古田徹也『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』

基礎的な、行為の哲学がそもそも何かとか基本用語の説明から始まり、専門的にはしすぎないものの、どのような議論がなされていたのかをなぞり、この分野で著名な哲学者の主張についてもおさえつつ、最終的には筆者自身のテーマの筆者なりの議論を展開するという、入門書のお手本的な構成だったのではないかと思う。
また、行為の哲学を軸にしつつ、「心の哲学」と「倫理学」を架橋するというものであり(まあ行為論ってそういうものだと思うが)、「行為の哲学」というジャンル名には聞き覚えがない人が多いかもしれないが、この本で取り上げられているテーマ自体は、興味関心のある人は多いのではないかなという感じがした。


この本は3章から成っていて、最後の3章で扱われる「意図せざる行為」というものへと話題が向かっていく。
これは例えば、自動車を運転していて、特によそ見などの不注意をしたわけではないが、突然に子どもが飛び出して交通事故を起こしてしまったような場合のことである。この運転手はもちろん、子どもを轢こうと思って轢いたわけではないし、避けようと思っても避けることができなかった。しかし、運転手は「自分はなんてことをしてしまったのだろうか」「どうにかすれば轢かずにすんだのではないか」など後悔や責任を感じるだろう。
筆者は、意図中心に組み立てられがちな行為論が、ともすれば見落としがちである、このような「意図せざる行為」を取り上げることで、「責任」や「償い」あるいは「運」、「生き方」などとの関係から行為論を見直し、倫理学と接続していく。そしてまた、近代倫理学の主要なあり方に対しても批判的な見方を提示する。

1章 行為の意図をめぐる謎

行為の哲学ないし行為論とは一体何か。
それは、ウィトゲンシュタインの「私が手をあげるという事実から、私の手があがるろいう事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」という問いから始まる分野である。
一般的には、この問いに対して「手をあげようとする何らかの意志」と答えることが多いだろう。
1章ではまず、「意志」をさらに分析し、「意図」「欲求」「信念」について整理される。
次いで「意図」とは何か、というか、何でないかが指摘される。例えば「腕をあげよう」という内語やイメージすることは、それもまた行為であって、意図ではない。
そして、物心二元論を批判するライルの議論が紹介される。カテゴリー・ミステイク、傾向性、行動主義。
筆者は基本的にライルの方向性を肯定しつつ、行動主義にはならない道を模索することになる。
1章では最後に、物的一元論、特にここでは決定論、消去主義について論じられる。ここでは、ミルグラム実験、監獄実験、そしてリベットの実験などが紹介され、これらは決定論を支持しているように見えるが、決定的ではないとしている。(リベットの実験については、先ほどの「意図」そのものと内語は違うというのがポイントになる。手を動かす意図が手を動かす準備の神経の発火より遅かったと解釈されたりするが、「意図を意識する」という別の行為と手を動かす準備電位より遅かったのだと解釈している)
ここで筆者が主張するのは、決定論を主張することと経験科学の主張をすることは別だということ。決定論が正しいということは、経験科学の知見から直接証明することができない。決定論は正しくないかもしれない。だがそういうことと、経験科学が正しいということは矛盾しない。
また、消去主義について、例えばチャーチランドが民間心理学の消去が成立したらどうなるかとして描写した状況があまりにも現状とかけ離れていることに触れ、消去主義が非現実的な要求をしているのではないかと指摘している。


章末の「コラム1 心身問題の行方」では、心身問題の哲学史が解説されている。
プラトンデカルト→機会原因論ガッサンディの物的一元論、ラ・メトリの人間機械論→自然主義(物理主義(還元主義or消去主義)or付随説)→二元論ではなく身体・行為から心を捉える(ビラン、ポンティ、ウィトゲンシュタインなど)

2章 意図的行為の解明

まず、意図や信念の特徴についてあげていく(自覚が必要ない、始まりの瞬間が問題にならない、きわめて長時間持続、様々に再記述できる、信念は無数に存在するなど)
次に一人称権威が、心の隠蔽説が生じさせているとする。心の隠蔽説は、心は身体の中に隠されていて、当事者だけがそれを特別に確認できるので一人称権威が生じると考える。これは、物心二元論にも物的一元論のどちらにもいえる。
この心の隠蔽説に対して、筆者はアンスコムデイヴィドソンの行為論をもとに異なる方向を考える。
それは「何故その行為をしたのか?」という問いと答えの図式に、心の働きを見るという考えである。
筆者は、先に挙げた意図や信念の諸特徴から、そうした心の働きを脳の働きと見なすことは不可能であると考えている。
脳や魂の中に心がある、のではなく、コミュニケーションの中で心は語られるとするのである。
デイヴィドソンの「寛容の原則」や、アンスコムの「観察によらない知識」を用いながら、意図と行為を巡るコミュニケーションについて解説する。また、一人称権威は、心が隠されているからではなく、論理的に要請されているからだとする。(意図とは、行為の理由について聞かれて本人が答えるもの。寛容の原則により、本人はその理由・意図・意味を知っている。どのように知っているのか。発話してから、それを解釈して知るということはないが、またかといって事前に意識しているわけではない。つまり、観察によらず知っている。さらにいえば、寛容の原則により、そう知っていなければならない。これが、一人称権威が、偶然的に成立しているのではなく、論理的に成立している理由。)
人間の行為がどう起こったかについて、物理的な(神経学的な)語り方と、意図や信念を理由とする語り方の2種類の語り方がある。
筆者は、後者が前者と実は同一であるとか、還元されるとか、あるいは後者は間違いで後者が正しいとするような考え方をとらない。また、後者の語り方が後付けの虚構ではないのかという疑念も退ける。
それは、ものごとの因果というのは、前者の語り方であれ後者の語り方であれ、どちらも事後的に語られるものだからである。
ここで筆者は、過去についての実在論反実在論のどちらにも与しないとすることで、両方の語り方の共存を守ろうとしている。そして前者の語り方が因果であるならば、後者の語り方も因果であるとする。
また、言語の全体論的性格や、言語習得がウィトゲンシュタイン的な意味での技術・実践であることに触れて、言語によって成り立っている信念や意図といった心の働きが、脳の働きには付随していないと述べる。
ただし、デイヴィドソンが指摘するように、脳あるいは人間の身体を越えたより広い範囲の物理過程に付随している可能性については否定しない。


章末の「コラム2 現代の英語圏の行為論の流れ」は、主にアンスコムデイヴィドソンの相違について説明されている。
まず、大雑把にわけると、アンスコムは反因果説、デイヴィドソンは因果説だとされる。
ただし、反因果説にも色々ある。反因果説としてはフォン・ウリクトという論者もいる。フォン・ウリクトは、意図と行為の関係を因果的関係ではなく論理的関係としてみる。意図や信念から行為を導く「実践的推論」を、行為を事後的に理解するものとみなす。後付けの虚構だとする立場だという。それに対して、アンスコムがフォン・ウリクトと同じように考えていたかどうかははっきりしない。
さて、因果説も内部では分かれている。ここでは、デイヴィドソン、チザム、フランクファート、ブラットマンが挙げられる。先述したように、デイヴィドソンが心と物理的に付随している範囲を非常に広くとるのに対して、残りの3人は脳内に限定する。しかし、チザムは行為の原因を行為者という実体だと考える。この行為者因果説に対して批判的なのがフランクファート、ブラットマンであり、彼らはそれぞれ「二階の意欲」、「計画」を行為の原因と考える。チザムが反自然主義なのに対して、フランクファート、ブラックマンは自然主義である。
筆者は最後に、英語圏の行為論が、意図的行為かつ個人による単独的な行為ばかり扱われていて、「意図せざる行為」と「共同行為」があまり扱われてこなかったと指摘する。
参考文献『自由と行為の哲学』(この本で紹介されている多くの論文が収録されている)、アンスコムインテンション』、デイヴィドソン『行為と出来事』、野矢茂樹『哲学・航海日誌(2)』を挙げている。

3章 行為の全体像の解明

ここでは、本書の主題でもある意図せざる行為について論じている。
行為論が「手をあげることから手があがることを引いたら、何が残るか」という問いから始まったとするなら、ここでは「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、何が残るか」ということ問う。
意図的行為であれば「意図」が残るが、意図せざる行為の場合、「コントロール可能性」「責任」「後悔」などが残るとされる。
意図せざる行為をいくつかの類型に分類しながら、それらに関わる要素や論点に触れていく。
また、この章では、法学の議論が折に触れて言及されていることも特徴である。
・意図性の薄い行為
・悪質な過失
・純然たる過失
・悲劇的行為
「意図性の薄い行為」とは、例えば船員が、ひどい嵐にあって積荷を捨てるとか、海賊に命を脅かされて積荷を渡すとかいったこと。船員にしても、したくてやったわけではないが、(自らの命を危険にさらせば)そうしないこともできたという意味で、多少は意図があったと考えられる。ここでは、自由を「弱い自由」と「強い自由」に区分するという議論が展開される。
「悪質な過失」は、例えば飲酒運転での交通事故である。事故を起こそうという意図はないわけだから、過失ではあるが、飲酒して運転すれば当然事故を起こす危険性は高まるのだから、「事故を起こしてもかまわない」という消極的な意図とでもいえるものがあったともいえる行為。
「純然たる過失」は、例えば、素面で健康で全く問題なく運転していたが、偶然生き別れの弟が歩いているのを見かけてしまい、その時だけ不注意になって事故を起こしてしまったというようなときのこと。
純然たる過失のとき、意図性の薄い行為や悪質な過失と違い、行為者にはそれを避ける選択肢を選ぶことはできなかった。ここで、行為者は、回避することができたのにしなかったが故に非難されるのではなく、回避できる能力があった(本書では「コントロール可能性」と呼ぶ)のに事故を起こしたという理由で非難される。コントロール可能性があるために、義務と責任が生じる。
ところが、このコントロール可能性による義務と責任は、明らかに過大なものである。このコントロール可能性は、
「理想的な一般通常人」を前提しているが、普通の人が時に不注意をしでかしてしまうことはままあることであり、そのような不注意全てについて責任をとるよう迫られることはない。
ここで筆者(そしてウィリアムズやネーゲル)は、「運」に注目する。そのような不注意が、たまたま事故を引き起こしてしまったという結果についての「運」や「偶然」が、過失という行為には関わっている。
最後に「悲劇的行為」である。これは、運転手には全く何の過失もなく、完全に安全運転してしまったのにもかかわらず、子どもを轢いてしまい、あまつさえその子が死んでしまうようなことである。このとき、その運転手はひどく後悔し、また責任を感じるだろう。しかし、客観的にはその運転手には何も責任はない。
行為者視点と傍観者視点をわけ、行為者であるからこその感情について述べる。また、責任概念にも二義性があることなどを確認する。
筆者はこのような「悲劇」に特に注目する。上述の運転手だけでなく、例えば「オイディプス王」もこのような悲劇の例である。こうした悲劇的行為の行為者は、客観的にどのような責任をとればよいのかということは決まっていない。しかし、かといって、全く何の責任も感じないということもない。このような行為を起こした者が、一体どのようにして責任をとればいいのかということは、人によって考え方が異なる。個々人のどのように生きればいいかという「価値観」が強く反映される。
過失について分析する中で、「運」という要素が着目されたが、意図的行為であっても「運」は重要な要素となる。何かをしようと思ったが結果としてなすことができなかったという結果についての運だけでなく、例えば、腕を上げようと思っても不慮の事故で腕を亡くした人はそのように意図することができないというような「運」を本書は「構成的運」と呼ぶ。
「構成的運」には一体何から何が含まれるかは一概には決めがたい。例えば、九鬼周造は、豊臣秀吉が、鳥でも獣でもなく人間に生まれたこと、アメリカでもエチオピアではなく日本に生まれたことも偶然であると述べたらしいが、筆者はこれらは必然ではないかと疑問を呈す。また、構成的運とそうでないものの境界線をめぐる議論は、政治哲学上の議論(例えばロールズとサンデルのもの)とも繋がっているという。
我々は、様々な運や偶然、あるいは自分自身がこれまでどう生きてきたかなどによって、「不完全な道徳的行為者」となっている。そもそも、運を排除した「完全な道徳的行為者」というのはファンタジーであり、不完全であるからこそ、今までの生き方などの実質がある。そして、「運」と「自らの行為」とが複雑に混じり合った領域(「悲劇的行為」など)は多くある。その複雑さ、ままならさを我々は生きているのである。

コラム3 共同行為について

共同行為とは、例えばチームを組んでサッカーをするとか、共著で論文を書くとかいった行為である。
共同行為は、「行為の相互依存性」から特徴付けられる。つまり、一緒に行為する人が行為してくれなければ、成立しないということである。
それに対して、ブラットマン、ギルバート、サール、トゥオメラといった論者は、意図の相互依存性から共同行為を特徴付けようとするという。筆者は、共同行為にも意図せざる行為があると考えられる以上、意図の相互依存性ではなく行為の相互依存性で考える方がよいとしている。
また、行為の主体は何かということについて、シュヴァイカートは、共同行為を「連携行為」と「集団行為」に分けて考えている。サッカーなどは「連携行為」だが、委員会などは「集団行為」だとする。
共同行為論について邦訳はまだないが、中山康雄『共同性の現代哲学』柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲』などが日本語で共同行為について議論している。

エピローグ

筆者は、万人に当てはまるような道徳理論を提案しようと試みがちな英語圏倫理学のあり方を批判する。
確かに人間は、偏りなき公平な視点というものを目指そうとするものである。しかし、いつでもそのような視点を徹底できるわけではないし、むしろ時には、個別の事情に基づいた視点から選択することが当然すべき場合もあるだろう。
倫理学が扱うべきことは、そのような割り切れなさである。
例えば、クッツェーの「動物のいのち」という作品を挙げながら、個人の一身上の問題の中に倫理学の「故郷」を見て取る。
理論や原則を作り、それを事例に当てはめるのではなく、個別の割り切れない問題から、概念を整理し関係づけていくことが倫理学である、とする。

感想

現在、自分の中では恐竜本読書期間継続中なんだけれど、恐竜の本を探して図書館を歩いてたら新着図書で見かけたので思わず手に取った。
行為の哲学は、以前から多少興味を持ちつつも手を出していない分野だったので、ちょうどよかった。
もう何年も前から『自己欺瞞と自己犠牲』を読みたいと思っていたり、『自由と行為の哲学』も気になっていたりしてるのだけど、これらの本が紹介されていたのもよかった。


決定論とかって独断で経験的に証明されてないよとか、一人称権威は論理的だよとか、啓発されるところがあったし、心は脳に付随しないことにすると信念の諸特徴がうまく説明できるというあたりも面白かった。
行為を説明するのに二つの語り方があるっていうところまでは同意できるのだけど、その両方とも因果と認めてよいだろうというところには同意できないなあと思った。因果って一体何なのか分からないけど、もう少し厳格なもののような気がする。自由意志と決定論の両立説について、自由の定義を変えているという指摘があったけど、こっちは因果の定義を緩めているのではないか、とか。
確かに、筆者が述べるように、哲学的主張としての物理主義は経験的に証明されていないかもしれないが、かといってそれは反駁されたことも示していないので、個人的にはまだやっぱり物理主義に与したいかなあと思うし、消去主義だけでなく機能主義とかもあるわけだしさーとか思った。


哲学というのは、何か新しい知識が増えるわけではないみたいなこと、なんかの哲学の本に書いてあった気がするのだけど、この本もおそらくそうで、言われてみると確かにそうだよなあということであって(信念の特徴とか)、心とは何かということについて、これで新しく何かを知ることができたという人は多分いないのではないだろうかと思う。
これは、心に働きについて我々はよく知っていて、しかし、心とは何かを説明しようとするとカテゴリー・ミステイクに陥ってしまうという前提があって、それを解きほぐすのが哲学であるということなのだと思う。
一方、多くの人が、心とは何かというテーマについて期待しているのは、「心とは実は、脳のこのような働きである」とか「心は実は、遺伝子のこのような作用によって生じる」とかいった、新しい知識が増える形での答えなのではないのかなと思ったりもする。
哲学は新しい知識を増やすわけではない、というのは、例えば第3章なんかを読んで感じたことで、ここで言われている「過失」とか「責任」とかって決して目新しい話ではない。しかし、言われてみれば確かにそうだなあというものでもあって、日常的に使われる何気ない概念を、整理し明晰にするというのが、哲学なのだなあということを改めて感じる。
第3章やエピローグなどで示される、筆者の問題関心や倫理学観についていうと、まあ半分同意しつつも、いやしかし、そこで理論とかを作っていくのが哲学の面白さだしなあなどとも思ってしまう。まあ、個人的にはあまり倫理学に強い関心は持っていないから、特に反論もないんだけど、


特殊な意図的基礎行為っていうのがあって、例えば脳の腕を動かす部位を活動させるとか。普通はそんな行為しないんだけど、例えばなんかの実験の被験者とかであれば、そういうこともありうるだろうみたいな話で、ちょっとウィトゲンシュタインが『探求』で、脳を調べて分かることは、どのようにすれば脳をその状態にできるかということだけだみたいなことをコメントしていたことを思い出した。


寛容の原則って「概念枠」論文ですでにでてたのかー。一応、デイヴィドソンで唯一読んだことのある奴なんだけど。


(追記20131024)
心の働きとされるものの中には、つまり「意図」や「後悔」などは、脳の働きに付随するものとしてではなく、言語的・社会的実践のネットワークの中に位置するものとして理解するのが適切なことがある、というくらいの主張であるならば、個人的に納得できる、かな。
もちろん「後悔」というのは感情で、その感情について脳内で分泌される化学物質等に基盤があるだろうが、その感情というか情動を、他ならぬ「後悔」というものとして個別化するためには脳の働きだけでは足らない、というような感じ?
筆者は、心の働きは脳の働きと付随しないといいつつも、脳など科学的探求自体を否定しているわけではない。2つの語り方があって、どちらかがどちらかに還元できたりするわけではない、ということ。
2つの語り方の両方に、心は跨がってるんじゃないかなあと思った。心とは○○だ、ではなくて、心のこの部分はあれで、あの部分はこれで、みたいな感じ。


そういえばふと、認知科学と消去主義ってどういう関係にあるんだろうかと思った。民間心理学の語彙を消去しちゃって、認知心理学ってできるのか?わからんけど

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門