大戦間期のイギリスを覆っていた「悲観主義」についての本
第一次世界大戦の衝撃を受けて、次なる戦争への不安が共有されていた時代であり、西洋文明が終わりを迎えるのではないかという悲観主義に覆われていた、と。
歴史学、経済学、生物学(優生学)、心理学(精神分析)、平和運動などの諸分野で、どのような言説があって、どのように「悲観主義」が広まっていったかを論じている。
最近、戦間期欧米の歴史の本をいくつか読んでいる。
で、イギリスのこと全然わからんなーと思ってググって出てきた本を図書館で借りたんだけど、結構分厚い二段組の本だった。今回の戦間期欧米の歴史の本を読む企画は、(自分自身が右も左も分からない状態なので)できるだけ文庫・新書にする、ということにしているので、ちょっと選書をミスった気はする。
サクサク読もうと思えばサクサク読んでしまう本であり、特段難しいことは書いていなかったが、当時のイギリスの悲観主義的言説を追う、というテーマの本なので、もっと基礎的な、この当時の出来事とか人物とかの解説は薄い。
事前に書評記事か何かで「トインビー、ホブソン、ケインズ、ウェブ夫妻、フロイト、ハクスリー兄弟、ウェルズら」が出てくる、というのは知っていて、なるほど、確かにこの人たちについて知りたいなと思って手に取ったのだが、この人たちの伝記的事実については読者は知っていることが割と前提になっている。
それはそれとして、この人たちがどういう言説を主張していたか、あるいはどういう社会運動・政治運動に参加していたか、ということがあちこちの章で出てくるので、その点で十分興味深い内容ではあった。
大戦間期のイギリスの何となくの雰囲気も窺い知ることができる。
上述の人たちだけでなく、ウルフ夫妻の名前もちょいちょい出てくる。特に夫の方のレナード・ウルフはあちこちの章に名前が出てきた。テーマ的に、ブルームズベリー・グループへの言及はほぼないし、ヴァージニア・ウルフの作家業についても何も触れられていないが。
序論 大戦間期のカッサンドラたちとエレミヤたち
1 衰亡と崩落
2 資本主義の死
3 民族の肉体を蝕む病気
4 医薬であり、毒薬でもある 精神分析とその社会的衝撃
5 なぜ戦争は起こるか
6 死への抵抗
7 ユートピア政治学 治療法か、それとも病気か
8 「死の船」の航行 戦争へ向かう世界
9 病的な時代
訳者あとがき
序論 大戦間期のカッサンドラたちとエレミヤたち
1 衰亡と崩落
第1章では、主に歴史学の観点から西洋文明の衰亡が論じられたことについて
特に、シュペングラーとトインビーが扱われている。
シュペングラー
もちろんシュペングラーはドイツ人で『西洋の没落』もドイツ語で書かれた本だが、英訳されてイギリスでも読まれた。
ところで、シュペングラーって在野研究者であって、歴史学者としてのトレーニングを受けた人ではないんだな
トインビー
シュペングラーのことを批判したが、文明の成長と衰退が繰り返すという物語は同じ
この章、シュペングラーとトインビー以外にもたくさん登場人物はいるのだが、わりとレナード・ウルフが繰り返し言及される印象(ほかの章でも出てくるが)
ほかに、H.G.ウェルズ、ギルバート・マレイあたりも
2 資本主義の死
経済の面からの悲観主義
ウェブ夫妻『資本主義文明の衰退』
経済学について専門化がすすみ、一般向けへの解説が求められていた。
そうした書き手として、ジョン・A・ホブソンがいる
さらに、ホブソンに影響を受けたG・D・H・コール、モーリス・ドブなど
ホブソンは、研究職には就かず、記者や講演活動をしていた人で、プロの経済学者よりも一般大衆から支持されていた。マルクス主義者ではなくマルクスの理論は批判したが、マルクスとの共通点も多く、資本主義の限界を説いた
ウォルター・グリーンウッド
こちらは小説家で、労働者階級の出身だが、労働者の貧困を描いた小説を発表して一躍時の人となった。
1920年代の悲観主義は、1930年代の経済危機で裏付けられる
オズワルド・モズリーという労働党の政治家がファシズムの新党を作る
一時期、モズリーと合流していたジョン・ストレイチーはのちに共産主義を支持するように
計画制
資本主義の危機に対してソ連の実験が研究され、経済危機を脱するために計画制が注目されるようになる。
資本主義は無秩序であり、計画性は進歩である、と
進歩主義者は、団体と個人のための進歩主義連合
左派以外からも計画制は主張され始め、政治経済計画推進機構ができる
理事の一人にジュリアン・ハクスリーがいた
ただ、この機構は、特定の政治的立場をとらないという方針であったために、逆に、左右両方から非難された
危機の回避に役立ったのは、計画制ではなく経済理論
ケインズもまた、かなりホブソンから影響を受けていたらしい
ただし、ケインズ経済学が実を結ぶのは1940年代以降であり、戦間期のケインズは、まだ、資本主義の限界を説き、危機の回避策を探る多くの経済学者の一人にすぎなかった、とも。
3 民族の肉体を蝕む病気
主に優生学の話
産児制限運動
アメリカのマーガレット・サンガーが始め、イギリスでは、メアリ・カーマイケル・ストープスが有名。ただし、サンガーとストープスはのちに対立するようになる。
劣った者に避妊させる
ストープスは自慢の息子が連れてきた結婚相手が眼鏡をかけていたことで、息子と縁を切ったらしい……
優生学
ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンやダーウィンの四男であるレナード・ダーウィン
ジュリアン・ハクスリーやバーナード・ショーも支持者
生物統計学のゴルトン派とメンデル遺伝学派に分かれる。
また、優秀な者の遺伝子を増やす方向の積極的優生学と劣った者の遺伝子を減らす方向の消極的優生学がある。
「不適者」という存在がいることをみな前提としていた。ただ、その定義はわりと混とんとしている。
教育心理学者のシリル・バートは、知能の遺伝や精神障害について論じた。
消極的優生学は、ガス室か断種という選択肢を検討するようになる
レナード・ダーウィンは、ドイツの方法を羨んでいる発言もしている。
断種運動を支持した科学者として、ジュリアン・ハクスリーとチャールズ・ブラッカーがいる。
断種法はドイツとアメリカでは成立したが、イギリスでは失敗する。
カトリックと労働党の反対が強かったため
断種運動の失敗により、1934年以降、積極的優生学へと方向を転じるようになる。
さらに、出生率低下による人口減少の危機が語られるようになる。
4 医薬であり、毒薬でもある 精神分析とその社会的衝撃
フロイトの精神分析がイギリスに広まっていく過程について
まずは、胡散臭いものとして、また、いたずらに性について語る不道徳なものとして反発される。
心理学者のシリル・バートは精神分析を敵視した。
フロイトに師事したアーネスト・ジョーンズがイギリスに精神分析を広めていく。
ただ、一般の人たちは、危機の時代に対する心理学的な説明を求めていて、精神分析の語彙が広まっていく。
ウルフ夫妻の出版社では、フロイトの英訳を出版している。
ただ、ヴァージニア・ウルフ自身はフロイトは読んでいなかったらしい。
性的なものへの規制は色々行われて、バートは、青少年への映画の影響を危惧した報告書を書いている。
バートは、性教育を重視した。また、当時の性教育の教科書としてベアトリクス・ウェブによるものが有名だったらしい。
BBCは、バートとジョーンズの対談を放送している
1930年代に入ってくると、フロイト自身が、文明について語るようになる。個人だけでなく文明に精神分析を適用していく。
トインビーにも影響を与えたとか。
5 なぜ戦争は起こるか
章タイトルにある通り「なぜ戦争は起こるか」という問いについて、経済学、生物学、心理学など科学が答えようとした。
いずれの分野も、戦争は必然的に起こるだろう、というある種黙示録的な結論にいたるも、人々の関心は「どうやったら戦争を止められるか」という点にあり、しかし、諸科学はこの点については答えることができなかった。
ギルバート・マレイは、国際連盟の芸術文化委員会委員長となり、往復書簡の企画をアインシュタインに依頼し、アインシュタインは相手としてフロイトを指名した
この往復書簡は「なぜ戦争は起こるか」というタイトルで出版された*1
科学的に戦争の原因を解明しようとしたものとして、リデル・ハートがいる。
経済学では資本主義が戦争を生み出すことについて論じられた。
ホブソン『帝国主義』(1902)
レーニン『帝国主義』(1917)は、ホブソンとマルクスの影響を受けて書かれている
G・D・H・コールは、武器売買について論じた。
ダーウィンの進化論は、しばし誤って戦争を正当化する理論とみなされた(闘争を勝ち抜いたものが進化的に有利だという俗的な理解)
ジョゼフ・ニーダムはそのような俗流ダーウィニズムを批判したが、その批判の矛先となったていたのが、アーサー・キース
1930年代は、人類の進化については生物学は扱わず、人類学で扱われるように
マリノフスキは、戦争が人間の性質だと考えたが、生物学的・進化論的なものではなく、近代においては不要になるものと考えた。しかし、だからこそ総力戦の存在に悩まされた。
戦争の原因の解明は、心理学に期待された。
オルダス・ハクスリーは、戦争は心理療法で治療できるのではないかと考えた。
フロイト理論で戦争の原因を考えたのがエドワード・グローヴァー
ただ、精神分析も戦争を回避する方法は見つけられず。
6 死への抵抗
反戦平和運動について
タイトルは1934年に編纂された平和主義の論集のタイトルから
国際連盟協会
国際連盟設立の唱道者でありノーベル平和賞も受賞したロバート・セシル卿が会長、国際連盟の事務局印で国会議員のノエル=ベイカーはセシルと行動を共にし、また、マレイは協会の議長
彼らと国際連盟協会が、平和運動を主導した
彼らは〈国民宣言〉という国民投票運動を行い、大規模な社会運動として成功させた。
絶対平和主義
国際連盟は集団安全保障であり平和のための軍事行動を許容する一方で、どんな目的であれ軍備も戦争も否定する絶対平和主義があり、アーサー・ポンソンビーやラッセルがいた
(ラッセルが絶対平和主義者として名前があがっているけれど、アポストロス・ドクシアディス、クリストス・パパデミトリウ『ロジ・コミックス』 - logical cypher scape2では、ラッセルは第二次大戦でアメリカの人たちに対独参戦を説く側として登場してくるのを思い出した)
ポンソンビーが労働運動系だったのに対して、キリスト教絶対平和主義もあった。
国教会はやや立場が微妙だが。
キリスト教絶対平和主義のディック・シェパードは平和の誓約運動を広める。
この平和の誓約運動に加わってきたのが、オルダス・ハクスリーとジェラルド・ハード
しかしこの2人は、神秘主義的傾向に向かい、運動にとっては厄介者であった、と。政治運動ではなく、生活上の訓練による人格の向上を主張した。彼らは、1936年には渡米し、運動を離脱する
1930年代半ば以降
国際連盟は、満州事変、エチオピア進攻などにうまく対応できず、信用を失っていき、反戦運動は衰退していく
反戦運動は、空想的、非現実的なもの含む多くの提案が論じられた。最後に、ウェルズが提唱した世界政府構想にも触れられている。
7 ユートピア政治学 治療法か、それとも病気か
ファシズムと共産主義に対して、イギリス社会がどのように反応したか。
当時のイギリスにはファシズム政党(モズリーの党)も共産党も存在していたが、議席という意味ではほとんどなかった。現実の政治運動という点では、イギリスは右傾化も左傾化もしなかった。
しかし、社会運動という点で、イギリスの人々に影響を与えていなかった、というわけではない。
まず、ヒトラーについては、関心が強かった。『わが闘争』の英訳版やヒトラーについての解説書が売れている。ただし、批判的な意味での関心であり、ナチズムへの警戒感・反発は強かった。
イギリスというと宥和政策でナチスを伸張させたというイメージがあるが、国内世論的にはナチスをかなり敵対視していたようだ(6章にある通り、反戦運動として、武力を用いない絶対平和主義と、武力行使も必要な場合があるという考えの対立があったので、反ナチスという点で合意できてもそれを実際にどのように実現するかでうまくいかなかったのだろうと思われる)。
イギリス人はドイツ語ができるし、ドイツに知人がいる場合も多いので、直接的に独裁政治の実態を知ることができたこと、また、1920年代においてはドイツはむしろ民主的に優れた国と思われていたので、文明的な国から野蛮な国へと堕してしまった、という印象になっていたことが影響している、と。
一方、ソ連については事情が異なり、イギリス人にとってロシアは遠い国であり、ロシア語ができるイギリス人は少なく、貧しかった国が計画制という実験を行って頑張っている、というような印象だったようだ。
「ファシズムと共産主義、どちらかを選ぶならどちらがよいか」みたいな世論調査では、共産主義を答える人が多かった、とも。
筆者は、ソ連そのものが支持されたというよりも、自国の問題点を議論する際の参照先としてソ連が見られていたというようなことも述べている。
積極的にソ連を支持した人もいれば、ソ連を支持はするがイギリスにそのまま適用できるものではないと距離をおいた人たちもいる。
前者としてウェブ夫妻が取り上げられている。
彼らはソ連について公刊されている文書から研究を行い、さらには実際にソ連への調査旅行も実施した(ベアトリスは体調不良でモスクワにとどまったが、シドニーはキエフやハルキウまで行ったらしい)。彼らが発表したソ連についての著作はかなり売れて、廉価版パンフレットも販売された、と。
スターリンが独裁者であることも否定し、粛正裁判について知られたあとも、ソ連を擁護する弁明を行ったので、その点では次第に信頼を失ったらしい。
イギリスは、共産主義者ではない「進歩主義者」の層が厚くて、ここに注目する必要がある、と。
で、1930年代は、コミンテルンが社会民主主義者との統一戦線路線を打ち出し、フランスでも統一戦線運動が活発になった時代で、イギリスでもやはり統一戦線への動きがあった。
進歩主義者たちは運動としてはバラバラだったので、これを統一しようという動きは、何度も起きたのだが、しかし、労働党が(統一戦線という共産党系の名前を)頑なに拒んだため、政治運動にはならなかった。活動が署名活動や出版活動に限られたので、次第に尻すぼみになっていくパターンを繰り返していたらしい。
8 「死の船」の航行 戦争へ向かう世界
スペイン内戦がイギリスに与えた影響について
1つには、反戦運動の分裂を明らかにしたこと
もう1つは、絶対平和主義者の中から武力行使も必要だという意見に変わる者が出てきたこと
イギリス政府自体はフランス政府とともに不干渉政策をとったが、国内から、ジョージ・オーウェルを始めとして義勇兵がスペインへ渡った
ただ、スペインの共和国政府内部も統一されておらず、アナーキストと共産主義者の対立などがあった。オーウェルは、トロツキストと言われてスペインから脱出してきた
ジュリアン・ベルの死
クライヴ・ベルの子でヴァージニア・ウルフの甥であるジュリアン・ベルが戦死している。
アーサー・ケストラーは記者として派遣されてスペインについて書いている。オーウェル同様、のちに共産主義に幻滅するが、当時はまだ共産党員で、フランコ軍に逮捕されている
(『機械の中の幽霊』やホロンのケストラーだが、スペイン内戦に行っていたと知らなかった……)
作家の多くは共和国政府を支持した(例えばベケットなど)が、ごく一部、チェスタトンなどはフランコを支持しており、エリオットは中立だったらしい。
バスクから避難してきた児童の受け入れの話。この時、受け入れ団体の名誉会長をセシル卿がやっている。
スペインに継続的に注目が集まったのは空爆もその理由である。
『ゲルニカ』のイギリス巡回など
スペイン内戦はイギリス社会の分裂を浮き彫りにした。ジュリアン・ベルの死後、ヴァージニア・ウルフは改めて平和主義を説く著作を書くが、夫のレナード・ウルフは意見を異にしていた。
チェンバレン
宥和政策をとってヒトラーを増長させた政治家のイメージがあるが、戦争を憎みつつも再軍備も進めた政治家で、ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻しようとしたとき、いったんはミュンヘン会議でヒトラーを止めたらしい。
その後結局ミュンヘン合意は破られ、ヒトラーはチェコスロバキア侵攻するが、イギリス世論は戦争支持へと傾いていく。
絶対平和主義者たちも1930年代末に主張を転換させていく。
ただ、ミュンヘン危機により急に変わったわけではなく、もとよりイギリスでは、戦争は避けられないという悲観主義がずっと続いていたということもある。
9 病的な時代
全体のまとめ
索引から言及多い人名ひっぱってみる
ウェブ夫妻
→フェビアン協会のビアトリスとシドニー。文筆家
ウェルズ
→作家
ウルフ夫妻
→ヴァージニアとレナード
オーウェル
→作家
エドワード・グローヴァー
→精神分析家
ケインズ
→経済学者
コール
→経済学者。ギルド社会主義
ヴィクター・ゴランツ
ストーム・ジェイムソン
→作家
ディック・シェパード
→聖職者
アーネスト・ジョーンズ
→精神分析家
スターリン
→ソ連政治家
ジョン・ストレイチー
→政治家
セシル
→政治家
チェンバレン
→政治家
トインビー
→歴史学者
シリル・バート
→心理学者
オルダス・ハクスリー
→作家。ハクスリー弟
ジュリアン・ハクスリー
→生物学者。ハクスリー兄
ヒトラー
→ドイツ政治家
チャールズ・ブラッカー
→科学者
フロイト
→精神分析家
ホブソン
→経済学者
ボールドウィン
→政治家
ポンソンビー
→平和活動家
キングスレー・マーティン
マリノフスキ
→文化人類学者
マレイ
→政治家
ラッセル
→哲学者
ハクスリー兄弟
以下はWikipediaを要約
ジュリアン:第一次大戦でイギリス情報部。進化的総合に貢献(科学的貢献は少ないが、ネーミングの考案、人的ネットワーク形成、後進の教育で貢献)。ウェルズと活動するため大学教員は辞めているらしい。ヒューマニストで国際主義者、自然保護活動を行い、後にユネスコ初代事務局長、WWF創設メンバー。ダーウィンメダル受賞。トランスヒューマニズムという用語を世に広めた人でもあるらしい……。本書を読んでいてもあちこちに名前が出てくる。
オルダス:目の疾患により兵役免除。1932年『すばらしき新世界』、1937年アメリカ移住。『知覚の扉』は第二次大戦後だが、本書を読むと大戦間期にその萌芽が見られていたのが分かる。『すばらしき新世界』についてもどこかで言及されていた気がする。
アンドリュー:異母弟。イカの軸索の研究でノーベル生理学賞。1935年から始まった研究で発表は1952年。アンドリューは本書には全く登場しない。イカの軸索の研究は渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2などで知っていたが、ハックスレイ表記だったので、恥ずかしながらハクスリー家の人だと気づいていなかった。
H.G.ウェルズ:国際連盟提唱者だったの?! トマス・ハクスリーの教え子。著名なSF作品は19世紀末に集中している。小説自体は1940年代まで書いている(1946年没)。SFで有名だが、ノンフィクションも多いようだ。 1900年以降フェビアン協会に入っている。ジュリアンとの共著で生物学の本も書いている(これについては本書にも言及があった)。
*1:ところで、高校生くらいの頃にこの往復書簡を読んだ記憶がある