上田早夕里『破滅の王』

1940年代の上海を舞台に日本人科学者がとある細菌兵器を巡って奮闘する物語
サスペンス的な意味でとても面白い
上田作品は一部しか読んできていないが、『華竜の宮』や『深紅の碑文』などと通底するところからな、と思うのは、苦境に陥った世界の中でなお必死にあがき、少しでもマシになる道を探し続ける人間の物語、とでもいうべきところだろうか。


本題と関係ない話だけど、何か気付いたらブログの更新が1ヶ月近く空いててびっくりした。
この本よりも前に『ビデオゲームの美学』を読み終わっているのだが、そちらの本は、読書会やるとかしていて、ブログの方に記事を書き損ねたままである(今、準備中だけど)。

破滅の王

破滅の王

舞台となっているのは、上海の自然科学研究所
これは実際にあった研究所で、この物語自体はフィクションであるが、史実をかなり織り交ぜながらすすんでいく。
上田早夕里『夢みる葦笛』 - logical cypher scape2には、同じく上海の自然科学研究所を舞台にした歴史改変SF「上海フランス租界祁斉路320号」が収録されている。


上海の自然科学研究所というのは、日中共同の科学研究所で、日本人と中国人が分け隔てなく自然科学の研究を行うことを目的として設立され、実際に、そこで勤務していた研究者たちはそのような理念を共有していたが、当時の日中関係は、必ずしも十全にその理想をかなえてくれるような状況ではなく、そして、盧溝橋事件、上海事変などが続き、上海全体が日本の支配下に置かれていくようになる。
主人公の宮本は、細菌学者として、細菌研究と防疫業務に携わるべく、この研究所に赴任してくる。
彼は、この研究所と上海の雰囲気を気に入るが、次第に日中関係の緊張感は増していく。
軍部への協力もせざるをえなくなり、研究所を去る者もいるなか、宮本は、同じく細菌学科に所属する六川とともに研究所に残る決意をするのだが、その六川がある日、失踪してしまう。抗日ゲリラによる誘拐なのか。しかし、なんの犯行声明もなく、行方不明のままとなる。
1943年、宮本は、総領事館代理を名乗る菱科という男と、その部下である灰塚少佐という男から、ある文書を読んでほしいという依頼を受ける。
それは、新種の細菌について書かれた論文なのだが、何故か途中から途中までしかない。「細菌を食べる」というこれまでになかった特徴をもつとともに、毒性があり、さらに既存の抗菌薬が効かない旨が書かれている。
関東軍防疫給水部本部(いわゆる「731部隊」)が関わった「キング」と呼ばれる細菌(兵器)であり、菱科と灰塚少佐は、宮本にその治療薬を作ってほしいという話を持ってきたのである。
しかし、治療薬を作るということは、この細菌を兵器として完成させるということと裏腹である(治療薬のない細菌兵器は、味方にも感染してしまうので撒布できない)。
そして、同時に、失踪してた六川の遺体が発見される
宮本は、六川が既に何らかの形でこのキングと関わっていたのではないかということに勘付き、六川の死の真相を究明するとともに、キングによってもたらされる災厄を防ぐため、菱科と灰塚少佐に従うことを決める。


この作品は、キングとは一体どんな細菌で、何故どのようにして作られたのかという謎と、六川は何故殺されたのかという謎の、二つの謎を巡って物語が展開していく。
それとともに、宮本という科学者と、灰塚という軍の特務機関に所属する男との、ある種のバディものともなっている
バディ、というほど、彼らは別に相棒というわけではないのだが、2人の間には少しずつ確かに友情が芽生えていく。
国境を越え、世代を超え、科学という営みは連綿と真理を追究していく、それは希望なのだと考える宮本は、むろん決してスーパーヒーローというわけではない。彼自身何度も悩むが、それでも科学者同士の連帯を信じて、行動する。彼は、もし自分が上海ではなくハルビンに行っていたら、自分が人体実験をし、細菌兵器を作っていたかもしれないという可能性をよくわかっているが、しかし、彼はハルビンではなく上海にいたのであり、それが彼の科学への信頼へとおそらくつながっている。
一方の灰塚だが、彼は軍人であり、それも特務機関の人間である。宮本に対しては常に軍人・機関員としての顔で接しており、彼の目的というのは当初よくわからない。ただ、読者視点でいうと、宮本と接触する前の灰塚について書かれたパートがあり、そこで彼が、日本の対中政策にかすかな疑いをもっているということを知っている。後半になって特務機関に入る前に、農民を殺す作戦に従事したことを告白している。彼は軍人として誇れる仕事をしたいという思いを持っており、しかしそれが裏切られたという過去をもっている。だからこそ彼は、誇りをもってできる仕事を欲している。
宮本は、キング対策に関わることで軍属となり、灰塚の部下という立場になり、実際には、自由行動をほとんど許されず、常に監視されるような状況におかれるが、科学者として行動し、人の命を守るという信念を手放さない。
灰塚は、だからこそ、キングをどうすべきか、自分はどうすべきかということを、宮本の判断に託す。軍人である灰塚自身は、軍の命令に従ってしか判断できないが、宮本は一応軍属となったとはいえ、軍の命令とは関係なく自らの判断を下すことができるからだ。


灰塚だけではない
キングという細菌を作った者は、戦時下において、もう後戻りのきかない場所に達してしまい、人類と科学の善性をもはや信じられなくなってしまった者なのである。


とにかく、ページをめくる手が止まらないって感じで一気に読めた作品なのだけど、最後の3行で「歴史改変SFだ……!」ってなる。ここのぞわっとする感じ。