木村靖二『第一次世界大戦』

第一次世界大戦全体の流れを新書一冊にまとめた本。
軍靴のバルツァー*1上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2を読んで、第一次世界大戦が気になっていたので。なお、この本は『リラと戦禍の風』の参考文献として挙げられていた。
第一次世界大戦というのは、特に日本では第二次大戦と比較して、あまり知られてはいない。実際、日本では一般的な認知度もそうだが、研究という面でもあまり行われていないらしい。本書は、開戦100周年の2014年刊行で、第一次世界大戦全体の入門と近年の研究のフォローアップを目的に書かれている、と。
なお、日本ではあまり第一次大戦研究が行われてこなかったらしいが、2007年から京大で第一次世界大戦の研究が行われ、やはり開戦100周年の2014年に「第一次世界大戦を考える」シリーズとして刊行されている。このシリーズについては、本書の参考文献にも、『リラと戦禍の風』の参考文献にも挙げられている。
ところであまり意識していなかったが、今年2024年は開戦110周年にあたるのだな。

序章 第一次世界大戦史をめぐって
第1章 一九一四年―大戦の始まり
第2章 物量戦への移行と防御の優位
第3章 戦争目的の重層化と総力戦体制の成立
第4章 大戦終結を目指して

序章 第一次世界大戦史をめぐって

序章は、第一次世界大戦研究について。
まず、その名称が確認される。日本語では「世界大戦」と呼ぶが、欧米では、World War(世界戦争)かthe Great War(大戦争)と呼ばれていて、「世界大戦」はそれを折衷したような呼び方。
これは、国によってどう捉えているかの違いを反映している。英仏はthe Great Warと呼んでいる。元々はナポレオン戦争の呼び方。
第一次世界大戦研究の萌芽は戦中から。ドイツで開戦の正当化のため、外交文書が議会に公開される。それまで秘密外交が主流で外交文書が公開されることは稀だった。
戦後から、開戦の責任はどの国にあったのかというのが主な論争となる。
まあ、ドイツが悪いでしょという話だったのだが、ヴェルサイユ条約に対するドイツ国民の反発などからドイツだけに責任があるわけではないという形で「合意」が成立し、第一次世界大戦研究はいったん下火になる。
が、1950年代に入って、フィッシャーが再びドイツ責任論を言い出して論争へ。
フィッシャーはドイツの歴史学者で、どちらかといえば地味な研究者で普通に史料を分析していったら、そういう結論に達したというだけなのだが、ドイツ国内から裏切り者扱いされてしまったらしい。
という感じで、第一次世界大戦研究というと、当初は開戦に至った経緯を調べる「前史」の研究が主流であったが、次第に戦争そのものの歴史研究へと至る。
戦争そのものの歴史という意味では、軍における戦史研究がかなり早い段階で始まっている。ただしそれらは、会戦や作戦などについての研究であって、政治や社会との関連などは扱われてこなかった。一方、歴史家による研究は、銃後社会についてが専らで、戦史は扱われてこなかった。
「下からの歴史」
ホブズボームの「短い20世紀」
1990年代以降の「新外交史」

第1章 一九一四年―大戦の始まり

第一次世界大戦は、三国協商vs三国同盟の対立図式によって説明されることが多い。
しかし、この対立をあまり固定化して考えてはいけない、とのこと。米ソ冷戦を投影してしまった解釈なのでは、という話もある、と。
列強諸国がおのおのの利害に基づいてそれぞれ同盟を結んでいった結果であって、二大勢力の対立みたいなことが意識されていたわけではない、と。
ヴィルヘルム二世は明確に露仏とどのように戦うのか意識していたわけではあるが、イタリアはむしろオーストリアとの間に領土紛争を抱えていたので三国同盟として参戦することはなかったし。
当時の国際情勢は、列強諸国による均衡体制であったが、その草刈場となっていったのがバルカン半島で、しかし、バルカン半島諸国それぞれが独立に向けて動き、それらを列強諸国がそれぞれに支援していった結果、もはや列強諸国でもコントロールしきれない不安定な状況になっていく。
オーストリアによるボスニアヘルツェゴビナ併合、イタリア・トルコ戦争、第一次バルカン戦争、第二次バルカン戦争と続き、サラエヴォ事件が勃発することになる。
オーストリアセルビアに対して懲罰的軍事行動を行うことを決める(以前からⅠ1年間に25回も進軍を提言していたタカ派がいたりしたらしい)。その際懸念だったのがロシアのセルビア支援で、それを牽制するためドイツに伺うと、ドイツは同盟に基づいて行動すると回答。これが、オーストリアへのドイツの「白紙小切手」となり、ドイツに開戦責任があるという根拠になっている。
オーストリアのこの動きは基本的に秘密裏になされており、諸外国も国民も、セルビアが何らかの対応をすることになるだろうとは思っても、戦争するとは思っていなかったらしい。
最後通牒に対してセルビアは大半はそれを受諾するような回答をするのだが、オーストリアは開戦する。
局地戦ではセルビアが負けると考えたロシアは、牽制のため総動員令を発令するが、ロシアの先制行動を待っていたドイツはこれを口実にロシアへ宣戦。露仏同盟に基づき動員を始めたフランスにも宣戦した。
列強体制特有の論理による開戦だったという。
この頃、一等国、二等国という言い方があって、国の中に序列があり、列強同士に弱肉強食があった。列強の地位から振り落とされないために、という理屈があった。
国内の不満をそらすための戦争だったと言われることもあるが、そこに重きはなかった、と。
もともと第三次バルカン戦争という感じで始まったが、第一次、第二次バルカン戦争との違いは、オーストリアという列強が当事者国だったことで、さらに続いて、ドイツと露仏という列強国同士が戦い始めるにいたって、戦争の中心はそちらへと移動した。
その後、セルビアは顧みられることがなく、第一次世界大戦史においても、よほどくわしいものではない限り、その後のセルビアは言及されない、という。
それを踏まえると上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2でのミロシュという登場人物の意義がよく分かる。彼の存在により、セルビアの情勢が時折描かれるからである。
19世紀までの戦争は内閣戦争とも言われた。ここでいう内閣は、小部屋のことで、要は密室で全てが決められていた戦争だった。それが第一次世界大戦で国民戦争へと変わった。
開戦に際して国民の間で高揚が見られた、とも言われているが、実際にはこれは都市部のエリートに限られて、全体としては特に高揚した雰囲気はなかったというが、一方で懲役拒否や参戦反対の動きもなかったという。国民意識が定着しており、兵役には従うという感じだったらしい。
独墺で敵性語追放運動があったと書いてあって、第一次大戦のドイツで既にあったのか……と思った。
各国(ドイツ、フランス、イギリス、ロシア)で挙国一致体制がとられ、政争や労働争議が中断される。


ドイツにはもともとシュリーフェン計画(作戦)というのがあって、これに基づいて戦争を開始した。ドイツは必然的にフランスとロシアとの二正面作戦をとることになるが、まずは西部に戦力を集中させてフランスを叩き、その後に、遅れてくるであろうロシアと戦う、という時間差をつければ、一面ずつ戦えるという作戦。
しかし、ベルギーの抵抗とロシアの意外な早さによって、早々にこの作戦は破綻する。
そもそもこの作戦は、中立国のベルギーへの侵攻を前提としており、このあたりもドイツへの戦争責任を問う要因となっている。
ただ、明らかに補給線が伸びてしまうので、パリの近くまで侵攻するものの、ドイツの進撃はとまってしまう。
ドイツ側は戦線を立て直すために軍をいったん退くが、これがフランス側では「マルヌの奇蹟」と呼ばれている。この退却判断を一体誰がどのようにしたのかは不明で、今でも第一次大戦研究での研究対象の一つとなっているらしい。
さて、この緒戦において、両軍ともに砲弾を大量消費しており各国において「砲弾の危機」が起きる。基本的に短期戦を想定していたということもあるが、軍側が後方における生産体制を全く考慮していなかった。
また、市民の犠牲が早速出ている。
ベルギーでは、ドイツによる市民の処刑が行われている。上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2にも書かれていた図書館炎上の件にも言及されていた。『リラと戦禍の風』ではドイツ軍のベルギーでの所業を図書館炎上に代表させていたが、一般市民をかなり殺していたっぽい。
東欧・バルカン地域では機動戦が続き、大量の難民が発生した。
フランスを叩いてからロシアを叩くという当初の計画通りには進まず、ドイツは「勝つ戦争」から「負けない戦争」への目標転換を図る
西部戦線重視派と東部戦線重視派が対立し続けることになるらしいが、参謀総長ファルケンハインは前者。ロシアとの単独講和を行って、フランスとの戦闘に集中し、後日、さらにイギリスを挫くという構想。
しかし、国民戦争における休戦の難しさが露呈してくる。講和するにも、国民を納得させる条件が必要となってくるからである。そもそも、フランス・ロシア・イギリスは単独講和をしない取り決めもしていた。
そんな中、日本参戦、オスマン帝国参戦が続き、戦線は世界へと拡大していく。

第2章 物量戦への移行と防御の優位

各国で戦時経済体制が構築されていく。
ドイツにおいては、まず輸入制限により原料確保が難しくなる。
特に問題になりそうだったのが窒素で、戦前は輸入硝石に依存していたが、ハーバー・ボッシュ法の発明により、窒素が確保できるようになる。工業国の面目躍如
連合国側は、原料確保の問題はあまりなかったが、労働力の問題があった。
労働運動に国が介入する動きが出てきて、労働組合指導者や社会主義者の協力ないし入閣へとつながった。
財源のほとんどは税ではなく債権で、戦後に賠償金で賄う前提だったので、ますますどの国も戦争をやめにくかった。
食糧危機
そもそも戦前のドイツは食糧自給ができていたし、ロシアやオーストリアはむしろ輸出国だったので、食糧危機の可能性は考えられていなかった。
まず、軍隊に大量の食糧需要があってそこに食糧をとられるうえ、徴兵による農地での労働力不足が発生したことによるものだった。
また、東欧では当初から穀倉地帯が戦場になったことで食糧不足が起きた。
食糧危機を予見していなかったので場当たり的政策がさらに状況を悪化させた。その代表例が、ドイツの「豚殺し」でこれは上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2でもかなり強調されていた。


ドイツはロシア領ポーランドを占領するも状況は膠着
一方、いよいよオーストリアは軍事力が低下していく。
オスマン・トルコ帝国に対して、英仏が陸海両面からの攻撃を図った、ガリポリ(ダーダネルス)戦
これは、ドイツの援助と指導によりオスマン帝国が勝利する。
ケマル・パシャが活躍していたらしい。また、この敗戦の責任をとって、当時海軍大臣だったチャーチルが辞任している。ここらへんの人たち、こうやって歴史に姿を現してくるんだなー。
ブルガリアが参戦し、セルビアが敗北して、ギリシアテッサロニキ
「未回収のイタリア」をめぐりイタリアが参戦(オーストリアへ宣戦)する
もともとイタリアは、独墺の同盟国だったが「未回収のイタリア」問題があったため、開戦当初から参戦はせず、中立国の立場だった。ドイツ的には、中立国の存在は重要で、イタリアをはじめとする中立国経由で輸入を行っていたので、中立にとどまるよう説得していたが、英仏の秘密外交によって、イタリアは寝返った形。ただ、オーストリアとの単独宣戦だった。一方のオーストリア的には、この裏切りはかなり腹立たしいものだったらしく、既に戦力ガタガタだったのだが、イタリア戦線のオーストリア軍の士気は高く、かなり奮戦したらしい。


1915年は、英仏伊の連携不足もあって、防御する同盟側が優位の年であった。
新兵器の投入が続く
航空機
偵察に使われ、偵察機同士での戦闘があった。撃墜王などと称されるエースパイロットが登場し、国民の高い人気を獲るようになる。そもそも、第一次大戦までヨーロッパでの戦争は長く起きていなかったため、当初、戦争へのロマン主義があった。エースパイロットの活躍は、こうしたロマン主義・英雄願望などと結びついた。
しかし、そういったものは幻影だと本書は切って捨て、パイロットの高い死亡率が示される。半分以上死んでいるような有様だし、事故死も相当多い。
ただ、第一次世界大戦はまだ、航空機は戦争全体の帰趨を決するようなものではなかった。
毒ガス
むしろ重要視されたのは毒ガス。毒ガスは当時から国際的に使用が禁じられていたようだが、殺傷目的ではなく、塹壕から追い立てるために使用が開始された。
当初、すぐに流されてしまうなど使えなかったようだが、ハーバーの提案した装置が効果を発揮する。これが使われた戦線では、フランス側に植民地からの兵士が来ていて、死屍累々となった戦線を歩いたドイツ兵が「黒人兵」の死体を大量に目撃していたらしい。
軍・化学工業界・科学者との連携。
なお、同じく化学者だったハーバーの妻は、毒ガス使用に対する抗議の自殺をしている、とのこと……。
航空機、毒ガスに並ぶ新兵器は、鉄かぶと


ファルケンハインによる西部攻勢構想
そうはいってもさける戦力は限られており、ヴェルダンへの集中攻撃が行われる。
「相手の顔が見える」接近戦が行われた。
なお、ヴェルダンというのはフランスにとっては歴史的に重要な土地で、それもまたヴェルダンが選ばれた理由だったらしい。
ところで、フランス軍側は兵士を短期間でローテーションさせていて、頻繁に他の戦線にいったり後方に下がったりしていたらしい。これによって多くのフランス兵がヴェルダンを経験することになって、共通認識となっていったらしい。なお、ドイツは、兵員の交代を攻撃が効いていると思っていたらしいが。
ファルケンハインは戦後、ヴェルダン戦はヴェルダンの奪取ではなく兵力損耗が目的だったと回顧しているらしいが、これは後からそう言ってるだけで実際は怪しいだろう、と。
ブルシーロフ攻勢
ロシアのオーストリアに対する攻撃。
オーストリア軍再起不能


ソンム
イギリス主体での攻撃


ヴェルダン=狭い戦線での兵力集中攻撃
ブルシーロフ=広域の多戦線での同時攻撃
ソンム=広い戦線での攻撃
戦線突破のため、多種の攻撃手法が試された時期。


ブルシーロフ攻勢によるロシア優勢をみて、ルーマニアが参戦
トランシルヴァニア奪還を目論むが、あえなく敗北して、逆に領土を失う
この時同盟側を指揮していたのは、現場に降格していたファルケンハインで、現場指揮官としては優秀、ということを見せつけた、と。
このルーマニア参戦あたりの話も上田早夕里『リラと戦禍の風』 - logical cypher scape2にあったな、と


ドイツ海軍は、開戦当初からイギリス艦隊と戦っても勝てないことを認識していたが、海上封鎖はどうにかしたいので、潜水艦作戦を決行
ルシタニア号事件などが起きる。
ドイツ海軍とイギリス海軍が激突することになったユトランド沖海戦で、ドイツが戦術的には勝利するものの、封鎖解除には至らず。


第3章 戦争目的の重層化と総力戦体制の成立

大戦は、多民族帝国の解体と国民国家の実現をもたらした。
ただ、国民国家実現の悪い側面としては、異民族への迫害があり、その顕著な例がアルメニア人追放で、史上初のジェノサイドとも。
ロシア・オーストリアはそもそも多民族帝国としての自国のあり方が崩壊することを阻止するのが参戦目的であり、列強としての覇権争いを念頭にしていた独英仏とが参戦目的の違いがあった。
また、次第に戦後における安全保障や領土割譲が、戦争の目的として語られるようになってくる。
イタリアやルーマニアの参戦は領土目的だし、英仏が秘密外交でそういう方向で参戦に仕向けた。
ナウマン中欧論』
また、「革命化」政策というのも行われた。敵対国に革命を起こして混乱させるというもので、ドイツはレーニンを封印列車でロシアへ帰国させたし、イギリスによる「アラビアのロレンス」も同様。
リープクネヒトが独立社会民主党をつくるなど、反戦運動の動きも起き始める。


総力戦について
この言葉がいつ頃から使われ始めたかははっきりしないが、ルーデンドルフの著作とゲッベルスの演説により広まった。
そもそもルーデンドルフは、将来の戦争のあり方として「総力戦」という言葉を使った。1930年代頃はそういう使われ方だったが、現在では、むしろ第一次世界大戦頃に成立した戦争のあり方として使われている。また、近年の研究では、アメリ南北戦争が最初の総力戦だったのでは、とも言われているらしい。
さて、日本語では、総力戦体制というように、戦時下での体制を指す言葉と思われがちであるが、これは新しい戦争観を指す言葉である、と指摘されている。
ルーデンドルフの著作にあるように、従来の戦争観とは目的の違いがある。
従来の戦争観が、外交手段の延長としての戦争だったのに対して、ルーデンドルフは、敵国の国民を滅ぼすことが目的である戦争を総力戦と呼んだ。
なお、筆者は既に総力戦という訳語が定着しているので訳語を変えるのは望ましくないが、total warは全体戦争と直訳した方が、分かりやすいのではないか、と。
総力戦とは、体制のことではなく戦争観のこと、という話は、言われてみると、ここまではっきりした説明は読んだことはなかったものの、確かに、国民を滅ぼす戦争のことなのだ、というようなことは一応知っていたとは思う。しかし、指摘の通り、戦時下での体制を指す概念のように理解していたかもなあ、と思った。


オーストリアでは、フランツ・ヨーゼフが崩御し、カール1世が即位するが、血縁的には少し離れた人で、国民からの知名度も低かった。というか、フランツ・ヨーゼフは在位期間がそこそこ長くて、毀誉褒貶はあるものの、国民の象徴であったのでショックをもたらした、と。
で、そのカール1世は単独講和交渉を行うのだが、フランスに暴露されてしまう。一応、ギリギリで面目は保ったようだが、オーストリアのイニシアティブはなくなる。


イギリスとフランスも体制の変化がある。
自由主義の伝統があるイギリスでは徴兵が行われていなかったが、いよいよ徴兵も行われるようになる。
また、ロイド=ジョージが首相に。
フランスでは首相がころころ替わっていたようだが、「虎」とあだ名されたクレマンソーが就任。


ドイツは戦線を整理して、ジークフリート線へ撤退

フランス兵の間でストライキも起きている。

ポピーデイ

武器よさらば』のカポレット戦


塹壕戦について
前線での日々というのが一体どういうものだったのか、というのは研究が行われているところだが、実際のところ、戦線によってまちまちで、なかなか難しいらしい。
第一次世界大戦というと塹壕戦のイメージが強いが、東部戦線は機動戦が主だったし、イタリア戦線などはむしろ山岳戦だったとか。
戦友同士の絆による塹壕共同体があった、という話もされるが、実際のところは、頻繁に移動があって、あまりそういうのはなかったのではないか、と。兵役中も、ずっと前線にいるのではなく後方で軍需工場での労働とのローテーションで、前線にいるときも最前線配置は3分の1だった、と。また、西部戦線と東部戦線との移動もよくあった、と

第4章 大戦終結を目指して

ロシアでは厭戦ムードに。ムスリムを徴兵してムスリムの反乱が起きたりしている。
ロシアは食糧などはあったが、鉄道網が未発達でそれを軍事優先にしたために食糧が不足した。ロシアの食糧・燃料危機は輸送危機
革命が起きるが、臨時政府のケレンスキーは攻勢に出る


アメリカ参戦
アメリカはメキシコとの間に紛争があって終わったところだったが、これを見たドイツがメキシコへ同盟側の参戦を打診する。ところが、これがイギリスにすっぱ抜かれてアメリカ激怒。ドイツ外交の失態とされるツィマーマン電報事件。
元々アメリカは参戦反対派の方が多かったが、一度解決したメキシコとの紛争をもう一度ほじくりかえすドイツにキレて参戦に至った、と。
なお、本書ではここで余談として、ドイツが当時の日本をどう捉えていたかという話が書かれている。ドイツはメキシコに対して日本との仲介を依頼していた。ドイツが日本にどのような見返りを考えていたかは不明だが、日本を同盟側へ寝返らせようという考えもあったらしい、と。
さてアメリカ軍だが、装備も貧弱だし、練度も低い部隊で、どこに配置するかは色々議論があったらしい。アメリカの支援は、ヒトよりはモノとカネが重要だった、と。まあそりゃそうだ。


この頃になってくると、連合国各国で政治指導と軍の発言力の後退が目立つ、と。


ドイツは、ロシアとの交渉が長引く。
戦争はしないが講和もしない、というトロツキーの考えがあったため。
ブレスト=リトフスク条約が締結された。ドイツも民族自決の考え方を受け入れざるをえず、各地を独立させるとともに傀儡政権を樹立させた。
他にも色々とロシアに条件を呑ませているのだが、バクーの石油の権利も獲得していたりしている。当たり前といえば当たり前なのだけど、石油が重要な資源になっている時代なんだなーと思った。
かなり帝国主義的強権的な条約であったが、こんな条約結ぶのまずいのではという意見も国内にあったようだが、実際、残った連合国側は継戦意志が強くなる(対ドイツ戦の正当化になった)
ロシアとの休戦により東部戦線の部隊を西部戦線に振り分けられるはずだっがた、実際には占領地の治安維持が必要で、思った程移動させられなかった、という誤算も。
しかしその後、ドイツは大攻勢にでて、一時はパリにも迫り、ここにきて最大版図を達成したりしている。
7月には連合国の反撃があり、また、スペイン風邪が大流行する
戦争による大規模な人の移動(特にアメリカからの移動)、そして、前線の塹壕という環境の悪さ、銃後においては栄養状態の悪さが、さらにインフルエンザが猛威を揮う要因になっただろうという、まあそりゃそうだよね、という話
この頃のドイツはもう負け戦なわけだけれども、それでも前線の兵士は戦いを続けていて、どういう状況にいたのかはちょっと謎らしい。
9月には、ジーフリート線が突破され、ルーデンドルフが恐慌を来し、休戦を提言する。
ウィルソンの14ヶ条をベースにした講和を行うことを考え、当初はアメリカとの単独交渉を行おうとしていたり、それでも最後までドイツが有利になるように考えたわけだが、うまくはいかず。ドイツの望むような条件にはならなかった。
唯一、レト=フォールベックについて名誉が認められたという。この人は、アフリカで戦っていたドイツ軍人なのだが、しかし、かなり現地の人たちを死に至らしめた人ではあった。
捕虜について
戦争始まった当初は、そもそも短期戦想定だったので捕虜収容施設の準備がなく、また新兵たちが捕虜を殺したりすることもあって、捕虜の生存率は低かったらしい。
のち、労働力不足が生じると、捕虜によってこれを穴埋めするようになり、捕虜の環境は相対的に良くなる。
この頃は既に、捕虜の扱いへの配慮の意識があって、組織的な虐殺とかはなかった、と。


ヴェルサイユ条約はドイツにとって過酷な条約だったか問題
賠償金の過酷さがのちの第二次大戦へ繋がっていくという話もあるけれど、実際のところ、ドイツ側も賠償金については覚悟していたところもあるし、また、その後、減額もされていて、実際に支払った額は少ない、と。
現在は、当時においては色々と配慮された内容の条約だった、という見解になっているという。

おわりに

第一次世界大戦は近代と現代とを分けた出来事とされているが、どのような変化があったのか。

  • 列強体制から対等な国家による国際関係へ

国際連盟の成立がその例

多民族国家国民国家となっていた。

  • 公的・政治領域への国民参加

国家から義務を課せられたり、生活への介入が増えたりするにつれて、国民側も権利を要求するようになった。
女性の社会進出もよく言われるが、もともと低賃金で働いていた層が、より高い賃金の仕事へと移動した、ということで、就労人口という意味ではあまり変化はないらしい。しかし、就労ではない形の社会参加(今でいうボランティア活動的なものだが決して自発的なものではなかった)は増えて、女性の権利拡大に寄与した。

これは自由主義の失墜も伴った。イギリスの二大政党制が、保守党・自由党から保守党・労働党にシフトしたのが象徴的
また、エリート層の若者が従軍したことで、エリート層が喪失した。戦後の大衆文化の興隆につながる。

  • 暴力傾向

国家が問題解決のために暴力を手段として用いるためのハードルを下げた。

*1:念のため書いておくと『軍靴のバルツァー』は架空の国々を舞台にしたファンタジー。ただし、現実のヨーロッパの戦史を下敷きにしており、現実では普仏戦争あたりから第一次世界大戦くらいに至るまでの期間を作中世界では数年に圧縮して描いている