文学とは何か(夏目・秋山往復書簡をうけて)

夏目陽さんと秋山真琴さんの間で、文学と小説を巡って往復書簡が始まった。
秋山真琴(id:sinden)さんへ 第一信(世界の果てのクロエの祈り)
夏目陽さんへ、第1信(雲上四季)
この往復書簡は、無論この二人の対話ではあるが、「実際にはトラバの送りあい、という認識が正しいでしょうし、横槍が入ったり、乱戦になったりするのも面白いかもと漠然と考えています。」という秋山さんのお言葉に甘えて、乱入してみることにする。
とはいっても、ここでは僕なりの考えを提示するだけになると思うので、本格的な乱入にはならないと思う。
お二人の往復書簡の、そしてまたそれを読んでいる多くの読者の方に、何らかの参考になれば幸いであると思っているが、役に立たんなと思われたのなら無視してしまって構わない*1


さて、この往復書簡に対してこのような意見が寄せられている。

ただこう言ってしまう場合、果たして「文学」とは何だろうか?という問題が残るような気もする。小説なら意味は分かるんだけれど、文学の定義なしに話を進められても、分かりにくい。少なくとも小説と文学は――ここでの話では――イコールではないらしいので、ではその場合「文学」とは果たしてどのようなものなのか、というものを定義して欲しい。

http://d.hatena.ne.jp/inhero/20080708/1215529907

あるいは、

いまこそ文学の哲学が望まれている気がする!

http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080709/1215532307

三浦俊彦によるならば、個々の作品に対して行われるのが批評、それをどうやって行うのか考えるのが批評理論、そしてそもそも「芸術」とか「作品」とか「虚構」とかは一体どういうものなのかを研究するのが芸術哲学や美学ということになる*2
であるならば、文学や小説についての議論がなされる中で、そもそも「文学」や「小説」が一体何であるのかについて考えることとは、すなわち文学の哲学であろう。
ここでは、「文学」が何であるかという問いにはっきりと答えることは出来ないが、そこにいたるための道筋の整理をしたいと思っている*3


ここではまず、「文学」に的を絞ろう。
西村清和の『現代アートの哲学』において、参考になることが書かれている。
今手元にその本がないので、以下の引用は、『現代アートの哲学』からの引用ではなく、それを読んだ時に書かれた僕のブログからの引用であることを、先に断っておく。

まず、この本では、何故「芸術」という言葉ではなく「アート」という言葉を使っているのか。
「芸術」という言葉には、どこか優れているものに対してつけられるようなニュアンスがあるからだ(また、それに抵抗して、自分の作品を「芸術」とは呼ばせないような人たちもいるだろう)。
そこで、価値的なニュアンスをできる限りなくして、単なる記述的なニュアンスだけの語を使いたい、ということで「アート」という語が選ばれている。
そうでなければ、「絵画」とか「彫刻」とか呼べば、価値的なニュアンスはほとんどなくすことができるけれど、「絵画」でも「彫刻」でもないような作品をどう呼べばいいのか、あるいは総称的な表現はないのか、という問題が出てくる。
それで、この本ではとりあえず「アート」という言葉を使っているというわけだ。
(中略)
「文学」は、最近では映画やマンガをその研究対象として捉えつつあっていいなと思うのだけど、「芸術」と同じで価値的なニュアンスが強い。個人的には「文学」と「文芸」と「小説」の違いをあまり感じないけれど、文学賞を受賞して「でも私の作品は文学ではなくて文芸です」と発言する人もいる。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070614/1181824365

(中略)より後の、「文学」について書かれている部分は、完全に僕の個人的な感想であるが、確かに「文学」という言葉には、記述的なニュアンスと価値的なニュアンスが混ざっているように思われる。
そこで、まずはこの記述的ニュアンスの部分と価値的なニュアンスの部分を区別してみたいと思う*4
一つは、文字によって綴られているアート(諸芸術ないし諸表現)*5
もう一つは、文学性を有するアート(諸芸術ないし諸表現)
このことによって、「文学」という言葉に、3つの意味を与えることができる。
すなわち、
文学(a)=文字によって綴られているアート
文学(b)=文学性を有するアート
文学(c)=文字によって綴られている、かつ文学性を有するアート
である。
以下、それぞれについて見ていくことにしよう。

文学(a)=文字によって綴られているアート(諸芸術ないし諸表現)

辞書から定義を借りてくるのは、まああまり面白い作業ではないが、ここで広辞苑を引いてみることにする。

ぶん−がく【文学】
2(literature)想像の力を借り、言語によって外界及び内界を表現する芸術作品。すなわち詩歌・小説・物語・戯曲・評論・随筆など。文芸。

ここでは、想像の力とか外界とか芸術とかいうことは置いておいて、とりあえず「言語によって表現する作品」であり、「詩歌・小説・物語・戯曲・評論・随筆など」のことであり、「文芸」とも言い換え可能である、ということを確認したい。
さて、「文字によって綴られている」という外的な特徴をまずは重視したい。
そこでやや面倒なのが、「物語」という奴である。
「物語」は、演劇や映画、オペラ、ミュージカル、マンガ、アニメ、一部のゲームなどでも表現可能であるし、それらは確かに「言語」を使っている。ただし、それらはその表現の多くを文字以外のものによって行っているので、この文学(a)においては、除外したいと思う。
基本的に、詩歌・小説・戯曲・評論・随筆は、その表現の多くを文字によって行っている。絵や図や写真が挿入されて一つの作品となっている場合も多いが、それらは補助的な表現であるとみなすことにしよう。
また、戯曲や脚本は、なるほど確かに演劇や映画との関係が非常に強いが、それのみで鑑賞されることも多くあり、またそれのみで鑑賞される場合には、文字で綴られている表現であることから、この文学(a)に含むことにしよう。


もう一つ、ここで注目したいのは評論や随筆が入っていることである。
特に評論である。
文学という言葉には、さらに別の二重性もあることに注意がいくだろう。
つまり、「文学作品」と「文学研究」である。これは、どちらも文学と呼ばれる。
文学者という時、創作者のことを指すこともあれば、研究者のことを指すこともあることを考えれば、そのことはよく分かるだろう。
しかし、文学作品と文学研究は一見して別の物であるし、また文学に関する研究論文のことを文学と呼ぶこともあまりないように思われる。また、創作者と研究者が一致することがほとんどない、ということもその傍証となるだろう*6
とはいえ、ここに批評なるものを差し挟んでみると、事態はまた複雑になるように思える。
批評を文学と呼ぶことは、特にこの文学(a)の中に含めることに関しては、異論が出てくるとは思えない。批評もまた、文字で綴られた諸表現の中の一つであるだろうし、また批評の多くが文芸誌に掲載されているということもその傍証となるだろう。
また、創作者と批評家が一致することはそれなりに多くありそうである。
一方で、批評家と研究者が一致することもまたそれなりに多くありそうであるし、批評文と研究論文を明確に区分することができるのか、という問題が出てくる*7
文学(a)というのは、できる限り記述的であることに徹した定義でありたい。それはつまり、「文字で綴られている」ということでカバーしてしまい、ということである。批評と研究の間で、何か決定的な違いを見いだすことが出来ないのであれば、文学(a)の中には研究論文も含まざるをえないであろう。


さらにこの定義は、価値的なニュアンスを含まないことを目指しているので、ジャンルの区別を認めない。
ミステリ、SF、恋愛小説、大衆小説、ライトノベルなどと呼ばれているものも全て含む。
もちろんそうした総称としては、文芸という言葉が既にあり、文学(a)は文芸と呼び変えても全く問題は生じない。


そしてまた、この定義は、ケータイ小説やブログの文章、ネット掲示板への書き込みも含む。
「文字で綴られている」ことを定義の要件とする限り、これもまた不可避である。
ケータイ小説はともかくとして、ブログの文章や掲示板への書き込みまで何故含むのか、といえば、「電車男」のような例があるからである。
もっとも、単なるコミュニケーションのために発せられた、「>>1 乙」といったような書き込みを取り出して、「文学作品」と呼べるかといえば、それは呼べないだろう。しかし、「電車男」のようにスレッドを取り出して見れば、それは立派な「作品」、少なくとも読むことの出来るコンテンツないしテクストとなっている。これは、何を文学と呼ぶかという問題ではなく、何を一つの作品として同定するかという問題となるだろうから、これ以上扱わないこととする。
ここで確認しておきたいことは、コミュニケーションによって発せられた文字も、一つのコンテンツへと変わりうるのであり、その時にそれは文学(a)と呼ばれるのである。


この定義はおそらく、東浩紀の文学観とほぼ同じであると見なしてもよいと思う*8


またこの定義は、秋山が第一信の中で見せた図とも、よく合致するだろう。
ところで、ここでは歌詞について触れられているが、歌詞というものが一体何なのか、というのは難しい問題であるように思われる。残念ながら、ここでは扱わない。
また、条による

単純に書かれたものとした場合、あらゆる書かれたものが即、文学となる。落書きも、広告の文句も、説明書の文章も。しかしある面で、それは圧倒的に正しいともわたくしは考えている。文学というものは、書かれたものすべてを指しているのだと。

http://d.hatena.ne.jp/inhero/20080708/1215529907

という考えとも一致するものである。

文学(b)=文学性を有するアート

夏目は、文学は様々なところに遍在するということを述べている。
その際言われている文学とは、この文学(b)であろう。
文学性を有していれば、文字で綴られているか否かは問題ではない、ということになる。
夏目が挙げる、朗読、メディアアート、演劇はどれも、文字で綴られているわけではない。それらは、音声や映像、身体によって担われているアートである。
となればもちろん、問題となってくるのは、文学性とは何か、ということになる。


文学性とは何か。
これは文学と呼ばれるものの性質である。特にここでは、「文字で綴られている」こと以外の性質である。
ここで、例を挙げていくことにする。
例えば、物語性や虚構性である。
実を言うと、僕個人としては、物語性や虚構性とはそもそも一体何であるのか、ということに興味があるのだが、現在のところはっきりとした答えを見いだしていないので、具体的にそれらが何であるのかはここではこれ以上扱わないことにする。
これらの性質はもしかすると、小説性という言葉で言い換えることができるかもしれない。
というのも、
秋山は「小説を小説以外の形態で、つまり音楽や美術で表現するといった事態も想定されます」と述べているし、また条は「文学性が文学以外にも宿ることが真である場合、それはむしろ文学性とは呼べず、「小説性」ではないだろうか?つまり音楽の歌詞が文学性を帯びている、と言うならば、それはむしろ文字によって(物語を構築しつつ)書くという小説の性質が入っているのではないか」と述べている。
先ほど、文学(a)のところで、物語は、演劇や映画、マンガなど文字以外でも表現できると述べたが、他の形態でも小説が表現されるとは、そういうことなのではないか、と推測される。
ただし、小説は、やはり「文字で綴られている」という性質に大きく依存すると考えられるので、単純に小説性と呼ぶことができるかどうかは、僕としては疑問である。
やはり、物語性や虚構性と呼びたいところである。
ただし、小説とは、物語に抗するものである、という考え方もあるので、物語性と小説性を即座に関連づけることは、いさかさ問題を含んでいる*9


また、id:kugyoによれば、以下のような定義もある。

(Philosophy of Literature: Contemporary and Classic Readings : An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies), PART II:Definition of LiteratureのIntroductionより)
 この部の最後の3つの章では、妥当plausibleだが両立不可能な文学の定義が提出されている。Monroe Beardsleyは、文学を文学作品の意味論的特徴によって定義する:何かが文学作品であるのは、その創作が言語の擬装使用imitative use of languageを必然的に含むとき、そしてそのときのみである。
(翻訳はid:kugyoによる)

http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080709/1215532307

つまり、偽装使用という特徴が、文学性だということになる。


ところで、そうではない考え方もある。
先ほどの引用を続けると、以下のような定義もあることが分かる。

いっぽう、多くの人工物がその使途によって定義されているからには、文学を文学的読みの実践によって定義するやりかたもある。この定義のしかたは、文学の定義から読みの実践の定義へと問題を移動させているわけだから、こう考えた場合の課題は、文学を読むという実践を構成している、期待とか共感とか評価とか推論のパターンとかを分析することにある。反応のこうした要素は、規範的であることもそうでないこともあるだろう。Peter Lamarque and Stein Haugom Olsenは、文学的実践は必然的に審美的であり、したがって規範的であると論じる。文学を文学として読むことは、つねにそれを評価することだというわけだ。

http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080709/1215532307

何らかの、審美的価値ないし規範的価値をもって読まれるという特徴が、文学性だということになる。
また、夏目も、朗読に「文学的価値」を見いだすと述べている。
これらは、単なる物語性や虚構性とは異なる性質であろう。夏目は、メディアアートにも文学を見いだしているが、メディアアートの作品に物語性や虚構性を読み解くことは難しい。むしろ、物語や虚構に対する批判こそが、メディアアートの芸術的価値であるともいえる。
文学とは、物語に抗するものだともいえるし、あるいはメタフィクションのように虚構性というものへの批判こそが文学であるともいえる。
あるいは、何かしらのテーマを扱ったものこそが文学だ、ともいえる。
例えば、人生観や実存、現代社会の問題、暴力などについてだ。
その場合、そのようなテーマこそが、文学性である、といえるだろう。


文学性という言葉は、大きく分ければ2つの方向性に分けることが出来そうである。
一つは、物語性や虚構性といったような、比較的記述的なニュアンスをもった性質である。
これは価値やテーマについて言及しないので、かなり総称として扱えるし、また他のジャンルやメディアに対しても使うことができる。
もう一つは、審美的価値ないし規範的価値、芸術的価値、批判性、テーマ性といった、価値的なニュアンスをもった性質である。
これもまたメディアを越えて適用することが可能であるが、何が文学性を有し何が文学性を有していないのかについての判断は、困難になることが予想される。しかし、通常、文学とか文学性とか呼ばれるものは、まさにこのような性質のことを指すとも思われる。
「こんなものは文学じゃない」とか「あなたにとって文学とは何ですか」とかいった言い方は、まさにこの価値的な意味での文学性についての言明であるのだろう。


ただし、この価値的なニュアンスでの文学性という言葉は、何故芸術性という言葉と言い換えてはいけないのか、という問題を持っているだろう。

文学(c)=文字によって綴られている、かつ文学性を有するアート

これは、いわゆる純文学と呼ばれるものを指している、と考えてもよい。
ただし、既に文学性を2つに区分した以上、これもまた2つに区分されるだろう。


文字によって綴られている、物語性や虚構性を有するアート
と、このように考えるのであれば、これは基本的に、小説と呼ばれるものとその外延がほぼ一致するだろう。
また、このように考えると、先ほど問題となっていた評論を、文学から除外することができる。
ただし、詩歌や随筆もまた除外される可能性が出てくる。この除外は、個人的には許容できるものだと考えるが、人によってはこれらをどうするか、ということで相違が出てくるように思える。
また、物語性というところに、一作品としての同定可能性を含めるのであれば、「書かれたもの全て」になりかねない文学(a)に対して、かなりの制限をかけることが可能になる。つまり、ブログや掲示板の書き込み、広告、説明書などを、文学から除外することができる。


文字によって綴られている、何らかの芸術的価値を有するアート
すなわち、一般に純文学と呼ばれているものだろう。

アート(諸芸術ないし諸表現)について

この言葉は、西村がいうところの記述的・総称的なニュアンスとして使っている。
価値的なニュアンスは含まない。
芸術という言葉は、一般的に何らかの価値を含むものだと考えられているが、ここではそういう意味で使っていないので注意して欲しい。
つまり、美術館に飾られ何千万という額で取引される作品も、秋葉原で数千円で買われるようなプラモデルも、等しくアートという言葉で総称する。
既に述べたように、ここにはインターネット上での書き込みなども含まれる。


ただし、ここで僕が念頭においているのは基本的に、文学(a)、造形美術と現代アート、音楽、パフォーマンス(演劇・舞踊・芸能)、映画、マンガ、アニメ、一部のゲームである。
造形美術と現代アートの項には、建築、絵画、彫刻、メディアアート、アースアートなどを含むが、さらに、プラモデルやガレージキット、フィギュアといったものも含めてよいと思う。
一部のゲームは、TRPGやテレビゲームの類を指しているが、ゲームの分類はきわめて難しいので、なかなかはっきりとはしない*10


これらは基本的に、視覚、聴覚、触覚に訴えかける何らかの媒体(メディア)を使った表現ないし作品ないしアートである。
ところで、では何故、味覚や嗅覚に訴えかける表現などはここに含んでいないのだろうか*11
例えば、料理や香水である。
料理や香水(ファッション)が、芸術的とか表現とか作品とか称されることは確かによくあることであり、これらをアートから除外することが、必ずしも適切であるとは言えないようにも思える。
ただしここでは、料理や香水は、料理文化やファッション文化といった、アート・表現文化とは異なる文化領域に属するものである、と考えることにしたい。
また、ゲームに関しては、それはスポーツ文化などを内包する、非常に広大なゲーム文化というものに属するものであり、その中の一部がアート・表現文化と重なっていると考えることにしたい*12

追記

このエントリを書いている最中に、夏目陽さんから第二信エントリが公開された。
ここでは、文学のことを「分類的な意味」と「思想的、方法論的な意味」とに区別しているが、それはここでいうところの「文字で綴られている(記述的)」と「文学性(価値的)」とにそれぞれ対応していると思う。
またこのエントリでは、思想・方法論としてアヴァン・ポップが取り上げられている。
夏目さんにとっての文学性というのは、この方法論としてのアヴァン・ポップのことを指すのだろうか。
今後は一読者として、往復書簡の行方を楽しみにしたいと思っている。

*1:そもそもブログの記事やそこでの論戦とはそういうものだろう

*2:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070526/1180161470

*3:ここで僕は、哲学とは答えがでないものと言いたいわけではない。個人的にも、いずれ答えを出したいと思っている。これはそのための一歩でもある

*4:ここで、現代哲学に詳しい方であるならば、記述(事実)と価値を分けることができるのかという疑問を持たれるかもしれないが、ここでは「文学」という言葉から2つの性質を取り出しているのだ、と思っていただきたい

*5:ここでいうアートは、既に引用した西村清和の、記述的・総称的なニュアンスでのアートであるが、後で詳述する

*6:エーコ堀江敏幸三浦俊彦などがその例外だろうか

*7:生きている作家を扱うのが批評で、研究は死んだ作家しか扱わない、という話を聞いたことがあるが、それは何というか学生に対する一種の揶揄であるように思う

*8:表象文化学会では、ケータイ小説ラノベないし葉鍵ゲーのことを疑似文学と称していたらしいが

*9:例えば、保坂和志の小説についての考え方

*10:サッカーやチェス、トランプといったものはここから除外するとして、それらのテレビゲームは除外するか否か。また、カードゲームの中でも、トランプは除外するが、TCGは含んでいいような気がしているのだが、ここらへんもなかなかはっきりしないところである

*11:この疑問は、仲俣暁生による「あるフレームによって視覚映像を切り取ったものが「作品」と呼びうるなら、聴覚においても味覚においても触覚においても、同様の「表現」が成り立ちうるはずだ。それなのになぜ、視覚のみに「写真」が可能なのか。」という発言にインスパイアされている。http://d.hatena.ne.jp/solar/20080709#p1

*12:ゲーム文化とアート・表現文化を重ね合わせているものとして、オタク文化ないしキャラクター文化があると言えるのではないだろうか