藤崎慎吾『レフト・アローン』

最初、小川一水の『老ヴォールの惑星』を買いに行こうとしたのだが、見つからず、帯に「小川一水『老ヴォールの惑星』に続く新世代日本SFの記念碑的傑作集」と書いてあったので、思わず衝動買い。
最近、ハヤカワ文庫JAをよく買うようになったのだが、このシリーズは装丁が優れている。特に桜庭一樹『ブルースカイ』と本作は非常にスタイリッシュ。帯を含めた上でデザインがなされている(逆に帯を外してしまうと間が抜けてしまうのが残念)。表紙デザインだけでも、この2作品は価値があると思う。
短編集なので読みやすいが、2作ほど長編『クリスタルサイレンス』のサイドストーリーにあたる作品があり、それを読んでないのでちょっと物足りない感じもしたが、大きな問題はない。
表題作「レフト・アローン」は、火星で戦うサイボーグ戦士の話。
自我と事物の相互作用が認識だとして、自我と認識の間には無数のメディアやインターフェイスが介在している。一体何枚のメディアが間に挟まっているのだろうか。まして、それが人為的に操作可能であるならば。
一番面白かったのは「猫の天使」か。猫から世界はどのように見えるか。やはりここでも、認識に至るまでに挟まるメディアが問題になるが、こんどは、そのメディアからもたらされる情報をいかに解釈するか、という方が重要になる。
「星に願いをピノキオ二〇七六」は、人間をコンピュータ化するウェットウェアというのが面白かった。ハードウェアを作るより生体組織を使った方が安上がりで高性能なんじゃないの、という発想で、その延長にあるのが「コスモノーティス」。宇宙船や宇宙ステーションを作るより、人間が宇宙船やステーションになっちゃえばいいじゃないか、という。僕がSFや宇宙船が好きだったりするのは、機械萌えなところがあるのだけど、「コスモノーティス」には全く機械は出てこない。代わりに出てくるのが宇宙に適用した生命体だ。見た目は全く違う両者だが、メカニズムの機能美といったところでは似ているかもしれない。そして、その機能の効率性や貪欲さたるや、機械は生命体に全くかなわないようだ。
「コスモノーティス」「星窪」は、あるネットワークのノードから一人飛び出してみれば、自分が飛び出してきたネットワークも実はさらに巨大なネットワークのノードに過ぎなかったのか、という話。

レフト・アローン (ハヤカワ文庫JA)

レフト・アローン (ハヤカワ文庫JA)