抽象絵画についての批評。抽象を、単に視覚的な実験として捉えるのではなく、物質的・運動的な観点で捉える。また、日本での抽象美術の動きがヨーロッパの動向の後追いではなく、同時並行的なものだったことを論じている。
色々なものが次々とリンクしていくので、読んでいてとても面白かった。それとそれが繋がるのか、みたいな。次々読み進めていきたくなるのだが、出てきたものを調べたくなって読むのが止まってもしまう。
元々、ヒルマ・アフ・クリントについて論じられているものとして興味をもったのだが、ソフィー・トイバー=アルプがかなり重要人物として論じられていた。
「ヒルマ・アフ・クリント」展 - logical cypher scape2
「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展 - logical cypher scape2
本書は、岡崎が美術展のカタログや雑誌などに書いてきたものを、大幅に加筆修正して収録した論集となっている。
表題作「抽象の力」が第1部となっていて、これも元は美術展のカタログで書いたもの。
第2部は、第1部と内容的に関連している論文が複数収録されている(ここには書き下ろしも一部ある)。
今回、第1部と第2部を半分くらい読んだ。
第Ⅰ部 抽象の力 本論
第Ⅱ部 抽象の力 補論
守一について、いま語れることのすべて
先行するF
末期の眼
戦後美術の楔石としての内間安瑆の仕事
明晰、曇りなき霧
第Ⅲ部 メタボリズム-自然弁証法
名を葬る場所
白井晟一という問題群1~3
乃木坂とポストヒストリー
第Ⅳ部 具体の批評
批評を召喚する
あとがき
第Ⅰ部 抽象の力 本論
キュビスムと「見えないもの」
キュビスムを、単に視点の多数化という視覚原理で説明しても、何故分析的キュビスムに色彩がなかったのか、何故立体作品も作られたのか、ということに答えられない。
視覚によって得られる情報と、人が対象として認識しているものとの間にはズレがある。
キュビスムにおいて、視覚への関心はむしろ低下している。対象を把握するリアルなものにこそ関心がある(アフリカ彫刻に衝撃をうけた理由)
漱石と「f+F」
漱石は文学を、無数の印象・感情feelingと、それらを一つの対象に統合する概念・焦点Focusの関数ととらえる
そしてこれは、後期印象派の理論に対応
『草枕』(1906)の主人公は画家だが、そこで展開される美術論は、抽象絵画を予期している
『草枕』は、『トリストラム・シャンディ』のように実験的な作品
熊谷守一の「光学」
漱石の理論に影響をうけた世代の中で、もっとも漱石の理論に近接した画家=熊谷守一
ここで、熊谷がデッサン教室で、三角や四角をひたすら書いていたエピソードが紹介され、北斎の指南書を参照しているが、一方で、この北斎の指南書について、ホガースやテプフェールが参照されている。これらは、複数の視覚印象を一つに統合するもの(F)
熊谷《轢死》について
注釈にて、熊谷がヘルムホルツに影響を受けていたことが書かれている。ヘルムホルツの統計力学や自由エネルギーの考えに興味を持っていたとのこと。
読んでいて、え、テプフェールがここで? ヘルムホルツまで? みたいになってた。
恩地孝四郎と「感情」
キュビスムからの展開として抽象芸術は出現しない。同じ土台から派生したもの
事実、日本では、最初のキュビスムとされる萬鐵五郎《もたれて立つ人》(1917)より恩地孝四郎の抒情シリーズが先立つ
これもわりと驚いたとこ。
恩地に影響を与えたものとして、神秘主義とフレーベルをあげる
『月映』
このうち、神秘主義のところにつけられた注釈で、ヒルマ・アフ・クリントについて取り上げられている。
ヒルマ・アフ・クリント、恩地、アメリカのダヴやオキーフなど、抽象表現は世界各地で出現
科学への関心、その後、神智学へ。
盲目の母の看護・らせん状の建築堂計画→視覚を通さずとも理解されるだろう形態の原理への関心
クリントと同時代・スウェーデンのエレン・ケイ→こどもの視点からの家庭生活デザイン改革運動、アーツ&クラフツとの呼応
シュタイナーの示唆により抽象表現をやめる。
シュタイナーの色彩理論・造形理論はクリント作品の理論化ではないか。カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチ、ドローネーはシュタイナーを介して間接的にクリントの影響を受けたのではないか、とか(マジかよ)
フレーベルの幼児教育遊具
恩地自身が幼児教育の本を書いていて、恩地家は教育者の家系。児童文学の北原白秋とも親しい。
遊戯=行為、玩具を操作するという身体行為による世界の把握
フレーベルの玩具(恩物)には、回転による形態変化をもたらすものがある(回転すると円柱になるとかそういう)
恩地は版画を制作しているが、版画を複製芸術として捉えていなくて、複数の版を重ねるところを重視している。
フレーベルの幼児教育が美術に与えた影響、というのは、あまり指摘されていないが、これについての研究が一応あって、紹介されている。
幼児教育なので、どういう影響あったのかたぶん実証できないんだけども。
フランク・ロイド・ライト、モンドリアン、カンディンスキー、クレー、コルビュジェあたりがフレーベルの幼児教育を受けているらしい。
第一次世界大戦とダダイスム
第一次世界大戦でキュビスムが求心力を失う
ガートルード・スタインの回想録で、ピカソが迷彩の戦車をみて、あれは自分たちがつくったとはしゃいでいた、というエピソードがあるらしい。
イギリスでは、ヴォーティシズムの画家たちがダズル迷彩を発案している
キュビスムは、装飾形式として普及してしまい、前衛ではなくなった、と。
生産的だったのがダダイスム
反戦と反芸術が一致していた運動
「反芸術」でありながら生産性が高かったのは、日常の中での生産物として工芸・応用美術を取り入れたから。
ソフィー・トイバー=アルプ(本書ではゾフィー・トイベル=アルプと表記されている)が、ダダイストの中で重要人物だったことが論じられている。ダダのメンバーはほとんど詩人で、実際に舞踊とか応用美術とかの経験者はトイバー=アルプだけだったから、と。
トイバー=アルプは、ダンスをラバンに師事している。ラバンは、ダンスの記譜法、ラバノーテーションというのを作った人なのだけど、何か聞いたことあるなと思ったら、グッドマン『芸術の言語』で言及されている奴だった。
ダダは偶然性を好むが、それは全体を俯瞰する視点の拒否
事物とのかかわりからの生成。事物との関係=ユニットがネットワーク的に連結
→トイバー=アルプの作品や、彼女の共同制作はまさにそれ。
「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展 - logical cypher scape2で「夏の線」が好きだなあと思ったけど、これと同系統の作品(《色のついた線の運動》)がこの文脈で言及されていた。
また、注釈において、ゴンブリッチの「棒馬考」は、明示していないけれどダダ論である、として取り上げられている。
「不気味なもの」と「無形」
ヘルムホルツやポアンカレの確率的思考が、当時の芸術家へ浸透していたという
坂田一男は渡欧して、レジェに師事するが、特にピュトー・グループと接近していたという。坂田の作品を、ハンガリーの美術理論家ジョージ・ケペッシュによる透明性概念と比較しながら論じている。
坂田が、当時のヨーロッパの美術についていけたのは、日本で岸田劉生を見ていたからと言っている、と。
「新感覚派」の変形物・奇形物・実用物・具象物
章タイトルは新感覚派だけど、内容は村山知義について(新感覚派と通じているよ、という話ではある。
村山の活動の本拠地は、『子供之友』であり自由学園だった、と。
(『子供之友』は婦人の友社から発行されており、自由学園も婦人之友社も創設者が同じ。ちなみに、Wikipedia読んでてしったのだが、福音館書店の『こどものとも』は戦後に主婦の友社から譲り受けたものらしい)
この時期、円高で、日本人留学生はヨーロッパいって本とか色々買いあさっていたらしく、村山もその1人だったとか(前述、ブルリュークが日本に来たのも円高のためらしい)
村山は、構成主義を主知主義と批判
美術作品とは、触覚性の協調・身体を作動させるものだ、と。
《コンストルクチオン》について
複数の開口部があり、背後に何かあるような感じ。電話交換台のようになっている。インターフェース的
こうした特徴が、「朝から夜まで」の舞台装置、MAVOの他アーティストの作品、石本喜久治設計の朝日新聞社東京本社ビルにも共有されている、という。
死の欲動と川端康成・古賀春江の話が差し挟まれる。古賀春江の話は、補論の方でやってる。
村山は何度か転回しているが(何度か検挙もされている)、思想的な転向はなかったと。新感覚派とも通じるが、主体というのはないんだという考えなので(構成主義を主知主義と批判して、作品を、触覚性とか身体の作動とかから捉えるのも同じ)
村山は、朝鮮の演劇人との交流があって、第二次大戦末期に朝鮮に渡ってもいる、とか。
村山については以前五十殿利治『日本のアヴァンギャルド芸術――〈マヴォ〉とその時代』 - logical cypher scape2で少し知った。
「ABSTRACTION抽象絵画の覚醒と展開」展 - logical cypher scape2ででてた「サディスティッシュな空間」は本書でも言及されていた。
「アール・コンクレ」、ダダをこねる
フレーベルの教育玩具を、さらに批判的に発展させた、モンテッソーリやシュタイナー
事物との関わりからこそ知性が生じる、という考え
正直、この章タイトルから、モンテッソーリ教育の話が始まるとは思わんかった……
マリネッティは、モンテッソーリから影響を受けているらしい。妻経由で影響受けて変わった、と
「円と正方形」「アール・コンクレ」(ドゥースブルフ)「アブストラクシオン・クレアシオン」の流れ、「具体」という言葉
重要人物として、トイバー=アルプ(オーガナイザー)とホアキン・トーレス・ガルシア(理論家)
ガルシアは玩具制作もしている。
長谷川三郎のトポロジー
日本の抽象絵画界では1930年代、長谷川三郎の自由美術家協会と吉原治良の二科九室会が作られる。
長谷川はモンドリアンのアトリエを訪れてインスピレーションを受けているが、カルダーも同様の経験をしている。2人とも、空間の拡張を考えた。
瑛九
10代の頃から頭角を現わした若き天才で、長谷川の自由美術家協会発足も瑛九ありき
モホリ=ナジのフォトグラムないしフォトプラスティックからの影響を受けている。ケペッシュとも思考が合致。
絵画に対して映画は時間を表現できるというアドバンテージがあるが、フォトプラスティックは、映画には不可能な複数の時間軸を表現できる、と。
注において、モホイ=ナジやケペッシュとともに活動した写真家のハーバート・マターが、アメリカでは、リー・クラズナーやジャクソン・ポロックと交流があり、ポロックが影響を受けていることが論じられている。瑛九もポロックも、複数の次元が重なっている、というところにポイントがある。
長谷川三郎はマルチブロックという手法を作るが、内間安瑆からの示唆があった、と。
内間は、戦後、オリヴァー・スタットラーというコレクターに協力しており、スタットラーの著作で恩地の版画が再発見されている、とか。
第二次世界大戦の「視覚言語」
『みずゑ』の座談会で情報局長が前衛画家批判を展開する。表向き、情報局は前衛美術を攻撃したが、一方で、情報局は前衛芸術を利用してもいた。
情報局発行の海外向けプロパガンダ雑誌には、ロシア語と構成主義の分かる者たちが起用された。
映画も重視されていて、『ハワイ・マレー沖海戦』とか『加藤隼戦闘隊』とか。ここでは、戦闘機による空中戦シーンや落下傘部隊のシーンに、前衛性が見出されている。
ケペッシュやモホイ=ナジもアメリカで戦争協力していた
戦争体制と技術的ロマン主義
戦争協力した画家や作家は戦後批判されがちだけど、技術系だとあんまり批判されてないよね、と。技術系の機会主義やロマン主義への指摘
具体的には、丹下健三とかコルビュジエとか、戦時中のコンペに出てた話とか
技術系を批判すると、ハイデッガーみたく、技術全否定にいっちゃう。
技術的な回収への抵抗として残ったのは、アンフォルム
具体例として、フォートリエと靉光
戦後の余波 具体美術協会
戦後の具体美術協会とかアンフォルムとかを、偶然性を過度に強調しただけの運動と批判している。「具体」という概念を、受け入れられやすいように単純化しすぎてる、と。
本書は、その中で田中敦子を例外的な存在として評価している。
カレンダーや電気回路をモチーフにしているが、それらには自律的秩序がある。
戦後の余波 ジョン・D・グラハムとロンドンスクール
グリーンバーグは、抽象表現主義を、視覚性と平面性の限界・到達点として評価した
しかし、このふたつは美術館の展示という制度がもたらしたものでしかない、と
実際、抽象表現主義はもっと複雑な問題を抱えてて、その点で欠かせないのが、ジョン・D・グラハムだという
ジョン・D・グラハムは、アメリカの抽象表現主義の画家たちに影響を与えた画家・理論家
経歴不詳の人物だけど、重要人物らしい
グラハムにとり抽象とは、感覚を人が把握するプロセス。視覚に限った話ではない。
グラハムの理論は、ベーコンとハミルトン、ブリティッシュ・ポップとコンセプチュアル・アートを結びつける、とも。
第Ⅱ部 抽象の力 補論
気になったものだけ読んでみた。
先行するF
夏目漱石のF+fの話を、時枝文法の詞と辞と類比させている。
注釈で、筆者が別のところで書いたガートルード・スタイン論が長々と引用されていて、そちらでは時枝の話とスタインの詩とが類比されている。
末期の眼
古賀春江について
川端は、古賀の死後に書いたエッセイで、古賀の作風に東洋的な死の観念を読み取っている
が、古賀にとってのシュールレアリスムをフロイトの死の欲動から捉える
それはそれとして
《海》に描かれている女性って、どこからトレスされたかがわかっていて、あるサイレント映画のスチル写真(をもとにした絵葉書)である
実は、このシーンには、当時のスター犬が映っている
古賀はブルドッグを飼っていて犬好き。犬とも牛ともつかぬ動物の絵を描いていたりする。
あと、晩年の《深海の情景》とか《サーカスの景》とか
古賀というと、《海》が圧倒的に有名であれ面白い絵だけど、「ABSTRACTION抽象絵画の覚醒と展開」展 - logical cypher scape2で見た抽象画もよかった
で、本書、白黒の小さいサイズの図版でしかないけど、1930年代の絵が結構面白そうに見える。
明晰、曇りなき霧
中谷宇吉郎の娘が中谷芙二子というアーティストなの知らんかった。
最終的に、この中谷芙二子の霧の彫刻についての論。初出が、中谷芙二子についての本
まず、ターナーにちょっと触れつつ、ルーク・ハワードの雲の理論の話から始まる
コンスタブルが影響受けたこととか、ゲーテが、ヴェルナーやハットンの地質学と並べてハワードの雲の理論を形態学として重要視したとか。
雲という生成変化するものを把握可能なものとして記述した(美術では、それまで雲は埋め草だった)
ゲーテの形態学を彫刻の形成原理ととらえるなら、彫刻はむしろ時間芸術だ、とも筆者は論じている
(寺田寅彦の「天災は忘れたころにやってくる」は、天災とは人間の認識や制度の問題、という論らしい)
それから、中谷宇吉郎の雪の研究
雪の結晶というと、きれいな形したもの(ベントレーの写真)を思い浮かべるけれど、実際にはあれはまれで、多くはもっと崩れた形をしている。中谷は、そうした「失敗」に着目した
雪の結晶は、気象条件をパラメータとして、無数の形態が生じうる。
写真を撮るときに、人間がきれいなものを選別して残しているだけ。
中谷芙二子は、自然の生成変化(有機物の腐敗とか)の過程を作品にとりこもうとしてきた
霧の彫刻も、霧を何かを隠したり神秘的に見せたりするもの、としてとらえてはならない、と。霧を神秘的と考えるのは、雲を埋め草にしたり、雪の結晶のきれいな写真だけ残したりするのと同じ、人間側の認識に過ぎない。霧を微粒子の運動として組織しているのが、中谷の霧の彫刻なのだ、と
ルーク・ハワードは橋本毅彦『図説科学史入門』 - logical cypher scape2で知った。
雪の結晶の話はロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』(瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪訳) - logical cypher scape2でも出てきたけど、ちょっと違う感じだな。ただ、きれいな形だけ表象していたのから、ノイズだと思われてたものも記録するようになるという変化は、ちょっと似ているかも?
感想
とにかくたくさんの固有名詞などが次から次へと連鎖していく内容で、読んでいて面白くはあるし、興奮するところがある。
ただ、パッパッと進んでいくので、論理展開などについては、本当は丁寧に読んでいく必要はあるのだろう。
それはそれとして、単純に、知らなかったものを知れてよかった、というのはある。
日本の近現代美術史は、本当に何も頭に入っていなくて断片的にしか知らないので、この本も決してそういう意味では通史を書いたものではないけれど、少しとっかかりにはなった。
当時のヨーロッパの美術動向と絡めてくれているので、その点ではわかりやすかった気もする
それから、フレーベルをはじめとする幼児教育の話。
モンテッソーリは名前は知っているけれど、いつの時代の人とかはちゃんとはわかっていなかったので、なるほどその頃で、先駆者としてフレーベルがいたのかあ、と
フレーベルにしたところで、自分はむしろ出版社のフレーベル館しか知らなかったので、そうかあの出版社の名前の元ネタはここなのか、と。
そこから、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の付属幼稚園とか、自由学園とか主婦の友社とかがつながってくるのかー、というのも、単純に全然知らなかったので面白かった。
『美術手帖2025年4月号』(特集ヒルマ・アフ・クリント) - logical cypher scape2の対談で、なんでいきなり幼児教育の話から始めているのかが、これで分かったし。
それから、夏目漱石にようやくちゃんと興味がわいたかもしれない。
「抽象の力」本論は、筆者あとがきによれば、時系列順になるように並べたが、気になる作家のところからランダムに読んでもよい、とされている。
なので、確かに一つのものとして読んだときに、一つの筋を見つけ出すのは少し難しい。
が、簡単にまとめると、抽象絵画というと、視覚性と平面性というのが特徴かと思うのだけど、この両方を否定している話なんだと思う。
これはグリーンバーグ批判として、本論の中でも書かれている。
自分はこの考えをわりと素朴に受け入れていたので、確かにその意味で、衝撃というか、ヒルマ・アフ・クリントをまじめに取り込もうとすると、既存の美術史を壊すことになるよ、と先の対談で言っていたのは、まあこういうことなのかな、と。
で、まず視覚のほうだけど
ヘルムホルツがちょっと出てきたのが個人的にはヒントになった
逆光学問題、というか、ボトムアップだけでは認識というのは得られなくて、トップダウンの仮説が必要になる。ボトムアップであがってくる情報がfで、トップダウンの仮説がFなのかなあ、と。
絵画というのは、世界を二次元に写し取っていることになっているけれど、二次元像から世界を復元することはできない。というか、どのような二次元像もありうる。客観的な世界像なんてないんじゃないか、というのが、近代美術の抱えた問題なんだろう、と。
で、そこで、視覚だけじゃだめだ、触覚や運動だ、ということになってくる。
これも、予測脳理論とかを踏まえて考えると、人間の認識って触覚とか運動とかのフィードバックを受けて作られているから、ということだと納得できそう。
それを、抽象絵画というの個々の作品からどうやって読み取っていくのか、というと、それはまた難しいなあ、と個人的には思ってしまうけど。
それから、平面性のほうだと
恩地の版画の話とか、瑛九がモホリ=ナジから影響を受けたフォトグラムの話とかなんだろうなあ、と。
マルチレイヤーになっているという話なんだと思う。マルチレイヤーだとまだ平面っぽい感じかもしれないけど
