筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』

ワシントン条約から占領政策まで、昭和期の日本政治史を15講に分けて解説している
執筆者15人中8人が7~80年代生まれの比較的若い世代の研究者であり、サブタイトルにある通り、最新研究を踏まえた論述となっている。


直接的には、柴田勝家『ヒト夜の永い夢』 - logical cypher scape2を読んだのきっかけで、昭和史の本も読んでみようかなと思ったんだけど、最近だと、上田早夕里『破滅の王』 - logical cypher scape2とか暮沢剛巳・江藤光紀・鯖江秀樹・寺本敬子『幻の万博 紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』 - logical cypher scape2とかも読んでたし、あともうずいぶん前だけど、『虹色のトロツキー』を読んだのはこの時代に興味を持つかなり強いきっかけだったと思う。
まあ、そもそもこの時代のことについてあまりよく分かってないので、大まかな流れを改めておさえておきたいなと思ったこともあり。
「最新研究を踏まえた」ものなので、記述の中には「従来説では○○だが~」とかあったり、わりとこれくらいは知ってるよね前提が置かれていたりするようなものもあって、「いや、それを知らん」って思うところもなきにしもあらずではあったが、全体的には、大まかな流れをつかむにはまずまず悪くないといったところだったと思う。
15人の分担執筆ではあるのだが、おおよそ一つながりのものとして読むことができて、そのあたりのクオリティの高さはなかなかだと思う。


この本のコンセプト自体が、単純化された歴史ではなく、複雑なプロセスとしての歴史を示すというものなので、ここでまとめ直すのもあれなんだけど
第一次大戦後の「ワシントン体制」があり、いわゆる協調外交を目指すという志向は一応あって、日本も戦争しないようにはしているのだが、あんまりうまくいかなくなっていくという流れがある。この「あんまりうまくいかなくなっていく」の内実は、確かに単純に何かが・誰かが悪いという話でもなくて、色々な要素がボタンの掛け違いのようになっていってる複雑なプロセスだとはいえる。
あと、この時代、面白そうだなと思った理由で、実際この本読んで面白いなと思ったところで、今現在(この30年くらい)の右翼・左翼と、この時代の政治思想ってまたちょっと違うところあるよなーというところで
国内における「平等主義」が、国外に対する反英米価値観と結託していくところというか
ドイツとかロシアとか日本とか、英米仏よりも遅れて近代化・帝国化した国々は、それぞれ少しずつ違うけれど、同じような方向に進んでいったのだなあ、と。
分かりやすい現れとしては、計画経済・社会主義天皇主義とかが結びついてる北一輝とか、その流れをくむ革新官僚とか
また、本文中でも多少言及があるが、この「平等主義」による政策は戦後に引き継がれたものもあって、戦前・戦中と戦後の連続性が示されている。
ところで、満州事変は、事の善し悪しは別として、なんでそういうことを起こしたのかというのは分からんでもないところなんだけど、日中戦争の方は、よく分からんというか、趣旨や目的が見えてこないというか。戦闘が戦闘を呼んでなし崩し的に拡大していっちゃってる感じがして、なんだかな―という感想を抱いた。
あと、善と悪とを単純化しないようにというのが、この本のコンセプトだというのは理解しつつ、一読した感想として、「政友会が結構悪くねーか」とは思った


読んでいる最中は、これ年表とかちゃんと書いていった方がよくないかとか思ってたんだけど、読み終わったら面倒になった
ブログ記事も、まあそこそこあっさり目にしようかと思っていたのだが、気付いたらかなり文字数いってた
正直、歴史ものの本はどう要約すればいいのかわからなくて、結構ムズイ。まあ、新書としては標準的なページ数の本だとは思うが、濃いことは濃い


なお、『昭和史講義』は、『昭和史講義2』『昭和史講義3』『昭和史講義【軍人編】』『昭和史講義【戦前文化人編】』とシリーズ化されている。
『昭和史講義』シリーズは、2015年から年に1回ずつのペースで出ているようだが、おそらく人気だったのだろう、ちくま新書はさらの2018年頃から『古代史講義』『中世史講義』『明治史講義』『平成史講義』『考古学講義』と次々とシリーズ化している模様

第1講 ワシントン条約体制と幣原外交 渡邉公太
第2講 普通選挙法成立と大衆デモクラシーの開始 小山俊樹
第3講 北伐から張作霖爆殺事件へ 家近亮子
第4講 ロンドン海軍軍縮条約と宮中・政党・海軍 畑野勇
第5講 満州事変から国際連盟脱退へ 等松春夫
第6講 天皇機関説事件 柴田紳一
第7講 二・二六事件と昭和超国家主義運動 筒井清忠
第8講 盧溝橋事件──塘沽停戦協定からトラウトマン工作失敗まで 岩谷將
第9講 日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明 戸部良一
第10講 ノモンハン事件・日ソ中立条約 花田智之
第11講 日独伊三国同盟への道 武田知己
第12講 近衛新体制と革新官僚 牧野邦昭
第13講 日米交渉から開戦へ 森山優
第14講 「聖断」と「終戦」の政治過程 鈴木多聞
第15講 日本占領──アメリカの対日政策の国際的背景 井口治夫

第1講 ワシントン条約体制と幣原外交 渡邉公太

「ワシントン体制」なるものが本当にあったかどうかは、近年の研究では疑問視されている、というとこから始まるのだが、この章のメインは、このワシントン会議で確認された枠組みを尊重した幣原外交についてである
幣原は、1924~27年および1929~31年にかけて外相となっている
外交官出身で、ワシントン会議では全権委員を務めて、当時の中国の面々と折衝した経験ももち、英米強調路線をとる「霞が関正統外交」の流れにもいた、と
中国に対して、出兵しない・内政不干渉を原則とした外交を貫いた、とひとまずは特徴づけることができる。
ただ、これ当初は日本の中国権益を守るうえでもうまくいくのだが、中国に出兵して干渉したいイギリスと次第に不和が生じるようになる。
また、国内的にも評判よくなく、省内に派閥とかを作ってこなかったので彼の考えを実現する部下もあんまりいなくて、幣原外交はうまくいかなくなっていく、という流れ

第2講 普通選挙法成立と大衆デモクラシーの開始 小山俊樹

政党政治の成立期について
最後の元老である西園寺公望も、政党政治の定着を望んでいた(とこれは、従来説と異なり近年の研究で明らかになってきたことらしい)
二大政党となった憲政会と政友会
憲政会は、緊縮財政と労働問題や参政権など社会問題重視
政友会は、積極財政で産業振興と治安立法重視(治安維持法の成立・改正などを行ったのが政友会)
普選法実施で、デモクラシーは広がったけれど、スキャンダル争いや汚職なども

第3講 北伐から張作霖爆殺事件へ 家近亮子

北伐があって、幣原外交時代は出兵しないけど、国内の反対にあって内閣総辞職となり、田中義一内閣が山東出兵を行う
で、1927年に、蒋介石は来日していて、田中との会談をしているらしい
この蒋・田中会談で、互いに合意があったような感じにはなるのだが、その理解に双方ズレがあり、第二次山東出兵と済南事件に蒋介石は衝撃を受ける。で、日記に「恥を雪ぐ」と書くようになったらしい

第4講 ロンドン海軍軍縮条約と宮中・政党・海軍 畑野勇

ロンドン海軍軍縮条約によって、英米に対して軍艦数などが制限されることになり、これが統帥権侵犯だ、という批判を呼び、のちに軍部の台頭と政党政治の没落を招いたとされるあれこれ
もともと、条約に反対していた海軍側も、統帥権天皇が有する大権の1つ)は問題としていなかったところ、政友会が、倒閣のために「統帥権」を持ち出し、一時は条約に同意していた軍部もこれにのったという形らしい
内閣側は、元老と宮中(宮内大臣侍従長など)の支持をとりつけ、天皇も条約締結を支持していたので、いけるだろと思っていたのが、実は誤算だった、と
海軍の不満が、満蒙政策に不満をもつ陸軍、政党政治への不満を持つ勢力などと共鳴してしまい、単なる条約反対から、イデオロギー色の強い政治問題へとつながってしまった
一方で、当初原則として掲げていた7割を下回ったとはいえ、実際は6割9分とかなので、実質的には、海軍力が不足するわけではなかった。で、このことを認識していたのが、板垣征四郎石原莞爾で、満州事変起こしても大丈夫だなという判断につながったと

第5講 満州事変から国際連盟脱退へ 等松春夫

元々、満州に対しては、日露戦争以後に日本が権益を持つようになり、また帝政ロシア時代からソ連が北部で権益を持っていた。で、この地域を実効支配していた奉天政権の張学良は、張作霖爆殺事件ののち、蒋介石の元に下っていた。日中ソの利益が対立しあう地域であり、またそんな中モンゴルがソ連の支援の下独立していた
満州事変に先立つ1929年、北満の権益回収のため、張学良がソ連に対して戦争をしかける(中ソ戦争)。しかし、蒋介石はこれに介入せず、張学良はソ連に敗退する。
日本陸軍、とりわけ関東軍はこの中ソ戦争に注視しており、ソ連への警戒心を持つとともに、中国に対しては武力で満州の権益維持ができると考えさせるきっかけになっていたらしい。
で、柳条湖事件から始まる満州事変があって、リットン調査団がくる、と。
国際連盟の脱退については、実際のところ、満州建国に対して国際連盟は実質的なペナルティを日本に課せたわけではなかった。ので、脱退せずに居直ってそのまま残る、という選択肢も日本にはあった。そもそも、西園寺公望は、松岡洋右に対して脱退を回避するよう約束させていたし、また当時の外務省の顧問であった法学者が、まさに居直ってそのまま残ればよい、という主張をしていたらしい。
しかし、湧き上がる日本の世論がそれをさせなかったのだと述べられている。

第6講 天皇機関説事件 柴田紳一

これは、学説上の問題というより「政治問題」だったという話で、色々な動機が絡んでいる
そもそも、美濃部達吉は、ロンドン海軍軍縮条約の際の統帥権干犯問題の際に、全く統帥権については問題ないと条約締結を擁護したために、軍部の恨みを買っていた&犬養内閣に対して、虎ノ門事件で山本内閣は総辞職したのだから、桜田門事件で犬養内閣も総辞職すべきだという主張していたために、政友会から恨みを買っていた、という背景があって、政治問題化したんじゃないかという話


ところで、本文には全く説明なく、「虎ノ門事件」「桜田門事件」がさらっと出てくるのだが(あと、朴烈事件というのが第2講にやはり特に説明なく出てくる)、全然知らなかったので調べたところ、これに幸徳秋水の事件を含めた4つの事件を大逆事件と呼ぶらしい。大逆事件というと幸徳秋水の奴しか知らんかったが(Wikipediaにも一般的には幸徳事件をさす、とある)。
大逆事件は、天皇や皇太子などへの危害(未遂・計画を含む)だが、この章では、日本近代史では暗殺が横行していた(その最たるものが二・二六だろうが)とかあって、大変な時代だよなーと思う(むろん戦後にもあるわけだが)


天皇機関説を攻撃する側が、倒閣勢力であり、さらに現状打破を目指す「革新」勢力であった、とある。
「革新」というと、今は左派をさす言葉として使われているけれど、戦前はむしろ右派をさしているのが面白いといえば面白い


明治憲法というのは、天皇に大権があるけれど、明治から大正期にかけて、議会制民主主義と整合させるために国家法人説及び天皇機関説というものが入ってきて、世論的にも受け入れられていたらしい(それで、日本国憲法象徴天皇制との連続性を解く法学者もいるらしい)。その法学者曰く、この天皇機関説事件以後、明治憲法が軽視されるようになって、軍国化が進んだのだ、と。


この章は、天皇機関説事件を色々な視点から考えるということで、色々な研究などを紹介する構成になっているけど、「紀元2600年記念事業」などによる時代的背景からの影響は今後の研究課題と述べられていたりする。

第7講 二・二六事件と昭和超国家主義運動 筒井清忠

1918年、満川亀太郎大川周明を中心とした老壮会→1919年、満川と大川で猶存社を結成し、北一輝を上海から呼び寄せ、「三位一体」の活動が始まる
北は、元々平民社の周辺にいて、中国の革命運動に参加。しかし、革命挫折後、五・四運動でかつての同志が反日運動をしていることに驚き、『日本改造法案大綱』を作る
この『日本改造法案大綱』、天皇の名のもとにクーデター起こして憲法停止して戒厳令を敷き、その間に、華族制度などの廃止、言論弾圧法案の廃止、土地の公有化と自作農の創設、労働省を作って労働者の待遇改善、児童の教育権を保全するという内容で、天皇主義かつ社会主義なんだなーっていう
この平等主義を国内ではなく世界に当てはめると、アジアの植民地解放、英米による支配打破になっていくようだ
面白いのは、北の思想が軍人と親和的だったという話で、ワシントン海軍軍縮条約による反戦ムードの中、日本でも軍縮の動きが進み、軍人に対する嫌がらせなどもある軍人受難時代になっており、そんな中、天皇中心の社会変革とアジア解放において、軍人は中心的な役割を果たすと説いた『日本改造法案大綱』が、青年将校に広まっていったと
一方、エリート階級である大川は、中堅将校との結びつきを強くする。トルコのアタチュルクの革命を見て結成された軍人結社・桜会の思想的リーダーも大川(1931年、大川らは宇垣陸相を首相にするためのクーデターを画策(三月事件))
北の思想に共鳴した青年将校と農村や下町の青年が日蓮宗井上日召のもとに集ったのが「血盟団」、橘孝三郎を中心にしたのが「愛郷塾」
1932年、血盟団による血盟団事件、愛郷塾などによる五・一五事件が起きる
五・一五は海軍の将校を中心とした事件で、裁判の際には、大々的に報道され「腐敗階級を打倒しようとした純真な青年将校」のイメージが広まり、花嫁候補が現れたり、レコードが作られたりと、スター化したらしい
北・西田の影響を受けたグループは荒木ら九州閥を推したてて陸軍改革を行おうとする。これが「皇道派」、これに対して永田鉄山らの「統制派」は皇道派を左遷する人事を行い、1934・35年を通して対立が激化していき、いよいよ1936年に二・二六事件へとつながっていく
で、事件後は石原派が台頭していって、東條と石原の対立が続くようだ。なお、統制派はそれほど結束があったわけではないので、その後もメンバーは軍の要職にいるけど、統制派なるグループがあったわけではないらしい。
本章では、昭和の超国家主義運動が政治運動としては二・二六でついえるが、その平等主義的な発想自体は、昭和10年代(1935年~)に、自作農創設、厚生省設置、国民健康保険・厚生年金制度、食糧管理制度、配当制限制などの施策につながり、さらに戦後の財閥解体・農地解放へとつながっていったと述べている
また、こうした政策をすすめた革新官僚の中に、北からの影響を受けていた者も多かった、と(岸信介とか)
この平等主義的思想は、既に述べたとおり、アジア解放・反英米思想ともつながっていて、また、天皇周辺にいた西園寺公望などの親英米政治家を君側の奸として捉える発想ともつながっている、と。

第8講 盧溝橋事件──塘沽停戦協定からトラウトマン工作失敗まで 岩谷將

塘沽停戦協定(1933年)というのは満州事変の停戦協定なのだが、その後、熱河での戦闘があったことが書かれている。自分にとって熱河というと羽毛恐竜なので、「あの熱河か、確かに位置的にはあのあたりだな、遼寧だし」みたいなつながり方をした。
この章では、1933年の塘沽停戦協定、1937年7月の盧溝橋事件、その後のトラウトマン工作と1938年1月の「国民政府ヲ対手トセス」までの経緯を記述していく
その記述を拾っていくとキリがないのだが、停戦協定後も、抗日運動が続き国境侵犯や日本人を殺害する事件などが相次ぎ、日本側もそれを契機に攻め返したり、対中要求を釣り上げるなどしていく
中国側は、国内の統一が概ねなされたため、反日姿勢が固まっていく
盧溝橋事件直前には、一時期、緊張緩和の空気もあったらしいが、互いの相互不信により、相手のちょっとした行動が戦争への準備に見えて、事件が勃発してしまう。
日中ともに、中央がうまく現地をコントロールできなかったり、開戦に消極的な者もいるのだが積極派に押されて折れてしまったりとか、そういった積み重ねで事態がエスカレートしていくという状況だったらしい
日本軍は華北を南下し、上海まで至る。首都・南京攻略を前に、戦争の長期化をおそれた中央は、和平工作を始める(トラウトマン工作)。
中国側は、ソ連の対日参戦についての回答を待って、日本への回答を保留。一方、日本は、中央の指揮が及ばない速度で現地の戦闘が進み、和平工作へのかけ金が上がっていってしまう。
結局、中国側も結論がまとまらず、日本は「国民政府ヲ対手トセス」として和平工作を打ち切る

第9講 日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明 戸部良一

停戦したけど戦闘再開しちゃったり、上層部は戦線拡大する気なかったけど現場が侵攻しちゃってそれを止めることができなかったりとか、何じゃそりゃみたいな感じで進む日中戦争
で、「国民政府を対手にせす」は、これまで国内的には「事変なので、そんな大したことないので」と言ってたのを、長期戦になるから覚悟せよという態度変更を促すためのものでもあったらしい。国民向けのアナウンスが目的なので、対外的には交渉再開の含みを持たせていたらしいのだが、議会でその点をツッコまれて、和平交渉を今後一切行わない旨の答弁をせざるを得なくなったとか
1937年、大本営が設置される。当初、大本営は現地の日本軍をストップさせるために設置されたとか
しかし、コントロールができず、占領地は拡大していく。が、拡大した占領地を維持しつつ戦争する能力を日本軍は有していない
で、中国に新しい政権を作って和平を行うという工作が行われるのだが、蒋介石を下ろすという日本側の要求が中国側に受け入れられないのと、和平工作として3パターンを動かしたのだが、優先順位をつけなかったので相互に矛盾して混乱をきたしていく
日本軍は、個別の戦闘では勝つのだが、中国側はそれで諦めず何度も仕掛けてくるので、戦争が終わらない
そんな感じで戦争が進んじゃっているから、戦争の目的が不明瞭で、それを明確化させるために出されたのが「東亜新秩序」だったとか。目的と手段が逆になってる感じがある。


満州事変は、後世から見て日本の権益が正当化できるか否かという問題はあるにせよ、権益を守るために武力を使ったという意味で、目的と手段がはっきりしているが、日中戦争はよくわからんなって感じ
和平工作のすれ違いやら何やらで、どんどん泥沼化していった様子が、研究により明かされており、この章でも解説がされているので、「どのようにして」こうなっていったかは分かるわけだけど
(実際、研究上でも「なぜ」ではなく「どのようにして」と問いの転換があったみたいなことがどこかに書いてあったような)
第7章で、昭和超国家主義運動は、反英米なのでアメリカと戦争するつもりはあっても、元々中国と戦争する気はなかったはずというようなことが書かれているし、石原はどっちかというソ連を仮想敵にしているから中国との戦争には消極的であったりと、中国と戦争する気のなかった人たちはそこそこいた感じがする。で、中国と戦争始まったら勝ちはするけど、広大な土地を占領し続けるのは日本には無理なのでやっぱ止めたいみたいなところもある。と、よっしゃやるぞというのではなく、なし崩し的に全面戦争になっちゃった感がある
なまじ戦闘には勝っちゃってるから、和平をするにも相手に条件を呑ませたいところがあって引けなくなっているし、一方、中国は北伐から国内統一をなしてナショナリズムが高揚しているし、反日感情も強くなっているから、そんな条件を呑めないしって感じで、お互いに止められなくなっている感じだったのかもしれない。

第10講 ノモンハン事件・日ソ中立条約 花田智之

1939年のノモンハン事件
1930年代を通して、満ソ国境紛争がたびたび起こっており、軍事・外交両面で日ソの緊張関係は高まっており、その先に起きた事件
日ソ両国が、国境線を「誤解」していたために起きた軍事衝突だったとか
ここでもまた、日ソともに、中央と現地の間に齟齬があり、エスカレートしていったらしい
従来、ノモンハン事件は、日本側が一方的に大敗した紛争と考えられていたが、近年の研究により、ソ連側にも多くの死傷者が出ていたことが分かっているとのこと
いずれにせよ、ノモンハンでの敗北および独ソ不可侵条約により、日本の対ソ戦略は変更される
で、1940年には、松岡洋右の案で、日ソ独伊四国協商構想なるものがあったらしい
英国打倒というのを軸として結びつけるというもので、また、日本海軍には元々ソ連との友好関係への志向があるらしくそことの親和性もあった
しかし、1940年後半には、早くも独ソ交渉が決裂しており、この構想が日の目を見ることはなかった
一方、1941年に、日ソ中立条約が締結される。とはいえ、これは不可侵条約ではなくて、先だって締結されていた中ソ不可侵条約の中で、日本と不可侵条約を結ばない旨の裏書があったことが近年の研究で明らかにされているらしい。
独ソ戦が始まることもあるし、日ソ関係なかなか微妙なところはあるけど、この中立条約が「北方静謐」をもたら、日本軍南下への歴史的転換点となったのだ、とこの章は締めくくられている


どうでもいいけど、ソ連の略として「蘇」表記があったの知らなかった


四国協商ってのもすげー構想だなと思うんだが、
近代化の後発国で、植民地を持っておらず、世界恐慌に対して、国家主義社会主義的な方向に舵をとることで対応したという点で、日独ソはある意味似ていたともいえるので、なくはないのかもしれない
そもそも、ソ連アメリカと手組んでたってのも意味わからんといえば意味わからん話だし
とはいえ、元々満州を巡って、日ソは対立してて、先に中国がソ連と友好関係結んでいたようなので、こうなるのも当然の流れと言えば当然の流れのようにも見える

第11講 日独伊三国同盟への道 武田知己

と、第10講に対しての感想を書いたが、続く第11講を読むと、日独関係も全く一筋縄でいかなかったことが分かる。
1936年、日独防共協定締結後、日独伊三国同盟締結へ向けて、1938年から39年にかけての第一次交渉と、1940年の第二次交渉が行われ、1940年9月に日独伊三国同盟が締結されている。
もともと、「防共」という目的によって、日独の結びつきは始まったらしい
第一次交渉では、自動参戦義務を巡って紛糾。つまり、ドイツが英仏と開戦した時に日本もこれに巻き込まれるのか否か。外務省は、防共=ソ連への警戒によりドイツとの同盟を結ぶことには賛同していたが、軍事同盟には必ずしも賛同していなかった。一方、軍部の中には、当然英米打倒の流れがある。
さらに複雑なのは、ドイツは中国では日本と対立していて、日中戦争では中国に軍事顧問を派遣していること。1938年、ドイツは日本寄りになり満州を承認するも、ドイツが求めるのは日本の勝利ではなく、あくまでもアジアにおけるイギリスへの牽制役。さらに、1939年、独ソ不可侵条約が結ばれることで、日本はドイツ側に疑いをもち交渉決裂
1940年、松岡洋右が外相になり、交渉が再開され、条文に曖昧さを残したまま締結されることになる。
ここらへん、松岡が一体どういう認識でどういう見通しをもって、この同盟締結をやろうとしたのかは、今でも議論の絶えないところらしい(本章では、従来言われていたほど見通しが甘かったわけではないが、判断を誤らなかったというわけではない、というようなことが書かれている)。
日独の間もコミュニケーション不足だったとされ、さらに、そもそも日本とイタリアの間には何の関係もなくて、空虚な同盟だった、とも
同盟は組んだものの、その同盟に内実はなく、三国は各々別個に戦争をしていた、ということが、従来の研究でも指摘されているとのこと

第12講 近衛新体制と革新官僚 牧野邦昭

「近衛新体制」=1940年の第二次近衛内閣が目指し、実現した、あるいは実現しようとした体制ないし運動
革新官僚」=近衛新体制で活躍した官僚、ここでは特に狭義の革新官僚として、商工省の官僚+1940年に企画院にいて経済新体制に関わったグループ


満州事変による軍事費増大により景気が回復したが、悪性インフレーションの恐れがあり、高橋是清が軍事費を引き締めようとするが、二・二六で暗殺され、その後、軍事費が拡大し続ける。これに伴い、経済統制が必要となっていく。
1937年、内閣調査局や内閣資源局を前身として、企画院が発足
なお、この時期の軍事費拡大はバブル景気をうみ、観光、出版、音楽、百貨店などの消費文化を生んだとのこと。神宮・天皇陵参拝、戦争報道、軍歌、紀元二千六百年記念事業など


一般的な戦中のイメージとして、物資不足で配給制の中、苦しい生活を送ったというのがあり、自分もそういうイメージは強いけれど、それはかなり戦争も末期になった頃の話であって、30年代は全然そんなことないんだろうなーと
ただ、この時期に消費文化が生まれたっていうのは全然認識してなかったあたりなので、面白いなーと。まあ、考えてみれば、欧米も1920~30年代って大衆文化が花開いた時期で、面白い時代だったわけだし、なるほどなーと
っていうか、この時期には、阪急東宝グループの小林一三もいるわけだしな(小林は、本章の後半に出てくる)


革新官僚の中には、いわゆるイデオローグタイプと実務能力に長けたテクノクラートタイプとがいて、相互補完の関係にあった
政党、軍部、財界が対立し、権力の混乱・空白が生じていた時期だったので、革新官僚が伸長しえた。
また、この混乱を回避するために、政治新体制として、一国一党体制が目指された。ここで、大政翼賛会が出てくる
さらに、企業経営を国家が行う「資本と経営の分離」という政策がなされるが、これを通じて、物価統制が行われる。
この会社経理統制令というのを作ったのが、のちに池田勇人のブレーンとして所得倍増計画に関わった下村治


で、ここからが面白いというか、そんな風だったのかと驚いたところというか
まず、大政翼賛会って、戦中の日本の軍国体制を象徴するようなもののように思うけど、当時、右翼と政党と財界から反対にあって、政治組織としてはうまく機能しなかったらしい
右翼から反対されてるってのは面白いのだが、天皇から権力を奪うものだとして反対されたらしい。
まあ、政党政治家から反対されるのは当然。財界が反対したのは、革新官僚の進める新体制が社会主義的だから。
文部省で「思想善導」を行っていた山本勝市は、留学時に社会主義経済計算論争を目の当たりにしていて、「資本と経営の分離」に対する反対論者として活躍
財界からは、当時商工大臣でもあった小林一三が強く反発し、岸信介と対立
経済新体制や大政翼賛会は、大日本帝国憲法に違反するものだとして反対されていたらしい。新体制は、明治維新に反する「反革命」的なものだとも言われたとか。
つまり、現代の我々は、挙国一致体制とか統制経済といった戦中の反自由主義的な在り方と、大日本帝国憲法をあまり対立したものとは思っていない。大日本帝国憲法も戦前の「悪い」奴でしょ。まあ、実際今の水準から見たらよいものとはいえんが。しかし、この当時は、大日本帝国憲法が対立していて、新体制への反対運動を「護憲」として行っていたのかー、というのが全く思ってもみなかったところで、驚きもしたし、面白くもあった
天皇機関説事件のところでも、大日本帝国憲法の解釈として天皇機関説が主流であって、天皇機関説を排撃したことで憲法軽視が始まったのだ、とみたいなことが書いてあったしな。
とはいえ、ここで「護憲」運動してるの、右翼と資本家なので、ここにまた、通俗的な・あるいは戦後的な政治思想のイメージとのねじれがあるよなー、と。
話を戻すと、結局、この反対運動にあって、近衛は「革新」色を薄れさせていくこととなる。


最後に、丸山真男橋川文三による革新官僚に対する論評などが引用されている。丸山は、革新官僚の1人であった迫水から「官吏とは計画的なオポチュニスト」と言われている。また、橋川は、日本のファシズムファシズムではなく異常な戦時適応であると述べている。
そして、革新官僚だった者たちは、戦後、計画経済・経済統制に否定的になり、迫水・下村らは所得倍増計画などを実行していくが、これもまた、オポチュニスティックな適応的なのではみたいな感じで締めくくられている。
まあ、戦中の官僚とかが戦後も活躍していたというのは知られているところだけで、このあたりにも、戦前・戦中と戦後の連続性が


参考文献にあがっていたケネス・ルオフ『紀元二千六百年――消費と観光のナショナリズム』気になる

第13講 日米交渉から開戦へ 森山優

北進論と南進論が、政府内でせめぎ合う中、両論併記され、あくまでもアメリカを刺激しない範囲として南部仏領インドシナへの侵攻が行われる
しかし、アメリカは即座に対抗措置をとる。この措置は、もともと資金凍結だったのだが全面禁輸となる。ただ、全面禁輸が戦争を呼ぶ可能性は当時から指摘されており、何故全面禁輸になったのかは今もって分かっていないらしい。
で、対米交渉がなんやかんやあって、いわゆるハル・ノートが提示される
日本も妥協案を作っていたし、ハルも妥協案を作成していたが、しかし、ハルから日本に渡されたのは強硬案だけだった。これが、日本に対米開戦を踏み切らせるきっかけとなった
何故、妥協案も含めてではなく、ハル・ノートだけが提示されたのか。これについては諸説あり、現在も議論が続いているところで、はっきりとしないらしい。


この章では、真珠湾陰謀説、いわゆるアメリカが真珠湾攻撃を事前に知っていた説について、あくまで「陰謀論」であり、立証されたことは一度もないし、そんなわけなかろうということが書かれている。なんでか、日米ともにこの陰謀論を信じてる人は一定数いて、今後も出てくるだろうねー、と

第14講 「聖断」と「終戦」の政治過程 鈴木多聞

終戦」にいたる過程での3つのポイント
(1)原爆投下とソ連参戦の時期が重なる
両者の降伏に与えた影響が区別できない。どちらの要因を重視するかで、原爆が必要だったかどうかが割れる
(2)御前会議の政治的影響
二度の「聖断」による影響が大きい。これも、何故もっと早くできなかったのかという論争につながる
(3)8月9日かから1週間という短い期間でポツダム宣言が受諾されている


降伏の四要因は、本土決戦回避、原爆投下、ソ連参戦、無条件降伏の「条件」
ここでいう「条件」というのが、いわゆる国体護持という奴で、「天皇の国家統治の大権」を変更しないことを条件にポツダム宣言を受諾している
このあたり、日本政府からの受諾と、アメリカからの回答と、外務省がどのように翻訳したか、というところに触れられている。
天皇の権限が残るように解釈できるような翻訳がなされている、と
国体って、天皇機関説事件のあたりでも出てきた言葉だったけど、未だにあんまり意味がよく分からない。まあ、天皇が統治すること、ということらしいが。


この章では、以上の4つについて、時系列順に説明されたのち、個人的なレベルでの要因として、関係者の不眠不休(による思考力の低下や余裕のなさ)をあげている。
あと、天皇の軍部に対する不信感。

第15講 日本占領──アメリカの対日政策の国際的背景 井口治夫

日本の国際社会への復帰・経済復興について、中国情勢が関係していたことが従来の研究では見逃されていたとして、そこに注目するという論
日本の経済復興について、まずは米ソ対立がある。もともと、枢軸国の重工業施設は国外へ移管されることが考えられていたが、アメリカが日本を対ソ最前線とすべく、重工業施設を残して経済復興への道筋をつけた
それから、アメリカはもともと蒋介石の国民党を戦後アジアにおけるパートナーにする予定で、国連の安保理常任理事国、世銀、IMFGATTでも重要な役割を担う予定であった
しかし、国共内戦により、国民党が弱体化していく流れの中で、アメリカが日本を重視するようになった、と
あと、もし中華民国が国連やブレトン・ウッズ体制で強い立場となっていたら、日本の復興に干渉してきただろうから、それで経済復興は遅れただろうね、とも。