青木淳編『建築文学傑作選』

建築家である青木淳による「建築文学」アンソロジー
ここでいう「建築文学」というのは、編者が建築的だと考える文学のことであり、必ずしも建築物が出てくる文学という意味ではない。ただし、候補となる作品があまりにも多くなったので、「日本文学」と「建築物が出てくる」という条件をつけて絞り込んだ、とのこと。
各収録作品がどう建築的なのかということは、編者による解説によって論じられている。


SFじゃない小説(文学とか)も読もうと思って手に取った本第2弾(第1弾は藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2)。何か日本文学読みたいなあと思って、そういえばと思い出した本。
さすが傑作選なのでどれも面白かったが、どう面白かったのかと聞かれると難しい作品が並ぶ。あえてあげるなら、開高健「流亡記」青木淳悟「ふるさと以外のことは知らない」澁澤龍彦「鳥と少女」幸田文「台所のおと」平出隆「日は階段なり」が面白かった。
ところで、表紙のタイトル何故ゴシックなのか。講談社文芸文庫、基本的には明朝体か何かだと思うのだけど、このゴシック微妙にかっこわるい。

須賀敦子ヴェネチアの悲しみ」
開高健「流亡記」
筒井康隆「中隊長」
川崎長太郎「蝋燭」
青木淳悟「ふるさと以外のことは知らない」
澁澤龍彦「鳥と少女」
芥川龍之介「蜃気楼」
幸田文「台所のおと」
平出隆「日は階段なり」
立原道造「長崎紀行」
解説

須賀敦子ヴェネチアの悲しみ」

ヴェネチアのフォンダメンタ・ヌオーヴェ(新河岸)についての思い出とか
ヴェネツィアの虚構性、古典主義がめざした形態の虚構性
ヴェネツィアに連れてきてくれたルチッラという女性のこと

開高健「流亡記」

万里の長城築城に駆り出された男の話
ずっと昔に読んだことあるような気もするのだけれど、覚えていなかった。

筒井康隆「中隊長」

国境の街を巡視する部隊の中隊長を語り手とした作品
自分は見た目がよいので能力があるように思われているが実はそんなことなくていつか見抜かれてしまうのではないか、しかし今はまだ見抜かれていないはず、ということを延々考えながら巡回業務をしている。

川崎長太郎「蝋燭」

基本的に、とある日の日記で(編者解説にあるが、あたかも余談として差し挟まれた日記が実は本編という構成をとっている)、馴染みの食堂の女性たちについて書かれている。
川崎長太郎は、二畳ほどの「小舎」で生活していた

青木淳悟「ふるさと以外のことは知らない」

この本が刊行された当時、「青木淳青木淳悟をセレクトしている本がでる」という印象だった。
本書収録の中ではもっとも新しい作品。
一軒家で暮すとある家族(父母と息子2人)の様子が、青木淳悟っぽい謎視点から描かれていく。
家の鍵を何故か母親しか持ち歩かない。

澁澤龍彦「鳥と少女」

パオロ・ウッチェロという、遠近法あるいは本物よりもその形を愛する画家について。
渋澤は、ウッチェロについて架空の伝記を交えながら紹介し、その架空の伝記に出てくるセルヴァッジャという少女とウッチェロのエピソードと、最後に自分の経験を述べてしめる。
本物よりもその形を愛するウッチェロは、セルヴァッジャという少女を保護し一緒に暮すが彼女のことを餓死させてしまう、という話

芥川龍之介「蜃気楼」

鵠沼海岸に蜃気楼を見に行く話
前半は日中、後半は夜で、後半はむろん蜃気楼を見に行くわけではなく、夜の砂浜で聞こえてくる音が描写されている。
「話らしい話のない」小説

幸田文「台所のおと」

料理人の佐吉が病気で寝込んで、隣の台所から、妻のあきがたてる音が聞こえてくる
そこから、佐吉とあきの半生がそれぞれの視点から振り返られる
が同時に、佐吉の店で働いている娘の恋路と近所で起きた火事といった出来事も展開される。

平出隆「日は階段なり」

連載エッセーの中の1回分
幼い頃から階段に惹かれていたという筆者が、遊歩の階段の設計公式という、自分にとって理想の階段の公式を導き出す

立原道造「長崎紀行」

長崎へ行って戻ってくる際に書かれた日記
東京→長崎→東京だが、日記自体は奈良からスタートしている。
日記だが、日ごとにその日の出来事をまとめて書いているわけではなく、むしろ、その時々にリアルタイムに書き留めている。
「おまえ」という東京に残してきた恋人と思われる相手への言及が多い。また、盛岡へ行っていたこともあるらしく、盛岡ないし北方と長崎・九州ないし南方とを対比させているところも多い。
長崎への旅行というより転居を予定していたように読めるが、長崎に到着後すぐに喀血・発熱し、東京へトンボ帰りすることになる。体調を崩して以降は「母」への言及が非常に多くなる。
なお、日記自体は入院したところで終わるが、立原自身は翌年、結核により24才で亡くなっている。

解説

収録した全作品について、文庫の巻末解説とは思えないほど詳しく論じている。

元々編者が須賀の文章に触れたのは、イタリア人であるタブッキがポルトガル語で書いた作品の須賀による翻訳から
ポルトガル語には、明晰な世界の下の深淵な闇があるのでは
そしてそれは、建築家にはル・コルビジェの後期の作品を思い起こさせる
ヴェネツィアの悲しみ」には、静的ではない幾何学がある。
円環を描くが閉じずに開いて終わる。編者は、建築にはそんなことができるだろうか、と思いをはせる。

土のかたまりを積み上げたような文学
その内容は「独身者の機械」のようであり、個別の自動運動
回想という形式で書かれているが、回想には、回想された過去が回想している現在に追いつくというサスペンスがあると、編者はいう。本作にもそのサスペンスがある。
なお、本作の結末に触れてしまうため、編者は直接述べていないが、語り手である主人公が万里の長城の建築作業から離れて、匈奴のいる原野へと赴こうとするところで話は終わる。実のところ、城壁などは意味をなしていないのではないかということが何度か語られており、編者が指摘している通り、ただ自動運動的に建築が進められているとして、その自動運動がいよいよ崩壊する瞬間と、回想される過去が回想している現在に追いつく瞬間が一致している。
さて、本作は構成に無頓着であるが、部分のシステムが全体を貫いているのがファン・デル・ローエ的だと編者は述べている。

構成が無頓着な「流亡記」」に対して「中隊長」は意図的に壊れているという
切り分けるべきところを切り分けない。
これに対して編者は、住宅を設計する際に「動線体」と呼んだ試みをしたことを述べる。住宅は、食べるためのダイニング、くつろぐためのリビング、寝るための寝室、と生活の行動を切り分けてそれぞれの目的のために部屋を作るが、そのような切り分けを行わない住宅設計の試み
目的や中心がない

中心が見当たらない作品だという。
本筋と脇道の転倒
小舎再建プロジェクトについて

  • 青木淳悟「ふるさと以外のことは知らない」

神の視点のように書かれているが、読み進めるうちに全智ではなく人間の視点であることが分かってくる。
また、太郎と次郎の視点が合体した文が出てくることも指摘されている。これは実際読んでいても、何が起きているのか把握しかねる文だった。
信頼できない語り手であり、聞きかじったを述べているだけなのではないかという指摘もある。
では一体何者の視点なのか。
編者は「公共建築」の発注者の視点だという。公共建築の発注者というのは、直接的には役所だが、実際には地域住民であり、人ではあるが特定の誰でもないような存在。

『高丘親王航海記』と同様、故実と空想の入り混じる作品だが、スムーズではなく人工的であり、本作が収録されている短編集の他の作品と比べてもぎこちない、としており、明らかにその出来については評価しておらず、じゃあなんで選んだのかというのは謎なのだが、客観的に出来が悪いけれども好き、ということなのかなと。
「しかし建築は、やっぱり、マトリョーシカ人形に弱いのである。(p.387)」

建築について、平面図とか写真とかで建築を見ることはできるけれど、実際に体験する際には全体像を一気に見るということはなくて、部分から経験していって、全体を類推するのだ、という話から
芥川の「蜃気楼」が、バラバラな部分が弱くつながって全体をつくるような作品になっている、と論じる
また、全体をつくるのに話の筋に頼らないのが、芥川のいう「話らしい話のない小説」の試みであったのだろう、とも
さて、話の筋について、再び建築にひきつけるなら、建築にもシークエンスという概念があるが、話の筋が小説の価値に関係しないように、建築もシークエンスに拘泥するものではない、としている。

こちらは「話」がある作品であるが、それ以上にテンポの緩急がよいと。
ここで編者がテンポというのは、ナラトロジーでいうところの持続(休止法とか情景法とか)の話に近いのかなと思う。
それから、佐吉とあきの視点が作中で行き来していることにも注目している。

階段について書かれている文章だが、この文章自体を階段に喩えて、論じている。
元々連載で、28篇からなるもののうちの24篇にあたる部分を収録したようだが、つまり28段の階段に喩えているのである。

臨場感があるという点と、夢想と現実との距離を埋めることができないことが描かれている点を挙げている。
さらに、立原が建築について書いたエッセイと卒業論文を引き、立原の考える「建築」を実践したのが「長崎紀行」なのではないかとしている。


文学と建築のあいだ 〜なぜまったく違うジャンルなのに響き合うのか(青木 淳,平出 隆) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)の中で、平出隆が「青木さんは各作品を読むに当たって、視点の変化をとても丁寧にたどっています。それは本当は文芸批評の基本なんだけど、実はないがしろにされていることなんです。」と述べている。
自分は建築についてはよく分からないので、この解説の建築論の部分はよく分からないけれど、小説の解説としては、視点とか語りのテンポとかナラトロジー的な観点から細かいところを丁寧に拾っていて、すごくよかった。
例えば、「台所のおと」とか、僕は面白かったなあと思うのだけど、何が面白いのかというとよく分からない。まあ、あまり物語らしい物語のない作品が多い中、物語がわりとはっきりとあるからというのもあるかもしれないけど、テンポの緩急があるという指摘があって、なるほどそういうことだったのかもしれないなー、とか。
「ふるさと以外のことは知らない」について、発注者の視点だというの、批評的に面白いし
あと、「蜃気楼」は正直読んでて全然よく分からなかったのだけど、少し分かったような気になった。