上田早夕里『リラと戦禍の風』

第一次世界大戦下のヨーロッパ、西部戦線で瀕死となったドイツ人兵士イェルク・ヒューバーが、不死者である伯爵に助けられ、リラという少女を護衛するよう依頼される。リラと行動をする中で、銃後の困窮を知った彼は、情報や食糧の闇取引に携わるようになる。
戦争がシステム化した時代に、人間性をなくさないために人間をやめた男の話。


上で「不死者の伯爵」と書いた通り、本作品は「魔物」が登場するファンタジーではあるが、ファンタジーが主眼ではなく、あくまでも第一次世界大戦をメインテーマとした作品となっている。
ということをわざわざ書くのは何故かというと、読むに至った経緯とも関係している。
元々、刊行当時に書評を見かけたりして、上田早夕里の歴史物の新作ということで気になっていたが、なかなか読めずにいた(それ自体はこの本に限ったことではない)。そうした中で、ファンタジー要素の存在が何となく気がかりで、ずるずると優先度を下げていった経緯がある。
その後、上海三部作の残り2作品が刊行されて、次に上田作品読むならこっちからだなあと思ってて、今年の「海外文学読むぞ」が一段落したらそろそろ『ヘーゼルの密書』を読もうかなという自分内順位付けがあった。
のだが、最近出た『軍靴のバルツァー』の新刊を読んでいたら、第一次大戦やドイツ革命が急に気になりはじめた。その際は、普通に歴史の教科書とか読み直して、「なるほど、こんな感じかー」とすませていた。
そんな時、たまたま偶然『LOG-WORLD』をめぐる思い出 - Plus αを読んだ*1。これは、上田が八杉将司について回想している記事だが、そういえば上田作品にも第一次大戦ものがあったのではないか、と思い出して、本作を読むに至ったというわけである。
上述記事では

私は当初、八杉さんは普通の歴史小説として第一次世界大戦を書くつもりだと思っていたので、『LOG-WORLD』をSF作品として執筆中だと知らされたときには、とても驚きました。でも、原稿を持ち込むためには、これが最良の方法であったことはよく理解できます。日本の読者にはあまり馴染みのない第一次世界大戦という題材を、エンタメ方面の読者にもすんなりと呑み込んでもらうには、さまざまな工夫が必要で、そういうことを出版社側からも求められたりします。

と書かれている。『リラと戦禍の風』がファンタジーになっているのも、そうした工夫の一環ではないかと思う。
本作では、飢餓に苦しむベルリン市民のため、農家との闇取引に関わっていくという展開があり、その展開自体は、ファンタジー要素なしでも論理的には不可能ではないだろうが、しかし、ファンタジーなしで実現させるためにはとてつもない長さと複雑さが必要になってくる。たぶん、その長大さと複雑さに耐えられる読者と出版社はそうそういない。
もちろん、ファンタジーならではのテーマ設定もなされているとは思うので、ファンタジーは方便にすぎない、とまで言ってしまうと言い過ぎだが、例えば、魔法バトルがあるとか歴史の影で吸血鬼が暗躍したとかそういう類いの話ではない、ということである。


全部で三部構成となっている。
第一部が導入、第二部が伯爵の過去、第三部が本編といった感じだが、長さ的には第一部と第三部は同じくらいある。
主人公のイェルク・ヒューバーは、元は床屋だったが、西部戦線でドイツ軍兵士として戦っている。ある戦闘で瀕死になった際、伯爵によって魂の半分を抜き取られる。その半分は、虚体という身体の中に入れられて、伯爵の館へと連れてこられた。伯爵は、リラという少女の護衛をしてほしいという。魂の状態になったヒューバーは、他の人間の身体の中に入ることもできる。伯爵は、答えあぐねるヒューバーの魂を、別の兵士の身体の中に入れる。そこは激戦地であるヴェルダンで、火炎放射器を抱えての戦闘を経験する。
結局、ヒューバーは伯爵からの申し入れをのむことになる。一方、人間の魂は肉体を失うと生きていけないので、ヒューバーの肉体自体は、なお西部戦線にとどまって戦い続けることになる。ヒューバーは虚体と実体の二つに分裂したことになる。もう人を殺したくないと思うヒューバーと、戦友を見捨てることはできないと思っているヒューバーに分裂した、ともいえる。
リラという少女は、伯爵の友人が伯爵に託していった子どもで、ポーランド人である。ポーランド分割のことがあるので、彼女はドイツ人のことを憎んでいる。一方、床屋として生きてきて学のないヒューバーは、100年以上前のことを言われてもピンときていない。
伯爵の家には、魔術のかけた扉があって、同じく呪文の刻まれている扉と瞬間移動できるようになっている。それを使って、リラは夜中にパリへとでかけている。
パリのエッフェル塔では、銃後で苦しい生活を送る各国の女性たちが、夜に夢を見ている間、生き霊となって集まってきていて、リラもそのメンバーの1人であった。
リラを追いかけていたヒューバーもそこに混ぜてもらうことになり、次第に、銃後の食糧難の厳しさを知ることになる。
一方、ヒューバーの実体は、無の魔物ニルから声をかけられて、社会主義革命についてささやかれるようになる。


ちなみに本書では、一貫して「欧州大戦」という呼称が使われている。
上述した通りヴェルダンの戦いが出てくるが、それ以外に、戦車を初めて目にするシーンなども出てくる(ソンムのこととして書かれていたかどうかはちょっと忘れた)。
前半は、戦線での悲惨な状況が描かれているシーンが多い。
火炎放射器は、放射器部分と燃料タンク部分をそれぞれ違う兵士が受け持ち、つまり2人一組で運用していたことが書かれているが、燃料タンクが被弾して燃料漏れするとたちまち火達磨になってしまうという恐怖と隣り合わせだったことが分かる。
また、塹壕の中で獲ったネズミの死体を結びつけて誇らしげにしていた兵士の様子とか。
後半では、銃後の悲惨さが描かれることになるが、ベルリンの食糧不足は本当に過酷である。そもそも、戦争初期の頃に、穀物を人に振り分けるという理由で、豚を処分してしまっていたらしい。これにより、タンパク源の不足に陥る。馬が死ぬと、主婦たちが群がってきて肉をとっていく様子や、ネズミ肉を食べていた様子が描かれている。ヒューバーとリラは、ベルリンの食堂でネズミ食を食べるのだが、とにかく不味いらしい。さらに、この食堂はまだマシな方だ、とも説明されている。


リラはポーランド人、伯爵はルーマニア人、また人狼のミロシュという登場人物もいるのだが、彼はセルヴィア人である。
本書は、こうしたヨーロッパの小国出身者から見た第一次世界大戦という描き方もしている。ヒューバーは、小国の歴史に無知なドイツ人で、大国に翻弄された小国の歴史を知って悩むことになるのだが、このあたりの歴史に無知なのは現代の日本人の多くもそうだと思うので、ヒューバーは読者と近い視点で物語世界の中へと導入してくれる役割を果たしている。
ポーランドについては、既に述べた通りポーランド分割があるが、それとは別に、リラがヒューバーに話した話として、大戦初期のベルギーでのドイツの悪行がある。ドイツはフランスと戦うにあたり、中立であるベルギーの領土を横断しているのだが、その際に、図書館を炎上させている。ところで、本書は、第二次大戦についてもエピローグ的に書かれているのだが、この図書館、第二次大戦時にもドイツ軍によって燃やされている。これは結構経緯が非道い話で、第一大戦後、ドイツはこの図書館の被害に対して賠償を行っているのだが、アメリカが、ドイツではなくアメリカの寄附で復興という旨の碑を建てようとする。これは当然揉めて、結局この碑をこの図書館に建てることは見送られるのだが、その経緯を知らずその碑が実際に建てられたという無知、もしくはあえてそういう「誤解」をしてみせて、再度、図書館を燃やしたという。


ルーマニアについていうと、これはさらに遡って、ヴラド公の時代の話になる。
当時、ルーマニアという国は、ワラキア、モルダヴィアトランシルヴァニアに分かれていて、トランシルヴァニアハンガリー支配下にあった。ヴラド公はワラキアの国王として、オスマン帝国と戦ったわけだが、政略や裏切りが渦巻く中で、冷酷な王ともなっていく。このあたりの歴史物語も書かれていて、結構面白かった。
伯爵は、ヴラド公の部下だが、色々あって不死人となってしまい、以降、ルーマニアの独立を悲願として戦い続けてきた。
19世紀にルーマニアの独立は達成され、それ以降、伯爵は人間の争いごとに関与することからは手を引く。欧州大戦において、ルーマニアは連合国側として参戦し、トランシルヴァニアの奪還をもくろむことになるのだが、伯爵はそれについては冷ややかに傍観している。


リラは人間、伯爵は魔物化した元人間なのに対して、ミロシュは生まれついての人狼であり人間ではないのだが、人間に育てられたために、いつか自分も人間になれるのではないかという望みを持ちながら、セルヴィア人として戦っている。
伯爵とは古くからの知り合いだが、欧州大戦に対して傍観者然とした態度をとる伯爵に対して、ミロシュは一兵士として積極的に戦っている。


スパルタクス・ヴントのローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトも、ヒューバーたちの物語に直接絡んでくるわけではないが、登場する。
自分は「スパルタクス団」という名前で覚えていたので、「そうか「団」ってヴントの訳語だったのか」という今更の気付き。
まずは、戦中にデモを先導する者たちとして登場し、最後に、反共義勇軍(フライコール)に殺されるところも描かれている。
ルクセンブルクとリープクネヒトについては、わりと好意的に描かれていて、戦中において2人が大衆から支持を得ていた様子も描かれている。
一方で、社会主義や革命については、否定的に描かれている。ヒューバーや伯爵は「社会主義」というものの啓蒙的態度(上から目線)を胡散臭くみている。ヒューバー(実体)は、革命に接近するものの、この「上から目線」への懐疑自体は共有しているようだった。
本作では、無の魔物ニルというのが、基本的に悪役として描かれているのだが、ニルはその名の通り「無」を好み、人間たちが「無」に突き進むように耳元で甘言を弄する者として描かれている。「戦争」も「革命」もニルが好む「無」として描かれている。
ただし、この物語のテーマとして、この欧州大戦は、誰か倒すべき悪がいてそれを倒せば終わるような戦いではない、というのがあって、ニルについても、個々の兵士を助長したりはしているが、大戦全体をどうこうするような存在にはなっていないようである。
「一度動き始めると止まらなくなってしまって戦争はもう終わらないのではないか」ということが、兵士や市民の間の諦観として語られたりするシーンもあったりする。
こうしたシステムとしての戦争への抵抗として、人間性(ヒューマニズム)があるのだけど、しかしそれを発揮するために主人公は人間をやめてしまうという逆説が描かれていて、このあたりは、単に歴史小説というだけでなく、ファンタジーであることの意味がある。また、リテラルな意味でのSF要素は本作にはないが、テーマ的にはSFにも通じそうな話ではある。


物語としては、ドイツ11月革命がクライマックスであり、戦争の終わりというだけでなく、ヒューバーと、ヒューバーの虚体のモデルになったフランス人兵士、ヒューバー(実体)、ヒューバーの戦友である絵描きの物語もここで決着がつけられ、彼らの間で暗躍したニルも一時的に倒される。
ただ、エピローグ的にその後についても描かれていて、上述した、スパルタクス・ヴントの末路だけでなく、第二次大戦についても概略が触れられ、最終的に、第二次大戦後でしめくくられている。

*1:このブログ記事自体は5月の記事なのだが、上田は7月から12月にかけて、ちょうど作家生活20周年を振り返る記事を自分のブログに書いており、その12月分にかんするリポストが自分のTLに流れてきたので、読みに行って、ついでに過去記事を遡って読んだ