木田元『マッハとニーチェ―世紀転換期思想史』

タイトルは「マッハとニーチェ」だが、基本的にはマッハの思想とその影響について
『大航海』での連載をもとにした本。
「世紀転換期」という言葉知らなかったけど、使い勝手よさそう


マッハについては、原子論をめぐってボルツマンと対立し、アインシュタインに影響を与えた物理学者であり、なぜかレーニンとも対立しており、フッサール現象学にも影響を与えて、という認識ではあったが、これらがどのように一人の人物としておさまっているのかというのはよく知らなかった。


本書ではあまりこういう言い方はされていないが、「経験主義」と「反実在論」とがマッハの思想の特徴であり、これが同時代的にも広く共有されていたような感じがした。
マッハは「哲学」という言葉を嫌い、哲学や形而上学的概念を排除することを目的としていたようだが、ここで排除しようとしている形而上学は、実在論のことだと思う(ハッキングは、理論に関する実在論と存在に関する実在論を区別するけれど、ここでマッハが排除しようとしているのはその両方)。
この本を読んでいると、19世紀末から20世紀初頭にかけての「時代精神」のようなものを感じてしまうけれど、しかし一方で、今現在、20世紀末から21世紀初頭のことを100年後の人が思想史として書いたとき、例えば「実在論」がかなり特徴として出てくると思うけど、それって「時代精神」なのかというと、ちょっとピンと来なかったりする。
この本は、「等身大の思想史」つまり当時の人たちが実際に何から影響を受けてきたのかということを探ろうというもので大変面白いのだが、これってほんと難しいことでもあるよな、と思う。
色々な人が次から次へとつながっていく感じは、本当に読んでいて大変面白いのだが。


マッハとニーチェに共通する点として、ダーウィンからの影響があげられている。
ただ、2人ともダーウィニズム自然淘汰説)を受け入れているわけではなく、もう少し広義の「進化論」を受容しているっぽい。
後世から見ると、彼らの進化論理解はなんともビミョーなものに見えるが、それはそれとして、当時のこういう「進化論」理解がどれだけ共有されていて、どのように影響を与えたのかというのは興味深い話だなと思う。
例えばマッハの場合、思考経済の法則に進化論の影響があるらしいのだが、正直、進化論との関係が分かるような分からないような、である。進化論によって触発されたのかもしれないが、別に進化論抜きでも成立する話だよね、的な意味で。
反実在論的な思考と相性がよかったのかな、とは思う。時間を越えて不変の真理はなくて、時々の環境への適応だけがあるのだ、という点で。
(ただ、気を抜くと(?)装いを変えた生気論になってしまわないか、というのは気にかかる)
一方で、こういう進化論的思考(生物学的自然主義)への反発というのも同時代的にはあるようで、フッサールなんかはマッハからの影響を受けつつも、この点でマッハからは離れていく、と。
このへん、当時の「時代精神」的には、進化論に対してアンビヴァレントなものがあるのかな、とか。


ところで本書、この部分は○○からの孫引きで~とか、ここは全て××さんからの受け売りで~とか、ロシア語は読めないので読めていなくて~とか、元が雑誌連載だからというのもあるかもしれないが、そういう部分が多くて、結構よい。

第一回 序論―マッハとニーチェ

本連載の動機が書かれている。
等身大の19世紀思想史を描きたい、と。フッサールフロイトの思想がどこから出てきたかわかるような。
19世紀についてハイデガーは、18世紀後ろ3分の1から流れ下るのと、20世紀前半の3分の1から遡るのと両方から見る必要があると述べている。
筆者が関心があるのも、この1930年頃までの20世紀前半3分の1から遡って、1870年頃までを一区切りとする時代区分=世紀転換期
ちなみに、世紀転換期という言葉は、マックス・ハルベに由来
こうした世紀転換期思想史にはすでに先達がある
カール・ショースキー『世紀末ウィーン』
W.M.ジョンストン『ウィーン精神』
トゥールミン/ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』
L.S.フォイヤー『アインシュタインと科学革命』
スチュアート・ヒューズ『意識と社会』
上山安敏『神話と科学』『フロイトユング
以上の本は、本書の中でも度々引用・参照されている。『ウィトゲンシュタインのウィーン』面白そう。
これらでカヴァーしきれない視角からの世紀転換期思想史としての本書「マッハとニーチェ
なぜマッハか、というと、フッサール現象学の名前の由来だったから
調べてみるといろいろなところに影響をもたらしている
マッハについては、1972年にブラックモアによる評伝が出て、1988年にマッハについての論文集が刊行されるが、この1970年代以降の再評価まで、無視されてきた。筆者は「レーニンによって消されかけた思想家」ではないかと述べている。
何故、マッハとニーチェという組み合わせなのかというと、『神話と科学』によると、ホーフマンスタールがマッハとニーチェを並べているから。
「若きウィーン派」という当時の文学者たちにとって、この2人は似たものとして受容されていたらしい。
マッハとニーチェの間の影響関係は不明だが、筆者も、それぞれの思想を紐解いて、類似点を発見している。

第二回 力学的自然観とは―ヘルムホルツの到達点

最初の2章は予備的考察ということで、19世紀、マッハ以前の話


蒸気機関について
イギリスでは、職人と科学者のあいだに距離があり、蒸気機関は職人の発明であって科学者の研究対象ではなかった。
フランスでは、エコール・ポリテクニクという軍事技術のための教育機関ができるのだが、基礎的な科学をやってその発展として技術を学ぶという、現在に工科大学の基礎になるようなカリキュラムで、そこで育ったのがカルノー


ニュートンの力学」と「ニュートン力学」の区別(山本義隆
オイラーラグランジュ解析力学
エールステッド、ゼーベック、ファラデー、ジュールにより、電気と磁気、熱の相互関係が次第に明らかになって、ヘルムホルツのエネルギー保存の原理(1847年当時は「力の保存の原理」)により「ニュートン力学」は完成する


ヘルムホルツ(1821~1894)
ヨハネス・ミュラー門下の生理学者で、弟子にヴィルヘルム・ヴント
なぜ、生理学者が「力の保存の原理」を発見したのか
機械論的生理学を目指していて、力学的自然観=決定論的自然観が背景にあったから。
生理学であれなんであれ全ては力学に還元される、という自然観


第三回 実証主義の風潮―もう一つの予備的考察

引き続き、マッハ以前の話
人文諸科学における実証主義
心理学、歴史学社会学言語学で科学化=実証主義の動きが起きる。
科学化は何となくいいことのようにも思うけど、筆者は割と批判的というか、歴史学だと細部を見てしまって歴史的な意味を考えなくなってしまったとか、そういう捉え方をしている
くわえて、心理学、歴史学社会学では、科学化された心理学(または歴史学または社会学)こそが全てを説明できるという「心理学主義」「歴史主義」「社会学主義」という風潮が出てくる。こちらはただのイデオロギーであって科学ではない。
なお、「心理学主義」は蔑称であり、例えばフッサールが心理学を批判するのに使っているが、「社会学主義」は社会学側の自称だったりするらしい。
また、実証主義という言葉も蔑称として使われていたらしい。もちろん、肯定的な意味で使われることもある。
ところで、何故積極的・肯定的という意味のポジティブという言葉が、実証的という意味でも使われてることになったかは、別の本(『わたしの哲学入門』)で説明したよ、とあって気になる


心理学
フェヒナーの精神物理学
ヴント(ミュラーに学びヘルムホルツの助手となる)の実験心理学
歴史学
ランケやドロイゼン以後ドイツ実証史学
社会学
デュルケーム、コント
言語学
ジョーンズのサンスクリット発見(1786年)、インド=ヨーロッパ語族
ヘルマン・パウル「青年文法学派」(1870年代)
文学
イポリット・テーヌの文芸批評・文学史から、それに影響を受けたゾラの自然主義
スペンサー
新カント派

第四回 エルンスト・マッハの生涯―風車と流れるもの

チェコモラヴィア(当時はオーストリア領)出身
マッハは、父親が教師で、幼い頃から実験とかを教えてもらう。5歳で風車の仕組みを見たときに函数的思考への転換があり、15歳の時に『プロレゴメナ』を読んで感銘を受ける、という早熟な感じの子なのだが、ギリシア語、ラテン語の類が全然だめだったらしくて、中等教育においてはむしろ落第生扱い。父親が慌ててスパルタ教育したせいで、父性的なものへの反発が強い。
ウィーン大学に進学後は、得意の数学と物理学に専念できた、と。
マッハは、ウィーン大学の教官というイメージがあったのだが、プラハ大学時代が長く、主要な著書もプラハ大学時代に出していて、プラハ大学では総長もやっていたという。
ウィーン大学には3年しかいなかったようだが、その3年間の講義で、ウィーンの文学者などに強い影響を与えた、と。


グラーツ大学時代(1864~1866)、かなり年長のフェヒナーと知己を得る
プラハ大学時代(1867~1894)
ヘーリングと親しくなる
へーリングは、知覚の恒常性を発見した人
ウィリアム・ジェームズがマッハの講義を聞きに来て、親しくなり、のちに互いに著作を交換する仲となる。
マッハは、チューリッヒ大のアヴェナリウスとも考えを共有する。2人は文通だけで意見交換をしていて、生涯一度も直接会うことはなかったが、互いにほぼ同じことを考えていると認識していた。また、レーニンなどからも、マッハ/アヴェナリウスの経験批判論、というように一緒に名前が挙げられる

第五回 現象学的物理学の構想―マッハの思想1

1894年『力学の発達、その批判的・歴史的叙述』(『力学史』)
単なる歴史ではなく、ヘルムホルツとヴントの力学的自然観への批判
絶対空間・絶対時間上に位置する質点からなる客観的実在のような世界観を否定する。
(ヴントの心理学は、特定の刺激と感覚を一対一対応すること(恒常仮定)によって、心理現象を物理的な時空間に位置づける)。
マッハは、感性的諸要素の函数的依属関係によって論じる。
時空間上に存在する「物体」(あるいは「因果関係」)というのは形而上学的概念に過ぎず、確かなのは経験上にあがってくる色、熱、音、圧といった感性的諸要素のみ。
そしてそれらの諸要素は、函数的依存関係にある。
例えば、そうした依存関係を特定の観点から拾い上げると、それは「物体」といわれるものが抽出できたりする。
函数的依存関係は複雑なので、観点に応じて、様々な記述方法が考えられる。
力学的な記述はその中の1つに過ぎない。
複数の記述がありえて、どれかに(例えば力学的記述に)還元できるとは限らない。
こうした記述は、真偽ではなく経済性によって評価される


あとからフッサール現象学への影響も出てくるが、マッハ自身、感性的諸要素を記述していくことを現象学的物理学と呼んでいて、「物体」とかを予め措定せず、感覚経験の記述からそのかたまりが「物体」なんだよ、とか考えるのは、確かに現象学っぽい。
複数の記述がある云々は、ちょっとグッドマンっぽくもあるなと思った。
グッドマンがマッハからの影響を受けていたかどうかはともかく、経験主義という立場を徹底すると、まあ似たような考え方になるのかな、と思う。
ところで、マッハの因果関係の否定、というのはこの後もたびたび出てきて、まあ経験主義という立場からは、ヒュームもそうだけど、確かに因果関係も否定されるよなあと思いつつ、なんかうまく呑み込めないところがある。


思考経済の法則について、マッハは当初自分に特異な考えだと思ったが、調べるうちに過去の科学者も似たようなことを考えていることに気付く。
説明の美しさと呼ばれるものは、美的評価ではなく経済的評価ではないのか、という指摘
真理と虚偽ではなく、認識と誤謬と読み替えた。 


進化論からの影響
ヘッケルは『ゲーテ、ラマルク、ダーウィンの自然観』などでドイツに進化論を紹介しているが、マッハの進化論理解は時期的にヘッケル由来ではない
そもそもダーウィニズムでもなさそうで、ダーウィン以前の進化論を何らかのルートで受容していたっぽい。ドイツ語圏でどのように進化論が広まったかよく分からないところも大きいらしい。
ヘッケルは、ヘルムホルツの兄弟子であり、ミュラーの弟子でもある、と。
上述の本のタイトルからも分かる通り、ドイツに進化論を紹介したといっても、ゲーテやラマルクを通った上でのそれで、ダーウィニズムをそのまま紹介したわけではない。
上で、マッハの進化論理解はヘッケル由来ではないと述べたが、ヘッケルからの影響もある。
マッハは、ヴァイスマンの実験を認めつつも、獲得形質の遺伝も認めたがっているふしがあって、そのあたりに、ヘッケル由来のラマルキズムの影響があるのではないか、と。
ちなみに、これはへーリング流の記憶と遺伝の議論の擁護という文脈での話とのこと。

第六回 感性的要素一元論―マッハの思想2

当時の物理学界には、原子論とエネルギー論との対立があった。
これにおいて、マッハの立場は微妙だったらしい。
確かにエネルギー論寄りではあったが、ボルツマンと直接対峙していたオストワルトのエネルギー論はエネルギーを実体化しすぎていて、それはそれで意見が違っていたらしい。
ブラックモアは、ボルツマンとマッハの考えは実は似ていたということを指摘している。
しかし、マッハの中には父性嫌悪に由来するなにがしかの感情的嫌悪が原子論に対してあったらしい。
マッハとボルツマンの対立については、『人物で語る物理入門』米沢富美子 - logical cypher scape2で読んだことがあった。


マッハは、マッハ「哲学」と呼ばれることを嫌った。筆者は、マッハが嫌ったのは正確には哲学ではなく形而上学であろう、と述べている。


感性的要素一元論というのは、心的なものと物的なものという二元論に対して、どちらも感性的要素から構成されるという考え方。
ジェームズやラッセルからは中性的一元論と呼ばれた、と
(本書では、ラッセルがつけたマッハの考えについての呼び名を「中性的一元論」と書いているが、そもそもラッセル自身の立場でもあったような。『ラッセルのパラドクス』三浦俊彦 - logical cypher scape2参照)
感性的要素一元論のものとでは、「自我」概念も解体される(「物体」が解体されたように)
また、「時間」や「空間」も、色、音、熱、圧などと同じく感性的要素の一つとされる。
さらに、現実と仮象、現実と夢の区別も消えていく。


ニーチェの共感?
マッハの伝記の中で、ある人がマッハに宛てた手紙で「ニーチェがあなた(マッハ)の本を読んでいましたよ」なる記述があって、ニーチェがマッハに共感していたと思われるのだが、それ以外には特に記録は残っていない。


レーニンは、マッハの考えを、マッハ/アヴェナリウスの「経験批判論」と呼んでいる。
アヴェナリウスにおいては、「純粋経験」という言葉で説明されている。
ジェームズへ影響をもたらしているし、ジェームズからフッサールへの影響関係もある。
また、ジェームズとベルクソンは互いに似ていることを確認しあっている。
西田幾多郎もまた、ジェームズからの影響がある。
このあたり、主観と客観の対立をどう乗り越えるのかみたいな問題に対する応答として、こういう経験主義というのが同時代的に共有されていたのかな、と思った。


ところで、ブルース・ククリック『アメリカ哲学史』(大厩諒・入江哲朗・岩下弘史・岸本智典訳) - logical cypher scape2でデューイとボグダノーフ似てね? って書いたけど、なんでアメリカのプラグマティストとロシアのボルシェヴィキの間に類似があるのかさっぱり分からなかったし、そもそも本当に似ているのかどうかも自信がなかったが、もしかしてどちらもマッハ由来だったということか?!

第七回 ゲシュタルト理論の成立

感性的要素一元論は、要素の函数的依存関係が重要であり、字面は要素還元主義っぽいが、むしろ「全体論」的である、と。
マッハ自身は図と地の関係とか、反転図形とかで説明しており、「形態(ゲシュタルト)」という語を用いている。音の連なりがメロディとして聞こえることを、音響形態(トーンゲシュタルト)と呼んで説明していたりしている(このあたり、のちのフッサールっぽくも見える)

  • クリスチアン・エーレンフェルス

マイノングやブレンターノのもとで学び、プラハ大学の教授となった。
多才な人で、ワーグナーファンでブルックナーに音楽を学び、ダーウィニズムから人種改良論を論じ、一夫多妻制について書き、ド・シャルダンのような宇宙論、宗教論の大著がある。
しかしそうした仕事は忘れられ、現在は下の論文でのみ知られる。
1890年「〈ゲシュタルト質〉について」
マッハのゲシュタルト論をより精緻にしたもの。
感覚質とは別にゲシュタルト質の知覚がある、とした。
ゲシュタルト質の特徴として、
(1)構成要素とは独立
(2)階層性をなす
(3)「直接」与えられるもの
を挙げた。
また、時間的ゲシュタルト、空間的ゲシュタルト、様相のゲシュタルト、関係のゲシュタルトと色々なゲシュタルトを例示した。

マイノングはブレンターノ門下であるが、後、ブレンターノからは疎まれた。
マイノングについて、こういう学派が形成されているの知らなかった。
エーレンフェルトの「ゲシュタルト質」について批判的に論じて、これを「基づけられた対象」と読んだ。
直接感覚されるのではなく知覚作用を想定

  • ベルリン学派

ウェルトハイマー、コフカ、ケーラー
3人とも、ブレンターノ門下のシュトゥンプフのもとで学ぶ(が、シュトゥンプフからの影響はあまりないらしい)
仮現運動による恒常仮定の否定により、ゲシュタルト心理学が誕生する。
この3人、結構三者三様だったっぽい。
ケーラーの「物心同型説」というのがやや曲者っぽいが、ゲシュタルトを自然化する議論っぽい。


このあたりのゲシュタルト心理学の話は、まわりまわって源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scape2とかにつながっていくのだろう。

第八回 マッハと現象学の系譜

フッサールに対するマッハの影響
『算術の基礎』(1891)
「図形的契機」として論じている概念がほぼゲシュタルト質。注の中でエーレンフェルスとマッハに軽くふれている。この注というのが、「これを書いたとき、エレンフェルスの論文はまだ読んでいなかった。確かに似ているし、自分もマッハを読んでいたので影響されたのかもしれない」的な内容になっている。
『論理学研究』第二巻(1901)
「統一的契機」=ゲシュタルト質=基づけられた内容
イデーン』(1913)
「感覚的ヒュレーと志向的モルフェー」という概念があり、これまで「図形的契機」「統一的契機」とされていたものが志向的モルフェーとなっている。フッサール現象学の中核をなす志向的経験も、マッハからの影響を受けたものなのではないか、と筆者。
また、フッサール自身、マッハの1894年の講演から「現象学」概念(直接的記述という方法論)を引き継いだ、ということは述べている。
(「現象学」という方法は、マッハやケーリングといった自然科学の中で使われていたものだ、と書いている。筆者がマッハに興味をもったのはここから。)


ところで、現象学とマッハというと、『これが現象学だ』谷徹 - logical cypher scape2で、マッハ『感覚の分析』に用いられていた図(自分の目から自分の鼻梁とか目の前の光景を見ている絵)が引用されていて、印象に残っている。


しかし、フッサールは、思考経済説(アヴェナリウスの最小力量の原理)については、生物学的基礎付けだと、批判している。
この当時、純粋〇〇が流行している
純粋経験純粋詩、純粋言語、純粋論理などなど
自然主義的風潮への反動か
しかし、フッサール1920年代に生活世界へ、ウィトゲンシュタインは後期に生活形式へと移り変わっていった点については、今後考えたい課題だ、と筆者は述べている。


ゲシュタルト心理学フッサール
フッサールゲシュタルト心理学に冷淡だし、ゲシュタルト心理学側もフッサールの心理学批判は的を射てないと思っていたよう。
後年、メルロ=ポンティゲシュタルト心理学を評価している。

第九回 アインシュタインとフリードリッヒ・アードラーの交友

アインシュタインについての章と見せかけて、ほぼフリードリッヒ・アードラーについての章となっている。


アインシュタインは、1897年にマッハ『力学史』を読んでいて、影響を受けている。
本人も、マッハの追悼文や回想録でそれを語っている。
筆者が、物理学については分からないので、ということで、アインシュタインについては本当に手短にすまされている。

ヴィクトル・アードラーの息子
ヴィクトルは、オーストリア社会民主党創設者でフロイトと対立した精神科医
ちなみに、当時のウィーンは、ブルックナーがボルツマンにピアノのレッスンをしていたり、マーラーフロイトに相談していたり、ブロイヤーがブレンターノの主治医だったりと、世界が狭い
息子の反逆
この時期、父親に反発する息子というのが多くて、アードラーをはじめ、ホーフマンスタール、ウィトゲンシュタインカフカ、ヴァールブルク、リープクネヒト、フロイト、マッハが当てはまる、とか。
とはいえアードラーは、父親に説得されて、チューリッヒ連邦工科大学で物理学を学ぶことになり、アインシュタインと出会う。かつて、ローザ・ルクセンブルクが住んでいた部屋に下宿していたとか。
アードラーはマルクス主義者としてもともとマッハに批判的だったが、いざマッハを読み始めたら一気にマッハ主義者となり、以後、マッハとマルクスの統合をたくらむようになり、マルクス主義者たちにマッハ主義を説いた。
大学卒業後のアインシュタインは、有志と「オリンピア・アカデミー」という勉強会をしていて、この時期にマッハを読んでいた。
その後、アインシュタインチューリヒ大学教授に就任するが、実はアードラーが最終選考に残っていた。しかし、アードラーが強くアインシュタインを推薦して、アードラーではなくアインシュタインの就任が決まった、と。すごく誠実な人だったらしい。
アードラーは、レーニントロツキーとも親交があり、また、父を通じてマッハとも知り合いであった。レーニンのマッハ批判などは、アードラーを通じてマッハに伝わったとかなんとか。
1916年 オーストリア首相暗殺
本書を読んでいるとわりと突然の展開で驚くのだが、アードラーは、第一次大戦中にオーストリア首相を暗殺している。死刑判決を受けるが、その後減刑、戦後に釈放され、国会議員となっている。
第二インターナショナル(と本書にはあるが、Wikipediaによると「ウィーン・インターナショナル」という第二インターナショナルとコミンテルンの統合を目指した組織)の書記に就任
第二次大戦中にアメリカ亡命。亡命中に一度だけアインシュタインと再会している。


ヴィクトル・アードラーについては田口晃『ウィーン 都市の近代』 - logical cypher scape2にもちょっと出てきた。ところで、ウィーンにはマックス・アードラーという人もいたらしいが「新しい人間」とか言っている。ボグダーノフ?

第十回 レーニンとロシア・マッハ主義者たち

ボグダーノフは、労働運動に身を投じ、投獄されるも、理論家として頭角をあらわす。
1904年チューリッヒレーニンと出会う
1904年『経験一元論』
ボグダーノフはマッハ主義を広め、1908年に論文集『マルクス主義哲学概説』を発表する。この論文集には、ボリシェビキだけでなくメンシェビキなどからも参加があった。
レーニンは、こうしたボグダーノフやマッハ主義に対して怒っていたが、ボリシェビキ・メンシェビキの対立とは別軸での、あくまでも哲学的な対立であって、分派するものではない、としていた。
ゴーリキーがこの対立を解消するため、ボグダーノフ、ルナチャルスキー、バザーロフが滞在していたカプリ島レーニンを招待する。和やかな様子で一緒に写っている写真などはある。
1909年 レーニンは『唯物論と経験批判論』によりマッハ主義を批判する。

  • ボグダーノフの思想

物理現象も心理現象も感性的諸要素の組織化であるとする。
特に物理現象は、社会的に組織化された経験であり、それゆえに客観的。
唯物論の否定ではあるが、それはプレハーノフ的な古い唯物論であって、むしろマルクス主義とは一致していると主張
集団的に統一的な経験の組織化によって「プロレタリア文化」が生じるとする。
のちに血液交換実験を行うようになり、自分にも輸血して亡くなっている。


ルナチャルスキーは建神主義へ
しかし、レーニンには好かれ、革命政府では教育人民委員


ボグダーノフの組織化や建神主義については、桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2
ボグダーノフの血液交換実験については、木澤佐登志『闇の精神史』 - logical cypher scape2


この章は最後に、後に、佐藤正則『ボリシェヴィズムと新しい人間: 20世紀ロシアの宇宙進化論』を読んで知ったことが追記されている。
実は、ボグダーノフ自身はマッハ主義と呼ばれることを嫌っていたという。
マッハには、実践の主体が社会や集団である視点が欠如している、と。
新しい集団主義から、血液交換へと繋がっていく

第十一回 ウィトゲンシュタインウィーン学団/ケルゼン

もともとウィトゲンシュタインは、ヘルツやボルツマンからの影響を受けている。
前期ウィトゲンシュタインの構想は、ヘルツやボルツマンの行ったことを言語一般で行おうというもの
マッハも読んでいたがマッハへの言及はほぼなく、ラッセルへの手紙の中で、「マッハの文体にむかつく」と述べている。マッハの相対主義的なところが気に入らなかったのだろう。
しかし、哲学へ復帰後、1929年~1930年の『哲学的考察』のなかで「現象学」「マッハの思考実験」という言葉がでてくる
マッハの現象学から「文法的考察」を導き出した。

1924年にハンス・ハーンがフィリップ・フランクやオットー・ノイラートとともに作った私的サークルのメンバーが、1928年に「エルンスト・マッハ協会」を設立。29年に「ウィーン学団」に名称変更
マッハの生物学的-心理学的実証主義を、論理実証主義

  • ハンス・ケルゼン

純粋法学のケルゼンもマッハを援用しているところがあるとか。

“第十二回 力への意志ニーチェの哲学1

『感覚の分析』(1886)と同時期にニーチェは「主著」の構想をたてている
この主著は未完。ハイデガーが再構成しており、筆者は基本的にハイデガーによる解釈に基づく。
力への意志
ダーウィニズムからの影響(しかし自然淘汰説抜き)
仮象の世界」がすべて(マッハの「現象界」に類似)
認識とは真理の把握ではなく図式化(マッハの「認識」に類似)

第十三回  力への意志ニーチェの哲学2

ヨーロッパ的ニヒリズム
超感性的価値
新たな価値の定立方法としての力への意志、自然、芸術、肉体


遠近法的展望による世界を「現象界」と呼んだり、それについての記述を「現象学」と呼ぶことがある

第十四回 ホーフマンスタールとフッサール

ホーフマンスタール
「若きウィーン派」の一人
若きウィーン派は、ウィーンのカフェ・グリーンシュタイドルに集っていた若い詩人や作家たちで、シュニッツラーやアルテンベルク、バール、アンドリアンがいた。このうち、シュニッツラーとアルテンベルクの名前は千足伸行『もっと知りたい世紀末ウィーンの美術』 - logical cypher scape2にも出てきた。また、Wikipediaによれば、カール・クラウスもこれに連なるらしい。
ホーフマンスタールに話を戻す
1902年『チャンドス卿の手紙』で抒情詩に決別
1897年ウィーン大学でのマッハ講義聴講
ウィトゲンシュタインのウィーン』でマッハからの影響指摘


松本道介
印象主義から表現主義
言語への懐疑というより、日常的な体験が言語で追いつけないほどの強烈で豊かな経験となる
ゴッホへの強い共感
美的無関心による「詩的態度」


1906年 フッサール家への来訪
フッサールからの返礼の手紙
ホーフマンスタールの詩的態度とフッサール現象学的方法は、同じものではないが、似ているところがあって、ホーフマンスタールにフッサールが刺激されたところがなきにしもあらず、らしい。

第十五回 ムージルに現れるマッハ/ニーチェ体験

ヒューズ『意識と社会』に出てくる世代区分
実証主義への反逆」世代:フロイトウェーバー、クローチェ、デュルケームベルクソン
「1905年の世代」:ヴァレリー、ペギー、ヘルマン・ヘッセプルースト、トマス・マン
そのさらに後の世代:ヤスパースルカーチウィトゲンシュタインハイデガー
1905年の世代は、二つの世代を仲介する役割を果たし、前の世代とは、第一次大戦で前線に立つ可能性があったかという点で異なり、非合理主義者となった、という
筆者は、マッハ/ニーチェムージルについて、若干ずれるが、ヒューズのいう世代に当てはまるのではないか、という


ローベルト・ムージル
1880年生まれ。陸軍工科大学で学んだあと、ブリュン工科大学を経て、1903年から1908年までベルリン大学でシュトゥンプフのもとで学ぶ。ゲシュタルト心理学のコフカの1年下、ヴォルフガングやケーラーとは同級。
このころ、ニーチェやマッハ、フッサールを読み、1908年に「マッハ学説判定への寄与」という学位論文を提出。グラーツ大学でマイノングの助手のポストが提供されたが、悩んだ末に作家となる
第一次大戦後から『特性のない男』を執筆し始めるが、未完のまま、1942年に亡くなる。



『特性のない男』
様々な哲学者や科学者を引用しているが、本書ではマッハとニーチェの影響した部分を拾い上げている。
主人公ウルリッヒのいう「不充足理由律」は、因果概念を否定するマッハやニーチェからの影響
また、この時期の文学では「救いがたい自我」という言葉が流行るが、これは『感覚の分析」における「自我はもう救いようがない」というフレーズから
ここから筆者は、「我思う」に対するニーチェとマッハの似た見解を引用している。
ムージルは、現実感に対してい「可能性感覚」なる言葉をつくる
筆者はこれがフッサールの本質直観やマッハのゲシュタルトと通じるところがあると論じている。
また、ムージルが、かつての同級生でゲシュタルト心理学のケーラーの仕事に絶えず注意を払っていたことも指摘している。

第十六回 マッハに感応するヴァレリームージル

1908年、ヴァレリーはジッドに宛てた手紙の中で、自分に訪れた知的な危機について語っている
自分が長年苦労して考えた独創的なアイデアがすでに他人によって発見されていたという内容だが、この「他人」がマッハらしい、と
このヴァレリーとマッハについての論文は、1986年にベルナール・ラコルが書いた論文ならびに1996年、98年にフローランス・ド・リュシーによって書かれた論文によって検討されているが、逆にこの3つの論文で指摘されているにとどまっているらしい。
ヴァレリーは、物理学と心理学を統合するという野心をもち、感性的要素一元論のようななものを構想していたようだが、マッハの『認識と誤謬』を読んで、すでにマッハによってなされていたことに衝撃を受けたのではないか、と
ムージルが、マッハについての学位論文を書いたのも同じ1908年だが、『特性のない男』の主人公であるウルリッヒは、ヴァレリーの書いたテスト氏だとド・リュシーは論じているとのこと。
ヴァレリームージルを読んではいないが、ムージルヴァレリーから強い影響を受けていた。ド・リュシーは、マッハに代表される時代精神が、ムージルヴァレリーを結びつけたのだという。
一方、デリダによると、ヴァレリーの思想的源泉には、フロイトニーチェがいるとのこと

最終回 二十世紀思想の展開

最後に、カッシーラーメルロ=ポンティフッサールハイデガーについて述べられている。
カッシーラーは、数学において「群」概念が果たした役割と、心理学において「ゲシュタルト」概念が果たした役割との並行関係について論じ、さらにこれを、実体的思考から構造的思考への移行として一般化している、と
構造的思考については、メルロ=ポンティも論じている
最後は、フッサールに対するマッハの影響と、ハイデガーに対するニーチェの影響を改めて論じている。


本書の中にほとんど名前が出てこなかったように思うが、マッハの考え方は、ユクスキュル『生物から見た世界』 - logical cypher scape2とも似ている気がする。でもって、ユクスキュルからハイデガーへ、という影響関係があったはず。
本書と関係するところは少ないが、マッハについては内井惣七『空間の謎・時間の謎』 - logical cypher scape2でもいろいろ論じられている。
また、「マッハ」で自分のブログを検索していたところ、池田信夫『ハイエク知識社会の自由主義』 - logical cypher scape2で、経済学のオーストリア学派の創設者である「メンガーはマッハに影響を受けたらしい。」とあった。