呉明益『眠りの航路』(倉本知明・訳)

睡眠障害に悩まされる「ぼく」の物語と、大戦末期に日本へ渡り神奈川で戦闘機製造の少年工となった父・三郎の物語とが交互に進んでいく
白水社エクス・リブリス
ざっくりいって、戦争と記憶をテーマにした作品だといえる。
三郎パートの多くが日本を舞台としており、「ぼく」の方も後半では日本旅行をするため、日本について書かれている部分が非常に多い。
上述の通り大きくは「ぼく」パートと「三郎」パートの2つがおおよそ交互に進んでいく形式をとっているが、まれに、観世音菩薩視点のパート、カメ視点のパートが入ることがある。それだけでなく、「ぼく」パートの中に完全に夢の世界の中だけで構成されている節があったり、「三郎」パートで三郎を「あなた」という二人称で記述する節があったりと、色々な語りが入り混ざる複雑さをもつ。
また、「ぼく」パートは基本的に現代、「三郎」パートは基本的に戦中が舞台となるが、それ以外に、10数年前程度の近過去も舞台となっている。「ぼく」の回想であったり「三郎」の現代時制だったりで語られている。
「ぼく」については、睡眠障害が始まり回復するまで
「三郎」については、日本にやってきて台湾に帰るまで
これに加えて、近過去というのは、戦後、三郎が自分の店を構え家族を育てた商場が、老朽化し次第に廃れていく頃の話の3つの時間軸が並行して進むことになる。



半年ほど前に呉明益『自転車泥棒』(天野健太郎訳) - logical cypher scape2を読んだが、これがとても面白かったことと、『自転車泥棒』では父が戦中に日本で戦闘機を作っていたことは少し言及はされるがほとんど描かれず、むしろそのエピソードはこちらの方で書かれているということから、本作を読むことにした。
エクス・リブリスは、台湾文学だと、甘耀明作品が3作入っていて、そのうち1作は読んで*1、他のも気になっているんだけど、上述の理由で、今回は呉明益を読むことにした。
本作『眠りの航路』は、原著は2007年に刊行された、作者の長編デビュー作となる(小説家デビューは97年頃のようで、長編を出すまで結構間が空いていたようだ)。
対して、『自転車泥棒』は2015年の長編3作目となる。
結論からいうと『自転車泥棒』の方が、圧倒的に面白かった。
自転車泥棒』も、結構、構成要素が多く、複雑なところがある作品だったが、プロットがよくて、それらの要素がうまくまとめられていた(いくつか、放置されているように見える要素もあるが)。
本作についていうと、構成要素が多く、上のほうで述べたように語りに複雑さがある作品なのだが、わりとそれらが無駄に多いというか、何となくバラバラのまま、という印象が残った。
また、『自転車泥棒』は、「父の失踪とともになくなった自転車を探す」という物語を展開させていく上での動機があって、それが物語を推し進めていく。
『眠りの航路』も、「主人公が陥った謎の睡眠障害をどうにかしようとする」という動機があるものの、これによる物語の推進力みたいなのが弱いのである。『自転車泥棒』と同じく、父の失踪という出来事も起きるのだが、これは終盤になってようやく起きる。


ちなみに、呉明益の長編作品は以下の通り
『眠りの航路』(2007、邦訳2021)
『複眼人』(2011、邦訳2021)
自転車泥棒』(2015、邦訳2018)
『海風クラブ』(2023、邦訳2025)
短編集に『歩道橋の魔術師』(2011、邦訳2015)、『雨の島』(2019、邦訳2021)がある。初期の短編集は未邦訳っぽい。



「ぼく」の睡眠障害は、強制的に7時間眠るというもの。眠りに落ちる時間が、少しずつずれていく。今日は9時に眠くなり、次の日は6時に眠くなり、という感じ。眠りがくると全く逆らえない。元々、新聞社で社会部の記者をやっていたあと、フリーのゴシップ記者となっていて、多少仕事はできるが、これまでの普通の生活が送れなくなる。
また、夢も見なくなる。
のち、医者の話で、夢と記憶のつながりが示唆される。
記憶を担うものとしては、他に歯もあって、歯が抜けると特定の記憶を失ってしまう云々というエピソードがあって、主人公も三郎もどっかの歯が抜けていて、ない。
夢を見ない、歯が抜けていることから、記憶が欠落しているというようなことが示唆されている、のかな。


睡眠障害になったきっかけとして、大学の同級生である「砂つぶ」に連れられて、竹の開花を見に行ったというエピソードがある。
「砂つぶ」というのはどうも人名なのだが、どうしてこういう名前なのかがよく分からない。
また、三郎が子ども時代に飼っていた亀の名前が「石ころ」である。
こういう変な名前は、砂つぶと石ころだけなのだが、彼らに何か対応関係があるのかもよく分からない。
砂つぶは、山ごもりするようになった「ぼく」に水草の飼育をすすめる。
竹のエピソードは、一番最後にまた出てくる。開花を一緒に見た時、竹は死ぬって言ったけど、あれは竹の夢・睡眠で、そこから強いのが生き残るんだ、みたいなことを砂つぶが言って、この物語全体とつなげようとしているけど……。


「ぼく」にはアリスという恋人がいて、彼女はテレビ局で仕事をしている。「ぼく」は、記者の仕事に対してもう何の理想も抱かなくなっているが、アリスはそうでもない。
アリスは当初、「ぼく」に対して睡眠専門の医者宋先生を紹介してくれたりするが、「ぼく」が日本へ行くあたりで返信しなくなり、関係がフェードアウトしていく。


宋先生は、診察室にホドラーの絵をかざっている。
「ぼく」も学生時代にホドラーが好きだった。また、本作の第2章の章タイトルは、ホドラーのこの絵の額に書かれている文章からとられている。
宋先生は、いろいろ睡眠研究について教えてくれるし、「ぼく」の状態についても考えてくれるが、睡眠中の脳波も測定しましょうといってきて、それが「ぼく」はあんまり気に入らなくて、心を開ききらない。
その宋先生の紹介で、日本にいる白鳥先生を受診するため、「ぼく」は日本の神奈川県大和市(厚木飛行場がある)へと行く。
白鳥先生は、宋先生の先生で、診察室の雰囲気が違ったり(絵なんて飾ってない)、宋先生のような神経主義者じゃなかったりして、「ぼく」は白鳥先生には気を許し、自分が夢を再び見始めていることを明かす。
白鳥先生も、自分の家族と多摩動物公園へ行くのに「ぼく」を同行させて、戦時中の夢の症例の話などを色々してくれる。
この日本旅行中のパートでは、堀越二郎の話だったり、三島由紀夫の話だったりとかも結構出てくる。これは、並行して進んでいる三郎のパートで、戦闘機作ってたり、三島由紀夫が出てきたりしているので、それと補完しあっている。
自分は『風立ちぬ』見ていなくて、堀越二郎は名前しか知らない状態で、台湾文学読んで堀越二郎の略歴を知ることになるとは、って感じで読んでた。
こういう感じで、結構日本の歴史について書かれている部分も多くて、台湾ではどのように読まれていたのだろうか、と気になったりもしたが、しかし、別に日本でも日本人作家が日本以外の国を舞台にその国の歴史に触れながら書かれた小説なんていくらでもあるので、別にそんなに気にはならないか。
日本人でも詳しくないとあんまり知らないところに触れられたりするなーと思う一方で、寺の由来に触れるところで「ぼくはこの弘法大師という人が何した人なのか知らないけれど」みたいな文が出てきたりして、ちょっと面白かった。
神奈川ではちょっと高めの民宿に泊まっていたのだけど、その後、名古屋にも行ってて、そこではカプセルホテルに泊まったりしている。
日本旅行中に中国人と出会ってしばし一緒に行動するところがあるのだけど、そこでその中国人の彼と、台湾人の「ぼく」とで戦争観が違うことが出てきたりする。戦争が起きたら戦う彼に対して、戦争には絶対に参加したくないと考える「ぼく」
「ぼく」は白鳥先生との会話の中で、戦中派世代が、「ぼく」ら戦後生まれに対して苦労を知らないと言ったりするけど、
戦争を経験してほしいということなのか、と疑問を呈するシーンもあったりする。白鳥先生は、それぞれの世代にそれぞれの戦争があるんじゃないかみたいなことをいう。ここで、そこで生き残ることで強くなっていくんだみたいな、通俗ダーウィニズムみたいなことまで言っているのが、ちょっと謎だった(そしてその謎通俗ダーウィニズムみたいな話が、上述したように、最後に出てくる竹のエピソードでもう一回出てくる)。
戦争を直接経験していない「ぼく」は、どうやって戦争を記憶していけばいいのか、みたいな問題意識がおそらくあるのだろうな、とは思うのだけども。
日本から帰ってくるときにアリスに宛てた手紙で、睡眠障害が治って見た夢として、カンガルーが次々首を刎ねられる夢の話をしているんだけど、これは全然意味が分からなかった……。


時々、完全に「ぼく」が見ている夢と思われるパートがある。
睡眠障害中「ぼく」は夢を見ていないのだけど、ただ、それは単に夢を思い出せていない可能性があることは示唆されている。
そのパートでは、Zという謎の人物に色々連れて行かれている。


三郎は、少年工として戦争末期に台湾から日本へとやってくる。
名目としては、学校の卒業資格が得られるというのをウリにしている。で、三郎は、日本に行ったらちゃんと飯が食べられるだろう、と期待して、トーサンの印鑑を無断拝借してまで日本行きを志願する。
日本行きの船で、海が荒れて散々な目に遭ってすぐに後悔しているし、実際、この時期に日本に行ったところで、十分に食べられるわけではなかったことにもすぐ気付く。
あと、日本に行くにあたり、少年たちはみんな日本語の名前を名乗ることになる。
お互い、日本人名で呼び合っているので、本名よりも日本人名よりも馴染みがある。
「国語(日本語)」の成績の話とか
一緒に日本に渡ってきた少年たちは、日本に着くとそれぞれ別の場所に分かれる。三郎は神奈川の大和だけど、仲良くなった友人は名古屋へ。
空襲もどんどん起きるようになる。名古屋へ行った友人は空襲で亡くなる。
大和で、三郎をはじめとする台湾人少年工たちは、平岡くんと親しくなる。平岡くんは兵役に不合格になったので、彼らと同じところにいて、平岡くんは不思議な魅力があって、色々と自分で作った話を聞かせてくれたりしている。
終戦後、三郎たちは「戦勝国」の国民となる。台湾に帰還するまでの間、日本中を旅行してみてまわったりしている。名古屋で見かけた美しい少女とか
再び船で台湾へ戻り、中華民国の軍人に引き渡される少年工ら。


三郎は戦後、少年工として身につけた技術で、商場で電器屋開いて、ラジオの修理とかやるようになる。
若い頃から耳鳴りしていたのだけど、年をとるにつれて非道くなっていて聾に近くなる。もともとあんまり話さないタイプだったけど、どんどん喋らなくなる。
商場は次第に活気を失っていて、当初は立ち退きしないつもりだった人たちも、最終的にはみんな立ち退きに同意していく。
三郎は、取り壊しの日に失踪してしまう。


台湾にはタンキーという巫覡みたいなのがいて、「ぼく」の母は昔からことあるごとにタンキーに相談していて、ある意味では家族のように色々知っている間柄でもある
ただ「ぼく」は、タンキーへの信仰はなくて、その占い自体は全く信じていない
しかし、父の失踪後、タンキーがいてよかったと思うようになって、それは母の精神を支えたのがタンキーの、父は死んではいない、という言葉だったから
タンキーそのものを胡散臭く思うこと自体は変わっていないんだけど、その必要性みたいなのを理解する、というか
ちょっと面白かったのは、タンキーは神の言葉として、台湾語を詩のようにして発するらしいんだけど、そういうのができるのはもう高齢の限られた人だけになっているっぽくて、テレビに出てくるようなタンキーは全然なってないって「ぼく」が評価してるところ。
神の言葉としては信じてないけど、そのための技術に対しての信用や評価はあるんだな、と。まあ、人間そういうものだとは思うけど


商場立ち退きの際、最後にみんな叩き売りなりなんなりしてたんだけど、父が古本屋に自分のものを売り払っていて、それをその古本屋はとっておいていて、ある時、「ぼく」はそれらを手にする
ノートとか写真とかテープとかがあり、そのテープを何とかして聞いてみると、日本語の歌で、日本通の友人に聞いて、りんごの唄だと分かる
ただ「ぼく」にはなんでそんなテープ残していたのかさっぱりわからない
三郎パートの方で、終戦後に日本で三郎はこの歌を聞いていて、台湾でこれを思い出したりしている


三郎が子どもの頃に、石ころという名前の亀を飼っていて、三郎が台湾に渡ったあと、何故かカーサンによって、ベッドの足にされてしまう。身動きがとれなくなるも、それでも床に貯まった水とか飲んで生きて、そしてベッドの上に寝るトーサンとカーサンの夢の中に入り込めるようになる。
三郎が台湾に戻ってきた後、解放されるんだけど


観世音菩薩の話も最初の方と、最後の方に出てくる。
世の中にはあらゆる人たちのあらゆる願いがあって、菩薩はその願いを全部聞いてファイルに綴じて保存しているんだけど、全ての人の願いを集めるとそれぞれ矛盾しあっているから、叶えることはできない、みたいな話だった気がする。
これは、神や仏がいるなら、なんで戦争を止めてくれないんだ、的な疑問に対するアンサー的なエピソードだとは思うのだけど。


訳者のあとがきでは、三郎と平岡くん(三島由紀夫)について解説されている。
呉明益の父は、実際に大和の海軍工廠で働いていたことがあり、そしてやはり同時期に、三島もそこにいたらしい。
三郎も平岡くんも、天皇の子になることで報われることを期待していたが、その期待が叶わなかったという点で共通している。
ただし、これは同床異夢で、三郎は腹一杯食べれることという即物的なものだったのに対して、平岡くんは、ある種の死のロマンを期待していた、という違いがある。

玉音放送後に、お互い共通していたことと違っていたことを何となく示唆するような会話があったりする。
また、三郎は平岡くんに魅了されていたのに対して、「ぼく」の三島由紀夫の自決に対する解釈などはわりと冷淡で、三郎と「ぼく」とで平岡くん(三島)への評価が反対であることも指摘されている。
三郎は、日本語に思い入れがあって、戦後の台湾社会になじめていない、ということが論じられている。
台湾文学において、台湾人アイデンティティの形成みたいなテーマは人気があるらしいのだけど、本作はそこに回収されないように作られている、と。
三郎は戦中は日本人だし、戦後は中華民国人になるけれど、戦後、いきなり「戦勝国」の国民になるけれどそれになんか違和感を覚えていたり、帰国後の引き渡しのシーンに象徴されるように、それは他から与えられるアイデンティティ=仮面にすぎない。では、その仮面を外したときに何があるかというと、空虚だったんじゃないか、と。
これは少年時代に日本語教育をうけて日本語に思い入れがあって、戦後の中国語環境の中で、自分について話す言葉をなくしていってしまった話なのでは、と。
台湾文学というと多言語というのがキーワードだけど、本作でも、「ぼく」の母は、台湾語と中国語の混じった言葉を使ってて、日本語訳においては方言とルビとで表現したとのこと。
三郎の書いたメモみたいなのが失踪後に見つかるのだけど、それも日本語と中国語と台湾語が混じったちゃんぽん状態で書かれている。
この三郎のアイデンティティ=仮面の話は、訳者あとがき読んで、「なるほどーそうだったのかー」という感じだった。