デイヴィッド・ミーアマン・スコット,リチャード・ジュレック『月をマーケティングする アポロ計画と史上最大の広報作戦』

アポロ計画の歴史を、広報面、アメリカ社会との関わりからレポートしている本。
アポロ計画について、科学技術や科学政策の点では、まあ通り一遍のことなら知っているが、当時の社会においてどのように受け取られていたか等は全然知らなかったなあということがよくわかった。
当時のテレビ画面の写真など、写真資料が多く掲載されているのも、当時のイメージをつかむのに役に立つ。ブックデザインもよくて、祖父江慎だった。


2014年に刊行された本(原著・翻訳とも)で、自分は2015年くらいに存在を知っていたものの、読む機会を逸していたんだけど、うまい具合に、アポロ計画50周年の年に読めたのはなんかよかった気がする


基本的に時系列順に記述が進み、なおかつ各章がテーマ別に書かれているので、読みやすい。
アポロ以前に醸成された宇宙開発へのイメージ
NASA広報部が、ソ連との違いを印象づける意味もあって、情報公開・事実についての広報を基本戦略としたこと
とはいえ、NASA広報部は、アポロ計画の規模に対して人数が少なく、NASAと契約した様々な企業も広報に関わっていたこと
アポロ計画とテレビ放送の蜜月と破局
宇宙飛行士が一躍超有名人となっていったことや、月の石をもちいたキャンペーン
そして、アメリカ国民のアポロ計画に対する賛否について


タイトルが「月をマーケティングする」だし、序章のタイトルも「私たちはアメリカ合衆国マーケティングしていた」で、いかにもNASAが色々な仕掛けを講じたというような印象を受けるのだが、どちらかといえば、時勢に乗れたり、乗れなかったりみたいなところが大きいように思える。
NASAが完全に受け身だったわけではないが、しかし、成功も失敗もNASAがどうこうできた話ではない
テレビの影響力の強さも、大衆の宇宙飛行士への熱狂も、NASAが当初予想していた以上のものであったわけだし、またそれの反動のように、急速に大衆の関心が冷めていくのも、おそらくはどうすることもできないものだっただろう。

私たちはアメリカ合衆国マーケティングしていた――ユージン・A・サーナン(アポロ17号船長)
1章 はじまりはフィクション――SF小説、ディズニーランド、「2001年宇宙の旅
2章 NASAのブランドジャーナリズム
3章 NASA契約企業の広報活動
4章 全世界が観たアポロのテレビ中継
5章 月面着陸の日――キャスター、記者はどう報じたか
6章 セレブリティとしての宇宙飛行士
7章 世界を旅した月の石
8章 アポロ時代の終焉

月をマーケティングする

月をマーケティングする


1章 はじまりはフィクション――SF小説、ディズニーランド、「2001年宇宙の旅

アメリカ人にとって宇宙のイメージがどんなだったのか、ということで
もちろん、ツィオルコフスキーゴダードなど宇宙開発のパイオニアにヴェルヌが与えた影響も書かれてるが、一般大衆向けの話としては、1950年代に映画やテレビシリーズで、宇宙を舞台にしたSF作品が増えたというのが大きい、と
西部劇の人気が落ちていって、代わりに宇宙SFが伸びてきたらしい
また、1950年代のテレビシリーズは、おもちゃとかシリアルとか関連商品の展開があったのも見逃せない


さらに、コリアーズという雑誌が、1950年代初頭に組んだ宇宙特集の重要性も強調されている
この雑誌、元々大部数を誇るジャーナリズム誌だったようだが、この時は、新興の写真誌にその地位を脅かされていた。ろうそくの火は、消える時が一番大きい的な話で、もう末期だったようだが、大々的に宇宙特集キャンペーンを組んだらしい
フォン・ブラウンら専門家を呼び、さらに印象的なイラストを表紙に配した
当時のコリアーズ誌や、コリアーズ誌の特集を発展させて出版された書籍の表紙が複数掲載されているが、どれも非常にかっこいい
ただ、そのようなイラストの中には、TVドラマで放映されていたような鼻先のとがった宇宙船ではなく、タンクがむき出しになったような宇宙船のイラストもあって、のちに惑星物理学者になるとある少年の目には、かなり衝撃的なものに映ったことがわかるエピソードが書かれている。
まだ、フォン・ブラウンが、亡命したものの本格的な宇宙開発には携われていなかった時期(というか、そもそもアメリカの宇宙開発がまだ全然始まってない時期)だと思うが、月、さらに火星への探査計画を、大いに語っていたようだ。
フォン・ブラウン以外の専門家の名前として、フレッド・ホイップルという天文学者の名前も出てくる。読んだ当初、フレッド・ホイルでは? と思ったのだが、ホイップルであっていた。ホイルはイギリス人で定常宇宙説やパンスペルミア説の人、ホイップルはアメリカ人で、彗星の「汚れた雪玉」説の人)


さらに、意外な人物として、ウォルト・ディズニーが登場する
ディズニーランド建設の折り、トゥモロー・ワールドを作るにあたって、科学的な宇宙ものを作ろうと考えていたらしく、ディズニーとフォン・ブラウンが繋がる
ディズニーは『宇宙旅行』など3本の映画を制作し、フォン・ブラウンは、コリアーズ誌のキャンペーンに引き続き、メディアの前に姿を現して宇宙開発の計画について語った

2章 NASAのブランドジャーナリズム

NASA発足時にNASAの広報部長を務めたウォルター・T・ボニー
ならびに、1963年、ウェッブ長官時代により任じられ、アポロ計画時代にずっと広報部長であったジュリアン・シーア
主にこの2人の行った、NASAの広報体制について


ボニーもシーアも元記者であり、NASAの広報担当者を、NASA内部の記者であるようにした
情報公開を基本方針として、広報部はマスメディアに対して、情報提供を行っていく。マスメディアが記事を書く際にそのまま使えるような資料となるような記事を書く、と


この章で大きく取り上げられていることとしては、さらに二つ
1つは、宇宙飛行士のプライベートに関する取材のライフ誌の独占契約について
このライフ誌独占契約の件については、他の章でも触れられている
宇宙飛行士の私生活や家族については、ライフ誌だけが取材できるというもので、当時かなり批判もされたらしいのだが、これによって、NASAは宇宙飛行士のプライベートを守り、宇宙飛行士たちから評判がよかったらしい。
また、ライフ誌との契約には、生命保険も含まれており、宇宙飛行士という危険な職業に対する手当としても機能していた、と。


もう一つは、NASAの広報体制を、シーアが集権化していったこと
NASAというのは、そもそも複数のセンターの集合体なのだが、広報もそれは同じで、かなりバラバラに活動していたらしい
佐藤靖『NASA――宇宙開発の60年』 - logical cypher scape2
そもそも、ワシントンにはあまり人がいなくて、実際に動いているのは、ヒューストンの方が多かったりとかもあったようだが。
シーアが、ワシントンの本部からの統率を強めた
それを示すエピソードとして、ヒューストンにある有人宇宙飛行センターの広報局長であったパワーズやヘイニーの解任劇が紹介されている。
パワーズもヘイニーも、いわばスタンド・プレーをして目立ちすぎ、また本部と足並みをそろえなかったといった問題があったということのようだ。

3章 NASA契約企業の広報活動

NASA広報は人数が決して多いわけではなく、特にアポロ計画が始まって、注目を集めるようになると、全然手が回り切らなくなった。
その部分を埋めたのが、契約企業の広報だった
宇宙船や関連する機器を開発したメーカーだけでなく、アポロ計画に採用されたカメラや宇宙食のメーカーなどだ
マスコミの記者に対して、そうしたメーカーの広報担当が、細かい技術面について説明したりしていたらしい。
それは当然、各メーカーにとって、自社をアピールする機会でもあったわけだが、NASAは、「その会社の製品がアポロ計画に採用されている」旨を書くことは認めたけれど、例えば、その製品を宇宙飛行士が使っている写真を広告に使うことなどはNGにして、そのあたりは厳しくチェックしていた
そういうレギュレーションの中で、各社様々な広告を作っていたし、また、報道用の資料を作っていたらしい。
グラマン社はNASAと共同で、アポロ宇宙船についてのニュース用参考資料の大部のファイルを作成したりしていたとか
ミッションのタイムスケジュールが分かる早見表とか、軌道とかの計算尺みたいなものとかを作っている会社もあったみたい
そうしたプレスキットの写真が多数掲載されていて、この章はなかなか楽しい。


また、本書とは直接関係ないが、アポロ計画のプレスキットを公開しているWebサイトもある
https://www.apollopresskits.com/


また、NASAと民間企業の関係として、アポロ1号の事故のあと、アポロ計画の技術評価に、ボーイング社が名乗りをあげていたことなども書かれている。
とにかく、この時期、NASAと民間企業の間に、非常に密接な協力関係があったということが分かる。

4章 全世界が観たアポロのテレビ中継

アポロ計画とテレビについて
この章では、アポロ7号から16号までそれぞれの号において、テレビ中継がどのように行われてかが説明されている。


アポロ計画にとってテレビ中継というものは、結果的に、非常に重要なものであった
また、テレビないしテレビにかかわる技術にとっても、アポロ計画は重要だった
しかし、視聴者の注目や関心を大いに集めたのは、11号、せいぜい13号までのことであって、その後、アポロに対する関心は落ちていく。


まず、当初、中継用のカメラというのは、アポロ計画の中での優先度は決して高くなかった。
ロケット打ち上げの観点から言えば、無駄な重量であるし、宇宙飛行士にとっても、ただでさえミッションに関わる作業で忙しいのにそれに加えてカメラの操作をする余裕はなかったし、また、宇宙飛行士に対して、カメラを優先的に扱うようにという指示は出ていなかった。
しかし、NASAの中の一部は、カメラが重要な意味を持つことになるだろうことを予見して、カメラを持ち込ませた。
カメラの軽量化や操作を簡単にすることなど、アポロ計画を通して、2社のカメラ会社が改良を手掛けて、これがのちの、ハンディカメラへと繋がっていくことになる。


7号は、もともと乗組員である宇宙飛行士がテレビ中継には乗り気ではなかったが、彼らの中継が人気をはくすことになる
8号は、地球から月へと向かった初のミッションで、いわゆる地球の出の映像をおさめることになる。テレビ中継されたのは、白黒で画質の悪いものであったが(中継映像の写真が掲載されている)、地球を宇宙から眺めた映像は、当時の人々にとって強いインパクトを与えた。
アポロ8号による「地球の出」は、白黒のテレビ映像だけでなく、かの有名なカラー写真もあるが、世界の人々に与えた影響としては、とても決定的なものだったと言われており、アポロ計画における文化的意義は、この8号の功績がピークであるという見方すらある。
9号については省略
10号では、カラーテレビカメラが初めて導入された。
11号では、着陸直前に管制とアームストロングの中継カメラのチェックをしていて、アポロ計画におけるテレビ中継の重要度があがっていた
12号では、しかし、視聴者数ががくんと落ち込むことになる。というのも、ちょっとしたミスからカメラが壊れてしまい、中継映像がなくなってしまったから。また、時間もゴールデンタイムとズレていた。さらに、ベトナム戦争など政治にかかわる重大なニュースとも時期が重なっていた。
13号では、再び注目を集めることになる
14号では、カメラが固定で、月面での宇宙飛行士の活動が、視界外で行われることになってしまい、退屈な映像となり、見たかった番組の予定を変えられた視聴者からのクレームがくるように
15号では、テレビカメラを地上からコントールすることが可能になり、映像の質が飛躍的に向上した。しかし、生中継が行われる最後のアポロとなってしまう
16号・17号で、NASAは、ミッションの時間をゴールデンタイムにあわせたが、しかし、これが裏目にでる。元々人気のある番組を、アポロの中継でつぶすことを嫌がったテレビ局は、アポロを生中継することはしなかった。

5章 月面着陸の日――キャスター、記者はどう報じたか

三大ネットワークの1つCBSのニュース・キャスターで、宇宙にいれこんでいたウォルター・クロンカイト
地方のラジオ局記者で、会社から予算をだしてもらえなかったが、ヒューストンまで取材にきたウェイン・ハリソン
デイリー・ニュース紙の新聞記者をつとめていたマーク・ブルーム
テレビ、ラジオ、新聞それぞれの媒体のキャスター、記者が、どのようにして取材をしたり、報じたりしていたのかを、上の3人に代表させる形で書かれている章

6章 セレブリティとしての宇宙飛行士

アメリカの英雄となってしまった宇宙飛行士たち
もちろん、英雄になってよかったねという話だけではなくて、変なお金儲けの話が出てきたり、プライバシーの問題がでてきたり、色々あったみたい
この章では、チャールズ・リンドバーグが時々引き合いにだされている。
リンドバーグは、偉業達成後、色々と災難があったらしい
アームストロングとリンドバーグは、境遇を近く感じて、親交があったらしい
また、アメリカのマスメディアも、リンドバーグのことを念頭にといて、アームストロングのプライバシーは報道しないよう自粛していた、とかも

7章 世界を旅した月の石

NASAの広報として、アメリカの州都全てを回る、司令船コロンビア号と月の石の巡回展が1970年から1年かけて行われた
ただ、NASAの職員でこれにずっとついていたのは1人、という、非常に限られた人員・予算の中で行われたものだったらしい
総来場者数は約325万人。まずまずの成功ではあったが、大阪万博来場者の5分の1という少なさで、アメリカ国民からの関心が薄れていたことを示している


月の石は、大阪万博で展示された他、世界各国の研究機関に提供されたり、外交における友好の証としてプレゼントされたり、などしていたとか

8章 アポロ時代の終焉

アポロ計画は、本当にアメリカ国民に支持されていたのか
実のところ、アメリカ国民が熱狂していたのは、11号の直前くらいで、やはり莫大な予算を要する月着陸計画について、それほど支持が得られていたというわけではないらしい
やはり、アポロ計画実現を後押ししていたのは、米ソ冷戦のようだ
かの有名なケネディ大統領の演説にしたところで、実は、月について触れているのは、ソ連との争いについて述べている中でのほんのわずかな箇所にすぎなかったらしい。
熱狂は覚めるのもまた早い
NASAは、宇宙への関心がみるみるとさめていく国民に対して、おそらくなすすべもなかった。
ニクソンは、そもそもアポロはケネディの計画であったにもかかわらず、11号の成功の時などは、まるで自分の手柄かのようにするりと入り込んでいたようだが、その後は興味を失い、16・17号あたりはキャンセルさせようとしていたらしい。
NASA自身、結局、予算も削られていく中で、次のビジョンを示すことができなかった。
また、1970年代は、ベトナム戦争のあおりで、政府に対する批判的な言説が強まっていた時代でもあった。
さらに、これは皮肉なことなのだが、アポロ8号が撮影した地球の写真を一つの象徴として、地球環境問題への関心が高まっており、宇宙よりも地球のことをどうにかすべきだ、という声が強くなっている時代にもなっていた。
この章は、アポロ計画が後の世代に残したものとして、コンピュータ技術の発展をあげ、ジョブズゲイツが、子ども時代にアポロを見ていた世代だったということを指摘して、終わっている。