『フィルカルVol.1No.1』

分析哲学と文化をつなぐ」雑誌として創刊されたもの
掲載論文、大体どれも面白くて、満足度高い。
フィルカル Vol. 1, No. 1 | philcul
https://d2yhzwqe6ppdfh.cloudfront.net/images/item/500/c2f9ca5e213b31511a07f4ea38fc9c83.jpg


哲学への入門

  • 「自由論入門」(高崎 将平)

文化としての分析哲学
●特集シリーズ


文化の分析哲学

  • 論文「文化に入り行く哲学」(古田 徹也)
  • 論考「何が可笑しいのか」(八重樫 徹)
  • 論考「声優と表現の存在論」(佐藤 暁)

社会と哲学

  • 報告「哲学専攻の者から見た会社という社会」

コラムとレビュー

  • 連載コラム「生活が先、人生が後」(長門 裕介)
  • コラム「沖縄で出会った独特の建物」
  • コラム「共有される私的記憶」
「自由論入門」(高崎 将平)

決定論とは何か、他行為可能性とは何か、フランクファートの思考実験と2階の欲求説による両立論
という感じの内容を、具体例も交えつつ、分かりやすい文章で説明している。
フランクファートの議論って、戸田山哲学入門で読んだなー
二階の欲求を持っていると自由っていうの、まだなんか、分かるような分からないような感じだなー

論考・論文

論考・論文のコーナーは、「文化としての分析哲学」と「文化の分析哲学」の2つに分かれている。
「文化としての分析哲学」は、分析哲学を文化潮流の1つとして捉える、というものだ
分析哲学というのは、一般的には、あまり歴史的・文化的な視点はもっていないと思われているのではないかと思うし、自分にもそういうイメージがある。
分析哲学」とは言うけれど、やっているのはthe哲学であって、普遍的な問題について普遍的な答えを目指しているというか。
分析美学についての説明を人にしていて、それってヨーロッパローカルな、あるいは分析哲学をやる人たちローカルな考え方でしかないのではないか、比較文化的な視点は組み込まれていないのかというようなことを指摘されたことがあるんだけど、と。
この特集は、分析哲学を文化潮流の1つとして捉えるという視点を提供するもので、上の指摘に対する直接的な解答にはならないにせよ、示唆的ではあると思う。
「文化の分析哲学」は、文化現象を、分析哲学の分析の遡上に挙げようというもの。
一本目の古田論文も、実は上の指摘に対して示唆的なところがあるものだと思う。

論考「分析哲学モダニズム」(長田 怜)

分析哲学モダニズムにルーツがある、という見方を述べている論文
最後には、分析哲学ポストモダニズムについても少し触れている。
モダニズムについて

(a)モダニズムはジャンル固有の自律的な原理やしくみを問題とする。
(b)モダニズムはジャンルの内部でジャンル自身の手段で問題を扱う。
(p.45)

と特徴付けた上で、絵画、建築、数学のモダニズムを見ていく。数学のモダニズムとは基礎論のこと
そして、論理実証主義の科学的哲学に、哲学のモダニズムを見る

論考「美術におけるモダニズム」(河合 大介)

こちらは、分析哲学はあまり関係なくて、グリーンバーグによるフォーマリズムの批評理論について、再検討するというもの
グリーンバーグの主張って表面的にしか知らなかったので、短い論文ながらも、すごく勉強になった。
グリーンバーグのフォーマリズムは、抽象表現主義を説明するために用いられたけれど、その後の芸術的動向を説明できず、失墜したようなのだけど、90年代くらいになってイヴ=アラン・ボワという批評家によって、修正が加えられ現代に復活させようと試みられているらしい。
グリーンバーグはどう考え方、どこが問題点だったか、ボワがどのような修正を行ったかと展開する。


グリーンバーグによれば、あらゆる芸術は媒体mediumに固有な特徴を追求する。絵画にとってのそれは「平面性」である。マネから始まって、抽象表現主義へと、絵画は純粋化の歴史を辿ってきた、というもの。
しかし、抽象表現主義であっても、イリュージョンを排除できない点を、グリーンバーグ自身が認めている。
また、ポロックも影響を受けているシュールレアリスムを無視した恣意的な歴史である。
という問題点がある。
抽象画にもイリュージョンがあるよね的な話、ステッカー本やウォルトンの中にも出てきていて、「おお、美術批評と対立してるんじゃ」と思ってたけど、そもそも認めてたのか。そこは、絵画が絵画であるためのギリギリの条件として共有されているところなんだろうか。


ボワは、グリーンバーグが内容と形式を区別して、内容を無視してしまったことを問題視し、内容と形式が不可分なものとして「構造」をあげる。
また、ボワは、グリーンバーグが媒体についても実は無関心だったこと、歴史性が欠如していたことをあげ、これらの要素を総合的に考察するようにする。
筆者は、モダニズムの特徴を本質主義と還元主義にみとてり、たとえば文学におけるニュークリティシズムもも類似しているとしている。
テクストだけに還元する、平面性だけに還元するというのは間違いで、作品をとりまく文脈や歴史性も重要。
その上で、グリーンバーグのフォーマリズムの議論として、メディウム・スペシフィシティ(ここでは媒体の特種性と訳されている。特殊じゃなくて特種性)への着目は正しかったとしている。

論考「モダニズムの絵画はいかにして絵画を批判しうるか」(松本 大輝)

グリーンバーグの議論を、グッドマン記号論から捉え直す試み
モダニズムとは、自己言及による自己批判
哲学は、言語を用いているので自己言及が出来るが、絵画は、そういう形での自己言及ができないのではないだろうか
という問いを立てた上で、グッドマンの例示概念によってそれに答えている。
つまり、モダニズム絵画は、絵画の本質を例示しているのだ、と。
例示はどのように行われるか
記号がその性質を所有していることと、記号がその性質を指示していることの文脈が必要になる。
そして、指示の文脈を形成する上での、批評家の役割についても論じている。


筑波批評でグッドマンについてまとめた時、例示には、性質の指示をしていることの文脈が必要という論点を、あまりピックアップしていなかったなあということを思い出した。
この論文は、字義的な例示を中心に扱い、隠喩的な例示については軽く触れるにとどまっているのだけれど、

彼の隠喩論の一番のポイントは隠喩の構造を「図式の転移」という概念によって巧みに論じた点にある。(中略)この点については渡辺1985が手際よくまとめているので、参照されたい。

とあって、このあたり、以前『Languages of art』読んだときに、ちゃんと読めていなかった部分なので、今度読んでみたい。
隠喩ってもともとさほど興味なかったのだけど、『フィクションは重なり合う』で少しだけ触れてしまったせいで、少し気になっている。隠喩はともかく、表現には興味があり、それを隠喩的な例示で説明しているグッドマンの考えもわりと気になってはいるし。

論文「文化に入り行く哲学」(古田 徹也)

ここから「文化の分析哲学
なのだが、デイヴィドソン言語哲学についてのがっつりした論文になっている
デイヴィドソン言語哲学には、伝統や慣習、歴史という観点が欠けている。言語を捉える上で、具体的な個別の文化の面から捉えられていない。そのことに対する批判もある。
この論文では、デイヴィドソン的な、文化に関係ない言語能力一般についての議論と、文化固有の側面を追う「系譜学」的な作業が、相補的であることを示している。


デイヴィドソン言語哲学は、二者間のコミュニケーションにおける「根元的解釈」「寛容の原理」というものを論じている。
これに対して、ダメット、ハッキング、マクダウェルは、そうしたデイヴィドソンの方法では、言語の規範的な側面が説明できないと批判する。言語とは、二者だけで成立するものではなく、より広い言語的共同体の中で成立しており、そうでなければ、その言語使用が正しいのか誤っているのか判定できない。
しかし、筆者は、これはデイヴィドソンに対する内在的な批判にはならないと指摘する。
確かに、実際に何が正しい使用なのか決めるのは、言語的共同体である。しかし、原理的には、そのような共同体による判定が必然であるわけではない。むしろ、デイヴィドソンは、正しいという規範的概念が成立する根源を追求しているのであり、それにおいては上のような批判はあたらないというわけである。
しかし一方で、実際の言語の習得においては、文化や伝統の習得が必ずセットになっている。
デイヴィドソンは、文化の違いによらない理論的なレベルを追求しており、その点では、歴史や文化を無視しているという批判はズレた批判ではあるが、しかし、実際に言語の哲学的探究をするにおいては、文化的背景を無視することはできない。
この点について筆者は、ウィリアムズによる「真理」概念の分析を例にあげる。
デイヴィドソンは、真理とは「真/偽」の片割れ以上の意味を持たず、それを目標とする「価値」としての側面はないとしたが、ウィリアムズは「目的としての真理」という真理の価値としての側面を重視した分析を行っている。
そしてそこには、「正確さ」と「正直さ」という二種類の徳が関わっている。
こうした徳は、確かに、原理的にはそれを持たない文化も想定できる(非現実的だが)点で、文化的なものであり、ウィリアムズは、両概念が、現実のヨーロッパ社会でどのような系譜を辿ってきたかという「現実の系譜学」という手法をとる。
真理概念について、「厚い概念」を解明するためには、デイヴィドソン的な「分析哲学」では限界があって、「現実の系譜学」が必要になる


本題ではないのだけど、真理という概念を解明するにあたって、「正確さ」と「正直さ」という「徳」に着目する議論が紹介されていたのが面白かった。
というのも、最近、分析哲学倫理学では「徳」が流行ワードになっているらしいということは聞き及んでいたのだけど、まだ実際に、そういう徳の関わった議論を読めていなかったので、なるほどこれが流行りの! と思ったから。
それともう一つ

「正確さ」や「正直さ」が行動の傾向性ではなく徳である理由は、

というのが、なんか面白かった。原文では、「行動の傾向性」に強調の傍点がつけられている。
傾向性ではなく徳である、そしてその徳が他の概念とどのように関わっているのか、と考えるところが、哲学が他の学問と違うところで、また他の学問と切り結ぶところかもなあと。
この論文の中で、進化心理学の話は一切出てこないんだけど、「正直さ」と真理と共同体の話なんか、進化心理学的な話もまあなんかできそうだなーと思ったりしたので。

論考「何が可笑しいのか」(八重樫 徹)

ユーモアの研究について
今までユーモアについてどのような説明がなされてきたかを整理している。
ホッブズに代表される優越感説
ハーレー、デネット、アダムズによる進化論的説明
カント、ショーペンハウアーら多数による不一致説
こうした古今の哲学的説明を紹介しつつ、具体例としては筆者がフェイスブックで遭遇した一コマや、チュートリアルやコロココロチキチキペッパーズといった近年のお笑いなど*1を挙げていて、読みやすいものとなっている。


ただ、個人的に一番「それだ!」と思ったのは、ユーモアの説明というよりも、進化論的説明に対して筆者が評価しているところだった。
筆者は、ハーレー、デネット、アダムズによる進化論的説明について、斬新で説得力もあると高く評価しつつも

理論的説明は経験の一人称的記述とは異なるものだ、と。たしかにそうだ。しかし、経験の一人称的記述と無関係になされた理論的説明は、経験の説明ではありえない。

これって、クオリアを巡る議論でも出てくる争点じゃないかなーと思う。

論考「声優と表現の存在論」(佐藤 暁)

いわゆる「棒」と呼ばれる声優の演技について論じながら、声優が、他の俳優と違って、声優であるとはどういうことかを論じている。
「棒」は下手だが、下手が必ずしも「棒」というわけではない、というところから議論は始まる。
「棒」とは、アニメ声優になれていないことだという。
アニメ声優になるとはどういうことかというと、アニメのキャラクターを表現することができるということ。
そして、さらに上手い声優について、複数のアニメのキャラクターを表現することができることという条件をあげている。
実際の俳優との違いから見ている。例えば、木村拓哉は何を演じても「キムタク」になってしまう。が、それが魅力でもある。木村拓哉は「キムタク」という1つの魅力的なキャラクターしか演じることができないが、そういうあり方が「スター」なのだという。
一方で、声優にはこの意味では「スター」はいないのだと述べている。
また、声質を変えて複数のキャラクターを演じ分けることは、確かに称賛すべきことだが、「上手い」というのはそれに尽きるものではないことに注意を促している。声質はほとんど同じでも、演技によって複数のキャラクターを演じ分けることで「上手い」声優となっている声優も少なくないからだ。


ところで

声優が作品中で(中略)現実の人間からかけ離れた話し方をするのは、単純にアニメキャラクターが現実の人間からかけ離れた存在者だから(中略)登場人物の話し方は、ドキュメンタリー、実写映画、舞台、アニメの淳に、現実の人間の話し方から隔たっていく。それは、芝居によって表現されている存在が、この順で生身の人間から隔たっていくからである。

とあったのだけど、「キャラクターが現実の人間とはかけ離れた存在者」というのは分かるし、その順で話し方が変わっていくのも分かるのだけど、そのことによって、人間とは異なった存在者を表現しているのか、というのがちょっと
作中の世界に存在しているのは、あくまでも人間であって、人間とは異なる存在ではなくて、ただそれをどのようなメディアで描くかによって、現実の人間からかけ離れたものになってしまうと思うので、人間とはかけ離れた存在者を一回どこかに挟む必要があるのかどうかは、よく分からない。あと、それが段階的に離れていくのかどうかも。


あと、これは個人的な好みの話に過ぎないのだけど、小見川千明はどうなんでしょうかっていうのが気になった。

連載「生活が先、人生が後」第1回 君が望む罪悪感

倫理学における不倫の話題
感傷性への耽溺、というのがちらと触れられている。
感傷性の問題の話って全く知らないのだけど、これって、罪悪感が一人称的サンクションとして機能せず、むしろ罪悪感を感じることが快になっているような状態ということだろうか
伊藤剛さんが時々、原発問題とかその手の話の時に、不安に依存するみたいな話をするけど、それに近い話だったりするのだろうか

コラム「沖縄で出会った独特の建物」

貯水タンクを隠す構造物の話
藤村龍至のBUILDING Kと似てるかなとちょっと思った

コラム「共有される私的記憶」

「私の志集」そんな人いたのか、知らなかった。

*1:ちなみに自分はチュートリアルは知ってるけど、コロコロチキチキペッパーズは知らなかった