去年の年末あたりから「海外文学を読むぞ」と意気込んで読んできているわけだが、海外文学のおすすめ記事などを見ていると、わりと見かける名前が、アントニオ・タブッキである。自分は、意識的に海外文学について調べるまで全然知らなかったのだが、複数箇所でおすすめされているのを見て、読んでみようかなと思った次第。
なお、日本ではタブッキの名は、訳者である須賀敦子とセットで知られているようだが、須賀敦子について自分は青木淳編『建築文学傑作選』 - logical cypher scape2で知った。
さて本作はタイトルが独特であるが、各章が「供述によるとペレイラは~」とか「ペレイラは~と供述している。」などの書き出しから始まっている。ペレイラという男性を主人公としており、章の冒頭だけでなく、各所に「~とペレイラは供述している。」「これは証拠として提出できる。」など書かれていて、何らかの供述書のていをとっているのだが、そうした文末表現などを無視すると、ほぼ普通の三人称小説として読める。
(ただ、時々、夢の内容や過去の回想について、それは他人には語りたくないと言っている、と書かれている箇所があって、そこはやや特徴的かもしれない)
1938年のリスボン、次第にもの言えぬ空気が広がり始めている時代に、とある弱小新聞の文芸部編集長をしててノンポリを自認していたペレイラが、ある若者との出会いにより、少しずつ変化していくという物語になっている。
あらすじ
ペレイラは、元々大手新聞社の社会部で記者をしていたが、今は、弱小新聞社の文芸部編集長をしている。編集長とはいうが文芸部に属しているのはペレイラ1人で、文芸部の編集室は本社とは別の場所にあるので、基本的に1人で仕事している。
病弱で結核を患っていた妻を亡くしており、子どももいなかったため、一人暮らしをしている。ペレイラもまた、肥満により心臓を悪くしており、死を意識している。
(家庭生活の上でも仕事の上でも孤独なわけだが、玄関番をしている女性がいたり、行きつけのカフェがあったり、完全に人との交流がないわけではない。食事も、玄関番の女性が作ったり、カフェで食べたり、自炊したりしている。なお、編集室のある方の建物の玄関番の女性については、勝手に速達を受け取ったりするので、ペレイラは信頼していない)
ある日、眺めていた雑誌に、ロッシという若者の卒業論文が掲載されており、死についての内容だったことから興味を惹かれて連絡をとる。ペレイラはロッシに対して、著名な作家について、死んだ時にすぐ掲載できるように、予め追悼記事を書いておく、という仕事をさせたいと考えていた。
実際に会ってみたロッシは、卒業論文は他の哲学者からそのまま書き写したもので、死について興味はないが、しかし、仕事なら何でもほしいので、もちろん原稿を書きます、という感じの、ペレイラがイメージしていた青年とは違っていたのだが、もし自分に子どもがいたらロッシくらいの年齢だっただろうと思い、とりあえず原稿を書かせてみることにする。
ロッシの書いてきた原稿は、政治色が強く、そしてそれはおそらく彼のガールフレンドからの影響であって、ペレイラは全く使い物にならないと判断するのだが、しかしなんとなくポケットマネーから原稿料を渡すようになる。
ペレイラは、友人の司祭や大学教授と話をしにいくのだが、なんとなく彼らと話があわなくなっているのを感じていた。
ペレイラは、自分はカトリックでありノンポリなんだ、と自分に言い聞かせていて、時勢にも疎い(何かニュースはないか、と行きつけのカフェの店員によく聞く。新聞記者であるにもかかわらず)。しかし、彼は、ポルトガルの体制側の保守的・愛国的・親独・親スペイン的な立場からは距離をとりたがっている。上述の司祭や教授は体制寄りになっていっているし、ペレイラの新聞社も中立を謳いつつも実際は体制寄りである。ただペレイラは明らかに、中立という言葉に自身の立場を重ねようとしている。
主治医から、海岸による治療センターで休養をとるように言われてペレイラは1週間の休暇をとる。そこにいたフランスから来た若い医者とペレイラは意気投合する。彼は、海藻浴という治療法とフランスで学んだ心理学を身につけていて、ペレイラに対して、たましいを主導するエゴが変わりつつあるところだから、それに身を任せるべきだ、とアドバイスする。一方、生活面については、毎日何倍も飲んでいる砂糖たっぷりレモネードやカフェでよく食べるオムレツなどは辞めるように言われる。レモネードについては、一度辞めるのだが、その後、砂糖抜きレモネードを飲むようになる。なお、砂糖たっぷりレモネードは、ペレイラが自分の思うとおりに生きていないことの代償なのではないか、というような仮説を、この医者は後に述べていたりする。ペレイラがどのシーンで何の飲み物を飲んでいるかは、彼のその時の心理や状況となんとなくリンクしているのではないかと思われる。
ロッシは、リスボンから離れて何らかの政治活動を行っているようで、時々連絡をとってきては、「いとこ」を匿ってほしいと頼んできたり、ガールフレンド経由で原稿料をせがんだりしてくる。ペレイラは、なんやかんや言いつつ、そうしたロッシの面倒を見続ける。
ペレイラは、妻と過ごしてきたポルトガルに郷愁を感じていて、だからこそ、ノンポリであろうとするのだが、しかし、ロッシたちのやっていることが正しいのだとも思っている。
彼は、文芸部編集長として、19世紀小説の翻訳も行っている。19世紀の小説なら政治的に問題ないだろうと思ってのことである。しかし、ドーデの「最後の授業」を掲載したことで、編集部長から呼び出しを食らう。そして、フランスの小説ばかり載せていないで、ポルトガルの作家についても載せろ、と言われる。
ペレイラは、中立の新聞が19世紀の小説を載せるのであれば問題ないはずだ、と思っていたわけだが、そんなことはなかったことを突きつけられる。ペレイラは、編集部長が薦めてきた作家に何のよさも感じていない。むしろ、フランコとヴァチカンを批判したフランス・カトリックの作家、ベルナノスの翻訳を始めたりしている。
そして、再びロッシが、偽造旅券を携えてペレイラの家に匿ってほしいと現れる。ペレイラは彼を保護するが、次の日の晩、警察を名乗るごろつきのような男たちがやってきて、ロッシを拷問の末に殺してしまうのだった。
ペレイラは、ロッシ殺害の告発記事を書き上げると、一計を案じてその記事を印刷に回すことに成功した。
物語は、ペレイラがリスボンを急いで離れようとするところで終わる。その後、ペレイラがどうなったのかは明記されていない。もちろん、この物語全体が、ペレイラによる供述という体裁で書かれているわけだから、その結果は明らかではあるのだがしかし、ペレイラのたましいを主導するエゴが完全に切り替わったところを描いて、むしろそこに希望を感じさせるように終わっている。
感想
この作品は、タブッキの代表作ともいわれ、イタリアの文学賞を受賞するなど評価が高い。また、イタリアでベルルスコーニが首相となった年(1994年)に発表されており、リアルタイムな政治批判の意味合いを持った作品でもあったらしい。
実際、この作品はいい作品だと思う。
政治的なメッセージは明快ではあるけれど、そこに至るペレイラの心の流れは、もっと複雑で微妙なもので、しかしそれが、平明な文章で表現されている。
ペレイラのレモネードへの愛好とか、小説の仕掛けもよくできているし、するする読めるし、物語も面白いと思う。
ペレイラという中年男性の孤独感とか、心情の経過とか、決して彼はヒロイックではなくて、あるところまでは事なかれ的な言動をとっているし、ロッシに対しても、なんとなくずるずると面倒を見てしまっているところがある。つまり、政治的なシンパになったからというわけではなくて、いたかもしれない自分の子どものように見てしまっている。そういう機微の描き方がよかったのは確か。
がしかし、「よし、タブッキの他の作品も読んでみよ」と思えたかといえばそうではなかった。
名作を教養として読めてよかったなという感じに近くて、自分にとって面白い作品を探すという目的には残念ながら適わなかった感じ。
まあもともと本作を手にとった理由が冒頭に書いたとおりなので、その点は、まあこんなものかなとも思う。