タナトフォビア(死恐怖症)である著者が、まさにタイトルにある通りの理由から、様々な人に話を聞きいにった対談集
具体的には医者(中山祐次郎)、宗教社会学者(橋爪大三郎)、神経科学者(渡辺正峰)、哲学者(森岡正博)、作家(貴志祐介)の5名である。
一番面白かったのは、森岡の章だったなあと思う。
ところで、近年、死にまつわる新書が増えているような気がする。
これは個人的な肌感覚の話なので、実際にどうなのかは分からないけれど、本屋の新書棚で見かけるとたまに手に取って眺めることがある。が、大抵、ピンとこなくて棚に戻している。
しかし、この本は違った。
というのも、大抵その手の本は医者あたりが書いていることが多いのだが、本書は、タナトフォビアの当事者によるものであり、また、筆者の年齢が自分と近いということがあった。
自分自身もタナトフォビアのきらいがあるので、死(自分の意識の消滅)が怖いというところに焦点を当てている点で、読みたいと思わせた。
著者は、死の恐れを克服したい気持ちで医学を志し、実際には、看護師となり、医療倫理なども学んだらしい。そして、日本タナトフォビア協会を立ち上げるに至る。さらにはこのような著作まで手がけた。
そうした行動力は、同じタナトフォビアといっても自分にはなかったものなので、素直に感嘆するしかないが、タナトフォビアの症状自体は自分と似ているな、と思った。
例えば、死への恐怖があるといっても、四六時中びくびくしているわけではなく、年に数回程度であり、生活に支障を来したりするわけではない、とか。とはいえ、死期が近付いたら気が狂ってしまうのではないか、という不安も共感するものがある。
ところで、第1章に出てくる医師の中山や、あるいは浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』(SB新書) : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期の山下ゆさんなどは、自分の消滅という意味での死の恐怖が、理解できないらしく、個人的にはそれが驚きであった。
なお、著者の感覚でも、実際に話してみてこの死の恐怖を理解してくれる人は少数派らしい……。
タナトフォビアについてはまさに自分が抱えているものなので、隙あらば自分語りがいくらでもできてしまう。自分のことについては、この記事の最後に書くことにする。
なお、この記事は、この本についての紹介がおよそ7000字、後半の自分語りがおよそ2万字、という異常な記事です。
序章 怖がる人
タナトフォビアは、心理学・精神医学的には定義がなされていない。
フロイトが名付けたと言われている
第1章 予習する人 中山祐次郎 外科医、作家
ACP(Advance Care Planning)というのを必ずやっている、と。つまり、「あと3ヶ月くらい生きられます。どうしたいですか」と。その前に、あとどれくらい生きられるか知りたいか、知りたくないか。家族には伝えるか、伝えないか、の確認があるわけだけど。とにかく、これが大事だよ、と。
死の恐怖について患者から言われたことは実はあんまりない。医者に対して患者はそういうことを言わないものだ、と。ただ、看護師には言っている場合がある。看護師の中には患者がそういうことを言いやすい人、というのがいる。ただ、そういう人は絶対に他言しないから、患者がなんて言ってたかは分からない。
また、医者に対して患者は自分の気持ちをあまり打ち明けないという前提のもとだけど、死の受容の5段階を典型的に辿る人は見たことがない、とも。
終末期の苦痛というのは完全には取り除けない。主観的な痛みの指標で0~10あげてもらうのがあるけれど、2~3まで減らせればよいほうで、5くらい残ってたりする。なので、最後は、セデーション(鎮静)をする。意識レベルを下げてしまえば、苦痛もおそらくなくなっているだろう、という考え。
で、病院で亡くなる場合、ほぼ必ずセデーションするだろうから、実際に死ぬ瞬間に意識が残っているということはあまりない、と。
死に対して「死を予習する」とか「死を分解する」のがいいのではないか、と中山は考えている。
遺書を書くとかACPとか。分解というのは「目が見えなくなったらどうなる」とか「歩けなくなったらどうなる」とか考えてみること。
死の恐怖はおそらく3種類あって、後悔によるもの、痛みや苦痛によるもの、無に対するものがある。で、中山は、前2つは分かるけれど、最後の1つは自分には分からない、と述べている。
筆者のいうタナトフォビアは、最後の3つ目で、後悔や苦痛とは関係がない。仮に、後悔や苦痛がなかったとしても怖いだろう、という話。
死ぬ直前に恐怖感が増大するということはあって、緩和ケアの一環として抗うつ薬が投与されることがある、と。その恐怖は抑うつ状態によるものと考えられたうえでのこと。中山は、抗うつ剤を投与することに懐疑的で、緩和ケア医と対立したこともあったらしいが、今は受け入れている、と。
患者をみてきて、確かに死は受容できるものではないと思うけど、セデーションでぼんやりしてるから怖くはないだろう、とも。
第2章 共に怖がる人 橋爪大三郎 宗教社会学者
先ほどあげた山下ゆさんの書評で、橋爪の章については
この対話はかなり説諭調でして、全体的に意外性はないですが、こういう議論が初めての人には面白いかもしれません。
(...)
(森岡との対話は)同じ思想系でも橋爪大三郎との対話よりも噛み合っている感があります。
以上のように書かれていたことがあって、橋爪の章はやや引いた感じで読み始めていたのだが、生きているという事実があるだけで復活と同じこと、といったあたりに、個人的には結構「おお」という発見というか、なるほど、そういう捉え方はありうるね、ということを思った。この箇所については、森岡との章でもう少し深掘りされることにはなる。
嚙み合っているか噛み合っていないかでいうと、別に話が噛み合っていないわけではないのだけど、この章は、橋爪よりも、筆者が橋爪から何を引き出したいのか分かりにくい、というところがネックに思えた。
怖い理由は説明できないというのを、大澤『恋愛の不可能性』を引き合いに出してたりしてた。
日本で仏教的な死後の世界である、三途の川とか四十九日とか閻魔様とか、元ネタになっている経典があるのだが、それはインドから来たものではなく、中国で作られた偽経で、しかもさらに元ネタがあって、道教由来らしい
あと、地獄絵図とかは、庶民に仏教を広めるためのマーケティングだとか、戒名は完全に日本オリジナルのものだよ、とかそういう豆知識とか
自身の世界観として、唯物論的リアリティと現象学的リアリティの二重構造になっている、と
そしてその二つは、ぐるぐると循環しているが、このぐるぐるから抜け出せるのは言語だ、とも。
橋爪自身は、ユニテリアンらしい
ユニテリアンは、キリスト教だけど、Godとかはほとんどいわない。The GreatとかThe Supremeとかいう
神なりなんなりというのは、クラウドのようなもので、そこに「私」のバックアップデータがあるのだ、と。それがもう一度ダウンロードされるのが「復活」
でも、誰かに何かに覚えておいてもらわないとしても、ただ、私が存在しているという事実さえあればいいのではないか。その事実は確実なことなのだから。そして、時間というものはないのかもしれないのだから、とにかく、その事実さえあれば十分なのだ、と
ユニテリアンってちょっと興味あるな。
唯物論的リアリティと現象学的リアリティの二重構造の話と、最後の、その事実さえあればいいのだ的な話については、あとで「自分語り」の中でも触れたいと思う。
この章は筆者が、宗教の話、結局フィクションじゃないか、とダダをこね続けているような展開になっていて、宗教社会学者にそれ以上の何を求めているのか、と見えてしまうのが読んでいてひっかかるかなあ、とは思った。
信仰を持つと楽になるような気がするので信仰を持ってみたいのだが、難しい、という気持ち自体は分かるんだけど。
第3章 希望の人 渡辺正峰 神経科学者
渡辺については渡辺正峰『脳の意識機械の意識』 - logical cypher scape2を読んだことがある。
本書に登場する5人の中では、唯一、自分が著作を読んだことがある人だ。
- OSとしての意識
瞑想中に、無の感覚になったあとの残るものがあって、渡辺はそれを「OSとしての意識」なのではないかという。
何人かの哲学者に聞いてみても、何か分からない、自己が近いのではないか、といわれたとのことだった。
自分は、瞑想をしたことがなく、瞑想についての知識もないのでどういう状態なのかよく分からないが、内受容感覚のみが残って、その感覚によってもたらされる現象性意識なのでは、と思った。
なお、内受容感覚と意識や自己存在感の関係については、フリストンや乾が論じている。
内受容感覚の予測と内臓感覚のフィードバックの予測誤差が小さい場合、自己存在感が高まると考えられている
乾敏郎『感情とはそもそも何なのか』 - logical cypher scape2
フリストン は、内受容感覚の精度が感情や意識と関わっていると考えている。精度が向上することで意識に上ってくる、と。
外環境についての意識は、単純に外受容性の知覚から生じるのではなく、同時に内受容感覚からの信号の精度が上がるときに生じるのではないか、と。
乾敏郎・阪口豊『脳の大統一理論』 - logical cypher scape2
意識のアップロード技術について、目標は20年後だと語るが、ずっと20年後だと言っているという。まだスタートラインに立てていない、と。資金調達が必要で、それを今は色々やっているところ。
意識の謎は意外と共有されていない。神経科学者であっても、意識が謎であることが分かっていないことが多いという。
もし意識のアップロード技術が実現した場合、社会がどのように反応するか。一気に変化するのではないか、と渡辺は語っている。ある一線を越えれば、みんなやるようになるのではないか、と。一方で、規制が整備されていくかもしれない、とも。
ところで、これはどこか別のところでも読んだ記憶があるのだけど、渡辺研の院生たちは死への恐怖を持っている人たちが多いらしい。
意識のアップロードは、死を恐れる、死を逃れたい人にとっての希望の技術だ、というのはまあ分からんでもないし、そういうSFは多く書かれてきたと思う。
また、意識のアップロードなるものが本当に可能なのかどうか、渡辺の研究は純粋な知的興味の上でも結構注目はしている。
ただ、意識のアップロードで本当に死を逃れられるのかというのは、原理的にはそうかもしれないが、実践的・運用上は結構難しいのではないか、ということも最近は思い始めている。
アップロード云々の前に、よく、機械は不死と言われて、ロボットSFだとロボットが人間より長命だったりするが、現実はそうでもないのでは、と。家電の故障と買い換えの頻度を考えると、機械って人間より短命では、と思わされる。
意識のアップロードは、意識のデータ化であり、ハードウェアは乗り換えればよいので、ハードウェアは故障しても大丈夫、という考えもあるし、意識のアップロードを描くSFはそれが前提になっているとは思う。
いやでも、実際問題、ファイルの管理って結構大変じゃないですか。アプデしたらファイルが読み込めなくなったとか、逆にアプリ側のサポートが切れてしまったとか、なくはないし、あと、保存されているだけじゃ意味がなくて、どこかで意識ファイルを走らせてもらわないとアップロードした意味がないけど、その計算資源はどうやって確保するの、というのはまあ既にSFでも書かれている問題ではあり……
要するに、外部からスイッチ切られるとそれで終わりだな、という身も蓋もない問題が待っている……。
最近のAIでもデーターセンターのための電力消費が問題になっているけれど、人工意識を維持するのにどれくらいの計算資源・電力が必要になるのか。かなり身も蓋もない経済原理にさらされる可能性もある。
人体の機能を色々機械化されてきたけど、結局、生体というのはかなり安上りなんだろうな、とも思う。
あらゆる技術にいえる話でもあるし、実用化しても一部の人しか使えないのではないかとか言ってたら、医学そのものが進歩しなかっただろうから、このことを理由に、意識のアップロード技術開発に水を差すようなつもりは全くないのだが、じゃあ誰もが恩恵を受けられるようになるかどうかは、また別問題のようにも思う。
ところで、この章の最後で筆者が、自身の死の恐怖の感覚を語っているところがあるのだが、結構共感するところが大きいので引用しておく
楽しかったとか幸せだったな、と考えているうちに、人生であと何回こんな日がくるだろうかとか考える。この幸せな気持ちを記憶にとどめたい、死の間際に思い出すかな? とか考える。そうした、死んだらどうなるか? 無だとしたらどんなかな?(...)自分がいなくなった後の永遠の時間に私はいない。宇宙がなくなった後ももちろん私はいない。その無を体感しようとしてしまう。(...)その時にすさまじい恐怖を感じる。
第4章 対峙する人 森岡正博 哲学者
自分は、森岡の著作は未読だが、SNSをフォローしていたことがあり*1、多少、何となくどういうことを言っている人なのかは知っているつもりで、なおかつ、読んでいてもこの章は納得と面白さが一番あったかなと思う。同意・共感しないところももちろんあったけど。
死の恐怖について、すでに慣れた、とか。
宗教を信じようと思ったがその道にはどうしても進めなかった話
しかし、例えば、眠ってもまた朝になったら起きる、ということを信じているように、信じていることはある。信仰はあるかないかの二分法ではなく、その中間がある。
死の恐怖を感じるようになったきっかけになるような具体的な出来事はない。子どものころ、突然、その観念が降ってきた。
死の恐怖を感じる人と感じない人では、相互に理解不可能なのではないか
死の恐怖の正体は「移行」
永遠の無そのものが怖いのではなく、有から無への移行こそが怖いのではないか、と
これはすごく理解できる話だった
また、現代の哲学では、死の害についての議論が中心で、恐怖については議論されていないので、のれないという
これも確かに、言われてみればそうかも、と思った
アイデンティティとしてのタナトフォビア
死の恐怖を消すことができるとしたら消したいかと聞かれて、それはしたくない、と
死の恐怖を感じなくなることもまた怖い、と
筆者から、ニーチェが晩年発狂したのは死の恐怖のためかという質問があり、それは違うだろう、と
森岡は、ニーチェはあまり「私の死」については考えていなかったのではないか、と。彼は永劫回帰思想を持っていたので。死の恐怖に対する方法として永劫回帰があるけれど、あれは、やはり本当に強い人じゃないともてないだろう。本当にありとあらゆることがいいことも悪いことも含めてすべて繰り返すということなので。
死について考えた哲学者としてハイデガーもいるけれど、ハイデガーも恐怖については取り上げていない。
最近、現象学から感情の哲学というのが生まれてきている。今後、死の恐怖は、感情の哲学で取り上げられるようになるのではないか、という森岡の見解。
死にゆく過程というのは、色々なものを奪われていく、ネガティブな過程だと考えられる。
しかし、生というのはネガティブのみだろうか。何事にもネガティブな面とポジティブな面の両面がある。生きているということは、刻一刻と死に向かっていくということであるが、その中で、楽しいこと、価値あることもある。
それらは全て消えてしまって無になるのか。
生とは無意味だ、という考えは、おそらく死の恐怖よりも広く、そう思っている人が多い考えだと思われるが、全て消えてしまって無になるわけではなく、過去は過去として保存されているのではないだろうか、と
例えば、ベルクソンはそういう考え方。
何かを知覚するとき、知覚対象は外部にある。それと同様、何かを思い出す時、その思い出す対象は外部にあるのだ、とベルクソンは考えていた、と
保存されていたとしてもアクセスする私はいなくなるのでは、という筆者の問いに対して、しかし、生は無意味だという考えとは一線を画しているでしょ、と
無条件の愛
死の恐怖があるから、無条件の愛が何であるかわかった、ともいう
ここでいう無条件の愛は本当に無条件なもの。この地球上に、とんでもない暴力や犯罪があることすらいとおしい、という愛。
ここは読んでいてよくわからなかった部分ではある。
反出生主義とタナトフォビア
死んでしまうなら、生まれない方がよい、という形の反出生主義があるが、これは反出生主義の中でもマジョリティーではないので、あまり議論されていない
タナトフォビアと反出生主義は結びつく話ではあるが、まだあまり探求されていないところだ、と。
第5章 超越する人 貴志祐介 作家
何故、貴志祐介かというと、登場人物の1人がタナトフォビアである小説を書いていたかららしい。
さて、貴志自身も、幼い頃から死が怖いと感じていたが、そこには親との関係があったらしい。
自分の死だけでなく親の死も怖く、そこには、親から認められたいのにその機会が失われることに起因していたらしい。
父親が死んだことを機に、死への恐怖は消えていったという。
筆者も、親との関係について何か自身にも思い当たる点があるような節であった。
確かに親が死ぬことについての恐怖、というのも分かることは分かるのだけど、親との関係の話はあんまり自分には当てはまらない話だなとは思った。
あとはどちらかというとこの章は、ホラーフィクションについての話をしている感じだった。創作についての話でもあり、その点で面白くないわけではなかったし、また、死とか信じることとかについて、他の章と呼応しあうところもあったが、ここで細かく色々拾うほどではないかな。
生きていること自体が異常
これは全くその通りだと思うし、タナトフォビアにとってこれが1つの慰めになり得る、というのも分かる。
が一方で、結局のところ、自分が今ここで生きているということが、自分にとってはこれだけ確かで自明のことであるのにもかかわらず、世界にとってはそうではない、ということのギャップこそが、死を怖れる源泉になっているようにも思う。
最後に、何人かの辞世の句を紹介して、それを論評していくところが面白かった。
在原業平のは、一番優れていて、一番嫌いなのは浅野内匠頭のもの。この人、何も考えていないんじゃないかと手厳しい
また、本因坊算砂のものは、こういう境地に立ちたいと思わせるものだという(「死ぬるばかりは手もなかりけり」)
形式に対する感想
本書はインタビュー形式で書かれており、ダッシュ記号のあとにインタビュアーの言葉、インタビューイの苗字のあとにその人の言葉、というように
――あなたは死が怖いですか
篠原 怖いですね
ところで、本書は、このダッシュ記号の中に、インタビュアーが内心で思ったことなど、普通の文章であれば地の文に相当するような内容と、インタビュー時のセリフとしての言葉が同居しており、後者は鉤括弧でくくられている。
――私はこのことを聞いてみなければと思った。「あなたは死が怖いですか」
(これはあくまでも例文。実際に本書の中にこういう内容があるわけではない。ただ、ダッシュとカギ括弧は実際、こんな感じで使われている)
こういう形式で書かれているのを自分は初めて見たので、ダッシュ記号の中にカギ括弧が入ってくるという形式にかなり戸惑った。
地の文に相当する内容を書く場合、ダッシュ記号を用いなくてよいのではないか、と思ったし、実際、多くのインタビュー記事はそうなっているのではないか、と思う。
まあ、別にどういう風に書いたって構わないといえば構わないのだが、それなりに、癖の強さを感じてしまった
そういえば、この著者は、冷凍睡眠・クライオニクスとかはどう思ってるんだろう。自分はそっちの方面、全然知らない
あーあと、唐突に思いついたけど、稲葉振一郎とかもこのテーマで話聞いてみたいかもしれない
自分語り
冒頭にも述べたが、以下は、かなりの長文になる。ので、別に読まなくてもよい。
全部で2万字くらいある。
ただし、2万字中4000字ほどは、過去に自分がSNS等で、死の恐怖に言及した際の投稿の過去ログをサルベージしたもの。
それでも1万6000字もあるので、目次をつくっておこう
- 死は怖くないという議論への反論
- (1)意識の消滅という意味では睡眠も同じであり、睡眠が怖くないのだから死も怖くないはずだ
- (2)死後は、恐怖を感じるような主体は消失しているので、恐怖することはない。あるいは、死そのものは経験されないことなのだが、恐怖することはない
- (3)無が恐怖の対象であるならば、死後だけでなく生前もまた無であるのだから、生まれる前のことも恐れるべきだが、生まれる前のことは怖れていないだろう(だから、死についても怖れなくてもよい)
- 自分にとっての恐怖の源泉
- 自己の「唯一性」ないし「有限性」
- 寿命の短さ
- 時間の不可逆性
- 不可避性
- 経験不可能性
- 恐怖の経験について
- 感情と信念、あるいは感情のトリガー
- 恐怖の起きる頻度、タイミング、どのような感覚か
- 死の恐怖以外で自分が過去に経験した非合理な感情
- 「死にたくない」と「死が怖い」の関係
- 「死にたくない」の反対は?
- 恐怖感をもつことの不安
- 過去投稿
自分には死ぬことへの恐怖があるが、それは、自分の意識が完全に消滅してしまうことに対する恐怖である。
無になることへの恐怖、と言い換えてもよい。
無は経験不可能であり、それが不可逆であり、不可避であることが恐ろしいのである。
ところで、こうしたタイプの死への恐怖には、わりと定型の反論みたいなのがあるので、それにまず答えておきたい。
死は怖くないという議論への反論
- (1)意識の消滅という意味では睡眠も同じであり、睡眠が怖くないのだから死も怖くないはずだ
これについては、完全に個人的な反論になるが「いや、睡眠も怖いです」となる。
僕もまた、死への恐怖を幼少期から抱いていたのだが、その発端は、眠ることへの恐怖だったのではないか、と思う。
大人になった今、睡眠への恐怖はほぼないが、死への恐怖を感じるのはほとんどの場合、ベッドに入ってから眠りに至るまでの時間に生じていて、しばし眠れなくなるのだが、幼少期にあった眠ることへの恐怖が入り交じっていることはあるのだと思う。
無論、ある程度の経験を積むと、(本書でも言われている通り)睡眠してもいずれ覚醒するということに対する信頼のようなものが生じるので、上述の通り、睡眠に対して恐怖を覚えることは確かにない。また、ある程度大きくなってくると、眠ることの気持ちよさも分かってくる。
とはいえ、「睡眠が怖くない」は自明なことではなく、睡眠-覚醒のプロセスを繰り返し経験した結果、睡眠については恐怖が鈍麻してしまっただけで、そもそも、睡眠に対しても恐怖を覚えることはあるのだ、と反論しておきたい。
今はそんなに怖くないと書いたが、しかし、ベッドの中で眠りに入るのを待っている時、「もう少しすると意識が消えるのか」ということを意識すると、正直今でも怖くなる時はある。寝るにあたっては、そういうことを考えずに済む寝落ちが理想。まあ、寝落ちってあんまりよくないらしいが。
- (2)死後は、恐怖を感じるような主体は消失しているので、恐怖することはない。あるいは、死そのものは経験されないことなのだが、恐怖することはない
前段はその通りだが、そこから後段は帰結しないでしょ、と。
まず、タナトフォビアは、死後の世界を恐れているわけではない、ということ。例えば、地獄に落ちることへの恐怖ではない。というか、地獄がもしあるのであれば、タナトフォビア自体は癒える。
また、入眠の瞬間や、麻酔等で意識がなくなる瞬間は確かに経験されないので、死そのものが経験されないことは理解できる。また、多くの病死等の場合、本書で中山が述べている通り、死ぬ頃には既に意識を失っているだろう。
とはいえ、タナトフォビアにとって死の恐怖とは、そういう経験不可能な領域に放り込まれてしまうことへの恐怖なので、経験されないから怖くない、ではなく、経験されないからこそ怖い、のである。
本書の森岡の言葉にならえば、無という状態そのものというよりは、無という状態への「移行」が怖いのである。
タナトフォビアへの反論として、死そのものは経験不可能だから恐怖も生じない、と言う人は、タナトフォビアのことを、死の瞬間に何かとてつもない苦痛が生じ、その苦痛を恐れているものとでも誤解しているのではないだろうか、という気もする。
むろん、苦痛自体は嫌なので、苦痛を感じるのであればそれもまた出来れば御免蒙りたいところではあるが、タナトフォビアの恐怖の対象は、苦痛や何らかの不快な経験ではなく、そのような経験すら成立しなくなること、である。
- (3)無が恐怖の対象であるならば、死後だけでなく生前もまた無であるのだから、生まれる前のことも恐れるべきだが、生まれる前のことは怖れていないだろう(だから、死についても怖れなくてもよい)
この指摘については、知ったときに、なるほどね、とは思った。
しかし、生まれる前のことを怖れないことと、死を怖れることは矛盾しない。
これも、本書で森岡が述べている通り、タナトフォビアにおける恐怖の対象は、無そのものというよりは無への「移行」だから、とも言える。
ただ、むしろ自分自身の感覚においてより正確に言うと、時の矢の不可逆性により、不可避だから、である。
時は、過去から未来に一方向に流れており、自分はそこから逃れることができない。ゆえに、死もまた不可避である。この不可避性は、恐怖の源泉の1つになっている。
時の流れが、未来から過去に向かうことはないので、自分が次第に若返って自分の生まれる前の状態に戻ることはない。だから、生まれる前の状態に対しての恐怖はない。
もし、時間の流れが逆転することがあるのであれば、生まれる前のこともまた怖くなる、と思う。
ジェットコースターは、坂を上がっていく時が一番怖くて、下りてしまえばもう怖くない、みたいなものである。
自分にとっての恐怖の源泉
繰り返しになるが、死の何が怖いのかといえば、自分という意識が消滅し、無となることであり、そしてまた、自分が無になるという状態が、原理的に経験不可能であるが故に想像不可能・理解不可能であることに由来する。
だが、それ以外にも源泉がいくつかあるように思えるので、それらについて述べる。
なお、ここで「源泉」という言葉は、直接の原因・理由ではないかもしれないが、恐怖を感じるきっかけになるような事柄、というニュアンスで使っている。
- 自己の「唯一性」ないし「有限性」
自分のかなり古い記憶の1つとして、以下のようなものがある。
幼稚園バスに乗っている際に、幽体離脱のような、自分と周囲を上から見下ろすような視点になり、さらにそこから、隣にいる友人の身体の中へと入り込もうとするのだが、入ることが出来ず自分の身体に戻ってきた、という経験である*2。
この経験ないし記憶の、自分にとって重要なところは、自分は他人を内から経験することはできない、自分が内から経験できるのは自分のみである、ということを強く印象づけられたという点である。
この経験は、直接的には、死の恐怖と結びつくわけではなく、むしろ独我論的な認識と結びつく。
実際、自分は10代の頃、独我論者であった。しかし、独我論自体についていうと、自分の場合、学生時代にウィトゲンシュタインの『哲学探究』についての授業を受けることで、わりと唐突に「癒えた」ところがある。
ただ、それはそれとして、自分の意識というか、自分の経験可能性というか、それが自分の肉体に限定されていることについての何とも言えない不可解さ、不思議さというのはずっと感じている。
同時代的には80億の人間がいて、要するに80億の意識が存在するわけだが、何故か「この自分」はその中のたった1人でしかない。
また、仮にホモ・サピエンスが20万年前に生まれていて、1世代100年とすれば、2000世代が経過している。1世代あたり同時代に1億人の人口があったとして、自分より過去に2000億の意識が存在していたことになる*3。そして逆に、人類がいつまで存続するかよく分からないが、未来方向にも何百億か何千億かの意識が今後存在するであろう。だが何故か、「この自分」はその中で、20世紀から21世紀にかけてのたかだか100年足らずしか存在することがない。
何かを経験することができる意識主体は、古今東西、文字通り無数に存在するのにもかかわらず、自分はその1個体に限定されている。
(ここでは、人類全体の中での自分という捉え方をしたが、宇宙全体のことを考えて、この感覚にいたることもある)
(あと、逆にここまでスケールを大きくしなくてもよくて、夜にマンションを見上げて、あの光の一つ一つに人がいるんだなって考えても、似たような感覚は持つ)
このこと自体は、恐怖の対象ではないが、このことに対しては不思議さを感じているし、時にはこれを不条理に感じることもある。
これは別に、誰か他の人間になりたい、ということでは必ずしもない。
自分が今この自分であることに不満足感はあまりない。
また、20世紀後半の先進国に生まれ得たことは、何千億もの可能性の中では、かなり幸福な類いであろうとも思う。
しかし、それはそれとして、自分はこの自分しか経験できないにもかかわらず、この自分は100年足らずしか存在しえないのは何とかならんものか、と思ったりはする。
何千億もの可能性があるのにも関わらず、自分が経験できるのは現にいまここの自分の経験のみである。あるいは逆に、自分にとって唯一確実な経験はこの自分の経験のみだけど、それ以外に何千億もの意識が存在する・存在した・存在するだろう、ということ。
このあたりで、死の恐怖が頭をもたげてくる。
むろん、自分がこのたった1個体しかないことや、その個体の存続年数がせいぜい100年程度であることから、即座に、死が怖い・死にたくないが導出されるわけではない。
しかし、このようなことを考えている時に、死への恐怖感が湧き上がってくることがある。貴志の章でも書いたが、自分にとって自分の意識経験というのは非常に確かなもので自明であるにもかかわらず、世界全体からするとそれは実に些細な領域に限定されたものでしかない。あるいは、橋爪がいう唯物論的な見方と現象学的な見方。その2つの間にはギャップがある。
このギャップをのぞき込もうとすると、クラクラとしてしまう。しかし、このクラクラしためまいは、まだ恐怖ではない。
死は、このギャップへと突き落とされるもの、あるいは、このギャップを押し潰してしまうようなものだから、怖いのかもしれない。
自分が消滅しても世界は残る。そりゃ、そうだ、世界は残るだろう。そのことを疑いはしないし、そのことは別に怖くはない。しかし、それが一体どういうことなのかが(唯物論的には問題なく納得できるのに)(現象学的には)全く想像不可能なのが怖いのではないか。
(そもそも、世界が残ることを唯物論的に納得している主体は、この自分という意識主体であるのにもかかわらず、自分という意識主体の意識経験の延長上に、世界が残ることを位置づけることは原理的に不可能である、ということ)
なかなかうまく言語化できないが、こういうことだと思う。
ここまで書いてきてようやく、冒頭の話とのつながりが整理できてきた。
つまり、冒頭のエピソードは、自分は自分の肉体からは世界を経験できるが、例えば隣にいる友人の身体の中に入って世界を経験することはできない、ということであったが、それはつまり、自分の意識は、自分の肉体において空間的に限定されていて、その外にはいけない、ということで、一方、死というのは、自分の肉体が時間的に限定されていて、肉体が終わったあと(時間的な外)にはいけない、ということで、この2つは類比的なのだろう。
自分の意識経験は、空間的にも時間的にもこの個体に限定されていて、外に出ることはできない。ただ、空間的に外に出られないことは必ずしも気にしなくていい。そもそも、意識が空間的に自分の外に出てしまうことはないから。しかし、時間的な外には、いずれ必ず出ていってしまう。このことが問題なのだ。
- 寿命の短さ
まあ、生物として見た時、人間は寿命の長い方だとは思うが。
しかし、平均で80年くらい、最大で120年くらいというのは、主観的には短く感じるのである。
老いることによる限界があるわけで、より年老いて自分の身体機能が衰えたときに自分がどう思うかは分からないが、今の自分は、人生の半分を過ぎた可能性があり、その時点で、あと半分というのは短いなあと思うし、もっと若いときからそう思っていた。
不死は不死できついんじゃないかという話はあって、多くのフィクションで、不死者というのは何か良からぬものとして語られてきたわけで、もしかしたら不死というのには(不老であったとしても)何かまずいことがあるかもしれないが、とはいえ、120年は短いんじゃないの、という気持ちはある。
もしかしたら、500年とか1000年とか生きたら、死んでもいいと思えるのかもしれないので、即座に不死者になりたいとまで言うのは一応慎重さをもって避けておいたとしても、あと数十年で死んでしまうのは嫌だなあとは思う。
100年後には、今、地球上にいる人はほぼ全員死んでいるってすごく不思議では?
- 時間の不可逆性
自分は、時間が一方向にのみ進む時の矢であること、不可逆であることにも不条理さを感じている。
意識経験における、という限定をつけてもよい。
過去に住んでいた土地を来訪することはできるのに、過去に経験した時間を来訪出来ないのは何故なのか
これは必ずしも、人生をやり直したいことを意味しない。
『スローターハウス5』や「ここがウィネトカならきみはジュディ」というSF作品では、人生の経験が、時系列に対してランダムアクセスとなっている人が描かれている。
あれらの作品は、自分の意図や希望を無視して別の時間へと飛ばされるのでかなり厄介だし、そもそも幼少期においてどうやって自己同一性を確立するのかなどといった問題があるとは思うが、それはそれとして、時系列を必ずしも一方向にのみ進むわけではない形の経験が想像可能なのだ、といった意味で面白い作品であった。
もっとも、ああいう生き方をすると、死はどういう風に訪れるのだろうか、とか想像すると、仮に老衰で亡くなるとしても、場合によっては、子ども時代を経験した直後で死ぬことがありうるので、それはそれで恐ろしいなとは思う。
ただ、時系列を無限に分割してジャンプし続けると(?)、人生の期間は80年だとしても、主観的な経験は無限年になるのか、とか思ったりしたことはある。
あるいは、そんなややこしい方法ではなく、フィクションによくある類型として、ループものがあるけれど、ずっとループし続けることで、意識の消滅が回避できるならば、それはそれでありなのか、というのも少し考えることはある。
(つまり、時間が不可逆であるならば、死をできるだけ避けるためには長命でありたいと思うが、時間が可逆だったりループだったりランダムだったりする場合に、必ずしも長命でなくとも死は避けられるのかもしれない、と思うことがある)
(と、あーだこーだ書いたが、時間が「時の矢」として一方向性のみに流れることへの異論(?)という意味では、ループもランダムも、単に装いがSFっぽいというだけで、輪廻とか永劫回帰とかの亜種に過ぎない。はなから物理的には不可能な話なわけで、筆者(浦出)からは「そんなのフィクションだ!」と言われてしまう話だろう。死の恐怖を逃れるための実践的な方策というよりは、死の恐怖がなんなのかを探るための思考実験のようなものと捉えてもらった方がいいかもしれない)
本書で、橋爪や森岡が、自分が存在した事実はあるのだから、それが慰めたりうるのではないか、という話をしていた。
こう考えることで、死の恐怖がなくなるかといえば、なくなりはしないとは思うのだけど、なるほど、とは思った。
永遠とは何か、という時、人はそれをものすごく長く続くことだ、と思いがちだが、そうではない。永遠とは時の流れが流れないことなのだと思う。
時の矢が静止して、時間の全体を同時に把握することが、永遠の相という奴だろう。
永遠の相の下で考える時、確かに全ての事実というのはただ在るのであって、消えることはない。何故なら、そもそも時間が流れていないので。
問題は、(少なくとも人間の、ないし自分の)意識経験というのは、ネゲントロピー的な生命現象の下で生じる、つまり、時間の流れがあるからこそ生じるものであり、永遠の相の下では生じいないのではないだろうか、ということだ。
(それは森岡に対して、筆者が感じた、データが保存されているとしてそれにアクセスすることができなかったら無意味では、という疑問と同じことである)
しかし、時間順序が今あるのとは別の形で流れることがあるのであれば、主観的には、消滅を免れるような経験が生じるかもしれない(し、生じないかもしれない)。
いずれにせよ、自分にとって死の恐怖に、時間の不可逆性が結構複雑に絡みあっているのではないか、と思っている。
- 不可避性
時間が不可逆であることからの当然の帰結だが、死は不可避である。
あるいは生命体である以上当然のことだが、死は不可避である。
ジェットコースターが怖ければ乗らなければいいし、高所恐怖症なら高いところに行かないようにすればいいけれど、死については、怖くても避けようがない、というのがまた恐怖を煽るところがある。
あと、時間は止まらない、ということも。
ジェットコースターの怖さというのは、乗ると後戻りができない、というか、「止めて」って言ってももう止まらないところにもあるのではないか、と思う。
刻一刻と死に近づいていって、それは止められない。怖い。
- 経験不可能性
自分の祖父母とか友人とかですでに亡くなっている人がいたりするわけだけれど、ふとした時、「ああ、あの人はもうこのことを知りえないんだなあ」と思うことがある。「もうすでに亡くなっていたら、あの出来事は知らないんだな」とか
で、だからまあ、自分も死んだらそういうことになるんだと思うのだけど、死んだ後のことは自分には知りえない、知ったり経験したりすることがそもそも不可能、という状態がどういう状態なのかさっぱりわからないのが、たぶん怖い。
まあ、それだったらやっぱり、生まれる前のこともそうなんだけど
100年後なんて、そんなに先のことではないと思うんだけど、その時もう自分は世界に存在していない、というのはやっぱりよくわからないというか、想像の埒外にあって。
自分の祖父母とか、亡くなった友人とか、確かにこの世界に存在しなくなっているんだけど、じゃあ自分がこの世界から存在しなくなるってどういうことなの、と。
まあ、わからないから怖い、ということになる。
わからないことが怖いのは、別に死に限ったことではないだろう。
ただ、日常的な範囲だと、わからないものを怖れている場合、「怖がってないで、やってみればわかる」という叱咤が入り、それは大体有効だったりもする。しかし、死の場合、やってみてわかる保証はない、というか、死ぬと、わかったりわからなかったりすること自体ができなくなる。一度死んでみて「なるほど、死んだらこうなるのか」とわかることはできない。
そういえば、死んだ後も残るもの(作品とか仕事とか、一番よくあるものとしては子どもとか)を作ることとか、死への克服方法として挙げられることがあるけれど、あんまりピンとは来ない。結局、自分の経験不可能性が問題なので。
恐怖の経験について
- 感情と信念、あるいは感情のトリガー
ここまで「死の恐怖」や「死が怖い」という言い方をしてきたが、冒頭でも述べたとおり、別に年がら年中恐怖を抱いているわけではない。
上述の分析は、「死が怖い」を「死にたくないという信念」*4に置き換えても概ね成り立つ。
「恐怖」は感情であり、これは意識的に経験されるものであり、意識されていないときは存在しない。感情は意識経験なので現象的である(ここでいう「現象的」とは「経験質(クオリア)を伴う」と言い換えてもよい)。
一方「信念」は、無意識下でも成立しているものであり、意識されていないときも存在する。現象的ではない(=経験質(クオリア)を伴わない)。
「死にたくない」という信念について、四六時中意識したり考えたりしているわけではないが、特に考えていない間もずっと持ち続けているものである。
「死が怖い」という感情は、生じている時と生じていない時がある。その意味で、「自分は、死が怖いという感情を引き起こしやすい傾向性を持つ」という方が、自分の常態を示すには、より正確だと思う。
そして、「死にたくない」という信念を持っていることにより、死が怖いという感情を引き起こしやすい、のだと思う。
ところで自分には、集合体恐怖(トライポフォビア)もある。これはブツブツを見ると背筋がゾッとするというものだが、ブツブツを見なければ当然ゾっとすることはない。だから、なるべく、そういうものには遭遇しないように気をつけて生活している。
「ブツブツが怖いです」とは確かに言うけれど、ブツブツを見ていなければ恐怖経験は生じていないので、これも正確に言うならば「ブツブツを見ること怖くなる、という傾向性を持ちます」ということになるだろう。
しかし、トライポフォビアとタナトフォビアには違いがあって、トライポフォビアは恐怖が生じるトリガーが分かりやすいのに対して、タナトフォビアはトリガーが分かりにくいのである。
まあ、寝ようとしてなかなか寝付けない夜、というシチュエーションで生じやすいのだが、もちろんこの時、自宅の寝室で寝ているのであって、例えば命の危険にさらされているわけではない。
つまり、差し迫った死の危険が、恐怖のトリガーになっているわけではないのである。
トライポフォビアは、目の前にボツボツが見えると生じる(想像しても鳥肌が立つことはあるが)のに対して、タナトフォビアは、目の前に死があるから生じるというわけではない。
また、自分がいつか必ず死ぬことがトリガーになっている、ともいえなくもないが、それだと、年がら年中四六時中、恐怖感情が生じているわけではない、ということの説明がつかない。
自分はここまで、かなり長いこと、死が怖いとはどういうことかを書いてきたのだが、しかし、これを書いている間、別に恐怖の感情にとらわれたりはしていない。
つまり、単に自分がいつか必ず死ぬという事実や、その事実について考えているという条件のみで、恐怖のトリガーが引かれるわけではなさそうである。
ただし、「死にたくない」とか「死は嫌なものだ」とかいった信念は常に持ち続けている。こうした信念は、単に自分がいつか必ず死ぬという事実のみからもたらされているように思う。
- 恐怖の起きる頻度、タイミング、どのような感覚か
恐怖自体は、いつどのような時に生じて、どのような経験なのか。
たいていは、就寝前、なかなか寝付けないような時に生じる。上述の通り、幼少期には睡眠そのものも恐怖だったので、それの名残ではあると思う。寝付けないでいると、意識が消滅することを怖れ初めて、益々寝付けなくなる、という悪循環に陥ることがある。
完全な覚醒時に生じることは稀だが、かといって、全く生じないわけではない。入浴時など、1人でいるときに起こりうる。
誰かと話している時に生じることはなかったような気がするが、隣に誰かが寝ていたとしても生じる。子どもの寝かしつけをしていて、子どもは寝たようだが、今自分が動くと起きてしまうだろうからしばらくこのままでいなければならない、というような時にも生じたりする。
こうしたことが年に数回程度起きるが、人生の中では、年単位でほとんど起きなかった期間もある。
また、1回起きると、半月から1ヶ月ほどの期間において、週に何度か起きるということを繰り返すことが多いが、まあ何回か繰り返すと、またしばらくの期間は生じなくなる。
寝付けなくなるといっても、1~2時間程度なのではないかと思うが、時計を見るとより寝られなくなるので、時間を計測したことはない。最終的には、どこかで入眠していて、恐怖の経験もそこで終了する。
なので、タナトフォビアは、自分にとって生活に支障をきたすようなものではない。
(別に死の恐怖以外のことが原因で寝付けない、ということもよくある。ただ、死の恐怖は、単に寝付けないというだけなく、恐怖という不快な感情が伴うので、単に寝付けないことと比べて、より嫌な経験なのは間違いないが)
トライポフォビアは、背筋がぞっとして鳥肌がたつような感覚だが、タナトフォビアは、みぞおちのあたりを押さえつけられるような感覚である。明日、何かの発表があって緊張で不安になる、という時の感覚に近いかもしれない。感情の種類としては「恐怖」と呼ぶのが正しいと思うが、身体反応としては「不安」に近いかもしれない。
死が不可避である以上、これに対する恐怖を解消する手段がないので、それが辛い。
ただ、恐怖の感情というのは長期間持続しない。眠りに落ちれば消えるし、子どもの寝かしつけ中に生じたような場合、明るい部屋に戻ってくれば気持ちが落ち着いて消えることが分かっている。
自分は、自分のタナトフォビアのことを今まであまり人に話したことはなかったし、書いたこともなかった。
これは、恐怖の感情は繰り返し生じるとはいえ、一回一回についていえば、待てば消えることが分かってきているので、消えた後はまあ、人に話してもな、と思うからでもある。
あと逆に、恐怖感が消えた後に改めて言語化することで、掘り返したくない、ということもあるが。
「死にたくない」とか「死は嫌なものである」という信念は信念として持っているわけだが、それとこの恐怖の経験というものが、どのような関係にあるのかは正直よく分からない。
もちろんこうした信念が意識の上にのぼってきたり、こうした信念について検討したりする時、恐怖の経験が生じやすい。
あるいは、上記に記した、自己の唯一性、有限性、寿命の短さ、時間の不可逆性、不可避性といったことを思うときにも、それが死による自己の消滅への考えにつながり、同じ恐怖の経験が生じやすい。
今ここでは、抽象的な言葉で述べたが、こうしたことへ思考が至るきっかけはもっと具体的な出来事であって、何か考えているうちに不意にこういう方向へ思考が至り、恐怖感が生じてくる。
自分としては、これについて考えると恐怖感が生じそうだなというテーマにあたりはついているが、しかし、意外と不意打ちで恐怖感が生じてくることもある。
トライポフォビアは、ボツボツがありそうだなと思ったら、それを見ないようにするという回避行動をとることができる。そして、回避すれば恐怖感は生じない。
一方、このタナトフォビアは、この回避行動が意外と成功しなくて、回避する前に恐怖感が襲いかかってくるということがわりとある。
例えば、「自分、今40歳だなー」みたいなところから思考が飛躍していって怖くなる、というようなパターンがあるので、回避しにくい。
逆に、同じことを考えていても、全然恐怖感が浮かび上がっていないということもよくある。「自分、今40歳だな」と考えても、別に恐怖を覚えないことの方が、まあ当然圧倒的に多い。
頻度の話として、起きない時は全然起きないということを書いたが、実際、死や死につながることを考える時、必ず怖くなるわけではない、ということである。
一方で、別に恐怖感を伴わない状態で、「それにつけても、死にたくはないものよなー」みたいなことはわりとよく考えている方かもしれない。とはいえ、わりとぼんやり思っているだけで、行動があんまり伴っていない気もするな。
- 死の恐怖以外で自分が過去に経験した非合理な感情
自分はかつて、軽いうつに見舞われたことがある。抑うつ症状という奴。
なお、うつ病というのは、抑うつ症状が何日間だか以上続いた場合、という条件があるらしくて、自分はその条件には当てはまらなかった。つまり、短期間で抑うつ症状は治まった、と。
で、その際に、希死念慮のようなものにも襲われた。
脳が「死にたい」という出力を出してくるのである。
ところで、自分の中には常に「死にたくない」という信念があるので、「死にたくない」と思っているのに「死にたい」と思う、という一種の矛盾が生じることになる。
そこから、自分は「死にたくない」のだから、ここで「死にたい」という出力が出てくるのは、脳の一種の誤作動なのだ、とは思うことができた。
ただ、そう思えたからといって、その出力が止まるわけではないし、「死にたくない」という信念があるはずなのに、そういう誤出力が起きるのは、怖いし辛いものであった。
ただ、この体験があったので、抑うつというのは、自分の信念や意図と反した状態に陥ってしまうという点で、非合理で病的なのだな、ということがよく理解できた。
ところで、自分にとって死の恐怖というのは、自分の信念とは整合的な感情ではあるものの、上述のところ、トリガーが曖昧ではっきりとしないもので、条件がそろっていても、生じたり生じなかったりするものであるという点で、やや非合理な感情ではあるなと思うところはある。
自分がいつ頃からタナトフォビアだったのかは、よく分からない。
幼少期からあったのだろう、とは思う。
その一方で、子どもの頃の寝られない夜のことを思い出すとき、その原因は必ずしも死の恐怖ではなかった。悲しみとか悔しさとかいった感情に苛まれる夜が度々あった。それらの感情は、当時の自分にとって、自分という存在と強く結びついているものだと思っていた。
しかし、思春期を過ぎると、そうした感情に襲われることはなくなった(悲しいと感じなくなったというわけではない。上記の「悲しみとか悔しさとかいった感情」は悲しさ一般を指すのではなく、かなり特定のエピソードに由来する特定の悲しさを指している)。
大人になって、あれは、成長期におけるホルモンか何かのバランスの不安定さに由来していたのだな、と思うようになった。
感情というのは、脳内の化学物質によって形成されているところもあり、化学物質の分泌がおかしいと非合理な感情を味わう羽目になる。この子ども時代の自分の経験や、抑うつ状態というのはそれなのだろう。
しかし、死の恐怖は、大人になってからも残り続けている。健康な日でも起きる。
とはいえ、死そのものも全くもってよく分からない正体不明な現象だが、こうして説明しようとしてみると、死への恐怖というのもよく分からない現象なのかもしれない。
この記事の冒頭に、自分の消滅という意味での死の恐怖が理解できない人がいることに驚いた、と書いた。それくらい、死の恐怖は自分にとって自明のものだった。
それは今でも変わらないが、ただ、ここまで書いてきて、確かによくわからんものなのかもしれない、と思うに至った。
ここに書いてきたことは、自分にとって意外な内容は何一つないのだが、それにも関わらず、今まで思っていなかったことが最後に出てきた。それは、書くことによる効果なのだと思う。
- 「死にたくない」と「死が怖い」の関係
上の方では、「死にたくない」と「死が怖い」が互換であるかのように書いたり、「死にたくない」から「死が怖」く感じられやすいのだ、というようなことを書いたが、本当にそうだろうか。
「死にたくない」から「死が怖い」というのは確かにあるのだが、一方で、「死が怖い」からこそ「死にたくない」という信念が形成されたのではないか、とも思う。
鳥か卵かみたいな感じで、どっちが先かは正直よく分からない。お互いにお互いを補強しあっている、という感じはする。
また、恐怖の源泉と題して色々書いたが、それらの項目から「死にたくない」が必然的に帰結するかというのも、何とも言えない。
恐怖の源泉と題してあげた項目は、自分にとって、不条理に思えるものであって、その不条理な感じが「嫌さ」となって「死にたくない」に繋がっている気はする。
不条理さの感覚は恐怖とも結びついているのは確かだが、不条理だから怖い、というのは何か繋がりがおかしいようにも思う(不条理でも怖くないものはあるから)。
怖さはやはり、意識の消滅にこそ由来するものである気はする。
自己の唯一性や有限性は、そのことを考えると、自己の消滅を考えざるを得なくなるという点で怖さと結びついているが、恐怖の対象そのものではない、と思う。
ただ、時間の不可逆性は、それ自体が怖くなることがある。なんで怖いのかはよく分からない。不条理さを覚えるところでもあり、場合によって、それが直接恐怖感を引き起こすことがある気がする。
で、本書の中で、アイデンティティとしてのタナトフォビアというのがあった。
著者も森岡も、タナトフォビアであることが、自分が自分であることと強く結びついていて、タナトフォビア自体はなくなってほしくない、ともいう。
この点は分かるような気もするし、分からないような気もした。
自分は、自分からタナトフォビアがなくなるならそれはそれでありがたいな、とも思う。
一方で「死にたくない」という信念は消しがたく、その信念が消えると自分が自分でなくなってしまうかもしれない、という思いはある。
昔は、死という抽象的な一点のみが恐怖の対象であったのだけど、最近は少しずつ拡大して、老いや病も怖がるようになってきたのだけど、それはまあ、身動きがとれなくなることへの恐れだ。
まあ、そういう寝たきり状態は嫌だな、と考える人は多いとは思うし、意識の消滅を怖れるという観点から言っても、入出力が極端に制限された状態は、かなり望ましくない状況であって、それは嫌だなというのもあるのだけど、他方で、そういう状況下で、死んだ方がましだと思ってしまうのかどうか、というところに不安を覚える。
「延命治療は受けたくない」という主張はよく見られる。延命治療に限らず、病気等々で耐えがたい苦痛を受けている人が「死んだ方がまし」と言ったり考えたりするということがあるわけだけれど、自分がそうなった場合、どうなるのか、と。
上述したけれど、一時的に(非常に短期的に)希死念慮のような症状がでたことがあって、「死にたくない」のに「死にたい」と思うことがあった。ただこれについては、脳の状態異常だ、誤出力だ、と思えたからよいのだが、そうではなく、死んでしまいたいと思うようになってしまったら、どうしよう、とは考える。
痛いのも苦しいのももちろん嫌なので苦痛はできれば回避したいとは思うが、それはそれとして、自分が自分から死んでしまいたい、と思うようになってしまうとしたら、そのこと自体が怖ろしいとも思う。その意味で「死にたくない」という信念は自分が自分であることと密接に結びついているようにも思う。
- 「死にたくない」の反対は?
ところで「死にたくない」の反対は何なのだろう、と考えてみると、意外と分かりにくいなと思った。
「死にたい」と「死にたくない」に二分されるのではなくて、スペクトラムになっていると思った。
まず、一方に「絶対死にたくない」「可能なら不死者になりたい」という極があって、他方の「今すぐ死にたい」という極がある。これらは両極端であって、どちらも少数派なのだろうとは思う。ただ、自分はどちらかといえば前者であり、本当にこの考えが少数派なのかは疑っているが。
穏当な立場であり、おそらくは多数派、少なくとも表面的には多くの人が支持していると思われるのは、「今すぐ、あるいは当面は死にたくはないし、できれば健康で長生きしたいが、いずれ死ぬものであるから、不死者になりたいとは思わない」というものだろう。死に対する諦念なのか受容なのか無視なのかはよく分からないが。
例えば、「ぼくは死にたくないんですよ」と言ったら、おそらく多くの場合「みんな、死にたくないと思ってますよ」と返されると思うのだけど、ここに「絶対に死にたくない」と「今あるいは当面は死にたくない」とのギャップはあると思っている。
次に考えられるものとして、「死にたいわけではないが、いつ死んでもいいと思っている」という立場がある。
この「死んでもいい」にはポジティブなものもあれば、ネガティブなものもある。ポジティブなものとしては「やりたいことはやったし、自分は十分に生きた」系とか「人間、不慮の事故などでいつ死ぬか分からないのだから、後悔しないように生きている」系とかがあるだろう。ネガティブなものはまあ言うまでもない。
それからもう少し別なパターンとしては「長生きはしたくない」というのも見聞きすることがある。極端なタイプだと、10代にありがちな「大人になる前に死にたい」というものもあれば、「60くらいで死にたい」とか「延命治療は受けたくない」とかのバリエーションはあるかな、と思う。
こういう人たちは必ずしも「死にたい」と思っているわけではないだろうが、かといって「死にたくない」ないし「死ぬのは嫌だ」とも思っているわけでもなさそうだな、と思う。
で、ポジティブなタイプの「いつ死んでもいい」人たちは、ある意味で、充実した人生を送っているのだろうし、幸福感もあるのだろうし、理想的な生にも思えるのだが、しかし自分としてはその状態ってやはり想像不可能というか、自分とはかなり断絶のある状態だなとも思ってしまい、その境地に至りたいかというと、うーん、どうかなあと思ってしまう。
その点でも「死にたくない」という信念はあんまり手放したくないのかな、とも思う。
一方で、「絶対死にたくない」「可能なら不死者になりたい」派閥だが、この派閥の人が全員タナトフォビアではないだろうなと思う一方、タナトフォビアは全員この派閥だろうなとも思う。タナトフォビアはこの派閥にならざるをえない。いやまあ、やっぱ不死になりたいもんなー。
でも、多くのフィクションなどで不死は忌まわしいものとして描かれていたりする。
というか、そもそも不死はエントロピーの法則が支配する宇宙では物理的に不可能なので、望んだところでどうしようもない。
しかし、そういう、全くに不可能なものを不可能だと分かりながら望み続けるのは、精神衛生上不健全のようにも思えなくもない。
なので、タナトフォビアがなくなって、当面は死にたくはないけれど不死になりたいわけでもない、くらいの穏当な立場に変われるなら変わりたいかもしれない。
さっき、信念と感情の相互補完について書いたけど、これは、感情が抑制されれば信念の調整が可能になるかもしれない、ということになる。
- 恐怖感をもつことの不安
自分にとって、死の恐怖の感情は、まあ確かにちょっと厄介なものではあるけれど、とはいえ、それが不眠など生活に支障をきたすようなものにはなっていない。そういう意味では、治療の対象になるほどではない、些細なもの、ともいえる。
また、逆にそれが行動の動機にもなっていない。
本書に出てきた渡辺や渡辺研の院生は、それが動機で意識のアップロードの研究をしているし、この本の筆者は、協会作って本も出した。まあ、そこまでいかなくても、そうした感情を動機付けとして健康維持のための活動をしている人というのはいるだろう。
そうした人たちと比較すると、特段、行動へとつながっていない時点で、自分の感情や信念はそこまで強いものではないのかもしれない、とも思う。
一方で、本書の中で筆者が時々、気が狂ってしまうかもしれないという不安を書いていた。これは自分にもある。
自分はありがたいことにこれまでおおよそ健康に過ごしてきたし、年齢的にもまだ全然死ぬような年齢ではないし、今のところ、死ぬ可能性は低い。
なのに、それなりに死への恐怖を感じることがあるわけで、これが次第に年をとっていって、死期が近づいてきたら、いったいどうなってしまうのだろうか、というのは二次的な不安としてはある。
老人になった際に、恐怖感を味わいながら生きていくのは嫌だなあ、とは思う。
タナトフォビアというのは、死ぬのは怖いなあ、死ぬの嫌だなあ、死にたくないなあと思っているので、死をどうにかできないか、と考えるわけだが、しかし、死はどうにもできないわけで、現実的、実際的なところでは、恐怖感をどうにかする、という方向の方がいいのかもしれない。
うん、まあそれはそうだな。でも今まであんまり、恐怖感の方にフォーカスして考えてきてこなかったな、と思う。
今回、ここに書いてきた内容で「死は怖くないという議論への反論」と「自分にとっての恐怖の源泉」は、自分が繰り返し考えてきたことを文字起こししてみた、という感じなのだけど、「恐怖の経験について」で書いたことは、今まで反省的に考えてみたことはなかったことで、死にたくないという信念と死が怖いという感情を区別してみるとか、トライポフォビアと比較してみるとか、自分にとってのタナトフォビアとか、死にたくないの反対が何なのかとかは、今回の機会に初めて考えてみたことのような気がする。
「死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。」という時、知るべきは、死の正体ではなく、恐怖の正体の方かもしれない。
橋爪が、死を怖がる人は、考えすぎて考え足りない、感じすぎて感じ足りない、みたいなことを言っていて、筆者が「?」となっていて、自分も読んでいてそこはよく分からないところだったのだが、個人的に、こういうことなのかな、とも思った。
過去投稿
ブログやSNSで、自分のタナトフォビアについて触れたものがないか検索して見つけたものをまとめてみた。
時々、触れてはいるが、基本的にあまり詳しいことは書いてこなかったと思う。
2023年か2024年頃にすごく書きたかった時期があったのだが、結局書くには至らなかった。
以下のログを見ると、2010年頃から「発症」したように見えるのだが、実際にはそんなことはないと思う。ただ、おそらく、長期的に症状が治まっていた期間があるのだろう。また、そもそも自分のtwilogが2010年から記録し始めているから、というのもあるかもしれない。
なんで書いていないのかという理由としては、既にあげたとおり、とはいえそこまで強いものではないから、というのがあるが、もう少し言い換えると、別に大病を患って死期が近いとかでもなんでもなく、その点では至って健康なので、SNSでぼそっと「死ぬの怖い」とかだけ書くと、変な誤解されるかなあ、みたいな理由もある。
ネットで何か書こうと思うと、色々補足説明いれないとダメかなあとか考えだして、結局面倒になって書かない、というのは、このテーマに限らずよくある。
- 2010年11月21日(日)
青色本とは全然関係ない話。ある時期から定期的に、死ぬの怖い・死にたくないって思いにかられてすごく気分悪くなることがある。しばらくすると収まる。
何故怖いのか。何が他の嫌なことと違うのか。1、あとから振り返って「やっぱり怖かった」とか「それほどでもなかった」とかが分からない。2、絶対に回避不可能。
この世界のメンバーではなくなる、ということが全く理解不可能。この点は他人の死についても同様だが。
こうやって何故怖いのか分析している最中は別に怖くないのだが、何かの拍子に不意に恐怖を覚えて気持ち悪くなる。さっきも書いたけど、それはしばらくすると収まるので、その後は忘れるようにする
https://twilog.togetter.com/sakstyle/date-101121
- 2010-12-13
こちらは、死にまつわる話が多かったように思える。
個人的な話だけど、最近時々ふとした拍子に死の恐怖に襲われたりして辛い。念のため、別に病気だったりなんだったりするわけではない。ただ、なんか唐突に、自分もいつか必ず死ぬということに気付いてしまった。
『ゼロ年代日本SFベスト集成<F> 逃げゆく物語の話』大森望編 - logical cypher scape2
- 2013年05月05日(日)
あー、タナトフォビアって名前ついてんのか。数年前に襲われたことある。twitterに多少ログもある気がする。 /タナトフォビアってやつだね。私も、3.. anond.hatelabo.jp/20130505023454
今振り返ってみると、わりと一次的なものだったな。今は、当時のように恐怖感に襲われたりはしない。嫌は嫌だけど
怖くなくなった、というより、やっぱあれなんか「症状」なんだな、と思う
https://twilog.togetter.com/sakstyle/date-130505
- 2014年01月26日(日)
monadoと人生について語り合っている、多分
@monado 今ググったら、正しくはタナトフォビアでした。タナトフォビアが自分の死への恐怖、ネクロフォビアは死体への恐怖みたい
https://twilog.togetter.com/sakstyle/date-140126
この日、monadの家に行って飲み会の三次会をしており、そこでお互いに死の恐怖について語った記憶がある。自分の人生の中で、他人と死の恐怖について話して共有できた、珍しい機会であった。
なお、monadはこの頃、子どもが生まれており、子どもができると変わる、というようなことを話していた気がするのだが、自分は、子どもが生まれてもあまり変わりはなかった。
- 2015-01-19
死や死後の世界については、「自分の意識がなくなること」「他人がいなくなること」「他人から忘れ去れること」「人生の意味づけ」「倫理の基盤」といった要素に分析できるのではないかと思った。
注意が必要なのは、この作品の世界においてなくなったのは、あくまでも「死後の世界」概念であって、「死」そのものを克服しているわけではない。
(...)
「自分の意識がなくなること」というか、自分という存在がある時点で終わってしまうことという意味での死は、やはり相変わらずある。
自分はちょっとタナトフォビアの気があって、この「自分の意識がなくなること」に対する恐怖感が、死については一番大きく感じるところなので、この点についてあまり掘り下げられていなかったことが、物足りなくもあり、ほっとしたところでもある。
ただ、生体受像の技術は、ちょっと面白いことができる。
記憶をいつでも生々しく再生できるのだが、その順序を実際の順序とは異なる順序で再生することができる。主観的には、永遠に同じ記憶をぐるぐる体験することもできるのではないか。
実際の時間順序と体感する時間順序が異なるというと、『スローターハウス5』とか「ここがウィネトカならきみはジュディ」とかあるけど、ああいう状態になると、死への感覚変わりそうだなとは思う。
柴田勝家『ニルヤの島』 - logical cypher scape2
- 2016年02月11日(木)
“植物は、細胞が箱のような細胞壁によって固定されているため、ガンが発生しても転移しないのだ。”あ、ゾウの時間ネズミの時間って今は否定されてるのかー / “死にたくない時に読む本──『なぜ老いるのか、なぜ死ぬのか、進化論でわかる』…” htn.to/eG3ZwZ
「『すべてがFになる』の中で、『死を恐れている人はいません。死にいたる生を恐れているのよ。苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?』というセリフがある。苦しまなくても「消滅」の恐怖は残るのではないかと思うが、」まさにそれ!
ホフディランに『自殺』って曲があって、「殺されることなど怖くない 死ぬのが怖いだけなんだ」っていう歌詞があるけど、勝手にそういう意味、つまり死に至る過程より死という消滅そのものが怖い、という意味で理解している。いやまあ、殺されるのも怖いけどな、俺は
https://twilog.togetter.com/sakstyle/date-160211
- 2016年06月12日(日)
monadoと会うと必ず死の恐怖について話してる気がする
https://twilog.togetter.com/sakstyle/date-160612
- 2016年07月08日(金)
@akinasi 週1か0.5くらいで、あー恐いなーって思いながら眠りについてる気がする
https://x.com/sakstyle/status/751265361698316288
- 20161124
意識について考える際、度々、死について考えざるを得ず、死に対する恐怖・不安をそのたびごとに想起しなきゃいけない。
何故死に対して恐怖・不安を覚えるかといえば、意識が途絶えてしまうからなのだけど、そうだとすると、例えば死なないけど哲学的ゾンビになる、ということがあるとすると、それは死と同様に怖ろしいことになるんだなと思う(だが、実際にそういう恐怖を覚えたことはない。現実感がないせいだろう)。
死そのものは体験されることがないから怖れる必要はない、という主張を時々見かけるけれど、むしろ、体験できないということ自体が怖い。
死後に自分がいないことが恐怖なのであれば、同時に生まれる前に自分がいないこともまた恐怖なのではないか(そのことに恐怖を感じないのであれば、同様に死に恐怖を感じなくてもよいのではないか)という主張もあるが、その対称性は、時間の不可逆性によって生じていると思うので、一方が怖くないならもう一方も怖くないだろうと言われても無理。もし仮に時間が可逆的だったら、どちらも怖いと思う。
意識にとって最大の特徴は、現象性だと思っているけれど、それはそれとして、意識の本ではよく、意識とは何かということ自体コンセンサスがとれないという話がよく書かれている。その中で、自意識とかは反省的意識とか自己にまつわるものもよく挙げられる。
心の哲学においては、意識を巡る問題と、自己を巡る問題は一応区別されている(ように思える)んだけど
自分が自分であるというこの感覚は、やはり現象的意識から生じているのだろうなあ
もし現象的意識を欠くゾンビであったら、この自己としての感覚もまた持ち得ていないのではないかと思う。
死ぬのが怖いのは、現象的意識が途切れることであり、現象的意識が途切れるというのは、自己が途切れることでもあるからだ。
もし仮に不死になったとしても、ゾンビとしての不死であれば、それは自己が途切れているのと同じことであろう。
それでは、自己感覚のない現象的意識というのはあるのだろうか。
ものすごく想像しがたい。
記憶がなくて現象的意識だけが生じていたら、もしかしたら、自己の感覚は生じないかもしれない。
もし、自己感覚のない現象的意識がないとしたら、自己感覚=現象的意識と言ってしまってもよいのだろうか。あるいはむしろ、自己感覚の方こそが現象性の源になっている可能性を検討する必要があるのだろうか(現象性が自己感覚の源になっていると考える方がはるかにもっともらしく思えるのだが)。
現象性と自己の感覚は、概念上区別できる気がするのだが、実際のところ、現象的意識なき自己感覚や、自己感覚なき現象的意識が一体どんなものであるのかが想像しがたい。
ところで、SNS上ではおそらく表明したことがなかったと思うのだが、とあるフォロワー/フォロイーがやはりタナトフォビアであることを思わせるツイートをしており、その点については共感を覚えるのだが、彼はそこから彼なりの反出生主義を導き出しており、それについては強く反発を覚えていた。2018年から2019年頃のことである。
死がある種の悪や害であるとしても、死すべき存在を生み出すという点で子を産むことが悪や加害行為であるとまでは、どうしても思えないからだ(出生は、死の前提条件だが、死の原因ではないから、というのが自分なりに考えたその理由である。ただし、この反発は、「攻撃的に思える言い方が気に入らない」という感情的な要因があったとも思う。だからこそ、直接的にSNS上で反論することはしなかった、はずである)
- 2024-11-06
自分は、死への恐怖があるので、不死や長命化には興味があるが、それはそれとしてこのQ&Aはポジティブシンキングすぎるよな、とも思った。
『Newton2024年12月号』 - logical cypher scape2
- 2025年5月24日
今、葬式なので書くが、死ぬのほんと怖い (死が怖いのは、葬式があろうがなかろうが年がら年中思ってるが、あまりにしょっちゅうなので普段はSNSに書いたりしてない)
https://bsky.app/profile/sakstyle.bsky.social/post/3lpv7szogzk2o
*2:幽体離脱という点で眉をひそめる人もいるかもしれない。幽体離脱は、臨死体験において生じる現象としてよく知られているが、一方で、一部のアスリートにおいても報告例があるとされている。人間は、網膜像をそのまま見ているのではなく、網膜からの情報を脳内で合成したものを見ていると言われる。臨死体験の幽体離脱については、聴覚情報が脳内で映像として合成されたもの、とも言われており、自分の身体を上空から見るような経験自体は、唯物論的な範囲で説明がつくと考えられる。もっとも、臨死状態でもなく、アスリートの競技中でもない、ごく日常的な状況でそれが生じうるのか、という問題はある
*3:計算を簡単なものにするためにむちゃくちゃ雑な推計をしているが、ここで大事なのは、数がとても大きいということあって、正確な値はどうでもいい
*4:ここでいう「信念」は分析哲学などで用いられるニュアンス。日常的に用いられるニュアンスとは異なる。例えば「雪は白い」とか「水は冷たい」とかを、日常的には信念と呼ばないが、分析哲学ではこういうのも普通に信念と呼ぶ。なお、それでいうなら「死にたくない」は正確には「欲求」じゃないのか、というツッコミがあると思う。ここでは「死は嫌なものだ」とかも含みたいので、正確には命題的態度と書くべきだが、まあちょっと面倒なので「信念」で統一させておいてほしい
