筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』

筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2に引き続き、昭和史の本。同じ編者による同名シリーズの一番新しいものにあたる。
このシリーズでは政治家篇とか軍人篇とかが先だって出ているのだけれど、今回、昭和史読むかーと思った直接のきっかけは柴田勝家『ヒト夜の永い夢』 - logical cypher scape2なので、文化人篇も読んでおくといいかなーと思って手に取った。


まえがきにもあるが、おそらくこのような形で戦前昭和文化についてまとめている類書があまりないこと、また、取り上げられている人の中には、伝記的なものもまだあまりまとめられていないような人も含まれていることなどもあり、その点、企画としてはよい本である
一方、おそらく『昭和史講義』のクオリティが高すぎたせいもあると思うが、比較したときに、どうしても各章がバラバラだなあという印象がある。
また、人物にフォーカスしている以上、どうしても人物伝的になってしまい、昭和史・文化史というものを組み立てにくいところはある。
(例えば『ヒト夜の永い夢』の面白さは、この人とあの人とが実は知り合いだったとかいう点にもあると思うし、(文化以外にも)こういう影響を与えただとか、こういう背景があったとか、そういうのが分かってくると、文化史って歴史として面白くなってくるなーと思うんだけど)
ただ、後半は、その点でも結構よいところはある。


書き手によって、書きぶりが違うのだが、編者のまえがき及び実際読んでみた印象として、おそらく編者の側で「転向」というテーマが示されていたのだと思われる。
この時期の文化人は、多かれ少なかれ戦中における「戦争協力」という側面がある。
本書で取り上げられている人の多くが、明治生まれ、戦中に3~40代の働き盛り、戦後にも活動をしているという世代にあたり、戦前と戦中、戦中と戦後との間に態度の差があったりする。
そのあたりのことについて、特に触れていない章もあるのだが、大体の執筆者が多かれ少なかれ触れているので、おそらく各執筆者に対して、こういうテーマに触れて書いてください的なオファーがなんとなくあったのではないかなーという気がする。


1~4講が言論人・学者、5~11講が作家で、特に5・6講が文学者、7~9講が大衆文芸、10・11講が女性作家となっている。12・13講が美術家(漫画家)、14講が建築家(なので12~14講で造形美術とまとめることもできる)、15・16講が音楽家である。


なお、『昭和史講義』とは書き手の顔ぶれも異なっており、あっちが比較的「若手歴史研究者」を揃えた雰囲気を出しているのに対して、こちらはもう少し多様
(対象となっている人物の専門家であるが歴史研究者ではない人、年長な人がわりと含まれている。ただ、そういう人が『昭和史講義』に全くいなかったわけでもないのだが)

第1講 石橋湛山―言論人から政治家へ 牧野邦昭
第2講 和辻哲郎―人間と「行為」の哲学 苅部直
第3講 鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人 佐々木閑
第4講 柳田国男―失われた共産制を求めて 赤坂憲雄
第5講 谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」 千葉俊二
第6講 保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人 前田雅之
第7講 江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮 藤井淑禎
第8講 中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者 伊東祐吏
第9講 長谷川伸―地中の「紙碑」 牧野悠
第10講 吉屋信子―女たちのための物語 竹田志保
第11講 林芙美子―大衆の時代の人気作家 川本三郎
第12講 藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影 林洋子
第13講 田河水泡―「笑い」を追求した漫画家 萩原由加里
第14講 伊東忠太―エンタシスという幻想 井上章一
第15講 山田耕筰交響曲作家から歌劇作家へ 片山杜秀
第16講 西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人 筒井清忠

第1講 石橋湛山―言論人から政治家へ 牧野邦昭

親が日蓮宗。戦前の日蓮宗の影響力の強さ(石原莞爾井上日召宮沢賢治など)、と思ったが、創価日蓮宗系なので戦後も変わらんか……。
大学では、田中王堂に学ぶ。田中は、デューイのもと、プラグマティズムを学んだ哲学者
東洋経済に入って言論人・エコノミストとして活躍していく
小日本主義を主張し、経済学の国際分業論から、これを理論づけていった、という感じらしい
あと、高橋財政への支持とか
まあでも、日本は満州事変以降、湛山の主張とは反対の方向へと進む。しかし、湛山は専門家としての能力を買われて、大蔵省や企画院の委員となっていく、と
東洋経済新報社は、会員制クラブを作って、そこで学者、財界、軍部が情報交換できるような場を提供していて、湛山はネットワークのハブ的存在になっていた
ここでは、政府に協力しつつも、ある程度までは自由な言論の場を維持しようとしていたのではないか、と論じられている
戦後、領土を失っても自由貿易ができれば経済復興できると主張(これ、小日本主義から一貫してはいる)
政治家となり、1956年首相となる

第2講 和辻哲郎―人間と「行為」の哲学 苅部直

日本独自の思想を作った人のイメージがあるけど、人類全体に普遍的な原理がまずあって、日本では日本の現れをしている、というような考えの人だよ、みたいな話

第3講 鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人 佐々木閑

鈴木大拙を基本的に絶賛する内容となっており、まあ、鈴木大拙の概略をつかむ分にはそこまで問題ないが、やはりちょっとなーという感じがした。
釈迦の教えとの違いの整理は面白かった。
鈴木大拙の思想の肝はフォームにあるとし、「霊性」には何を代入してもいいのだとした上で、鈴木の戦中と戦後の言説の変化は、「霊性」に代入されるものの中に国家が入っていたか否かの違いに過ぎず、鈴木思想は一貫していたと論ずるのだが、それはちょっとどうなの、と思った。

第4講 柳田国男―失われた共産制を求めて 赤坂憲雄

柳田が「ユイ(結)」という概念に着目していて、「固有の共産制度」を見いだして、「日本風の協同組合」の構想を目指そうとしていた、という話


農政学者としての柳田と民俗学者としての柳田を接続し、あまり知られていない柳田の政治思想に注目を促すという論
柳田を、わりと大塚英志経由で知った自分としては、柳田に政治的な面があるということ自体は馴染みがあるが、まあ大塚の場合、自然主義文学との関係で話をするので、協同組合論とかの話して柳田は知らんかった

第5講 谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」 千葉俊二

関東大震災の話から始まる。
谷崎は震災を受けて関西へ移住し、この影響で作風が変わっていく
ところで、この震災で『白樺』は印刷所が焼けて廃刊。入れ替わるように、プロレタリア文学の『文芸戦線』と新感覚派の『文芸時代』が創刊し、昭和文学の時代が始まる、と
谷崎と芥川の「小説の筋」論争もこの時期


関西移住後最初に書いたのが「痴人の愛
その後、関西の文化に影響されて、古典主義的な作風に変わっていく
佐藤春夫との細君譲渡事件などが起こる
その後、恋人となった松子をモデルに様々な作品を描き、その中に、谷崎文学の到達点である「春琴抄」が書かれる。
最高傑作を書いてしまったがゆえに行き詰っていたところ、依頼があり、1935年から「源氏物語」の翻訳を始める
源氏物語は、内容的に不敬にあたるという考えもあって、1939年から出版されるのだけどそれにあたって結構削除されていて、戦後に全訳が刊行されている、と
1943年、「細雪」の連載が始まる、2回連載したのち、以後は掲載中止となる。が、戦中も書き続け、私家版として出版したりしつつ、戦後1947年に完成している


ずっと、「性」に関する話を書き続けた人で、その意味で一貫していた人ですよ、という話

第6講 保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人 前田雅之

昭和を代表する文芸評論家として、小林秀雄保田與重郎の2人がいるだろう、というところから始まる章
ただ、戦前・戦後通じて君臨した小林と、戦前のみの保田という大きな落差がある、と
しかし、1933年から1944年まで(23歳から34歳まで)の間、「ざっくり言えば、保田の時代であった」。
で、「日本的イロニイ」「偉大な敗北」というのが、彼のデビュー作や、古典論・英雄論としてどのように書かれてきたか、と


戦後、文壇から追放され、復活したのは1964年。1981年に亡くなっている。

第7講 江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮 藤井淑禎

乱歩には、本格ミステリ期・通俗長編小説期・少年もの期の3つの時期があり、その上で、通俗小説期については取り上げられることが少ないが、その理由として乱歩自身がこの時期が低く見ていたから、らしい。
その上で、そもそもこの乱歩自身の自己言及ってどれくらい信頼できるのかということを論じている。
乱歩は、『探偵小説十年』『十五年』『三十年』『四十年』といくつも回想を書いており、その内容も、当時書かれたメモからの引用と、回想を書いた時期に書いたものとが混ざっており、乱歩自身が、一体いつの時点で、そのように考えていたのかをはっきりさせるのがなかなか難しいらしい。


1930年代後半以降、統制強化が進むにつ入れて、探偵小説家は、防諜スパイ小説、科学小説、冒険小説などを書くようになる。
乱歩は「隠棲を決意する」。実際、出版の仕事は減っていき、一方で、1940年代には町会活動に励むようになる(疎開家屋の取り壊し、配給の円滑化などなど。かなり細かく記録を残しているらしい)。戦争反対だとしても、ひとたび戦争が始まってしまったら、協力するのが「国民としての当然の努め」というようなことだったらしい。またこの時期に、科学啓蒙小説や防諜小説もちょっとだけ書いていて、まあそういう意味での戦争協力はしている


戦後は、探偵小説は復活するぞと息巻いて、オルガナイザーとしての活動を行っていく

第8講 中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者 伊東祐吏

大菩薩峠』の主役である机龍之介は爆発的な人気で、その後の丹下左膳眠狂四郎子連れ狼木枯し紋次郎机龍之介のキャラクターを受け継いだもの、らしい。
そういわれるとすごい影響力なのだが、今現在はあまり知られていない作品だろう。


もともと中里介山は、若い頃社会主義、次いでトルストイ農本主義に惹かれたが、活動には挫折。新聞社に入って連載小説を書くようになる。
大菩薩峠』は、仇討ちもので、通俗小説として面白いらしい。ただ、仇討小説なのだが、仇討はなされることなく、話が終わらないまま続いていった作品らしい
菊池寛がほめたことにより人気に火が付き、大ベストセラーとなり舞台化・映像化などもされていったとか
仇討が終わらない、という点に、筆者は勧善懲悪を超越した深みがあると述べている。で、介山は、のちに、通俗的な部分をカットして単行本の『大菩薩峠』を出したとか。筆者は、そのせいで、どんな話か分からなくなってしまったと述べ、新聞連載版の方が面白いから、最初に読むならそっちから読め、というようなことを言っている


ベストセラー作家になった結果、立身出世を成し遂げた介山は、田舎に土地を買って田畑を作り私塾をつくり、理想郷をつくることにしたらしい。だが、この人、理想はあるがそれを実現する能力のない人らしくて、増長するしわがままも多い。『大菩薩峠』の舞台化・映画化に際しても散々モメた、とある。選挙に立候補するも最下位落選し、あげく「吾輩は選挙民を試したのだ」と言い出すとか、なんじゃこいつというエピソードが続いていく


サブタイトルにあるとおり、いわゆる「戦争協力」をしなかった作家で、戦中に作られた文学報国会に加入していない。
ので、確固とした信念をもって抵抗した作家だったのかと思いきや、作家の間で孤立していたから、というオチ
報国会に入会しなかったが、戦争反対していたわけではない。
選ばれてもいないのに、文化勲章を辞退しているとか
1944年に亡くなっている

第9講 長谷川伸―地中の「紙碑」 牧野悠

時代小説や戯曲で活躍した大衆作家
幼い頃は貧しく、職を転々とする少年時代を過ごしたのち、1914年(30歳)から執筆活動をする。
日中戦争が始まった頃には、既に名声の確立した作家となっていた。
戦争協力について、これほどコストをかけた作家は他にいない、と書かれている
というのも、兵士への慰問用に、自費出版した本を戦地へと贈るといった活動をしていたからである。
そのための文芸誌も立ち上げ、そこで若手の育成も行っている。門下に、山岡荘八山手樹一郎などがいる(戦後はさらに、平岩弓枝池波正太郎も輩出しているとか)
ただ、時局が進むにつれて、出版は厳しくなっていったようだ。

第10講 吉屋信子―女たちのための物語 竹田志保

今でいうところの「百合」にあたるジャンルの先駆けになった人として有名だが、なんかもう一世代前の人だと自分は勘違いしていて、戦後まで活動している人だったのか、という軽い驚きがあった。
戦中に、従軍記事を書いており「漢口一番乗り」などをしている。漢口への従軍には多くの文化人が参加していたようで、このあと出てくる、林、藤田、西條もここに関わってくる。
これを読む限り、結構バリバリ戦争協力した感じの人だなあという印象を受ける。もちろん、そうせざるをえなかった時代状況があるのであり、吉屋が悪人だったとかそういうわけではないのだが、戦後も一種の「失言」をしている。この失言については当時、投書などでめちゃくちゃ叩かれたようだ。本書では、前後の文脈を補えば決して戦争を肯定した発言ではない旨のフォローがされているが、まあ、評価は分かれるところだと思う

第11講 林芙美子―大衆の時代の人気作家 川本三郎

『放浪記』の著者、本書に取り上げられている人物としては、吉屋とともにただ2人の女性、ということになる。
吉屋と同じく従軍して記事を書いている。
吉屋は官吏の娘であり、上京し作家となった後も、同性パートナーとの生活を維持し、別荘を買うなど、裕福であったことがうかがえる。
一方、林は、幼い頃は旅商人の両親について貧しい生活を送り、女学校卒業後、上京してからも職を転々としていた(これが『放浪記』となる)。もちろん、作家になってからは人気作家となっているので、ずっと貧乏だったわけではないが、吉屋と林で対比になっているのかなとは思った。
また、本章では林について、決して熱烈な戦争賛美はしておらず、軍人賛歌を書いた吉屋とは違うということも書かれている。傷病兵などに対する共感があらわれているという(もっとも、中国の民衆については全く思いが向けられていない、とも述べているが)
1940年に、水商売ができなくなって満州へ渡ることになった女性を主人公にした小説を発表しているが、そこで書かれているのも荒涼とした暗い満州であった、とも
戦後も、復員兵、戦争未亡人、傷病兵など、一貫して弱者側の「暗い戦後」を描き続けた、と


第12講 藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影 林洋子

藤田は、1913年(大正2年)に渡仏、、1929年に一時帰国しているが、その時既に昭和4年関東大震災を含めた大正のほとんどの期間をフランスで過ごした
1933年から改めて日本に居を移し、これは1949年まで続く
で、1937年の漢口取材があり、1940年、ノモンハン事件ののち、記録画を描き、41年、帝国芸術院会員として仏領インドシナへと派遣される。また、43年の「アッツ島玉砕」から次々と「玉砕図」を描く。今から見ると厭戦的な絵だが、当時の藤田のテキストは戦意高揚的だし、実際、当時の人々も厭戦とは受け取っていなかった節がある
戦後、日本美術から「(戦争責任により)自粛すべき者」として名前をリストにあげられる。また、GHQに協力したことが、関係者を感情的にさせたようだ、とも。GHQに協力することで、自作の回収をしていたらしい。で、再びパリへ行き、国籍変更するわけだけど、海外でもやはり軋轢はあったみたい


藤田の昭和文化史上の役割として、ネットワークのハブだったことが挙げられる。
1920年代、吉屋信子林芙美子菊池寛西條八十らが洋行した際、パリで接点があり、さらに、日中戦争の際のいわゆるペン部隊には、菊池寛吉屋信子吉川英治佐藤春夫久米正雄岸田國士西條八十林芙美子らがいた、と

第13講 田河水泡―「笑い」を追求した漫画家 萩原由加里

1919年に兵役にいき、これがのちの「のらくろ」につながる
兵役から戻ってきたあと美術学校の図案科に通い、前衛芸術にのめりこむ。とはいえ、美術の世界では生きていけず、新作落語をかきはじめる。それに目をとめた講談社の編集部に誘われ漫画を描き始める。当初は、少女雑誌に描いていたらしい
1931年から「のらくろ」の連載が始まる
1933、34、35年にはアニメ化もされている
本章では、コマ割りの大胆さに「のらくろ」の漫画作品としての魅力があった旨が論じられている。
しかし、1941年に連載は終了してしまう。これについては、政府からの打ち切り命令があったというのが表向きの理由とされているが、ここでは、41年当時既に人気が下がっていたという。
のらくろ」の人気は、とんとん拍子に出世していくことになったが、この頃になるともうある程度以上まで出世してしまったせいで逆に人気に陰りが出てしまったと


1989年(90歳)まで生きていたって全然知らなかった

第14講 伊東忠太―エンタシスという幻想 井上章一

建築家であり建築史家でもある伊東忠太について、この章はちょっと独特で、彼の「法隆寺論」に着目して、それを中心に論じていて、それ以外の要素はあえて捨象している。自分は、伊東忠太についてこの本で初めて名前を知ったくらい、全然知らないのだけど、しかし面白かった


エンタシスというのは、古代ギリシア建築に見られる、膨らんだ柱の様式のことである
法隆寺も、やはり柱の中ほどがふくらんでいる
これについて、アレキサンダー大王の東征によってアジアにまで伝わったヘレニズム文化の影響であるという言説があり、これを唱えたのが伊東の法隆寺論だと
しかし、この考えは実際は間違い
まず、アレキサンダー大王の東征があった時代、ギリシアでは既にエンタシス様式は失われている。また、アレクサンダー率いるマケドニアは文化的にはペルシア化しており、ギリシア文化を伝播させていない。実際、インドにおいて、エンタシス様式の柱は見つかっていない。
ヘレニズム文化がインドに伝わってくるのは、アレキサンダー大王の東征からさらに300年後のことである。
法隆寺の柱が膨らんでいるのは確かで、それは一見、古代ギリシアのエンタシスに似てはいるらしい。しかし、この様式を遡ると、北魏の方に由来があるらしく、中国の雲崗石窟にこれを見いだせると。伊東自身、雲崗石窟に行ってこれは見ているらしいが、それよりさらに西では発見できていない。
アレキサンダー大王によってヘレニズムがインドへ伝わった、というのは、ドイツの歴史家ドロイゼンによるもので、さらにドロイゼンの影響を受けた建築史家ファガーソンによって、インドには立派な建築があるがそれより東にはない、という本が書かれていたらしい
そして、伊東はこの本を読んでいる。
ファガーソンへの反発として、日本にも立派な建築があるぞという主張だった、と。しかし、それは何故かといえば、ヘレニズムが日本にもちゃんと伝わっているからだ、となる。つまり、ヘレニズムが立派だ、とする価値観自体は共有してしまっているのである、と
で、この伊東の法隆寺論は、のちに中村真一郎和辻哲郎へと影響を与えることになる。

第15講 山田耕筰交響曲作家から歌劇作家へ 片山杜秀

「赤とんぼ」などの多くの歌曲で知られる山田耕筰
しかし、彼の作曲家人生の中で、歌曲を作っていたのは、実は大正後期から昭和前期の僅かな期間だけ
彼のキャリアの大半は実は歌曲作家ではないのだ、という話
これもかなり面白い


日露戦争の年に東京音楽学校に入学。お雇い外国人教師に師事する。
当時、日本人作曲家は、歌ものは作っていたけれど、まだ器楽曲は全然作られていなかった。日本にはまだちゃんとしたオーケストラもなく、ヨーロッパの曲を演奏できる・鑑賞できる状況にもなくて、日本人が器楽曲を作るというのは夢のまた夢みたいな状況
また、山田は、家が裕福ではなく、官費留学できるあてもなかったので、私的にスポンサーを探し、三菱の岩崎小弥太からの援助をえて、ベルリン留学する。ただ、このことにより、山田は在野での活動を決定づけられる。
ベルリンでは、ワーグナーシュトラウスを知り、日本人で初めて交響曲を作曲し、歌劇も完成させる、とまあすごい達成を成し遂げるのだが、帰国しても、これが全然響かないのである
日本にはまだまとまなオーケストラもなく、ヨーロッパの音楽をちゃんと聴いた人がほとんどいない。そんな状況では、こんだけすごい曲を作ったぞと言っても、誰にもピンとこないわけであるし、また、スタンドプレー的に留学した山田は、音楽学校の教授になるという道もなかった。
山田は、次にアメリカ留学するが、今度は在米日本人とのつながりを密にしつつ、日本の民謡などをピアノ曲に編曲してこれを披露し、評価を得るという形で、捲土重来を期すことにしたのである。
彼は、文明開化期の都会の日本人で、親もキリスト教徒で、音楽学校での教師もお雇い外国人と、全く日本風のものから切り離されて育ってきたということもあって、今まで、彼の作った曲には日本の要素はなく、「西洋派」というレッテルをはられ、すごいはすごいけれど民衆からは敬遠されるという状態だったのである
アメリカ留学から帰ってからは、日本風の歌曲を作りはじめ、一般的にイメージされるところの、山田耕筰の曲が作られることになる。
しかし、山田自身は、歌曲作家で終わる気はなくて、歌劇を目指すようになる
で、1930年から1947年にかけて、3つの歌劇を作る。皇紀2600年の奉祝事業で初演された作品や、大東亜共栄圏のもと北京で公演されることが予定されながらも結局完成は戦後、作曲家の生前には公演されずじまいとなった作品とかがあって、ここらへん彼と戦争とが絡むところだけど、そこらへんについてはあまり述べられていない。


戦争との関係というよりは、伊東忠太と同じく、西洋文化が上というヒエラルキーに身を浸しながら、その中で日本文化をどうにかして位置付けなければならなかった文化人の1人、という感じ
伊東が「いや、日本だってすごいんだぞ」というものなのに対して、山田は「日本風のものを取り込まないと日本で売れない」っていう違いがあって、そこが面白い

第16講 西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人 筒井清忠

北原白秋・野口雨情とともに、大正期には童謡運動、昭和初期には新民謡運動を担った詩人
早稲田仏文の教授でありながら、歌謡曲の作詞を手掛けていた
新民謡運動の際、各地の市町村の歌ができたり、校歌、社歌の類が相次いで作られたらしい。あれ、1920年代にルーツがあったのかー
戦前には『東京音頭』、戦後には『青い山脈』が大ヒット曲となっている
あと、『同期の桜』の作詞もしているとか(当時、作詞家不明だったとか。元々八十の詩だったのが他の人の手により改作されている)
日中戦争の際には従軍もしている