鬼界彰夫『『哲学探究』とはいかなる書物か――理想と哲学』

全3巻が予定されている「ウィトゲンシュタイン哲学探究』を読む」シリーズの第1巻にあたる
『探求』の§89~§133にあたる部分を読み解く
なお、第2巻では§134~§242、第3巻では§243~§693を扱うことが予告されている。
この§69~§133にあたる部分を本書は「哲学論」と呼び、ウィトゲンシュタインが『探求』においてどういうことをやろうとしているのかが書かれた部分だとしている。
筆者によれば、『探求』はその部分部分については解釈が進んでいるけれど、全体として何を言おうとしている本なのかという解釈がまだ定まっていないという。本書は、まさにその『探求』が全体としてどういう本なのかについてを扱っている。
広く知られているように、ウィトゲンシュタインは『論考』に代表される前期と『探求』に代表される後期とがあって、前期の考えは間違っていたと考えるようになって後期へと舵を切ったとされるわけだが、本書では、ウィトゲンシュタインが『論考』の一体何について間違いだと思ったのか、そして、その間違いを『探求』においてどのようにして正そうとしたのか、という点を読み解いていくことになる。
その間違いは、理想についての誤解に起因していたという話で、サブタイトルの「理想と哲学」はそこから来ている。


ウィトゲンシュタインの著作は難解であるとされているが、筆者はそれが彼の独特の著述スタイルがくるものだとしている。
つまり、ウィトゲンシュタインはまず手書きの原稿を書き、その中から特に重要だと思われる部分を抜き出してタイプ原稿にし、そこからさらに厳選した内容を完成稿に反映させる。
なので例えば、普通なら「AだからBとなり、ゆえにCとなる」というように、どうしてそのように考えるかの過程も書かれるところ、ウィトゲンシュタインの著作では「Cとなる」だけが書かれているようなことが起こりうる。
完成した著作だけを読むと、どうしてそのように考えたのかの過程が追えないので内容を理解するのが難しくなる。
だからウィトゲンシュタインを読む際には、元になった草稿も参照して読み解かないといけない、というのが筆者のウィトゲンシュタイン読解法となっている。これは、以前に書かれた『ウィトゲンシュタインはこう考えた』でも同様であった。
本書には、巻末に『探求』のどの部分が、草稿のどの場所に対応しているかの表が付録として掲載されている。
さらに本書では、ウィトゲンシュタインの「日記」も読解のための参照項として使われている。


本書は三部構成となっており、
第1部は準備として、『探求』の一体どういうところが謎なのか、本書で取り扱う「哲学論」という箇所はどういう位置づけなのか、どういう過程で書かれたのか、また『探求』へとウィトゲンシュタインの思索が進んだ時期にウィトゲンシュタインに一体何があったのかというようなことが書かれている
第2部は実際に「哲学論」を読んでいくパートで、「哲学論」を大きく前半と後半に分けて読み解いていく。
第3部は応用編として、『論考』と『探求』の考え方の違いを、実際の哲学的問題に応用してみるということで、科学的実在論論争への応用を行っている。

はしがき

第Ⅰ部 準 備

第一章 謎としての『哲学探究』とそれを解く鍵
 1 『哲学探究』の難解さと謎
 2 『探究』という謎への鍵(1)――『探究』と「茶色本」(あるいは「青色本」)との類似性
 3 『探究』という謎への鍵(2)――『探究』と「茶色本」(あるいは「青色本」)との決定的相違

第二章 謎を解く鍵としての「哲学論」(§§89~133)――読解の手掛かり
 1 『哲学探究』における「哲学論」の位置づけと意味
 2 我々の「哲学論」解釈が答えるべき問い
 3 「哲学論」のテキストの成立過程とソース

第Ⅱ部 読 解

第三章 論理と理想――「哲学論」前半(§§89~108)
 1 「哲学論」前半の読解の手順と手掛かりとなる背景的事実
 2 「論理の崇高性」の問いの意味――§89a
 3 「論理」を巡る『論考』の錯覚――§§89b~92と§§93~97
 4 「理想」についての根本的誤解――§§98~108

第四章 新しい哲学像――「哲学論」後半(§§109~133)
 1 テキストの構成とMS142(およびTS220)との関係
 2 『論考』の根本的誤解からの脱却の道――§§109~118
 3 新しい哲学像の苦悶の中でのアフォリズム的予見――§§119~129
 4 新しい哲学と「言語ゲーム」――§§130~133
 5 世界の相転換としての哲学――『探究』最終版から消えた哲学論

第Ⅲ部 応 用

第五章 我々に示されたもの
 1 科 学
 2 哲 学


あとがき
付表1・2

第一章 謎としての『哲学探究』とそれを解く鍵

『探求』は、個々の議論については何が書かれているのかが分かってきているが、全体としてどういう本なのかが今もって謎である
これのヒントになるのが『茶色本』『青色本
実は、この二つは構成や内容の点で『探求』とよく似ている。
しかし、違う点もあり、この違いが『探求』がどういう書物なのかを探るヒントになると筆者は考えている。


まず、書かれている言語が違う。
『茶色本』『青色本』は英語で、『探求』はドイツ語。
そもそも前者をドイツ語で書き直そうとしたものが『探求』なのであるが、問題は、単に言語が違うという話ではない。
実はウィトゲンシュタインは、書き直しの作業にあたって困難に直面している。
それが彼の個人的問題であった「告白」である。
ウィトゲンシュタインは、虚栄心から周囲の人々に嘘をつくということを度々しており、この時期(1930年代)、めちゃくちゃ思い悩んでいる。で、嘘についての「告白」を行っている。告白した嘘の中には、大きなものから些細なものまであったらしい。また、教師時代の暴行事件についての謝罪も行っているらしい。
また、ウィトゲンシュタインは、自分に対して嘘をついたり、演じていたりすると、文体にも影響する、というようなことも書いている。
「告白」以前以後で、精神面でウィトゲンシュタインには大きな変化があって、それはその文章にも少なからぬ影響を与えていて、『茶色本』『青色本』と『探求』との間にある違いとは、まさにここに由来しているのだ、と。
で、さらに『探求』には、§§89~133にかけて、哲学について論じたパート(「哲学論」)がある。
これは『茶色本』にはないし、『青色本』も間接的に触れているだけで直接的にはない。
つまり、ウィトゲンシュタインには、『茶色本』『青色本』と『探求』との間に、深い自己省察・反省の時期があって、それが『探求』とそれより前の思想を分けるものになっているのだ、と

第二章 謎を解く鍵としての「哲学論」(§§89~133)――読解の手掛かり

『探求』がどのような本であるのかを読みとくにあたり、本書は『探求』の中の「哲学論」を参照していくわけだが、そのためにまず「哲学論」の位置付けを確認する
つまり、「哲学論」が、単に哲学について書かれているというわけではなく、何よりもウィトゲンシュタイン自身の自己省察が書かれていることを示すことで、「哲学論」が『探求』についての自己言及的な部分であることを示す、というわけである
この章では、冒頭に述べたウィトゲンシュタインの独特な著述スタイルについての説明があり、それに沿って、「哲学論」のソースとなっている手稿がどれかということが確認されるとともに、それが「日記」と時期的・内容的に一致しているところを見ていく


ウィトゲンシュタインの「日記」は、身辺雑記や備忘録のためではなく、自己省察を徹底し「真の哲学を自ら実現するため」に書かれた・この日記は、1930~32年、1936年~37年の二つの時期に書かれている。

我々は『探求』「哲学論」と「日記」は不可分な二つのテキストであり、それらは同時期にウィトゲンシュタインという同一の精神が、一方で自分の行いつつある哲学という営みの本当の姿を見極めようとし、同時に他方で、自分という人間の真の姿を見つめようとした一体の過程の、相関連し、相補的な二つの記録と見なければならないだろう。(p.75)


というわけで、本書は、ウィトゲンシュタインが哲学上、一体何に悩み、どのようにそれを脱しようとしたのかという記録として、『探求』「哲学論」を読んでいくことになる。
ある意味では「実存的」と言いうるような読み方であるが、これは筆者が、ウィトゲンシュタインの生き方そのものに憧れのようなものを抱いているからかもしれない*1



ところで、この章の注釈を見ると、筆者は『確実性について』に関する本も準備中らしい。気になる。


第三章 論理と理想――「哲学論」前半(§§89~108)

筆者は「哲学論」を5つのシークエンスに分けている

シークエンスa(§89~98) 「論理」を巡る『論考』の錯覚
シークエンスb(§99~108) 「理想」についての根本的誤解
シークエンスc(§109~118) 言語による悟性の魔法からの解放としての哲学
シークエンスd(§1119~129) 哲学的問題と哲学の方法
シークエンスe(§130~133) 哲学の方法

このうち、aとbを前半、c,d,eを後半としている。


『論考』は、言語の本質とは何かを問い、それが世界と構造が共通しており、世界を写すものだと考えた。
これに対して、言語の本質とは、(世界を写すものではなく)「言語ゲーム」だ、という別の考えがありうる。
しかし、ウィトゲンシュタインは、これでは『論考』が犯した誤りを再び繰り返すだけではないかと考える。


『探求』は「我々」という主語で書かれているが、それが多声的であると筆者は指摘している。
つまり、『論考』の(今では既に誤ったものと思われる)考え方も「我々」の考え方としてそこでは書かれる。誤りというのは、その内部からどのようにして誤ったのか捉えないと、誤りを直すことはできない。だから、どうしてそれが正しいと思ったのか、そしてどこが誤っていたのかを、「我々」の見解として書いていかないといけない。


その誤りとは一体何か
その端緒はここでは「プラトン過程」と呼ばれる
それは、当初の実践的目的を離れて理論的探求がなされてしまうことである。
もともと『論考』は、言語の使用をめぐる誤解を解くという実践的目的のために書かれたわけだが、そこから、何か我々からは隠された本質があるのではないかと考えるようになって、分析したり、「命題とは何か」とか問い始めると、これは実践的目的から離れた理論的探求へと入り込んでしまっている


些細な話だけど、ドイツ語だと「文」と「命題」はどちらもSatzで区別されてないんですね(「改めて言うまでもないことだが」という前置きで書かれていたけど、ドイツ語知らんので、そうだったのかーと)


『論考』は「否定的思考のパラドックス」、『探求』は「規則のパラドックス」に
同じ誤りを犯しているからではないか、と。
それは「理想」にまつわるもの
ここでいう理想は、上の「プラトン過程」のところで出てきた理論とほぼ同じ、あるいは理論的概念と言ってもいよい。例えば「対象」とか「名」とか、あるいは「ゲーム」もそうかもしれない。
これを理論的な概念として定義すると、現実がこのようにあるべきだと考えてしまう。
これをウィトゲンシュタインは、「事物の描写の仕方を事物のあり方と誤解してしまう」というような言い方で表現している
例えば「対象」というのは、事物の描写の仕方でしかないのだけれど、これを事物の方のあり方だと思ってしまう。世界の側にも「対象」があると考えてしまう。こういうふうに思考してしまうのが、「理想」に関する誤解


筆者はここで、ウィトゲンシュタインがこうした誤りを比喩を通して説明しようとしていると述べてる
例えば、描写の仕方について説明する際には「眼鏡」の比喩が用いられている。
そして、非常に有名な「我々はツルツル滑る氷の上に入り込んだのだ。そこには摩擦がない。だからある意味で条件は理想的である。(...)ザラザラとした大地へ戻れ!」という比喩が出てくる。
筆者は、この比喩が、「我々」がどのように誤っていたのかを内から理解させるものだとして解説している。
つまり、誤りが元々は我々にとって正しいものに思えたことを納得させ、その上でそれが誤りだったことを理解させるため。
これについて、元々『論考』の形而上学的世界がよい意味で「結晶」に喩えられてきたことを引き合いにだす。「氷」と「結晶」の類似に訴えた比喩で、「氷」は「見る」ものとしては確かに美しいものである。しかし、この上を「歩く」という比喩によって、氷に対する「見る」とは違う関係を示している。それは実践的な関係であり、その場合、滑らかさはツルツル滑るという悪いものに変わる。
では、ザラザラした大地に戻れ、とは一体どういうことなのか。
実践的・日常的な言語の使用に戻れ、ということであるが、それではそこに哲学の役割は残されているのだろうか。
それが「哲学論」後半の話となる。

第四章 新しい哲学像――「哲学論」後半(§§109~133)

哲学は記述的であるべきだ、という主張が出てくる
これは、仮説的説明や理論的説明をしないということである。例えば『論考』は、ラッセルの記述理論による分析に影響を受けているが、ああいう説明は、隠された論理形式があるという誤解へと我々を誘う。形而上学化を避けるために、理論的説明を放棄するという態度
ここで少し、応用編として、ウィトゲンシュタインが直接的には書いていないこととして、自然科学の形而上学化にも触れられている。経験的証拠を離れて、理論に一致するような説明をするようになったら、科学も形而上学化することになるだろう、と書かれている。


しかし、じゃあ記述的な哲学とは一体何なのか
哲学的問題というのは残っているのか
それは、文法的な誤解・錯覚からくる「不安」に対して、その源泉を指摘することで、その呪縛を解くというもので、筆者は、これは知的な過程ではなく、むしろ実存的な過程とでもいうべきものだと述べている(医術性とも書かれている。治療としての哲学という奴だろう)。
その例として、比喩による誤解があげられる
前半では、比喩のポジティブな面があげられたのに対し、後半はそのネガティブな面をあげているともいえる
具体的には、『論考』において、命題を「像」に喩える比喩で、そこでは、言語が画像による描写に似ているものだと捉えられている*2。ところで、文の中には、描写では捉えられないものがある*3。そうすると、これが解決すべき問題に思えている(「そうはなっていない!」「それでもやはり、そうであるはずなのだ!」)。しかし、そう思えてしまうのは、「像」という比喩にとらわれてしまっているから。
あるいは『論考』に出てくる「対象」
命題は事実の像だと考える『論考』において、「ボトルはグラスの右側にある」という命題は、ボトルとグラスと右にあるという位置関係という3つの対象の複合物をが対応していると考える。しかし、「位置関係」という対象があるわけではないだろう、と。


シークエンスd
ここまで見てきたa~cと、dは雰囲気が違っている
ここまで「我々の考察」が対象とされてきたのに対し、ここでは「哲学」一般を対象にして書かれている*4
また、アフォリズムっぽい文章が続く、と
実は、a~cとdとでは、元になった原稿が違っていて、書かれた時期が、さらに以前に遡る(1930年頃)。
だから、まだ苦しんでいる時期で、『探求』でやるべき哲学はこういうものなのだという、シークエンスcに書かれていたような境地にはまだ至っていない。が、ウィトゲンシュタインは、この時期の原稿からあえてそのまま採用している。哲学は記述なのだとかそういう話が、既にここに現れている。


相転換としての哲学
『探求』「哲学論」は、『論考』に対する反省的考察であったが、ではウィトゲンシュタインは『探求』で行っていることに対する反省的考察は行っていなかったのか?
実は『探求』はちょっと複雑な成立過程があって、戦前版『探求』と最終版『探求』があり、この二つには違いがある。戦前版『探求』には、この『探求』に対する反省的考察とでもいうべきものが入っているが、最終版『探求』からは削除されている。
『論考』の哲学を「アプリオリな洞察による事物の本質の解明としての哲学(p.248)」と呼ぶならば、『探求』は「世界の見方・見え方を根本的に変えることとしての哲学(p.249)」と呼ぶことができるという。
ここでいう見方・見え方とは「アスペクト」のことで、これは「見方・見え方」とも「側面・相」とも訳すことができる。
ある表現体系に対して別の表現体系を並べることで、相・見方を変えること
ウィトゲンシュタインの手稿には、コペルニクスダーウィンの功績は、「真なる理論の発見ではなく、新たな実り多い見方(アスペクト)の発見である」と
じゃあ、何故こういう「相転換としての哲学」という考えについて記した部分が、最終版からは削除されてしまったのか
筆者は、理由を二つ挙げる
1つは「アスペクト」という比喩が未消化だったため。上に書いた通り、アスペクトは「見方・見え方」とも「側面・相」とも訳すことができるが、元々はラテン語の見るという動詞から派生してきた言葉で、視覚的な「見ること」「見えるもの」という意味合いを持つ。
ただ、ここでいうアスペクトというには「側面・相」という意味合いもあって、「見方・見え方」と捉えると比喩がうまく働かない。
つまり、ウィトゲンシュタインは、再び比喩による誤解にはまってしまうことを危惧して、最終版からは削除したのではないか、と。
そして、その後、アスペクトについての考察を始めている
これまた、『探求』の複雑なところで、没後、遺稿管理人であるアンスコムとリーズによって『探求』は出版されているのだが、実はこれはTS227とTS234*5という2種類の原稿をもとにしているものの、ウィトゲンシュタインが『探求』というタイトルをつけているのはTS227だけ。今は、TS234には別のタイトルがふられている。本書では、TS234を旧『哲学探究』第二部と呼んでいる。
で、このTS234でアスペクトについての考察が書かれている、というわけである。
もう1つの理由は、この相転換というのが、認知上の変化にとどまらず実存上の変化にも依存しているから
相転換、あるいは誤解を招く相の除去とは、理想誤解からの脱却なのだが、認知的な理想誤解の問題と、実践上の理想誤解の問題があるのだ、と
ここで、ウィトゲンシュタインがこの時期、哲学的に苦しんでいただけでなく、告白・謝罪をめぐって人生上も苦しんでいたという話に戻ってくる。
彼は英雄になりたいという理想があったが、英雄にはなれなかった。
英雄ではないのに英雄を演じてきたのだ、ずっと英雄を演じるという誘惑に負け続けてきた。が、告白によって、自分が英雄ではなく、英雄を演じていただけだったということを認めて、生き方を変えることができたのだ、と。
これが、実践上の理想誤解からの脱却で、「演じる」から「演じない」への行為の転換があった
相転換というのは、単に見方を変える(認知的)ものではなくて、行為を変える(実践的)ことが伴ってないといけないのではないか、と。
哲学を見方を変えることとだけ捉えるのも、ある種の誘惑であって、この問題にさらに向き合うため、最終版からは削除してたのではないか、というのが筆者の推察である。


ここで、本書の『哲学探究』とは一体いかなる書物なのか、という読解は幕を閉じる。
哲学と生き方というのは不可分なのだ、という筆者(そして筆者が捉えるウィトゲンシュタイン)の考えが反映されて、ウィトゲンシュタインの生き方を通じてウィトゲンシュタインの哲学を考えるという読解になっていると思う

第五章 我々に示されたもの

最終章は、『探求』で示された考察を、自分自身の哲学的考察に応用する。ここで挙げられているのは「科学的実在論論争」である
ここでは「実在論」は「古典的科学観」に、「反実在論」ないし「道具主義」は「マッハ的科学観」に言い換えられている(後者の呼称が、実在論側からの呼び方なので、より中立的にするためらしい)


マッハ的科学観は4つの要素からなる
(a)ダーウィン的な適応概念に基づく知識観
(b)思考の事実への適応という概念
(c)思考の適応としての科学の最終目標としての世界観
(d)思考の適応としての科学における理論と理論的概念の役割


ここで、思考の適応について、マッハは科学の目的として「記述」と「理解」を挙げている。筆者は、マッハについては「記述」ばかり注目されるが、現象の理解も科学の目的としてあげていることがマッハを理解する上で重要としている
また、ここでいう現象の理解とは、熟知化・習熟化であり、なじみのあるものに見えるようにすることだ、と
理論的概念というのは、新しい未知の現象を理解するための媒体であって、古い・日常的ななじみ深い概念でもある。そこには、比喩的な要素が含まれる。「波」「粒」などは、まさにそういう比喩。
マッハはこのことを、生き物が(新しい器官を作るのではなく)既に持っている器官を変化させて適応することに喩えている


古典的科学観と対応説的真理概念
タルスキの真理論と『論考』が、古典的科学観の哲学的基礎ということが論じられている
『論考』における「対象」概念は、科学理論が世界の真の像であるための論理的要請(経験的仮説ではない)


『論考』的考え方に立つと、古典的科学観とマッハ的科学観は決して相容れないものとなる
だが『探求』的考え方に立つと、この二つは、同じ世界に対する異なる二つの描写の仕方となり、比較可能なものとなる。
あとは、科学者の実践に役に立つのか、我々の生にとってどういう意味をもつのか、論理的・概念的整合性がどうなるのかといった基準で、これらの見方を比較し評価できるのではないかと論じられている。


感想

「ツルツル滑る氷」と「ザラザラした大地に戻れ」の比喩とか、あと「哲学とは説明ではなくて記述であるべきだ」とか、有名なフレーズであるし、後者は『青色本』か何かで個人的に「なるほどなー」と思ってたりはしてたんだけど、この本を読んで、どういうことを言わんとしているのかが、とても分かりやすかった
この本、読解手法としては、執筆過程を遡っていくというなかなか大変なものだけど、本自体は、とても内容が分かりやすいと思う。
後期ウィトゲンシュタインってこんなだよね、っていうのがすごく整理されたような感じがする。
あと、「言語ゲーム」というのを、『論考』とは変わる新たな「理論」として捉えてはいけないとか、解説書とかで時々言われたりするけど(意味についての使用説とか「説」と言っちゃうといけないとかね)、どういうこっちゃと、下手するとちょっと神秘化しちゃいそうな話なんだけど、理論化すること自体が間違いのもとなんだ、という話なんだよ、と
じゃあ、理論化しないとすると、哲学は何をするんだというと、理論化することで生じてしまう誤解を見つけ出して、その誤解の元になったものを記述することなんだよ、と


それから、アスペクトとか、ウィトゲンシュタインのキーワードとしてよく出てくるけど、確かにウィトゲンシュタイン哲学の中でアスペクト論が一体どういう位置づけにあるのかはよく分からないところで、それをこういう形で説明するのは、この筆者の面目躍如な感じがする


第三章・第四章を読んでいて思ったのは、ここでいうプラトン過程とか、形而上学化とかって、パラダイム論における通常科学っぽくも見えるなあと
パラダイムを維持するように行われる科学的探求で、それでうまくいくこともあるわけだけど
それから、もう一つは、『論考』って実在論的で、『探求』って反実在論的だなーというのは、三章・四章読みながらも思っていたことなんだけど、そしたら五章がまさにその話題だった
もっとも本書の読みは、『探求』は実在論反実在論の論争を超克することのできる立場というような話っぽくて、単にウィトゲンシュタインは前期と後期とで実在論から反実在論に変わりましたって単純化した整理すると怒られそうな感じもするんだけど、まあでも、少なくとも『論考』が実在論的な立場なのは確か


最後、ウィトゲンシュタインじゃなくてマッハのことだけど、科学の目的としての「理解」がキーワードになっているのが「ほほう」という感じだった
というのも最近、読書メモ(勉強モード):Understanding Scientific Understanding(by Henk W. de Regt)~理解できないものを理解するために、まずは理解を理解する~ - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)という記事を読んでいたから
あと、Milena Ivanova「科学の美的価値」 - logical cypher scape2でも、科学理論と理解の関係についての話をしていたし

*1:参照: 鬼界彰夫『生き方と哲学』 - logical cypher scape2

*2:命題という働きの分かりにくいものを、画像的描写というなじみ深いものに喩えて理解しようとしている旨書かれていて、描写の哲学やってると、いや、描写もそんな分かりやすくはないんだがなーとちょっと思ったりしたw

*3:「頭痛がひどい」「この問題は難しい」「僕はシャーロックホームズが好きだ」などが例としてあげられている

*4:ところで、筆者はそれを「一般的な相の下で」という表現をしている。これ以外にも「~な相の下で」という表現が時々出てくる。こういう言い回しを使うかどうかは趣味の範疇だと思うけど、だからこそ、趣味が出てる感じがする

*5:この番号は、もう一人の遺稿管理人であるフォン・ライトによって、全ての原稿に付された通し番号。手稿はMS、タイプ原稿にはTSとふられている。ここまでこのブログ記事では省略してきたが、本書の本文ではこの番号が大量に使われている。「TS227のこの文はMS227かソースになっていて~」みたいな感じで