中屋敷均『遺伝子とは何か』

遺伝学の歴史から遺伝子概念の変遷を追っていく本
以前から積んでいた本で読むタイミングがなかなかなかったのだが、応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2で「無知を産む装置としてのパラダイム——遺伝暗号解読競争からの教訓——(石田知子)」を読んだのをきっかけに手に取った。
実は、事前には遺伝学史の本だという認識があまりなかったのだが、上での石田発表を読んで「そう言えば自分、分子生物学の歴史よく知らないな」と思った矢先に読み始めたら、ちょうどそのあたりのこととかも書かれていて、ドンピシャにはまって面白かった。
マクリントック登場の「(起承転結における)転」っぷりがはまっていて、歴史物語の描き方がうまい。
また、セントラルドグマにおけるワトソンVer.とクリックVer.の違いであったり、ダーウィンの「ジェミュール」であったりといった忘れられた歴史的細部に、現代の観点から再解釈しているあたりなど面白かった。


遺伝子概念について、形質を遺伝させる何らかの「因子」である、という定義から、分子生物学の進展により、タンパク質をコードするDNA配列である、というセントラルドグマに基づいた定義へと精緻化されていった。
しかし、実際には、タンパク質をコードするDNAはゲノム全体の中では一部であり、非コード領域も「形質」に関与していることがはっきりしてくるにつれて、タンパク質をコードしていることを遺伝子の定義に用いるのは不適当ではないかと考えられるようになり、機能という言葉を用いて定義されるようになる。
筆者は、ENCODEプロジェクトによるこの定義についても、遺伝子の働きをトータルに捉えるならば、不完全なものなのではないかと指摘している。
ただ、これは別に前の定義が間違っていたとかそういう話ではないと思う。
遺伝子の働きがより分かるようになっていった過程が描かれており、よくもまあこんなにも精妙な仕組みが備わったものだなあ、と改めて思った。
遺伝子をどう定義すればよいか、という問題は、この本のタイトルにもなっている主題ではあるのだけれど、自分のような外野の人間にとってはそこまで重要な話でもない気がした(研究者がプラグマティックな理由でプラグマティックで細かい定義をするのは、それはそれで別にかまわんのでは、と)

序章 遺伝学前史

まずはヒポクラテスアリストテレスから
ヒポクラテス:雄と雌それぞれの「精液」から遺伝する、という二種説
アリストテレス:雄が形相を担う、つまり遺伝は一方からのみ、という一種説
なお、二種説はパンゲネシス説というのに繋がっていって、ダーウィンの「ジェミュール」説へと連なる。
現代から見るとヒポクラテスの方が正しいように見えるが、アリストテレスアリストテレスで後成説(という意味では正しかった)


前成説と後成説の対立は長く続く。
レーウェンフックによる顕微鏡のあと、ハルトゼーカーはホムンクルスのスケッチを描いて、前成説が優勢に(元は想像図でしかなかったが、後に、ほんとうに見たと言い出す人が出てきた)
入れ子
前成説がまだ優勢だった頃、ヴォルフによる胚発生初期のスケッチが描かれ、後成説を後押し
その後、ベーアの胚発生研究で、後成説が決定的になっていく

第1章 遺伝学の夜明け

第1章は、メンデルの略伝
貧しい家庭に生まれたが、家族による援助で教育を受ける機会を得て、聖トーマス大修道院の聖職者となる。
ナップ院長は聖職者であると同時に農業改革などに取り組んでいて、彼のもとでメンデルは品種改良に取り組むようになる。
また、ナップ院長の取り計らいで、ウィーン大学での聴講を2年間行い、ここで確率論や組み合わせ、当時最新の生物学であった細胞学などを学んだことが、のちの研究へと繋がっていく。


メンデルの研究のポイント

  • 表現型と因子の区別
  • 因子の性質は交配によって変化しない
  • 生殖細胞が普通の細胞とは異なる状態になること(粒子説とされる)


メンデルの法則は、「優劣の法則」「分離の法則」「独立の法則」といった法則からなるが、メンデルが明確にそのように述べた箇所はなく、後に「再発見」した人々が整理したもの
メンデルの研究は当時はあまり他の人から理解されておらず、研究ノートも処分されてしまったため、メンデルが実際にどのような理解をしていたかは不明だとのこと
ただ、実験に使っている形質は、明らかに上記の法則に従うものを事前に選定している、とのこと。


ナップ院長が亡くなると、メンデルが次の院長となる。
修道院の院長というのは、地域社会の行政職という面も強くて、かなり多忙となり、結果的に体調を崩してメンデルも亡くなってしまう。
本章の最後では、筆者はメンデルのことを科学者である以前に宗教家であったのだとしたうえで、メンデルの研究には、非常に地道に継続的に大量の品種を管理していくことが必要で、宗教的な情熱の上で支えられていたのだろう、と。

第2章 「遺伝子」の誕生

1865年のメンデルの法則発見から1900年の「再発見」までの35年間
生物学の世界では多くの進展
ヘッケルの三界説、ダーウィンの進化論、パスツールやコッホによる微生物の発見
遺伝について重要なところでは、ヘルトヴィヒによるウニの受精の観察で、雌雄の核が融合することが分かり、また、染色体が発見される。


1903年 ウォルター・サットン「染色体説」(遺伝の因子は染色体だという説)


なお、遺伝の因子については、19世紀後半から様々な仮説があったが、いずれも思弁的な域をでなかった
ダーウィン「ジェミュール」
ド・フリース「パンゲン」
ヴァイスマン「デテルミナント」「イド」「イダント」
ヨハンセンが「遺伝子gen」と命名する。
これは「パンゲン」からパンをとったもの(この「パン」はパンゲネシス説のパンなので、より中立的な名称としてgenとした)


モーガンと「ハエ部屋」「ハエ小僧」
コロンビア大学モーガンの研究室は「ハエ部屋」と、弟子たちは「ハエ小僧」と呼ばれた。
まだ新しい学問分野だったためか、山賊のような風貌のモーガンと小僧たちが、乱雑な研究室で闊達に研究を進めていたらしい。
モーガンはもともとはメンデルの法則に懐疑的だったらしいが、実験を続けるうちにメンデルの洞察が優れていたことを実感していく。
独立の法則には多くの例外があることが分かり、そこから乗り換えと染色体上の遺伝地図を作ることに成功する
1933年ノーベル賞

第3章 「遺伝子」の「正体」

因子と形質の関係の難しさ
そもそも、一つの因子、一つの形質とはどのように特定されるのか


遺伝を担う担体は一体なんなのか
タンパク質か核酸
当初は、タンパク質説が優勢であった。


19世紀
生気論で説明されてきた生物特有の反応・作用については、酵素によって説明がされるようになってきた。
そして、20世紀に入り、酵素の正体がタンパク質であることが分かる
1926年サムナーによる発見
1929年ノースロップによる発見
1949年 サムナーとノースロップノーベル化学賞→生気論が衰退した証


1930年代は、生化学の時代
モーガンの門下生ビードルは、ショウジョウハエからアカパンカビに対象を変えて研究する
(その前の研究でドイツのグループに先をこされたため、さらに早くできる対象にかえた)
代謝ステップと遺伝子との対応をつきとめる
1遺伝子1機能仮説
1941~1945年にかけて発表され、1958年にノーベル賞


DNAの発見
バージルのミーシャがヌクレインとして発見
その後、ミーシャの弟子がヌクレインアシッドみたいな命名をするのだが、それが英語でnuclear acid(核酸)と訳されてしまう。
レヴィーンはDNA、RNAをそれぞれ発見し、その構成要素を特定した。
アデニン、グアニン、シトシン、チミンの4つの塩基の存在比が等しいことから、これら4つが均等に並んだテトラヌクレオチド仮説を唱える。これは全くの誤りだったわけだが、まさか核酸が遺伝子だとは思われていなかった頃の話であり、筆者はむしろ、レヴィーンがDNAやRNAの構成要素を発見したことを評価している。
4つの塩基がそれぞれ2つセットになっている「シャルガフの法則」
グリフィス、アベリー、ハーシーとチェイスによって、DNAこそが遺伝を担っていることが分かる

第4章 解き明かされた「生命の秘密」

シュレディンガーは『生命とは何か』の中で、「遺伝暗号を担う非周期的結晶」という概念を提案しており、これはまさにDNAの特徴を言い表していた。
筆者は、演繹的な推論でも真理にたどり着ける例としている(筆者自身は生物学者であり、どちらかといえば帰納的な手法で研究している)。
このシュレディンガーの著作をきっかけに、物理学・化学畑から生物学への新規参入組が現れる。クリックもその1人。
第4章は、DNAの二重らせん構造発見を巡る話


ワトソンとクリックは、ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所で、
フランクリンとウィルキンスは、ロンドン大学のキングズカレッジにそれぞれ勤めていた。
この2つの研究機関は互いに役割分担をしていて、実はDNAの研究はキングズカレッジの領分であり、ワトソンとクリックの本来のミッションは別にあった。ただ、彼ら自身はDNAの解明の方に関心があり、副業的にそちらの研究をしていた、と。
で、ウィルキンスがフランクリンの撮影したX線写真をワトソンとクリックに見せたことで、2人は二重らせん構造へといたるわけで、ここらへん、研究倫理的にかなりクロだったのではというと、今現在ではよく知られた話だが、上述のようなことがあったので、ウィルキンスも油断して見せてしまった、みたいなことがあるらしい。
あと、キャヴェンディッシュ研究所の当時のボスの方でも、功を焦って、みたいなのがあったらしい。


さて、筆者は、ワトソンとクリックが研究倫理的にまずいことをしていたのは確かだとして、それがなかったら、フランクリンが真の発見者なのか、というと必ずしもそうではないだろう、と論じている。
フランクリンは結晶学者としてDNAの構造を調べていたのに対して、ワトソンとクリックは、DNAが遺伝暗号を担うための条件という面から考えていた。
つまり、帰納的なアプローチと演繹的なアプローチというアプローチの違いがあった。
帰納的なアプローチからは、二重らせん構造なのかどうかはっきりしなかった。
演繹的なアプローチからは、証拠がなかった。
その両者のいずれが欠けても発見には至らなかっただろう、というのが筆者の見立てである。

第5章 新たな混乱の始まり

一遺伝子一酵素
ガモフ「ダイヤモンドコード」


1955年 パラーデによるリボソーム発見
これにより、ダイヤモンドコードは間違っていたことがわかる。
クリックが、一遺伝子一リボソーム一タンパク質仮説を唱える。


1956年・58年 ヴォルキンとアストラカンによるDNA like RNA発見
また、1960年には、野村眞康がDNA like RNAについて論文を発表しているが、筆者はここでの野村の考察は、事実上mRNAのことを述べているとして、野村の功績が忘れられているのではないかとしている。
mRNAは、1961年に、ブレナー、ジャコブ、メセルソンによって発見されたことになっている。彼らの実験は、クリックの一遺伝子一リボソーム一タンパク質仮説を否定しているものとなっている。ただし、筆者は、確かにクリックの説を否定する点では決定的ではあるが、それ以外では新しい発見をしたものではない、としている。


1961年 ニーレンバーグによる遺伝暗号解読
ついで、ホリーがtRNAの構造解明
リボゾーム、mRNA、tRNAの役割が明らかになることで、セントラルドグマが確立する。
こうして1960年代半ばには、分子生物学は終わった、と考えられる程になった。


がしかし、実際にはそんなことはなかった。
1951年に、マクリントックは講演の中で、「遺伝子が動く」「遺伝子が別の遺伝子の働きに影響を与える」という2つのコンセプトを示す。
これこそが、新たな混乱の始まりであった。
マクリントックは、「遺伝子が動く」つまりトランスポゾンの発見で有名であるが、筆者はむしろもう一つのコンセプトである「遺伝子が別の遺伝子の働きに影響を与える」が重要だったとする。
1961年 ジャコブとモノー オペロン仮説
遺伝子配列の中にで、遺伝子発現を制御しているプロモーター配列があって云々という考え

第6章 RNAが開く新時代

セントラルドグマには実は、クリック(1957)とワトソン(1965)とで相違がある、と。
ワトソン(1965)の方はよく知られているDNA→RNA→タンパク質という、情報が一方方向にのみ流れるモデル
対してクリック(1957)は、DNA→タンパク質←RNAとなっていて、情報源がDNAとRNAの2つがあり、また、DNAとRNA間での情報のやり取りも書かれている(なので図としては、DNAとRNAとタンパク質が一列に並んでいるのではなく、それぞれを頂点とした三角形で描かれている)。
これは、まだその当時、RNAの役割がはっきりわかっていなかったので、そのあたりを曖昧にしたというか、はっきりさせずに書いたものであって、その後、RNAの役割が分かるに至って、ワトソン(1965)へと精緻化されたものではある。
ただ、筆者は、後知恵的に、クリック(1957)のモデルの方が正しかったのではないかという


1970年 テミンとボルティモアの逆転写酵素
1980年代 チェックとアルトマンのリボザイム
これらにより、RNAからDNAの情報が流れることや、RNA自体が酵素として働くことが分かる。


1960年代後半から ブレナーは分子生物学に見切りをうけて、線虫研究へ
ブレナーの弟子のホロビッツ ヘテロクロニック変異の研究
1980年代後半 
この線虫のヘテロクロニック変異に、たんぱく質をコードしていない配列が関与していることが分かる。
1993年 
短いRNAが転写されていることが分かる。のちに、マイクロRNAと呼ばれるようになる
マイクロRNA自体が機能分子
現在、2800種のマイクロRNAが知られており、mRNAの60%がマイクロRNAの制御をうけている。


チェックとアルトマンのリボザイム
テトラヒメナの実験によって発見され、1989年にノーベル化学賞に繋がった。
RNAのリボと酵素エンザイムを組み合わせてリボザイム
RNA自体に触媒活性があった。
2000年代 リボゾームもまたリボザイムだったことが分かった
リボゾームは、タンパク質が付加されることで反応速度を加速させているが、なくても機能する


1998年 ファイアーとメロー RNAi(RNA干渉)の発見
2005年 FANTOM3プロジェクト 
マウスのゲノムについて、タンパク質コード領域は1.5%なのに対して70%がRNAに転写されている。何の機能もなく70%も転写されているわけがない
→いわば「RNA新大陸」の発見

第7章 DNAを越えた遺伝子

第7章は、エピジェネティクスについて


1883年 ヴァイスマン「生殖質説」
体細胞の変異は生殖細胞には伝わらない、という説
生殖質説にしろ、セントラルドグマにしろ、多くの経験的事実により支えられており、揺るぎないものと考えられてきた。


オランダ飢餓
第二次大戦末期、まだナチスドイツの支配下にあったオランダで起きた飢餓
その後、長期的な追跡調査が行われており、飢餓によるストレスの影響が、直接飢餓を経験していない孫世代まで遺伝していることが分かった
エピジェネティクス


獲得形質の遺伝
ウォディントン(エピジェネティクス命名者)の1940~50年代のショウジョウバエの報告や、トウモロコシのパラミューテーションの遺伝など、獲得形質の遺伝とみられる事象は報告されてはいた。
2013年 ディアスとレスラー マウスの匂いと恐怖反応の条件付けの遺伝
エピジェネティックな変異が遺伝している


体細胞から生殖細胞への伝達
体細胞で起きたエピジェネティックな変異が、何らかの方法で生殖細胞へ伝達しているのではないか。
まだはっきりしてはいないが、注目されているのはエクソソーム
エクソソーム内にマイクロRNA、さらには、長鎖非コードRNA、DNAが含まれていることが分かった。
これら(特にマイクロRNA)が、体細胞から生殖細胞への伝達を担っているのではないか、と。
筆者は、ダーウィンの「ジェミュール」概念との類似を指摘している(体細胞の情報が遺伝する、という点において。ジェミュール仮説は遺伝子の物理的実体(遺伝情報の担体)についての仮説なので、その点においては誤り)


エピジェネティックな変異の遺伝についての話は、以前から読んだことがあったが、生殖細胞にその変異がのるのか? みたいなところはちょっと疑問で、エクソソーム仮説は興味深かった。


非コードRNAの遺伝
2006年 Kit遺伝子変異のマウス
2014年 精神ショックを与えたマウス
アベリーがDNAを注入してDNAが遺伝子の実体であることを確かめた実験のように、RNAの注入による変異が起きるかどうか実験した


章末コラムで、プリオンについても取り上げている。

第8章 遺伝子とは何か

ここまでも書かれてきた遺伝子の定義の変遷を改めてまとめつつ、ヒトゲノムプロジェクトの後継であるENCODEによる遺伝子定義を紹介する。
そこでは、セントラルドグマ的定義がタンパク質を用いていたのに対して、「機能」を定義に用いている。
問題となるのは、遺伝子の単位であった。
DNAは転写される際に選択的スプライシングというのが行われる。
あるタンパク質なりをコードする配列の間にイントロンというジャンクが入っているので、これを切り取る作業だが、実際には色々なバリエーションがあって、複数の配列を別の組み合わせにしたりなんだり、というのがある。
そうしたヴァリアントを1つにまとめてカウントするために、ENCODEの定義は作られている。
ところで、エンハンサーとそれが働きかける配列はすごく離れているのだが、実際には折り畳まれているので、物理的な距離は近いらしい。
ただ、配列として書き出すとすごく離れた場所にあるので、エンハンサーと実際にコードされている配列の関係を特定するのが難しい。
さらにいうと、制御配列とタンパク質コード配列の関係は一対一ではなく多対多となっている
エンハンサーの働きも含めた上で、個別に特定していくのは実際上は困難なので、ENCODEの遺伝子定義はそれを含まないようにしている。
ただまあ、筆者はそれってどうなの、という立場のようである。


2012年 ENCODEによって、ヒトゲノムのタンパク質コード領域1.11%に対して、機能的な配列は80.4%と発表される
この数値自体には懐疑的な声もあるが、とにかく、驚きの数ではある。
2014年 転移因子による遺伝子のネットワーク化が示唆される。
マクリントックが動く遺伝子として発見した転位因子(TE)だが、ゲノム配列中で反復されるTE配列が同時に複数の遺伝子を制御
筆者は、ゲノムとは、個々の独立した遺伝子の集合体ではなく、多数の遺伝子を協調的に制御するシステムなのである、とまとめている。


ゲノムの進化
とはいえ、そのようなゲノム観はヒトに限った話なのではないかと疑うこともできる。
原核生物や真核単細胞生物は、タンパク質のコード領域はゲノムの90~70%を占める
2007年 マティックはゲノム進化にあるパラダイム変化があったと提案
多細胞生物へと進化した頃に、RNAネットワークの増大への変化があったのではないか、と。
原核生物はゲノムサイズとタンパク質をコードする遺伝子の数は比例する。
一方、多細胞生物同士である線虫とヒトは、ゲノムサイズについては30倍の差があるが、タンパク質をコードしている遺伝子の数は大して変わりがない。
つまり、原核生物は、タンパク質をコードする遺伝子の数を増やしてったのに対して、真核多細胞生物では、それ以外の領域を増やしていった(つまり、線虫とヒトのゲノムサイズの差は非コードRNAなどの差)、と。

終章 遺伝子に関する一考察

生命の起源
筆者は自身をRNAワールド仮説の賛同者であるとするが、原始的な遺伝物質はRNAではなく、より合成の容易なトレオース核酸やペプチド核酸ではないかと


シャノンの情報量は、遺伝子の情報を捉えられていないのではないかとか
このあたりは、別に遺伝子に限った話でもないような