長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

コンテンポラリー・ダンス」と「ロボット・AI」と「介護」を題材にして、身体性から立ち上がる人間性とは何かというテーマを描く長編小説
以前から気にはなっていたが、文庫化を機にようやく読めた。
ダンサーである主人公がバイク事故で左足を切断するところから物語の幕は開く。ダンスができなくなるかもしれないという絶望から、AI義肢をつけてのリハビリ、新たなカンパニーでロボットとの共演を試し始める。ところが、やはりコンテンポラリーのダンサーである父親が認知症となり、主人公が介護をしなければならなくなる。
義肢となった自分はどのようなダンスを踊れるのか、ロボットの身体性から立ち上がるダンスはあるのか、認知症によって人間性を失っていくように見える父に何が残りうるのか。
大雑把にまとめると、そういうストーリー・テーマの作品である。


形式的な話をいうと、章わけがなされておらず、行空きによる区切りはなされているものの、物語としては最初から最後までがひとつながりになっているという印象がある。
本人の事故、新たなカンパニー、恋人となる女性との出会い、両親の事故、介護生活の始まり、と出来事が次々と起こっていき、それに押されてするすると読まされていく。
この作品については、内容が重い、というような感想もよく目にしていて、それはまあ、主人公自身が物語が始まった瞬間に足切断されているし、介護の苦労も延々書かれている作品なので、決して軽い話ではないのは確かだが、しかし、本作はただ重苦しい作品というわけではないし、報われる面があるし、希望もある。そもそも、内容面はともかく、文章面ではリーダビリティが高い。
文学っぽいという感想も度々見られて、それ自体は色々な意味があるだろうから、まあ確かにそういう形容も分からなくはないとは思うが、題材の重さに対して、文章それ自体は読みやすいので、その点では、文学と対比する意味でエンターテイメント小説ではあるな、と思う。
文章の読みやすさ、というのは、難解な表現がでてくるかどうか、というだけでなく、上述した通り、出来事が次々と起こっていくというところがある。先の見えない介護生活という重苦しさは確かにあるのだが、小説としては、展開が停滞することなく進んでいく。
また、語りという面でも、主人公を焦点人物とした三人称の語りで一貫していて、それ以外の視点が基本的に出てこないし、時系列もずっと一本道で、回想などもない。章わけが一切ないことも含めて、そのあたりはめちゃくちゃシンプルだな、と思った。
それでいて、この分量の中で、説明すべきことが過不足なくいれられている、と思う。


SF面でいうと、本作で登場するガジェット等は、現在ある技術や理論の延長線上にほぼ収まるように作られているように思う。
『あなたのための物語』であればITP、『BEATLESS』であればhiEや超高度AIといった架空の技術が登場し、その架空の技術が一体どういうものであるのか、という説明が一定の比重を占めていたように思う。読者はまずそれらがどういうものかを理解していく必要がある。
本作においても、谷口が語る独特のダンス理論などは、読者に対して、SFの架空技術・架空理論を理解させるような読解を要求するところはあるが、全般的には、そういう意味でのSF度合いは低い作品になっていると思う。
本作を評価するにあたって、本作がSFかどうか、というのは重要ではないが、2050年代という未来を舞台にしつつも、hiEや超高度AIみたいな如何にもSFっぽいガジェットが出てくるわけではない、というのが、この作品の空気感に寄与しているところは大きい。
プロトコル・オブ・ヒューマニティというやや謎めいた言葉がタイトルに用いられているが、この言葉の意味が作中できっちりと説明されているのも、この作品の読みやすいところかもしれない。




この作品は、コンテンポラリー・ダンスを主たる題材として用いており、もっというと、人間とロボットのダンスでの共演を目指すダンス・カンパニーの物語である、ともいえる。
作品の舞台となっている2050年代において、ロボット技術はさらなる進歩をとげており、高度なテクニックのダンスを踊ることは可能になっている。しかしそれは、人間が振付をプログラムしてやれば、それを高精度に再現できる、という話である。
作中で求められるのは、言うなれば、ロボットの、ロボットによる、ロボットのためのダンスである(作中でこういう言い方はしていないが)。
人間のダンスが、人間が何かを表現しようとして自らの身体を用いて、人間の中から外へとあふれ出してくるものであるだとするならば、ロボットのダンスもまた、何かロボットなりにロボットの中から外へとその身体を用いて表現するものなのではないか。ロボットの身体性なるものがあるのではないか。
そのためには、そもそもダンスとは一体何なのか、というところから掘り下げる必要がでてくる。
作中の登場人物はそれを「距離」と「速度」だと再定義する。
原初の人類が狩猟生活を送る中で、獲物に対する相対的な距離と速度に反応する脳の仕組み、それを刺激するために編み出されたのがダンスなのではないか、という仮説で、距離と速度なら数値化できるので、ロボットやAIでも扱える、という理由もある。
「距離」と「速度」によってやり取りされるもの、それが「人間性」なのではないか。
本作のいう「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」というのはまさにそのことで、人間性を「距離」と「速度」によって伝え合うプロトコルということになる。
何故人はダンスをみて感動するのか。ダンスによって生じる「距離」と「速度」によって、表現しようとする人間性が伝わるからだ、ということになる。
このことが「介護」とも繋がってくる。
主人公の父親は、認知症によって記憶がもたなくなっている。そうすると、何かを約束したとしてもすぐに忘れてしまう。それだけのことで、簡単に人間的な生活は失われていく。介護者にとっては、砂の城を築くような徒労感の続く日々が訪れる。しかし、主人公は身体と身体との間の距離と速度が、もしかしたら何かを伝え合っているのかもしれない、と思うに至る。それは、父と子がともにダンサーであるから、という面もあるだろうが。
ともかく、人間性を「距離」と「速度」に還元したことによって、人間性を持たぬはずのロボットが、あるいは人間性を失っていく認知症の老人が、人間性を伝えることが可能になる。
さて、「距離」と「速度」に還元されたことで、ロボットと共演することになった人間たる主人公は「重力」をテーマにしていくことになる。
人間性と重力、ということで自分が思い出したのは、瀬名秀明「希望」だった。あの作品とは色々な面で全く違うのだけれど、ロボット・AIと人間の関係について突き詰めて考えてきたであろうSF作家2人が、それぞれ独立に「重力」というところに辿り着いているのはすごく興味深いな、と思う。
ただ、瀬名がそのテーマを具体化するのに選んだモチーフが、ダミー人形による自動車衝突実験と宇宙物理学だったのに対して、長谷は、ダンスと介護だった、というところに大きな違い(短編か長編かという違いもあるが)がある。そのモチーフを選んだ必然性が読者にも分かりやすい点が、本作の強さの1つにもなっているのだろう。


護堂恒明
28歳のコンテンポラリー・ダンサー。バイク事故で左足を失う。
ダンサーとしては将来を期待されているホープではあるが、とはいえ、コンテンポラリー・ダンスで食っていくのは難しく、アルバイトで生活しているので、脚の怪我は、ダンスのキャリア的にも生活の維持的にもピンチだった。
谷口からの紹介で、義肢のモニターになる。また、その義肢会社からの紹介で、インストラクターの仕事を得る。
父親の護堂森(しん)は、既に70を超えているが、コンテンポラリー・ダンス界での権威。恒明は父親に憧れてダンスを始めた。
森は、プライドが高く家族に対しても厳しい態度をとる。
恒明には、年の離れた兄・一隅がいるが、ダンスにも興味のなかった兄は、家族を顧みない父親とも仲が悪く、成長すると早々に家を離れていった。今は大阪で妻子とともに暮らしていて、帰省もほとんどしない。
そんな護堂家を支えていたのが、母の来李だった。
しかし、森が交通事故を起こして、来李は亡くなってしまう。そして、森も重傷を負うのだが、退院してきたところで、認知症への疑いがでてくるのである。
恒明が1人で父親の介護をせざるをえなくなったのには、こういう事情がある。
この時代、AI技術を使った認知症患者向け介護サービスなども生まれてきているが、護堂家は決して裕福というわけではなく、恒明はその恩恵を受けられない。
一隅は全く介護には関わってこない。かろうじて、母の葬式や四十九日に顔を出すだけである。経済的な援助すらも断ってくるのが、恒明にとっては大きな痛手ではあるが、恒明は逆にそのことを自分の道徳的優位性と捉えて介護へのモチベーションへと変えていく。
森は自分が認知症であることをなかなか受け入れられないし、それが分かっても、自分ではちゃんと出来ている、と思っている。が、実際には出来ていない。
時間の感覚が消えてしまって、深夜に起きだして風呂に入ったりとか、風呂にどれくらい入っているから覚えられないから長湯して気を失ったりとか、危ないからこういうことはしないでほしいと約束してもそれが記憶できなかったり、となる。また、排便関係にも難がある。元々のプライドの高さや性格から、恒明からの介護を撥ね付けようとしたりもする。
恒明としても、森は確かに性格に難があるとしても、父親としてダンサーとして尊敬の対象であったのが、それが崩壊していくことへのショックもある。
認知症はよくなるわけではない、ということも、きついところだろう。
それでも彼らは、少しずつ少しずつ、どのようにやっていけばいいかを身につけていく。


谷口
足を怪我して一番最初に恒明をサポートしたのが、谷口というダンサー仲間だった。
ダンサー仲間といっても、実は谷口は大して踊れない。理系の大学院を出てロボットのベンチャー企業を立ち上げたという、仲間の中では異色の経歴の人物である。
彼は、自分の知り合いの義肢企業を恒明に紹介する。
最新のBMI義肢ではなく、AI義肢で、装着者の動きを学習し「共生」していくタイプの義肢である。
物語の最初の方は、この「共生」の苦労が語られていく。この脚は、倒れそうになると勝手に支えようとする。しかし、それはダンサーにとってはむしろ危険でもある。そういう設定を少しずつ変えてもらう。元々、恒明が所属していたダンス・カンパニーの主宰は、義肢となってしまった恒明を持て余す。
それに対して、谷口が人間とロボットが共演する新たなカンパニーを立ち上げたい、ついてはそのカンパニーに参加してほしい、と恒明に打診してくる。
谷口の会社の社員である成海と、恒明の義肢を担当しているエンジニアの望月もカンパニーのメンバーとして加えられているが、2人はダンスについては全くの素人。成海が、アイドルのファンというくらいである。さらに、谷口は熱くカンパニーの理念を語るが、抽象的・衒学的なきらいがあり、具体的にどのようなダンスを踊ればいいのかが見えてこない。
恒明は不安を抱えつつも、自分がダンサーとして再起をかける場はもうここにしかない、と覚悟を決める。
当初、ロボットのダンスの振付は、生成AI(GAN)を用いて、完全に人間の評価なしで作ろうとする。最初は小説をAIにたくさん読ませてそこからAIが要素を抽出して振付に変換するという謎の方法をとっていた。
が、森からの厳しいコメントを受ける(ざっくりいうと、客のこと考えてない的な指摘)。
また、谷口と恒明は、エンジニアの2人にも簡単なダンス体験をさせる。
森のコメントとダンス体験が、受け身で参加していたエンジニア2人を変化させ、少しずつロボットのダンスが形作られていく。
23拍子という変態拍子で踊るロボットたち
23拍子って一体どんな拍子なのか全く想像つかない……
また、「距離」と「速度」ということが決まって以降は、義肢のセンサーに周囲の物体の距離と速度を計測させるようになる。義肢は恒明のダンサーとしての身体の動かし方を覚え、また、周囲の事物に反応して、ダンスしようとするという衝動のようなものも生じるようになる。義肢は、恒明の一部でありながらも、義肢もまた恒明が共演するロボットともいえる。


永遠子
恒明が所属していたダンス・カンパニーの打ち上げで出会った女性。ダンサーではなく、客としてきていたところ、打ち上げに誘われていた。
付き合うようになって、介護で苦しむ恒明を精神的に支える。
恒明は、度々、上品だと心の中で褒めている。育ちのよい女性なのかな、という感じもするが、恒明やダンサー仲間はバイトで生計をたてており、正社員というだけでそのように見えている可能性もある
三人称とはいえ、一貫して恒明視点で語られるため、永遠子、あるいは兄の一隅については、パーソナリティの掘り下げがあまりない。彼らが何の仕事をしているのかも明示されていなかったような気がする。
ともすれば、物語の舞台装置(ただの都合のいい女、ただのイヤな奴)になりかねないところなのだけど、不思議とそうならないバランスが保たれているように感じた。


クライマックスとしては、おそらく2つあって
1つは、恒明と森の共演
森はプロのダンサーとしては復活が叶わないが、途中から、恒明と一緒に踊ることを1つの目標として練習することになった(このあたりは森の変化というより、恒明側が森とどのように向き合うかの変化がある)。
森は退院直後に自宅のリビングをダンス練習用に改造してしまっている(それ以外にも、森は認知症になって以降も結構お金を使っている。無論、森のお金なので構わないのだが、認知症になっても買い物は出来るのである(なお、住宅の改造は本格的に認知症になる前))。
恒明と森の共演というのは、実際には、自宅のリビングで行われそれを撮影したもの
森は記憶がもたないので、1つの公演になるような振付ももう覚えられない。そのため2人は、コンタクト・インプロビゼーションをするが、その中でも、森は短い繰り返しを行うことで、今できる範囲で自分なりのダンスの演出を組み立てていく。


それともうひとつは、もちろん、谷口カンパニーの旗揚げ公演である。
工業用のロボットアーム4台と、谷口の会社のダンス用ロボット、恒明とで踊る、即興も多分に組み込まれたプログラムである。
ロボットの即興に恒明が体力の限りに応えていく
最後には、ロボットが観客を認識し、観客を煽り、それに観客も応え、ステージは大成功を収める。


森との介護生活は続いていく、という終わり方をするのかなと想像していたので、そうではない終わり方ではあったが、ある意味で大団円感があった。


元々本作は、大橋可也&ダンサーズの「protocol of humanity」という公演のために書かれた中篇小説が下敷きになっているらしい。
あとがきに、これがYouTubeにあがっているとあったので、見てみた。とはいえ、ダイジェスト版の方だけど。
このカンパニーについては以前大橋可也&ダンサーズ/飛浩隆『グラン・ヴァカンス』 - logical cypher scape2を見たことがあるが、自分にとってコンテンポラリー・ダンスの鑑賞経験は後にも先にもこれだけで、ダンスリテラシーがないので、ダイジェストだけだとさっぱりだった。