斎藤環『キャラクター精神分析』

これまで出てきたキャラクター論のまとめをしつつ、斎藤環なりのキャラクターの定義を提案している本。
個人的に、斎藤環のキャラクター論というのは以前から気に入っていて、この本も面白く読んだ。
斎藤環の文章というのは、そこかしこにラカン派の言葉が出てくるため、そこで引いちゃう人もいると思うのだが、僕自身ラカン斎藤環を通じてしか知らないけれど、それでも読めてしまうところがある。斎藤環の思考のフレームワークというのは確かにラカン精神分析がなければ成り立たないのだが、しかし、彼のキャラクター論自体はラカン派の理論抜きでも理解可能なものとして出来ているのではないかと僕は思う。
この本にも、無論精神分析の言葉は出てくるのだけど、本の組み立てとしては、マンガ、小説、アートなどのキャラクターについての言説を読みながら、論を進めるものとなっている。

第1章 「キャラ」化する若者たち

スクールカーストとかいじり・いじめとかの話題におけるキャラの話。

第2章 「キャラ」の精神医学

ここでは多重人格における人格とは「キャラ」である、ということが言われる。
ここでは「キャラは固有名を持たない」と言われている。
ここでの固有名は普通の意味での固有名ではなくて、柄谷=日本の文芸批評的な意味での固有名と解される*1。つまり、単独性である。もともと固有名という術語に単独性みたいな意味合いはないのだけれど、柄谷以降、日本の文芸批評では固有名という語にそういう含みを持たせている、と僕は推測している*2
キャラを固有名と結びつける『ゴーストの条件』とはのっけから対立している。
とはいえ、ここらへんの村上キャラ論と斎藤キャラ論の詳細な腑分けをするのは、今は難しいのでパス。
ところで、ここらへんが本書では大体一貫して、キャラは想像界での話で、象徴界は関わってこないということが述べられる。まあ、それが「キャラは固有名を持たない」ということの意味なんだが、これは実は、東理論との対立がある意味で調停されたところがあるのかなと思った。

第3章 「キャラ」の記号論

ディズニーのキャラクターは隠喩的
サンリオのキャラクターは換喩的
キャラ立ちは換喩的に際だった特徴を持つこと(換喩とは例えば、「医者」を「聴診器」で示したりするようなこと)。
そして、換喩によって作られたキャラは、共感や同一化がしにくく、愛着を持つには感情移入が必要となる。
隠喩的なキャラクターには共感できコミュニケーションが可能だが、換喩的なキャラクターはそれが難しい。そして、そのようなキャラクターこそが「かわいい」
「かわいい」は「不気味さ」や「児戯性(レピッシュ)」の間で成り立つから。

第4章 漫画におけるキャラクター論

ここでは、宮本大人、小田切博、伊藤剛、ティエリ・グルンステンの論が次々と紹介されていくが、かなり斎藤独自のマンガ論が展開されていく。
斎藤のマンガ論は、マンガが感情表現メディアであることと、マンガが複数のコードが多層的に重なる「ユニゾン的同期空間」であるというものだ。
伊藤のマンガ論においてキャラが、貫世界的同一性を担うものとされていることは、既に「キャラ」の定義の一つとして広く知られているところだが、斎藤はそれをさらに「顔」に見て取っている。
斎藤はかついて『文脈病』において、「顔」を「固有性のコンテクスト」だと論じた。
顔は、「同一性」ではなく「同一性のコンテクスト」を伝達する。
マンガという表現は、複数のコードが多層的に重なりある空間だが、そこにおいて顔がそれらを貫いているのだ。
いや、貫いているというのは必ずしも正確ではないかもしれない。斎藤は、『攻殻機動隊』における「ゴーストは転送可能・複製不可能」になぞらえて、キャラは「転送不可能・複製可能」としている*3。転送しようとするとそれは必ず複製となってしまい、多層化されていく。
つまり、マンガにおける多層性とは、キャラの多層性とセットなのである。
キャラ(顔)と感情によって、多層的な表現を一気に読み込ませるメディアが、マンガなのである。

第5章 小説におけるキャラクター論

ここでは、大塚英志新城カズマ清涼院流水西尾維新それぞれの小説(論)がされる。
流水や西尾の作るキャラは、ひどく特徴的な名前や性格を有しているが、これを多重人格における人格になぞらえる。つまるところそれらは、単独性を有していることでキャラクター足り得ているのではなく(すなわち隠喩的ではなく*4 )、ある一つの特徴をもってしてキャラクターたり得ている(換喩的である)。
隠喩的なキャラクターとはコミュニケーションが可能だが、換喩的なキャラクターとはコミュニケーションが出来ない、斎藤はここに「キャラ萌え」を見出している。
ある一つの特徴が「転移」をもたらし、「転移」とは「萌え」である。また、キャラは単独性を有していない=主体ではないので、成長しない・関係しない。

第6章 アートとキャラの関係性について

ここでは、村上隆のDOB君とスーパーフラットという概念について論じられている。
あ、この章では、世間で(?)よく使われる「ハイ・コンテクスト」と「ロー・コンテクスト」について説明されている。自分も誤用の方で使っていたので勉強になった。
「アートはハイ・コンテクスト」と呼ばれるが、これは正しくない、らしい。
「ハイ・コンテクスト」とは、暗黙的なコードが共有されている度合いが高いので、情報が少なくても伝達できることを指す。大衆文化などはまさにそうで、まあいわゆるお約束とかそういうものみたいなものかな。
「ロー・コンテクスト」はその逆で、暗黙的に共有されているものが少ないので、色々とたくさん説明しないとメッセージが伝達できないことを指す。なので、アートはロー・コンテクスト。
ところで第4章で見たが、キャラというのは、コンテクストを伝達するものである。そのキャラがいると、ああここはそのキャラがいる世界なんだなと了解されてしまうものである。
斎藤は、村上の業績を、オタク文化というハイ・コンテクストなものから一部を引っこ抜いてアートというロー・コンテクストに落とし込んだ、のではなくて、キャラというハイ・コンテクストなものをそのままアートというロー・コンテクストなものにぶち込んでしまったことの見ている。
スーパーフラット」が何故「スーパー」なのか、それはキャラがいるとそれだけで空間が全てスーパーフラット空間になってしまうからだ。
ちなみに、この章で「キャラの臨界」という言葉が出てくる。DOB君は過酷な変形にさらされながらも、決してその同一性を手放さなかった、と。

第7章 キャラの生成力

主にネットにおける様々なキャラの事例紹介

第8章 キャラ萌えの審級――キャラクターとセクシャリティ

(フェティッシュと比較した際の)萌えにおける「虚構」志向と、森川秋葉原論をつなげて論じている。

第9章 虚構としてのキャラクター論

ここは、東浩紀データベース論を、斎藤環なりに捉え直したものである。
これは『動物化するポストモダン』が発表された頃から、ずっと斎藤環が反論してきたところで、つまり象徴界の衰弱はあり得ないというものである。
まあ、象徴界の衰弱がありえないのかどうかは僕にはよく分からない。これはラカン理論をどう捉えるかという話になってしまうので。斎藤は、ラカン理論は正しいということを主張し、東は、ラカン理論は20世紀には正しかったかもしれないが今はもう正しくないということを主張している。
斎藤は、データベースが実は象徴界に位置しているのだ、ということで調停しているようだ。
まあそれはともかく、重要なのはどちらかといえば、データベース論ないし東浩紀という批評家のなした重要な「発見」として、キャラクター的な表現は「表象不可能ななにものか」を担保しなくても成立する、全ては「想像的なもの」から出てきていることを明らかにしたことであると述べている点である。
これは、東が「過視的」「超平面的」「複数の超越性」「創発神学」などといった言葉で言い表そうとしていたことを概ね表しているといえる。
ところで例えば、『波状言論』で批評家デビューした渡邉大輔もまた同様の問題を扱っており、彼は「映像圏」という言葉でこれを表現している、のだと思う。
ところで僕は先ほど、村上論と斎藤論は対立していると書いたけれども、しかし「ゴースト」が示す問題もやはりこれと同じ問題を巡っているのではないだろうか、と僕は思っている。
これは第4章でのマンガ論において、斎藤が伊藤の「フレームの不確定性」を引いて論じていた、(海外のマンガと比較して)日本のマンガの虚構空間が不安定であるという議論ともおそらく繋がってくる。
僕は、フィクションを可能世界的なものだとは思っていなくて、それこそ「多層的」なものだと思っている。つまり一つの虚構世界があるのではなくて、様々な「現実」が混ざり合っているような何かであり、その混ざり合いを「リアリティ」と呼びたいと思っているのだが、僕はこれは「過視的」とか「超平面的」とかいった概念に触発されていると思っているし、「映像圏」や「ゴースト」ともちゃんと共鳴しているはずだと思っている。
東浩紀から影響を受けた同世代の人達が、関心領域や使っている語彙は違いながらも、似た問題を扱っているのはやはり楽しいなと思う。それこそ、「東浩紀劣化コピー」じゃないのという指摘もあるかもしれない。そしてそれはある意味で正しい。僕たちは、東浩紀の設定した圏域から脱することができていないかもしれない。とはいえ、パラダイムシフトは起こしていないかもしれないが、ヴァージョン・アップは確実になされていると僕は思っている。


話が脱線しすぎた。
まとめの途中です。


データベース論について斎藤はその意義を認めつつ、データベースは「顔」を生成できないとして、データベースではなくむしろ「アーカイブ」として捉えることを提案する。

第10章 キャラクターとは何か

ここで斎藤なりのキャラクターの定義が提出される。
ここまでの議論に関しては、僕はほぼ同意しながら、また刺激を受けながら読んでいたのだが、この最終章に関してだけはちょっと同意しかねる。
ところで、その前にちょっと引用。
「キャラのリアリティとは、キャラの安定した同一性を破壊しかねないような差異化のプロセスに、つねに晒され続ける点にあるのかもしれない。」
実は僕がこの本を読もうと思ったきっかけは、おそらく上の一節をうけたであろう、この本の紹介(?)をtwitterで見かけたからだった。
これはゴースト論と絡めて検討しなければならないテーゼな気がするのだが、正直検討するには、この本の記述は薄い(というか、コンテクストの話を自分にはよく分からなかった部分もあったということで、これは『文脈病』を読まなければならないわけだが)。
今、twilogを見ていたら、過去の自分も「ゴーストと複製とキャラクターの臨界については、両者ともに物足りないところがないわけではない」と書いてた。
村上論だと、そういうキャラはもはや「ゴースト」と呼ぶわけだ。そして実は斎藤も、そのようなキャラのことを「(デリダ=東的な意味の)幽霊」と呼んでいたりするw
それはともかく、ここは面白い話ではあると思う。
閑話休題(?)
この本の結論は、「人間」−「単独性」=「同一性」=「キャラ」というものである。
「人間」−「単独性」=「キャラ」だったら同意できるのだが
「キャラ」=「同一性」というのは、同意しがたい。
そもそもこの見解が出てくる前提として、「「同一性」概念は、人間が関連しなければ意味をなさない」というものがある。この前提が解せない。あるいはこの前提をのむとしても、この前提から「キャラ」=「同一性」は導き出せない。
ここでの斎藤の記述をよく見ると「(人間が関連しなければ)同一性が成立しないのではなく、意味を持たないという点に注意してほしい。」と述べている。実を言えば、この点にも僕は同意できる。
しかし、この言い回しだと、僕が思うに別にこれは「同一性」に限った主張ではなくて、「同一性」を他のものに入れてもかなり成り立つ主張なのではないかと思う。そしてもしそういうことならば、あんまり意味のある主張であるとは思えない。
ここには、形而上学と認識論の取り違えがあるように思える。「同一性」概念はあくまでも形而上学的概念であり、人間が関連しなくても成り立つ。で、「同一性」について知るためにはどうすればいいのか、ということを考えると、人間が関連しないとうまく知ることはできないんじゃないかということは出来る。でもそれは、「同一性」概念の特質についての主張にはなっていないはずだ。
もっとも、「キャラは強い同一性を有している」というと、じゃあ「それは何故?」という疑問が出てきてこれを解くのが非常に厄介なのだが、そしてそれこそ僕が上で気にしていた「ゴーストと複製とキャラクターの臨界」の問題なのだが、「キャラとは強い同一性のことである」というと、これはもう定義なので、そこで一回、この問題を停められるという有用性はあると思う。
もしかしたら上手い解決方法なのかもしれないけれど、でもやっぱり納得いかない。


『文脈病』と『線が顔になるとき』が読みたくなった。
『文脈病』は実は以前読んだことがあるのだが、途中で挫折してしまった本。
グルンステンはティエリ・グルンステン『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』 - logical cypher scapeの方は読んだんだけど、どうも『線が顔になるとき』の方が読みやすい本だったらしいので、そっちを先に読めばよかったなあと思っているところw

*1:んだけど、ちょっと本全体を通してみると用法にばらつきがあるかも

*2:僕は柄谷は読んでないので、はっきりとは言えないが、東浩紀とかその周辺の人達はそういう使い方をしていると思う。ここらへんは、村上裕一『ゴーストの条件』 - logical cypher scapeにも書いた

*3:ところで村上ゴースト論は、当初の構想段階(ゼロアカ道場第三関門)では『攻殻機動隊』への言及があったはずだが、『ゴーストの条件』ではなくなってしまっている。

*4:単独性とは、様々な特徴を一つに結びつけるものである。これは精神分析では象徴的な作用であるのだが、要するに(?)不連続性があるのである。ところで、隠喩も不連続的に何かと何かを結びつけるような比喩である