野家啓一編『哲学の歴史10 危機の時代の哲学―20世紀1』

引き続き、中公の『哲学の歴史』
いわゆる大陸系哲学あるいは現象学の潮流に位置する人たちで、また、戦後の人たちも一部含むが、概ね20世紀前半から戦間期に活躍していた人たちが中心となっている巻
知っているようで知らない人たちで、「へえそういうこと言っていたのかー」と思ったり「やっぱりよく分からんなー」と思ったり。あと、哲学者について、伝記的事実をあんまり知らないことが多いので、そのあたり面白かったり。
ブレンターノとベンヤミンが特に面白かったかな。
あと、ヴァールブルク、ショーレムワンダーフォーゲルについてのコラムがあって、よかった。
ヤスパースハイデガーとか超有名な割に全然知らなかったので、普通に勉強になった。
あと、ルカーチとかホルクハイマーとかも。
後半、主に戦後の人と最後の方のコラムは未読

イメージの回廊
総論 現象学と社会批判 野家啓一
ブレンターノ 村田純一
フッサール 榊原哲也
コラム1 フィンクの現象学 武内大
コラム2 ユクスキュルと環境世界 横山輝雄
シェーラー 熊野純彦
ヤスパース 中山剛史
コラム3 現象学精神病理学 加藤敏
ハイデガー 後藤嘉也
コラム4 ハイデガーにおける言語 後藤嘉也
ガーダマー 佐々木一也
コラム5 アビ・ヴァールブルクとその文庫 松枝到
ベンヤミン 柿木伸之
コラム6 ショーレムユダヤ神秘主義者たち 三島憲一
コラム7 ワンダーフォーゲル 野家啓一
クローチェ 篠原資明
西欧マルクス主義 
 ルカーチ 高幣秀知
 グラムシ 上村忠男
 アルチュセールルフォール 松葉祥一
フランクフルト学派 
 ホルクハイマー 大貫敦子
 アドルノ 麻生博之
 ハーバーマス 三島憲一
コラム8 亡命哲学者たち 谷徹
コラム9 ドクサ=意見の複数性――ハンナ・アーレントの政治哲学に寄せて 齋藤純一
コラム10 現象学的社会学 西原和久

総論 現象学と社会批判 野家啓一

ニーチェが倒れた年に、ハイデガーウィトゲンシュタインヒトラーが産まれている。
偶然といえば偶然に過ぎない話だけれど、エピソードとしては面白い。
フランクフルト学派のもとになった社会研究所は、ナチス台頭を警戒して、オランダに資金移動していて、その後、メンバーもアメリカ亡命していて、危機意識が高いなー。

ブレンターノ 村田純一

ブレンターノは志向性概念を現代に復活させた人として有名である一方、研究は進んでいない。「ブレンターノは引用されることは多いが、研究は少ない」という状況を「ブレンターノ・パズル」とすら呼ぶらしい。
筆者は、パズルと呼ぶのは大げさにせよ、何故こういう状況になっているかという観点から、ブレンターノの略歴を見ていこう、としている。
ブレンターノは、聖職者かつ大学教授としてキャリアをスタートさせるが、カトリックの教義に疑念を感じるようになって聖職者は辞めることになる。後に結婚するのだが、元聖職者についても結婚を禁じる規定があるらしく、ウィーン大学を追われ、イタリアへと移住することになる。
ブレンターノはもともとアリストテレスに影響をうけていて、現代における「アリストテレス主義」復活の先駆者でもあるらしい。
しかし、イタリア移住後、哲学上の立場を大きく変えて、自ら「もの主義」と呼ぶ立場をとるようになる。これは抽象的存在者の存在を認めない立場である。
さて、ブレンターノ・パズルに対する筆者の見解だが、
1つ目として、ブレンターノが著作よりも講義・演習を通して哲学的主張を展開するタイプの哲学者だったから、というのがある。ブレンターノの授業は人気があり、彼の影響を受けた哲学者は非常に多い。しかし、それに対して、特に後期の「もの主義」の思想については、まとまった著作がほとんど残されていない、という状況らしい。同時代的な影響力は大きいのだが、後世からは研究しにくいことになる。
2つ目として、20世紀のその後の哲学的状況と政治的状況によるものが挙げられている。ブレンターノは、20世紀後半の哲学の二大潮流である現象学分析哲学双方の源流だと考えられている。そして当時、この2つの潮流のもとになる動きが地理的にも近い場所で起きていた。しかし、オーストリア帝国が分裂し、その後の政治状況にも影響され、2つの潮流は大きく英米と独仏へと分かれていく。これにより、両方に跨がるブレンターノの存在は見えにくくなったから、というもの。
3つ目として、ブレンターノの影響の幅広さも挙げられている。
フロイト、マイノングとグラーツ学派、トファルドフスキとルヴーフ・ワルシャワ学派、ゲシュタルト質を提起したエーレンフェルス、シュトゥンプとベルリン学派、マルティとプラハ言語学派、フッサール
フロイトフッサール以外は、まとめてブレンターノ学派とも呼ばれる。
筆者は、20世紀ヨーロッパの哲学的運動の中で、ブレンターノの影響を受けていないものはないのではないかとまで言い、それゆえに、影響関係というところからブレンターノ哲学の特徴を追っていくいうことが逆に難しくなっているのではないか、と述べている。


ブレンターノは、心的現象を表象作用、判断作用、情意作用に分類し、後者2つは表象作用を前提としているとしており、彼の志向的内在の議論は、今でいうクオリアの志向説っぽくもあるという。
しかし、ブレンターノの志向性の議論には曖昧性があり、内在説と超越説の二つの解釈がある。
ペガソスや丸い四角など存在しない対象についてどう考えるか、ということ。
まず、内在説について。
ブレンターノは、心的作用の対象の「実在性」は問わないとしている。色も形もペガソスも物的現象の例としてあげられている。
それは、本来の意味で知覚といえるのは内的知覚だけ、と考えることで整合的に理解することができる。
しかし、そうだとすると、外界についての判断がおかしなことになる。
超越説というのは、内的知覚はほかの心的作用に付随的に働くだけだということになる。
志向的内在は、対象の存在性格についてではなく、対象に向かうという関係について考えることで明らかになる。
しかしブレンターノは、対象に向かうという作用の内実についての分析までは行わなかった。
その分析を行ったのは、ブレンターノの弟子であるトファルトスキやマイノングだった、と。
ブレンターノ自身は、志向的内在という考え方を捨てて、もの主義へと向かう
具体的な個物のみが存在し、抽象的な存在者は存在しないとする。
具体的な個物かどうかが重要なので、ペガソスも含まれる。また、思考や判断などの作用も含まれる。
では、ペガソスについて考える時、ペガソスは存在することになってしまうのか。ペガソスについて考えているとき要請されるのは、ペガソスについて考えている思考者の存在であって、ペガソスの存在は要請されていないのだ、という。
この解決の仕方は面白いといえば面白い。

フッサール 榊原哲也

大学ではもともと数学を専攻。哲学へ専門を変えるのは、ウィーン大学でのブレンターノからの影響。なお、のちのチェコスロバキア大統領となるマサリクとも知己であり、マサリクもやはりブレンターノに学んでいる

  • ハレ大学私講師時代

意味のイデア性についての研究。かねてフレーゲの書評からの影響ではないかと言われていたが、現在では、フレーゲの書評以前にロッツェからの影響であったことが分かっている、と。
『論理学研究』
「記述的心理学としての現象学

  • ゲッティンゲン時代

1901年ゲッティンゲン大学
方法論として「現象学的還元」と「本質直観」に至り、「超越論的現象学」へ。
意識を自然化して心理学的な事実として扱う自然主義と、哲学をその時代の世界観ととらえて相対化してしまう歴史主義の両方を批判して、厳密な学としての哲学を目指す。
イデーン1』
ところで、本質直観で捉えられる本質としては、理念的本質と形態学的本質があって、前者は例えば幾何学的な概念(直線とか)なのに対して、後者は、この植物は葉が「ギザギザ」した特徴を持っているとか、そういう自然種みたいな話っぽい。
直観(?)によって自然種の本質(?)を捉えるとか、まあ、現象学ってそういうものといえばそういうものだけど、やっぱわりと謎
本質直観は、「原本的に与える直観」とも表現されている。なんかこう直接的ないきいきとした経験みたいなものに支えられてないといけないみたいなそんな話っぽい。
この頃、ノエシスノエマの話もしている。

1916年リッカートの後任としてフライブルク
この時期は「発生的現象学
具体的には中期時間論となり、「構成」とかが重要になる。
予持とか把持とかそういう話。時間の中で概念が構成されていく、という「発生」の観点。
一方で、第一次世界大戦が起きて、次男や弟子ライナハが戦死する。
このことから、倫理的問題への関心も。
そのテーマで『改造』への投稿もしている。
哲学者として著名となり、各国の留学生がやってくる。いわゆるフライブルク
この時期、ハイデガーと出会う。
1919年ハイデガーを第一助手にする。
ハイデガーフッサールの草稿を見せてもらったりなど、現象学についての手解きをうけ、フッサールの妻はハイデガーを「現象学の子」と呼んだ。
フッサールハイデガーを高く評価していたが、2人の目指すものはズレていったのは有名な話か。フッサールは弟子とのズレに気付くのが遅れるが、1927年に『ブリタニカ百科事典』の「現象学」の項を共同執筆しようとした際、このズレは顕在化し、最終的にハイデガーの書いた箇所は全削除された、と。
若干、ラッセルとウィトゲンシュタインの関係も思い起こさせるというか。

  • その後

1929年パリ大学での連続公演
既にフライブルクでも講義を受けていたレヴィナスのほか、カヴァイエス、マルセル、ミンコフスキーなどが受講し、フランスの現象学運動につながっていく。
ミンコフスキー?! となったが、数学者とは別人。数学者の方は、ヘルマン・ミンコフスキー(1864~1909)で、こちらはユージン・ミンコフスキー(1885~1972)
カヴァイエスがここに連なってくるのが意外


1930年代は、後期時間論に着手。これらについて書かれた原稿は後にC草稿群と呼ばれる。


ドイツでは、退官後も授業する権利が与えられるが、ナチス政権下でユダヤ系のフッサールの授業権限は剥奪された。
1934年プラハの哲学会議からの依頼を受けて書かれた論文→1935年ウィーン講演「ヨーロッパ的人間性の危機における哲学」→プラハ「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」→『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(第一部)として出版
ガリレオは発見の天才であったが隠蔽の天才でもあり、彼によって生活世界が隠蔽されたとする。これが危機へとつながる、と。
自然科学による数学化された世界ってのは作られた世界観であって、それを遮断=現象学的還元することで、生活世界へ。また、どのようにして作られたかは、発生的現象学の観点から考察する、と。


フッサール現象学については、かつて『これが現象学だ』谷徹 - logical cypher scape2門脇俊介『フッサール』 - logical cypher scape2を読んで、何となくのイメージは持っている。
しかし、伝記的な事実はあまり分かっていなかったので、こういう変遷を経ているのかーと。
それはそれとして、今改めて現象学について読んでも、何が厳密な学なのかさっぱり分からないんだよな。本質直観とか、それはお前が勝手に思っているだけでは、みたいな……。

コラム フィンクの現象学 武内大

コラム ユクスキュルと環境世界 横山輝雄

Umweltは「環世界」という訳が一般的だと思っていたが、このコラムでは「環境世界」と訳されている。ただし、「環境」とは異なる概念であると注意しており、その上でその混同をさけるために、2005年の岩波文庫版『生物から見た世界』では「環世界」と訳されている旨の記載があった。
機械論と生気論の統合を目指した。
師であるキューネ亡き後は在野研究者となった。
コラム全体としては、ダニの例を用いたユクスキュル自身の環境世界の説明からの引用が多くを占めていたかと思う。
知覚世界+作用世界=環境世界
最後に、動物行動学に影響を与えたが、機械論が主流になってくるとあまり受け入れられなかった、哲学者から評価され、影響を与えたと書かれている。

シェーラー 熊野純彦

上述のユクスキュルに関するコラムで、環境世界論に影響を受けた哲学者の1人としてシェーラーの名前が挙がっていた。
ので、この記事もざっと眺めてみたのだが、この記事の中ではユクスキュルについての言及はなかった。
オルテガやトレルチと同時代人

ヤスパース 中山剛史

ハイデルベルク大学時代に、親友エルンスト・マイヤーとその姉ゲルトルートに出会う。
当時を回想した文章が引用されていて、ゲルトルートに対して電撃的な一目惚れをしたのが分かる。後に結婚。
エルンスト・マイヤーの名前に驚いたのだが、おそらく生物学者のマイヤーとは別人。ググって知ったのだが、エルンスト・マイヤーという名前の、生物学者、政治家、画家、作曲家がいる。が、おそらく4人ともヤスパースの親友であるマイヤーとは別人っぽい。よくある名前なのだな、きっと。
さて、ヤスパース自身はユダヤ人ではなかったが、妻がユダヤ系であったため、ナチス政権下で大学の仕事が続けられなくなる(離婚命令を拒否した)。もし妻が強制収容所に送られることになったら自殺すると考えていたらしいが、辛くもそのような事態は避けられた。
1920年フッサールの家で知り合ったハイデガーと意気投合して哲学的共闘関係となった。がしかし、ナチスへの考え方の差により関係は決裂する。それでも、ヤスパースハイデガーの大学復職に手を貸したらしい。
ところで、ハンナ・アーレントは、ハイデガーの紹介でヤスパースのもとで学位論文を書いているらしい。
このヤスパースハイデガーの関係って知らなかった。


ヤスパースはもともとは精神病理学者で途中から哲学に転向する
ハイデルベルク時代にヴェーバーのサークルに参加
1920年ヴェーバーの死去が哲学へのきっかけ
この、ヴェーバーからヤスパースへの影響も知らなかった。


1948年、長年住み慣れたハイデルベルクを離れて、スイス・バーゼルへ移っている。


1932年、主著『哲学』
実存、超越者、限界状況などを論じている。


1935年『理性と実存』以降の後期思想
「実存の哲学」から「理性の哲学」へ
「包括者」について論じる。
また、ヨーロッパの哲学から「世界哲学」へというのもやっていて、
そういえば「枢軸時代」ってヤスパースだったなと思い出したが、この世界哲学についての研究の中で出てきたものだったようだ。
また、政治思想も論じていた、と。
ヤスパースの思想というと、上述の『哲学』にある、実存とか限界状況とかのキーワードしか知らなかったので、もう少し色々やっていたのだなあ、と。

コラム 現象学精神病理学 加藤敏

現象学精神病理学に影響を与え、後に、精神病理学現象学に影響を与えるようになったとかそういう話。

ハイデガー 後藤嘉也

ハイデガーというと、言わずと知れた20世紀の大哲学者であるが、今までどうにも避けてきたきらいがある。まあ、簡単な解説とかは読んだことがあるし、本書も一章をさいているだけなので、あくまでも概略を提示しているだけかもしれないが、しかし、本書の中でももっとも長い章になっており、こういう分量でハイデガーについて読んだのは初めてだったかもしれない。


職人の息子で、カトリックとして育つ。
(この本に出てくる哲学者って、富裕なユダヤ人の子とか学者の子とかが多い中、出自がやや異なる感じはする。また、外で見かけると農夫のようだったとか言われたりしている)
カトリック神父になる前提で進学するが、心臓障害で神学部は一度辞める。
数学科を経た後哲学の道へ。
リッカートのもとで教授資格をえる。
1916年フライブルクフッサールと出会う
一時期、数学科にいたことから分かるように数学を偏愛し、カトリックだったことも影響してか、永遠なる真理を前提としていたが、哲学研究を通じて、歴史的な存在へと開眼する。
以後、歴史性・時間性が彼のテーマとなる。


1913年 マイスナー山で「自由ドイツ青年」結成
この宣言のなかで「内的自由」が謳われる。
ドイツの青年運動は、ワンダーフォーゲルに始まり、マイスナー集会で頂点にいたった。
が、翌年、第一次世界大戦へ突入し、参加していた多くの若者は死地へ。
ハイデガー自身は、心臓障害で兵役解除となる。
1917年、青年運動の中で出会ったエルフリーデと結婚。彼女は、プロテスタント民族主義者だった。


第一次世界大戦後、若者たちは「人格」や「体験」について語ることを求めたが、ヴェーバーに代表されるように大学教員の多くはそうした言葉を使わなかった。
しかし、ハイデガーは「人格」や「体験」といったことを講義で語り、人気を獲得していく。

(1)環境世界
超越論的還元への批判。講義机が目の前にある時、それは講義机として経験されるのだ、と。環境世界によって意味づけられている。環境世界の由来には諸説あるが、ユクスキュル、ディルタイアリストテレスの影響とされる。
ユクスキュルだけではないんだな
(2)解釈学的現象学・生の現象学
ベルクソンディルタイジンメルニーチェの研究により、解釈学や生の哲学からの影響を受ける。
(3)歴史の解体
先入見は歴史的負荷があり一気には粉砕できない。
(4)西洋哲学の解体と宗教現象学
「厳密な学としての哲学」こそ先入見
ハイデガーは、原始キリスト教の生経験を重視する(フッサールにとってはギリシア哲学)
(5)存在と時間

ハイデガーは論文などは書かず講義により人気を獲得しており、「哲学の隠れた王の噂」(アーレント)などと呼ばれた。
1922年「ナトルプ報告」(ナトルプが教授就任のため、ハイデガーに研究結果を報告させた)で論文化される。

ハイデガーとともにフライブルクからマールブルクへ移る学生も多数。
この時期の代表的な弟子に、レーヴィト、アーレント、ヨーナス、マルクーゼがいる。
後にハイデガーナチスへ傾倒するが、弟子にはユダヤ系が多い。
ただしこの当時、ハイデガーも彼の弟子たちも政治的関心は希薄だった。
妻の影響でプロテスタントに改宗している。
マールブルクプロテスタント系の大学なので、この改宗により就職が可能になった面もある。
神学者オーヴァーベックを研究*1
オーヴァーベックは、神学は非宗教的であると論じた
ハイデガーは、哲学は原理的に無神論であると考えるに至る。
哲学は、生の事実の形式的構造・実存疇を指し示すことが務めである、と。実存疇というのは気遣い、頽落、気晴らし、好奇心。不安、解体などなど
しかし、哲学においては形式的なことをいうだけだが、実存疇の内実はキリスト者たちに由来している(例えばアウグスティヌスの気遣いが気遣いに形式化)。

フッサールや敬虔なカトリックであった両親との対決の書であり、マイスナーでの誓いに支えられた書
自己であることを忘れた自己が、本来的時間性に立ち戻ることで存在すること一般の意味を究明する
気遣い→時間性へ
本来的実存は先駆的決意性(死の自覚)
存在一般は時間によって理解される。
この時期、カッシーラーとのダヴォス討論もあるが、カッシーラーが真理の永遠性の立場を取るのに対して、ハイデガーは時間性の観点から論じた。

1933年フライブルク学長就任
もとの学長予定者が社会民主党員だったためナチスに認められず、急遽ハイデガーに白羽の矢が立ったらしい。
ハイデガーは既に1931年にはナチへの期待を名言して、弟子たちを驚かせていると。ただし、まあ床屋政談みたいなレベルだったのが、学長就任で実際にナチへの傾倒へと進んでいく。
ヤスパースに対してもヤスパースの家でナチスへの期待を語って「ハイル・ヒトラー」ってやったらしい。ヤスパースとは決裂し、その後、長らく会わなくなる。
彼自身は、反ユダヤ主義には与しなかったらしいが、一方で、ナチスユダヤ政策を黙認していたともある。
そもそも教え子にユダヤ人が多いのに講義の場で、あるいは、妻がユダヤ人のヤスパースの前でナチス支持を臆面もなく語っているあたり、また、矢代梓『年表で読む二十世紀思想史』 - logical cypher scape2でも、講演の場で再会したユダヤ人の教え子に「ハイル・ヒトラー」とやってみせたエピソードがあったが。なんとも言えないものがある。
学長になったハイデガーにとって、国家社会主義革命=大学革命であり、学生を親衛隊にいれたり、軍事演習したりとかいうことをやったらしい。
本書では、ハイデガー哲学自体に、国家社会主義との親和性があったことが論じられている。
そもそもハイデガー自身が学長就任演説の際に、自らの哲学における時間性をドイツの民族性・歴史性に置き換えて語っている。もともと、本来性と非本来性に優劣はないとしていたが、ここでは優劣に置き換えてしまっている、とか。
マイスナー宣言を民族としての自己決定へと捉えたのだろう、とも。
1934年4月 1年にも満たず学長辞任。最近の研究では、ハイデガーの急進性が学内・文部省と相いれなかったためとされている。
1934年6月にレーム事件(ヒトラーによるSA粛清)が起きたことで、ハイデガーヒトラー崇拝から覚めたという。
その後、ニヒリズムや「存在の真理」について論じるようになる。ここでいう「真理」はかなり独特の用法で使われている。

  • 戦後

近現代の総駆り立て体制において、戦争と平和、西欧の民主主義とナチス帝国主義の違いというのは表面上の違いに過ぎず、同じ仕組みなのだ、というようなことを論じているらしい。
これ『啓蒙の弁証法』みたいなものかなと思えば、あるいは、全体主義国家と福祉国家って同じものだという議論みたいなものかなと思えば、それ自体は妥当な話だとは思うのだけど、ナチス協力していた人がいうと、含みが生じるよなあと思ってしまう。
ハイデガーは山中で隠遁生活を送って、ナチスの件について公式な謝罪はしていない。


フッサールの章は、フッサール哲学の動機を「危機」に集約して論じていたが、
対して、ハイデガーの章では、ハイデガー哲学の動機を「マイスナー宣言」に集約して論じていて、わかりやすかった。


ハイデガーは、その哲学自体も難しいが、やはりナチスとの関係がよく分からないな。
明らかに汚点であるし、ナチのシンパだったのは間違いないわけなんだけど、ほんと、ユダヤ人の教え子やユダヤ人の妻がいるヤスパースに対して「ハイル・ヒトラー」できた理由がよく分からない。
ところで、ハイデガーの哲学難しいと上に書いたが、しかし例えば超越論的還元への批判とかはむしろ分かりやすい。講義机を見るとき、純粋経験じゃなくて講義机の経験がまずあるでしょ、みたいなのは、すごく素朴にせやなって思える。
あと、第一次大戦後に、若者たちに熱狂的に支持されていったところ、個人の感覚としては共感できないが、何となく、そういうことなのかーという理解はできたような気がした。
それから、ハイデガーにとってのキリスト教の重要性っていうのも知らなかったので勉強になった。

コラム ハイデガーと言語 後藤嘉也

言語は存在の家
哲学的言語はギリシア語とドイツ語。ラテン=ロマンス語の軽視。
自民族中心主義ともとれるが、それぞれの民族はそれぞれの言語を家として、全く違う家に住んでいるのだ、とも。

ガーダマー 佐々木一也

1900年生まれで2002年没という長寿で、主著である『真理と方法』は1960年(60歳)に発表されており、遅咲きの思想家といえるのかもしれない。その後は、晩年まで活発に活動していたらしい。
マールブルク生まれ、マールブルク大学でナトルプらに学ぶ
1923年、ハイデガーと出会う
1929年、マールブルク大学で教員になるも、正規ではなく不安定雇用であった。
1939年、ライプツィヒ大学で正教授になることで、ようやく定職を得られる。
1946年にはライプツィヒ大学学長になるが、翌47年にはフランクフルト大、49年にはハイデルベルク大へ。
アメリカに亡命中だった旧友のレーヴィト(亡命中日本にも滞在していた)を呼び戻す
1960年『真理と方法』
1961年 ハーバーマスを大学教員に
60年代後半から80年代前半までしばしばアメリカへ
1969年 ハイデガー生誕80年記念討論会
1970年ころ ハーバーマスとさかんに論争
1995年ころ デリダやリクールと討論


芸術作品鑑賞・理解の過程を精神科学の方法のモデルとしようとした

コラム5 アビ・ヴァールブルクとその文庫 松枝到

アビ・ヴァールブルクは、ユダヤ系の富豪ヴァールブルク家の長男として生まれたが、家督を継がずに美術史の道へ進んだ。
保守的なユダヤ人は、偶像崇拝禁止に強く影響されて視覚芸術に否定的なので、アビの選択は家族からは当然反対された。
しかし、弟に対して、長男としての一切の権利を譲る代わりに、一生好きな本を買わせてくれ、という約束を取り付けたらしく、それに基づいて形成されたのが、ヴァールブルク文庫となる。
ただ、アビ・ヴァールブルクは、第一次大戦中に精神疾患サナトリウムに入れられ、読書を禁じられてしまう。
カッシーラーパノフスキーなどが、ハンブルクに来るのは戦後で、文庫の管理は別の者に任されていた。
後年、ヴァールブルクはカッシーラーの助けによって帰還する。

ベンヤミン 柿木伸之

アドルノベンヤミンを評して「反哲学としての哲学」といい、彼の「微視的なまなざし」に注目した。


ギムナジウムになじめず、チューリンゲンでグスタフ・ヴィネケンと出会うことで、ドイツ青年運動に参加。1914年には、ベルリン自由学生同盟議長になる。
しかし、大戦が勃発し親友が自殺。ヴィネケンが戦争賛美していたことで、ヴィネケンと青年運動から離脱する。
「言語一般および人間の言語について」
ショーレムとの親交
1919年『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』
1925年『ドイツ悲劇の根源』で教授資格を狙うが拒絶される。同書は28年出版
この頃、マルクス主義へ接近。パリ滞在
1930年前後ラジオ番組出演
1933年 パリへ亡命する。また、アメリカに移っていたフランクフルト社会研究所と関わりをもち、この機関誌へ投稿することで収入としていた。
ボードレールにおける第二帝政期のパリ」
1940年「歴史の概念について」
『パサージュ論』草稿をバタイユに渡したあとフランス脱出を図るが、スペインとの国境で足止めを食い、自殺。

言語の本質としての「名」(呼びかけ、名づけ)
語るとは翻訳すること
アレゴリーは言語をかく乱させる

  • 美学

知覚論として美学を捉える。
リーグルの発想を受け継ぎ、知覚様式の変容に注目し、現代のそれとして複製技術を捉える。
礼拝価値から展示価値へ。そして、展示価値に適応した芸術が映画である、と。
触覚的な衝撃や、知覚の散漫さについて。
経験の衰退。物語(的経験)に回帰するのではなく触覚的な知覚になれることを薦める。
ここ、主には「複製技術自体の芸術作品」の話であり、礼拝価値・展示価値と映画、触覚、散漫さのあたりは知っていた話だったが、その前段階としてリーグルから繋がるのかー、と。
リーグルは様式論の人、というのも最近ようやく認識したところだが、さらに知覚論としての美学というのも、言われてみれば確かにベンヤミンって知覚の話しているのだけど、一方で、最近だと例えばナナイが知覚の哲学としての美学というのをやっているわけで、知覚論としての美学!なるほど! と思った。
それから、経験の衰退(貧困)は桜井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』 - logical cypher scape2でも言及されていたな、と。

  • 歴史哲学

「進歩」として歴史をとらえることを以前から批判
過去を呼び覚まし、歴史の物語を破壊し、未知の過去と遭遇する「今」をとらえる

コラム6 ショーレムユダヤ神秘主義者たち 三島憲一

ショーレムは、ベルリンの同化ユダヤ人として生まれ、1923年にはパレスティナへ移住している。戦後のイスラエルでは左派。
ベンヤミンと親しく、戦後、アドルノとともにベンヤミン全集を編纂している。
歴史的現象として神秘主義を研究しているが、しかし、神秘主義研究に向かうのは、今が危機の時代だから


ユダヤ人にスペイン側のセファルディ系とドイツ側のアシュケナージ系がいるのは知っていたが、セファルディ系って北アフリカからバルカン半島回って、結局オーストリアのあたりまで来ていた、というの知らなかった。なお、ウォーラーステインアシュケナージらしい。


ユダヤ神秘主義の思想として、イツハク・ルーリア(1534~72)がおり、シェリングの悪の神義論とも類比されている。また、ショーレムより上の世代としてフランツ・ローゼンツヴァイクがいる。
しかし、ショーレムはローゼンツヴァイクではなく、サバタイ・ツヴィを研究。

コラム7 ワンダーフォーゲル 野家啓一

まず、ワンダーフォーゲルの項目をこの筆者が書いているのに少し驚いた。
ドイツ青年運動は、ハイデガーベンヤミンの若かりし日に影響を与えたが、これの始まりがワンダーフォーゲル
1896年 ベルリン郊外のギムナジウムでヘルマン・ホフマンが始める。山歩き活動など。
1900年 カール・フィッシャーが引き継ぐ。
1901年 「ワンダーフォーゲル」と命名される。渡り鳥の意。
1912年 メンバー2万人に
1913年 マイスナー山での集会。ただし、宣言は妥協の産物であり、同意された項目は禁酒禁煙くらいだったとも。この集会にはナトルプがメッセージを寄せ、ハイデガーベンヤミンも参加していた。
1919年 自由学生同盟がヴェーバーを招待して講演するが、これが「職業としての学問」「職業としての自由」

クローチェ 篠原資明

イタリアの哲学者で、美学と歴史を中心に自らの思想を作り上げ、戦後は政治家となっている。
名前を何となく聞いたことがある程度で、全然知らない人だったが、リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大・訳) - logical cypher scape2で観念説とされる立場の代表的人物であった。なお、観念説についてウォルハイムはクローチェとコリングウッドを挙げているが、コリングウッドはクローチェの影響を受けているみたい。


1902年『表現の学および一般言語学としての美学』
1909年『純粋概念の学としての論理学』
1917年『歴史叙述の理論と歴史』
ヘーゲルヴィーコを研究した。
1910年上院議員
1943年から自由党党首

  • 美学

人間精神の契機として芸術を捉える。
芸術を高尚なものではなく低次なものに位置づけ、歴史を低いところから高みへと位置づける。
直観=表現から芸術=言語
観想と実践の区別、そして、観想は直観と論理に、実践は経済と倫理にする。それぞれ、前者がないと後者は成り立たないという関係。
物質による外在化以前の精神活動の段階ですでに芸術だとする=観念説
芸術のジャンル分けを認めない。何故なら、外在化以前には音も光もなく、ジャンルの違いなどないから。
芸術・論理・経済・倫理の円環
この円環図式はヴィーコ由来だが、ヴィーコが各段階を時代にあてはめたことをクローチェは批判している(時間的順序はないと考えている)。
晩年になって、芸術と文学を区別して詩学を論じている。

  • 歴史

生きた歴史は、物語られるもの=すべて現代史
経済-政治史と倫理-政治史とに分けるが、特に後者を重視
悪との闘争(カトリシズム、絶対王政、民主主義、共産主義)として描く。選択肢は自由主義のみ


哲学史的には、クローチェは、デカルトに対してヴィーコを評価したというのがポイント。

ルカーチ 高幣秀知

ハンガリーで、ユダヤ系銀行家の父とオーストリア貴族の母との間に生まれる。フォン・ルカーチを名乗っていたこともある。
もとは演劇運動にかかわり、その後、ドイツへ渡り、ヴェーバー・クライスのメンバーの一人となり、美学・芸術哲学に従事していた
第一次世界大戦中に書かれた『小説の理論』はドストエフスキイ論の序説という位置づけ
ラスクからの影響も
1918年、ハイデルベルク大学への教授資格申請論文に対してリッカートは高く評価したが、学部は外国人に教授資格は与えられないと回答。
ルカーチは、1919年にできたハンガリー評議会共和国の教育人民委員(文部大臣)となる
しかし共和国は133日で崩壊し、ルカーチはウィーンへ亡命
そうした中で『歴史と階級意識』は書かれる
プロレタリアートは、物象化された世界の客体でもあるが、主体ともなる。
1923年 第一回マルクス主義研究週間がチューリンゲンで開催
『歴史と階級意識』とコルシュ『マルクス主義の哲学』の草稿をめぐって。
この研究集会がもとで「社会研究所」が設立される。この名称は、福本和夫の提案らしい。
1924年 一方、コミンテルン第5回大会にてルカーチ、コルシュ、ボルディーガらが批判の標的になる
ルカーチは、ハンガリー評議会共和国をめざす「ブルム・テーゼ」を起草するが、コミンテルンからは修正主義といわれる
コルシュは、独ソ友好中立条約に反対したためドイツ共産党から除名
福本は、分離-結合論がコミンテルンから批判
(福本については[山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』 - logical cypher scape2]でも)
「西欧マルクス主義」は、コルシュが、自身やルカーチについて、ボリシェヴィズムともドイツ社会民主主義とも違う立場として呼んだ
1933年、モスクワへ亡命し「自己批判」がなされる
アドルノからはソ連時代のことを批判されているのだが、本章の筆者はむしろこのアドルノの批判(ソ連時代になされたわけではなく、後になってからなされた)について批判している。
1957年ハンガリーへ生還
1968年ヴェトナム反戦運動で、ルカーチ初期著作が再評価
ルカーチ幼稚園」というワードが何の注釈もなく出てくる。第二世代の教え子たちをこう呼ぶことがあるらしいが、すごい名称だ。


第1回マルクス主義研究集会は矢代梓『年表で読む二十世紀思想史』 - logical cypher scape2で知ったけど、ここからさらに社会研究所(フランクフルト学派)につながっていくとは。しかも、名付け親が福本和夫という謎のつながり……。

グラムシ 上村忠男

1926年に逮捕され、その後、ほぼ獄中で過ごす
監獄のなかで書かれたノートが戦後(グラムシの死後)に出版される
構造と上部構造が形成する「歴史ブロック」
知識人論において、上部構造は「倫理的社会」と「政治的社会」にわけられ、前者は「ヘゲモニー」に対応し、後者は「支配」に対応する
グラムシの哲学は「歴史ブロック」論と「ヘゲモニー」論
クローチェ哲学からの影響がある。
グラムシはソレルへの親近感を抱いており、「歴史ブロック」はソレル由来であると本人も述べている。
全体国家
工場評議会

ホルクハイマー 大貫敦子

両親ともにユダヤ系。父親の工場経営を継ぐつもりだったが、友人フリードリヒ・ポロックを通じて文学や思想の世界へ
1919年大学入学。新カント学派のコルネリウスを指導教官としつつ、フッサールにも学ぶ。
1923年、フランクフルト大学において、ヴァイル、ホルクハイマー、ポロック、ゲアラハらを中心に社会研究所設立。西欧で初めてマルクス主義を学問の対象として研究する研究所
ヴァイルの父親が資産家で、彼の出資によって設立されている。
1937年の論文では、名指しはしなかったが、ルカーチが『歴史と階級意識』でといたプロレタリアートでの主体と客体の一致は不可能、つまり知識人とプロレタリアートの共闘の不可能性を指摘
1931年、正教授となり研究所の所長に
被雇用者の意識についての社会心理学的調査を行い、プロレタリアートが一枚岩ではないことを明らかにした。
就労者と失業者で関心が分散し、ドイツにおける労働者政党の分裂と無力化につながっているとも。失業者はさらに共産党ナチスへと割れていた。
1933年、ジュネーブへ亡命し、さらに渡米。
権威主義についての研究を行い、質問用紙を使った聞き取り調査をフロムの開発した分類方法で分析
ところで、最近どこかの本で、アドルノは渡米した際に質問紙調査をやれと言われて戸惑った、みたいなのを読んだ記憶がある。アドルノはそんなのやりたくなかったっぽいが、ホルクハイマーは結構違うタイプだったのかな、と。
ポロックの「国家資本主義」に依拠して1942年「権威主義的国家」を、ベンヤミン追悼論文集に掲載。「歴史の概念について」からの影響も。権威主義の研究というのは、第一には何故ナチス政権ができたのかという研究なのだが、ここでは、次にソ連が続くだろうとソ連批判をしている。
1949年フランクフルト大学教授に再任。51年にドイツでユダヤ系初の学長になっている。
しかし、ホルクハイマーは当初はドイツへの帰国は望んでいなかったらしい。
再びドイツで反ユダヤの動きが出てくる可能性を警戒しており、アメリカ市民権を失わないように戦前の著作とは距離を置いた。ヴェトナム戦争でもアメリカを擁護するほどにアメリカに遠慮した立場をとった。
ドイツの政治教育へ影響を与えた。
ナチスという過去の「克服」にかんして、政府の委員会に所属したりしていたが、過去にこだわる議論はナルシシズムを強めてしまう、直接知らない若い世代に責任を負わせない、ドイツだけを特別扱いしないというようなことを述べていたらしい


フランクフルト学派第一世代というと、ホルクハイマー、アドルノ、フロム、マルクーゼくらいまでは名前知っているが、ポロックって人は全然知らなかった。創設メンバーだし、その後のホルクハイマーにも影響与えているっぽいし、結構重要な人にも見えるが、まあ、上にあげたメンツに比べるとそこまででもないのか。