ユクスキュル『生物から見た世界』

ユクスキュルの著した、環世界論についての一般向け啓蒙書
「環世界」とは、客観的なものである「環境」から各生物が切り取った、主観的なものである。あらゆる生物はみな、それぞれが別々の環世界に住んでいることを、様々な具体例を示して教えてくれる。
環世界論は、デカルト心身二元論に基づく生物機械説へのアンチテーゼとしてある。生物を客体として捉えるのではなく、主体として捉える考え方。タイトルにあるとおり、「生物から見た世界はどうなっているのか」を問題とする。
主体にとって、客体は知覚標識と作用標識の担い手である。主体は、知覚標識を知覚器官で捉え、作用器官で知覚標識を作用標識へと変える。つまり、環世界とは主体が発見すべき標識によって表記された世界であり、標識を持っていないものは存在しないのである。
環世界論の中では、空間や時間ですら自明のものではない。空間も時間も、各生物ごとに別々の基準を持っているのであり、人間のもつ空間や時間の概念はほかの生物にとっても同じように機能するとは限らない。例えば人間は、三半規管に基づく3つの座標系を持った作用空間と視覚に基づく視空間、そして触覚に基づく触空間を持つが、作用空間だけで視空間を持たない動物もいる。また、作用空間は人間でも個人差を持っている。また、時間に関して言えば、人間は18分の1秒以下の刺激は感知できない。しかし、時間の分解能がさらに細かい動物もいれば、荒い動物もいる。カタツムリは人間から見るとゆっくりとした動きに見えるが、カタツムリにしてみれば自分の動きは別にゆっくりではないのだ。
このような、時間の分解能の差が時間感覚にも差を与えるという下りは、なんとなくイーガンSFを想像させた。イーガンSFでは、自らをコンピュータ上に走らせている人間は、コンピュータの性能の差で時間感覚にも差が出る。
さらに、環世界論では、「環境」の中にある標識にいろいろなものが付け加えられていく。
例えば、縄張り。ほかの生物には全く感知できないが、しかし当事者たる生物にとっては縄張りの境界線はしっかりと感知される。同様なものには、ほかに仲間などもある。鳥には刷り込み現象があるが、刷り込みの後は、仲間か否か親か否かに関して何らかの標識を感知しているのである(ユクスキュルはローレンツと同時代人で、ローレンツも環世界論には関心を示していたらしい)。
他に、作用トーンや探索トーンといったものがある。トーンというのは、主体が客体に与える意味づけのようなものである。人間にとって、椅子は座るという作用トーンを、テーブルはものを置くという作用トーンを持っている。だが、犬にとっては椅子もテーブルも上に乗っかれるという作用トーンを持っているかもしれない。また、同じものでも状況によっては異なるトーンを持つこともある。
さらに、こうした環世界の中では、あるはずのものが見えなかったり(探索トーンと実物がかけ離れていると、探索トーンに引きずられて実物が見えない)、ないはずのものが見えたり(渡り鳥は自分の渡りのルートが「見え」ている)する。それは、個々の主体にとって意味のあることなのである。
ユクスキュルの環世界論はカント的で(本人も「カントの学説を自然科学的に活用しようとするものである」と述べている)、客観的なものである「環境」は永遠に認識されることがない、と考えている。また、「環境」というのは各々の環世界を重ね合わせたものでもない。ユクスキュルは、例えば天文学者には天文学者の環世界が、物理学者には物理学者の環世界があって、しかしそれらの環世界同士を組み合わせても、互いに矛盾してしまってうまく統合することはできないと考えている。
具体例が豊富で読みやすい
発行年が1934年なので、元素の数を92個と言っていたり、エーテル波(!)という記述がいくつか出てくるが、それはそれでまた面白かったりする。
ちなみに、原題の訳は『動物と人間の環世界への散歩』で、1942年に『生物から見た世界』という題で邦訳される。今回読んだのは、2005年に出た新訳版。
1934年版は北大の図書館にあるらしい