渡邉大輔『イメージの進行形』

現代の映像文化を「映像圏」という独自の用語で呼びながら、一方ではtwitterなど映像以外の現代文化とも接続し、またその一方では現代にとどまらない映画史とも接続させながら論じていく本。
元々、早稲田文学のweb版で連載がなされていて、僕もそれを読んでいたので待望の一冊。


ちなみにwebで連載されていた時はpdf形式で、YouTube動画へのリンクなどが貼られていた。
僕は、pdfの連載よりも本一冊でまとまってくれた方が読みやすく感じるけれど、この動画へのリンクというのは紙の本ではできないことで、それはpdf版のよいところだったと思う。リンクされていた動画のほんの一部しか実際には見ていないけれど、今回本で読み直す時に、そういえばこの作品はリンクされていたのを見たなあと思い出すと、読みやすい箇所はあった。
さて、この本については既にレビューがいくつか書かれていると思うが
動画付き紹介:映画史からSNS、そして政治へ『イメージの進行形』 | 本が好き!Bookニュース
これは動画付きで取り上げていることも含めて、よいレビューだった。

本書は開拓者のような乱暴さで書かれた論考でもある。本書の帯にある「到達点にして新たなる出発点」の「出発点」という表現は、今後この書籍が切り開いた領域での議論が精緻化される必要があるということを意味していると言えるだろう。
かつて攻殻機動隊の主人公の草薙素子は「ネットの海は広大だわ」と言った。いわば「映像圏の海」はそれ以上に広大である。あらたなる大航海時代、あらたなる未来が広がっているのだ。


ついでにもう一つレビューを紹介

本書は映像文化論ではあるのですが、ひとつひとつの議論は広義の「出版文化」の行く末を考える上で示唆的であり、業界人必読の本だと思います。
注目の新刊、近刊:渡邉大輔『イメージの進行形』人文書院、ほか : ウラゲツ☆ブログ

また、この本および筆者は、東浩紀がかつて展開していた表象論の話(「サイバースペースは〜」や『動ポモ』3部)を引き継いで、もっともよく展開させているのではないか、と思っている。
表象というのが「見えるもの」と「見えないもの」という関係だったのが、全面的に「見えるもの」になっていったという例のあの話絡み。実際、この本の中には東の「過視的」というタームが出てくる。
僕はとても面白かったので、人にも薦めたくなる本ではあるのだけれど、悪い意味で「思想」系の文章になっているところがあるとも感じていて、科学用語を用いた比喩の部分なんかは人によっては嫌なのではないかなと思う。ただ、そういうところは多少スキップしても十分分かるようになっていると思う。
議論自体はわりと明快なのではないだろうかと思うので、様々なジャンルの用語が高密度に詰め込まれている文章に臆せず読んでもらいたい。
こういう文体自体は、ある種の人たちによって非常に美味しいのではないか(僕もどちらかといえばそちらの方)と思う一方、この文体で読者層を限ってしまっていることもあるのではないかなどと、ちょっと余計なお世話かもしれない心配もしてしまう。

第1章「映像圏」の誕生

まず、映像圏という概念について
デジタル化とソーシャル化によってもたらされた現代的な映像文化の有様、とでもいえばいいのだろうか。
いわゆる、映画館で見るような作品としての「映画」の退潮と、YouTubeやニコ動のようなネット上のメディアに日々アップされていく断片化された「映像」の増加という状況が前提としてあり、
そういった断片化された「映像」が、何らかのきっかけでちょっと「作品っぽいもの」になったりする。そういうシステムが映像圏。
そしてこの「何らかのきっかけ」、つまり映像圏が「作品っぽいもの」を生みだす仕組みというものは、ソーシャル化という状況で言い表されるような、コミュニケーションの現前性によっている。
例えば、そのような映像圏的な作品として、ニコニコ動画でよく見られる、総統閣下シリーズなどの嘘字幕ものや、メールを送る携帯画面を長回しで撮影した、佐々木友輔の『手紙』などが挙げられている。また、『リダクテッド』や『クローバーフィールド』のような疑似ドキュメンタリーも映像圏的と呼ばれる。

第2章 「からだ」が/で見るヴィジュアルカルチャー

映像圏において「身体性」というものが前景化している。それは一方では「踊ってみた」や「アイマス」として現れているし、また一方では映画研究者達の身体や情動への注目として現れている。
さらにここにリズム論についても少し書かれている。
こうした「身体性」について、ジョナサン・クレーリーの「触知性」の議論と接続される。
視覚文化における、典型的な(デカルト的な)視覚モデルに対してそのオルタナティブの視覚モデルが古くからあって、いわゆる「映画」によって抑圧されていたそのようなオルタナティブなモデルが再び現れてきたのが、現代の映像圏なのである。

第3章 映像圏の映画/映画史

この章は映画の歴史の話で、続く第4章は作品分析となっていて、映像圏というのを単に現代文化とみなすのではなくて、以前から映画の中に垣間見られていたものであったということを論じていく。
第2章の後半とこのあたりが個人的には面白かった。
近年の映画研究において、いわゆる物語作品的な「映画」ができる以前の時代の映画は「初期映画」と呼ばれていて、注目を集めている。そして、そうした「初期映画」と現代の映画との間の類似性を指摘する研究も既にあるという。
初期映画と現代の映画の間にあるのが、いわゆる古典的ハリウッド映画というもので、「物語」を描くための方法論を洗練させたシステムを持っていた。そうしたシステムがなかった頃と、そうしたシステムが崩壊してきた現代においては、そのシステムが抑圧してきた映像圏的なものが現れている。
初期映画の話として、現代とはまるで違う映画館の話がでてくるけれど、それについては加藤幹郎『映画館と観客の文化史』 - logical cypher scapeが面白かった。
それから、初期映画と健康ブームや性(身体性)との繋がりの話も面白かった。
上述したように、古典的ハリウッド映画というものが、映像圏的なものを抑圧していたわけだが、ハリウッド映画の中にも映像圏的な特徴をもったジャンルがあるという。それがフィルム・ノワールである。フィルム・ノワールは疑似ドキュメンタリー的であり、情動に訴えるような「主観化」が特徴であるという。
さらにこの章では、蓮実重彦的な表層批評が、映像圏的な文化においては機能しないことも論じている。前提としている表象のモデルが違う。

第4章 作品論

ここではオーソン・ウェルズ岩井俊二が映像圏的映像作家として論じられる。
この二人の作家について、既にフィルム・ノワールのところでも言われていた「主観化」という特徴から論じられていく。
古典的ハリウッド映画において、扉や城門といった矩形のセリーの使い方に階層性があるのに対して、フィルム・ノワールやウェルズでは「複層性」や「反響性」と呼ぶべきものになっている。さらにこうした「反響性」は音響的な側面にも及んでいる。
岩井俊二は、そもそもMTV出身であり、『リリイ・シシュのすべて』では物語の内容にも作品制作にもインターネットを利用し、映画のデジタル化にも関わるなど、プロフィールの面でも映像圏的なところがある。
ワンシーン・ワンショット、疑似ドキュメンタリー的映像、音楽の使い方などの面から、ウェルズと同様、視覚的・聴覚的に「主観化」をなしていたとする。

第5章 メディア分析

この章と第6章は難しかった。
映像から離れてtwitterの話。
映像圏というのがソーシャル化とコミュニケーションをその中に含みこんでいるので、ここでSNSの話が出てくるのも実はそれほど不自然ではない。
特に、twitterのRTに着目して、映像圏論と通じるような表象文化論的な話をしているが、現代思想社会学を引用しながら、抽象度の高い話をしている。
最後には、RT論によって析出した概念によって、戦後日本のドキュメンタリー作品を見てみるといったことまでしてみせる。

第6章 映像の「公共性」へ

映像圏と対抗的公共圏の話を絡めながら進む。
震災後の公共性みたいなサブタイトルがついてたり帯にそういった煽りがついてたりもするけど、必ずしも内容としては震災を話のネタにしているわけではなく、震災があってもなくても通じる話である。どちらかといえば、ネオリベ化・郊外化していく社会状況を前提にした公共性の話。
そもそも映像圏というもの自体が、そうしたネオリベ化・郊外化とセット。例えば、映画・映像鑑賞のあり方が変わっていったのは、郊外化によって映画館がショッピングモールに吸収され、あるいはそもそも映画館がなくなっていったりする状況があったり、近年映画業界で問題とされていることとしては、VPF問題があったりする。映画館で見るような「映画」というものはどんどん減っていくだろうという現実があり、その一方で「映画」にはおさまらない「映像」文化というものが広がり始めている。
フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーや土本典昭、小川伸介のドキュメンタリー、さらには松江哲朗の『童貞をプロデュース』といった作品も次々と論じられていく。


余談になるが、著者の渡邉さんには、2008年に『筑波批評』に原稿を書いてもらったことがある。その頃はまだ映像圏というタームは出ていなくて、日本映画における疑似ドキュメンタリー的なものとして「アダルトヴィデオ的想像力」について取り上げ、松江哲朗らを論じたものだった。
ページ数の都合で短い分量で書いてもらうしかできなかったのだが、今読み返してみると、既に映像圏へと繋がるアイデアが温められていたことが分かるものになっている。


イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化

イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化