筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】

タイトル通り、大正文化史についての本。全27章で様々なジャンルについてオムニバス的に書かれている。
目次をぱらぱらと眺めたときに、小林一三に2章さかれていることに目が行き、そのほかにもメディア論的な話題が多くて面白そうだなと思い手に取った。
大衆文化の話が多く、微妙に知ってるけどよくは知らなかったみたいなものが多くて、面白かった。
章ごとに書き手が異なることによるバラバラ感がないわけではないが、いずれの章も同時代のことを論じているので、同じ固有名詞に度々出くわす。章の並び自体も、近い話題が連続するように配置されており、「あ、この人の名前、さっきの章にも出てきたな」となり、立体的に見えてくる感じがする。
また、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2と関わってくるところもあった
諸々、現代に繋がる文化の原点がここにあったのかーと思わせるものがある。
大正時代のことあまりよく知らなかったが、西暦でいうと1914年~1926年であり、自分は欧米の大戦間期の文化史とか好きなので、大正文化史もそりゃ面白いよな、と

はじめに……筒井清忠
第1講 吉野作造民本主義……今野 元
第2講 経済メディアと経済論壇の発達……牧野邦昭
第3講 上杉愼吉と国家主義……今野 元
第4講 大正教養主義――その成立と展開……筒井清忠
第5講 西田幾多郎と京都学派……藤田正勝
第6講 「漱石神話」の形成……大山英樹
第7講 「男性性」のゆらぎ――近松秋江久米正雄……小谷野 敦
第8講 宮沢賢治――生成し、変容しつづける人……山折哲雄
第9講 北原白秋と詩人たち……川本三郎
第10講 鈴木三重吉・『赤い鳥』と童心主義……河原和枝
第11講 童謡運動――西條八十・野口雨情・北原白秋……筒井清忠
第12講 新民謡運動――ローカリズムの再生……筒井清忠
第13講 竹久夢二と宵待草……石川桂子
第14講 高等女学校の発展と「職業婦人」の進出……田中智子
第15講 女子学生服の転換――機能性への志向と洋装の定着……難波知子
第16講 「少女」文化の成立……竹田志保
第17講 大衆文学の成立――通俗小説の動向を中心として……藤井淑禎
第18講 時代小説・時代劇映画の勃興……牧野 悠
第19講 岡本一平と大正期の漫画……宮本大人
第20講 ラジオ時代の国民化メディア――『キング』と円本……佐藤卓己
第21講 大衆社会とモダン文化――商都・大阪のケース……橋爪節也
第22講 大衆歌謡の展開……倉田喜弘
第23講 発展する活動写真・映画の世界……岩本憲児
第24講 百貨店と消費文化の展開……神野由紀
第25講 阪急電鉄小林一三――都市型第三次産業の成立……老川慶喜
第26講 宝塚と小林一三……伊井春樹
第27講 カフェーの展開と女給の成立……斎藤 光

はじめに……筒井清忠

大正というのは、大衆が登場してきた時代
一方、エリート文化というのが日本ではうまく育たなかったことを指摘する。エリート文化と大衆文化の区別が未分化

第1講 吉野作造民本主義……今野 元

吉野作造は、親英米派で、西欧近代化とナショナリズムの両立を信じる言論人、というような感じらしい。
ヨーロッパ留学中は、キリスト教会史について研究したが、帰国後はそれについてはあまり話題にならず。
第一次大戦の際『中央公論』で日本の対独戦を肯定し、ドイツ批判したことで有名に。
1918年、愛国団体の浪人会と対立する事件が発生。この時、吉野を応援していた学生たちが「新人会」を、吉野を支援する言論人が「黎明会」をそれぞれ結成
ただ、吉野は保守派勢力とも友好的で、先の対立でも最後には天皇万歳で会を終えているし、笹川良一と昵懇になったり、大川周明の博士号取得に協力していたりしたらしい。
楽観主義的で玉虫色なところがあったようで、死後における吉野に対する評価というのも賛否両論だ、ということが書かれている

第2講 経済メディアと経済論壇の発達……牧野邦昭

東洋経済新報』『ダイヤモンド』『中外商業新報』(のちの日経新聞)『エコノミスト』といった、現在にもある経済紙誌がこの時代に創刊されたのは、全然知らなかった。
経済雑誌自体は明治期に誕生、大正に入り、大戦ブームが経済メディアを発展させる
東洋経済新報』は「小英国主義」の影響をうけて「小日本主義」を提唱。その後、入社してきた石橋湛山もこの路線で大日本主義を批判。
一方、大正2年に創刊された『ダイヤモンド』は、業績評価など会社評論を主とし、投資のための情報を提供した。これにより、経済メディアは(論説よりも)会社評論が主流となっていく。
また、明治期に創刊した『中外商業新報』は、大正期の代表的な経済新聞となり、一方で、大阪毎日新聞社が発行した『エコノミスト』も新聞社発の経済雑誌として部数を伸ばし、大阪が拠点だったので、関東大震災以後いち早く刊行できたことも功を奏した。
学術経済誌は明治期にもすでに『国民経済雑誌』や『三田学会雑誌』があったが、さらに京都帝大の『経済論叢』、東京帝大『経済学論集』、東京商科大(のちの一橋大)『商学研究』が創刊される。当時、時事論説なども掲載していたため、『経済論叢』などは一般の読者にも読まれていたらしい。
また、河上肇は『貧乏物語』ののち『社会問題研究』という個人雑誌を刊行し、マルクス主義研究などを掲載、最大で5万部までいったとか。
明治期の経済雑誌に書かれていたような論説記事は、総合雑誌へと場を移す。『中央公論』では吉野作造の他、黎明会設立者である経済学者の福田徳三や河上肇が寄稿し、1919年に創刊された『改造』では誌上論争が盛んにおこなわれた、と。

第3講 上杉愼吉と国家主義……今野 元

上杉は、東京帝国大学法科の教員で、ドイツ留学をしている
憲法の解釈をめぐり美濃部達吉と対立、また、第一次大戦後は吉野作造とも対立せざるをえなくなり、言論活動を行うようになる。
議会政治を懐疑しつつ普通選挙運動家でもあった。

第4講 大正教養主義――その成立と展開……筒井清忠

もともと、明治期において「修養主義」というのがあり、Buildingの訳語として修養があてられた。一方、教養はeducationの訳語だった。
東京帝国大講師ケーベルの影響を受けて、和辻哲郎がBuildingの訳語として教養を使うようになり、ここから、教養という言葉が定着していく。
旧制高校が増えていき、学生たちの間で教養主義が広まりを見せるが、大正後期には、教養主義はかげりをみせ、学生たちはマルクス主義へと傾倒していく。
しかし、筆者は、マルクス主義教養主義は対立していたというよりは相補的であったと指摘している。

第5講 西田幾多郎と京都学派……藤田正勝

教養と文化
西田幾多郎のT・H・グリーン研究
教養主義
人格主義
文化主義
ドイツの文化哲学の影響
カントおよび新カント学派の研究

第6講 「漱石神話」の形成……大山英樹

夏目漱石の死後、主に漱石門下生を中心に一種の「漱石神話」が作られていき、「文学青年」というよりは「哲学青年」の中で漱石が受容されていくという話
「則天去私」について、漱石の死後、弟子たちが宗教的教義のようにとらえていく(現在の文学研究者からは、小説の方法論を述べたものだろうと考えられている)。
特に、小宮豊隆によって漱石は聖人化され、作品が小説というよりは思想書のように読まれるようになる。
また、岩波書店岩波茂雄は『こころ』の出版に協力しており、漱石作品の出版をてがけているが、岩波書店は大正教養主義をになった出版社でもある。
高学歴層の教養の書となっていくのだが、一方で、そうした「岩波文化」「教養主義」は一部の層のものとして批判もされ、戦前の漱石も読者を選ぶ作家であったという
戦後になり、江藤淳が新しい漱石像を提示。
ただし、筆者は、江藤の漱石像は一方では小宮による漱石像に代わるものでありつつ、他方で、小宮による漱石像を引き継いだものでもあることを指摘している

第7講 「男性性」のゆらぎ――近松秋江久米正雄……小谷野 敦

「恋に狂う男」の誕生
近松秋江の描いた「情けない男」
面白いが読まれなかった秋江
振られた男への同情で売れた久米正雄
中産階級の女性人気を得た「童貞」的青年像
新たな青年像を生んだ大正という時代

第8講 宮沢賢治――生成し、変容しつづける人……山折哲雄

雨ニモマケズ斎藤宗次郎
「デクノボー」願望
「ヒデリ」と「ヒドリ」
方言と高村光太郎
宗教と文学
賢治像の行方

第9講 北原白秋と詩人たち……川本三郎

国や家のために生きるといった価値観の強い明治世代の父親と、芸術や小説などに価値を見出す大正世代の息子という世代間対立から、北原白秋らの詩人(むろん大正世代にあたる)を見る
彼らの少し上の世代に永井荷風がいて、憧れの存在

第10講 鈴木三重吉・『赤い鳥』と童心主義……河原和枝

鈴木三重吉による『赤い鳥』の創刊と、そこにみられる、あるいは大正時代における童心主義について
ここに見られる童心礼賛は、のちに批判されていくことになるが、当時の時代的思潮でもあった。
日本で最初の創作児童文学は、巌谷小波によるもので、以降、巌谷は「お伽噺」を多く発表していく
一方、鈴木は漱石門下のロマン主義的作家で、お伽噺ではなく童話、唱歌ではなく童謡と新しい呼び方をつけて、子供の純粋さのための芸術運動を作ろうとしていく
『赤い鳥』に出てくる子どもとして「弱い子」というモチーフがある。
筆者はこれを、当時人気だった『少年倶楽部』と比較する。『少年倶楽部』に出てくる子どもは、立身・英雄主義的で行動するよい子であるのに対して、『赤い鳥』の子どもたちは平等主義・コスモポリタニズム的で内面の問題を重視する
こうした「弱い子」の物語はセンチメンタリズムともつながるが、それは、大正という時代の気分でもあったという
また、弱さを通して理想を描く作家として、小川未明の名前があげられている。
純真無垢な子どもというイメージは、ある種の観念的なものでもあって、だからこそ後に批判されることにもなるが、だからこそ芸術運動ともなりえた。
また、それはヨーロッパのロマン主義に由来する考えだが、一方で、それが土着的・伝統的なものとも結びついて、日本独特のものともなったという。北原白秋は、童謡を各地に伝わる「わらべうた」の復興ととらえ、また、相馬御風によって、良寛が童心の人として取り上げられるようになったなど

第11講 童謡運動――西條八十・野口雨情・北原白秋……筒井清忠

この章の筆者(であり本書の編者)は、『西條八十』という単著もあり、筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2でも、西條八十の章を書いている。
西條は、野口雨情の詩集を読んだことで詩人を志すようになる。
『赤い鳥』の鈴木三重吉が、同人誌で発表された西條の詩を読んで寄稿を依頼する
野口は、不遇をかこっていた時期があり、その野口を詩人として復活させたのも西條。野口は、「七つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」などの童謡をかき、また「船頭小唄」が映画化される大ヒットとなったが、これは退嬰的と批判されるほどだった。
北原白秋は野口のことを嫌っており、また、白秋と西條との間にもかなり対立があったらしい。この章の記述を見るかぎり、白秋がかなり感情的で大人げない感じではあるが、西條も西條も嫌な奴なところはあるな、と思う。
西條は、童謡だけでなく詩論も書けるし大人向けの詩も書けるし色々できて、童謡からは身を引いたらしい。一方、白秋は、姦通事件以後の復帰を童謡に賭けていたところがあったらしい。
また、西條は白秋に対してなかなかすごいことを言っていて、自分(西條)が白秋よりもポピュラリティーを獲得した結果、白秋は大衆化せずにすんだのだ、と。
(白秋の方は、西條の方が人気があるので西條のことを嫌っていたと思われるのだが、それに対して西條は、自分の方が人気があったからそれに対抗する意味で白秋は高尚な芸術路線を維持できたのだ(もし白秋よりも人気のある自分がいなかったら、白秋は大衆化した質の低い作品を書くようになってしまっただろう)というようなことを言っているというわけ)
この章では、西條が見出した金子みすゞについても述べられている。
現在では、西條よりも金子の方が有名であるが、金子は西條の雑誌へ投稿してデビューして、西條の強い影響下にあったとのこと。

第12講 新民謡運動――ローカリズムの再生……筒井清忠

引き続き、西條八十と野口雨情関連


「民謡」概念の成立
地方民謡の東京進
西條八十による民謡の発見
全国化した地方民謡の代表曲
野口雨情と新民謡運動
地方・民衆の逆襲
ローカリズム確立競争

第13講 竹久夢二と宵待草……石川桂子

竹久夢二について、名前と美人画についてはおぼろげながら知っているが、伝記的なことは全く知らなかったので面白かった。なお、本章の筆者は竹久夢二美術館の学芸員
幼い頃から絵を描いていたが、貧しい家庭だったので美術の学校には進学せず、雑誌への読者投稿を経てデビューする。
挿絵画家あるいはグラフィックデザイナー的な仕事で、雑誌の挿絵やタイポグラフィなどやっていたようだ。個展を開いて原画を売ったり、画集を売ったりしている。
最初の妻とは出会って2ヶ月というスピード婚だが、数年後には離婚している。しかし、離婚後もくっついたり離れたりを繰り返していたらしい。最初の妻以外の女性とも恋多き感じだったらしい。
で、旅先での失恋を詠んだ詩「宵町草」を発表、これを他の人が作曲し、夢二の装丁により楽譜を出版。それがさらにレコードとなり、という、大正時代のメディアミックスをやっていたらしい。
また、「港屋絵草紙店」という自身のグッズを販売するファンシーショップのような店もやっていたようで、大衆文化・ポピュラーカルチャーな人という感じで、そういうのを全然知らなかったので勉強になった。
ところで、大正時代の文化を「大正ロマン」と呼ぶことが多いが、これは一体いつからどのような経緯で呼ばれるようになったのか、ということも最後に論じられている。

第14講 高等女学校の発展と「職業婦人」の進出……田中智子

はいからさんが通る』で描かれる女学生と職業婦人について
女子への中等教育として中学校とは区別された高等女学校の規格化の結実として、1899年に高等女学校令が成立
ただ、高等女学校令における「高等女学校」を名乗るには宗教教育をしないことが条件で、すでに存在していたキリスト教系の学校は対応が分かれた
また、『はいからさんが通る』のモデルとなった跡見女学園も「高等女学校」にはならなかった(ならないことで、家政系科目の時間を多くとった)
1910年、家政系の科目を中心とした「実科」もでき、学校数がさらに増えていく。高等女学校とはあえてならなかった各種学校の生徒も含めると、男子の中学生を上回る数だったらしい。
いわゆる良妻賢母教育も見られたが、高等女学校が「高等普通教育」を目指すのか「家政教育」を目指すのかというのは争点となっており、ニーズの高まりもあり、高等普通教育へと向かっていく。
職業婦人については、一体だれをその範疇に含めるかについて論者によって結構ばらつきがあったという話

第15講 女子学生服の転換――機能性への志向と洋装の定着……難波知子

日清戦争後は、女子の学生服としては袴だったが、第一次大戦後、欧米の活動的な女性の姿が知られるようになるにつれて、洋装化がすすむ
学生服としては、制服とした学校と自由とした学校に分かれた。
この当時、まだ洋装は作り方もあまり知られていないし、着こなし方も分からないので、制服とした学校が多い一方、自分にあう服を自分で決めるのも教育の一環として自由とした学校もあった、と。
大正においては、制服にせよそうでないにせよ、学生服と職業婦人の洋装とはあまり区別がなく、「バスガール」と間違われたなどの証言が残っていたりするらしい。
セーラー服は、1920年代にはキリスト教系の学校で制服として採用されていたが、1930年代になって公立学校でも制服として採用されるようになる。さらに、先に述べた服装自由としていた学校でも、半数以上がセーラー服を着用するようになっていく。これにより、学生服と職業婦人の服が分化する。また筆者は、制度だけでなく流行の影響力の大きさを指摘している。

第16講 「少女」文化の成立……竹田志保

教育の拡充とともに雑誌メディアの需要も増え、子供向け雑誌として『少年世界』などが明治期に創刊される。当初は、少年と少女の区別はなかったが、1895年に『少年世界』内に「少女欄」が開設。また、そこで初の少女小説も書かれたという。ただし、そこで書かれた少女小説は教訓性が強すぎ、悲劇的なものも多かったので人気がでず、いったん閉じられる。
高等女学校令以降、増大するニーズに伴い、1900年代には少女雑誌の創刊が相次ぐ
「良妻賢母」規範から逸脱するような少女像を描く小説も出てくる一方で、新たな少女らしさ規範が出てくる。巌谷小波らによって書かれる「愛」の論理で、「愛をもつこと」という自発性と「愛されること」という受動性が巧みにすり替えられるような規範だったと、筆者は論じている
また、少女雑誌において重要だったのが、読者投稿論だったという(本田和子による指摘)
「紅ばら」「白露」などのペンネームを使い、「私もよ」「ですって」「おふるいあそばせ」などの「てよだわ言葉」などが用いられたという
今流行りの(?)お嬢様言葉だ……! 
投稿欄からは、尾島菊子、今井邦子、尾崎翠吉屋信子らが登場した
吉屋信子の書いた少女友愛小説とエスについても、本章では論じられている。
エスというのは、当時「仮の同性愛」として性科学でも論じられていたらしいが、これは異性愛規範を侵犯しないものとして、安全化するための言説であって、実際の当事者たちにはもう少し多様な実践があっただろう、と。

第17講 大衆文学の成立――通俗小説の動向を中心として……藤井淑禎

もともと「大衆文学」という言葉は、時代小説をさす言葉として使われており、現代小説の方は「通俗小説」と呼ばれていた。
本章は、主に通俗小説について
明治末頃に「家庭小説」という呼び名で登場したが、その呼称は10年ほどですたれ、通俗小説と呼ばれるようになる。
新聞拡販競争や大衆雑誌ブームの中で、通俗小説は書かれた
純文学と通俗小説はしばし対置されるが、例えば、通俗小説とされる長田幹彦の「霧」の連載は、漱石の「行人」と「心」の連載の間であり、三角関係を描く「行人」や「心」を通俗小説と言うこともできるのではないか、とは筆者の指摘。
『講談倶楽部』と『新青年』が、通俗小説の発展に貢献。
『講談倶楽部』は、岡本綺堂中村武羅夫長田幹彦の三人が初期の功労者。
新青年』には冒険小説、学生小説、科学小説、歴史小説、未来小説、そして探偵小説がおかれ、1923年に「二銭銅貨」が登場。
1926年、白井喬二を中心に『大衆文藝』が創刊されるが、これは時代小説家の集まり
通俗小説は『現代長篇小説全集』『長篇三人全集』などに集成されるが、後者の3人とは中村武羅夫加藤武雄、三上於菟吉

第18講 時代小説・時代劇映画の勃興……牧野 悠

時代小説の源流は講談
大正期に流行した講談本が「立川(たつかわ)文庫」、関西圏の少年労働者が歓迎、のちに川端康成坂口安吾高見順なども幼少期に親しんだ。口演の筆録ではなく、玉田一家*1による書き下ろし。猿飛佐助などがヒット。
講談師問題と『講談倶楽部』の〈新講談〉(大正2(1913)年)→正宗白鳥巌谷小波平山蘆江長谷川伸
同時期、中里介山の『大菩薩峠』連載開始。ただし、人気が出たのは大正10年ころ。
岡本綺堂が、ホームズ物に刺激を受け、1917年に「半七捕物帳」スタート
『講談雑誌』からは、白井喬二国枝史郎が登場
関東大震災で、職を失った野尻清彦が、大佛次郎の筆名で鞍馬天狗シリーズをスタートさせる
また、やはり関東大震災による負債で東京を離れた直木三十三(のちの三十五)が、大阪のプラトン社から『苦楽』創刊。仇討ちものを書き始める。
「大衆」は元来、僧侶の集団を意味していたが、白井は1924年ころから「民衆」の意味で「大衆」を使う。時代小説家を集めた会の機関誌として『大衆文藝』。まだ、時代小説という呼称も出てくる。
『大衆文藝』グループとは異なる流れから出てきた新人が吉川英治
映画界で、時代劇という呼称が定着するのも大正末期

第19講 岡本一平と大正期の漫画……宮本大人

明治から大正への漫画の変化として
・雑誌から新聞へ
・政治諷刺から社会・風俗諷刺へ
・漫画漫文形式の流行
・漫画家の社会的地位向上
があげられる。岡本一平は、このすべての点で代表的
北沢楽天の政治諷刺漫画は、楽天自身の立場・意見から描かれたが、一平の諷刺漫画は、政治家を「ただの人間」として描く。その意味で「民主主義」的だったが、一平自身の政治的立場から描かれているわけではなく、一歩引いたところから見ている、脱政治的なものであった。
明治の後半において、漫画は言葉なしで絵だけで成立するものを目指したが、一平は「漫画漫文方式」というスタイルを確立させていく。絵の横に文章を書き、漫画家が絵も文も書く。ルポやエッセイ、そして「漫画小説」を描いていく
また、漫画家たちを集めた東京漫画会を結成。漫画展覧会などを行い、地位向上に努めたが、漫画を一方で美術の一分野としつつ、一方でジャーナリズム・メディアを舞台に活動していたというジレンマがあった。

第20講 ラジオ時代の国民化メディア――『キング』と円本……佐藤卓己

タイトルにラジオとあるのでラジオの話かなと思ったら、ラジオではなく出版メディアの話で、講談社の雑誌『キング』と改造社の円本について
『キング』は、ここまでの他の章でもなんどか言及があったが、今は残ってない雑誌なので、「この度々でくてる『キング』とは一体」と思いながら読んでいたら、ここにきての伏線回収w


大日本雄弁会講談社により1924年に創刊した『キング』
新聞などで大々的に宣伝を行い、野口雨情作詞のコマーシャルソングも作り、翌年には日本初の100万部を達成。大量販売システムを確立させていく
また、『キング』の内容をレコードで伝えるための「キングレコード」が発売される。『キング』は1957年に終刊するが、キングレコードが現在でもキングの名を残している(知らなかった!!)
一方で、書籍の雑誌的販売として、改造社から「円本」がでてくる。これは様々な「~全集」の予約販売手法だが、「全集」ものはこれ以前からもあった。しかし、それは富裕層向けで、これを安価に手に入るようにしたのが円本だった。
予約販売は、出版事業を計画的にできるようにし、出版過程の近代化をもたらした。
また、円本に乗り遅れた岩波書店は、円本を痛烈に批判し岩波文庫を創刊するが、岩波書店も実質円本みたいなシリーズを当時やっていた

第21講 大衆社会とモダン文化――商都・大阪のケース……橋爪節也

一時的にではあるが、大阪の人口が東京を超えていた時期があり、その時期の「大大阪モダニズム」について
大大阪というのは、合併により拡大した大阪を呼ぶ当時の呼び名で、大阪以外にも「大京都」「大大津」「大岸和田」といった呼び方があったらしい
大大阪モダニズムとして、当時の市長による美術振興政策がある。
また、劇場や百貨店、中之島の開発などもあげられる。
岡本一平の手による「大大阪君似顔の図」という絵がある。例えば通天閣を鼻にしているなど大阪を擬人化した絵である。新聞連載で大阪ルポをしながら描かれたものだが、筆者は、一平が大大阪君を庶民として描いていることに注目し、大大阪モダニズムが庶民性を持ち合わせていたことを指摘する。
また、単なる近代化ではなくて、浪花情緒という伝統文化も交えたモダニズムだったとも論じている。

第22講 大衆歌謡の展開……倉田喜弘

大衆歌謡として、当時流行した「カチューシャの唄」「船頭小唄」「籠の鳥」がそれぞれ紹介されている。いずれも、メディアミックス的展開がみられる。
ところで、「カチューシャの唄」はこれまでの章でも度々言及のあった曲名で、やはり伏線回収感があったw

  • カチューシャの唄

醜聞により文芸協会を辞めることになった島村抱月松井須磨子は「芸術座」を立ち上げ、トルストイ「復活」の公演を行う。この「復活」のヒロインが須磨子演じるカチューシャである。当初はあまりヒットしなかったのだが、京都公演から火がつき、全国的な人気に。「カチューシャの唄」はレコードとなり広く歌われるようになった(学校によっては禁止されるほどに)

  • 船頭小唄

野口雨情作詞、「カチューシャの唄」を作曲した中山晋平作曲の歌で、ヒットしたことで映画化する

  • 籠の鳥

同名の映画の劇中歌


最後に、当時の歌は、現在聞くとかなり下手らしくて、授業で流すと学生がみんな驚くというエピソードでしめられている

第23講 発展する活動写真・映画の世界……岩本憲児

大正元年(1912年)日活設立。1914年に『カチューシャ』が大ヒットしたのだが、ヒロイン役を演じたのは女形の立花貞二郎
明治時代、歌舞伎は「旧劇」、それに対抗して生まれた新たな舞台劇を「新派」と呼び、映画界では、時代劇を旧劇と呼んでいたが、旧劇か新派かにかかわらず、女形が受け継がれていた。女優がいなかったわけではないが、主要な役柄にはなっていなかった。
これを嫌った帰山教正は、欧米映画並みの水準の映画を作るという「純映画劇運動」を始め、主要な役を女優が演じる作品を撮った。また、松竹も女優を増やしていった。
1920年から、松竹キネマ、大活、国活、帝国キネマといった映画会社が次々と設立。帝国キネマは無声映画『籠の鳥』をヒットさせた。
通俗小説の映画化で現代劇の映画ができる一方、時代劇が人気で、小説が時代劇映画から影響を受けたりもしている。大正末期には旧劇から時代劇という呼称になる
大正時代には、当然海外からの映画も入ってきている。イタリア映画、アメリカ映画、ドイツ映画など
映画雑誌も創刊が相次ぐ。ほとんどの雑誌が今はもうないが、唯一『キネマ旬報』だけが今も残っている。
というか、キネ旬が大正時代からあるというのに驚いた。

第24講 百貨店と消費文化の展開……神野由紀

旧来の呉服店が発展したタイプの百貨店と、私鉄終着駅にターミナル・デパートとして作られたタイプの百貨店がある
主な客層は会社員とその家族で、手に届く高級店、あるいは食品や日用品を売る庶民的な路線(小林一三の「どこよりも良い品をどこよりも安く」)。
銀座が、レンガ敷きの西欧風の町並になったのは明治だが、それでもまだ東京の中心地は日本橋周辺だった。関東大震災以後、カフェーや老舗百貨店が銀座で開店して東京の中心となってくる。
家族で訪れる場所としての百貨店。「子ども」概念ができてくる時代で、子ども向けの商品(文房具など)が展開されていく。教育制度が整備され、9割が初等教育を受けるようになったことと、百貨店の客層である中間層が教育に熱心であったことによる。また、七五三など維新以来廃れていた伝統文化も復活してくる。
百貨店の屋上に動物園や遊園地などの娯楽施設ができる。
双六に百貨店が出てくるなど、子どもが休みの日に家族と訪れる場所として子どもにも認識されるようになっていく。
呉服店時代からある程度そうだが)百貨店は流行の操作なども担う

第25講 阪急電鉄小林一三――都市型第三次産業の成立……老川慶喜

第26講 宝塚と小林一三……伊井春樹

内容としては重複する部分もあるので、この2章分をまとめて要約する
小林は、山梨生まれで慶應大出身、三井銀行勤務を経て、銀行時代の上司から証券会社への誘いを受け、家族を連れて大阪へ行くのだが、恐慌のあおりでその証券会社が結局設立されず、失業してしまう。
阪鶴鉄道の監査人となり、箕面有馬電気鉄道の発起人の一人となる。で、この鉄道会社、敷設権を獲得したはいいが、田舎路線すぎて、株による資金調達もなかなか進まない。みんなが手を引きたがっている中、小林は「ここは住宅地に向いているのではないか」と一手に引き受けていく。
大阪への通勤客を見込んで文化住宅の販売を始める。月賦による販売、つまり住宅ローンのようなものだが、これを最初に始めたのが小林らしい。で、この売り方も好評となる。
むろん、住宅地の開発にはある程度時間がかかるので、それまでのつなぎとして、当座の終着駅である箕面に、動物園や遊園地を開設し、鉄道の乗降客とする。
大阪や神戸への直接乗り入れ路線も開発し「阪神急行電気鉄道」へと名称変更
電力供給事業やさらに百貨店事業にも乗り出す。
梅田駅に本社ビルを建て、その1階に食堂、2・3階に白木屋を入れる。小林は白木屋でまずは市場調査をした上で、テナント契約が切れた後、(本社は別のところに移転し)本社ビル全体を阪急百貨店とする。
阪急の事業別の売り上げ割合のグラフが載っているのだが、百貨店事業が始まってからは、百貨店の売り上げの割合がぐんぐん伸びて、もっとも高くなっていく。
鉄道、不動産、電気、百貨店と異なる業態を多角的に展開する小林の手法は「芋蔓式経営」と呼ばれる。一見、バラバラだが大衆に向けての事業だということで一貫している。実は当時、大衆向けの業種は「水商売」と思われ、業績が安定しないと思われていた。
さて、宝塚である。
終着駅につくった娯楽施設で見せるショーとして始まったわけだが、夏場の間、プールとして使う施設を、オフシーズンに舞台として使っていたところから始まったらしい。もっとも、プールは人気がなく、2年くらいしかプールとしては使われなかったようだが。
振り付けや作曲などに有能な指導者をつけ、全員に和歌由来の芸名をつけた
明治末から大正は、新たな演劇を目指していろいろな劇団ができていた時代。宝塚少女歌劇団は、歌舞伎のオペラ化を目指す劇団
初舞台は大正3年
元々、この温泉に来た客であれば無料で見られるという位置づけであったが、人気がどんどん増していった
宝塚以外での興業にも成功
大正5年、道頓堀の浪花座を貸した松竹は田舎の劇団とたかをくくっていたら、松竹よりもよっぽど売り上げがよく(すぐに売り切れた)、その後、宝塚から引き抜きをしたりして、以後、東宝(東京宝塚)と松竹はライバル関係となる
宝塚を真似た少女歌劇団が雨後の筍のごとく増えるが、長期的に続くものはなかった。
大正7年には、東京の帝国劇場でも公演(内部で反対もあり実現に2年かかる)。非常に人気で、坪内逍遥がチケットが手に入らなくて帰る、というエピソードがあるらしい。
昭和になってから、小林は東京電燈の社長に就任。東京電燈の所有していた日比谷の土地を購入し、ここに東京宝塚劇場を開場する

第27講 カフェーの展開と女給の成立……斎藤 光

明治末頃に誕生した「カフェー」について。
ここでいうカフェーは、洋食を提供する、調理場が別にあり給仕が料理を持ってくる、椅子とテーブル形式のお店くらいのかなり広い意味
1911年、銀座にプランタン、ライオン、パウリスタという3軒の店がカフェーとして開店する。
「女給」というのは新しい言葉で、「女給」という概念が徐々に成立し広まっていく。
例えば、1918年の『中央公論』に近頃の流行のものとして「カフェー」があげられていて、14人が文章を寄せているが、この中で女給に言及しているのは7人で、7人は言及していない。この中で長田幹彦は、花柳界と対比してカフェーについて語っているという。
女給は、次第に認知されていき、1922年には、新聞で人気投票が行われるほどになる。会えるアイドル感……。
関東大震災以降、カフェーのタイプが多様化。この頃になると、1918年の『中央公論』では言及されていなかった音楽やダンスもカフェーの要素となってくる。また、季節ごとのイベント企画が行われるようになっている、と。
カフェーについては、気軽な洋食店という認識であったが、ここに次第に、女給からサービスを受ける店という認識が加わってきて、店の形態が分化していくことになる。喫茶店やらバーやらキャバレーやら。
なお、本章の中で度々、カフェーについての学術的な研究はまだほとんどなされていない旨が書かれている。大正文化史の本である本書の中にカフェーについての章があることについて、「なるほどカフェ史とかありそうだな」と思ったのだが、研究レベルでは当時のカフェ文化というのは分かっていないことが多い、ということらしくて、それはそれで意外だなと思ったり、100年前のカフェーのことなんかそりゃ分からないことも多いなとも思ったり。

*1:講談本や玉田一家についてはゴールデンカムイの不死身の杉元と明治の不死身キャラの類似性とその進化について - 山下泰平の趣味の方法に書かれていたのを思い出した。この記事に出てくる「講談師問題」は本章にも書かれていて、それが〈新講談〉へとつながっていく