筒井清忠編『大正史講義』

最近、『乾と巽』というマンガを読んでいて大正時代も気になり始めていた。『ゴールデンカムイ』や『鬼滅の刃』の影響もある(ゴールデンカムイの舞台は明治末期で大正ではないが)
同じ編者の『昭和史講義』を以前読んで面白かったのと、昭和史自体、当然ながら大正史からの流れをくむところもあるから、という理由もある。
筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2
筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2
また、『大正史講義【文化篇】』の目次を見たら、めっぽう面白そうだったので、文化篇を読む前にまずこちらを少し眺めておくか、と思った次第でもある。
新書としては分厚い類いで、また各章の執筆者が異なり独立性が高いこともあるので、興味のある章だけをつまみ食いした。

第1講 大正政変――第一次護憲運動 村瀬信一

桂園体制の崩壊
桂は、西園寺・山県から距離をおくことにし、陸軍増師問題を利用し、新政党を造ることを画策したが、国民による異例の運動の前に挫折する

第2講 大隈内閣成立と大隈ブーム 真辺将之

未読

第3講 第一次南京事件から対中強硬政策要求運動へ 武田知己

未読

第4講 第一次世界大戦と対華二十一カ条要求 奈良岡聰智

未読

第5講 大戦ブームと『貧乏物語』 牧野邦昭

大戦ブームとは、第一次大戦による好景気のことで、いわゆる「成金」が生まれた時代
後に野村証券を設立する野村、戦後に神戸製鋼所双日となる鈴木商店、あるいは戦後に国立西洋美術館に収蔵されることになる松方コレクションなどが、この時代になるものらしい
この時代に、経済学者の河上肇が『貧乏物語』を発表し、話題となる
これは、貧富の格差を指摘したもので、多くの人に社会問題を意識させるきっかけになった本らしい
貧困の原因の説明になっていないという批判があり、この批判にこたえる中で河上は社会主義者となり共産党へ入党していくこととなる
大正時代には米騒動が起きるが、これは、経済成長により米の消費が増えたことによる需給バランスの崩壊が要因らしい。
実際には1920年代は成長率は高い方で、関東大震災が経済にダメージを与え、そして昭和以降に「貧乏」の問題は深刻化していく
ちなみに、本章の筆者は経済学者

第6講 寺内内閣と米騒動 渡辺滋

寺内内閣は、後世の評判が悪いけれど、実際はどうだったのか、と
色々書いてあるのだけど、ここでは寺内内閣による科学振興策について抜粋する。
まず、大きなところとして、理研の設立がある。寺内による財政処置など尽力があったらしい。
また、大隈内閣では消極的だった、航空研究所の設立も。
さらに、科研費のもととなる科学研究奨励費制度もこの時期に始まった、と


寺内は心臓病と糖尿病により体調が悪化し、辞意を申し出ていたのだが、山県がこれを許さず、なかなか辞めることができなかったらしい。寺内と山県の関係悪化につながる。米騒動を機に寺内はようやく辞められるのだが、その後、結局亡くなってしまい、亡くなった後になって山県は後悔したとか

第7講 原敬政党内閣から普選運動へ

未読

第9講 人種差別撤廃提案

未読

第10講 三・一独立万歳運動と朝鮮統治

未読

第11講 シベリア出兵からソ連との国交樹立へ 麻田雅文

シベリア出兵、もともと日本では世論的にも政府的にも反対だったらしいが、チェコ軍団救出に欧米が乗り気で、当初出兵に消極的だったアメリカが出兵側に転じたこともあって、日本も出兵することにした、という流れらしい。
しかし、日本はバイカル湖以西には出兵せず、他の欧米やチェコ軍団と足並みが揃わない
その後、コルチャーク政権の成立と崩壊を経て、米軍は撤兵、チェコ軍団救出の名目も消滅するが、帝国の国防を理由にシベリアに残り続ける
元々出兵に乗り気ではなく、欧米にいわれて渋々始めたはずが、欧米が撤兵した後は逆に、残り続けるために欧米を説得する立場に。
そして、尼港事件という事件が起きる。尼港(ニコラエフスク)で日本兵と日本人がパルチザンに殺されるという事件で、これへの代償を求める形で、日本はサハリンに兵を進める
日本と極東共和国の間で、撤兵交渉が始まるが、尼港事件の代償を巡り、交渉は暗礁に乗り上げていく。
原内閣、高橋内閣がともに撤兵に至ることができないまま、加藤友三郎内閣において、撤兵を断交。また、加藤は、後藤新平が日露国交回復のために動くのを黙認し、後藤はソ連の外交官ヨッフェを来日させる。しかし、交渉は頓挫。関東大震災が起きて交渉は振り出しに
加藤高明内閣で日ソ基本条約が締結され、サハリンからの撤兵も行われ、シベリア出兵がようやく全て完了することになる。

第12講 日露戦争後の日米関係と石井・ランシング協定

未読

第14講 新人会―エリート型社会運動の開始 古川江里子

新人会とは、東大法学部(当時、東京帝国大学法科大学)に作られた社会運動系の学生サークルのようなものらしい
1918年に創立し、1928年に大学から解散命令が出て解散
もともと、在学生と卒業生の両方が入会しているグループであったが、1921年に在学者のみの団体となり、それをもって前期と後期に分けられる。なお、卒業生グループとして、後に共産党となる佐野学や野坂参三がいる。
東大法、という将来の官僚になるようなエリート集団の中で、労働運動等に関わるグループが出てきたということで、当時衝撃であったようだ。
といって、当初はそもそも「改革」を志すくらいのふんわりした感じで、社会改革と自己実現を重ねあわせたものだったようだ(いかにも学生サークルという感じがする)
もともと、社会主義系というわけではなかったようだが、次第に社会主義マルクス主義の勉強会をするようになり、前期は無産政党へ、後期は共産党への入党者も出てくる。
後期新人会は、他の大学の学生サークルも含めた学生連合会(学連)や、全国の高校や大学に社会科学研究会(社研)ができて、その中心的地位を担うことになり、マルクス主義を標榜するようになる。が、京都学連事件がおきて、検挙者が出てくる
最後に、新人会メンバーのその後について触れられており、多くは体制側につくことになり、社会主義運動や共産党に残った者もエスタブリッシュメント的な立場で、結局はエリート集団だったと総括しつつも、逮捕者なども出ていることにも注意を向けている。

第15講 社会運動の諸相 福家崇洋

明治後半に初期社会主義があり、これが大正へと引き継がれていく
ロシア革命米騒動をきっかけに、社会主義運動が再興し、様々なグループが生まれる。吉野作造など大学教授らの黎明会や東大生の新人会などもこの時期。政治活動に積極的か否かなどで内部対立があった。
1920年社会主義運動を統一する「日本社会主義同盟」が堺利彦の提唱により結成
また、国際社会主義運動との提携もすすみ、在米の片山潜、また、モスクワでは大杉栄コミンテルン接触
しかし、その後、アナ・ボル対立が始まる。ソ連ボリシェヴィキ政権がアナキストを弾圧したことで大杉が批判的になる。
1922年、水平会が創設され、運動内ではボル派の指導権が確立してく
1922年、ロシアから帰国した徳田球一らと、堺利彦、山川均らが地下会議を開き、日本共産党暫定中央執行委員会が日本共産党へ改組
野坂参三らが労働組合のボル化をはかる
関東大震災以後、組織改編をへて、新旧世代の対立がうまれ、共産党はいちど解党する
一方、アナ派においては、大杉が引き続き国際運動と提携していたが、関東大震災後に憲兵により殺害される

第16講 女性解放運動―『青踏』から婦選獲得同盟へ 進藤久美子

与謝野晶子平塚らいてうの間で、母の経済的自立についての「母性保護論争」が起きる。母になるには経済的自立ができてからという与謝野と、それでは大多数の女性が結婚・出産ができないのであり、国・社会が母を保護するのは当然という平塚。それを、社会主義フェミニストである山川菊栄止揚した論争。
平塚はイデオローグみたいな存在で、市川房枝は実務家肌だったらしい。市川のそうした性質を見抜いて平塚が市川をオルグし、二人三脚で運動を続けていくが、次第に2人の方針はズレていく。女性が政談・演説することを禁止していた治安警察法の改正をもって、ふたりは運動から離れる
関東大震災以降、矯風会や婦人連盟などが、普選(普通選挙)の次は婦選(婦人参政権)と、女性参政権を求めた運動を始める。
ところで、男女平等を求めることは、治安維持法が禁ずる「国体の変革」にあたる可能性があり、女性参政権獲得運動にあたっては、実際家である市川により、男女平等を求めるという戦略は転換したらしい
議会への上程を行い続け、衆議院では何度か通過するところまではいったらしい(貴族院で否決)
その後、満州事変が起きて以降は、上程すらできなくなるが、昭和初期においても、例えば東京市におけるゴミ処理問題などにおいては、女性の政治活動は続いたとのこと

第17講 国家改造運動 福家崇洋

従来、大正デモクラシー研究の対象とはならなかったが、社会主義運動とも重なるところのある国家改造運動が、この章のテーマ
具体的には、老壮会猶存社に関わった満川亀太郎大川周明北一輝について
北は、中国の辛亥革命に参加し、帰国後、満川と交流をもつように。
インドの独立運動を通じて満川と大川も交流を持つ。
老壮会は、満川が世話人を務めた思想団体で数百人の会員をもち、様々な講演会をやっていた。社会主義運動とも重なると先に述べたが、老壮会の講演会には堺利彦など社会主義者も呼ばれており、社会主義運動に近いグループも出入りしていた。
老壮会があまりにも大きくなりすぎたために、満川は改めて猶存社を結成。ここに北が参加し、国家改造を唱えるグループとなってくる
具体的な活動としては、宮中某大事件や皇太子訪欧問題への関与がある。怪文書などをばらまいたらしい。
シベリア撤兵について、ヨッフェと後藤による日ソ交渉が始まるが、満川や大川が親露派であったのに対して、北はもともと対露開戦論者でロシア革命にも批判的であり、ヨッフェに対する公開質問状を発行したりした。こうした方向性の違いから、猶存社は解散に至る

第18講 宮中某重大事件と皇太子訪欧 黒沢文貴

皇太子、つまり後の昭和天皇に関する話
話の背景として、大正天皇の体調が悪く、天皇としての「体」を示すことが難しくなっており、皇太子への注目・期待が高まっていたというのがある。
宮中某重大事件というのは、皇太子妃として内定していた久邇宮家の良子女王の家系に、色覚異常の遺伝があることが判明したことにより、山県有朋が婚約辞退を迫ったところ、東久邇宮が抵抗した、という事件
これが、反山県・薩摩閥の動きと繋がり、政局化したというもの。山県だけでなく、西園寺や田中義一、当時の首相で田中から話を聞かされて事態を知った原敬も、基本的には山県の主張(純血論)に同調したのだが、一度発表した婚約を取り消すのはいかがなものか(人倫論)という反対論により、山県側が折れる結果となる。
もう一つ、皇太子訪欧については、次の天皇として優れた君主たることを期待された皇太子の教育のため、政府側が訪欧を計画したという話。こちらも反対論が出たのだが、これは政府の要望通り、訪欧が実現した。

第19講 関東大震災後の政治と後藤新平 筒井清忠

東京の復興に後藤が活躍したと言われているが、実際には後藤は上手く行動できず、失脚につながったという話

第20講 排日移民法抗議運動 渡邉公太

アメリカにおいて、日本人移民の受入れ禁止を定める法律ができたことをうけて、それへの抗議運動が盛り上がったという話
日清・日露戦争を経て、日本は一等国になりつつあるという意識があった時期に、アメリカからの日本人差別を受けたという意味で、日本国内では大きな問題となったということらしい。
また、入欧できないのであれば入亜だというアジア主義への説得力が高まる一因にもなった、と。

第21講 「軍縮期」の社会と軍隊 高杉洋平

大正の軍縮期の軍隊がいかに「昭和の軍隊」へとなっていったのか。
大正が「大衆」の時代であることとあわせて論じられている
もともと、軍部大臣現役武官制という制度があったが、陸軍増師問題のあと、単なる武官制に改められる。これは、第一次大戦後、軍縮・平和志向のあった大衆による批判を受けてのものであった。
これにより軍部は、内閣からの独立性という政治的な武器を失うのだが、しかし、現代の視点から改めて見てみると、この制度の改正にはあまり実質的な意味がなかったらしい
というのも、制度が改められたあとも、実際には現役武官が大臣になっていて、予備役などが大臣になることはなかったから。
また、陸軍側も考えを改めて、内閣との協調路線をとることになり、内閣側も軍に協力的になるため、内閣が軍を抑制するような形で制度を適用することがなかった。しかし、だからこそ、軍の力が強くなってからこの制度を使おうとしても使えなかったのではないか、と筆者は指摘している。
また、本章では、山梨軍縮、宇垣軍縮について述べている。軍縮は、軍の近代化を難しくし、この結果、精神主義が蔓延るようになったのではないか、という指摘がされている。

第22講 第二次護憲運動加藤高明内閣

未読

第23講 若槻礼次郎内閣と「劇場型政治」の開始

未読

第24講 中国国権回収運動 岩谷將

第25講 破綻する幣原外交―第二次南京事件前後 渡邉公太

第26講 大正天皇論 梶田明宏

最後の3章も読んだけれど、ちょっとうまくまとめられなかったので省略する。
24講は中国におけるナショナリズムの高まりについて、25講は幣原外交(と田中外交)についてで、これらは筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2へとつながっていく話だろう。
26講は、タイトルにあるとおり大正天皇についてで、病弱だったことであまり表舞台には立っていないし、どういう信条を持っていた人なのかとかも分かっていないところが多いが、宮家関連の話とか摂政を置いた話とか、近代天皇制が成立していく時期としてはわりと大事みたいな話