音楽の哲学シンポジウム

この三連休のあいだ行われている応用哲学会の1日目において開かれた、音楽の哲学シンポジウムに行ってきた。
哲学者、美学者に加えて、フルート奏者と作曲家を交えた、哲学のシンポジウムとしては異例のメンツによるちょっと実験的な企画であった。
最初はそもそもこの4人話があうのか的な空気もあったのだが、終わってみればとても刺激的な会であった。


以下、自分のノートより。
色々省略しているところもあり、正確な再現ではない。

提題

最初は、今井晋による音楽の哲学と音楽の存在論についての簡単な紹介
音楽の哲学は、「ここ数十年の分析美学でもっとも発達した領域」であり、日常的な経験と哲学的な問題が切り結ぶのが特徴的とされる。
様々な論点があるが、その中でもここでは音楽の存在論についてピックアップ
音楽に対して抱く直観と形而上学における存在論的カテゴリーとのバランスをとることが目される
フローチャートを用いて、様々な立場が整理される。
その中で、もっとも一般的な説とされるのがタイプ説である。
これは、音楽作品が出来事タイプとして存在する、と考え、個々の演奏が出来事トークンとして作品を例化していると考える。
タイプとトークンというのは、形而上学的には由緒正しい存在論的カテゴリである。具体例としては、文字が挙げられる。文字というのは、同じ「あ」という字であっても、様々なフォントだったり筆跡だったりと実際には色々な形をしているが、それらは全て「あ」という同じ文字だとされる。このとき、実際にあらわれる色々な形を文字トークン、そしてそれに対するいわば抽象的な「あ」というのが文字タイプとなる。
このタイプ説は、一つの音楽作品が存在し、それが異なる時空間において何度も演奏されることができる、という直観に見事に合致しているという長所をもつ。
さて、話はポピュラー音楽の存在論へと進む。
ここでは、録音物についてどのように考えるかということが問題になる。
例えば、録音の再生を通して作品鑑賞は可能か、という問い。非常に保守的な方向で先鋭化したクラシックファンであったら、コンサートホールで聞く生演奏だけが真の作品鑑賞であり、録音を聞くことは作品鑑賞ではない、と述べるかもしれない(例えば、絵画のカラーコピーを見ることが真の作品鑑賞にはならないように)。
しかし、多くの、特にポピュラー音楽に関わる人であれば、そうは考えないであろう。
では、録音物から再生されるのは、「作品の演奏」なのか。
先ほどは、作品をタイプ、演奏をトークンとみなしたわけだが、録音物の再生も演奏とみなしてよいのだろうか。
録音物においては、多重録音やエフェクトなど、普通の演奏にはありえないようなことがごく普通に行われている。
そこで、トラック説が浮上する。
これは、トラックを出来事タイプとみなすというものである。
先ほど「作品」と呼んだものは、こちらでは楽曲(song)という出来事タイプとされる。こちらは、メロディや和声などの音の構造でなる、薄い出来事であるのに対して、
トラックは、それに加えて、音色や声、音響や編集による効果なども含む厚い出来事と捉えることができる。
そして、録音物の再生は、楽曲とトラックを共に例化する出来事トークンである。
このトラック説を採用すると、例えば録音時における「掠れ声」といったものが、その作品において本質的なものだとみなすことが可能となる*1。また、カヴァーという実践を、同じ楽曲の異なるトラックを作る実践として説明可能である。
最後に、ではポピュラー音楽における作品とは、楽曲なのかトラックなのかということに対して、その両方であるという多元主義的立場を示している。


次に、現代音楽のフルート奏者であり作曲もしている木ノ脇道元より、フルートソロ曲の生演奏と、ライブ録音されたCDがかけられる。
フルートソロによる現代音楽というのは初めて聞いたのだけど、なんだか不思議な感じだった。
何故この曲をフルートでやるのだろうか、というのが聞きながら感じた素朴な感想かもしれない。


次に、作曲家の夏田昌和より、自分の作曲技法についてなどが紹介される。
作り手と聞き手の相互理解との枠組みが失われている現代において、「反復」ということを使っている。
「春鶯」というフルート曲について、その曲のための旋法(モード)を作り、それから基本的なモティーフやリズムを作っていく、と。この曲については、フィボナッチ数をどれにも取り入れたとか。
さらに、リズムだけの曲、コードだけの曲、あるいはそのような素材を取り出すことができない色々な音の入り交じった曲を聴く。


最後に、一ノ瀬正樹より、「音楽化された認識論」という一ノ瀬が現在構想中のアイデアについて報告される。
知識とは言葉であり、言葉とは音声によって発せられるものであり、音声にはそれ独自の響きや音程やリズムがあるのだからそれもまた一種の音楽である。すなわち、知識とは音楽であるとする。
認識論の自然化のようなことをもくろみつつも、自然化においては説明できない問題点を、「音楽化」によって克服しようとする試み。
また、personという語を、「人格」ではなく「声主」と訳すべきだとも主張。personの語源がpersonare(声を上げる)という語につながっていることも挙げている。また、「声主」と訳すことによって、動物のpersonといったような、人以外にもperson概念を当てはめることに違和感がなくなるともしている。

ディスカッション

最初は、一ノ瀬の質問から、リズムということが話題になる。
リズムは、音楽の要素の中でも根本的なものなのではないか、とか。
リズムとして感じられる閾値はあるのか(季節をリズムに喩えたりすることがあるが)
夏田は、音楽としての「リズム」と拡張された概念としての「リズム」を区別する。
今井は、バンドを観察していると、客観的なリズムというよりも彼らの間だけで通じるリズムもあると述べる。


再び、一ノ瀬から。人の喋りなども音楽であるか、との問い。
木ノ脇は、個人的にはそれは音楽ではないと思うと返す。演奏家であり、演奏を聴いてほしいと思って音楽をやっているので、人の喋りや猫の鳴き声などまで音楽と認めたくはない。ただし、そのような音楽観を持っている人がいることは認める。人の声に対して美的な感覚を覚えることはある。それは東洋と西洋の感覚の違いかもしれない。ケージの音楽が衝撃的だったのはそのため。
夏田は、詩が言葉でありながら音楽的な性質を持つことや、ライヒが人の会話の中にメロディやリズムを見出して曲を作ったことをあげ、人の喋りが音楽として響くことを認めつつも、言葉として意味を捉えてしまうとそれは音楽ではないのではないか、と答える。ただしその一方で、音楽を言葉のように意味を捉えるものとして扱っていた時代や文化があるとも。


会場からの質問
今井と一ノ瀬は、そもそも何故音楽なのかという観点がないのではないか。音楽の時間性や聴覚性ということを考えるならば、従来の存在論的枠組みを転倒させた方がよいのではないか。
一ノ瀬:「音楽」という言葉には固執しないが、「ムシケー」という言葉が今でいう音楽よりも広い意味を持っていたことに注目したいとのこと。
今井:もともと、音楽をどのように評価するのかということを問題としていて、そのための基礎として存在論をやっているので、それが音楽に特有のものでないことについて問題を感じない。音楽特有の存在論を作る人もいるれが、それが使えるものであるのかは分からない。
ただし、トラック説というのは重要な論で、録音技術の発展によってテクスチャが人びとの認識に上がるようになったことが浮かびあがる。ポピュラー音楽は、クラシックやジャズに比べて、構造はシンプルであるが、ギターの音作りに命をかけるなどテクスチャを重視している。
それに対して夏田。民俗音楽など、録音技術以前からテクスチャへの注目はあったのではないか。
今井。それは確か。邦楽などは、テクスチャのみならずその演奏姿勢なども重視する技芸の世界。しかし、重要なのは、そうした情報が面と向かわずとも伝えることができるようになったこと。


今井:夏田の話を聞いていて、既に人がやった方法論は使わないというのが、とても現代音楽ないし芸術っぽいと感じた。ポピュラー音楽においては、むろん人と同じものは作らないとしても、人とは違う新しい方法論を作ろうとするかというと、そんなことはない。
そう言って今井が、現代音楽(芸術)とポピュラー音楽の違いについて強調すると、木ノ脇が、自分はクラシック以外のジャンルでも活動していて、そのような違いは感じていないと反論した。


感想というか、その後に考えた全然関係ないこと

話題にはならなかったことで気になってる論点として、音楽は何かを表象しているのかというもがある
http://twitter.com/#!/sakstyle/status/117238118846963712

音楽が何かを表象してるというのを、個人的には実感できたことがないので、そういうことを言われると違和感を覚えるって話なんですが。これは僕にリテラシーや感性が不足しているだけの話かもしれないが。ただ、類似してることはあっても指示はしてないと思う。
http://twitter.com/#!/sakstyle/status/117250248249839617

これは、最初に聞かされたフルート曲についてで
これは最初、曲名も含めて何も説明されぬままに「先入観なしに純粋に音楽を聞いて下さい」と言われて聞いた。
この曲は一定のリズムで、ピッピッピッと吹くところがあって、クリックみたいなことをフルートでやってんのかなーなんなのかなーと思いながら聞いていた。
曲が終わった後の説明によると、これは谷川俊太郎の詩を使ったバレエのために書かれた曲で、そこで使われた詩のフレーズから考えて、先ほどのピッピッピッというのは人の歩いている様子をイメージしているのだろうということは分かった。また、バレエの映像があればそれはよりはっきり分かったことだろう。
しかし、人の歩いている様子というのは、まさにその詩やバレエによって表象されているのであって、音楽によっては表象されていないのではないだろうか、と。というのも、実際に僕は何の説明もなく聞いた時に、歩いている様子を思い浮かべなかったし、それ以外のどのような情景も思い浮かべなかったから。
実際、夏田さんが流した、リズムだけの曲やコードだけの曲などは、まさにリズムやコードだけが提示されているのであって、それによって何事かが表象されているわけではないだろう。
しかし、ロマン派の音楽などは、その音楽によって物語や情景が示されていたり描かれたりされていると言われている。
音楽の哲学では、音楽と感情との関係についても論点として上がっているらしい。例えば、「この曲は悲しい曲だ」などと言うが、人間以外のものを主語として感情を帰属させるというのは一体どういうことのなのか、と。
これについては、どういう議論がなされているのか全く分からないけれど、感情を表象しているのか、感情を引き起こしているのか、という区別とかも考えられるのではないだろうか。
(感情を表象することと感情を引き起こすことはどう異なるか。普通の小説や映画について考えてみる。例えば、登場人物がみな可笑しくて笑っているシーンがあったとする。これは笑いという感情を表象しているといえる。しかし、視聴者は、実は登場人物たちには回避し得ない悲惨な状況が迫っているのを知っていてこのシーンに哀れみを感じているとする。ならば、このシーンは哀れみを引き起こしているといえる。)
音楽は感情を人に引き起こすことは当然可能だし、むしろその点については優れた表現方法であるといえるけれど、そのことはその曲が感情を持っていたり表していたりすることとは違うと思う。
同様に、音楽が足音のイメージを引き起こすことはあるかもしれないが、足音を表象しているとはいえないのではないか、と思う。
ただこれはおそらく、一般的な我々の直観や日常的な実践に対して沿わない、大きく修正を迫るような主張なので、おいそれとは主張できないので困っている。


上に引用したpostの「類似」と「指示」について補足説明
「表象する」というのは、そもそもそれが一体何なのかということも正直よく分からない概念。
で、「類似」とか「指示」とかは、もしかするとその正体なのかもしれない。類似による表象があったり、指示による表象があったりするのかもしれない。あるいは、ごっこ遊び的想像による表象というのもあるのかもしれない。


また別件
ありらいおんさんの

「まずは先入観なしに純粋に音楽だけ聞いてください」「すいません。先入観なくしてたら音楽だと思わなかったので聞けませんでした」
http://twitter.com/#!/myrmecoleon/status/117239631333965824

というのを見て、音楽は先入観がないと成立しないのか、全く先入観がなくても成立することのできるものななのかちょっと考えてみた

音楽という実践の全く存在しない異星人が地球の音楽を聞いたなら音楽だとは思わないだろう。でもそこまで極端なケースは考えても仕方ない。地球人であれば誰でもが、これは音楽だと判断できるものはある気がする。それは先入観なしで聞いても音楽だと分かるものだと言っていい気がする
環境音楽とかノイズミュージックとかはこれは音楽だという先入観がないと音楽だとは思えなさそう
音楽は制度や先入観に依存せずに存在するという立場に何があるだろうかと考えて最初に思い付いたのは、音の構造は何でも音楽という立場なんだけど、実はそういう立場の方が制度に依存してるのかもしれないと思った

この、「音の構造は何でも音楽という立場」は、一ノ瀬さんを念頭に置いている。もっとも彼は最終的に、「音楽」という言葉には固執しないと述べてしまっているのでちょっとなんなのだが、それでも一応「音楽化された認識論」は、「人の喋りは音楽だ」という主張を含んでいる。
ところでこれに対して音楽家の2人は、ケージやライヒがそのような考えのもと曲を作ったことを挙げつつも、彼らとしてはそのような何でも音楽という立場はとらないでいる。
ケージやライヒはやはり、かなり現代アート的な、制度依存的な部分で成立しているアーティストであることを考えると、音の構造があれば何でも音楽という立場はかなり特殊となるだろう。
だとすれば、普通に考えると、音楽というのは単なる音の構造ではなくて、それにさらに条件が加わったときに音楽になるのだということになる。
音楽というものが多分に文化的な実践である以上、その条件を決めるのは、文化的・制度的なものであると考えるのが自然であり、そうすると、何の先入観も制度もなく音楽だと分かるような音楽はない、ということになる気がする。
しかし一方で、少なくとも地球の人間であれば誰もが、これは音楽であると認めるような音楽があるような気もしている。うーん、そういう話になると、制度依存的っていうのをどのレベルで考えるかによってくるから、音楽に限らない話になって難しいんだけども、でも、ある音出来事を音楽たらしめるような本質のようなものが何かあるんじゃないのかなと思えてくる、個人的には。

*1:楽曲というタイプだけを採用する場合、そのような「掠れ声」は個々の演奏(トークン)によって生じた偶然的な差異であるとしか捉えることができないだろう