応用哲学会2024年大会

今年の応用哲学会は、Slack上での完全オンライン開催となったため、参加してみた。
参加といっても、気になったタイトルの発表について、共有された原稿やパワポを眺めただけだけど。

銭清弘 ルールとしてのジャンル

「この作品は◯◯(SFでもロックでも何らかの任意のジャンル名)だ」「いや、違う」という争いがある時、それは事実(この作品にどのような特徴があるか)ではなくて、規範(この作品をどのように鑑賞すべきか)をめぐる争いなのだ、ということを示していて面白い
かつて銭さんが「駄作を愛でる」っていう発表で言ってた逆張り鑑賞とかの話をさらに発展させていった話としての、ルールとしてのジャンル、フレーミングとしてのジャンルへのカテゴライズなんだろうな、と思った。
これって、博論をベースにした発表ということでいいのかな?
いつか著作として出るのだろうか。


それはそれとして、「ラノベ」は果たしてジャンルなのかどうかとかよしなしごとを
自分は、ラノベってメディアとか形式とかの類ではないかと思ってた(というかこの発表を読んで事後的にそう思っていたと気付いた)し、実際、そういう側面はあると思うけど、(銭さん的な意味での)ジャンルとしての側面もあるかなと
というか、そこの食い違いがあると、ラノベ定義論争も食い違うよなーと
あと、自分はジャンルを歴史的存在として、かつ、形式的なものとして捉えがちなので、「竹取物語はSF」とかただの妄言だと処理しがちなのだが、ルールとしてのジャンル観に立つと、有意味な主張としては理解可能になる(まあその上でも、その適用はおかしい、と思うけど)。


上で「銭さん的な意味で」と書いたが、銭さんが言うところの「ジャンル」と世間一般で言われるところの「ジャンル」は必ずしも一致しない。
世間的にジャンルと思われるものでも、銭さんの考えるジャンルにあたらないものもあれば、その逆でもある。
ただし、銭さんは、あるカテゴリは、同時にジャンルでもあり形式でもある、とかそういうことがある(メタカテゴリ同士は排他的ではない)ということも述べているので、極端に日常的な用法から離れることもないと思う(例えば、俳句は形式であると同時にジャンルでもある、と言う。こういう言い方は日常的にはあまりしないが、しかし、言われてみると納得感はあると思う)。


ところで、ある作品に対してそのジャンルを適用する成否ってどうやって決まるのだろうか。
というか、普通、ジャンルと作品とって帰属関係というかメンバーシップ関係だと思われていると思うのだけど(あるジャンルは個々の作品をそのメンバーとしてもつ)、ルールの場合、そういう関係じゃないよな。だとすると、どういう関係?
あくまで自分個人はこの作品にこのルールを適用して鑑賞します、という私的な適用はありなのか?
まあとはいえ、やはり共同体の中で、この作品にはこのルールを適用すべきという規範があると考えるべきなんだろうな。作品解釈にもかかわってくるし。
ただ、実はこっちのルール(ジャンル)を適用した方がよいぞ、みたいなことが起こってくるということだよな。
いや、だからこそ「〇〇はSFだ」「いや違う」という論争があるのだし、その点では別に、ジャンルをルールと考えようが分類と考えようが同じことか。同じことか?
フレーミングは、スタンスの表明や提案という行為であり、宣言型で「世界から言語へ」の適合性があるとされる。
ここで類比的に「私は警察だ」「ここは私有地だ」という宣言もフレーミングの役割を果たすと挙げられているのだけど、こうした宣言が適切・誠実となるのは、発話者が本当に警察だったり、制度上、権利や権威を有している者だったりする場合なのではないか、と(「ここは私有地だ」という宣言は、発話者はその土地の権利者じゃなくても成り立つことは成り立つが、しかし完全な赤の他人がいう場合は、事実の言明に近いような気もする。どうなんだろう)
ジャンルのフレーミングについては、作者や出版社にある程度権威がある気がするが、そうでない人間にできないわけでもない。むしろ、そうでない人間でもできるから、論争が生じるのだろう。
「駄作を愛でる」発表と組み合わせて考えるのであれば、解釈上・評価上の利得についての均衡(としての制度)が生じて、それによってフレーミングの適切さが決まる感じなのかなあ。
これはあくまで哲学・美学的な論点だけど、それとは別に、鑑賞者の実際の鑑賞的反応が生じる際に、どういうタイミングでジャンルのフレーミングが関与してくるのか、という心理学的な論点も気になるといえば気になる(例えば、状況モデル関係の研究で、フィクションかノンフィクションかでどう違うかみたいなのはあったはず)。

山田圭一 ChatGPTとウィトゲンシュタイン ―言葉の意味を理解するとはどういうことか?―

前期的には理解しているといえるかもだけど、後期的にはいえないよね、という話
うんうん、やっぱ「生活」大事だよねと思ったけど、ネット上で完結する「生活」という範囲に限ればありうるかも、とも言ってて、なるほど、言われてみれば確かにと思った。
松阪陽一「規則とパターン:後期ウィトゲンシュタインの洞察」という論文が言及されていて、 面白そうだったので眺めた
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/50/0/50_85/_pdf

WS 無知をめぐる科学と哲学

  • 石田知子 無知を産む装置としてのパラダイム——遺伝暗号解読競争からの教訓——

このWS内で3本くらいあったけど、これだけ読んだ。
分子生物学史を全然知らないので勉強になった。
遺伝暗号って、ワトソン、クリックあたりが解読したんだと勝手に思い込んでたけど、違った。
当時の主流派は、遺伝暗号を解読する研究を行うにあたって暗黙の前提を置いていたので、それにより「無知」が発生していて、解読に至らなかった。それを共有していなかった研究者の方が、発見できた、という話
ここでパラダイムは、通時的に変化するものではなくて、同時的にも複数共存しているものとして捉えられてる。また、研究者共同体も結構小規模なものが想定されている。
研究者共同体の多様性が必要だよね、みたいな話になっている、のだと思う。

金 雲龍  効果的利他主義は非規範的であるべきか

マッカスキルは、効果的利他主義というのはあくまでも社会運動であって、「効果的利他主義をすべき」という規範的な主張を含まない、としているらしいが、シンガーは規範的なものとして捉えていたはず
ということで、マッカスキルが効果的利他主義は非規範的であるとした理由を退ける発表になっている。
マッカスキルは、効果的利他主義が非規範的である理由は、運動の参加者に聞いたら、非規範的な方がよいと答えていたから、と述べているらしいが、倫理的な主義主張だとすると、それは通らねえんじゃないの、というのはその通りな気がする。

下道亮成  概念分析は人類学的営みか:H・コーンブリスの議論を批判する

コーンブリスは概念分析批判をしていて、その中で、概念分析は科学的主張を取り込まないからということを述べているらしいが、実際の概念分析は、科学的主張を取り込むこともあるよ、みたいな発表だったかな。
ところで、リチャード・ボイドって道徳的実在論やってる人だったのか。

坂田萌音 クライオニクスにおける自己決定の妥当性

クライオニクスの賭け(パスカルの賭けのクライオニクスVer.)なんて論法あるのか
医療倫理的に考えると、クライオニクスまずいよね、という話

佐藤巧眞  実在的パターン概念の現在とその応用可能性

実在的パターンというのは、デネットが命題的態度の実在を論じる際に提案したアイデアで、後に形而上学でも使われるようになり、本発表では、倫理学における「理由」の実在に応用している。
命題的態度が実在なら理由も実在だろ、って言われると、そうかも、ってなんか思わされる。
実在的パターンって何かというと、情報量が圧縮できる場合、それに相当する
完全にランダムな数列は実在的パターンじゃないけど、123123123……みたいな数列で「123のn回繰り返し」みたいに言える場合は、実在的パターンだ、というらしい。


ところで、下道、坂田、佐藤がみな一橋の井頭研だった
あと、やはり井頭研の院生の人が懇親会の幹事だったっぽい
もう大分前からだけど、一橋大学が地味に分析哲学研究のホットスポットになっている気がする(哲学科が存在しないのでたぶん見逃されがちだが)。

久保田琉惟  自己知の徳認識論

自己知には、トリビアルな自己知とsubstantialな自己知があるという区別の仕方、知らなかった気がする。

WS AI・ロボットとともにある共同体の倫理

約30分の動画×5に挫けてしまって、興味あったけどあんまり追えなかった
友情規範と道徳規範は別、という竹下発表が単体で読んで面白かったけど、WS全体のテーマ設定が頭に入ってこなかった

応哲じゃない奴

「最近の図像をめぐる科学史研究について : クラウス・ヘンチェルの研究を中心に」
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2003245
確か、石田発表に「ニーダム」が出てきて、そういえばリチャード・オヴァリー『夕闇の時代──大戦間期のイギリスの逆説』(加藤洋介・訳) - logical cypher scape2にニーダムって出てきたけど、分子生物学系の人だったのかとググっていたら、橋本毅彦が出てきて、橋本毅彦について見てたら見かけたのでちょっと眺めてみた論文
なお、ニーダムは生化学者かつ中国科学史について研究した科学史家。
上の論文、タイトルだけだと何のことか分からないのだが、サブタイトルになっているクラウス・ヘンチェルのことだけでなく、マーティン・ラドウィックと『客観性』についても書かれている、ということで興味をひいた。
90年代頃から図像を巡る科学史研究というのが盛り上がっていて、その集大成として、一方にヘンチェルの著作があり、他方に『客観性』がある、という感じらしい。
で、ヘンチェルの著作を紹介しつつ、図像をめぐる科学史研究の古典としてラドウィック論文についても検討し、という論文