村上裕一『ゴーストの条件』

ゼロアカ道場優勝者である村上裕一によるデビュー作。
これで長きにわたったゼロアカ道場企画も本当に終結したと言える。
キャラクターというものが現代オタク文化の中で拡散している様をゴーストという概念で捉え直し、そのリアリティを批評している本。
三部構成で成っており、第一部はアイドル論から接ぎ木する形でキャラクターについて、第二部は2chニコニコ動画における創作からゴーストについて、第三部はノベルゲームなどの作品論を通じてキャラクターの生について論じられている。


なんだろうな、自分だったら絶対こうは書かないだろうとも思うのに、それから取り上げられている作品についても知らない*1ものの方が多いのに、すごく共感してしまうというか、考えていることが似ていると感じるところが多かった。
そういう意味で実に刺激的であった。
明晰さを追求する哲学・思考を触発する哲学 - Togetter
というのがあって、人文系(主に哲学)を明晰な文章を求める分野と思考を触発する文章を求める分野にわけている。
その分け方で考えると、批評というのは明らかに後者である。そしてこの本は実に批評であると思う。

第1部

第1部は、アイドル論から幕を開ける。戦前の天皇こそが、国民の象徴としての機能を果たしていた→しかし、戦後は象徴性というのはアイドルが担うようになる→しかし、アイドルもまた象徴性を担えないようになっていく(いわゆるモダンからポストモダンへ、大きな物語の崩壊という奴)。さて、注目すべきは80年代。「山口百恵は菩薩である」という批評が書かれた直後に、「音無響子は女神である」と主張する批評が現れる。アイドルからキャラクターへ、という線がここに引かれる。
さて、ではキャラクターとは何なのか。
「キャラクター」と「虚構の登場人物」を区別することで、このことに答えようとしている。
ここでは伊藤剛による「正ちゃん」の議論、蓮実重彦の小説『陥没地帯』、谷川流『凉宮ハルヒの憂鬱』があげられて、「キャラクター」が「虚構の登場人物」から区別されるものであることが論じられていく。そこでは、コードの違い、そして固有名で名指されることがキャラクターの必須条件としてあげられ、東浩紀『キャラクターズ』に固有名論の実践を見ている。
この、「虚構の登場人物」から区別することから始めるというのは、いいなと思う。つまり、それは<キャラ立ち>ということに対応している。伊藤剛が<キャラ立ち>ということに着目したのは、二次創作によって、一つの物語だけでなく他の物語にも存在できるというところからである。「虚構の登場人物」から区別する、とはさしあたって、一つの物語から独立することだと言える。
ただし、その意味が『陥没地帯』の読解によって、さらに上の次元へと持ち上げられ、後のゴーストの議論へと繋がっていくといえる。つまり、一つの物語からの独立、だけではなく、虚構からの独立である。
さて、第一部は「固有名の哲学」と題されている通り、「固有名」というキータームによって進んでいく。
しかし、僕は「固有名」というキータームに惑わされてしまっているのではないか、と思う。


第1部の固有名の議論については、既にtwitterでちらほらと書いたが、固有名の議論は、分析哲学におけるそれと日本の文芸批評におけるそれとに分かれて成立してしまったのではないかという気がする。なので、まあ大体あっている気はするんだけど、なんか違和感があるということの要因を村上くんに帰するのもおかしい気がしている。というか、批評文脈におけるそれとして捉えれば、おそらく違和感がないのであろうと思えるから。
どこで分かれてしまったかというと、クリプキ論において固有名の指し示す「剰余」が、「単独性」であるとしているあたりではないかなと思う。この「単独性」っていうのが一体何なのかは柄谷をちゃんと知らない僕にはよく分からないところもあるのだけれど、いわゆる「数的に同一」って奴のことかなあとか思っている。確かに固有名はそれも指示しているだろう。しかし、別にそれ以外のものを指示していたって別に構わない。クリプキが固有名とは固定指示子であるというとき、それはあらゆる可能世界で同一の個体を指示しているということを言っている。で、面白いのは、この固定指示子の議論は別に固有名に限らず、一般名詞に対しても適用されているということ。例えば、動物の「虎」という名詞もクリプキは固定指示子だと言っている。「虎」は、どの可能世界でも同じものを指示しているわけだが、その時、虎の「単独性」なるものが必ずしも前提されているわけではないだろう*2
さらにいうと、クリプキの固有名論の肝を訂正可能性に見るということ自体が、誤読ではないかなあと思う。彼は、どの可能世界でも同じであるような必然的性質があると考えているので。例えば、水がH2Oであることは必然的だとクリプキはいう。水が実はXYZだったという可能世界はないのである*3。これを固有名の議論に使っても、クリプキの議論は全く問題なく成立する。というか、「シノハラユウキは実は人間ではない。」みたいな訂正は、クリプキ的には認められないような気がするんだけど、どうだろう。
固有名の議論というのは、あくまでも言語哲学上の議論であって、形而上学的な議論ではない。なので、固有名の議論そのものには、「必然的性質」とか「単独性」とかの形而上学的概念を出してくる必要性はないはずである。
ただし! クリプキの重要なところは、言語哲学をやっていると形而上学が引きずり出されてきてしまうことを示したこと*4。どの可能世界でも同じものって一体なんやねんっていう、形而上学的問いは当然したくなるわけだから。それを「単独性」と呼ぶのは、さしあたって構わないかもしれないけれど、それは固有名の議論の次に出てくる議論。別に固有名に神秘性とか何とかがあったりするわけではない。


あたかも、「固有名」に魔法や神秘性があると思ってしまうのは、やはり何か違うのではないだろうか。固有名に魔法があるとするとそれは、対象を指示していることにあるのであり、固有名によって指示されている対象の方の性質(「単独性」などの神秘的な性質)は、固有名によって引き出されるわけではない。
つまり、魔法や神秘性を持っているようなものが何かあり、それがたまたま「固有名」によって名指されたり、「固有名」を巡る言語使用を分析することで浮かび上がったのではないかと思っている。
「キャラ」についても同様で、伊藤剛も含めて、固有名に惑わされてしまったのではないかとちょっと思っている。しかし、伊藤剛のキャラ論は固有名だけを重視しているわけではなくて、時間的同一性にキャラの成立を見ている。僕はどちらかといえばこちらが重要だと思っている。つまり、キャラの有している性質というのは、時間的同一性なのであり、それが確立されてくると、固有名によって名指されるようにになるのではないだろうか。固有名をむやみに重視するのは転倒に思える。
「コードの違い」については、ちょっとあんまり考えていなかった。これはキャラクターが虚構の登場人物から「キャラ立ち」する際の話であり、こちらも大事な気がするので、今後考えておきたい。
さて本書は、固有名とコードの違いの関係が必然的であることを示すために、小説作品(それは文字だけなので、視覚的な図像のコードの違いは無視できる)、つまり『陥没地帯』を取り上げるわけである。
僕はこの作品を読んでいないので、ここでの村上の記述からこの作品を推し量るしかできないのだが、村上はこの作品の時間構造についても触れている。もしかしたら、この時間性への着目からも、「群生植物」たちの振る舞いを理解できる道があるのではないのだろうか。
少なくとも僕は、キャラクターについては、固有名でごり押しするよりも、時間性を含めた様々な性質や構造(?)から考えていきたいと思っている。無論、固有名が重要ではないということではない。固有名だけでキャラクターは説明できないということである。時間性についてもまた同様であり、その点については、小田切博のキャラクター分析に負うところが大きいというか、蒙を啓かれたところがある。伊藤のキャラ論を時間性に着目して展開するということについては、既にいくつか書き散らしている。


第一部は最後に、「モーニング娘」と「AKB48」の話が出てきて、この話自体は面白いんだけど、ここで「固有名」って言葉をストレートに持ってきてしまうのは、やっぱり議論の飛躍がある。「固有名の象徴性」とか「強い固有名」とかが出てくるけど、これは僕には比喩的な表現にしか見えない。比喩的というか、ここでは固有名はブランディング力みたいな意味で使われていて、「固有名が強まる・弱まる」という表現は、「アイドルのグループ名(固有名)のブランディング力が強まる・弱まる」と言い換えると、意味がすっきり通ると思う。だから、ここの「モーニング娘。」や「AKB48」の話は、ブランディング力を維持するために、ダイナミズムとメタボリズムによるメタゲームをやっているという議論であって、それまで続けてきた固有名の話とは別の議論をしている。だから、固有名はキャラクターとメタゲームに分かれているという結論は、まあ当たり前の話ではある。ところで、こうしたダイナミズムとメタボリズムによるメタゲームを繰り返しているような集団の同一性って一体何ぞや、というのはそれはそれで(分析)哲学的議論として立ち上げることが可能で、そういう意味で面白く読んだ。自分は全然そこらへん勉強していないわけだが、共同行為とかそこらへんの話で、多分『自己欺瞞と自己犠牲』に載ってる(未読!)。


第一部には、Appendixとして、「イブの時間」「ジョジョの奇妙な冒険」「マブラブ」についての作品論が付されている。
僕はこの中でまともに知っているのは「イブの時間」だけなので、ちょっと省略。
ちょっとだけ。「イブの時間」論について、twitter上にアンドロイドとキャラクターを類比的に見るやり方に驚いている人がいたけれど、これは大塚英志伊藤剛ラインからすると、当然出てくる見方だと思うし、瀬名秀明とか飛浩隆の日本のSF小説にもそういう風に読める小説がある。自分もこういうテーマでちらちらと書いたことがあって、実は一番好きなテーマだったりする。
じゃあ、村上「イブの時間」論は凡庸かというとそうではなくて、テックスがルールを二重に破っているために水子的であるという指摘が、よかった。そして水子の話は、第三部へ。


まだ、第一部についてしか書いていないのに、力尽きそうになっている。
第二部が一番面白かったと思っている。まあ、その理由の大半は、自分がニコ厨だからかもしれないのだけれどw

第2部

第二部は、データベース消費と物語消費の話から始まり、東が示しているのが「キャラクター→データベース」という構図だとして、さらにその寓話として『仮面ライダーディケイド』を挙げる。そして、ついにゴーストが「データベース→キャラクター」だということが述べられるわけだが、順序としては次にコミケについての簡単な歴史が論じられている。第一部の最初にあったアイドル論の言説史とかこういうのとかは、あまり詳しくないので、普通に勉強になった。自分はこういうことが全然できないので。
続く第2章では、各種wiki*5について触れられ、それが「非現実を描く辞書」になっていることと、「都市伝説的感性」というものが挙げられている。ここでは、「もうひとつの現実」という言い方がされていて、一方で本書は以降もARという語が出てこない。ここなんかも、自分だったら書き方としては逆になるなあと思うのだが。しかし、ここでARとは言わずに「都市伝説的感性」とか言うのは、文芸としての「芸」だと思う。
まあそれはともかくとして、僕はこの章が結構好きで、「wikiは「もうひとつの現実」の記録を始めている。」という一節には、思考を触発される。
この手のwikiとかにはあまり詳しくないし、現実と非現実の曖昧化というような言い回しでは表現したくないのだけれど、こういうあたりのことを、うまくフィクション論として面白く捉えられないだろうかなあというのは、今考えているところ。


そして続いてやる夫論。ここがゴースト論の中心で、まあとりあえずゴーストとは何かということを知りたければ、ここを押さえればよい。AAの解像度が上がって差分が描けるようになったとする分析の細かさとか、やる夫を介して他のキャラクターもがんがんゴースト化していくんだとかいう話とか、普通に面白い。


そしてニコニコ動画
これはアイマス・東方・ボカロの御三家を中心にして、いかにニコ動というのはキャラクターをゴースト化していく場、創作共同体であるのか、ということが論じられていく。
僕がニコ動を積極的に見始めたのは09年で、こっちではそれ以前、07、08年頃の話がなされているので、普通に勉強になったというか、そうだったのかーと思いながら読んだ。東方なんかは今でも全然知らないのでそこらへんも含めて。
というか、さすが『最終批評神話』を作った村上だ、よくこれだけ見ているな、さすがすごいな、と思った。ニコ動初期からのニコ厨であれば、もしかしたらそれほどすごいことではないのかもしれないし、いやいやこっちだろうとか色々あるのかもしれないけれど、ニコ動御三家論を批評としてこれだけ書けるっていうのは、他にはあまりいないのではないのかなと思う。
また、ニコ動についての批評というと、今までは濱野智史福嶋亮大によるものが主だったわけだけれど、アーキテクチャだったりなんだったりしたわけで、ここまでニコ動文化内部からの視点で書かれたものはなかったのではないだろうか。
ののワさん、たこルカ、ゆっくりとは一体何なのか、というのはとても重要な問題で、それの一端に触れられていたのはよかったと思う。ただ、そこらへんはちょっと物足りなかったところも感じていて、もっとこの3つについてページ割いてくれてもよかったかなとも思っている*6
しかし、御三家に限らず、ニコ動関連のところは全て、どう書いていくか難しかったんだろうなあという気がした。
どれくらい知っている人を対象にするのかのバランスが、一番とりにくい部分だったのではないかなと。基本的な事項の説明にずいぶん費やしているやなあと思うところや、そこは説明飛ばすのかあと思うところがあったり。


そしてMMD
思考を触発する、という意味で、ここがもっともよかったかな。
というかこの章は、「ダンスとはいわば身体の聖地化である。」という一節に尽きている、と思う。
ここでは「聖地」というのを、土地にこだわらず現実と虚構を繋ぐ狭間として定義しなおしている。これは先ほどの、各種wikiにおける「非現実を描く辞書」「都市伝説的感性」ともつながっているし、キャラクターが虚構から独立した存在であり、それがさらに拡散してゴースト(キャラクターのデータベースのキャラクター化)となっているということとも繋がっている。虚構がただの虚構にとどまらない現在の状況、特にゴースト化したキャラクターによってそれが顕著になっている状況、というものが本書の現状認識であり、またそれは僕が興味関心を抱いている状況でもあるからだ。様々な違いが僕と本書にはありながらも、考えているところに似たものを感じるのはこのためだろう。
さて、上にあげた「ダンスとはいわば身体の聖地化である。」に戻るが、とてもクリティカルな一節だと思う。
もう一度言うが、ARという語をいっさい使わなかったのは、成功していると思う。そしてこれが、他ならぬダンスについてだということも。僕は以前、同じくハルヒダンスについて触れつつ、それを女の子になりたい欲望と述べたのだが、聖地化はそれのさらに先へ行っている。言われてみればその通りなのだが。
僕としては、もちろんここでごっこ遊び論をかぶせたくなるわけだが、それはここでは余力がないのでやめる。


ところで、UTAUのカテゴリ問題を改めて考える - 煩悩の反応学のような議論がある。
VOCALOIDカテゴリが独立したことによって、UTAUがカテゴリ難民になってしまったという件である。
本書では、アイマス、東方、そしてVOCALOIDが、何故「殿堂入りカテゴリ」として特別のカテゴリにされたのかということについても論じている。
例えば、ののワさん、ゆっくり、たこルカのような非常にゴースト的なキャラや、あるいはMMD的な思考(MMDはやる夫同様、次々と他の作品のキャラクターを取り込む)に、村上はメタユートピア性を見出す。つまり、ここではジャンルがごく自然に混淆している。ゴースト的=聖地的=MMD的=ニコニコ動画的なジャンル混淆型ジャンルとして「御三家」や「例のアレ」があるのであり、これらが「殿堂入りカテゴリ」という特別なカテゴリとされているのは必然なのだ、と。
また、VOCALOIDにおけるそのような特徴として、重音テトを見ている。UTAUとVOCALOIDは確かに別物であるとしながらも、テトを介しての緩やかな繋がりを見ている。曰く「テトは初音ミク以上に初音ミク的なものを表現している。」「ボーカロイドとして生まれUTAUに生きるような重音テトというハイブリッドな存在を介在させることで緩やかに繋がっていることは間違いない(だからこそ「嘘の歌姫」は象徴的だった)。/ここでテトは部分的に共同体を再編成するような役割を担っている。しかし、彼女の到来を意味するのは、そのような共同体が解体される契機でもある。」


第3部は最後に、やってみた系、ゲーム実況、ニコ生、twitterなどの触れている。
これは今までの議論を反転(?)させるようにして、ニコ動における「人間」について論じているわけだが、特に最後のニコ生、twitterのあたりは走ったかなあという印象。

第3部

第三部は一転して、作品論が続く。
知っている作品もあったけど、やっぱり知らない作品の方が多かったかな。
水子というのは、生まれるはずのなかったキャラクターというような意味で、そういう存在がいかに生きるべきかという議論。
Kanon』『ローゼンメイデン』『Air』『CloverPoint』、SoundHorizenの楽曲、『Fate/stay night』『ひぐらし』『うみねこ』『クォンタム・ファミリーズ』が取り上げられているのだが、後ろにいくについれて取り上げられている作品自体の複雑度があがっていくので、そもそも作品を知らないと、村上の記述だけだとついていくのが難しくなっていく。
サンホラ論までは面白く読んでいたのだけれど、そのあとからつらくなってきて、『ひぐらし』はやったからよかったのだけれど、『うみねこ』で死んだw 記述が進むにつれて、「実はこういう人物がいて」っていうのが増えるので、まず登場人物からして把握できないw 『ひぐらし』の次はこんなことをやっているのかーと思いながら読んだけれども。
あとここらへんから、僕と村上論とで興味の範囲がずれていく、というか、元々もっていた動機の違いみたいなものが現れてくるところでもあった。
あと、そもそもあらすじが複雑な作品を扱っているせいもあると思うけど、分析手法があらすじを追うこと中心になってきてしまっている感じがあった。ここまでは、物語だけに拠らない分析を色々したのに、物語ばかりに着目して分析するとなんかちょっと退屈してしまうところがある。サンホラ論が面白かったのは、サンホラを論じるには物語だけでなく、アルバムの構成やライブなどの部分にも言及しなきゃいけなくなっているからかもしれない。
ローゼンメイデン』のあたりの少女の人形性ってあたりは、あとでもう一回考える。ちょっと力尽きてきた。ここらへんは、「イブの時間」論的な話とも繋がってくるだろうし。
サンホラ論は、サンホラちゃんと聞いたことなかったので*7、結構複雑なことをやってるのねーと興味がわいた。イヴェールの水子の水準って面白いなあと。
最後の『クォンタム・ファミリーズ』については、すごい細かいことを一点。「固定指示子」って単語が出てくるんだけど、これはもちろん元はクリプキの議論に中に出てくる専門用語だけれど、小説の中ではそれを受けて小説的な使い方をしていたはず。この本は、第一部でクリプキを用いた議論をしているので、一応そこの区別について注意書きがあった方がよいのではないかなと思った。


そして、「終わりに」では、『カイジ』と『まどマギ』が触れられていて、『まどマギ』論よかった。
まあこれは講談社BOXのサイトで読めるので
かなり想いのこもった文章なんだなあというのが分かって、それだけでぐっとくるよねw
最後のシメとか、やりすぎじゃないのって感じもあるかもしれないけれど、ここまで村上の文章を読んできたのであれば、全然受け入れられるし、こういうのは個人的には素朴に好きだったりする

その他感想

僕は、村上論でいうところの「聖地」とか「水子の水準」とかいったものに興味があって、僕はそれを以前「眩暈」という言葉で言い表していたつもり。
それは、フィクション作品が統一した秩序から逸脱して、メタレベルとオブジェクトレベルを攪乱するようなことを起こしている相のこと。僕はそれが、フィクションの最たるフィクション性だと思っていて、「リアリティ」という語で表現したけれど、もはやリアルと関係しているわけではないので、なんか別の言葉があればいいなあとは思っている。ARってのは、ひとつのヒントになるとは思っているけれど。


自分としては、おい、似たようなことは俺も書いているぞ、みたいなことを思うところもあって、それは何というか励みにもなるし、刺激にもなるし、悔しさにもなってる。
ただ、取り上げているもののチョイスとか、そこに至るまでの様々なものの摂取量とか、いわば批評家力的なものが*8桁違いに僕より高いので、素直に敵わんなー凄いなーとも思う。
自分はこれを受けて何をするか。もし僕にそういう能力があるのであれば、明晰化したいと思うし、あるいはここまでいくつか述べてきたとおり、もっと深く掘り下げて欲しいという論点についてやってみるとかじゃないかと思う。
(ところで、俺はこんなことを書いてしまって大丈夫なんだろうかw 自分で自分の首を絞めているだけじゃないかww)
あ、あと、これを受けて何をしないのか、というのもある。
読んでいる最中に思っていたことはむしろこっちかも。似たようなことを考えているというのは、前から多少分かっていたことでもあるので、こういう仕事をしてくれるのはそもそも期待していたわけで、そしておおむね期待通りのことやってくれていて、今後自分が何か書く時に、これについては『ゴーストの条件』を参照のこと、とか書きまくれるなあ、とかそういうw



そうそう、表紙がイラストも含めてよかった
あと、デザインで印象に残ったのは目次。あの詰まっている感とか、横書きなこととか。


ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力 (講談社BOX)

ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力 (講談社BOX)

*1:タイトルは大体どれも知ってたけど、内容を知らない

*2:っていうか、「虎」の単独性って単純に意味不明である

*3:その世界ではもしかしたら「水」と呼ばれているかもしれないが、我々の世界で使われている「水」という語は、その世界の水(XYZ)を指示しない。パトナムの双子地球の議論も比較してみたいところ

*4:まあ、ラッセルも別に言語哲学形而上学を分離できるとは思ってなかったはずだが

*5:wikipediaではない

*6:たこルカはなんであんなにクリーチャーなのに可愛いのか、とかw

*7:人がカラオケで歌っているのはよく聞くんだが

*8:今、批評火力って変換されたんだけど、それでもいいかもしれないw