたと思われた。
ところで、シュライヒャーの傀儡としてたてられたパーペンだが、パーペンにも野心はありシュライヒャーと対立した。
結局パーペンは失脚し、シュライヒャーはついに傀儡者を見つけられず、自身で内閣を組織することになる。
シュライヒャーはヒトラーを警戒し、ナチス内部の反ヒトラー派であるシュトラッサーを通じてのナチス工作を行うが、既にナチスは完全にヒトラー派で占められており、この工作は失敗する。
そして、パーペンによるシュライヒャーへの反撃が始まる。元々反ヒトラーだったパーペンが、ここにきてヒトラーと組む。また、首相となったシュライヒャーは、あらゆる階級に対して政策を約束せざるをえず、元々の支持基盤であったユンカーと対立してしまう。
この結果、シュライヒャーは退陣。翌年、シュライヒャーはナチスによって殺されている。
ヒンデンブルクヒトラーを嫌っていたが、まだヒトラーをコントロールできると思っていたパーペンにより、ヒトラー内閣が成立する。パーペンは副首相の立場につくが、しかし、ヒトラーをコントロールできるわけもなく、授権法の成立などをなすすべもなく見守るしかなかった。


全然どうでもいい話だけど、ミュラーとかゼークトとか出てくると、どうしても銀英伝がちらつく

*1:これに対して「和解の平和」を主張した3党がのちのワイマル連合となる