大江健三郎『「雨の木」を聴く女たち』

1982年、大江が47歳の年に刊行された連作短編集
いわゆる私小説的な作品群だが、かなり物語化が施されている。有名だし読んでおくか、くらいのテンションで読むことにしたので、あまり内容も知らない状態だったが、癖の強い登場人物が次々出てきて、これがなかなか面白い。
最終的にどういう作品だったかと聞かれると難しいのだが、読んでいる最中は「これ、面白いなー」と思いながら読んでいた。

頭のいい「雨の木」

ハワイで行われたシンポジウムに参加した時の話。
ビートニク詩人が出てくるが、大江は実際にハワイ大でのシンポジウムに登壇して、ビートニクアレン・ギンズバーグと対話したことがある(Wikipedia参照)
障害福祉施設で開催されたパーティに参加し、そこで庭に生えている「雨の木」を見せてもらう。
夜で板根しか見えなかったが、施設の女性から、雨の木という名前の由来を教えてもらう。

「雨の木」を聴く女たち

「頭のいい「雨の木」」を読んだ作曲家T(武満徹のこと)が「雨の木」の曲を作り、それを聞きに行くところから始まる。そして、「頭のいい「雨の木」」ではあえて書かなかったことについての話が始まる。
それは、学生時代の友人である高安カッチャンが、ハワイで「僕」のもとを訪れたというエピソードである。
この高安カッチャンというのが独特な人物で、「きみが小説を書いているというので僕も書いてみることにしたよ。君みたいなのが書くのがそんなにヒットするなら、僕が書けばどんな傑作ができるだろうね」(意訳)みたいなことを宣う人物であり、まあなるほどお察し、みたいな人ではある*1。なお、アルコール依存症である。
学生時代、アメリカに渡り、フォークナーの講演を聴いたといって手紙を送ってきたりしている。この手紙を受け取った文学部の友人たちは、フォークナーはこんなこと言わない、また高安が吹いてやがるなみたいな態度だったのだけど、後日、この講演の翻訳が出回って、高安が正しかったことがわかる、みたいなエピソードがあったりする。
で、この高安カッチャンが、ハワイ大の寮に泊まっている「僕」のもとを訪れてきて、共通の友人の葬儀について、文句をつけてきたのである。
その後、泊まっている部屋に、高安カッチャンが「こっちのコールガールを抱いていないだろう」と言って中国系アメリカ人の女性を連れてくる。「僕」にその気がないとわかると、勝手におっ始める。その際、キュウリを尻に入れるプレイをしていて、『万延元年のフットボール』を想起させるのだが、実際、後で『万延元年のフットボール』ネタだったことが分かる。
で、この中国系アメリカ人の女性というのは、コールガールではなくて、高安カッチャンの妻であり、帰国後、彼女から「僕」へ手紙がくる。高安と小説の合作をしてほしいという手紙と、その後、高安が事故死した、という手紙である。彼女は「頭のいい「雨の木」」も読んでいる。

「雨の木」の首吊り男

メキシコ大学で講師をしていた際のエピソードが語られる。
実際に大江健三郎自身、メキシコ大で戦後思想史を教えていたことがあるらしい。以前大江健三郎『同時代ゲーム』 - logical cypher scape2を読んだ際に、主人公はメキシコ大で歴史を教えているから、大江とは違う人物だ、みたいなことを書いた気がするのだけど、そこはそうではなかったということになる。ただ、『同時代ゲーム』の主人公は日本書紀を教えていたはずなので、そこは異なるだろう。
アシスタントをしてくれた日本文学研究者のカルロス・ネルヴォという人物との話が中心だが、『同時代ゲーム』ではカルロスという美術史家が出てきた。マリナルコに行った話がこちらにも出てくる。
話としては、カルロスが末期癌らしいと文化人類学者のY(山口昌男か)から聞かされて、カルロスのことを回想するところから始まる。
恩師であるW(渡辺一夫のこと)が亡くなり、また、半ば共依存的な関係だと思われていた息子が、しかし、父との間に距離をとるようになってきたこともあって、依頼を受けていたメキシコ大学の仕事を引き受けることにした、と。
で、「僕」が英語で講義して、カルロスがそれをさらにスペイン語に翻訳するという形で講義を行うようになる。
カルロスは日本文学研究者だが、どちらかといえば文学者のゴシップの方に興味がある。日本留学した際に、日本人はもっと勉強しろといって僕をいじめてきた、僕は楽しく勉強していたいのに、みたいなことを言ってくるところもある。
さて、タイトルに「「雨の木」の首吊り男」とあるように、「首吊り」ないし「自殺」がテーマというかモチーフというかの作品で、語っている時点では、「首吊り」というのは軽い冗談程度で口にした話だったのではないかと思っているのだが、思い出しているうち、わりとシリアスな感じで「首吊り」についてカルロスと話してたんだっけ? となっていく。
君がいないと首を吊っていただろう、みたいなHAIKUが残ってたりする。
さて、このカルロスというのはイケメンらしくて、「僕」の講義には、カルロス目当ての女性たちが来ていたりする。
で、「僕」は、カルロスの元妻であるセルマさんと、大使館員を名乗る謎の日本人、山住さんからの接触を受ける。セルマさんは、アルゼンチンからの亡命者で、カルロスとの元共同研究者でもあった。カルロスは今は別の女性と結婚している。アルゼンチンからの亡命者は政治セクトがあって、場合によってはカルロスの命を狙うこともあるということを、暗に伝えてくる。
しかし、カルロス曰く、亡命者のセクトというのは単に内ゲバごっこをしているだけであって、ガチの過激派ではないし、むしろ、そんなことをわざわざ自分に伝えてくるな、と。セルマは変な妄想を抱いているだけで放っておけばいいのに、山住さんがそれを助長している、とも。
しかしまあどうすればいいかと「僕」は思案していたのだが、そこに妻から電話がかかってきて、息子が思春期と父不在のストレスで一時的に失明したと知らせてくる。すっかり取り乱した「僕」は、マンゴーを買い込み、4日間何もできずに引きこもりに陥る。
そこから引っ張り出してくれたのが山住さんで、山住さんとカルロスが「僕」を無理矢理酒宴へ連れ込む。
さらにその後、正式に日本へ帰る算段がついて、お別れパーティが開かれることになる。カルロスからもらった絵には、首吊りしているようにも見える木が描かれたもので、カルロスは、自分は痛いのが本当に嫌なので、もし癌になったら首を吊って自殺したい、という。今の妻はカトリックで自殺を許してくれないので、その時は誰か頼むよ、みたいな内容で、この「誰か」というのは、先妻のセルマさんのことで、彼らの関係がよい方向に変わっていて、冗談の種として話していた。
しかし、回想している時点で、カルロスは本当に癌になってしまったようなので、果たしてどうなってしまったのだろうか、と。
カルロス、セルマさん、山住さんもなかなかエキセントリックな人物たちであり、彼らに翻弄されるお話で、面白く読めてしまう。
橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scape2によると「理由のよく分からない自殺」が日本文学の特徴だと世界的には思われているらしくて、「首吊り」をめぐってカルロスと「僕」が話すことになる背景にはそういうこともあるのだろう、多分。

さかさまに立つ「雨の木」

ペニーからの手紙で始まる。
「「雨の木」を聴く女たち」でもペニーは「頭のいい「雨の木」」を読んでいたが、今度は「「雨の木」を聴く女たち」を読んで、それに対する抗議を送りつけてくる。つまり、高安カッチャンを、あまりに貶めた描き方をしている、と。
マルカム・ラウリーについては、ここまでもちょいちょい出てきたけど、ここでかなり本格的にラウリーの話になる。ラウリーとのその妻の関係を、カッチャンと自分の関係に見ているペリー。また、カッチャン自身が、ラウリーを読み込んで自分の創作メモに引用しているのだが、その引用が、ラウリー評論からの孫引きになっていて、(それをさらにペリーが手紙に引用して、それをさらに「僕」が書くという)引用の引用の引用……みたいな状態になっている。
ペニーは、「僕」を含め大学時代の同級生たちは、高安へ同性愛的感情にも近い敬慕の念を抱いていたに違いないと述べ、「「雨の木」を聴く女たち」で、「僕」とペニーをセックスさせようとしたのも、擬似的な同性愛的関係を結ばせようとする企みだったのだと述べる。キュウリプレイも「僕」の長編小説を意識したものであった、とも。
さて、その一方で、「僕」は再びハワイへ行くことになるのだが、表向きの用事(シンポジウム)とは別の用事もあった。それは、広島関連でつながりをえることになった、ハワイ在住の宮沢さんからの依頼であった。宮沢さんは、在ハワイ日系人たちとの間で、反核運動を行っていて「僕」に講演の依頼をしたのである。
さて、ハワイでのシンポジウムでは日系アメリカ人からの質問に「僕」がうまく答えられないでいると、客席にペニーがいて、かわりに論破するということがあって、ペニーと再会し、その後、高安カッチャンの埋葬について聞く。
埋葬というより散骨であって、それは高安カッチャンの希望によるものなのだが、彼の死生観があまりにも「僕」自身のものと近くて、「僕」はそれが実は無意識的に高安カッチャンから影響を受けていたことに気付く(このあたりから高安評価が変わっていく感じがある)。
ペニーと「夫婦のような食事」をとったあと、ミュージシャンをしている、息子のザッカリー・K・タカヤスの話を聞く。死後、父親の創作ノートを持ち帰ったザッカリーは、それを元に楽曲制作を行い、そのアルバムがヒットする。ペニーは、高安カッチャンのアイデアを「僕」の手によって小説にしてもらおうと考えていたが、それは誤りで、息子の手によって音楽になることこそ、カッチャンのアイデアの活かし方だったのだ、と語る。
ライナーノーツには、やはりマルカム・ラウリーからの引用が書かれているのだが、そこにはカバラの影響もあって、転倒したセフィロトの木の話とか、地獄機械とかが出てくる。
シンポジウムで「僕」が登壇したセッションの座長が、ハワイの反核運動の中であまり評判のよくない人だったために、宮沢さんとの件がキャンセルとなってしまう。
再びペニーと過ごすことになるが、そこで「僕」核戦争に対する甘さ(核への恐怖を覚えているが、本当に米ソ間で核戦争が起きるわけはないと思っているのではないか)が批判されてしまう。
帰国後、ペニーから、「雨の木」のあった施設を訪れ、そして「雨の木」が焼失した旨の手紙がくる。


雨の木とセフィロトの木が重ね合わせられ、その転倒・消失と核戦争による世界終末の可能性が示唆される、というなかなか壮大な話になっていく。大江には核戦争への恐怖をテーマにした作品がいくつかあるらしい(未読だが)ので、ここでもその話を出してきたのだろう。ただ、この話しか読んでいないと唐突感はある。唐突感はあるんだけど、クライマックス感もあって、面白くもある。

泳ぐ男――水の中の「雨の木」

「「雨の木」を聴く女たち」の中で、久しぶりに短篇を書いていると述べられていたが、一方で、長編版『「雨の木」を聴く女たち』を準備していたことが明かされて、その中から公開できる部分としてこの「泳ぐ男」が書かれている、とされる。
ここまで基本的にハワイまたはメキシコの話だったが、「泳ぐ男」は東京で「僕」が通っているプールでの話となる。
泳いだ後に乾燥室へ行くと大体いつも居合わせることになる、学生の玉利君と外資系旅行会社のOLである猪之口さんとのことで話が進んでいくのだが、この猪之口さんというのが、玉利君を挑発するためにわざと水着を脱いだりしていて、最初「僕」は見間違いだったかと思うのだが、直接的に目撃するようになる。
さらに猪之口さんは、メキシコやスペインに海外旅行した際に強姦されたエピソードを、玉利君に聞かせるために、「僕」に話したりする。
そして、冒頭で予告されていたことだが、猪之口さんはバス停で強姦され殺されてしまう。
玉利君が犯人なのでは、と思った「僕」だったが、実際の犯人は、犯行現場を目撃されしばし逃走した後に自殺しており、高校教師をしている男であった。
しかし、その後、玉利君は目に見えて肥満しはじめる。また、犯行現場を見に行った「僕」のことを玉利君は尾行しており、玉利君の方は「僕」が犯人ではないかと疑っていた上に、玉利君はその日、猪之口さんと会っており、バス停に彼女を縛り付けたのは自分であったことを「僕」に告白する。
「僕」は、玉利君を助けるために猪之口さんを犯したという妄想をする。またその後、その玉利君を助ける役割を高校教師が果たしたのではないか、と考える(つまり、猪之口さんは玉利君を挑発・誘惑し、自分を襲わせるように仕向けたが、玉利君はすんでのところで射精に至らず首だけしめてしまう。それを目撃していた高校教師が玉利君の代わりに罪をかぶった、という妄想)。
「僕」は玉利君に対して、今まで同様鍛錬を続けるしかないよ、ということを告げるのだが、結果として再び贅肉を削ぎ落とした玉利君から、やりのこしを果たそうとするのではないか、という鬼気迫るものも感じてしまう


基本的に「死」をめぐっての連作短篇であり、それでいて登場人物たちのエキセントリックさがコミカルな感じになるような話が多かったが、しかし、最後の「泳ぐ男」は毛色が違って、猪之口さんは猪之口さんで癖は強いが、当然ながらコミカルさは全然なかった。
「さかさまに立つ「雨の木」」の黙示録的な結末を受けてることもあって、「泳ぐ男」のラストはかなり不穏なものがあるが、しかしカバラとか核戦争とかの話を持ち出した後、何故強姦殺人の話でしめたのか、あんまりよく分からんな感もある。
そういう全体としての立ち位置はよく分からないのだけど、しかし、一つの短篇として読むならそれはそれで面白い作品だったと思う。猪之口さんの描き方や扱いについて、「これはどうなのよ」と思うのだが、後半になって、それまでずっと黙っているだけだった玉利君が動き出してくるとサスペンス感も出てきた。玉利君を救うために罪をかぶって自殺する、というの、猪之口さんサイドからみると何だそれはって話ではあるのだけど、「僕」がそこに何かほの暗い魅力を感じているのかな、と思う。
本作で扱われる「死」は、基本的には他者の死であって、40代になって次第に身近な人間も死にゆくようになる状況で書かれている一方で、自死についても、作中の現在時点での「僕」はそれをシリアスには捉えていないのだが、何かしらの意味でチラついている。ただ明確には焦点を結ばない。
あと、「さかさまに立つ「雨の木」」とか「泳ぐ男」とかは、冒頭で前に出てきた作品を相対化するような展開で始まって、私小説的メタフィクショナリティみたいなものがあって面白かった。
そういえば、マルカム・ラウリーも読まなきゃダメなのかなあと思っていたが、まあ読まなくても別になんとかなるといえばなんとかなる感じだった。

*1:ところで、巻末の津島佑子による解説によると、同世代のワナビたちにとって大江健三郎というのが独特の羨望と嫉妬の対象になっていたようで、高安カッチャンはそれを反映したキャラ設定のようだ