パウル・フレーリヒ『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』

ローザ・ルクセンブルクの評伝
上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2で参考文献としてあがっていて、検索してみたら図書館に置いてあったので。
ほんとはもっと軽めの本を読みたかったので、思いのほか分厚いかつ二段組でひるんでしまったが、かなり飛ばし読みしつつ読むことにした。


筆者は、社会民主党左派で、ドイツ革命当時はルクセンブルクとは対立していた人だったらしいが、本書は、ルクセンブルクageの本でルクセンブルクへの賞賛で満ちている。が、それゆえに、読みにくいというか、どれくらい差し引きながら読めばいいのか分からないので、その意味でも飛ばし読みになった。
賞賛というのも、人格に対する賞賛も結構書かれているが、どちらかといえば、マルクスをより正しく理解できているからすごい、予言が正しかったからすごい、というものが多く、このあたりもマルクス理論わかっていないと図りかねるものがあった。
まあ、ルクセンブルクの原稿や書簡から多く引用されており、ルクセンブルク研究にあたってはまずおさえるべき本なのだろうとは思うけど。
なお、この本の初版は第二次大戦勃発直前に出ている。

第1章 青春

当時、ロシアの支配下にあったポーランドの出身
1870年生まれ
全然関係ないけど、ディアギレフ(1872年生まれ)とかミシア・セール(1872年生まれ)とかと同世代かー

第2章 ポーランドの運命

チューリッヒへ亡命し、大学進学。
チューリッヒというのは、当時、ロシアや東欧からの亡命者が集まってくる街らしい。これは1880年代の話だが、のちにチューリッヒでダダ発祥の地になるのもそれが理由だったはず。
大学では最初、動物学を学んだらしいが、結局は政治・経済を学ぶようになる。動植物への関心は趣味の領域として、その後も持ち続けていたらしい。
理論家として、社会主義革命とポーランドの民族問題の関係について取り組む。
民族自決について原理主義的な立場はとらず、それぞれの地域の特性ごとに対応が異なると考え、ポーランドについては、まずは革命が先、という立場をとった。
それで年長世代とかとも対立したけど、とかく若手の理論家としてめちゃ優秀だったみたいな話

第3章 マルクスの遺産の継承

こちらもまた、マルクス理論を自家薬籠中のものとしていて、敵う者なしだった的な話
ヨーロッパは、1860・70年代に戦争があったあと、80・90年代で景気が回復して好景気へ入っていく。帝国主義の安定期に入り、マルクスが言っていた定期的な恐慌は20年ほど起きておらず、また社会主義運動・労働運動も合法化されていった。
帝国主義の確立された時期について、ルクセンブルクは、日清戦争から日露戦争の頃までという書き方をしていて、英仏独米と並んで日本についても指摘がある。
そうした中、ベルンシュタインによって修正主義が提唱される。革命ではなく議会を通じて改良していけばよい、という考えで、これが広がっていった。
マルクス理論を完全に自分のものとした上で研究していて、のちの戦争や大恐慌をちゃんと予言しているのだ、すごいぞ、ということを筆者は述べているが、ここらへんは自分が経済学分からんので、よく分からんかった。マルクス理論は科学的、というのが大前提で書かれているしな、これ。
あと、革命の必然性と人民の意志の関係の話とか。マルクス主義的にいえば革命は歴史の必然として起こるわけだけど、ルクセンブルクは、その中で人民の意志という意志をすごく重視する(このあたりは後の章でレーニンとの比較でも触れられている)。

第4章 政治権力の奪取

ルクセンブルクは修正主義に反論する。「改良か?革命か?」という論文でどっちもだ、と説く。最終的には革命が必要であり、その点で修正主義は退けつつ、プロレタリアートの意識を高めるための手段として改良というのは位置づけられる。また、社会主義者がイギリスで入閣したりしていたのだけど、入閣しちゃうとその内閣の方針に従わざるをえなくなるわけで、ブルジョワ国家のもとでは、社会主義者は入閣するのではなく議会で反対者の立場にいるべきだ、ということを論じている。

第5章 1905年のロシア革命

章タイトル通り、1905年のロシア革命血の日曜日事件とかの方)の話
ボリシェビキとメンシェビキの分裂とか
ブルジョワ革命の段階はブルジョワに任せればいい(メンシェビキ)、というのに対して、フランス革命が成功したのはプロレタリアートを取り込んだから、1848年の革命が失敗したのはブルジョワプロレタリアートを排除したから、だから、ブルジョワだけに革命を任せてはいけない、という対立だったらしい。
この頃、レーニンが党の超中央集権主義的な方針を打ち出し、ルクセンブルクがこれに反論する。中央集権体制自体には賛同しているのだけど、レーニンのはやりすぎというか、その都度、下からの批判・意見を受けて柔軟に対応できる組織じゃないといけない、という話をしている。
筆者の解説としては、当時のロシアはまだグループの組織化が全然なされておらず、無数の小グループがばらばら動いていただけだったので、レーニンはそれを統一しようとしていたわけで、実際のレーニンは柔軟さももちあわせていたけど、まああえて強いこと言ってるんだよ的なことかな、と。一方のルクセンブルクにしても、党を自由な集まりと考えていたわけではなく、あくまでもマルクス主義の枠内で、という縛りがあったんだよ、と。

第6章以降

第6章 前線で
第7章 新しい武器
第8章 資本主義の終焉をめぐって
第9章 反帝国主義のたたかい
第10章 両端の燃える蝋燭のように
第11章 世界大戦
第12章 1917年のロシア
第13章 ドイツ革命
第14章 死にいたる道

時折、病気についての記述があり、あまり身体が強くなかったようである。
ポーランドからドイツへ亡命してきているわけだけれど、ポーランドでも活動していたっぽい。第二インターナショナルには、ポーランド代表として参加しているようで。また、ポーランドで投獄されていたこともある。
資本主義と帝国主義とが必然的に結びつくということを、マルクス主義的に証明した。資本蓄積のメカニズムで、資本主義化していないところ(要はアジアアフリカの植民地)からとっていく必要があることを示した、と。このあたりは、なんかマルクス理論内部のテクニカルな話と絡んでいるようだった。
党の学校というところで、マルクス経済学を教えていたこともあるらしい。一方的に講義するスタイルではなく、生徒から考えさせるタイプの授業をする先生だった、と。
第一次大戦直前、インターナショナルでは、社会主義者は戦争が起きた場合に平和のために行動するという指針を持っていたのだが、これが実際には全然だった。すでに開戦していたオーストリア共産党がインターナショナルの総会の場で、自分たちには期待しないでくれ的なことをのべて、さらにドイツ社会民主党も開戦に反対しない。これに対するルクセンブルクの失望
この当時、社会主義運動の中心というのはドイツであって、しかし、ドイツ社会民主党指導部というのは次第に右傾化していく。
世界大戦が始まった後、ルクセンブルクはまた捕まったりしていて、ロシア革命の時もドイツ革命の時も獄中に。
ロシア革命は、農民をうまく取り込んだのがポイントだったのかな。
レーニンボリシェヴィキルクセンブルクについて、基本的な考え方は一致していたが、細かい政策や戦術面では批判もしていた、と(ボリシェヴィキの農地改革とかをルクセンブルクは批判していたりしている)。レーニンは一時、ルクセンブルクを批判していたこともあるが、それは誤解に基づくものであったとか。
戦争中、社会民主党の左右分裂は激しくなって、左派が独立社会民主党ができたりするが、これはルクセンブルクと対立していたカウツキーとかがいるところ。さらに最左派は、社会民主党とは別に、スパルタクス・ヴントを結成する。リープクネヒトやルクセンブルクらを指導層としつつ、弾圧を逃れるため、なかなか大規模にはなれずに活動していた(戦後、ドイツ共産党に)。
ドイツの帝政が崩壊した後、ある政治家が速やかに「共和国!」と叫んだから、共和制になったエピソード、『リラと戦禍の風』でも読んだけど、こっちの本だとリープクネヒトが叫んだことになっているなー。と思ってWikipedia見てみたら、シャイデマンが宣言したあと、2時間遅れてリープクネヒトも宣言しているのか。
リープクネヒトらの方が、ルクセンブルクよりも先に釈放されている。
で、ルクセンブルクスパルタクス・ヴントは、プロレタリアート革命を進行させるために活動を続けるのだけど、社会民主党が本格的に牙をむき始める。
スパルタクスの叛乱なるものはなかった、と本書は述べる。というのも、この段階でルクセンブルクは大衆の革命意識を高めることをまずは目標としていて、一揆やテロルなどは考えていなかった。経済ストライキ(賃上げ闘争)が社会主義化の要求・実現へとつながっていくという考えだった(かつては、政治的主張が賃上げに堕してしまうから経済ストライキになるのはよくない、といわれることもあったが、ルクセンブルクはむしろ賃上げ闘争からこそ社会主義へつながっていくという考え)。
というか、ルクセンブルク自身、まだスパルタクスは本格的に革命を担えるような組織になっていない、という認識であったらしい。
本書曰く、スパルタクスの乱というのは、社会民主党指導部の罠にかかった結果だという。
スパルタクスプロパガンダを打っている新聞社ビルを武装占拠することになって、それを口実に攻められる。ルクセンブルクは、事ここに至っては行動あるのみ、と主張するも、リープクネヒトは交渉を行おうとする。が、この交渉はまったくうまくいかず、事態は悪化していった、と。
で、リープクネヒトやルクセンブルクに対しては暗殺命令も出るようになって、最終的に殺されることになる。
ルクセンブルクの未刊行原稿とかは、虐殺者たちによって処分されており、また残っていたものについてもナチスによって処分されていたりしている。
ところで、ルクセンブルクすごいという立場から書かれており、ルクセンブルクの予言や見込みは正しかった、というのを随所で述べているがゆえに、逆になんでうまくいなかったんだろうねという話にもなり、筆者自身、彼女とレーニンは一体何が違ったんだろうか、という問いを最後に発していたりもする(体力不足だったのか、それともどこか素質に欠けるところがあったのか、と)。
そういえば、議会と評議会(ソヴィエトやレーテ)の違いっていまいちよくわからないな。議会ではなく評議会へ、というのがロシア革命にはあって、ドイツ革命でも評議会はできているんだけど、これがうまくいかない。前者はブルジョワの議会、後者はプロレタリアートの議会ということなんだろうけど。