鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』

サブタイトルは「意識のハード・プロブレムに挑む」
意識の自然化に挑むものであり、「本来的表象はすべて意識経験である」という「ミニマルな表象理論」を展開する。
結論部に筆者の主張がまとめられているので、一部を以下に引用する。

◎意識経験は全て知覚経験だ。そこで経験されるのは、外界にある事物のさまざまな性質だ。
(中略)
◎本来的表象とは、生物の神経系において、感覚入力と行動出力を媒介する内部状態だ。(中略)
◎本来的表象によって表象されるのは、事物の物理的性質ではなく、表象システムに相対的な性質だ。経験される性質は、事物の物理的性質に還元不可能だ。
◎経験される性質は、事物の客観的な性質だ。
(p.218


何年か前に、この本に関するWSを見に行ったことがあった
科学基礎論学会WS「現実とフィクションの相互作用」「意識のハードプロブレムは解決されたか」科学哲学会WS「心の哲学と美学の接続点」 - logical cypher scape
この上述の記事の中のメモで「経験される性質は、物に帰属される性質だが、物理的性質には還元されない」と書いているのだけど、ここよくわからなかったのでWS終わった後に筆者である鈴木さんに念押しして聞いたところだったかと思う。
経験されるのは、経験の媒体の性質ではないのであって、物の方の性質だが、表象システムに相対的なので、還元できないということかな
意識経験は、神経系と外界の事物の合わせ技で生じているということなのかなーとも思う。物理主義的に理解するという意味では、神経系と外界の物理的な事実にスーパーヴィーンしているのだろう、と。
表象システムに相対的という、この論のポイントが、グッドマンに由来しているのも面白い。
面白いのは内容理論かな
色とか、波長として経験されるのではなく、色として経験されるのはなんでだってのが、意識の現象性の問題のポイントだと思っていて、それに対する答えとしては、今まで読んできた意識理論の中では、一番、その問題に答えようとしている形の答えだった。
あと、知覚という表象と信念という表象の違い、というのが、意識のハード・プロブレムの根底にあるのではないか、という指摘が、今まで考えてなかったところで面白かった。


1〜4章は、既存の議論の整理
5〜7章が、筆者の立場からの議論

序論
第1章 意識のハード・プロブレム――特別な難問
 第1節 物理主義――問題の背景
 第2節 なぜ意識の問題は特別な難問なのか

第2章 意識のハード・プロブレムは解決不可能か
 第1節 思考可能性論証――ハード・プロブレムは解決不可能?
 第2節 新神秘主義――ハード・プロブレムは人間には解決不可能?
 第3節 タイプB物理主義――ハード・プロブレムは解決不要?

第3章 意識の表象理論――もっとも有望な理論
 第1節 クオリアにかんする志向説――クオリアとはなにか
 第2節 志向説を一般化する――意識経験は知覚経験である
 第3節 さらなる反例に対処する
 第4節 意識経験の一般的特徴を説明する

第4章 意識の表象理論の問題点
 第1節 意識経験と表象の関係――表象が意識経験となるには
 第2節 物理的性質と経験される性質の関係――色は表面反射特性か
 第3節 意識経験の実在性――なぜそこにないものが見えるのか

現在地点の確認

第5章 本来的志向性の自然化――表象とはなにか、もう一度考えてみる
 第1節 自然主義的な志向性理論――いかにしてあるものは別のものを表すことができるのか
 第2節 本来的志向性と派生的志向性――意識経験と文や絵の違い
 第3節 本来的表象の自然化(その1)――なにが本来的表象なのか
 第4節 本来的表象の自然化(その2)――本来的表象はなにを表象しているのか

第6章 ミニマルな表象理論――意識と表象の本当の関係
 第1節 ミニマルな表象理論――本来的表象は意識経験である
 第2節 自然主義的観念論(その1)――物理的性質と経験される性質の関係
 第3節 自然主義的観念論(その2)――そこにないものが見える理由
 第4節 ミニマルな表象理論から言えること

第7章 ギャップを無害化する
 第1節 3つの応答の試み
 第2節 知覚と思考――ギャップの正体

結論、または間違いさがしのお願い


用語解説
参照文献
あとがき
人名索引
事項索引

序論

意識の問題と、自己の問題、自由意志の問題、心身問題はそれぞれ別の問題であると指摘している

第1章 意識のハード・プロブレム――特別な難問

物理主義とは何か、ハード・プロブレムとは何かの説明

 

第2章 意識のハード・プロブレムは解決不可能か

逆転クオリアやゾンビ論証、新神秘主義、タイプB物理主義への反論
逆転クオリアやゾンビについては、そもそもその概念自体が不整合じゃない? という点と
ゾンビそのものが思考可能なのではなく、ゾンビが思考可能な状況が思考可能なのではないの? という点が指摘されている
逆転クオリア概念の不整合性として、青と赤が入れ替わったとして、他の色との関係なども考えないといけないのでは、という指摘は、なるほどーと思った
 

第3章 意識の表象理論――もっとも有望な理論

意識を表象によって説明するのが一番有望だということを示す章
意識経験は、感情なども含めて、全て知覚経験であること
意識経験の特徴である、自己知、注意を向けること、統一性なども、表象理論と整合的であること
が示される

第4章 意識の表象理論の問題点

表象理論の問題点があげられる章

第1節 意識経験と表象の関係――表象が意識経験となるには

意識は表象であるとしても、表象の中には意識でないものもある。意識である表象と意識でない表象を区別するものは何か
意識であるためには、高階の表象である必要があるという立場を、高階表象理論と呼ぶ
高階表象理論の中には、二階の表象は一階の表象を対象とする知覚であるとする高階知覚理論と、そうではないという高階思考理論とがある。
特殊な高階思考理論として、意識経験が質的な性格を持つことと意識的な心的状態であることを独立の問題だと考えるローゼンサールの立場を紹介している。
いずれにせよ、筆者は高階表象理論は、説得的ではないと考えている
高階表象は必要ではないという立場としては、
タイのPANIC(抽象的で非概念的な志向的内容)理論
バースのグローバル・ワークスペース理論
前者は、言語や概念的な思考ができないと意識をもてないことになるのが問題
後者は、そのような問題をもたないが、行動制御への利用が意識であることの条件とするので、今度は条件がゆるすぎるという問題

第2節 物理的性質と経験される性質の関係――色は表面反射特性か

個人的には、意識の問題というのはここが一番ポイントなのではないかと思っている。
リンゴのもつ表面反射特性などの物理的性質と、赤さという経験される性質は、どのような関係にあるのか
タイはむしろ、網膜の錐体細胞が反応する波長における反射率という物理的性質と対応しているのだと論じるが、いずれにしても、経験される性質との関係はわからない
物理主義者は、表象の対象と表象の対象の提示様式(mode of presentation)の区別*1によって解決しようとする。
しかし、提示様式の違いによって説明できるのか

意識経験においては、表象媒体が意識経験に現れることなしに、表象内容が意識経験に現れる(中略)提示様式の担い手である脳状態が意識経験に現れることなしに、赤さそのものが意識経験に現れる。これは、意識経験の基本的な特徴であると同時に、きわめて不思議な特徴だ。そして、表象の提示様式を持ち出すだけでは、意識経験である表象だけがなぜこのような特殊な性格を持つのかが、説明できないのだ。(p.113)

このあたり、源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scapeとも関連しそうな議論
筆者によると、意識の議論でこの「透明性」はあまり指摘されない論点らしいが、ウィリアム・シーガーという人が論じているらしい。
意識が表象であることを強調すると意識の特殊性が、意識の特殊性を強調すると物理主義が維持しがたくなるという物理主義者のジレンマ

(注69)*2経験される性質が物理的性質にほかならないことを、提示様式の違いによって説明しようとすれば、提示様式の担い手となる非物理的な存在者が必要となる。これは、経験にセンス・データが現れることを認める、非物理主義的な弱い志向説にほかならない。(p.245)

個人的には、筆者の「ミニマルな表象理論」もわりとセンス・データ説的なものと紙一重なところがあると思う。
筆者自身、この理論を自然主義的観念論と呼んでいたりする。
むろん、センス・データ説と違って自然化されていて、それはこの後の章を読めばわかるのだけれども。
「経験される性質は、事物の物理的性質に還元不可能だ」というあたり

第3節 意識経験の実在性――なぜそこにないものが見えるのか

このあたりの話は、もろにセンス・データとの関連で源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scapeにもあったような話題かと
幻覚や錯覚の経験について
筆者は、「物理主義者は、意識の自然化を達成するために意識経験の実在性を否定するか、直観を守るために物理主義を放棄するか」選ばなければならないという(p.116)。
第一の選択肢をとるものとして、信原やデネットがいるというが、このみちは、筆者によれば意識経験そのもの否定であり、消去主義ないしラディカルな修正主義であり、ローゼンサールの立場同様、あまりすすめられたものではない、と。

第5章 本来的志向性の自然化――表象とはなにか、もう一度考えてみる

従来の理論

まず、自然主義的な志向性理論として、ドレツキの共変化理論、ミリカンの目的論的な理論とその問題点を紹介(例えば、目的論的な表象理論は外在主義的な表象理論と緊張関係にあるなど)
また、共通の問題点として
(1)心的な表象にも心的ではない表象にも、また意識的な表象にも意識的ではない表象にもあてはまる理論になっている
(2)表象される対象の性質と経験される性質の関係が説明できていない
(3)志向的内容への存在論的コミットメントをもたない 

本来的表象について

続いて、本来的表象と派生的表象とを区別する
そして、表象を持つものと持たないものとの違いについて
この世界の存在者を段階を追って説明していく
(1)岩や植物など動かない存在者
(2)自ら運動する能力を持つが、周囲のあり方に関係なく、決まった仕方でのみ動く存在者
(3)周囲のあり方に応じて運動の仕方を変化させるタイプの存在者
(4)自分自身と離れた世界のあり方に応じて、行動を変えることができるタイプの存在者
生物は、この第四段階に至ると、本来的表象を持つようになる、と。

ある生物Oの内部状態Sが本来的表象である⇔「Sがあるとき、そしてそのときにのみOはφする」を満たす行動φが存在する(p.137)

本来的表象は、3種類に区別される
単純な認知システムしかもたない生物は「オシツオサレツ表象」をもつ
複雑な認知システムをもつ生物では、これが「記述的な表象」と「指令的な表象」とに分化する。

本来的表象はなにを表象しているのか

ここが、特にこの本の中では面白かったと思った部分かなー
「内在主義的な内容理論」と「消費理論」によって説明する

本来的表象は、世界をありのままに写し取ることを目的とするのではなく、みずからの生存にとって有用な仕方で世界を分節化することを目的とする。この点を明確にするために、事物それ自体のあり方を写し取る表象を再現表象と呼び、事物をみずからの関心に応じて分類する表象を分節表象と呼ぶことにしよう。(中略)本来的表象は必然的に分節表象だということだ。(p.142)

(このような考え方は、ユクスキュルの環世界やハイエクの感覚秩序と同様の発想だという*3
そのうえで、本来的表象の志向的内容というのを、表象システムの持つ構造=質空間に位置づけるという「内容理論」を展開する。
例えば、色は、明度、彩度、色相の3つの次元からなる色立体の空間の中に位置づけられる。
表象する性質が構成する空間が、この色立体と同型の構造を持つのであれば、その表象は色を表象することになる。
筆者自身が指摘しているように、これは色はともかく、他の性質についても同じように当てはまるかどうかという問題はあるけれど、面白い
表象が表象しているものは表象システムに相対的に決まるという考え方を、グッドマンから継承しているらしい
また、この考えた自体は、グッドマンから由来して、クラークが本格的に展開しているそうだ。
クラークは、音や形についても質空間を構成できると考えているそうだ。
オシツオサレツ表象については、消費理論によって説明される
記述表象は、内容理論によって説明される。
記述表象ならびに内容理論は、オシツオサレツ表象ならびに消費理論の特殊形態という位置づけで、消費理論の方が本質的
消費理論は、誤表象を説明することができ、物理主義が使える道具立てで説明可能。

第6章 ミニマルな表象理論――意識と表象の本当の関係

ミニマルな表象理論:ある表象が本来的表象である⇔その志向的内容は意識経験の内容となる(p.158)

もともと、表象理論の問題点として、意識的な表象とそうではない表象との違いが説明できないというものがあったが、ミニマルな表象理論では、本来的表象であればそれは全て意識経験になるというのが、ミニマルな表象理論

意識のハード・プロブレムと知覚or信念

意識の表象理論について2つの要素がある
・意識経験はすべて知覚経験である
・意識経験は、文や信念・欲求などと同様の表象である
前者は修正の必要はないが、後者には修正の必要がある、というのがミニマルな表象理論のポイント
意識経験となる表象とそうでない表象とは、そもそも種類が異なる(本来的か派生的か)表象であり、この点を見逃していることによって、意識のハード・プロブレムが生じていたと。
また、注103の中に書かれているのだが、意識のハード・プロブレムの背景として、わりと重要だと思われることが書かれている。
心に関する二つの見方がある。
・心的なものを、主体の経験や一人称的な視点から理解する見方
(この場合、心的なものの典型は知覚や感覚)
・心的なものを、主体の行動を生み出す内部状態として理解する見方
(この場合、心的なものの典型は信念や欲求)
前者は、デカルトなど過去の哲学者、後者は、現代のココロの哲学や心理学
ハード・プロブレムの根底にあるのは、この2つの見方の緊張関係だ、と。
あんまり考えたことなかった観点だった

反例と思われるものについての検証

意識的ではないが、行動を生じさせるような表象の例として、盲視やプライミング、命題的態度、高次の性質などを挙げるが、これらに対処可能であることを論じている

物理的性質と経験される性質

経験される性質は、主体の表象システムの在り方に相対的な、外界の事物の性質である
表象システムの相対性によって、人間と異なる生物種によって経験が異なること、また同じ人間でも個人間で経験が異なることがあることが説明できる。
これは、二次性質の話ではないか、という指摘に対して、一次性質も事情は同様だとしている。
一次性質と二次性質の違いは、対象の物理的性質と経験される性質のあいだに同型性が成り立つかどうかの違い
長さは、物理的なそれも経験されるそれも、直線状の一点に位置づけられるが、色は、方や空間における一点、方や色立体の中の一点として位置づけられているもの、という違い
経験される性質は、物理的性質には還元不可能である。
一方で、知覚から物理的性質に到達できないわけではない。
また、経験される性質は、あるタイプの知覚表象システムを持つ個体すべて(つまり人間という種に属する個体は(基本的に)すべて)表象可能だという点で、客観性をもつとされる。
物理的性質は因果的効力を持つが、経験される性質は因果的効力をもたない。
物理的性質は、意識経験に直接現れることはない。が、思考や文においては、表象することができるし、霧箱による放射線の観測などのように、間接的に知覚することは可能。このことを筆者は、「物自体を知覚することはできないが、思考することはできる」と述べている。
意識の自然化に成功したのか
筆者はイエスでもありノーでもあるという

経験される性質は、なんらかの物理的性質に還元されることによって、物理的世界に位置づけられるのではないということだ。物理的性質を持つ事物からなる環境のなかに本来的表象を持つ生物が存在すするという、それ自体としては物理主義的に理解可能な事態が成立することによって、物理的性質に還元不可能な精鋭つが、物理的世界の新たな構成要素となるのだ。このような考え方を、自然主義的観念論と呼んでもいいだろう。(p.178)

意識の自然化を、意識経験を物理的性質に還元することではなく、物理的な世界に独自の身分を与えることとしている。
このあたりは、なんというか、分かったような分からないような感じというか。
ここまでの議論は十分理解できるものなのだけど、なんかやっぱり、だまされているような気にもなる、不思議な感じがする。

意識経験の実在性について

幻覚や錯覚の問題
事物そのものを経験しているわけではないので、誤った経験が起こるのも当然
しかし、かといって、経験される性質が物理的性質と無関係なわけではない
どのような性質を経験するかは、世界の物理的なあり方によって決定される(=ミクロ物理的な事実に付随する)
繰り返し経験したり、複数の主体が経験したりすることができるという点で、経験される性質は客観的

動物やロボットの意識など
  • 動物

ミニマルな表象理論からいえば、本来的表象をもっていれば意識経験をもっているので、動物も意識を持っているといえる。
また、神経系や行動を調べれば、どのように表象しているかもわかる。色の識別行動を実験で確かめれば、色という性質を経験しているかどうかわかる
しかし、表象システムに相対的であるので、コウモリと同じ経験を人間が経験することは不可能。
動物にも意識があるといって、人間と同じような意識であるというわけではない。例えば、他の動物が知性を持っているといっても、人間と同程度の知性ではなく、もっと原初的な知性であるように、意識にも、原初的な意識がある。

  • 乳幼児

神経系がある程度発達すれば、意識は生じると考えられるので、胎児のある段階から意識があると考えられる。
ただし、動物や乳幼児は、意識についての自己知は持たないのではないか、とも。

  • 人工物

ミニマルな表象理論に、物理的な組成に関する制約はないので、理論上はロボットも意識をもちうる

第7章 ギャップを無害化する

知識論証に応えるというもの
知覚と思考を区別すること(非命題的な知識と命題的知識)で、これに応えている
知覚(本来的表象)は、自己中心的な表象内容を持ち、それゆえ非概念的な内容を持つ表象となる。
思考は、推論関係を形成するため、概念である
また、そもそも知識論証で問題になっていることは、二元論においても同様に成り立つというチャーチランドによる指摘が紹介されている。
知識論証による問題は、自然化の問題とは別問題ということだ。
(参考)知識論証というと山口尚『クオリアの哲学と知識論証』 - logical cypher scape

*1:意味と意義の違いみたいな区別

*2:細かい話だが、脚注を巻末にまとめて載せるスタイルの場合、本書のように本全体の通し番号で注をふっているスタイルの方が、個人的には好ましいなあと思っている。章ごとに注番号がリセットされるスタイルのは、どの章の注かわからなくなることが

*3:参考文献の中にハイエクがあって、「なぜ?」と思っていたのだけど、こんな議論もしてたのね、ハイエク