源河亨『知覚と判断の境界線』

サブタイトルは、「「知覚の哲学」基本と応用」であり、そのタイトル通り、知覚の哲学の基本から始まり応用問題に至る。著者の博士論文を元にした著作であり、既存の理論の紹介だけでなく、後半では、著者による「高次モード知覚説」が論じられることとなる。
「知覚の哲学」の中でも、高次性質の知覚可能性の問題が中心に論じられている。
知覚というと、林檎を見て、赤とか丸いとかいった視覚情報から、「赤い球体がある」と知覚する、というようなものだが、さらに「あれは林檎だ」といった種について、「彼は怒っている」という他者の情動について、「音が鳴っていない」といった不在について、「あの絵画はダイナミックだ」といった美的性質についても、知覚することができるのか、という議論である。
種、他者の情動、不在、美的性質といった高次の性質は、知覚されるものではなく、判断されるものではないかと一般的には考えられているのではないだろうか。つまり、低次性質(赤いとか丸いとか怒鳴り声がするとか)の知覚に基づき、推論・判断されるものであって、直接知覚されているわけではない、と。
これに対して、知覚可能なのではないかという議論が展開されている。
著者は、知覚可能性の議論の、ひいては知覚の哲学の何が美味しいのかという点で、形而上学や美学といった哲学の他の分野あるいは心理学といった哲学以外の分野の議論と接続されていることを挙げている。
また、個々の性質に応じた議論が必要であることも述べ、同じく高次性質の知覚可能性の問題といっても、種性質や他者の情動の知覚について筆者は中立の立場を保ち、積極的にはその知覚可能性を擁護しないが、音の不在や美的性質については、筆者の立場である「
高次モード知覚説」を展開することで、その知覚可能性を擁護している。

知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用

知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用

まえがき

序論 見ればわかる?

第1章 知覚可能性の問題
 1 問題の定式化
 2 分析哲学現象学・経験科学
 3 この問題を問う意義はあるのか
 4 知覚理論から存在論と認識論へ

第2章 知覚の哲学の基本
 1 幻覚論法とセンスデータ説
 2 直接実在論としての表象説
 3 現象的性格と透明性
 4 その他の基本事項――関係説・概念主義

第3章 種性質の知覚
 1 知覚とカテゴライズ
 2 本物と偽物は見分けられない
 3 知覚学習と現象的対比

第4章 他者の情動の知覚
 1 素朴心理学
 2 現象学的事実と知覚メカニズム
 3 典型的な知覚とのアナロジー

第5章 不在の知覚
 1 無音の不可能性
 2 音の隙間を聴く
 3 不在知覚説からの応答
 4 高次モード知覚説(1)

第6章 美的性質の知覚
 1 シブリーの知覚的証明
 2 高次モード知覚説(2)
 3 美的性質の実在論が抱える問題
 4 反実在論と知覚のモード

第7章 知覚の存在論と認識論
 1 知覚のモードと傾向性実在論
 2 現象的性格に基づく正当化

結論 何がわかったか?

 あとがき

 文献一覧
 索引


序論 見ればわかる?

知覚の哲学は、(分析哲学では)センスデータ説の失敗により一度下火に
心の哲学における意識の自然化の流れで、近年、復活し盛り上がっている。
現象学では、知覚研究はずっと盛んであり、最近は、分析哲学の研究者も現象学の知見を取り入れている。
知覚の哲学は、心の哲学の下位分野ではない。

第1章 知覚可能性の問題

知覚可能性が問題なく認められるものを「低次性質」(色、形、大きさ、音色、音量、におい、味など、なおここでは、一次性質も二次性質もこちら)
知覚可能性が簡単には認められないものを「高次性質」
と呼ぶ。
高次性質は、知覚可能性が簡単には認められないもの、という非常に緩い基準でまとめられているので、実際に知覚可能性があるかどうかは、個別に議論する必要がある。

3つの見解

これまでの代表的な見解として以下の3つが紹介されている

なかでも、センスデータ説
知識の基礎を知覚に求める
センスデータ説は、心的対象の低次性質は知覚可能であるが、外界の対象がもつ低次性質や、高次性質は知覚できないと考える。高次性質は、知覚ではなく判断・思考によって捉えられるもの

一人称的観点からの経験の記述
むしろ、当然のように高次性質の知覚が認められる
ハイデガーによれば、むしろ、高次性質が先で、低次性質の方が理論的構築物
しかし、現象学は、高次性質が知覚可能であることの説明としては実質がない。
知覚可能性が認められにくい高次性質が、知覚可能であるという議論を行うための動機づけとなるのが現象学

  • 経験科学

神経科学において、高次性質との神経相関項を探す試みはなされている。
しかし、神経相関項が見つかったとして、それが知覚システムなのか判断・推論システムなのかは、脳神経の働きを見るだけではわからない。
理論的・哲学的探求が先立つ。

知覚と判断とを区別する議論を行う意義はあるのか

知覚可能だとすると、それは客観的な環境に属するということになる。もし、高次性質が知覚可能であるならば、高次性質が客観的な環境に属するような存在論が、そうでない存在論よりも正しいということになる

  • 認識論への影響

知覚可能性があると、知覚からの非推論的な正当化ができる
知覚可能性があると、経験論への支持につながりうる

第2章 知覚の哲学の基本

センスデータ説から表象説へ

どうも自分は、センスデータ説についてちゃんと理解できていなかったようで、この章を読んで、そういうことだったのかーと思うことしきりだった。
センスデータ説は、センスデータという心的対象を知覚しているという説
なんらかの性質が意識に現れているとき、その性質を持っている対象が存在しているはず
しかし、幻覚など実在しない場合もあるので、その性質を持っているのは実在する対象ではなく心的対象=センスデータ
でもって、外界のことは直接知覚できない、そこから間接実在論や現象主義が帰結するみたいな話
これに対して、表象説は、知覚とは何かを表象することである、知覚は表象的・志向的であると考える説
センスデータ説との違いは、表象は誤りうるということ
センスデータ説は、何か意識にあらわれているのなら、その対象があるはず、という前提があるから、そのためにセンスデータという対象を持ち込む必要があった。
表象説は、間違うことがありうるということを認めるので、何か性質が意識に現れていても、その性質を持つ対象が存在しないことを許容する。
表象説は、外界に直接アクセスしているので、直接実在論
表象説は、意識の自然化の議論において人気のある説
自然化と表象説については、「現象的性格」と「透明性」がよく話題にあがる
「現象的性格」は、クオリアとか言われたりするものだけど、近年の心の哲学では、これを指して「現象学」と呼ぶことがあるらしい。
「透明性」は、知覚経験そのものは性質をもたないということ。

表象説vs関係説


概念主義vs非概念主義

知覚経験は概念的か否か
非概念主義は、知覚経験は概念よりも肌理が細かいというところから、非概念的だと考える。
概念主義は、知覚が信念の正当化に使われるのであれば、そのための性格を備えている必要があるから概念的だと考える


第3章 種性質の知覚

種性質(ここでは例化されたそれ)を知覚することはできるか
現象的性格が、低次の性質に還元されるのか、還元されないのか
まず、否定派の議論
→本物と、全く同じ見かけの偽物(低次性質は全く同じ)は区別できない
→反論)表象は誤ることがありうる(偽物の知覚は単に錯覚かもしれない)
肯定派の議論
ここでは、シーゲルによる現象的対比という論法
松を見たことがないあなたは、最初松と他の木の見分けがつかないが、人に教えてもらううち、次第に見分けることができるようになった。
最初の頃と、見分けられるようになった後では、松を見たときの現象的性格が異なるだろう
→この差異は、種性質が表象されたか否かの違いである
→反論)この差異は、対象の性質ではなく、知覚経験自体の非表象的性質に由来するかもしれない。前の章で、透明性の議論に触れたが、知覚経験自体に性質があると考え、知覚経験自体の性質(注意の向け方等)の変化が、現象的性格の変化につながった可能性は否定できない
教訓
現象的性格に頼るだけでは、高次性質が知覚可能かどうかは結論が出ない
仮に高次性質が知覚可能であったとしても、低次性質とは異なる仕方で現象的性格に反映されている可能性がある。


この章では、注で、ロペスに触れられている。

第4章 他者の情動の知覚

素朴心理学はどのようにして可能になっているか

情動の知覚可能性

情動は一見、知覚不可能なように思える。それは、自分の情動と違って他人の情動は明らかでないことがあるし、また、自分の情動を他人に対して隠すこともできるからだが、表象説にもとづけば、表象は間違うことを許容するので、これらの理由は知覚不可能な理由にはならない。
現象学的事実にもとづけば、むしろ、情動は知覚可能であるように思える。
近年では、フッサールの付帯現前のアイデアを利用したものや、メルロ=ポンティのアイデアを利用したものがでてきている
ここでは、フッサールの付帯現前のアイデアを利用したスミスの議論が紹介されている。
アモーダル完結という錯視がある。
一部が欠けた円なのだが、それに正方形の図形を重ねると、円として知覚されるというものである。
フッサールによれば、これは「予期」によって説明される。
「ある意味では見えていないが別の意味では見えている」
スミスは、これを情動にもあてはめる。
情動は、振る舞いという知覚可能なものに付帯的に予期されているのだ、と。
これは、付帯現前を拡張したものといえる。
しかし、筆者はここに問題点を指摘する。拡張した際に、本当に「知覚」のメカニズムを備えているかのかという点が維持されているかどうか、疑わしい、と。

高次性質の知覚可能性を示すための戦略

情動の議論をもとに、情動に限らず、高次性質の知覚可能性を示す議論の上で注意すべき点など。
(1)低次性質の知覚と高次性質の知覚との共通点を強調する

  • 意識的推論の不在
  • 強制性
  • 自己中心的な定位
  • 乳幼児の反応
  • 情動の身体性

低次性質の知覚にはこういった特徴があり、これらを共通点として示すという戦略が挙げられる。ただしこれらの特徴は、一つだけ挙げても反論される隙がある。
(2)推論や解釈では説明できない理由を示す
情動の場合、知覚ではなく、推論や解釈を介在させている可能性を否定するような理由が説明できていない。

第5章 不在の知覚

3章と4章とでは、高次性質の知覚可能性について、筆者は中立的な立場であったが、5章と6章とでは、筆者はこれを擁護する
5章で論じられるのは、音の不在である。
「音がしていない」ことを知覚することはできるのか。

反論

その1
完全な無音状態は存在しないので、音の不在は、そもそも知覚する機会がない
その2
否定的な事態は無数に存在しうる。「○○がない」ことに気付くのは、無数の「〜がない」の中から○○に着目した場合である。だから、音の不在は、知覚されるものではない。
その3
知覚には、物理的な刺激による感覚器官の反応が引き起こされる必要がある。音の不在には、そのような刺激がない
その4
ある対象について特定の感覚モダリティで知覚が成立するとき、その対象が当のモダリティに固有の二次性質を備えて意識に現れている必要がある(ex.ある対象が視覚的に知覚されるとき、その対象は必ず色を伴って意識に現れる)
音の不在において、音高、音量、音色といった聴覚に固有な性質を伴わないので、知覚されない。
ところで、最後の部分の注釈で、直接関係ないが「音とは何か」という点について、媒質の振動(音波)と物体の振動説の2つの考え方があることが紹介されている。

現象学的分析

あるメロディを聞くときに、休符となる場所での、隙間としての音の不在を我々は聞いているのではないか。
メロディの経験は、「音の経験」と「音の不在の経験」とがひとつのまとまりをなしていること
現象学的には、メロディを聞く経験を説明するには、音の不在も知覚していると認める方がよい。

カニズムとしての聴覚情景分析

聴覚システムには、聴覚情景分析と呼ばれる、性質が似ている音を音脈というひとまとまりのものとして知覚するメカニズムが備わっている。
音源の情報を獲得するために備わったものだと考えられ、「音がして、音がいったん止み、また音がする」という一連の流れとして知覚することで、「物体が振動し、振動がいちどやみ、また振動する」という音源となる物体の情報として捉えることができる。
音の不在の知覚には、メカニズムが備わっている

存在論

ドーナツの穴の存在論と類比的に、音の不在の存在論が論じられている(依存的性質)

高次モード知覚説

音の不在の知覚を一般化した理論
知覚経験を、知覚されるものと知覚のされ方(ゲシュタルト的まとまりのモード)にわけ、低次性質の知覚を前者、高次性質の知覚を後者で説明する。
高次性質は、低次性質に依存する。
音の不在は、厳密にい言えばモードそのものではなく、音脈がモード
音脈と音、音脈と音の不在は、全体-部分関係にある
音の不在は、知覚モードとしての音脈が知覚されることで、その部分として知覚される。


知覚の哲学は、心理学と形而上学とを結びつける!

第6章 美的性質の知覚

美的な判断は、対象に美的性質を帰属させる。
「あのトマトは赤い」という判断は、あのトマトに赤さという性質を帰属させる
「彼女のダンスは優美だ」という判断は、彼女のダンスに優美さという性質を帰属させる
2つの考え方
(1)美的判断は主観的な意見の表明で、正しいも誤っているもない
(2)美的判断には何らかの正しさの基準がある
本章は(2)を擁護する
そのために、美的判断は美的知覚の正しさに基づくと主張
美的性質は、対象の性質ではないが、対象の知覚に際して意識に現れる(高次モード知覚)

シブリーの知覚的証明

・美的判断はその根拠を問える
・美的性質は、非美的性質の集まりから創発し、それらに依存
・美的判断が下される条件は、非美的性質を使って定義できない
・非美的性質をいくらあげても、美的判断の根拠とはならない
・美的判断の根拠は、美的性質の知覚

推論・直観

美的性質の知覚を論ずるまえに、美的判断は、推論や直観によってもたらされるのではないかという論点について
非美的性質と美的性質との間の法則的な結びつきが定式化できないのであれば、推論を用いているとは考えにくい
直観は、抽象的なものについての信念を正当化するときに用いられるが、知覚によって正当化できるのであれば、直観を持ち出す必要性は低い
としている。

美的判断の不一致に由来する問題

レヴィンソンは、美的判断の不一致と美的性質の実在論を調停するために、美的性質を関係的性質とする。つまり、対象のもつ非美的性質と鑑賞者のもつ趣味とに付随すると考える。
対して、筆者は、美的性質をゲシュタルト的なものととらえ、知覚体制化という知覚作用によって説明する。ウサギ/アヒル図形は、低次性質は同じであるのに、それらをどのようなゲシュタルトとして知覚するかという知覚作用の違いによって、意識に現れる図形が変化する。美的性質も同様で、非美的性質は同じでも、それがどのように知覚的にまとめられるかの違いによって、意識への現れ方が異なる。
そして、知覚体制化によって説明するのであれば、美的性質の知覚と実在論とを結びつける必要がなくなる。判断の不一致と齟齬をきたしていたのは、実在論の方なので、実在論を拒否すれば、不一致の問題を引き受けることなく、知覚説を擁護できる。

知覚体制化

知覚体制化によって引き起こされる現象的性格の変化は、信念や判断の変化とは独立している。また、自律性がある。このことから、判断ではなく知覚だといえる。
また、過去からの経験が影響する点を説明できる。

フレーゲ的表象説

心的表象の現象的性格をどのように扱うかの2つの理論
(1)ラッセル的表象説
知覚経験の内容は、対象と性質から構成されている。知覚経験には透明性がある。
(2)フレーゲ的表象説
知覚経験の内容は、対象と性質の与えられ方(モード)から構成されている。
知覚されている事物が同一でも、現象的性格が異なることを説明できる。

美的性質の知覚説と反実在論

美的性質の知覚は、対象がもつ非美的性質を表象するためのモード
対象がもつのは非美的性質だけで、美的性質はもたない(判断の不一致を説明可能)
また、美的性質が、非美的性質に集まりから創発し、それらに依存するという点も説明可能。非美的性質に還元されないが(創発)、非美的性質があるからこそ美的なモードとしてまとめられる(依存)。
フレーゲ的表象説により、反実在論と知覚説の両立が可能に!


第7章 知覚の存在論と認識論

高次モード知覚説がもつ、存在論的懸念と認識論的懸念に応答する
基本的にはどちらについても、高次モード知覚の場合、その知覚は、対象のもつ性質ではなく、知覚経験の側のモードによるものなので、環境に根拠がないということになるのではないか、と。
高次性質の知覚可能性が肯定的に論じられると、存在論的には、その性質の存在が、認識論的には、その判断の正当化に資するというメリットがある。しかし、高次モード知覚説は、そのような存在論や認識論からの期待に応えられないのではないか、という懸念。
これに対して、確かにそのままの意味では存在していないが、傾向性として環境側に存在していると論じている。

結論 何がわかったか?

いくつか述べられているが、そのほかの高次性質への応用について述べられている
高次モード知覚説は、種性質の知覚にも応用できるかもしれない。
ところで、注意点として以下のことが指摘されている

種性質が知覚可能であるとしても、知覚的意識に現れる現象的な犬性と、犬が実際にもっている自然種としての犬性は、存在論的に異なるということだ。(中略)現象的な高次性質は、高次性質についての判断を非推論的に正当化するが、それ自体は対象には帰属させられないのである。(p.232)

これってキャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』 - logical cypher scapeの環世界センスと科学的分類の齟齬の問題を考えるうえで、非常に示唆的というか、ほぼ解決しているよね

意識の自然化と高次モード知覚説の関係

今のところ、自然化に対して中立的
ゲシュタルトを自然化できるかどうかに依存している、と。