斉藤孝『スペイン戦争――ファシズムと人民戦線』

スペイン内戦の通史
最近、大戦間期の歴史の本をいくつか読んでいる。当初は「ベル・エポックから1920年代、パリ、ウィーン、ベルリンないしヴァイマル共和国、ニューヨーク、ロンドンあたりの、美術・芸術、大衆文化、社会主義、哲学・思想についての概観をつかむ」という目的で読み始めていて、スペイン内戦について読む予定はなかったが、いくつか本を読んでいるうちに、スペインも一応抑えておいた方がいいかな、と思うようになったので。
この頃のスペインはピカソ、ミロ、オルテガがいるし、また、[海野弘『アール・デコの時代』 - logical cypher scape2]で出てきたアルフォンソ13世も気になったし、そもそもスペイン内戦といえば、ヘミングウェイオーウェル義勇軍で酸化したことで有名であり、やはりこの時代の歴史を読んでいくなら、外せないか、と。
しかし、それにしても、スペイン内戦について自分が事前に知っていることがあまりに少ないことに気がついた。


本書は、1966年に書かれた本であり、スペイン内戦から30年後にあたる頃である。
1930年代と1960年代だと、間に第二次大戦が挟まっているので、何となく隔たりのある時代のようにも感じてしまうが、30年というと、まだ当時を知っている人たちが普通にいる頃だなあと思う。
例えば、現代で喩えるなら、湾岸戦争についての本を書いているような感じか。むろん、30年も経っているので既に歴史の対象ではあるが、それでも現代の出来事だよなあという感覚はある。
スペイン内戦については、無論、今の自分には現代の出来事なんていう感覚はないが、この本はまだそういう感覚がある程度残っている頃に書かれているのだなあと思うとちょっと面白い(なお、筆者は当時、小学校低学年だったため当時の雰囲気についての記憶はない、と述べている。自分も湾岸戦争についての記憶はない)。
で、読んでいると、このことについてはまだ詳しくは分かっていない、みたいなこともポロポロある。時代が近すぎて、逆に真相が分からないんだろうなあ、と。
というか、上で湾岸戦争と比較したが、30年経った今、フセインも父ブッシュも既に故人だが、1966年時点はまだフランコ政権が継続中だと考えると、それ以上のものがある。


そういえばタイトルは「スペイン戦争」となっているが、これは、ドイツ・イタリア・ソ連も関わっていて、単なる内戦ではない、ということで本書ではこの呼び方となっているが、文庫版解説によると、本書が書かれた後の60年代後半以降「スペイン内戦」という呼び方が定着していき、筆者も「スペイン内戦」を使用している、とのこと。


そういえばアントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』(須賀敦子・訳) - logical cypher scape2はスペイン内戦中の隣国ポルトガルの話だった。

王冠の没落

1931年に行われた選挙で民主制が支持され、アルフォンソ13世は深夜に自動車に乗って亡命する。
アルフォンソ13世のことも気になるのだが、本書での彼への言及は少ない。
革命委員会のアルカラ=サモラによる共和制樹立


20世紀のスペインの5つの問題=宗教・教育・選挙・農民・民族
選挙→農村ではカシケという地方のボスによって投票がコントロールされていた。


米西戦争の敗北→反王制の気運
(この反王制の言説をになった知識人の1人がオルテガだったらしい)
アルフォンソ13世にとっての課題は、モロッコの植民地支配
→軍人にとってモロッコは出世の舞台となり、その中で頭角を現した1人がフランコ
また、スペイン陸軍の中でドイツへの好意的感情が醸成されていく
第一次大戦中、労働運動が発展
1923年に軍人のプリモ=デ=リベーラのクーデター
軍事独裁政権が成立するが、1930年に退陣する。これでアルフォンソ13世の支持者がいなくなる。
同年、共和革命委員会の設立

三色旗の下で

サーニャ内閣
軍隊・教育改革には熱心で、とりわけ学校が多数設立される
一方で、農業・民族問題は手薄で、これがネックとなる。


サーニャは、左派共和主義者
それ以外に、社会党が左派の主要政党
左派にはこれ以外に、スペイン共産党があるが、この当時はまだ弱小政党
これ以外に反スターリン主義を掲げた共産主義者のPOUM(彼らはトロツキストではなかったが、共産党からはトロツキストと呼ばれた)、
アナーキストのCNTがそれぞれあった。


右派は右派で、ヒル=ロブレスのCEDAなど、複数の政党が成立していく。
王党派もいればそうでない派閥もいれば、王党派にしても、どの家系を次の王として考えているかで違いがあり、右派も右派で一枚岩ではなかった。
しかし、アサーニャ内閣が農民や労働者の期待に応えられなかった隙を見て、1933年の選挙で躍進する

暗い2年間

右派のレルー内閣が成立し「逆コース」を辿る「暗い2年間」
ヒル=ロブレスは直接首相にはならず、内閣を裏から操る(?)

バルセロナなどで抵抗運動が起きては鎮圧される。
北部の鉱山アストゥリアスアストゥリアス・コミューンという抵抗運動が起きる。
スペインの左派は大体内部分裂が起きるが、アストゥリアスはそうではなかった。
これを鎮圧するのに使われたのが、モロッコから来たムーア人部隊で、ムーア人部隊を使うことを進言したのがフランコ


右派も内部対立あり


労働者階級は主に社会党系、共産党系、アナーキスト系の3つにわかれる。
この分裂がずっと尾を引くのだが、ともあれこの時点で、人民戦線の名の下に協力体制が模索されていく。
また、この背景にソ連外交の変化(世界革命から人民戦線へ、ブルジョワ国への接近)があった。

三色旗と赤旗

人民戦線協定の成立
ただしこの「人民戦線」は選挙協力としての人民戦線であって、共産党がいうところの人民戦線ではなかった、という。
1936年アサーニャ人民戦線内閣が成立するが、社会党共産党は入閣せず、閣外から協定が守られるか監視するという立場をとった。
共和主義者の三色旗を赤旗が支えている、という構図


右派による攻撃
ファシストアナーキストをそそのかして、焼き討ちをさせたりしている。
アナーキストはそもそも組織が緩いので、ファシストがノーマークで組織に入り込んだりできる。あと、教会焼き討ちはもともとアナーキストがやっていた。
右翼に甘い裁判官がいて、右翼のテロとかに甘い判決がでていた。このあたり、ヴァイマル共和国っぽい

反乱の開始

1936年7月に軍事クーデター
このクーデターの主導者はモラ将軍。この時、フランコはアフリカ方面の指揮官という立場で、他にもたくさんいる将軍の中の1人だった。(ところで、イギリスの航空会社の飛行機でモロッコへと書かれている)
共和国側のカスティリョ中尉が暗殺され、その報復に、中尉暗殺命令を出したとされる上官が暗殺される。それぞれの葬儀を通して左右の対立激化。
ヒル=ロブレスの演説が「内乱の宣言」とされる。
この暗殺をきっかけに、クーデターが結構される。


当時の首相カサレス=キローガやアサーニャは、軍人たちは忠誠を誓っていると思い違いをしており、初動対応を誤る。
ヒラール新内閣は、求めに応じて労働者に武器を配る。
短期決戦を目指していたクーデター側だが、各地で民衆の抵抗にあう。
例えば、バルセロナではCNTが即座に武装して抵抗を開始した。
ヒル=ロブレスはフランスへ逃亡するなどしたものの、しかし、国土の半分は反乱軍の手に落ちた。


スペインは鉄鉱石をはじめとして鉱産資源が豊富らしい。知らなかった。
で、ナチスドイツはこの鉄鉱石に目をつけた
スペイン内戦にナチスが介入してきた理由は鉄鉱石だけではなくて、スペインの方でごたごたしてもらえると、何かと都合がいいみたいなこともあったらしい。
イタリアもスペインへと介入してくる。
ドイツとイタリアは、利害が対立する面もありつつ(チェコスロバキアをめぐって)、とはいえ大きな方向性としてはよく似ていた。
フランコは、スペインに潜入していたナチス党の人間との接触により、ナチスドイツからの協力を得るようになる。もともとクーデター側は短期決戦を考えて金を保有しておらず、海外に財産を移動していた資本家等の寄附を受けていたらしいが、フランコは、鉄鉱石と引き換えにドイツから兵器等を入手していた。
イタリアは当初フランコに注目していなかったらしいが、こちらもつながりが生まれる。
反乱軍側の将軍の1人に過ぎなかったフランコは、ドイツ・イタリアとのつながりによって力を得ていて、モラ将軍を上回る実力者になっていく。


隣国ポルトガル独裁政権になっていてフランコに好意的だった。反乱軍側は、ポルトガル国境を自由に越えることができた一方で、共和国側の人間はすぐに逮捕された。

ロンドンの喜劇

英仏の不干渉政策
1936年、スペイン首相のヒラールはフランス首相のブルムに武器の援助を要請した。
しかし、ブルム内閣とイギリスのボールドウィン内閣は、不干渉委員会を作ってスペインに対して不干渉政策をとった
ブルム内閣は人民戦線内閣なので、不干渉政策ははた目には不可解だった
イギリスとの関係悪化による孤立を恐れたという見方も
イギリスは、スペインとの貿易関係があり、資本家的にはファシストと人民戦線とどっちが勝ってもあまり望ましくないのだが、「反共」という点で、人民戦線の方がより望ましくなかった。ファシスト側も反共という立場を強調していた。
筆者は、英仏の不干渉政策はしかし、事実上の「干渉」政策であったと批判している
そもそも、共和国政府が武器を輸入したいと要請してきていて、それに応えるのは干渉にあたらないわけで、輸出しないことを不干渉ということ自体が不可解だ、と。


ソ連
1936年9月までにはマドリードの周囲にまで反乱軍が迫った
10月にソ連はスペインに対しての軍事援助を開始
この援助はスペインで歓迎されたが、筆者は、なぜこのタイミングに援助が始まったのかという点について疑問をていしている(援助する気があるならもっと早くからできたのでは、と)。
いろいろな理由は考えられる(独伊が介入している決定的証拠を待っていたとか、フランスとの関係に配慮したとか)が、スターリンがスペインについてどのような意図を持っていたのか、謎である、とのこと
なお、ソ連の援助は、双方で過大に宣伝される傾向にあった、と


アメリ
中立をうたってはいたが、石油や自動車をフランコ側へ輸出していた。
筆者は、スペイン共和国は、直接的にはドイツイタリアの武力援助、間接的には英仏の不干渉、そしてアメリカの物資援助によって敗北させられたのだ、としている

マドリードの抵抗

フランコは、将軍の中の一人にすぎなかったが、11月に勝手に主席を名乗り独裁者となる
反乱軍の占領地域が「中世」になったのに対して、共和国政府の地域では「革命」が進んだ
共和党のヒラールは、社会党のラルゴ=カバリェロへ政権を譲る
この内閣には共産党、そして2か月後にはアナーキストが入閣。共産党員やアナーキストブルジョワ政府に閣僚入りするのはこれが世界初
左派も左派で短期決戦を考えていて、それぞれバラバラに武器調達し、バラバラに戦っていた(アナーキストは組織化して戦うという考えがそもそもない)。フランコに勝つために、何とか体制を整えよう、ということであった
ただ、入閣したアナーキストはCNTの許可をとっておらず、アナーキスト側から裏切り者扱いされるとか、逆に、ラルゴ=カバリェロ自身は、軍組織について共産党よりアナーキスト側に近い見解を持っているとか、一筋縄ではいなかところがある。
また、各国から国際義勇兵が入ってくる。これを指導したのはコミンテルン
国際義勇軍共産党は熱狂的に支持されたが、党の政治委員も一緒に入ってきており、ソ連の「粛清」がスペインに持ち込まれる


1936年10月、マドリード包囲戦が始まり今にも陥落すると思われたが、その後、2年半持ちこたえることになる。
翌1月、マラガが陥落し、その際、アーサー・ケストラーがつかまっている。
3月、マドリード北東のグァダラハラでイタリア軍と共和国軍が激突し、共和国軍が勝利する。国際義勇兵にはイタリア人もいたので、イタリア人同士が戦うこととなった。また、イタリア正規兵が捕虜となり、イタリアが介入している動かぬ証拠となった

もう一つの内戦

ファランヘ党
フランコは自らの政党=ファランへ党を作る。
ややこしいのだが、これ以前にもともとプリモ=デ=リベーラのファランヘ党という政党があったのだが、これをもとにほかの党を吸収してつくった新党


ゲルニカ
フランコ軍は、グァダラハラの戦いで負けたのち、北部へと向かう
バスク自治権要求はカトリック色が強く、アサーニャ政権はこれを認めていなかった。そのため、バスクは当初反乱軍側につこうとしていたのだが、フランコバスクへの自治を認めていなかったので、反フランコとなった。
資本家、カトリックと左派が一丸となって反フランコとなっていた
1937年、バスクへの総攻撃が始まり、ドイツによるゲルニカ空爆が行われることとなる


グァダラハラの戦い以降、共産党への支持は高まっていた
が、共産党とPOUM・アナーキストとの間では、考え方に対立があった。
共産党は、スペイン戦争をブルジョワ民主主義革命と位置づける。
ファシスト闘争であり、民族運動であり、民主主義を目指すのだ、と
これは、労働者階級だけでなく、カタルーニャバスク自治を目指す保守系ブルジョワとも共闘するための策であった
一方、POUMやアナーキストは、反ファシズム革命=プロレタリア革命として位置づけた
共産党は、‘POUMやアナーキストファシストのスパイとして「粛清」しはじめる。
また筆者は、共産党の民族革命の中に、モロッコが含まれていなかった点を指摘している。


アナーキストはカタルニアやアラゴンで「アナーキー革命」「共同体化」を実施した
民兵固執するアナーキストたちは、軍事的にはだめだめだし、また捕虜をすぐに銃殺する。
シモーヌ・ヴェイユアラゴン戦線に参加していたらしいのだが、司祭を殺した話をアナーキストたちが笑い話にしていて、ヴェイユはドン引きしていた、と。
POUMもまた民兵組織に固執しており、ジョージ・オーウェルは「階級のない社会だ」と感じたらしいが、彼らは仲間内でかたまり外に広がりを見せない傾向があった、と。
政府は、社会党右派・共産党・共和派ブルジョワジーと、社会党ラルゴ=カバリェロ派・POUM・アナーキストというふたつに分かれるようになる
ついに、バルセロナで、社会党党員でカタルニア州の治安部長に対してアナーキストが発砲するという事件が起こり、バルセロナで市街戦(内戦内内戦)が勃発する
バルセロナ内戦の停戦後、ラルゴ=カバリェロは退陣することになる。
共産党からの支持により中産階級出身のネグリンが次の首相へ
筆者は、プチブル的なネグリンに対して、労働者階級出身のラルゴ=カバリェロを、政策等に瑕疵はあったものの、筋が通っており、労働者からの支持も厚かったと評価している


戦争の終末

6月、バスクビルバオが陥落
バスクは激しい弾圧にあう
7月、マドリード近郊ブルネテの戦い
これは独ソの戦車戦となり、ドイツにとっては第二次大戦のリハーサルになったという
このころ、スペイン戦争に日本人で唯一参加していたというジャック・白井という人物が戦死している。
アストゥリアス、サンタルデル、ヒホンと次々と陥落してき、ヒホン陥落時にイギリスは通商代表をフランコに送り、事実上、フランコ政権を承認した
1938年、人民政府が移転していたバルセロナへの空襲が続く
ネグリンとアサーニャの考え方が対立するようになる
ネグリンは英仏を通した講和工作を期待するが、英仏はなおナチスドイツに宥和政策を続ける。国際義勇兵も撤退が決まる
1939年1月、バルセロナ占領
ネグリン政府は一時フランスへ逃れるが、ネグリンはやはり抗戦を続けるべきと考え、まだ戦い続けているマドリードバレンシアへと戻る。が、マドリードの将校たちはフランコへ降伏を選ぶ。
フランコ政権が成立すると、人民戦線へ協力したものたちへの報復・逮捕・弾圧が徹底的に行われるようになった。
第二次大戦が終わり、ヒトラー政権とムッソリーニ政権は終焉したが、フランコ政権だけは残った。アメリカが反共基地を確保するためにフランコとの協力を選び、1955年に国際連合へ加盟があいなった。
その後も労働者のストライキや山岳ゲリラ戦は続いたという。
上述したように、本書執筆時点では、フランコ政権はなお存続中であった。