橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』

ノーベル文学賞というと、日本では「村上春樹が受賞するかどうか」ばかり注目され、あまりにも受賞作が読まれていない、という現状を嘆く筆者による、ノーベル文学賞受賞作家・作品ガイド
下記の目次にある通り、13名のノーベル文学賞受賞作家が取り上げられ、それぞれ2作品ほどが紹介されている。
読んでいない人向けガイド、ということで、内容について詳細な解釈や批評を行うというより、技巧面を中心に、それぞれの作者の特徴・面白いポイントを紹介していくというものになっていて、読みやすい。


ノーベル文学賞というと、政治的なテーマの作品が獲りやすいとか色々言われるわけだけど、この本では、確かに受賞しやすい作品の傾向はあるが、単に政治的なテーマを扱っているだけで受賞できるわけではなく、受賞者の作品はどれも、小説として個性的で面白いのだ、ということが強調されている。


かくいう自分も、ノーベル文学賞は全然読んでいなくて、紹介されている作家も、ほとんど読んだことがない(名前は知ってるけどー程度)
筆者の専門が中国文学であり、また、卒論や学会デビュー論文が高行健であることもあってか、高行健の紹介が一番面白くて、この中で一番読みたいと思った。
それ以外だと、バルガス=リョサクッツェー、パムクとか

はじめに
ノーベル文学賞を読むということ


一九八〇年代
一章 めくるめく勘違い小説『眩暈』 エリアス・カネッティ
二章 ラテンアメリカ魔術的リアリズム ガブリエル・ガルシア=マルケス
三章 アラビア語圏のリアリズム  ナギーブ・マフフーズ

 
一九九〇年代
四章 「黒人」「女性」作家  ト二・モリスン
五章 「情けないオレ語り」と日本文学  大江健三郎


二〇〇〇年代
六章 中国語としての表現の追求  高行健
七章 ワールドワイドで胡散臭い語り  V・S・ナイポール
八章 「他者」と暴力の寓話 J・M・クッツェー
九章 非非西洋としてのトルコ  オルハン・パムク
十章 共産主義体制下の静かな絶叫  ヘルタ・ミュラー


二〇一〇年代
十一章 ペルー、あるいは梁山泊  マリオ・バルガス=リョサ
十二章 中国版「魔術的リアリズム」  莫言
十三章 信頼できない語り手  カズオ・イシグロ


終わりに

一章 めくるめく勘違い小説『眩暈』 エリアス・カネッティ

登場人物がみんなどこかおかしくて、それぞれの登場人物が互いに勘違いしながら進んでいく、というものらしい
ところで、ありえないような反応を書くことで滑稽さが生まれて面白い、というような解説をしているのだけど、この章をしめくくる文自体が、極端なことを言って滑稽さを生み出しているような文になっていて、ちょっと面白かった(つまり、カネッティのことを紹介する文章で、カネッティのパロディのようなことを試しているのではないか、と)

二章 ラテンアメリカ魔術的リアリズム ガブリエル・ガルシア=マルケス

百年の孤独』における、「魔術的リアリズム」、円環的時間とフラッシュフォワード、孤独や死の描き方などについて

三章 アラビア語圏のリアリズム  ナギーブ・マフフーズ

エジプト人作家で、エジプト社会における日常をリアリズムの筆致で描き、また、登場人物が個性的で面白い、とのこと
リアリズム小説と聞くとちょっとつまらなそうにも聞こえるんだけど、実に面白そう
この本では、ノーベル文学賞作品、ひいては外国文学を読む面白さというのは、知らない国や文化について面白さだ、ということが繰り返し述べられている。
特にノーベル文学賞は、なるべく色々な地域の作家に受賞させるようにしているので、全然なじみのない、非欧米作品が結構ある。だから、マイナーであんまり読まれないってのはあるだろうけど、むしろ、だからこそ、面白いんだってことが、この本では強調されているように思えた。
違う地域の人間が読んでも面白いのか、違う地域の人間が読んでその作品の意味や価値が分かるものなのか、ということに対して、筆者は、違う地域の人間が読んでも面白いような作品だからこそ、ノーベル文学賞に選ばれているし、また、違う地域の人間が読むからこそ感じられる面白さもあるよ、というようなことを書いている。


最後に、他の80年代の受賞作家についても簡単に触れられているが、『蠅の王』のゴールディングが83年に受賞しているって全然知らなかった。なんか、もっと昔の人だと思い込んでいた

四章 「黒人」「女性」作家  ト二・モリスン

モリスンは、アメリカ生まれ、アメリカで活動する作家で、章のタイトルにあるとおり黒人で女性であり、黒人であること、女性であることをテーマとしている作家、とのこと
なるほど、マイノリティ問題を描いていて、いかにも政治的で、ノーベル文学賞っぽいよねってところなのだが、
やはりここでも、本書は、差別や抵抗を描いているからという理由だけでノーベル文学賞を受賞できるわけではない、と繰り返している
それに加えて、小説として面白いのだ、と
ここでは、『ソロモンの歌』『ビラヴド』という長編作品がそれぞれ紹介されているのだが、謎解き型のプロット展開の妙、キャラクター造形のうまさ、超現実的要素ないしホラー的要素を加えることの面白さなどが解説されている。


邦訳リストがのっているが、ほとんどがハヤカワepiで、やっぱ海外文学はハヤカワ強いなーと改めて感じる

五章 「情けないオレ語り」と日本文学  大江健三郎

取り上げられている作品は『個人的な体験』と『万延元年のフットボール
章タイトルに「情けないオレ語り」とあるが、教科書でもおなじみの『舞姫』や『山月記』などにも触れながら、自意識過剰な自分語りが日本文学の特徴だと述べている*1
それに加えて、「理由のよくわからない自殺」というのも日本文学の特徴とされている、とあって「へぇー」だった
自意識過剰な自分語りが日本文学的というのは、まあ「私小説」って日本にしかない、とか言う話としてよく聞くけど、自殺の方はあまり知らんかった。
特に、この「理由のよくわからない自殺」は、日本文学の特徴、というのは海外においてよく認識されているらしくて、カズオ・イシグロはデビュー作である『遠い山なみの光』では、そのイメージを利用して、自殺を作品に取り込んだらしい。へえ〜


ノーベル文学賞の面白さの一つは、自分の知らない国や地域のことが書かれている面白さ
だとすると、日本について書かれている小説を日本人が読む場合、その面白さはあまりないのではないか
これに対して、例えば『万延元年のフットボール』は、1967年という、時間的に遠いことが書かれているから、やっぱり面白いよ、ということ書いている。


最後に、90年代に受賞した他の作家について
98年に受賞したサラマーゴはポルトガルの作家だが、ポルトガル人のノーベル文学賞受賞は、今のところ、サラマーゴ1人、らしい。
ノーベル文学賞は、元々は欧米人ばかりとっていて、それの反省で80年代以降、世界各地の作家が満遍なくとれるようにという傾向になったらしいが、欧米であっても、ポルトガル人は一人しかとってないとか、まあ偏りがあるんだなあ、と
ちなみに、サラマーゴは安部公房みたいな作風の人で、映画化もされているらしい


六章 中国語としての表現の追求  高行健

中国では、文革終結後に、海外文学が一挙に入ってくるようになり、高行健は、80年代にそうした海外作家、特にベケットからの影響を受けて創作を始めた作家である。
天安門事件を取材して書いた作品を書いたことがきっかけで、中国に帰国できなくなり、現在は、フランスで活動している。
こうした背景があるため、ノーベル賞受賞時も政治的な文脈で扱われたが、筆者曰く、高行健政治的主張は強くない作家だということだ。
ヨーロッパ系の言語から見たときに、奇妙に思える中国語の特徴を生かした小説を書く作家、ということになる
ここでは短編「おじいさんに買った釣り竿」と長編『霊山』が紹介されている
繰り返しのリズムによって、徐々に抒情的になっていく手法や
時制や格が表立っては表されない中国語の特徴、様々な要素を同格にして連ねていく文体によって、現在と過去、あるいは風景や行動を混ぜ合わせていく文章、といった特徴が挙げられている

七章 ワールドワイドで胡散臭い語り  V・S・ナイポール

ナイポールは、トリニダード・トバゴ出身でイギリスに移住してきた作家で、祖父がインドから来た人。インド、トリニダード・トバゴ、イギリスという越境作家
『ミゲル・ストリート』と『ある放浪者の半生』が紹介されているが、章のタイトルにあるとおり、登場人物や語り手が、個性が強烈で胡散臭い人物であることが、ナイポール作品の面白さとして挙げられている。

八章 「他者」と暴力の寓話 J・M・クッツェー

クッツェーは、アフリカーナ(オランダ系白人)の両親のもとに生まれ、その後、ロンドンへ移り働いたのち、アメリカの大学院でベケットの研究を行い学位を取得。アメリカの永住許可が下りなかったため、南アへ帰国し、以後、南アで活動している作家である。
本章では、『夷狄を待ちながら』と『敵あるいはフォー』を取り上げて、ポストコロニアリズムメタフィクションという関係から紹介している。
例えば、『敵あるいはフォー』では、黒人であるフライデイは言葉を持たず、他者から語られることでどのような人物かが規定されてしまう、非西洋に対するオリエンタリズムや知的暴力が、メタフィクションという形式をとって語られている、という

九章 非非西洋としてのトルコ  オルハン・パムク

パムクは、西洋化した知識人の目を通した非西洋としてトルコを描く
『黒い本』と『雪』が紹介されている
「優れた西洋と劣った非西洋」という価値観と、それに反する価値観のせめぎあい
「本当の」トルコは一体何なのか、というアイデンティティの探求
また、『雪』では、主人公のKaは主体性なく町を彷徨い歩くような話になっており、筆者は、カフカの『城』を意識しているのではないかと指摘している

十章 共産主義体制下の静かな絶叫  ヘルタ・ミュラー

ミュラーは、ルーマニアのドイツ系少数民族の村出身で、ドイツ語で小説を書いている。ドイツ文学とルーマニア文学を専攻、働きながら創作をしていたが、ルーマニア国内で活動を続けなくなり、以後、ドイツで活動している。
チェウシェスク政権下の全体主義を描いており、本章では『狙われたキツネ』『心獣』が紹介されている。


ミュラー作品の紹介の前に、ディストピア小説の系譜の説明がある。
具体的には、ザミャーチンの『われら』、オーウェルの『1984年』、そして、アレナスの「五つの苦しみ」シリーズが挙げられている。
この章を読んでいて、実は、メインであるミュラーよりも、アレナスの方がより気になった。


ネガティブな感情を爆発させるように書くアレナスに対して、
同様にネガティブな感情を、むしろ暗く、冷たく書くミュラーと対比している。生々しい描写や鬼気迫るものが多い、とも。


2000年代の受賞作家はほとんどが小説家で、詩人が受賞していない10年だった、とのこと

十一章 ペルー、あるいは梁山泊  マリオ・バルガス=リョサ

バルガス=リョサって、大統領選に出て、フジモリと決選投票で争ったことがあった人なのね
バルガス=リョサは、ガルシア=マルケスのような奇想天外なエピソードを描くわけでもなく、一部の作品を除けばあまり実験的な手法を用いているわけでもなく、かといって通俗的なストーリー展開で惹きつけるわけでもないが、それでいて退屈しない作品になっているらしい。
『緑の家』と『世界最終戦争』が紹介されている
『緑の家』は実験的な構成で、時系列がバラバラになった断章形式で書かれており、また、断章ごとに、同一人物が違う名称で書かれていたりするなど、読み進めるにあたって、かなり複雑なものになっているらしい
『世界最終戦争』は、19世紀後半に実際に起きた「カヌードスの反乱」をもとにしている。
曰く、水滸伝のような作品で、中心人物であるコンセリェイロのもとに集まってくる人々、それぞれのエピソードの集積で語られていく、と。
要約的なので叙述のスピードが速く、分量は多いが、読みやすい、とも。

十二章 中国版「魔術的リアリズム」  莫言

中国において誤解された「魔術的リアリズム」を書いた作家
魔術的リアリズム」と、誤解された「中国版魔術的リアリズム」については、橋本陽介『物語論 基礎と応用』 - logical cypher scapeでも解説されていた。
『赤い高梁』が紹介されている

十三章 信頼できない語り手  カズオ・イシグロ

第一長編である『遠い山なみの光』を中心に紹介されている


2010年代については、傾向が多少変化してきていることに触れられている
アレクシェーヴィッチやボブ・ディランである。

*1:ところで、この仰々しい文体による「情けないオレ語り」のことを「いわば中二病」と書いてるけど、自意識過剰と仰々しさは「中二病」とつながるけど、中二病って表面上はオレの情けなさを隠して、むしろ「かっこいいオレ」を演出しようとするものなのでは、と思った。まあ、端から見るとその「かっこよさ」が全然かっこよくなく滑稽に見えてしまうから「中二病」なんだけど。ここでいう「情けないオレ語り」は、自己を卑下することによって、逆に、自分はすごいということをアピールするというもののことを指しているんだけど、「中二病」は自己を卑下するというのとは別のやり方で、自分のすごさをアピールしているような気がする。だから、よく似たものであることは確かだけど、微妙に違う現れ方をしていると思う。自意識過剰で自分がすごいことを、屈折した形で表現するという意味では似ている。「ダメで情けないオレ」という形でそれをやると文学になるが、「マイナーな価値を分かっているオレ」という形でやると、元々の意味での中二病、「虚構世界・非現実の世界でなら活躍できるオレ」という形でやると、オタク的な意味で使われている中二病になる、のではないだろうか