ベルクソン『時間と自由』

タイトル通り、時間と自由を扱った3章構成の論文。
ベルクソンは、空間や量と時間や質を対立させる。そして、時間や質を空間や量として扱ってしまうことによって、大きな錯誤が生じるとしている。大きな錯誤とは一体何か、といえば、それこそが自由に関する問題に他ならない。
1章と2章ではいかに量と質の取り違いが起きているかを論じ、3章では1,2章での議論を受けて自由について論じている。
外延的なものと内包的なものがある。
外延的というのは、デカルト的にいえば延長のことであり、要は客観的に量を測定できるもののことである。または、言語や記号によって区別されているものでもある。
それに対して内包的というのは、要は感情や感覚などのことであって、ここではその質は感じられるが、本来ならその量を測定することはできない。しかし我々は、感情や感覚を強い、弱い、大きい、小さいなどと言う。これは、そうした感覚をもたらした筋肉の働きやあるいは音であればその振動数など、量として測定可能なものと感覚そのものを取り違えてしまっているせいである。

あたかも或る点を別の点と並べるように、並べるのではなく、現在の状態でもって過去の状態を有機的に一体化すれば十分なのだ。あたかも或るメロディーの楽音を言わば全部が溶け合ったような状態で想起するときに起こるように、である。

音楽を聴くとき、それぞれの音が溶け合ったものとして享受するのであって、それを一音一音を並べて理解しているのではない。この「並べる」というのが空間によってもたらされる考え方である。これは、音の一つ一つを等質的な空間として見立てる(記号化する)ことによってなされる。しかし、例えば同じドの音であっても、ある曲の中では様々なニュアンスで現れることになる。それは、それぞれのドが同じドなのではなく、溶け合うことで異質性を持つからである。
この空間化できない、互いに溶け合った時間の流れを「持続」と呼ぶ。
空間化、等質化、記号化させるということは、過去の痕跡を消す、ということである(ドの音はある周波数によってのみ決められており、その前の音がレであったかシであったかとは関係なくドの音である)。
しかし、持続は痕跡を残し続ける(同じドの音であっても、前の音がレであったときと前の音がシであったときとでは、受け取る側の感じは異なるであろう)。

空間は動物にとって、私たちにとってと同じように、等質的ではなく(中略)、そのニュアンスをもち、それ固有の質を伴って現れるであろう

持続においては、過去の体験の違いによって同一の刺激でも異質なものとして感覚される。これは、下條信輔の「脳の来歴」論を思い起こさせるし、また上の引用部分はユクスキュルの環世界論をも思い起こさせる(ただし、ユクスキュルがカント論者だったのに対し、ベルグソンは強硬なる反カント論者である)。
第2章では、数について論じることによって、より空間化、等質化、記号化がどういうことかがわかる。数を数えることができるのはどうしてか、それは物事が単位として抽象化、等質化されるからである。そしてそれらは各々非連続的であり、分割されている。等質的かつ非連続的であるためにそれらを空間の上に並べることができる、つまり数えることができるのだ。
しかし、持続たる時間は本来、異質性を持ち互いに溶け合う性質を持つ。よって、空間化することは不可能で、数えることもできない。
これは、物理学における運動の記述を見ることでわかる。
物理学は、運動そのものを記述しているわけではないのである。物理学は、運動ではなく空間を記述している。ある静止した一時点での空間をひたすらに並べたものが、物理学で記述されるいわゆる「運動」であるが、それは運動性を記述できていない。

数学はやはり同時性を否応なく考えざるを得なくなってしまうが(中略)、その数を無限に増やしてみても、静止でもって運動をつくることも空間でもって時間をつくることもできないということを数学は思い知らされるにちがいない

科学が運動や時間を取り扱うのは、それらからその本質的で質的な要素を――時間からは持続を、運動からは運動性を――まず最初に取り除いておく、という条件においてでしかない

物理学は、空間を無限に微積分することによって、運動に近似したものを記述しているのに過ぎないのであって、運動そのものを記述しているわけではないのである。
エレア派のパラドックスは、その近似した運動を運動そのものと誤解したために生じた、としている。
そして、第3章に至り、自由についての議論に移る。ここでは、時間と空間を全く異なる概念であると理解すれば、自由について議論する際、決定論などは出てこない、逆に言えば、時間と空間を取り違える時には必ず、自由についての議論は決定論へと陥ることを述べている。
私たちが、何らかの行為をしたとき、そうではない行為をなした可能性もあった、と想定することによって自由を擁護する立場がある。一方で、全く同じ想定をしながら、しかしそうではない行為は結局しなかったという結果から決定論を擁護する立場もある。
ベルクソンから言わせれば、これは両者ともに同じ間違いを犯している。ある行為とそうではない行為を併置するというのは、まさに行為というものを空間化している証拠に他ならない。これは、その行為がなされた後になって振り返ってみて初めて可能になるのであって、まさにその行為がなされている時には、このような空間化をすることはできない。
自由な行為をなしたあとになって、その原因を探ることはできるが、そうして探られたことは決して行為の原因ではない。行為の結果なのである。行為とは、原因→結果というように起こるのではなく、原因と結果が溶け合って(つまり持続のなかで)起こるのである。溶け合っている、というのは過去の痕跡が残っている、ということである。過去の痕跡とは、それまでの全体験である。つまり、自由な行為とはその人格の全歴史とイコールなのである。
そのため、もしある人の行為の原因を探ろうとした場合、その人の全歴史を知らなければならないのである。そして、その人の全歴史を知る、というのはその人そのものである、とイコールである(このあたり、問題設定としては全く異なるが、ネーゲルのコウモリを思い起こさせる。コウモリの見た世界を知るためには、コウモリそのものにならなければならない)。

意識の諸状態もその分、併置されることをやめて相互浸透するようになり、一緒に溶け合って、一つ一つが他のすべての状態の色に染まることになる。こうして各人は自分なりに愛したり憎んだりする流儀を持つようになり、そしてそうした愛や憎しみが各人の人格全体を反映することになるのである。ところが(中略)、言語が定着できたのは、愛や憎しみの(中略)、客観的で非個人的な相だけなのだ

思考は言語と通訳不可能なままにとどまる

行為が全人格を表現するとき(中略)、私たちは自由である

私たちが見いだすのは、私たちが理由もなく、ひょっとするとあらゆる理由に逆らって、決意したのだということである。

このように明白な理由が一切ないという事態は、私たちがより深く自由であればあるだけ、いっそう際立って目につくようになるのだ

自由と呼ばれているのは、具体的自我とそれが行う行為との関係である。この関係は、まさに私たちが自由であるが故に、定義できない。(中略)あるいは、それでも分析に固執しようとすれば、知らぬ間に進行を物に、持続を広がりに変えてしまうだけである。

その人の行為とその人そのものとは分割不可能であり、そしてそのように分けることが出来ないときに人は自由である。無理に分けて考えようとすると、決定論に陥ってしまうのだ。しかし、ベルクソンは、人は日常生活の大半は決定論的な自動人形として生きている、と考えている。何故かと言えば、人格と行為、つまり原因と結果を分けて考える、つまり持続を空間化して考えることに慣れてしまっているからだ。それは何故か。

意識の諸状態に安定した名前を、それらの不安定さにもかかわらず、与えることができ、また個々別々の名前を、それらの相互浸透にもかかわらず、与えることができるから

意識状態を客観化し、それらを言わば社会生活の流れの中に参入させることができる

それでベルクソンは、自我を表層的なそれと根底的なそれの2つに分ける。表層的な自我は、記号化を受け入れて、時間を空間として捉える。だが、根底的な自我は持続の中に生きている、記号化されない自我なのである。
読んでいて、非常に面白かった。
自由な行為に関しては、全くその通りだ、と感じた。人がある行為をする、というのは全く理由なく起こるのであって、それに対して理由をつけるのは行為が行われた後での後付けに過ぎない、ということは、同様のことを考えていた。
しかし、ある行為についての説明がすべて後付けに過ぎないのだとしたら、何故人はその行為を起こしたのだろうか。それを支えているのがまさに持続の概念なのだが、この時間と空間を峻別する考え方は、結構納得したしまた圧倒もされた。すでに上のほうで触れたが、「脳の来歴」と併せて理解すると、行為と人格がイコールとなる、というのも納得がいった。
がしかし、何となくはぐらかされたような気分にもなる。ベルクソンは、記号化、言語化を徹底して嫌うためだ。とはいえ、かなり明確な説明がなされているので、説明不足だとか言葉が足りない、と言いたいのではない。
人は何故説明したがるのか、という問題だ。自由な行為に全く理由がないとしても、我々はそれを何らかの形で説明したがる。それをベルクソンは、単に不安定を避けるため、社会生活をスムーズに行うため、としか言っていないが、それでは何故ベルグソン自身は持続なる概念を持ちだして、自由を説明しようとしたのだろうか。
もう一点、疑問がある。この疑問は、この持続論そのものを揺るがすものになるかもしれない。
ベルクソンは運動と空間を分け、物理学は空間の微積分をしてるだけだとした。無限小で微分しても、近似になるだけで運動そのものにはならないとした。これは、実感としては確かに理解できるのだが、本当にそうなのだろうか。量はどれだけ積み重ねても決して質には変化しない、とベルクソンは主張し続ける。
しかし、彼の生きた時代にはまたコンピュータがなかった。コンピュータという圧倒的な計算力において、本当に微積分は近似にすぎないのだろうか。計算主義(ここでは要するにイーガン、あるいは瀬名の『デカルトの密室』にも同様な考えの登場人物がいる)は、圧倒的な量は質へと変化すると考える。無限の微積分は、運動そのものとイコールではないのか。
また、ある人の行為の原因を探ろうとすれば、まさにその人自身にならなければならない、として決定論的説明の不備が指摘されたが、シミュレーション科学はまさにその人自身になろうとする科学なのではないか。
ベルクソンは、微積分は結局、等質化された空間が飛び飛びで並んでいるだけに過ぎないとした後、こう述べる。

意識がそれらの状態を保存するのは、外的世界のこうした様々な状態が意識事実を引き起こすからであり、意識事実が互いに浸透し合い、知らぬ間に有機的に一体となり、そうした連帯そのものによって過去を現在と結びつけるからである

保存、浸透、有機的一体化というのは持続の特徴であるが、これによって飛び飛びの空間が運動になるのである。物理学は、ばらばらの空間をただ並べているだけだが、持続はそれらを連帯させる。
しかし、繰り返しになるが、本当に微積分は連帯の役割は負っていないのか。連帯させるには本当にどうしても持続概念が必要になるのだろうか。

時間と自由 (岩波文庫)

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