リタ・タルマン『ヴァイマル共和国』(長谷川公昭・訳)

タイトルにある通りヴァイマル共和国についての本だが、林健太郎『ワイマル共和国』 - logical cypher scape2が政治史で1冊であったのに対して、同様の内容がこちらでは全6章のうち前半の3章くらいに圧縮されている。
後半では、政治思想、宗教、教育、学問、文化、メディアにまつわる内容となっている。
保守主義・右翼思想の紹介が多くなされていて面白かった。
ヴァイマル共和国というと、その進歩的な憲法が注目されるとともに、ナチスを生んでしまった国としてもよく言及されるが、この本を読んでいると、ともかく憲法や制度とは違って、思想面、教育面で保守的だったということがたびたび強調されている。
学問や文化については、とにかく人名の嵐だが、知っている名前でもヴァイマルの文化人として認識してなかったので、なるほど、ここに位置づけられるのかと思いながら読んだ。知らない名前もたくさん出てくる。下記の読書メモに、かなり固有名を書いたが、それでも結構省略した。


第1章 ヴァイマル共和国の沿革

共和国成立・臨時政府成立からスパルタクス団の蜂起まで
林健太郎『ワイマル共和国』 - logical cypher scape2では3章かけて書いている内容を1章にまとめているので(ページ数的には単に1/3ではなくさらに短いと思う)、かなり圧縮されている。
レーテというか「大衆」は社会民主党を支持していて、極左のことを支持していなかった、とかはまあ上述の本にも書いてあったか。
ノスケについての言及が比較的多かったような(ノスケの回想からの引用が何回かある)。
なお、本書の中では「スパルタクス団の蜂起」という言葉は使われておらず、単に「反乱」と書かれている。

第2章 制憲議会とヴェルサイユ条約

ヴァイマル連合の成立
社会民主党が中央党や民主党と連立組む上で3つくらいの方針があって、そのうちの一つに企業公有化があったけど、意外なことに他からも反発はなかったとある。
なお、第1章では、臨時政府の政策はとても社会主義的なのに意外にも公有化はなかった、と書いてあって、そのスタンスの変遷が何故起きたのかとかはよく分からなかった。あと、ほんとに公有化したのか、とか。
婦人議員についても触れられており、英米より多い9%いたが、共和国の歴史を通じて入閣はしなかった、と(女性議員はいたけどあまり影響力がなかった、と)。
本書は、度々女性についても言及されており、そこは特徴かと。


中央と地方の関係についてで、ビスマルク以来の連邦国家ではなく「人民国家」としたのだ云々ということが書かれていたが、いまいちどういうことなのか分からなかった。
この「人民」というのの定義が曖昧で、のちにナチの利用されていくようだが。
アイスナーのバイエルン共和国というのは、独立した一つの国だったのか


ヴェルサイユ条約
英米仏の首脳陣によって案がつくられ、ドイツ側はこれを突然突きつけられた形
特に、戦争責任の箇所などは屈辱的な内容で反発が大きかったらしい
カップ一揆
1920年選挙でのヴァイマル連合の敗北

第3章 脆弱な経済

ルール占領と消極的抵抗によるインフレーション
中産階級、俸給所得者はインフレーションの犠牲者、
一方で、連邦政府自治体政府・企業などは利得者となった。
農業はなかなか復興せず


ストライキが増える
共産党ソ連のラーデックの話など
共産党内部で社会民主党寄りの派閥と反社会民主党の派閥があり、1923年に混乱が生じる
シュトレーゼマン内閣
ラインラント分離主義
→フランスの支持をえた独立運動が行われ、一時的に独立がなされるが失敗
バイエルン分離主義
極左から極右へ。ヒトラービヤホール一揆


レンテンマルクとドーズ案
経済復興をとげるが、俸給所得者は恩恵に浴せず
組合率の低下も
ドイツ経済にとって、農業と外国貿易は弱点でありつづけた。
復興した経済もアメリカなどの短期投資に支えられたものでしかない

第4章 思想および宗教の分裂状態

ヴァイマル連合をなす3つの政党のそれぞれの思想をまとめて「ヴァイマル思想」を呼んでいる。
改良社会主義社会民主党、ベルンシュタイン)
ブルジョワ自由主義(ドイツ民主党、プロイスはヴァイマル憲法起草に際してこれを参照、ウェーバー
政治的カトリック主義(中央党)

ソ連レーニンとは一線を画すマルクス主義がドイツにはあったよ、という話
短め

保守主義には以下の3つがある。
(1)「ドイツ革命」を指向した知識階級
権威主義的・協調組合的・キリスト教的な国家を基調とする
「ユニークラブ」と新聞『ディー・タート』に集った者たちの2つのグループがある。
後者には、30年代以降シュミットなども合流してくる
(2)青年運動
反共和制、民族主義反ユダヤ主義
「赤」や(いわゆる匕首理論の)「裏切り者」、スラブ系外国人などに対して敵対的。
ナチズムっぽいのだが、ナチズムの平民主義的なところに反発していて、一線を画するとか
(3)汎ゲルマン主義思想の濃い政党・団体
ドイツ国家人民党、農民同盟、鉄兜団

保守主義とよく似ているが、違いとして、人種主義の優位、残虐な日和見主義、一般の階層からも人材登用といった点がある。
実際、保守主義とメンバー的には重複する面もある。
民族的ボルシェビズムという、階級闘争をプロレタリア国家と資本主義諸国との戦いと読み替える思想があり、これの近い位置にシュトラッサーの「黒色戦線」があった。


シュレースヴィヒ=ホルスタインの「農民運動」
1928年から29年にかけて爆弾テロを起こす。無政府主義を謳ったり農協組合主義を謳ったり思想的には不安定で、1930年以後はナチ党への投票者の供給源となる


ナチスの思想は、光と闇みたいな二つの勢力の争いで色々と説明していて、このような疑似人類学が色々な場所に応用された、と。

  • 宗教

憲法上は政教分離が謳われていたが、ドイツ全体としてはキリスト教の影響が強く、そして、キリスト教カトリックプロテスタントも反共和制であった

保守的な組織が温存される
民族主義的感情が強く、1925年の大統領選挙でのヒンデンブルク支持・マルクス攻撃において特に昂揚した
プロテスタントの中の、帝政への忠誠・排外主義に対抗して、神学者カール・バルトなどによる「ルター主義の復活」という動きがあり、バルトは、政治運動に参加はしなかったが、ナチス全体主義に抵抗したり、宗教的社会主義者と連帯した
が、プロテスタント全体では、やはり民族主義が多数派
ニーメラーにも民族主義的感情が含まれていた。

共和国憲法により、プロテスタントと対等の立場にたつ
領土喪失により多くの信徒を失ったが、共和国時代全体においては、活発だった
修道院や学校等の建設、キリスト教サンディカリズム構想、新聞、雑誌など
なにより、カトリックとつながりのある中央党が政権を担い、5人の首相がカトリックであった

特定の地域への集中、減少傾向、東欧ユダヤ人の流入という3つの特徴
ほとんどのユダヤ人が都市部に住んでいた。ユダヤ人ではないドイツ人と結婚してキリスト教へ改宗することが多くて減少していたが、東欧からの流入もあった。
ユダヤ人の内部でさらに様々な考えに分かれる。
ローゼンツヴァイクのような神秘への回帰が10%くらい
ショーレムパレスチナへ移住)やブーバーのような「正統ユダヤ」が10%くらい
多数派は、解放的自由主義

憲法上は、誰でもが等しく通える学校を原則としており、社会民主党民主党・人民党は宗教とは無関係の学校制度を望んだが、中央党と国家人民党はミッション・スクールに固執
結局、プロテスタント系のミッションスクールが55%、カトリックのミッションスクールが28%、いくつかの宗派にまたがるミッションスクールまたは無宗教の学校が16%となった。
教育内容は保守的であり、田園生活を理想とするものだった
女性教員への差別的待遇についても触れられている
中等教育初等教育とほぼ同様

    • 青年運動

公教育とは別のところで自由な教育の動き。シュタイナー学校の設立など
また、民族主義的なスカウト組織、各政党の青年組織、キリスト教系の青年組織などができ、また、貧困家庭の若者を動員するべく「生涯学習学院」という組織があちこちでできた。
共産党も人民大学などを開講。ベルリンの人民大学には、ルカーチ、経済学者のクチーンスキー、グロピウス、ブルーノ・タウト、作曲家のハンス・アイスラー、エルヴィーン・ピスカトールらが出講。受講者にはブレヒトがいた
高等教育
大学の教授陣も多くは保守的、国家主義的、反共和主義的
一部、歴史学者のマイネッケ、デルブリュック、社会学者のヴェーバーマンハイムヤスパースらが共和制政府に協力的であったが、多くの教授たちの反発を招いた

第5章 前衛文化と大衆文化

  • 物理学
    • カイザー・ヴィルヘルム研究所

プランク、シュターク、アインシュタインハイゼンベルク

    • ゲティンゲン学院

ヴァイル、ヒルバート、ボルン、フランク、ヘルツ、さらにアメリカからポーリング、オッペンハイムの国際的共同研究も
ポーリングについて、ブログには書きそびれたのだけど中屋敷均『遺伝子とは何か』 - logical cypher scape2にも名前が出てきていた。ワトソンとクリックが手法を参考にしたのがポーリングであり、また、キャベンディッシュ研究所のボスのライバルでもあった、と。

  • 化学

ネルンスト、ハーバー、ブーテナント、ボッシュ、フィッシャー、ボルギウス、ハーンなど
ハーバーとボッシュ木村靖二『第一次世界大戦』 - logical cypher scape2にも。

ビスマルク賛美派と帝政国家批判派の論争が主で、経済史や社会史はおろそかに
美術史だけが活発
ヴェルフリン、ゴルトシュミットの様式論
ヴァールブルク研究所でのパノフスキーらの研究が、カッシーラーにも影響を与えた

  • 哲学

新カント派(カッシーラー、ケルゼンら)と新ヘーゲル派の共存
ルカーチは文芸批評に、コルシュは独自のマルクス主義
似た立場のブロッホベンヤミンだったが、ベンヤミンは自殺するまで世に知られていなかった
現象学フッサールヤスパースハイデガー

  • 心理学

ヴェルトハイマー、ケーラー→30年代にゲシュタルト心理学
精神分析がベルリンで花開く

  • 社会研究所

のちのフランクフルト学派
長老格として、ジンメルヴェーバー、トローエルチュ、シェーラー
マルクス主義人道主義を特徴とする
マンハイムアドルノ、ホルクハイマー、マルクーゼ、フロム夫妻、クラカウアーなど

  • 音楽

ベルリンには3つのオペラ劇場があった
現代音楽については、シェルヘンのメーロス・グループやハンス・アイスラーが人々に広めた
大衆に好まれたのは、パウル・アーブラハム、ラルフ・ベナツキ、パウル・リンケなどの曲。
劇場では、レビューを演し物として、1924年にはチアガール、1926年にはジョセフィヌ・ベーカーが出演(ベーカーは海野弘『アール・デコの時代』 - logical cypher scape2にも名前が出てきた)
フリードリヒ・ホレンダー
ジャズがベルリンでブームとなり、黒人音楽家を描いたオペラも。
ブレヒトもジャズに影響を受ける。
1929年の世界恐慌以降、ジャズ人気は下火

  • 演劇

ゲールハルト・ハウプトマンと「民衆舞台」
民衆舞台というのは、社会民主党によって設立された協会で、ドイツ全土に劇場網を擁する
民衆舞台の役者たちは、ルノワールの絵のモデルにも
エルヴィーン・ピスカトール
映画製作の手法を取り入れた演出家。民衆舞台の会員たちからは反発される。
共産党員となり「プロレタリア劇場」や「ピスカトール舞台」を設立
スカトールを引き継いだのが、弟子のブレヒト
政治演劇は、文学的評価や他の演劇人に与えた影響と、大衆からの評判が離れていた。
成功した珍しい例として、堕胎を題材とした『劇薬』がある。
民族主義の演劇は主に喜劇

  • 文学

新即物主義が、文学にもあったらしい(美術のしか知らなかった。とはいえ、この言葉自体、美術史家が造ったもののようだが)
ルフレート・デーブリーン
多くの文学者が共産主義かナチズムかにいくなか、さまざまな様式に手を染めた作家
『ベルリン、アレクサンダー広場』は映画化されている
後世に名を残す、シュテファン・ゲオルゲヘルマン・ヘッセは一部の階層にしか読まれていなかった。
ヴァイマル体制下でただ一人ノーベル賞を受賞(1929年)したトーマス・マン
(ちなみに、ヘッセは1946年に受賞)
『ブッデンブローク家の人々』が50万部のベストセラー。共和制の擁護者。『魔の山』の舞台となったスイスからドイツ国民に理性の復帰を呼びかけた
兄のハインリヒ・マンも作家で、弟よりさらに左翼的だった。映画化作品がある
右翼的な作家としては、汎ゲルマン主義のハンス・グリムや英雄主義を称賛したパウル・エルンストなど
ユダヤ人作家のアルノルト・ツヴァイクは、平和主義の小説に先鞭をつけその中でも『グリシャ伍長事件』が成功した。平和主義の小説のひとつに『西部戦線異状なし』があるが、これもベストセラー)。
女流作家も多くいて、作品数も多かったが、主要な読者層である女性読者は作者名をあまり意識していなかったとか。
エーリヒ・ケストナーは、世界恐慌の犠牲者たちを厭世的に描く。『エーミールと探偵たち』で子供にも人気に。

  • 美術

画商アルフレート・フレヒトハイムによる雑誌『クヴェルシュニット』は、ガートルード・スタインヘミングウェイ、レジェなどの原稿を掲載
フランスの絵画の影響を受けたエーミール・ノルデは一時ブリュッケの一員、ブリュッケの創設者であるキルヒナーはパリへ。
ベルリン以外の各都市の動向について
ミュンヘン青騎士
ドレスデン:ブリュッケ創設の地
ヴォルスことヴォルフガング・シュルツェがベルリンから移住してきたが、後にパリへ。、オット・ディクスや、ウィーンからココシュカが来ていた。
ダダイストマックス・エルンストはパリへ。
ベルリン・ダダ
ハノーヴァーでは、シュヴィッタースがロシア構成主義を取りいれる

装飾への反動として芸術に機能性を求める
ブルーノ・タウトら建築家たちと社会的都市計画の推進
メンデルゾーン、シャロウンはアメリカの高層建築を研究、貧困層の問題解決という社会的要請にこたえる

  • 新聞

大新聞の多くは19世紀創刊
1919年以降、資本の集中

フーゴ・シュティネス
ルフレート・フーゲンベルク(国家人民党党首)

    • 共和主義擁護の2つのトラスト

モセ・トラスト
ウルシュタイン財閥
新聞は右翼系、左翼系、カトリック系、無党派がそれぞれあったが、カトリック系や無党派も右傾化していたので、新聞はおおよそ右寄りだった。

  • ラジオ

政治利用されていたが、ハンス・ブレードがこれを改めて、教育に用いようとした。
その中には、女性法律家カミラ・イェリネック担当の女性向け法律相談番組などがあった。

  • 映画
    • 見せ物映画

当時は、表現主義映画(ヴィーネ、ムルナウ、ラング)より見せ物映画が人気
のちにハリウッドで有名になるエルンスト・ルビッチェは、大仕掛けの見世物による悲劇映画で人気

表現主義とされるが本人はそう呼ばれるのを嫌っており、文学史デーブリーン同様映画史の位置付けが難しい監督
『ニーベルンゲン』や『メトロポリス』にファシズムの萌芽が見られるとされ、実際、ゲッベルスが称賛し、ユダヤ系のラングをナチスに取り込もうとしていた。が、ラングはアメリカへ亡命。その後は、反ファシズム的な映画も撮っている

    • 「新しい客観性」

1つは現実逃避的映画が増える。
→ドイツには、現実逃避的映画として山岳映画というジャンルがあるらしい
山岳映画としてはアーノルト・ファンクが有名だが、トレンカー、リーフェンシュタールが助手をしていた。両名はのちにナチスに協力する
もう1つ、心理描写を重視する作品が増える。
また、「新しい客観性」は社会批判の主題として都市を舞台にすることも多かった。
パプスト『喜びなき街』はウィーンで、女たちが家族を養うために身を売るさまを描き、グレタ・ガルボのデビュー作ともなった。
トーキーの出現とスタジオ外での撮影が可能となり、ドキュメンタリー方式で都市の日常生活を描く作品も
経済恐慌で、「新しい客観性」は消え失せ、大量生産方式による愛国映画や、『会議は踊る』のような喜劇へ。


新聞のところにもでてきたフーゲンベルクは、映画でも企業連合「ウーファ」をつくり、映画制作と配給に強い影響力を持っていた。
そうした中で、反権力主義なザーガン作品や、パプストの平和主義映画や『西部戦線異状なし』の成功の意義は大きい、と。

第6章 共和制の危機と終焉

1929年10月 シュトレーゼマンの死と暗黒の金曜日
失業者の増加
ナチの躍進
ヒンデンブルク再選
ブリューニング(中央党)内閣、パーペン内閣(男爵内閣)、シュライヒャー内閣の変遷と、だんだんナチの影響力が高まっていく様子が短くまとめられている。
ここらへんも林健太郎『ワイマル共和国』 - logical cypher scape2で3章くらいかけて説明されているところ。

結び ヴァイマル共和国は他殺されたのか自殺したのか

章タイトルの意味は、ドイツ国民にとって民主主義・共和主義は外来思想であって根付いていなかったのか、いやしかし、ブルジョワ自由主義の伝統もあるし、みたい話だとは思うのだけど、婦人層の動向についての解説に多くのページを割いている。
女性の投票率は次第に低下し、第2章で諸外国より高かったと書かれていた女性議員比率も低下していく。
婦人の労働問題も等閑視されていた。
ドイツ婦人会連合は保守化していく。イタリアのようなファシズムの方がいい、みたいな発言もあり、ナチへの投票に繋がっていった。