森山直人編『近現代の芸術史 文学上演編2 メディア社会における「芸術」の行方』

林洋子編『近現代の芸術史 造形編1 欧米のモダニズムとその後の運動』 - logical cypher scape2と同じシリーズの、京都造形芸術大学の教科書
上の本を手に取った際、同じシリーズの本が他に色々出てるのに気づいて、とりあえずこれも読んでみようかなと手に取った
20世紀の音楽・映画・サブカルチャーを取り扱っている
サブカルチャーについては、戦後の日本と中国


ページ数の関係で、どうしても分量は少ないので、それについての良し悪しはあると思うけど、教科書としてはいいのかなという感じ
逆に、ページ数が少ないがゆえに、具体例を切り詰めているので、むしろ読み物としては読みやすい気がする。

第1章 現代の音楽1―電子音響・ノイズ 小沼純一
第2章 現代の音楽2―リズム、ビート 小沼純一
第3章 現代の音楽3―混血性 小沼純一
第4章 現代の音楽4―環境 小沼純一
第5章 現代の音楽5―方法論・進歩主義? 小沼純一
第6章 映画1―古典的ハリウッド映画の功罪 北大路隆志
第7章 映画2―初期映画の可能性と魅力 北大路隆志
第8章 映画3―「夢の工場」の発展と盛衰 北大路隆志
第9章 映画4―ヨーロッパ映画の多様性と革新性 北大路隆志
第10章 映画5―アジアのなかの日本映画 北大路隆志
第11章 映画6―新しい映像の世紀に向けて 北大路隆志
第12章 サブカルチャー1―敗戦後のアイデンティティの復興 福嶋亮大
第13章 サブカルチャー2―消費社会と虚構の時代 福嶋亮大
第14章 サブカルチャー3―グローバル化する中国と新しい地理感覚 福嶋亮大
第15章 “21世紀”に向き合う芸術思想―9・11と3・11のあとで 森山直人

第1章 現代の音楽1―電子音響・ノイズ 小沼純一

音楽については全部で5章で、時系列順ではなくテーマ別に構成されている
ロシアのテルミン(1919)、フランスのオンド・マルトノ(1928)など電子楽器の誕生
1940~50年代、フランスのミュージック・コンクレートとドイツの電子音楽というスタジオで作られる音楽の誕生
ミュージック・コンクレートって名前は知ってたけど、どんなのかよく分かってなくて、まあ今も本の説明読んだだけで音源聞いてないから分かったとは言えないけど、分かりやすかった
というのは、前者は現実にある音を、後者は電子音を素材にしている、また前者がレコード、後者がテープを媒体にしていたという違いがある。けれどっも、この違いは次第に曖昧になって、今ではどっちも広い意味で電子音楽だよ、と。
シンセサイザーについての項目では、冨田勲繋がりで初音ミクにもちょっと言及が
ノイズの話として、未来派ルッソロが作ったイントンルモーリというノイズ発生装置。これ、ググったら再現したものの動画出てきたけど、手動なんだなー

第2章 現代の音楽2―リズム、ビート 小沼純一

これまでヨーロッパの芸術音楽においてそこまで重要でなかったリズム
しかし、非ヨーロッパ圏(あるいは非芸術音楽?)では、様々なリズムがあり、それがヨーロッパの芸術音楽にも影響を与えるようになる
春の祭典』や『カルミナ・ブラーナ
それから、ポピュラー音楽の方で、タンゴやジャズ
あと、マイクの発明によって、声が大きくなくても歌手として成立するようになった、と(フランク・シナトラボサノヴァ

第3章 現代の音楽3―混血性 小沼純一

この章は「アフリカン・アメリカンの音楽」「ブラジルの音楽」「『ラプソディー・イン・ブルー』」「アコーディオン」「『ノヴェンバー・ステップス』」について書かれている

第4章 現代の音楽4―環境 小沼純一

バッハと同時代のドイツの作曲家テレマンには「食卓の音楽」という曲集があって、いわゆるBGMの起源
サティ
BGM会社大手のMUZAK社→生産効率を高めたりなど管理ツールとしての音楽という意味合いもあり、これにブライアン・イーノが反発し「アンビエント」を提唱・制作
あと、ケージの『4分33秒』、シェーファーが提唱した「サウンドスケープ


エピソード
サティはダダ風の芝居を書いたり、無声映画に出演していたりしたらしい
ケージは、キノコ好きで菌類研究者でもあったらしい

第5章 現代の音楽5―方法論・進歩主義? 小沼純一

シェーンベルクの十二音技法→弟子のヴェーヴェルンによるトータル・セリエリズム→さらにその延長に位置する戦後前衛の三羽がらすブーレーズシュトックハウゼン、ノーノ
セリエリズムに対して、音を全体の響きから捉える方向性→クセナキスなど
ミニマル・ミュージック(ヤング、ライリー、ライヒ、グラス)


ジャズやロックでも方法論の複雑化はある
ジャンルというのはそういうものだけど、しかし歴史というのは単線的なものじゃない。本当に進歩しているのか? あるいは、進歩はいいものなのか?
という問いかけで終わっている
というか、音楽についての5章はテーマ別だったこともあって、大体全部問いかけで終わっていて、教科書って感じがする
音楽はやっぱり、音源聞くのも込みじゃないとなかなか分からん。まあ、ググれば聞けたりするのでいいのだが、やはり授業とセットとして書かれているのかなあという気はした。

第6章 映画1―古典的ハリウッド映画の功罪 北大路隆志

古典的ハリウッド映画によって形成された「映画の文法」について
文法というのはもちろん比喩だが、ショットという基本単位を編集によって連続したものにして物語を伝える方法
編集していないかのように編集することが重要で、編集というのは人為的なプロセスなのだけど、それを感じさせないことで物語に集中させるためのもの
1930年代に体系化されるが、60年代~70年代には、映画の文法は隠蔽されたイデオロギーなのだという形で批判されるようになる、と

  • クロースアップ

リュミエールやメリエス作品、あるいは西欧芸術の伝統においても全身を映すのが基本で、クロースアップは当初、衝撃的
例えばドライヤー『裁かるるジャンヌ
クロースアップの発見は映画の独自性を解明する鍵、と述べている


グリフィスによる映画文法の確立

ハリウッド映画の文法を拒絶するような作品として『市民ケーン
(1)パン・フォーカス
普通ならカット割りするようなシーンで、パン・フォーカスを使ったロングショットを使う。
窓の外で遊んでいる少年、その少年についての後見人契約を交わす両親を同時に画面に捉えることで、両者の対比や力関係を収める演出
(2)切り返しショット
会話を切り返しショットで撮るのは映画の文法のお約束だが、それを逆手にとる
夫婦の仲が次第に離れていく過程を、切り返しショットで描くことで、この手法の不自然さをあぶりだす

第7章 映画2―初期映画の可能性と魅力 北大路隆志

19世紀末における「動く映像」への関心の高まりを、リアリズムへの志向の高まりと関連していたのではないかと指摘

近付いてくる列車に本当に近付いてくると感じて当時の観客が驚いたという例の話、これはまあいわば「伝説」であって信憑性は怪しいが、現代と当時とで視聴環境が異なっていたことを示すエピソードだ、と。また、近年では、当時の観客は、遊園地のアトラクションのようにこの映像を体験していたのではないか、と指摘する研究もあるという
リュミエール社は世界各地に撮影技師を送っている→撮る/撮られるの関係と植民地主義帝国主義の問題

エジソン社で制作された作品の多くがスタジオ撮影
リュミエール作品は屋外で素人を撮影
この2つの志向は、現在まで映画史に続いている

  • フィクションとドキュメンタリー

リュミエール作品はドキュメンタリーの起源、メリエス作品はSF映画・劇映画の起源、と一般的には見なされるが、ゴダールは『中国女』で、リュミエールが描く世界は後期印象派プルースト作品の世界のようなのでフィクション、メリエスは、未来のニュースなのでドキュメンタリーという
映画におけるフィクションとドキュメンタリーの曖昧さ

  • 初期映画は未熟なのか

初期映画は、まだ映画の文法が確立されていない頃を指すが、それは未熟であることを意味するのか
別の常識のもとで作られていたのではないか


ちょっと面白い(?)謎の誤植があって、註1が第8章の註1と全く同じ内容

第8章 映画3―「夢の工場」の発展と盛衰 北大路隆志

エジソン社をはじめとする東海岸の「特許」による独占から西海岸へと逃げてきた新興勢力によって作られたのがハリウッド
1930年代のプロダクションコード(ヘイズコード)とスタジオシステムの確立
戦後、テレビへの対抗や、1960年代からのさまざまな社会運動やカウンターカルチャーの勃興→プロダクションコードの廃止とニューシネマの台頭
コッポラやスピルバーグなどのニュー・ハリウッド

第9章 映画4―ヨーロッパ映画の多様性と革新性 北大路隆志

ドイツ表現主義
ソヴィエト・モンタージュ
30年代フランス映画で(スタジオ撮影と外国人監督によって)作られたパリのイメージ
ネオレアリズモ


ハリウッドにおいて監督はあくまでもスタッフの一人、そもそも映画制作は共同作業
しかし、ヌーヴェルヴァーグの監督ともなる映画批評家たちは、「作家主義」をとり、映画監督を作家として評価するようになった

第10章 映画5―アジアのなかの日本映画 北大路隆志

1897年 リュミエール社から派遣された撮影技師が神戸着


1912年に日活設立、1920年に松竹が映画産業へ
「活動写真」から「キネマ」へと呼び方が変わるが、これは歌舞伎の延長からの脱却としての「純映画劇運動」がある
歌舞伎の影響で女優はおらず(男性による女形だった)、また活動弁士が活躍していたが、「映画の文法」を使った純映画劇を作るという運動が起きる
関東大震災で、撮影所が京都へ。時代劇は京都、現代劇は東京という分業体制が確立
1920年代「時代劇」という呼び方が一般化(歌舞伎の旧派からの改革)
当時流行の講談本や小説から題材をとったヒーローの登場、そして、モンタージュや移動撮影などを駆使した「立ち回り」
30年代、時代劇は「傾向映画」つまり左寄りと見なされていたとかいうのちょっと面白い


1936年、松竹の撮影所が大船へ移転
当時の所長である城戸は、小津安二郎らの若手を起用、モダニズムと日本の情緒をもった「大船調」という松竹スタイルを確立
戦後、売り上げが落ちる中、城戸は再び若手を登用、そこで登場したのが大島渚ら松竹ヌーヴェル・ヴァーグ。彼らはその後松竹を去るが、松竹に残ったのが山田洋次


1950年代、黒澤明溝口健二といった日本映画の監督が国際的に高い評価を得るようになる
しかし、これはこの時期、日本映画のクオリティが高くなったわけではなく、戦後、ヴェネツィア、カンヌ、ベルリンの三大国際映画祭が始まり、ヨーロッパにおいて世界各地の映画が発掘されるようになったから


アジア映画について
香港映画のカンフーアクション、インド映画のダンスなど、身体性が普遍的な魅力に
また、台湾、中国、韓国などもそれぞれ国際的な注目を浴びるようになった、と

第11章 映画6―新しい映像の世紀に向けて 北大路隆志

映画について最後の章は、ドキュメンタリー映画について


初期映画はもともと記録映像だったけれど、次第に劇映画が主流になっていき、劇映画の前の添え物としてのニュース映画だけになっていく
1922年 フラハティ『極北のナヌーク』が予想外のヒット
(同作はイヌイットの生活に密着した作品だが、この時から既に「演出」はあって、当時はもう行われていなかったセイウチ狩りを演じてみせたりとか。あと面白いのは、イグルーの中に照明が入れないので、半分に割ったイグルーで生活を演じてみせたとか)
その後、同じくフラハティによる『モアナ』について、グリアソンが「ドキュメンタリー」という言葉を用いて評し
そのグリアソンが、1928年から40年にかけてイギリスにおいてドキュメンタリー運動を行い、これが一般的なドキュメンタリー観を規定
すなわち、社会改良に向けた啓蒙活動としてのドキュメンタリー、ヴォイス・オーバーによるメッセージの観客への語りかけ、モンタージュを用いた再構成など
そして、1930年代には、元女優のリーフェンシュタールによる『意志の勝利』『民族の祭典』『美の祭典』が制作される


日本では、関東大震災の様子を日本全国に伝える「出来事映画」が活躍
また、戦時中はニュース映画の全盛期となる


戦後、グリアソンのドキュメンタリー運動から逸脱する方向性が生じてくる
1つは、ヴォイス・オーバーを使わず、現地でとれた音を使う「ダイレクト・シネマ」の潮流
もう一つは、パブリックであることや客観性を装わず、プライベートな問題や作家個人の主観性を打ち出す方向性


映画史は、なんとなく知ってる程度で、日本映画史やドキュメンタリー映画史になると全く知らないといってもいいくらいだったので、普通に勉強になった
全く知らないとはいったが、名前とかはポツポツ知ってるわけで、それが改めて、「あ、ここに位置するのね」みたいに分かったのでよかった。

第12章 サブカルチャー1―敗戦後のアイデンティティの復興 福嶋亮大

12・13章は主に日本の漫画・アニメの話


手塚治虫
彼が生まれ育った宝塚は、小林の阪急・宝塚グループによって開発された郊外文化だが、小林はイギリスのハワードによる田園都市構想に影響を受けている。小林・ハワードにの理念はユートピア幻想があった。手塚は戦後民主主義ヒューマニズムの擁護者とされるけど、戦後日本を超えたユートピア的な「歴史」を創造していたのでは、と
水木しげる
梶原一騎の少年漫画
二十四年組の少女漫画

第13章 サブカルチャー2―消費社会と虚構の時代 福嶋亮大

13章で取り上げられている項目は大体下記のとおり
ディズニーランド
宮崎駿
大友・押井
「おたく」
ゲームとインターネット
プロシューマー

第14章 サブカルチャー3―グローバル化する中国と新しい地理感覚 福嶋亮大

中国のサブカルチャーについて
陳凱歌(チェン・カイコー)や張藝謀(チャン・イーモウ)ら第五世代の中国映画
侯孝賢ホウ・シャオシェン)や楊徳昌エドワード・ヤン)といった台湾ニューウェーブ
「八〇後世代」の作家たち
それから、日本からの影響として、岩井俊二村上春樹
あと、秋葉原の話

第15章 “21世紀”に向き合う芸術思想―9・11と3・11のあとで 森山直人

内容省略、以下項目のみあげる


グローバリゼーションのなかの「芸術」
「メディア革命」と監視社会
権力と身体
〈差異〉の思想
〈三・一一〉以後の芸術とは?