青山拓央『分析哲学講義』

ちくま新書から出た分析哲学の入門書。
分析哲学の入門書というと、先日、講談社選書メチエから、八木沢敬『分析哲学入門』という本も出ているが、この両者はある意味ではよく似ているし、ある意味では結構違う。
どちらも分析哲学とは何かというところから始め、言語哲学について説明したあと、クリプキを挟んで、心の哲学形而上学へと至るという構成になっている。
新書と選書という違いはあるが、どちらも大体同じページ数であり、コンパクトながらもぎゅっと詰め込まれている。どちらも入門書として丁寧に書かれていると思う。
両者の共通点として、入門書としては珍しく、筆者の自説が展開されているところもあるだろう。青山本におけるそれは後述するが、八木沢本では例えば様相実在論の主張などがそれにあたる。


この両者の違いはいくつかあるが、まずは文体の違いが大きいだろう。
心の哲学における機能主義について説明しているところから引用してみる。

会社をコンピュータにたとえれば、インプットが資本でアウトプットが商品。それを売った利益の一部が再投資としてまた会社へのインプットになり、残りが給与や配当として雇用者や株主へのインプットになる。このたとえをE子に当てはめれば、知覚による経験がインプットで身体の動きがアウトプット。そのアウトプットとして遂行された行動が周囲に影響をあたえ、その結果新しい知覚経験がまた自分自身にインプットされると同時に、周りの人びとへの同様のインプットにもなる。
(八木沢本、p.116)

指先をナイフで切る、という出来事をAと呼び、指先を止血し、うめき声をあげ、涙を流す、といった行動をBと呼ぶことにしましょう。このとき、指先が痛いという心の状態は、Aを原因とし、Bを結果とする、機能的状態として理解されます。比喩的なイメージとしては、Aを入れるとBが出てくる機械の箱のようなものです。
(青山本、p.206)

どちらの本も、できるだけ平易に分かりやすく書いていると思うが、上記を見比べてもらえば分かる通り、その実際の書き方は結構差がある。八木沢本の方が癖があるかなあという気はするが、そこらへんのあうあわないは人それぞれのような気がする。青山本だと難しく感じる、という人もいるだろうし。


内容的な違いもある。
一番大きな違いとして感じたのは、ウィトゲンシュタインの扱いの有無ではないかと思う。
青山本は、ウィトゲンシュタイン(前期、後期ともに)を取り上げており、前半のクライマックス的な位置付けにあるともいえる。一方、八木沢本にはウィトゲンシュタインへの言及は全くない(はず)。
取り上げているトピックの数は、八木沢本の方がちょっと多いかなと思う。認識論、数学の哲学については八木沢本の方でしか取り上げられていないし、形而上学についても同一性や曖昧性といった話題にページを多く割いているのは八木沢本である。
もっとも、その分、青山本の方が言語哲学のあたりは充実していて、フレーゲラッセル、ウィトゲンシュタインクワイン全体論あたりの説明は、圧倒的に詳しい*1。量化論理、規則のパラドックス全体論あたりは八木沢本ではなかったはず。それから、形而上学についていえば、時間論を取り上げているという特徴がある(これは特に青山の専門が時間論だからということがあるだろう)。
何を取り上げている、取り上げてないというのを言い出すと、おそらくはきりがなくなるのかもしれないが、ついでに言っておくと、両者ともにデイヴィドソンが取り上げられていなかったと思う。それから、科学哲学もないか。
このように、一方では取り上げられていて、他方では取り上げられていないというようなことがあるので、出来ればどちらも読んでおくとよいのではないか、と思う。ただ、どうしても2冊のうち片方しか読めないんです、どっちがいいですか、というのであれば、青山本の方を薦める、かな。

講義1 分析哲学とは何か

八木沢本では、概念分析という手法について、実際に非常に簡単な例をやってみることで示していた。
青山本では、対象、手法、歴史の3つの観点から分析哲学について示そうとする。手法についていえば、それが他の学問とはどのように違うのかということに着目している。
この章の最後で、哲学は役に立つのかという節がある。短いけれど、ちょっと感動的。ここで社会的な有用性とは別に、個人的な有用性について触れられている。放っておいても哲学をしてしまう人がいる。

彼らにとっては哲学の一番の有用性は、哲学の存在そのものです。(中略)このことは大げさではなく彼らにとって僥倖であり、少なくとも彼らの人生においては、何が有用で何がそうでないかの基準自体を変える出来事なのです。

講義2 意味はどこにあるのか

まず、意味のイメージ説(意味の心像説ないし観念説と同義)に対するフレーゲウィトゲンシュタインによる批判が紹介され、次いで意味の指示対象説が紹介されるが、こちらにも問題点があることが論じられる。単純な指示対象説は、普遍者や文の指示対象についての問題を考えなければならなくなる。

講義3 名前と述語

ここでは、フレーゲの述語論理(文を関数として扱う、量化)とラッセルの記述理論が取り上げられ、さらにラッセル的分析を存在論へと展開したクワインの分析にも触れている。「存在するとは、変項の値になることだ」というクワイン存在論*2。ここらへんは、言語と世界の関係についての分析哲学ならではの捉え方というものが感じられるのではないだろうかと思う。ぞくぞくしてくる感じがある。

講義4 文脈原理と全体論

フレーゲの文脈原理→ウィトゲンシュタインの『論考』→論理実証主義の検証主義→クワイン全体論
科学哲学がないと先述したけど、ここらへんは科学哲学でもあるか。観測の理論負荷性とかデュエムクワインのテーゼとか。
言葉と世界の関係という点でぞくぞくするのはやはり『論考』。
あと、全体論と分析的/綜合的の区別はないということへの説明が面白かった。

講義5 意味はどこに行ったか

ここで取り上げられるのはウィトゲンシュタインの『探求』
規則のパラドックスの話と私的言語の話。
そして、実践の一致という無根拠な「底」について。
この章だけで、結構ウィトゲンシュタイン入門になっていて、読み応えがある。
筆者は、「底」を原初的自然と呼ぶ。ウィトゲンシュタインは、「底」をのぞき込むことに哲学的問題を見出すことを錯覚とたしなめて、その上で成される実践=言語ゲームの記述こそが哲学だと論じてはいた。しかし、哲学はやはりそのような記録に終始するだけのものではないのではないか。当のウィトゲンシュタイン自身がたたの記録にとどまることができなかったのではないか、と筆者は述べる。

講義6 二つの自然と、意味の貨幣

講義5で論じられた、ウィトゲンシュタイン的な意味での「原初的自然」と、クワインによる哲学の自然化の議論における「科学的自然」。この章では、入門書的な性格を捨てて、筆者自身の議論が展開される。
「自然」への接近は哲学にどのような変化をもたらすのか。そして「原初的自然」と「科学的自然」は実は渾然一体とした「自然」なのではないのか。
意味の両替というものを考える。それには正しい両替と不正な両替がある。私秘的な言語観が批判されるのは、この正しい両替と不正な両替の区別ができなくなってしまうからだ。しかし、私秘的な言語観に立っても、その区別は成り立つのだと主張することは可能だし、また公共的な言語観に立つとしても、それで即座にその区別が可能になるわけではない。そこには規則のパラドックスがあるからだ。無根拠な実践の一致によって、その区別は可能になる。では、その一致はどのようにして一致だということができるのだろうか。ここに、実践の一致という原初的自然と、それを支えているはずの同一性の問題に関わる科学的自然が、渾然一体なものとして捉えられる可能性がある。
筆者は、ヒュームによる因果の議論(因果は実在せず習慣であるというもの)も同型の議論だと捉える。
哲学の科学化、だけではなく、科学の哲学化という両方のベクトルが進むことによって、この2つの自然を1つのものとして探求する日が来るはずだと論じている。
このような2つの自然の捉え方は、鬼界彰夫の『生き方と哲学』と比較してみると面白いかもしれない。鬼界本は、「原初的自然」>「科学的自然」という立場に思える。

講義7 可能世界と形而上学

60年以降の分析哲学について、この種の概説をするのは難しいでしょう。分析哲学の流れは複数の流れへと枝分かれし、どこまでが分析哲学でどこからがそうでないのかさえ、見分けることが困難だからです。(中略〜言語行為論や真理条件意味論について簡単な言及〜)ここで私は、ソール・クリプキの『名指しと必然性』(1972)という本を、20世紀後半における分析哲学の中継点・転回点として仮に定めます。(中略)『名指しと必然性』における転回は、論理実証主義とその前史・後史に顕著な、形而上学への強い疑念をあっさりと無視している点と、同時に、やはり強い疑念の対象であった様相概念を全面的に用いている点に現れます。そこには、なぜそうすべきかについての明確な論証があるわけではなく、新しいスタイルのもとでの見事な「演奏」*3があるだけですが、その演奏に魅せられた人びとは新たなスタイルを徐々に取り入れていきました。

可能世界意味論→固定指示子→同一性の必然性→指示の因果説*4本質主義
『名指しと必然性』は色々な議論のパッチワークであることが今は分かってきていて、例えば「固有名は記述に依存せずじかに対象を指すという話と、形而上学的様相や本質の話は、今日では独立した話と見なされるのが普通です。」らしい。
自然種名についての必然性について→時空的同一性が重要になっている
クリプキ的な約定による様相の捉え方は、現実世界を私的な――私世界的なものと捉えている。可能世界論と、講義6でなされた原初的自然論の接続

講義8 心の哲学の眺望

ここでは心身問題、クオリア問題、他我問題についてまず紹介される。
最後に、サールが人称的二元論を持ち出したことについて触れられる。サールは、一人称的な存在論と三人称的な存在論とに区別し、これによってこれらの心の哲学の問題は解決されると論じた。筆者は、サールによるこの区別を支持しつつも、この区別は問題の解決ではなく解決に向かう出発点だとする。

講義9 時間と自由

時間論といえばマクタガート。ただ、マクタガートの解釈は色々あるらしく、ここではダメットによるマクタガート解釈をベースに進められる。
時間論における対立として、「今はある」のかないのかというものがある。
「今」という特別な時点はあるのかないのか。我々の日常的な直観としては当然「今」はある。しかし、実はこの考えには色々と欠陥があって問題点を指摘できる。ところで、そこで筆者は以下のように注意を促す。

講義室でのみ「今はない」と言うことは、ある意味、簡単なことでしょう。(中略)しかし、今がないことを心から信じ、生活のどの場面においても、それと整合的な信念をもつことは容易ではありません。(中略)哲学と日常での二枚舌を使わずに、自由、責任、生死などについての自分の考えを点検し続けなければなりません。哲学用の信念と別に、日常用の信念を保持すれば済む、といった話ではないのです。

また、この「今」の問題に続いて、「時間の矢」(流れる方向がある)の問題についてもエントロピーに触れながら論じている。
最後に、現在筆者が取り組んでいる、自由と選択に関わるともいえる「分岐問題」について紹介されて終わる。

文献紹介

各章に関係している、日本語で読める入門書が紹介されていて、とても充実している。
このあとにどの本を読めばいいのかが、分かりやすい。


分析哲学講義 (ちくま新書)

分析哲学講義 (ちくま新書)

*1:細かくなるが、青山本ではスルーされたタルスキを八木沢本がフォローしている

*2:これ、八木沢本では言及はあったが解説はなかった

*3:筆者は1970年におけるクリプキの講演をジャズにおける『ビッチェズ・ブリュー』に喩えている

*4:全ての固有名が固定指示子であるわけではないし、例外的に記述にも固定指示子がある、とかいう話も